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ヨハネ20章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ20章残りを読みます。

もう花粉症がひどくて寝ているときも起きているときもティッシュで鼻をしゅんでばかり、タオルで涙を拭いてばかりいます。耐えがたいです。でもイエス様きっと癒してくださいます。

23節に
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。
とあるが、人の罪を赦したら、自分の罪が赦されるという風に理解していたんだけれど、違っていたのかな?

31節の
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなた方が信じて、イエスの御名によっていのりを得るためである。
が印象に残りました。

No.1885 2007/03/06(Tue) 10:27:16

Re: ヨハネ20章残り / 昌夫 引用

23節ですが、僕は、信仰者が、信仰を持っていない人の罪が神に赦されるように祈りつづけると、神がその人に信仰を与えて罪を赦してくださる、という意味だと僕は解釈しています。

「人の罪を赦したら、自分の罪が赦される」ということは、23節には書いていないと思います。

僕は、16節で、イエスさまが「マリヤ」と名を呼ばれるところがとても好きです。神さまに自分の名を呼んでもらえるというのは、素晴らしい祝福です。僕もいつかイエスさまに名前を呼んでいただきたいと願います。

どうか、沙耶香さんの花粉症が癒されますように。

No.1888 2007/03/06(Tue) 12:51:02

再ヨハネ20章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ20章残りを読みます。

ふーん・・・解釈が難しいですね・・・

うん、そうですね・・・イエス様に名前を呼んで貰えるなんてこの上ない幸せですよね。うん、私もいつかイエス様に名前を呼んで頂きたいけれど・・・
でもイエス様は私なんかの手の届かない存在。

13節の
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取っていきました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
が印象に残りました。
特にだれかが私の主を取っていきました。が印象に残りました。

25節の
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
が印象に残りました。なんか怖くて・・・その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ・・・っていうところがすごい怖い・・・

No.1889 2007/03/06(Tue) 19:44:24

Re: ヨハネ20章残り / 昌夫 引用

>でもイエス様は私なんかの手の届かない存在。

イエスさまに親しく名前を呼んでいただいたマグダラのマリヤとはどのような女性だったのか、それほど多くのことは聖書に書いてありません。ルカ8章2節に、7つの悪霊を追い出していただいた、と書いてあるので、おそらく悪霊につかれて、たくさんの罪を犯した女の人だろうと思われます。ヨハネ4章1−29節でイエスさまが話されたサマリアの女は、姦淫の罪を重ねて、ほとんど誰にも相手にされていなかったような社会的な弱者だったようです。この世的に偉い人たちは、弱者の罪人と親しくなったりしませんが、イエスさまは、このように自分の罪を認めている弱者に近づいてきてくださいます。イエスさまは、この世の誰よりも偉いけれど、この世の誰よりも、社会的弱者を愛して親しくしてくださいます。不思議で素晴らしい方ですね。

No.1890 2007/03/06(Tue) 23:59:16

Re: ヨハネ20章残り / 沙耶香 引用

本当にそうですね・・・
手の届かない存在と言っても、この世的に偉い人たちとは大違いですね・・・この世的に偉い人は私のような弱者なんて相手にしてくれません。
私のような弱者でも相手にしてくれる素晴らしいイエス様と知り合えて私は相当幸せです。
だって本当に私にはイエス様しかいないんですもんね。
家族からも世間からも見放されて一人ぼっちだったのです。それをイエス様が救い出してくださいました。

No.1891 2007/03/07(Wed) 10:16:59
ヨハネ19章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ19章残りを読みます。

24節の
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
はどういう意味だろうか?どこかの聖句に彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。というところがあるんだろうか?

28節の
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
はどういう意味だろうか?
またどこかの聖句に「わたしは渇く。」と書いてあるのだろうか?

31節の
その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取り除ける処置をピラトに願った。
はどういう意味だろうか?
備え日って何?

32節に
それで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
とあるが、すねを折るって骨折させたのだろうか?

37節の
また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
はどういう意味だろうか?自分たちが突き刺した方を見る??分からない・・・

39節に
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ30キログラムばかり持って、やってきた。
とあるが、この没薬とアロエを混ぜ合わせたものというのは何か意味があるんだろうか?没薬ってなんだろうか?

