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ヨハネ2章12節までをもう一度 / 沙耶香 引用

今日はヨハネ2章12節までをもう一度読みます。

10節の
言った。「だれでも初めによいぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたはよいぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
が印象に残りました。うん、普通の人間的考えではそうだが、イエスはそうはしなかったんだ。やっぱりすばらしい。
管理人さんがおっしゃっておられることをしてみました。語っておられると感じることは、人は見かけを見るが神は心を見るので、表面でいい面しても神様は全部お見通しということです。だからいつも心の中の罪をイエス様に除去してもらわないといけないです。

No.1857 2007/03/01(Thu) 20:45:09
ヨハネ1章34節までをもう一度 / 沙耶香 引用

今日から、管理人様がお忙しいそうなので、しばらくの間は今まで読んだところをもう一度読み直そうと思います。今日はヨハネ1章34節までをもう一度読みます。

3節の
すべてのものは、この方によって造られた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
が印象に残りました。イエス様がすべてを仕切っているという感じでいいです。

5節の
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。が印象に残りました。
やはりこの世的なやみや悪はイエス様的光には勝てない。

12節の
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。
が印象に残りました。特権を与えられた私たちクリスチャンは幸せ者です。

16節の
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵の上にさらに恵を受けたのである。
が印象に残りました。恵の上にさらに恵を受けた・・・って最高ですよね。

29節の
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
が印象に残りました。イエス様を世の罪を取り除く小羊って表現しているのがすごい好きです。

32節の
またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
が印象に残りました。

No.1854 2007/02/28(Wed) 21:03:22
科学とキリスト教 / 昌夫 引用

>科学者は宗教的になれないと思っている人と出会うことがあります。

とじんないさんが書かれたことで、ちょっと書いておきたいことがあります。父は生物学者で今でも進化論を信じていますが、神さまが進化の過程を使って人間を造られたと信じています。生物学者でキリストを受け入れている人は、進化についてこのように考えている人たちが多いようです。

僕は、このことで、信仰を持っていない人たちより、むしろキリスト者に注意深く考えてもらいたいことがあります。熱心なキリスト者で、聖書によると、神さまが進化を使われたのはありえない、という主張を、信仰を持っていない人たちにもされている方々が多いです。伝道のことを考えると、非常に残念なことだと思います。神が生物を造られた方法については、キリスト者の間でも、いろいろな聖書解釈があります。神が進化を使われたということはありえないという自分の聖書解釈に確信を持っている人が、他のキリスト者と解釈について議論するのは健全なことだと思います。しかし、信仰を持っていない人たちには、神が進化を使っていろいろな生物を造られたという聖書解釈をしているキリスト者もいることを伝えておくべきだと思います。そうしないので、キリストへの信仰と科学は両立しない、という間違った考えが、信仰を持っていない人たちの間でつまづきの原因になります。

たとえば創世記1-3章については、「日」と訳されているへブル語には、24時間の1日という意味のほかに「長い期間」などのいろいろなほかの意味もあります。また、聖書には神が雨を降らす、という記述が多いですが、それは神が「水の蒸発、雲の形成」などの科学的な過程を使われなかった、という意味にとる必要はありません。聖書解釈は簡単ではないので、他のキリスト者に、別の解釈をしている人がいるということを謙虚に受け止めることが大切だと思います。

また、信仰者は神を絶対視すべきで、科学を絶対視すべきではありませんが、まだ信仰を持っていない人に、科学を絶対視しないことを強要するのは、伝道の方法として間違っています。イエスの十字架以外のつまづきを取り除いてあげるようにするのがキリスト者の仕事だと思います。

No.1776 2007/02/18(Sun) 12:15:05

Re: 科学とキリスト教 / じんない 引用

聖書を良く読んでいるクリスチャンでも、自分の解釈以外にはあり得ないと傲慢に主張するとしたら、盲人の癒しの箇所で「私には見える」と言ったパリサイ人と何ら変わらないかも知れないですね。うっかり陥ってしまいそうな罠なので、気をつけないと行けないですね。

>イエスの十字架以外のつまづきを取り除いてあげるようにするのがキリスト者の仕事だと思います。

アーメンです。

No.1777 2007/02/18(Sun) 14:30:32

Re: 科学とキリスト教 / Aja 引用

ケプラーやガリレオなどが科学の分野で様々な発見をしたのは、神がこの世界を創造したのならそこに何か法則があるはずだ、それを知りたい、という思いからだったということを以前に本で読んだことがあります。
科学と宗教は別に対立するものではなく、むしろ宗教心を持った人によって科学が発達して来たということがとても興味深かったです。

日本ではダーウィンの進化論が学校でも教えられているし、それがすべてだというようにテレビ番組でも放映されていますが…アメリカだとどんな風に教えられているのですか?

