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CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / ごとう ひでたか 引用

皆さま

年末・年始の日本の荒んだニュースを見ていて、当方が「何かできないか」と思い立ち、探したところ、ガイドラインが示されたので共有させていただきたいと思います。

キリスト教界も、例えば下記のような被害者たちに対して、祈りと共に、プラクティカルな面での支援も提供できる体制が必要なのではないでしょうか。そのために行政や、民間援助団体等も巻き込んで、包括的に動けるような姿勢を持つことも大切だと考えます。

皆さまのご意見や、ご経験からのアドバイス・アイディアなどよろしくお願いしますね。 ごとう


「日常の中の非日常」に向き合う(本編はこちら→「管理人です。もうしわけないのですが、掲示板のルールによりURLを削除しました。」)

日本国内でも、性的暴行・子どもの虐待・痴漢/CENSORED・パートナーによる家庭内暴力(DV)などの被害は増加傾向にあります。しかも、こうした認知件数として明るみに出てくる統計は、巨大な氷山のほんの一角でしかないのが現状です。

誰にも言えない痛みや、苦しみ…。いつまでも繰り返される悪夢や、食欲不振、対人恐怖症、フラッシュバック、トラウマ…。自分を責める罪悪感や、無力感、そうしたものを無理やり封じ込んで、「時が解決する」「いつか慣れる」ことを期待して、心の傷を隠し、放置してしまうケースは、実は私たちの周りでも多いのではないでしょうか。

暴行や虐待、痛ましい喪失などによって心についた傷は、二度と元通りにはなりません。どんなに程度が軽減して、普通の生活に戻れたとしても、記憶の中でいつまでも、時に痛み、時に出血する傷痕として残ってしまいます。クシャクシャに丸めた紙が、どんなに伸ばしても完全に元に戻らないように。被災の事実が消えないのと同様、こころの傷も消えないのです。

もし、何らかの啓示やサインから、周囲に傷ついた人がいる事に気付いた場合。若しくは、自分自身が被害を受けた場合。あなたは、そして教会という組織は、以下のような状況に対して、一体何ができるのでしょうか。

?@CENSORED・暴行
?A家庭内暴力(DV)
?B児童虐待
?C事故・殺人事件などで突然肉親を喪う
?D上記に苦しむ方を援助している

これらの犯罪被害者・周囲の方たちに対して、教会の祈りとともに、再び生きる力を与えるために、できる支援があります。その「How to」を、教会の管理者・責任者が知識として持っているだけでも、有事の際余計な混乱を避けることができますし、日々教会員の方たちにワークショップのような形で啓蒙していくことができます。

教会は、困っている人、苦しんでいる人が、頼ってこられる場所であるべきではないでしょうか。
教会は、彼らの問題への効果的な解決法、苦悩を和らげられる手段・知恵を持つべきではないでしょうか。
教会は、地域の変革、より良い社会への改善を促す、積極的な働き手であるべきではないでしょうか。

その為にも、このUrl(「管理人です。もうしわけないのですが、掲示板のルールによりURLを削除しました。」)を一度ご覧頂き、またお知り合いの皆さまに転送し、伝えてください。

全ての教会、教育機関(児童館、塾なども含める)や福祉・慈善団体が、持っているべき情報だと確信しています。

(小西聖子(こにし たかこ)教授の「トラウマの心理学 心の傷と向きあう方法」より部分抜粋、また相談機関などの情報を付与させて頂きました。)

主にあって
ごとう ひでたか

No.1739 2007/02/16(Fri) 19:42:50

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / Aja 引用

ブログ拝見させていただきました。私の身近には今現在そのような被害にあっている人はいませんが、情報を得ておくことはとても必要だと思いました。ありがとうございました。個人的にも勉強してみたいと思います。

クリスチャンになりたての頃、友人(クリスチャンではない)と話をしていて、「クリスチャンは苦しいことも神様からの試練だと思って感謝して受け取るんだ」というようなことを言ったらその友人が突然怒りだし、弟が難病で若くして亡くなったばかりだったらしく、「そんなの感謝できないよ!」とののしられました。わたしはごめんなさい知らなかった、無神経なことを言ったねとあやまるしかなく、彼女は「あやまらないでよ。信じてるんでしょう?」とさらに感情的にぶつかってきました。おそらく彼女自身、弟の死の意味がわからず苦しんでいて、助けてほしかったんだと思いますが、怒りをぶつけられたことで萎縮してしまい、神様のことやキリストの愛を分かち合うということはできませんでした。冷静に彼女の心を聞いてあげる
こともできず、ただただあやまることしかできませんでした。もう10年近く前のことですが…。