No.1848 2007/02/27(Tue) 22:07:28

再ヨハネ19章残り / 沙耶香 引用

22節の
ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
はどういう意味だろうか?
前節21節の
「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と関連があると思うのだが、わざわざ22節で何で私の書いたことは私が書いたことですと言わないといけないのか?よく分からない。

34節に
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹をやりで突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた。
とありますが、イエス様はやはり普通の人間じゃなくて神様なのですね・・・普通の人間は、血だけしか出てこないけれど、水が出てくるところが素晴らしいですね・・・・

41節に
イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。とあるが、この新しい墓は誰が作られたのだろうか?誰が用意したのだろうか?

No.1849 2007/02/28(Wed) 12:12:07

Re: ヨハネ19章残り / 昌夫 引用

21節で、ユダヤ人の祭司長たちは、罪状書きを変えてほしいとピラトに頼んでいます。22節でピラトはその頼みを断っています。ピラトは12節でユダヤ人に脅されたことに恨みを持っていて、14−15節でイエスをユダヤ人の王ということによって、ユダヤ人に復讐しているようです。罪状書きを変えなかったのも、ユダヤ人への恨みに対する復讐のためだと思います。神さまの目から見ると、イエスがユダヤ人の王であるということは、真実です。それで、父なる神さまが、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という真理が十字架の上に掲げられるようにされた、ということだと思います。

24節で聖書が成就するとあるのは、詩篇22:18のことをさしています。詩篇22を読んでみてください。マタイ27章46節にあるように、イエスは、十字架にかかられたとき、詩篇22:1の最初の部分も言われました。詩篇22はダビデの詩篇なので、この場合の成就も、神さまがダビデに起こるようにされたことを、ダビデの子孫であるイエスにも起こるようにされた、ということです(タイポロジーと言います)。

28節は、詩篇69:21の「私が渇いたときには酢を飲ませました。」とあることがタイポロジーとして成就するように、イエスは「私は渇く。」と言われたということだと思います。イエスは喉が渇いておられ、父なる神が、タイポロジーを使われることを知って、父なる神の意思に従って、こう言われたと思います。これを聞いて、ローマ兵たちが、29節のように酸いぶどう酒をイエスに飲ませようとして、ダビデに起こったことを書いてある詩篇である69篇の21節がイエスにも成就しました。

31節の「備え日」は、いろいろな考え方がるのですが、僕は過ぎ越しの祭りの第1日の安息日(金曜の日没から土曜の日没まで)の前の金曜日の日没までのことだと思います。ローマでは、十字架にかけられて死んだ人を、そのままにしておいて、腐った死体をハゲタカに食べさせる習慣だったそうです。ところが、ユダヤ人の律法では、申命記21:22−23にあるように、死体を次の日まで木に残しておいてはならないことになっていました。おそらく、金曜日の日没から過ぎ越しの祭りの安息日が始まるので、そのときに死体を残しておかないことが特に重要だったので、ユダヤ人のリーダーたちは、十字架にかかっている3人の死期を早めるようにピラトに願いました。ローマでは、十字架にかけられた人が、早く死ぬようにするためには、すねを鉄の棒でたたいて、骨を折りました。どうして、こうすると、早く死ぬかというと、十字架にかかっている人は足で体を押し上げないと呼吸ができないのです。それで、足のすねを折ると、すぐに呼吸ができなくなって死ぬそうです。

33節で、イエスはもう死んでおられたので、ローマ兵はすねの骨を折りませんでした。

34節は、十字架にかかって死んだ人のわき腹を槍で突き刺すと、医学的にまず水のようなものが出てきて、それから血が出てくるそうです。それで、死んだことを完全に確かめるために、このように槍で突き刺したそうです。水が出たので、イエスが死なれていたことがローマ兵によって確認されました。

36節はイエスの骨が折られなかったのは、詩篇34:20のタイポロジーの成就であるということだと思います。

37節は、人々が槍に刺されたイエスを見ることが、ゼカリヤ12:10の預言の(タイポロジーでなく、普通の意味での)成就であるということだと思います。

39節の没薬とは香りの良い樹脂だそうです。当時、没薬が混ぜ合わせたものが、埋葬に使われる習慣だったそうです。目的は死体が腐ったときの匂いを消すことだったようです。