No.1778 2007/02/18(Sun) 14:56:52

Re: 科学とキリスト教 / 沙耶香 引用

うーん??私は学も能もないので、難しいことはよく分からないが、科学も元を正せばイエス様が創造されたのです。すべての造り主イエス様・・・

No.1779 2007/02/18(Sun) 19:36:30

Re: 科学とキリスト教 / 昌夫 引用

僕は無神論者だった大学生のころ、科学を絶対視して、宗教を馬鹿にしていました。そうしたら、歴史的には科学は、神の造られた美しい法則を発見しようとしたクリスチャンによって始められたと教えてくれた友人がい、それで、歴史も知らずに宗教を馬鹿にしていたことをちょっと反省しました。それからキリストを受け入れるまで約25年かかりました。

アメリカでは州ごとに教育の法律が違いますが、ダーウィンの進化論だけが教えられる州が多いのです。それで、インテリジェンス・デザインという運動が起きてきて、進化論とともに、知能のある存在が生物を造ったことを教えることを法制化しようと活動しているクリスチャンたちがいます。それでいろいろな州で裁判になったりしています。

僕のインテリジェンス・デザイン運動をする人の気持ちは分かるけれども、伝道という観点から見ると、法制化をめざすのは良い考えではないと思っています。法制化によって信仰を持っていない人たちをまきこむ前に、まず、キリスト者が内部ですることがあると思います。聖書には、教会が外部に問題点を指摘するより、まず自分たちを正すことが強調されていると思います。だから、まず、教会で、神が人間を含むすべてのものを造られたのは聖書にはっきり書いてあるけれど、その方法については、いろいろな聖書解釈が信仰者の間にあり、神が進化を使われたと解釈するキリスト者もいることを教えるべきだと思います。信仰を持っていない人たちと話すときは、伝道という観点から、そういう説があることを、まず伝えるほうが良いことが多いだろうとうことも教えると良いと思います。その上で、教会が取っている聖書解釈が、神は進化を使われなかったという解釈なら、その根拠とともに、その教会の解釈を教えると良いと思います。それから、キリスト者の中には、ダーウィンの進化論を勉強しないで、聞きかじりで批判するので、自分が間違って理解した「進化論」を批判して、進化論を勉強した人たちに馬鹿にされている人たちが多くいるように思います。よく理解しないことを批判するのは良くないことなので、主イエスさまの御名を汚す行為だと思います。進化論を批判して真理を伝えたいなら、しっかり勉強してから批判するようにすべきです。勉強したくないなら、「神が進化を使われたという聖書解釈もあります。」とだけ信仰を持っていない人に伝えればそれで十分だと思います。

No.1782 2007/02/19(Mon) 09:58:50

Re: 科学とキリスト教 / じんない 引用

先日、プリンストンの日本人学生の前で証をする機会を得ました。感謝です。

証を話した後に、物理学を研究しているポスドクの方二人が興味を持ってくれて声をかけてくれたので、お二人とゆっくりお話しすることが出来ました。この掲示板で科学とキリスト教について話しが出た直後だったこともあり、彼らとの交わりの中でもつまずきを与えないように気をつけて話すことが出来ました。そのことも感謝です。

No.1850 2007/02/28(Wed) 14:16:00

Re: 科学とキリスト教 / 昌夫 引用

つまずきを与えないということはとても大切なことだと思います。僕たちを愛して全知全能の力でいつも絶妙なタイミングですべてのことが起こるようにしてくださる神さまに感謝します。

No.1851 2007/02/28(Wed) 19:23:25
ヨハネ18章27節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ18章27節までを読みます。

6節に
イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
とあるが、何であとずさりして地に倒れるのか?

8節の
イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを探しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」はどういう意味だろうか?この人たちとは先ほどの彼らのことだろうか?よく分からない・・・

10節の
シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
はどういう意味だろうか}何で大祭司のしもべの耳を切り落とさないといけないのか?よく分からない・・・・

14節の
カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。
はイエス様が十字架にかけられ死なれることを言っているのだろうか?

27節に
それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。とありますが、裏切り者はユダだったんじゃなかったですか?うーん??どれもこれもごっちゃになって何がなんだか分からない。

No.1837 2007/02/24(Sat) 21:16:02

再ヨハネ18章27節まで / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ヨハネ18章27節までを読みます。

6節で彼らはあとずさりし、地に倒れたのに、何でその彼らが7節で「ナザレ人イエスを。」といえるのだろうか?

9節に
それは、「あなたがわたしに下さったもののうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
とあるが、これはどういう意味だろうか?意味が分からない。

17節に
すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」といった。ペテロは、「そんな者ではない。」といった。
とあるが、ペテロは弟子なのに、弟子でないと言ったのは、後ろめたい気持ちからだろうか?