まずは苦しむ人の隣人になることなのでしょうね(それはそう簡単なことではありませんが)。神様のことを口で語るよりも、キリストの愛をもってただその人のそばにい続けることの方が重要でしょうね。そうなれるように人間的にも信仰的にももっともっと深められなければと思います。

「役に立ちたい」という歌の歌詞とても素晴らしいですね。世の暗闇の力に圧倒されそうになりますが、光である神様を信じ続けていきたいです。

No.1747 2007/02/16(Fri) 22:03:51

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / 昌夫(管理人) 引用

ごとうさん、書き込みどうもありがとうございます。

もうしわけないのですが、この掲示板のルールにより、URLは削除させていただきました。ごとうさんのブログの内容に問題があるということではありません。ご了承ください。どうか、ごとうさんのCENSORED・DV・虐待などの被害者のための働きが、主の愛と力によってなされますように。

Ajaさんが書かれたように、苦しんでいる人がいたら、神さまのことを口で語るよりも、まずキリストの愛をもって黙ってその人のそばにいることをしたいです。そのときに、ごとうさんのブログに書かれた情報をキリスト者が持っていたら、神さまがその知識を使ってくださるだろうと思います。

No.1749 2007/02/17(Sat) 00:18:29

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / ごとう ひでたか 引用

Ajaさん、昌夫さん、コメント感謝です。
ルール違反と知らずUrlをのせてしまったこと、大変失礼しました。ネットの(そして当掲示板の)お陰でこうした情報が、たくさんの方たちに一度に共有できるようになり、非常にうれしく思います。
私たち一人一人のできることはわずかですが、がんばっていきましょう。どうぞこれからもよろしくお願い致します。
ごとう

No.1798 2007/02/21(Wed) 19:16:46

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / 昌夫 引用

ごとうさん、こちらこそよろしくお願いいたします。ルールについてご理解していただいて、ありがとうございます。

ブログを拝見させていただいて、ルールに従って、CFIの公式な協力者として、ごとうさんのブログのURLを下記に書き込みます。

http://afg2.blog74.fc2.com/

僕の場合はがんばると、自分の力に頼ってしまうことが多く、良いことをしているつもりが、まわりの人たちを傷つけることが多かったです。それで、僕の日本での牧師は「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10、口語訳ー日本聖書教会)という聖句を示してくださいました。僕はルカ10:38−42のマルタのようになっていたと思います。

どうか僕たちがマリヤのようにイエスさまの足もとでみことばを聞き、イエスさまが命じられたことだけを、がんばって、イエスさまの力でできますように。お導きくださいませ。

No.1801 2007/02/21(Wed) 22:54:11

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / ごとう ひでたか 引用

昌夫さん、ajaさん
すばらしいコメントを頂いているので、小職のブログで共有させていただいてもよろしいでしょうか?
その際は「CFI掲示板より」と明記し、リンクを貼らせていただくようにします。
もし差し支えあるようでしたら、ご連絡くださいね。2日ほど待ち、特にお二人から反対がなければ、掲載させて頂こうと思います。

主にあって
ごとう

No.1808 2007/02/22(Thu) 12:17:13

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / 昌夫 引用

ごとうさん
ブログで共有していただくことを感謝します。僕の書きこみについては、問題ありません。

No.1810 2007/02/22(Thu) 12:43:41

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / Aja 引用

差し支えは全然ありませんので、あのような文章で役立つのでしたらどうぞ。
ごとうさんのブログ、お気に入りにいれましたので時々のぞかせていただきますね。

No.1814 2007/02/22(Thu) 21:49:11

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / ごとう ひでたか 引用

Aja さん、昌夫さん

お二人とも、ご協力感謝します。

Ajaさんのコメントは、No.1747を、昌夫さんのコメントは(Url表示などにつき、前後の関係が他の読者に分かりづらい為)No.1749

「…Ajaさんが書かれたように、苦しんでいる人がいたら、神さまのことを口で語るよりも、まずキリストの愛をもって黙ってその人のそばにいることをしたいです。そのときに、ごとうさんのブログに書かれた情報をキリスト者が持っていたら、神さまがその知識を使ってくださるだろうと思います。」

という部分を引用させていただければと思います。


他スレでも、お二人の温かい支えの手が、コメントを通して感じられます。丁寧に教えを説き、忍耐を持ってキリストの愛を示すのは、時に大変な苦労を伴うことと思いますが、がんばって下さい。