41節の園と墓が誰のものであったか、聖書には書いてありません。たぶん、アリマタヤのヨセフの所有した園と墓だったと思います。イエスが死ぬことを彼が知っていたわけではないので、彼が墓を、イエスのために用意していた、というわけではありません。

No.1876 2007/03/05(Mon) 11:38:49

Re: ヨハネ19章残り / BISKO 引用

こんにちは。

管理人さん、お忙しい中、解説お疲れ様です。

読んでいて、一点、気なることがありましたので、書き込ませていただきます。

>ピラトは12節でユダヤ人に脅されたことに恨みを持
>っていて、14−15節でイエスをユダヤ人の王とい
>うことによって、ユダヤ人に復讐しているようです。
>罪状書きを変えなかったのも、ユダヤ人への恨みに
>対する復讐のためだと思います。

「復讐」と言う表現は、穏かではありませんね・・・。

私としては以下のように思っています。

イエスが十字架へと追い込まれる中で、ユダヤ人は、
(1)ピラトにイエスの処刑を「要求」し、
(2)ローマの法律に即してイエスには死刑に当たる罪状が無い、というピラトの(法的には正しい)判断を「脅し」によって捻じ曲げ、
(3)ピラトにイエスの処刑を「強要」します。

私としては、ピラトが罪状書きを変更しなかった裏には、彼の「うんざり感」を感じ取ります。

「どこまで自分の思い通りにせねば気がすまない輩なのか、このユダヤ人たちは。私に死刑を強要した挙句、私が書いた罪状書きの内容まで変更せよと言う。いい加減にせよ。」・・・という。

しかし、この聖書の箇所を読んでいて思うのは、「自分自身の神の前にあっての罪」についてです・・・。 自分の欲求を満足させるために、神だけでなく、人の定めた「法」さえ捻じ曲げて自分の主張を押し通そうとするその心。それが「罪」なんだな、と。

聖書通読、がんばってください。

学び続けてゆく中で、きっと何か、語りかけがあることでしょう。

神様からの平安と、励ましとが、それぞれの方々にありますように。

No.1878 2007/03/05(Mon) 14:49:55

Re: ヨハネ19章残り / 沙耶香 引用

詩篇22章・・・
読みました。
マタイ27章46節・・・三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

詩篇22章1節・・・
わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

詩篇69章21節・・・
彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。

申命記21章22節―23節・・・
もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで、木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

へーー没薬って香りのよい樹脂なんだ。何の薬かと思っていたら・・・

何だかいろいろと難しいですよね・・・本当に・・・日常会話でも理解しがたいことが多いのに、聖書の中身なんてもう全く分からない。せっかく一生懸命解説してくださっているのに、それを読んでもすべてを納得できるというわけでもありません。何となくそのような物かな?という程度です。
何だか私ってやっぱり人よりもそういう理解力、読解力に欠けているんでしょうね・・・

No.1879 2007/03/05(Mon) 22:47:38

Re: ヨハネ19章残り / 昌夫 引用

BISKOさん、書きこみありがとうございます。

>「復讐」と言う表現は、穏かではありませんね・・・。

そうですね。僕は極端な表現を用いがちなので、注意したいと思います。BISKOさんの書かれた解釈は、僕の読み方と違うけれど、なるほど、と思いました。このように、掲示板で読み方を照らし合わせることで、沙耶香さんや僕や、ほかの全ての掲示板を読む人たちが、より深い読み方ができるようになると素晴らしいと思います。

No.1884 2007/03/06(Tue) 10:01:59
ヨハネ19章16節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ19章16節までを読みます。

2節に
また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
とあるが、冠をかぶせるとか、着物を着せるとかに意味が何かあるんだろうか?

3節に
彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王様。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。とありますが、ユダヤ人の王様、ばんざいと持ち上げておいて、何で平手打ちをするんだろうか?

12節の
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとするものはすべて、カイザルにそむくのです。」
はどういう意味だろうか?カイザルって誰だろうか?聞いたことないです。

No.1846 2007/02/26(Mon) 20:19:22

再ヨハネ19章16節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ19章16節までを読みます。

8節に
ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。
とあるが、このことばとは7節の
「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
だと思うけれど、何でこのことばを聞いてますます恐れたのだろうか?