No.1838 2007/02/25(Sun) 07:16:11

Re: ヨハネ18章27節まで / 昌夫 引用

5節の「それはわたしです」はもとのギリシア語では、70人訳というギリシア語に翻訳されたイザヤ書43章10節にある「わたしがその者である」と同じです。これは出エジプト記3章14節で「わたしはある」と神がおっしゃったところを示しています。ヨハネ8章の24,28,58節でも同じことをイエスが言われました。イザヤ書では、神が語られているので、イエスが「わたしは神です」と宣言されたのと同じです。8章59節ではイエスがこう宣言されたとき、ユダヤ人たちはその意味を理解して、イエスが神を冒涜したと思い、イエスを石打ちで殺そうとしました。

6節では、イエスの「わたしが神である」という力強い宣言を理解して、霊的にショックを受けたユダヤ人たちがあとずさりして、地に倒れたと思います。

7節では、6節で霊的にショックを受けたユダヤ人たちが、自分たちの属するこの世的に立ち直って、立ち上がってきて、イエスを捕まえようとしているところだと思います。

8節で、イエスはご自分が迫害の標的となられることで、弟子たちを守られて、弟子たちが逃げることができるようにされました。「この人たち」とは弟子たちのことです。

9節の「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりも失いませんでした。」とは、17章12節の「あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。」とあることをさしています。17章は、イエスが弟子たちと僕たち信仰者のために父なる神に祈っておられます。この祈りのなかで、12節でイエスが宣言されたことばは、祈りの前まで、イエスが弟子たちを守られたということだけでなく、祈りの後でもイエスがこの世におられる間はイエスが弟子たちを守られることの預言でもありました。その預言が実現するためにイエスは弟子たちが逃げることができるようにされました。

10節で、ペテロはイエスを守ろうとして、剣でイエスさまを捕まえに来た人たちの一人のマルコスに切りかかりました。

14節のカヤパの助言とは、ヨハネ11章49-50節で大祭司カヤパの意図しない十字架の預言のことをさしています。

ペテロは12使徒のリーダーで、聖書のペテロの第1、第2の手紙を書いたとても重要な人です。13章37−38節で、イエスはペテロがイエスを知らないと3度言うことを預言されました。18章17節、25節、27節で、ペテロはイエスを知っていることを3度否定しました。理由は、ペテロは自分がイエスと一緒に殺されることを恐れたのだと思います。イエスの復活のあと、ヨハネ21章15-19節で、イエスは3度、「わたしを愛しますか」とペテロに質問され、3度ペテロが答えることで、イエスを否認してしまったペテロを、イエスの弟子たちのリーダーの役に戻されたと思います。

No.1842 2007/02/26(Mon) 08:29:18

Re: ヨハネ18章27節まで / 沙耶香 引用

そうなんだー、このときも弟子達は一緒にいたんだ。こういう窮地においても弟子達を守ろうとできるイエス様って素晴らしいですね・・

ヨハネ11章49-50節・・・
しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたはぜんぜん何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

No.1845 2007/02/26(Mon) 11:21:37
ヨハネ18章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ18章残りを読みます。

32節の
これは、御自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
はどういう意味だろうか?

37節の
そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが追うであることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
が印象に残りました。

No.1841 2007/02/25(Sun) 20:22:54

Re: ヨハネ18章残り / 昌夫 引用

31節の歴史的背景として、当時、ローマの支配下にあったユダヤ人たちには死刑を執行する権利は与えられていなかったということがあります。イエスは、ご自分が十字架に上げられて死ぬことを、12章32節などで預言されておられました。この預言どおりにイエスが死刑になるためには、ローマの総督であるピラトがイエスを有罪として死刑にする必要がありました。

No.1843 2007/02/26(Mon) 08:45:29

再ヨハネ18章残り / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ヨハネ18章の残りを読みます。

ふーん、なんだかむつかしいですね・・・
28節の
さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸につれて行った。時は明け方であった。彼らは、過ぎ越しの食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。
のように当時は、異邦人であるローマ官邸に儀式的に汚れるとされていたことがなんだか面白いというか不可思議というか・・・

ひとりが釈放されることになっているのに、イエスではなく、バラバを釈放してほしいと言っているのが印象的。

No.1844 2007/02/26(Mon) 10:43:41
静まること / 昌夫 引用

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10、口語訳ー日本聖書教会)という聖句から「Be Still」というタイトルのDVDをクリスチャンの友人が貸してくれたので見ています。このDVDは、祈りのなかで、神さまに話しかけるだけでなく、神さまの前で静まって、神さまの声を聞く、ということをテーマにしています。英語しかないようですが、 http://www.bestillprayer.com/ にサイトがあります。

普通の祈りの中で、静かにする時間を持つようにしても良いと思います。特にDVDで薦めているのは、1人で静かにできる場所と時間を確保して、神さまが語りかけてくださるように祈ってから、聖書の4節から10節くらいを選んで、声に出して読みます。そしてしばらく静かにして、神が語ってくださるのを待ちます。これを4回くらい繰り返します。3回目くらいからは、選んだ箇所を全部読まずに、特に印象に残った箇所だけを読むようにするのも良いようです。

僕は昨夜、寝る前に詩篇51篇1-4節を選んで2回読みました。2節の「私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」と4節の「あなたはきよくあられます。」が特に印象に残ったので、もう2回、そこだけを読んで、静かにしていました。朝起きたときに、自分は罪人だが、神さまはきよくあられるので、神さまに頼れば良いのだ、という気持ちが強くわきました。