これからも顔を出させてもらいます。よろしくお願いしますね。

主にあって
ごとう

No.1819 2007/02/23(Fri) 19:17:32

Re: CENSORED・DV・虐待などの被害者のために / 昌夫 引用

ごとうさん、暖かい励ましをどうもありがとうございます。

どうかイエスさまがごとうさんの働きを祝福してイエスさまに近づけ、ごとうさんを大いに用いてくださいますように。

No.1820 2007/02/23(Fri) 21:09:39
C.S.ルイスの生涯を描く映画 / 昌夫 引用

最近映画になったナルニア国物語の作者C.C.ルイスの生涯を、特に彼の結婚を通して描いた1993年の映画「永遠の愛に生きて」 

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10716/index.html

を見ました。邦題は、映画の愛の部分を強調していて、原題のShadowlandsは、「影の国」という感じで苦しみと神の愛という映画の影の部分を強調しています。アンソニー・ホプキンスがC.S.ルイスを好演しています。

ルイスは母の死という苦しみを克服して信仰を持って、神がなぜ苦しみを使われるのか分かったと思って「痛みの問題」という本を書いたと思います。僕はまだこの本を読んでいないけれど、「痛みは神のメガホン」というようなことが、よく他の本に引用されています。映画でも、この本からの引用のセリフが多くあるようです。

この映画は伝記映画なので、筋を書いても問題ないと思うので、以下、筋を中心に書きます。

映画の前半で、ルイスは愛する母を失った苦しみをもう一度味わうことを恐れて、本当に深いところでは人と深くかかわれない、という問題に自分で気がついていない。アメリカからルイスの書いた本に関しての文通をしたジョイという女性が来て、彼女が法律上イギリスにとどまれるというように、ルイスは戸籍上の結婚をします。

ところがジョイがガンで余命が長くないことを知ったとき、ルイスは自分がジョイを愛しているのに、本当には深く関われなかったことに気づき、ジョイに本当のプロポーズをして神の前で結婚します。ジョイが死んで、ルイスは神が本当に苦しみに意味を持たせているのか疑うようになりますが、「痛みは幸福の一部だ。」というジョイの言葉を実感するようになります。

「悲しみをみつめて」という本が、ジョイを失った後に、その悲しみを見つめてルイスが書いた本だと思います。近いうちに、「痛みの問題」とこの本を読んでみたいと思います。

No.1794 2007/02/20(Tue) 23:00:21

Re: C.S.ルイスの生涯を描く映画 / 沙耶香 引用

HPを開いてあらすじを読んでみたが、あまりよく意味がわからないですね・・
でも永遠の愛って素晴らしいですね・・・

No.1796 2007/02/21(Wed) 11:08:38

Re: C.S.ルイスの生涯を描く映画 / Aja 引用

映画「ナルニア国物語」とてもおもしろかったです。冒険ものとしても楽しめたし、信仰の面でも感じるところが多かったです。
CSルイスの生涯を描いた映画もよさそうですね。今度レンタルビデオで探してみます。

でもルイスさんの本は難しいです。日本語訳が難解なのかどうかわかりませんが…。
昌夫さんが以前掲示板でおすすめしてくれたのでルイスさんの本を読んだのですが、頭と心になかなか入ってこなくて最後まで読めませんでした。
映画をみた後にでももう一度挑戦してみようかと思います。

No.1800 2007/02/21(Wed) 22:04:21

Re: C.S.ルイスの生涯を描く映画 / 昌夫 引用

イエスさまの愛は永遠であることが素晴らしいです。

ナルニア国物語の映画は、シリーズになるらしいので、楽しみです。僕は子どものときに「ナルニア国物語」の全7巻を夢中になって一気に読んだことを覚えています。

C.S.ルイスの本は、他には「天国と地獄の離婚」「悪魔の手紙」「キリスト教の精髄」を読みましたが、それぞれ読みやすく書いてありました。「痛みの問題」はテーマのために難解にしか書けなかったのかもしれません。

No.1802 2007/02/22(Thu) 03:20:46
ヨハネ15章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの15章残りを読みます。

14節の
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
が印象に残りました。

15節に
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
とあるが、
クリスチャンは大体の人がイエス様のしもべと言うことないです?イエス様の友だと言う人いないと思うけれど・・・

17節に
あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
とあります。クリスチャン同士は愛し合って互いに励ましあい、お互いクリスチャンとして成長していかないといけないですね・・・

18節の
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
はどういう意味だろうか?世があなたがたを憎むってどういうことだろうか?世ってこの世の中のことでしょ?うーん・・・・分からない・・・・

22節の
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
はどういう意味だろうか?何だかこんがらがる。

24節に
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
とあるが、何でだれも行ったことのないわざを示したら憎まれるのだろうか?むしろ喜ばれるのではないだろうか?