No.1847 2007/02/27(Tue) 11:25:17

Re: ヨハネ19章16節まで / 昌夫 引用

沙耶香さん、しばらく多忙で質問に答える時間がありません。お祈りして、先を読むか、今までのところで印象に残ったところを、ゆっくり読んでは、神さまの前で静かにしてみるか、神さまに聞いてみてください。

どうか、御心なら、僕が忙しいときには、かわって、沙耶香さんの質問に答える人を神さまが沙耶香さんに与えてくださいませ。

No.1852 2007/02/28(Wed) 19:26:54

Re: ヨハネ19章16節まで / 沙耶香 引用

うん、祈ってみます。
天のお父様管理人様がお忙しいときは今までのところで印象に残ったところを、ゆっくり読んでは、神様の前で静かにしてみるのがいいのか、先を読み進めるのがいいのかどちらがいいのか、分かるように示してください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン・・・

本当、管理人様だけでなくてもいいのです。質問に答えられる人ならどなたでもいいのです。

No.1853 2007/02/28(Wed) 20:22:25

Re: ヨハネ19章16節まで / 昌夫 引用

2節でローマ兵がイエスにいばらの冠をかぶせ、紫色の着物を着せたのは、ご自分がユダヤ人の王であると言われたイエスをからかうためでした。3節で「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言ったのも、イエスをからかっています。ローマ兵たちは、イエスをからかって馬鹿にして、平手打ちしました。

8節ですが、ピラトは、それまでにも、なんとなくイエスに超自然的な力を感じて、恐れる気持ちが少しあったようです。18章38節で、ピラトがイエスに罪を認めない、と言ったのは、この恐れのためだったろうと思います。「神の子」という7節でのユダヤ人たちのことばを聞いて、この恐れる気持ちが強くなったとことだと思います。

12節のカイザルとは、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の皇帝テべりオのことです。彼は、「疑い深い暴君」と呼ばれていたそうです。皇帝テべりオは自分が任命しない「ユダヤの王」は、自分への反乱と考えたと思われます。ユダヤ人たちは、ローマの総督であるピラトがイエスを釈放すると、反乱に味方して、皇帝に逆らうことになる、という意味のことを叫んでいます。ピラトを脅して、イエスを十字架にかける決定をさせようとして叫んでいます。

No.1874 2007/03/05(Mon) 08:11:40

Re: ヨハネ19章16節まで / 沙耶香 引用

管理人さんどうしたの?文字の色が青で気分一新したの?おほほほほ・・・
イエス様もローマ兵にからかわれて蔑まれていたんだ。私もずっとみんなに蔑まれてきましたし、今も蔑まれていますので、イエス様はきっと私の気持ちが分かってくださるでしょう。

当時の上にたつ人って何だか自分勝手な人が多いですね・・・ま、現代でも上にたつ人は自分勝手な人が多いけれど・・・というか上にたつとしたが見えなくなるのでしょう。

No.1875 2007/03/05(Mon) 11:17:41
ヨハネ1章残りをもう一度 / 沙耶香 引用

今日はヨハネ1章残りをもう一度読みます。

36節の
イエスが歩いていかれるのを見て、「見て、神の小羊。」といった。が印象に残りました。

51節の
そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
が印象に残りました。イエスの御業は素晴らしいのです。

No.1855 2007/03/01(Thu) 10:31:58

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / 昌夫 引用

印象に残ったところは、神さまが、その聖句を使って沙耶香さんに語りかけられていると思います。神さまが語りかけてくださるようにお祈りしてから、小さくても良いので、印象に残ったところを声に出して読んでから、目を閉じて静かに聖句を思い出してみてください。しばらくしたら、またその聖句を声に出して読んでみて、またしばらく静かにしてみてください。さらに、もう2回、このように繰り返してみてください。何か、神さまが語っておられるように感じることがあったら、教えてください。僕はこういう風にしていても何も語ってくださらないように感じるときも多いです。でも、聖句が印象に残ったということだけ、神さまが、すでに聖句を通して語ってくださっていると信じています。