No.1809 2007/02/22(Thu) 12:40:43

Re: 静まること / 沙耶香 引用

へーー。すばらしいですね・・・神の前に静まること・・
サイト開いたけれど、すべて英語でわけがわからない。
でも今英語ペラペラの人多いから・・・

No.1811 2007/02/22(Thu) 18:00:36

Re: 静まること / Aja 引用

神様の前に静まる、ってできそうでできないことのように思います。ただひとりでいてぼんやりとしていることとは違うし…。
自分が祈るということより、神様の語りかけを聞くことの方が重要なのでしょうね。

祈りについて書かれた本に、黙示録3章20節が引用されていたのを思い出しました。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
祈りとはイエスが私の心をたたいてくださったことに対して戸を開くことだと説明されていました。
イエスはいつも私たちの心に入りたいと願っておられるので、私たちはそれを受け入れるためにただ戸を開けばいいのだという言葉に、祈りに対するなにか気負いのようなものが消え去ったように感じました。

No.1816 2007/02/22(Thu) 22:26:05

Re: 静まること / 昌夫 引用

神さまの前に静まることができて、神さまが直接に語ってくださったと感じると素晴らしいです。でも神の前で静まることは、人間の力でできることではないので、祈ってイエスさまの力にすがるしかありません。

祈って静かにしていても、神さまが何も語ってくださらないように感じることも多くあります。でも、聖書のみことばは神さまが語っておられるので、聖句について静かにしばらく考える時間を毎日持っていれば、それだけで、神さまとの直接の関係を深めてくださると信じます。

No.1827 2007/02/23(Fri) 23:54:56

Re: 静まること / 昌夫 引用

神さまの前に出て静かにするディボーションを始めて2日目は、夜寝る直前に、神さまが語ってくださるようにお祈りしてからヨハネ12章1-8節を読んではしばらく静かにすることを2回くりかえしました。すると、3節のマリヤが高価な香油をイエスさまの足に塗るところと、5節のユダがマリヤを非難するところが少し気になりました。少し心にひっかかるような感じでした。1日目の、この節とこの節がとても気になる、という感じとはかなり違いました。今日は、神さまは語ってくださらないのかな、と思いました。朝、起きて、3節と5節を読んで、静かにしていると、ふと、「マリヤの塗った香油は1年分の賃金にあたるくらい高価だったらしい。マリヤはイエスさまをとても愛していたので、恋人たちが驚くほど高価なプレゼントを喜んで贈りあうように、イエスさまに高価なプレゼントをしたのだな。けれど、僕は自分の1年分の賃金の香油をイエスさまにプレゼントしたくない。」という考えが浮かびました。「自分はイエスさまをそれほど愛していない」という考えは、嫌なものだったので、僕はそのことを考えるのをすぐやめました。しばらく静かにしていても他には特に考えが浮かびませんでした。

その後、本を読んでいたら、ほとんどの罪は信仰がないか浅いのが根本原因である、というようなことが書いてありました。それで、僕は自分がイエスさまを愛するのが少ない問題の根は、イエスさまよりも、お金に頼っていることにあることに気がつきました。それでユダのように、お金のことのほうが、イエスさまよりも気になっていたのです。神さまは僕の罪について語ってくださっていたのだけれど、僕は聞きたくなかったのだ、ということに気がつきました。僕のディボーションだけでなく、読んでいる本も使って優しく僕の罪のことを語ってくださった神さまに感謝します。

No.1836 2007/02/24(Sat) 21:00:08

Re: 静まること / 沙耶香 引用

うん、管理人さんの意見、すごく正直で神様にその正直な気持ちを伝えて罪をご覧になってもらってよかったと思います。
でも大体人間そういう生き物です。クリスチャンでもなかなか自分の賃金をイエス様のものだからイエス様に返そうとする人なんていないです。
それにその前段階で、そういう罪を認められるひともなかなかいないです。罪だけれど、罪だと思っていない、認めたくない人がほとんどというかほぼ全員なのです。
これを認めることができるというのが画期的だと思います。
そういうことを認めさせた神様は素晴らしいし、そこまでできる管理人さんは素晴らしいと思いますし、そういうクリスチャンと接触が持てることが私にとってもかなり大きな祝福だと思います。
イエス様感謝します。

No.1839 2007/02/25(Sun) 07:24:01

Re: 静まること / 昌夫 引用

僕の自分の罪を認めたくないという気持ちは他の人よりもむしろ強いと思います。ディボーションを始めて1日目に聖句を通して神さまが語ってくださった喜びが大きかったのです。それで、2日目にも神さまの声を聖句を通して聞きたいという気持ちが、罪を認めたくない気持ちに勝ったということだと思います。人間は誰でも罪の性質があるけれど、神さまの声を聞く喜びを経験すると、罪の支配からだんだん解放されて、神さまに引き寄せられていくと思います。

No.1840 2007/02/25(Sun) 20:21:07
ヨハネ17章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ17章残りを読みます。

12節に
わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちのだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
とあるが、滅びの子=ユダが滅びたのは聖書が成就するためとはどういう意味だろうか?