No.1783 2007/02/19(Mon) 11:30:08

Re: ヨハネ15章残り / 昌夫 引用

>クリスチャンは大体の人がイエス様のしもべと言うことないです?イエス様の友だと言う人いないと思うけれど・・・

僕はここを読んで「私はイエスさまの友人です。」と声に出して宣言することがあります。これは、確か、アメリカのクリスチャンが書いたベスト・セラーの本に、そうすることを薦めていたので、始めました。これ以外のときに、「イエスさまの友です。」と言ったり書いたりしたことは記憶にないですね。

>クリスチャン同士は愛し合って互いに励ましあい、お互いクリスチャンとして成長していかないといけないですね・・・

どうか、罪が入ってこないように、イエスさまの聖い愛で愛し合えますように。

18節は、この世に属する、信仰を持っていない人たちが、イエスをCENSOREDほどに憎んだように、僕たち信仰者も憎むようになることをイエスが言われています。たとえばヨハネ21章18-19節で、使徒のペテロが憎まれて殺されることをイエスが預言されました。

22-24節は、イエスがこの世に来て、生まれながらの盲人の目が見えるようにするなどの、ほかの誰も行ったことのないわざを行ない、ユダヤ人たちに話されたのに、多くのユダヤ人(特にリーダーたち)はイエスを十字架にかけてCENSOREDほどに憎みました。イエスはわざによって、はっきりご自分が神の御子であることを示されたので、イエスを憎むことは、父なる神を憎むことと同じことになります。ユダヤ人たちがイエスを憎んだことによって、25節にあるように、詩篇35:19、69:4にあるように、ダビデが理由なく憎まれたということと似たことがイエスに起こりました。つまり神が同じ型をダビデとイエスに使われて(タイポロジー)、このようなことが起こるように計画された、ということが究極的な理由です。これは、神のご計画の側からの説明です。人間の側からの説明をすると、ヨハネ7章7節にあるように、イエスがこの世に属する信仰のない人たちの行いの悪いことを明らかにされるので、イエスを憎みます。人間は自分の罪が明らかにされると苦しいので、イエスを憎みます。

No.1785 2007/02/19(Mon) 12:40:07

再ヨハネ15章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの15章残りを読みます。

22―24節・・・何だか難しいですね・・・

15節に
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
とありますが、父から聞いたことをみなあなたがたに知らせたらなぜ友だということになるのだろうか?

16節の
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
が印象に残りました。

26節の
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊がくるとき、その御霊がわたしについてあかしします。
とはどういう意味だろうか?御霊ということばはよく使うが一体なんだろうか?

No.1788 2007/02/19(Mon) 20:40:30

Re: ヨハネ15章残り / 昌夫 引用

14-15節で、イエスの弟子が「友人」と呼ばれるのは、「しもべは主人のすることを知らないからです。」とイエスが説明されています。たとえば、詩篇で出てきた、ユダ王国を攻めてエルサレムを滅ぼしたバビロニアの国の王(ネブカデネザルという名です)は、主に使われたという意味で主の「しもべ」と旧約聖書で呼ばれることがあります。しかし、ネブカデネザルは、その時点で主への信仰を持っていたわけではなく、自分が主に使われているということも知りませんでした。

御霊という言葉がよく出てきますが、聖霊のことです。父と子と聖霊で、三位一体の神ですが、その聖霊です。

26節の「真理御霊がくるとき」とは、ペンテコステのときの聖霊降臨のとき、のことです。「御霊がわたしについてあかしします。」とは、聖霊が信仰者たちに、イエスが救い主であって、われわれの罪のために死なれたことを示される、ということだと思います。これは、ヨハネ14章26節でイエスが言われたことと、深く関連したことだと思います。

No.1789 2007/02/20(Tue) 04:52:35

Re: ヨハネ15章残り / 沙耶香 引用

ヨハネ14章26節・・・
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
へーーイエスが救い主であって、私たちの罪のために死なれたことを示されるのは聖霊なんだ・・・

No.1791 2007/02/20(Tue) 11:04:07

Re: ヨハネ15章残り / 昌夫 引用

>ーーイエスが救い主であって、私たちの罪のために死なれたことを示されるのは聖霊なんだ・・・

そうです。沙耶香さんがイエスさまを信じたとき、聖霊さまがお示しになったのです。人間は自分でイエスさまを信じる力を持っていません。

No.1792 2007/02/20(Tue) 14:52:37
ヨハネ15章12節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ15章12節までを読みます。

2節の
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶ為に、刈り込みをなさいます。
はどういう意味だろうか?どういうたとえなんだろうか?