No.1856 2007/03/01(Thu) 11:14:28

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / BISKO 引用

こんにちは。

>でも、聖句が印象に残ったということだけ、神
>さまが、すでに聖句を通して語ってくださって
>いると信じています。

聖書には、2000年前に生きた、ユダヤ人であるところの弟子たちの目から見たイエスの姿が描かれています。 その時間と空間を越えて保存され、かつギリシャ語から日本語に翻訳されて私たちの手元に届いているのが、私たちの聖書です。

ですから、聖書を正確に、かつ意味深く理解しようと思うと、どうしても、読んでいる本人の「印象」だけでは不十分の場合が出てきます。

当時の文化の背景に関するある程度の理解が無いと、意味不明、あるいは、意味の取り違いが生じてしまうこともあります。 ギリシャ語の原典を読んで、初めて見えてくる洞察もまた、ありえます。 

日本語の聖書を読んで、ご自分の印象に基づいて考えるだけでも、何か心に響く意味を感じ取れると思いますが、今後より深い理解を求めてゆくならば、継続的に誰か先生の下について学ぶのが良いかと思います。

沙耶香さんは、身近に聖書を解き明かせる方をお持ちでしょうか。牧師、あるいは教師の方々です。インターネットでの意見交換は便利ですが、いつまでもインターネット上で聖書の解説を受け続けてゆく訳にもいかないのではないかと、すこし心配しています。

No.1859 2007/03/02(Fri) 15:13:46

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / 沙耶香 引用

BISKOさん、貴重なご意見とても感謝します。
教会に属しているので、牧師はおります。でもとてもお忙しくしているので、いつもいつも聞くわけにもいかず、こういう形になっています。
そうですね・・・BISKOさんのご意見ごもっともだと思います。当時の文化の背景に関するある程度の理解がないと、意味不明、あるいは意味の取り間違いが生じる・・・・本当そうです。
でも、私は専門家になるわけでもないし、ただイエス様のことを深く知りたい、イエス様に近づいていきたいと思っているだけなので、
意味不明でも取り間違えても、イエス様がそれを益としてくださり、イエス様が補佐してくださると信じています。
おこがましい意見でごめんなさい。
何か気に障るようなことがおありになりましたら謝ります。

No.1860 2007/03/02(Fri) 19:48:46

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / じんない 引用

BISKOさんのおっしゃることももっともだと思います。沙耶香さんの身近に、沙耶香と一緒に聖書を学べる方が与えられるようにお祈りしていきましょう。

それと同時に、沙耶香さんがベストを尽くして神様を知ろうとしていることを神様は喜ばれると思います。ますます神様を求めていきましょう。

No.1863 2007/03/03(Sat) 00:57:05

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / BISKO 引用

沙耶香さん

私自身は聖書に触れ始めてからかれこれ20年くらいになります。 でも、聖書は、読むたびに新しい発見があります。 私が学んでいる教師は、私の年齢よりも長い間聖書に親しみ、ヘブル語、ギリシャ語をマスターして、新約聖書を自分自身で全編翻訳されている方です。そのような方でも、「この前、新しいことを学んだよ。今まで気づかなかったなぁ」と、笑顔で仰ることがあります。

「自分には、未だわかっていない、気づいていないことがある。」

このことをちゃんと「判っている」人は、いつまでも成長し続けます。

>でも、私は専門家になるわけでもないし、ただ
>イエス様のことを深く知りたい、イエス様に近づ
>いていきたいと思っているだけ

そうですね。
一つたとえ話を致しましょうか。
もし沙耶香さんが、ある人から「この前、誰々さんと一緒に食事をしました」という連絡を受けたとしますね。私たち日本人の感覚では、これは「ああ、誰かとお友達になったのね」と解釈されます。 でも、ニューギニアのある部族の間では、「一緒に食事をする」ということが、そのまま「婚姻関係」を意味します。このような文化の視点から見たら、沙耶香さんの受けた連絡は、「え!あなた達、結婚したんだ。」という解釈になります。

イエス様が、「私はあなたと食事をする」と仰った時、それが、その言葉を2000年前に実際に聞いた人に取って、どのような意味を持っていたのか。それを判ることが出来れば、「イエス様のことを深く知る」手助けになるんです。 イエス様は、どのようなお心を込めて、その言葉を仰ったのだろう。 そのことを深く考えてゆくと、どうしても、当時の文化背景を無視できなくなってしまうんですね。 また同じことは、私たちが人生経験を積んでゆく中で、イエス様のお言葉の意味について新しい発見をする場合にも当てはまります。