13節の
わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
はどういう意味だろうか?世にあって??てどういう意味だろうか?

14節に
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
とあるが、この彼らとは誰のことだろうか?イエスの弟子のことだろうか?

19節の
わたしは、かれらのため、私自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
はどういう意味だろうか?

No.1823 2007/02/23(Fri) 22:17:08

Re: ヨハネ17章残り / 昌夫 引用

12節で、ユダの滅びについて聖書の成就とは、ヨハネ13章18節に引用してある詩篇41:9のことだろうと思います。もうひとつ考えられるのは使徒1:20に引用してある詩篇109:8です。もしかすると、両方のことかもしれません。どちらもダビデの詩篇なので、ダビデに起きたことと似たことが、ダビデの子孫であるイエスにも起きるように神がされた、という意味での「聖書の成就」です。

13節の「世にあって」は、天から話しているのではなく、この世で、という意味です。

14節の「彼ら」とは、このときに一緒にいたイエスの弟子たちのことだと思います。裏切り者のユダは、もう出ていった後なので、「彼ら」に入っていないと思います。

19節ですが、「聖め別つ」とは、神に用いられるために、他のものや人と別にすることです。イエスは生涯を通して、いつも父なる神に用いられるように、ご自分を聖め別たれていました。ヨハネ10章36節でご自分を「聖である」と言われたのはこのことです。さらに、イエスが17章19節で、ご自分を「聖め別つ」と言われたときには、もうすぐに十字架にかかって死なれることをイエスは知っておられました。だから、ご自分の十字架の死によって、ご自分を父なる神に用いられるために聖なるものとされることを言われたと思います。イエスが人々の罪のために死なれたという真理によって、弟子たちも罪のけがれから聖められて、神に用いられることが可能になるように、ご自分から十字架にかかることを決意しておられたことが分かると思います。

20節で、「この人々」は当時のイエスの弟子たちのことですが、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」とは、僕たちキリスト者のことです。イエスが十字架にかかる直前に、このように僕たちのためにも祈ってくださいました。

No.1826 2007/02/23(Fri) 23:46:29

再ヨハネ17章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ17章残りを読みます。

詩篇41章9節・・・
私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。
ヨハネ13章18節・・・
私は、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだものを知っています。しかし聖書に「わたしのパンを食べているものが、わたしに向かってかかとを上げた。」と書いてあることは成就するのです。

詩篇109章8節・・・
彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、
使徒1章20節・・・
実は詩篇には、こう書いてあるのです。「彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住むものがいなくなれ。」また、「その職は、ほかの人に取らせよ。」

ダビデの詩篇なので、ダビデに起きたことと似たことが、ダビデの子孫であるイエスにも起きるように神がされた・・・うーん、よく分からないですね・・・

聖め別つ=神に用いられる為に、他のものや人と別にすること・・・なんだか難しそうですね・・・イエスは生涯を通してこれを成し遂げたんだから素晴らしいですね・・・

24節の
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいるところにわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。が印象に残りました。

No.1828 2007/02/24(Sat) 10:25:21

Re: ヨハネ17章残り / 昌夫 引用

印象に残ったところは、神さまが沙耶香さんに語りかけておられると思います。神さまが聖句を使って語ってくださるように祈ってから、24節を小さくても良いので声に出して読んで、しばらく静かにすることを試してみてください。夜、寝る直前にして、また、朝起きたときに同じところを読んで、静かにしてみることをお薦めします。

No.1832 2007/02/24(Sat) 11:10:21

Re: ヨハネ17章残り / 沙耶香 引用

24節、小さく音読・・・
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいるところにわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

No.1835 2007/02/24(Sat) 20:39:15
ヨハネ17章11節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネの17章11節までを読みます。

うーん、区切りが梗概に出ているのだと最後になるので、11節までにしました。

3節の
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
が印象に残りました。永遠の命が一番のイエス様からの贈り物ですよね・・・永遠にイエス様とほかのクリスチャンと一緒に生きられる・・・これぞ究極の幸せですよ。

6節の
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
は私たちクリスチャンのことを言っているのだろうか?

No.1815 2007/02/22(Thu) 22:13:46

再ヨハネ17章11節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの17章11節までを読みます。

1節の後半の
父よ。時が来ました。貴方の子があなたの栄光を現す為に、子の栄光を現してください。
が印象に残りました。

5節の
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいてもっていましたあの栄光で輝かせてください。
はどういう意味だろうか?
世界が存在する前にごいっしょにいて・・・世界が存在する前に父なる神と子なる神が一緒にいたんだろうか?

No.1817 2007/02/23(Fri) 10:11:41

Re: ヨハネ17章11節まで / 昌夫 引用

5節は、ヨハネ1章1-3節に関連します。子なる神=ことばが、世界の始まる前に父なる神とともにおられました。

6節は、イエスと一緒にいた弟子たちのことを言われているように思います。

No.1818 2007/02/23(Fri) 12:45:32

Re: ヨハネ17章11節まで / 沙耶香 引用

弟子達もクリスチャンでしょ?