7節の
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。が印象に残りました。

No.1770 2007/02/18(Sun) 07:23:27

Re: ヨハネ15章12節まで / 昌夫 引用

詩篇80篇の8-16節のように、旧約聖書ではイスラエルがぶどうの木にたとえられることが多かったのですが、1節にあるようにイエスがまことのぶどうの木です。

2節はクリスチャンが枝です。実を結ばない枝が取り除かれる、とはどういう意味か、いろいろな説があります。僕の考えでは、クリスチャンでもイエスのみことばに聞き従わないものは、やがて自分から信仰を捨てて、イエスにとどまることができないということだと思います。農夫が実を結ぶ枝を刈り込むということの意味については、ほぼ意見が一致しているようです。クリスチャンでイエスのみことばに聞き従うものは、神の国のために用いられて成果をあげます。そういうクリスチャンに、父なる神は試練を与えられ、訓練されて、さらに多くの成果をあげるようにされます。

No.1775 2007/02/18(Sun) 12:13:12

再ヨハネ15章12節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ15章12節までを読みます。

私には試練や困難が相当ありますが、神の国のために用いられるために訓練してくれているのだったら嬉しいです。でもいつもいつも怒涛のごとく困難ばかり降り注いできてもう生きづらいのです。

5節の
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
が印象に残りました。

10節に
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
とあるが、戒めをすべて守るのは非常に難しいですね・・・私のように怒涛のごとく困難が押し寄せてくる上に体調精神状態もよくないと、つぶやきたくなりますし、暴力ふるってくる、いじめてくる人を恨みたくもなります。
なかなかそういうことをされて感謝できないです。

No.1780 2007/02/18(Sun) 20:19:02

Re: ヨハネ15章12節まで / 昌夫 引用

>私には試練や困難が相当ありますが、神の国のために用いられるために訓練してくれているのだったら嬉しいです。

試練や困難にあうと、そのような苦しみにあうことを許された全知全能の「神さまをうらみたく思ったり、神さまが全知全能であることを否定したくなる誘惑が強くなります。沙耶香さんは今までそういう誘惑に打ち勝ってきて、イエスさまのもとにとどまっておられるのだから、実を結ばないで取り除かれる枝ではなくて、実を結ぶ枝ですね。父なる神さまが刈り込みをなさっている間は苦しく生きづらいでしょうが、もっと多く実を結ぶように、沙耶香さんを訓練されているので、将来に神の国のために大いに用いていただけると信じています。

>つぶやきたくなりますし、暴力ふるってくる、いじめてくる人を恨みたくもなります。

そういう気持ちになるのは人間として当然だと思います。詩篇のダビデのように、神さまを信頼して、そういう気持ちを正直に神さまに告白してぶつけていれば、沙耶香さんのなかのイエスさまが、そういう気持ちから救い出してくださると信じます。

No.1781 2007/02/18(Sun) 23:04:34

Re: ヨハネ15章12節まで / 沙耶香 引用

暴力振るわれて、ぶつぶついいながら教会にきたんだと牧師に言うと、
そこでぶつぶつ言わずに感謝することがポイント・・ぶつぶつ言っていると恵から遠のくんだといわれました。
でもなかなか、暴力振るわれて、いじめられて、それを感謝するなんてことできないです。
逃げて後でぶつぶつ言っています。
神様イエス様どうか私を救い出してください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.1784 2007/02/19(Mon) 11:34:32

Re: ヨハネ15章12節まで / 昌夫 引用

>そこでぶつぶつ言わずに感謝することがポイント・

これは、暴力を受けたこと自体を神さまに感謝するように、ということですか?僕は、暴力を受けたことも他のこととともに働かせて益としてくださることを神さまに感謝するようにするのが良いと考えますが、いろいろな聖書解釈が可能だと思います。機会があったら牧師に確認してみてください。

No.1786 2007/02/19(Mon) 12:49:26

Re: ヨハネ15章12節まで / 沙耶香 引用

うちの教会ではすべてのことについて感謝しなさいと聖書で書かれているから、いいことだけでなく悪いことも感謝しなさいといわれます。
暴力振るわれたり、いじめられたりしたらつぶやきたくなるがそこで感謝するとそれを益としてくださるという考え方らしい。