>意味不明でも取り間違えても、イエス様がそれを益
>としてくださり、

そうですね。私も、聖書を読んでいて意味不明な部分はたくさんありますし、意味を取り違えている部分もたくさんあると思います。・・・いつも、「これから、新しく学ぼう」という気持ちは消えて欲しくないと思います。 でも、そういう試行錯誤を繰り返しながら生きて、自分の生きた人生の中で、はっきりと、「そうか!これはこういう意味だったのか!やはり、イエス様の言葉は真実だった!」と確信することはあります。そういう確信が、私にとっての本当の意味での「聖書の理解」です。

だから、

>おこがましい意見でごめんなさい。

沙耶香 さんの仰っておられることを「おこがましい」などとは思いませんよ。 私たちは「イエスを知りたい」という目標を共有している同胞なのですから。

ただ、一つだけいえるのは、「自分の印象」と「聖書の正しい理解」との間には、常に大きな隔たりがあるのだということを、きちんと理解することが大切ですね、という事です。この隔たりは、個人的な解釈の問題でもあり、かつ、聖書という書物が、時空と文化において、我々21世紀の人間からはかけ離れた背景を持っているという問題でもあります。

でも、聖書が神様の御心を記した書であるなら、そこに心を留めて神を知ろうとする方々に、神の祝福が無い筈はありません。 色々と書いてしまいましたが、共に、いつまでも、たゆみなく、学んで参りましょう。

それでは。

>何か気に障るようなことがおありになりましたら
>謝ります。

気に障ることは、なーんにも、ありません。ご安心を。

No.1864 2007/03/03(Sat) 06:51:27

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / 沙耶香 引用

BISKOさん、じんないさん、私みたいな未熟なクリスチャンに、貴重なご意見をいただき嬉しく思います。

うん、本当によく勉強されていて教えてくださる先生が与えられると理想ですね・・・

No.1865 2007/03/03(Sat) 09:18:38

Re: ヨハネ1章残りをもう一度 / 昌夫 引用

出張から帰りました。BISKOさんとじんないさんの書きこみに感謝します。

どうか、御心でしたら、沙耶香さんが、もっと聖書解釈の勉強がインターネットのほかでできるよう、先生をお与えくださいませ。

BISKOさんのように、素晴らしい聖書解釈の先生を与えられるのは大きな祝福ですね。BISKOさんに先生を与えられ、この掲示板に参加するようにしてくださった神さまに感謝します。

聖書解釈の次は、ディボーションをして神さまと直接に交わることが大切だと思います。ディボーションの聖書の読み方は、人それぞれでしょうが、聖書解釈するときの読み方と全く違ってくると思います。

No.1873 2007/03/04(Sun) 22:24:37
ヨハネ5章18節までをもう一度 / 沙耶香 引用

今日はヨハネ5章18節までをもう一度読みます。

9節の
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところがその日は安息日であった。
が印象に残りました。

14節の
その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」
が印象に残りました。
人間は罪を犯していることに気づいていてもなかなかその魅力から抜けられないものだ。でもそれをいつまでも悔い改めなかったら、滅びの道につながるでしょうね・・・
でもこの世ではなかなかそれに気づきにくいのです。

9節は特に語りかけを受けませんでした。
14節はからはこの世的悪の誘いに乗るな!!永遠の私の祝福に目を留めろ!!という語りかけを受けました。

No.1872 2007/03/04(Sun) 21:12:00
ヨハネ4章残りをもう一度 / 沙耶香 引用

今日はヨハネ4章残りをもう一度読みます。

53節の
それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家のものがみな信じた。
が印象に残りました。