No.1821 2007/02/23(Fri) 21:23:54

Re: ヨハネ17章11節まで / 昌夫 引用

クリスチャンとは、普通、イエスが自分の罪のために十字架にかかられたことを信じ、聖霊のバプテスマによってイエスとともに死んで復活し、聖霊に中に入っていただいた信仰者のことを言います。

イエスの弟子たちの中に聖霊が入られるのは、十字架の約50日後のペンテコステの聖霊降臨のときです。それまでは、弟子たちは聖霊に入っていただいているという意味でのクリスチャンではなかったのです。

No.1824 2007/02/23(Fri) 22:54:39

Re: ヨハネ17章11節まで / 沙耶香 引用

あ、そうなの?なんだか難しいですね・・・
弟子達もクリスチャンになったがなったのが、十字架の約50日後のペンテコステの聖霊降臨のときだということかな?
??でも聖霊に入っていただいているという意味でのクリスチャンではなかった?ということだと別の意味ではクリスチャンだった可能性もあるということかな?
うーん??分からない・・・・

No.1830 2007/02/24(Sat) 10:50:42

Re: ヨハネ17章11節まで / 昌夫 引用

「クリスチャン」とひとことで言っても、いろいろな意味で使われています。イエスの弟子となった人を「クリスチャン」と呼ぶなら、聖霊降臨の前でもイエスの弟子たちは、その意味ではクリスチャンです。ことばは、いろいろ違う意味で使われるので、ことばでイエスさまを他の人たちに紹介しようとする僕たち信仰者は、とても注意してことばを使う必要があると思います。

No.1833 2007/02/24(Sat) 11:23:33

Re: ヨハネ17章11節まで / 沙耶香 引用

イエスの弟子となった人をクリスチャンと呼ぶ人もいるんだ??でもクリスチャンというのはイエス様を信じて唯一の救い主だと受け入れ、悔い改めてイエス様とともに歩む人でしょ?
弟子となった時点でそういう気持ちならクリスチャンだけれど、ただ側にいるというだけではクリスチャンとは言わないと思うんだけれど・・・・
なんだかいろいろ考えていると余計難しくなります・・・

No.1834 2007/02/24(Sat) 20:34:54
ヨハネ16章18節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネの16章18節までを読みます。

2節の
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたをCENSOREDものがみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思うときが来ます。
はどういう意味だろうか?
ここに書いてある人々とはユダヤ人のことだろうか?
あなたがたをCENSOREDものって、私たちはいつ殺されるんだろうか?何のことを言っているんだろうか?全く分からない。

4節に
しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、そのときがくれば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出す為です。わたしがはじめからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。
とありますが、これはどういう意味だろうか?
わたしがあなたがたと一緒にいたとはイエス様を信仰しているという意味だろうか?

7節に
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行く事は、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去っていかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
とありますが、これはどういう意味だろうか?助け主とは聖霊のことですよね?子なる神様が去っていけば助け主がくるの?うーん、どうも今一意味不明・・・

10節の
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
はどういう意味だろうか?

11節に
さばきについてとは、この世を支配するものがさばかれたからです。とあるが、サタンはさばかれたの?サタンがさばかれたなんて聞いたことないけれど・・・
サタンがさばかれているんだったら、この世の中はもっとましで弱者に住みやすい世の中になっていないといけないはずなのに・・・

13節に
しかし、その方、すなわち真理の御霊がくると、あなたがたをすべての真理に導きいれます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
とあるが、どういう意味だろうか?

No.1790 2007/02/20(Tue) 10:45:31

Re: ヨハネ16章18節まで / 昌夫 引用

ヨハネ13-16章は、十字架にかかる時が来たことを知られたイエスが、弟子たちの足を洗い、別れを前にした説教(告別の説教)をされていることに注意してください。

2節ですが、イエスはユダヤ人の弟子たちが、ユダヤ人が集まる会堂から追い出されることを預言されています。また、多くの弟子たちが殺されることを預言しています。弟子たちはユダヤ人に殺されたり、ローマ人に殺されたりしました。パウロが神に奉仕していると思って、キリスト者たちを迫害していたように、他のユダヤ人たちも、神に奉仕していると思ってキリスト者を迫害したり殺したりします。

4節で「わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」は、イエスが今まで弟子たちとこの世で一緒におられたことを話しておられます。その間は、イエスが弟子たちを迫害から守られたことを言われていると思います。迫害はイエスに向けられていたので、弟子たちはそれほど迫害を受けなかったということがあります。

7節は、イエスが十字架にかけられた後に、聖霊が多くの人にくだることは、旧約聖書にあらかじめ預言されていたことだったので、イエスが十字架にかかって去られないと、聖霊が来られることはないことを説明されていると思います。

10節の「義について」は、8節にあるように、義についての誤りを聖霊が世に認めさせる、ということなので、人間の力による義が誤りであることを、聖霊が世に示して認めさせる、ということだと思います。イエスが父なる神のもとに行かれ、聖霊が弟子たちに下られて、神の義にかなった行いをするようになるので、それを見て、他の人々が、聖霊の力による神の義に比べ、人間の力による義が誤りであることに気づくようになる、ということだと思います。