No.1787 2007/02/19(Mon) 20:21:39
マタイによる福音書  / 前田 引用

人を裁くな 7章3節・・・・新共同訳
あたしゎここが何より好きです

No.1764 2007/02/18(Sun) 01:11:50

Re: マタイによる福音書  / 前田 引用

34歳の求道中です
ルーテル教会に行きたいと思います

No.1765 2007/02/18(Sun) 01:15:36

Re: マタイによる福音書  / 昌夫 引用

7章3節のところ、さばいてはいけない、というとても大切なことを、イエスさまは「自分の目の中の梁」とユーモラスな表現されて言われたと思います。前にも書いたように僕は5-7章の「山上の説教」が好きなのですが、7章1-3節は特に素晴らしく、また重要だと思います。今、読んでいる本で、7章24-27節の山上の説教の結論部で、「聞いて」「行う」ことが、知恵であるということを書いてあり、心に響きました。

僕の息子は大学4年のときに近所のルーテル教会で礼拝していたので何回か一緒に行きました。日本でも友人がルーテル教会で礼拝しているので一緒に礼拝したことがあります。2つの教会は同じルーテル教会でもずいぶん礼拝の仕方が違うので興味深く思いました。

前田さんは求道中ということで、復活されたイエスさまと何らかの意味で出会って信仰をいただけると素晴らしいですね。

どうか、前田さんがイエスさまと出会って、深い信仰をいただけますように。

No.1766 2007/02/18(Sun) 05:00:55

Re: マタイによる福音書  / 沙耶香 引用

今日は礼拝日です。
前田様もルーテル教会でイエス様と主にあって礼拝できるといいですね・・・

No.1774 2007/02/18(Sun) 08:06:05
ヨハネ14章17節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネ14章17節までを読みます。

2節に
私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
の場所を備えに行くって、何の場所かな?

10節に
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言う言葉は、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、御自分のわざをしておられるのです。
とあるが、じゃイエス様も私たちと同じなんですね。私たちも良い行いはイエス様が中におられてイエス様がしておられるのです。イエス様も父上が中におられるからなんて、私たちと同じなのかな?

16節に
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助けぬしがいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。
とあるが、脚注にそれは聖霊だと書いてあるが、でもいつも助けぬしイエス様がともにおられると教会でもクリスチャンも言っているが、何でこんなときだけ聖霊が出てくるんだろうか?
このイエス様と聖霊様と神様との役割分担がよく分からない。だって一つなんでしょ?うーん?考えていると余計に分からなくなってくる・・・・

No.1737 2007/02/16(Fri) 12:12:17

再ヨハネ14章17節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ14章17節までを読みます。

3節の
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをおらせるためです。
はやっぱり、わたしのいるところにおらせることが一番幸せなことだと思っているからでしょうかね。

13節の
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
が印象に残りました。

14節に
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。とあるが、
すごく心強いですね・・・だってイエスの名によって何かを求めたらそれをしましょうとあるんですよ。嬉しいですね・・

No.1741 2007/02/16(Fri) 21:13:17

Re: ヨハネ14章17節まで / 昌夫 引用

2節は、弟子たちと信仰者のために天国での場所を備えてくださる、ということだと思います。

10節ですが、イエスが父なる神におられ、父なる神がイエスにおられるので、イエスと父はひとつです。僕たち信仰者の中にも聖霊を通してイエスがおられるので、似ている点があります。でも、イエスは創造主であって僕たちを造られた完全なる神であり、僕たちは造られた不完全な人間なので、いろいろ違った点ももちろんたくさんあります。例えばイエスは真理ですが、人間はイエスにいくら近づいていっても真理そのものになるわけではありません。

14節、本当に心強いイエスの約束ですね。沙耶香さんは、「イエスの名によって」というのはどういう意味だと思いますか?

16節の「助け主」のもともとのギリシア語はパラクリートで、慰め手と訳されることもあることばです。日本語の訳では「救い主」と似ていますが、違うことばです。イエスは救い主で、聖霊は助け主と、イエスと聖霊がひとつでも役割が違います。3つの違う人格(神学では位格といいます)と役割を持った父と子と聖霊がひとつである、という三位一体は人間には理解が不可能と思います。

イエスが十字架にかけられて人間を救われたのが、過越しの祭りのときです。その後で、復活されて天に昇られてから、助け主である聖霊がペンテコステの祭りのときに多くの信仰者に降臨されました。

No.1753 2007/02/17(Sat) 02:23:45

Re: ヨハネ14章17節まで / 沙耶香 引用

イエスの名によっての意味?うーん、何気なく言っていたので考えていなかったですね・・・
どういう意味だろうか?全知全能の造り主創造主のイエス様のお名前によってだから全世界を制覇している、もうこれ以上のお方はいないという人からの名前によってだから、お祈りが聞かれやすいからじゃないかな?
いや、全く分からないです。