特に語りかけは受けないが、イエスの御業は素晴らしいと思います。

No.1871 2007/03/04(Sun) 07:18:03
ヨハネ4章42節までをもう一度 / 沙耶香 引用

今日はヨハネ4章42節までをもう一度読みます。

14節の
しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
が印象に残りました。

21節の
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
が印象に残りました。

24節の
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
が印象に残りました。

34節の
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
が印象に残りました。

39節の
さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
が印象に残りました。

14節は
人間は即効性のものを好むがイエス様は永遠のものを与えてくださるという語りかけを受けました。
21節は
残念ながら何も語りかけを感じませんでした。
24節は
人間は外見や外面を見るけれど、イエス様は中身や心を見られるので、霊的なものを重んじなさいという語り欠けを受けました。
34節は
残念ながらこれと言って語りかけを受けませんでした。
39節も
残念ながらこれと言って語りかけを受けませんでした。

No.1870 2007/03/03(Sat) 21:18:47
ヨハネ3章残りをもう一度 / 沙耶香 引用

今日はヨハネ3章残りをもう一度読みます。

27節の
ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
が印象に残りました。

31節の
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出るものは地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
が印象に残りました。

27節からの語りかけは、何もかも私がかぎを握っているのだという感じを受けました。
31節からの語りかけは、イエス様がすべての上におられるという感じを受けました。

No.1867 2007/03/03(Sat) 09:53:29

Re: ヨハネ3章残りをもう一度 / Aja 引用

27節のヨハネの言葉は本当に謙遜で、心に残りますね。

私は自分と他人をくらべて、他の人に与えられていて自分には与えられていないものをうらやましく感じたり、卑屈に思ったりしがちです。
「人は天から与えられるのでなければ何も受けることはできません」
自分が受けているものも、他の人が受けているものも、みなただ神様から与えられたものだと本当にわかったら、比較したりせず、自分に与えられたものを喜び、感謝できるのだろうなと思いました。

寒さもだいぶやわらいできましたね。
雪が降らないまま春になるのはちょっと寂しいですね…。

No.1868 2007/03/03(Sat) 17:28:51

Re: ヨハネ3章残りをもう一度 / 沙耶香 引用

今年はあまり寒くなくて真冬がくる前にはるがきたという感じで、何だか不思議です。
でも暖かいのは恵です。私は諸事情で今、自室のドアがありませんので、寒さはちょっと困るので、そんな私を哀れんで今年は例年より暖かくしてくれました。
イエス様って素晴らしいですね・・・・

No.1869 2007/03/03(Sat) 20:11:20
ヨハネ3章21節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ3章21節までを読みます。

6節の
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
が印象に残りました。

17節の
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
が印象に残りました。

続く、18節の
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
も印象に残りました。

17,8節では、救い主イエス様がこの世に遣わされたのは主の哀れみによってであり、決して裁きの姿勢ではないということが語られてきました。

No.1861 2007/03/02(Fri) 20:19:15

Re: ヨハネ3章21節まで / Aja 引用

16節、17節 裁くためでなく救うため、という言葉が印象に残りますね。

日本人の考える「神様」って、悪いことをしたら罰を与えるとか裁かれるとか、そういうイメージが強いように思います。
子供の頃、何か嫌なことがあると「私が前に悪いことをしたせいだ」と感じていたこともありました。

でも聖書の神様は裁くためでなく救うために私達に近づこうとされるのですね。
「神はわたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じである」とか「神の前では隠されたものは何もなく、すべてがさらけだされている」という聖句を読むと「正しくあらねば」と思ってしまったりしていたのですが、先日牧師が「神様がすべてご存じだというのはキリスト者にとって安心することだと思います。神は裁きのまなざしで見てはいないからです。」と言っていて本当にそうだなと思いました。

No.1862 2007/03/02(Fri) 21:36:07

ヨハネ3章21節まで / 沙耶香 引用

Ajaさん、かなりお久しぶりですね・・・元気でしたか?掲示板であえて嬉しいです。

イエス様の哀れみ深さに感動しますね・・・

No.1866 2007/03/03(Sat) 09:26:37
ヨハネ2章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ2章残りをもう一度読みます。

16節の
また、鳩を売る者に言われた。「それをここからもって行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
が印象に残りました。

23節の
イエスが、過ぎ越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
が印象に残りました。

管理人さんがおっしゃっておれることをしてみました。16節では何でもTPOをわきまえろ!!ということを語っておられると感じました。
23節においては別に何も語りかけを感じませんでした。

No.1858 2007/03/02(Fri) 10:50:05
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