11節は、12章31節にあるように、サタンはイエスが十字架に上げられるときに、追い出されることを言われていると思います。黙示12章5節に「男の子」とあるのはキリストのことと思われます。黙示12章7-12節を読むと、サタンはイエスの十字架の血によって打ち負かされ、天にいることができなくなるというさばきを受け、地上に投げ落とされたことが書いてあるようです。12節にあるように、サタンは十字架のときに、このようなさばきを受けたけれど、地上でわざわいを起こします。今はそのような時なので、この世にはさまざまなわざわいがあります。やがて黙示20章2節のように、サタンが縛られるときがきます。さらにその後に、黙示20章10節にあるように、サタンは永遠の苦しみを受ける最終的なさばきを受けます。このように、サタンのさばきについても段階があり、一挙に最終のさばきが与えられるわけではありません。

13節ですが、イエスが、ヨハネ8章26-29節にあるように、父なる神の教えられたとおりに、教えられたように、聖霊はイエスの話されることを聞いて、そのままを信仰者に話されます。このことを14−15節で、さらに詳しく説明されています。

No.1793 2007/02/20(Tue) 14:53:09

再ヨハネ16章18節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ16章18節までを読みます。

えーーサタンも裁かれるの?サタンって存在するの?私は人の心の中の悪い部分だと思っていました。
裁かれるのは地獄に落ちた人間だと思っていました。

イエスが十字架にかかって死なれないと聖霊がこられることはない・・・知らなかった。

聖霊の力による神の義と人間の力による義・・・うーん、私にはよく分からないが・・・神様による義は完全だけれど、人間による義は不完全だから・・・

12節に
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
とありますが、イエス様の話しに耐える力がない??話しても分からないということだろうか?

No.1795 2007/02/21(Wed) 11:02:51

Re: ヨハネ16章18節まで / 昌夫 引用

僕はサタンが存在し、サタンもサタンにだまされてついていった人間たちも裁かれるということが聖書にはっきり書いてあると思います。でもクリスチャンで、サタンとは人間の心の悪い部分、として読む人々もおられるようです。自分の教会の聖書解釈を絶対視しないけれど、大切にするのが良い、という考えから、機会があったら牧師に聞いてみてください。

12節の説明が13−14節にあるようです。弟子たちには、この時点でまだ聖霊が下っていないので、イエスがこれから十字架にかかるという厳しい真理を聞くと、耐え切れずに逃げ出してしまうだろう、ということではないかと思います。実際に、イエスが捕まえられたとき、弟子たちは皆逃げてしまいました。

No.1797 2007/02/21(Wed) 12:38:15

Re: ヨハネ16章18節まで / 沙耶香 引用

サタンは存在するとしたら、どこにいるの?
イエス様は父なる神様の右の座におられるとか言っていますよね。じゃ、サタンはどこにいるの?

あ、そうなの?イエス様が捕えられたとき、弟子達はみな逃げてしまったの?えーー?裏切り者のユダだけじゃないの?あれー?また混乱してきちゃった・・・

No.1805 2007/02/22(Thu) 10:37:00

Re: ヨハネ16章18節まで / 昌夫 引用

サタンは天から追い出されて地上に投げ出され、地上でわざわいを起こしていると思います。神はサタンが信仰者に触ることを許されないのですが、サタンの武器は嘘です。だから、いろいろな嘘にだまされないように注意する必要があります。エペソ6章11-17節を読んでみてください。

イエスが捕らえられたとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまいました(マルコ14:50)。ペテロは隠れてイエスについていったけれど、イエスを知らないと言って否定しました。そのように臆病に弟子たちがイエスを見捨てたのはとても残念なことですが、ユダ金をもらってイエスを売ったので、もっとひどい裏切りでした。ルカ22:1−6とマタイ26:47−50を読んでみてください。

No.1806 2007/02/22(Thu) 11:40:20

Re: ヨハネ16章18節まで / 沙耶香 引用

エペソ6章11―17節・・・読みました。悪いものに騙されないようにいろいろ書いてあります。

えーー??イエスの弟子といえども、そんな程度の人たちだったんだ。
マルコ14章50節・・・
すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
ルカ22章1―6節・・・
うん、4節に
祭司長達や宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうか相談した。
とあります。
マタイ26章47―50節・・・
うん、48節に
イエスを裏切るものは、彼らと合図を決めて、「私が口付けをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
とあります。
ユダはお金をもらってもっとひどい裏切り行為をしていたが、でもほかの弟子達もみな逃げてしまったんですね・・・うーん、なかなか難しいですね・・・

No.1813 2007/02/22(Thu) 20:24:05

Re: ヨハネ16章18節まで / 昌夫 引用

>イエスの弟子といえども、そんな程度の人たちだったんだ。

イエスの選ばれた12使徒でさえ、聖霊が入られる前はその程度だったので、僕などはこの状況に置かれたら裏切り者のユダよりもひどかったろうと容易に想像できます。人間の力は頼りにならない、神だけが頼りになる、ということが聖書全体の重要なメッセージだと思います。