ふーん、助けぬしである聖霊が降臨された・・・うーん、よく分からないけれど、偉大なイエス様は分かりようがないということで・・・

No.1755 2007/02/17(Sat) 09:37:46

Re: ヨハネ14章17節まで / 昌夫 引用

「イエスの名によって」祈るとは、キリスト者がイエスへの信仰によってイエスと一体となって祈る、という意味だと思います。イエスと一体となって祈るには、イエスを信頼してイエスの戒めを守って、イエスだけが父なる神への道であることを認めて祈る必要があると思います。

イエスが十字架にかかられて、3日後に復活され、40日の間、弟子たちに現れた後、天に昇られました。「使徒の働き」の1章9節を読んでおいてください。それから1週間後くらいに、五旬節(ペンテコステ)の祭りのときに、聖霊が降臨されました。「使徒の働き」の2章1-4節を読んでおいてください。

No.1768 2007/02/18(Sun) 06:25:20

Re: ヨハネ14章17節まで / 沙耶香 引用

ふーん、いつも何気なくイエスの名によってと言っていたけれど、今後はそういうことを思って言います。

使徒1章9節・・・
こういってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
使徒2章1―4節・・・
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。

No.1773 2007/02/18(Sun) 08:02:52
ヨハネ14章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネ14章残りを読みます。

19節に
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
とありますが、この時代にはイエス様はみなの前で見えていたのですかね?今はイエス様はお姿を見せられないですよね?

20節に
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
とあるが、その日っていつのことだろうか?いつもそんなことは頭にあると思うのだが・・・何か特別な日があるんだろうか?

21節に
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。
とありますが、もっともっとイエス様を私に現してもらいたいです。

22節に
イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちには御自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」
とあるが、どういう意味だろうか?
何かそういうことがあったのだろうか?こんな抽象的な言い方では分からないです。

30節に
わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配するものがくるからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。とあるが、
この世を支配するものとはここでもサタンのことだろうか?

No.1756 2007/02/17(Sat) 10:10:22

再ヨハネ14章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの14章残りを読みます。

22節の
イスカリオテでないユダって誰だろうか?

23節の
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところにきて、その人と共に住みます。が印象に残りました。

26節の
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
は、どういう意味だろうか?聖霊がイエス様が話したことを思い起こさせてくださるの?何だか意味不明ですね・・・

27節の
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
のあなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。が印象に残りました。

28節の
「わたしは去っていき、また、あなたがたのところにくる。」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
はどういう意味だろうか?イエス様が父なる神様のところに行き、またあなたがたのところに戻ってくるという感じのことだろうか?あまりよく分からない・・・

No.1763 2007/02/17(Sat) 20:25:26

Re: ヨハネ14章残り / 昌夫 引用

18−19節を読むときに、イエスは人間としてこの世に約33年おられ、十字架にかかって死なれ、3日後に復活され、40日間弟子たちに姿を現されてから天に昇られ、天国で父なる神の右に座られたこと、その1週間後くらいに聖霊が降臨されたこと、いつかイエスが再臨されること、を覚えておくことが大切だと思います。18節の「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」は、たぶん復活のときに、イエスが戻ってこられることを言っておられると思います。

19節ですがイエスの姿を普通にこの世で見ることができたのは、この世に約33年おられた間です。十字架の3日後復活された後に40日間この世におられたとき、イエスの使徒や信仰者たちはイエスを見たのですが、信仰を持っていない人たちは、イエスを見ることができなかったという意味だと思います。たぶん、姿は見えていても、十字架で死んだイエスだと認識することができなかった、ということだと思います。弟子たちでさえ、復活したイエスを見ても、すぐにイエスだと分からないことがありました(ルカ24章13-32節)。

20節の「その日」とは、十字架の3日後の復活の日だと思います。

22節の「イスカリオテでないユダ」とは、ルカ6:16と、使徒1:13に出てくる「ヤコブの子のユダ」だと思います。12使徒の中に、イスカリオテでないユダと、ヤコブの子のユダの2人、ユダという名の人がいました。

26節の背景として、イエスの弟子たちは、イエスの復活を見て、聖霊の降臨があるまでは、イエスの教えをよく理解できていなかったということがあります。聖霊の降臨の後、聖霊が弟子たちにイエスの教えを思い出させるだけでなく、理解できていなかった深い意味も解き明かします。