イエスが捕まえられたときに臆病にイエスを見捨てた弟子たちが、約50日後のペンテコステで聖霊に入っていただいた後は、急に変わることに注目してください。彼らはイエスを殺したユダヤ人のリーダーたちがいるエルサレムで「イエスは復活した。」ことを迫害を恐れずに力強く証言するようになりました。

No.1822 2007/02/23(Fri) 21:27:36

Re: ヨハネ16章18節まで / 沙耶香 引用

あ、そうなんだーーー・・・人間の力は頼りにはならないが、弟子ともなるとイエスを慕ってついてきていると思うので、裏切るとか見捨てるとかいうことになるのかな?と思うけれど、そのときになると人間は無力なのかもしれないですね・・・

でもイエスを見捨てた弟子でも聖霊に入っていただいた後はイエスから力をいただけたことでやっぱりイエス様は素晴らしいのです。人間は主イエス様がいないと何の力もないのです。

No.1831 2007/02/24(Sat) 10:58:25
ヨハネ16章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ16章残りを読みます。

20節に
まことにまことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。とありますが、これはどういうことだろうか?
嘆き悲しむが、世は喜ぶ??嘆き悲しむとこの世を支配しているサタンが喜ぶということだろうか?

23節の
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
が印象に残りました。

24節に
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。とあるが、名によっていろいろ求めていますが・・・?求めたことはありませんと書いてあるのはどうしてだろうか?

33節の
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つ為です。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
が印象に残りました。

No.1799 2007/02/21(Wed) 19:40:32

Re: ヨハネ16章残り / 昌夫 引用

イエスが十字架にかかられて死なれたとき、弟子たちは嘆き悲しむが、この世に属する人たちは喜びました。しかしイエスが復活されたとき、弟子たちは喜びました。20節はこのことを書いていると思います。

24節は、弟子たちは、このときまでにイエスにおろいろなことを求めたけれど、イエスの名によって(イエスと一体となって、というような意味だと思います)求めたことはなかった、ということだと思います。

No.1803 2007/02/22(Thu) 03:31:29

再ヨハネ16章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ16章残りを読みます。

20節の管理人さんの説明のこの世に属する人たちは喜んだとあるが、この世に属する人たちって誰ですか?弟子以外の全員ですか?
ユダヤ人ですか?

21節の
女の子を産むときには、そのときが来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
が印象に残りました。妊娠に例えているところが面白いし興味深いですね。

26節に
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
とありますが、いつも私たちはイエス様のお名前によってお祈りしているが、イエス様のお父様にお祈りしないといけないの?なんだかわけがわからなくなってきました・・・

やはり33節の
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つ為です。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
が力強くて日々患難が襲ってくる私にとっては、心に響く御言葉です。

No.1804 2007/02/22(Thu) 10:31:38

Re: ヨハネ16章残り / 昌夫 引用

20節ですが、イエスが十字架にかかられたときに喜んだのは、ユダヤ人のリーダーたちと、リーダーに扇動されたユダヤ人の群衆でした。ローマ人の兵士たちの中にも喜んでいたものたちがいました。

26節ですが、イエスと一体となって、父なる神の前に出て、父なる神にマタイ6章9−12節のような意味の「主の祈り」をするのが祈りのひとつの基本です。でも、聖書には、イエスへの祈りも多く書いてあるし、聖霊への祈りも数が少ないながら書いてあるようです。

No.1807 2007/02/22(Thu) 12:01:42

Re: ヨハネ16章残り / 沙耶香 引用

あ、そうなの?イエス様と一体になって父なる神の前に出て父なる神に祈るのが基本なの?
私はイエス様のお名前によって祈っているので、イエス様に祈っているのだと思っていました。

No.1812 2007/02/22(Thu) 18:08:18

Re: ヨハネ16章残り / 昌夫 引用

イエスの名によって祈るということは、イエスに祈るということではありません。

僕たち人間には罪があるので、そのままで父なる神の前に出ることができません。罪で汚れたまま聖なる神の前に出ると、死んでしまいます。それで、イエスの十字架の死による罪の赦しを信じ、イエスのとともに父なる神の前に出るしか父なる神への道はありません。これが、「イエスの名によって」祈ることの基本だと思います。例えばヨハネ16章26−27節では、イエスは、イエスの名によって、直接に父なる神に求めて祈ることができることを言っておられると思います。

一歩進んで、イエスは父なる神と一体であることを考えると、イエスの名によって、子なる神であるイエスに祈ることができます。ヨハネ14章13−14節では、イエスの名によってイエスに祈り求めると、イエスが何でもしてくださることを言っておられます。

No.1825 2007/02/23(Fri) 23:06:37

Re: ヨハネ16章残り / 沙耶香 引用

あ、そうなの?
ヨハネ16章26―27節・・・
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
イエスは、イエスの名によって、直接に父なる神に求めて祈ることができる・・・

ヨハネ14章13−14節・・・
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになる為です。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

No.1829 2007/02/24(Sat) 10:46:27
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