イエスは、弟子たちのもとを去ることを言われているので、弟子たちは悲しんでいました。28節で、「もしわたしを愛しているなら」とあるのは、この時点では、まだ本当には、弟子たちはイエスを愛すことができていなかったからです。もし、イエスを愛しているなら、イエスが父なる神のもとに戻られることを喜んだはずでした。

No.1769 2007/02/18(Sun) 07:22:01

Re: ヨハネ14章残り / 沙耶香 引用

へーー、イエス様って人間としてこの世に33年もおられたんだ?知らなかった。

ルカ24章13-32節・・・
16節に
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかったとある。
31節に
それで、彼らの目が開かれ、イエスだと分かった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。とあります。

ルカ6:16・・・
ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
使徒1:13・・・
彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
うん、ユダは二人いるようですね・・・

No.1772 2007/02/18(Sun) 07:52:18
ヨハネの福音書11章残り / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書11章残りを読みます。

32節の
マリヤは、イエスのおられたところに来て、お目にかかると、その足元にひれ伏していった。「主よ。もしここにきてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」はどういう意味だろうか?
ここにってどこにくるんだろうか?どうしてイエスがくると死なないのだろうか?

44節に
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出てきた。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
とあります。ラザロは生き返ったのですね・・・
死んで4日もたち体臭が立ち込めていたのに、生き返った・・・今でもお葬式のときに祈ったらよみがえることがあるのだろうか?

53節の
そこで彼らは、その日から、イエスをCENSORED為の計画を立てた。が印象に残りました。
イエスは殺されてもよみがえるのに、そんなことをしても無駄なのに・・・

No.1701 2007/02/11(Sun) 07:15:30

再ヨハネの福音書11章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書の11章残りを読みます。

33節の
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
と続く34節の
言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」が印象に残りました。得に、霊の憤りを覚え、こころの動揺を感じて、言われたというところが印象に残りました。

50節の
一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。
の一人の人が民の代わりに死んでというのはイエス様が十字架にかけられたことを言っているのかな?

No.1703 2007/02/11(Sun) 20:55:12

Re: ヨハネの福音書11章残り / 昌夫 引用

32節の「ここ」とはベタニヤのことです。ラザロが病気になったとき、イエスはユダヤ人のリーダーたちの迫害から逃れてヨルダン川の東の地方におられました(ヨハネ10章39-40節)。マリヤは、イエスがベタニヤにおられたら、ラザロの病気を癒されたろうから、ラザロは死ななかった、ということを言っています。

33-35節でイエスは涙を流されました。沙耶香さんは、なぜイエスが泣かれたと思いますか?

39−44節で、ラザロが死んで4日もたって死臭が出るようになったころに生き返ったので、人々は、イエスの奇蹟の力を知り、多くの人々がイエスのことを信じました。6節で、イエスがラザロの病気のことを聞かれてから、2日間、ヨルダン川の東にとどまっておられたのは、死んでから2日で生き返っても、「死んだと思ったが死んでいなかったのだろう。」と思う人々がいるからだと思います。

現代でも、神は死んだ人を生き返らせる奇蹟の力を持っておられます。それで現代の日本で、葬式のときにクリスチャンが祈って死んだ人が生き返ったら、多くの人々が信仰を持つようになると思いますか?

49-50節で、ユダヤ人の大祭司のカヤパは「意図しない預言」をした、と言われています。カヤパは、イエスをCENSORED、ローマに攻められないようにするほうが、ユダヤの人々にとって、得だ。」ということを意図して言っています。しかし、神は、「イエスの十字架での死によって、ユダヤの人々が救われる。」ということを大祭司が言うようにされました。

No.1704 2007/02/11(Sun) 22:34:57

Re: ヨハネの福音書11章残り / 沙耶香 引用

あまりよく分からないが、愛するラザロが死んだからではないかな?と思います。
続く36節に
そこで、ユダヤ人たちは言った。「御覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」とあるので、愛するラザロが死んだからではないか?と思うのですが・・・

うん、そうですね・・・39―44節の管理人さんの意見、私もそう思います。2日で生き返っても、本当は死んでいなかったんだと言われたらそれまでですよね。

お葬式のときにクリスチャンが祈って生き返ったら多くの人が信仰をもつようになるか?・・・
お葬式の日も死んで4日くらい経過していたら信仰を持つようになるのではないだろうか?と思うけれど・・・
でもそういうこと聞いたことないから、奇跡の力をあまり信じないのだと思います。
そういうことがあればイエス様の全知全能の力を信じる人がもっと出てくると思います。

No.1706 2007/02/12(Mon) 12:33:13

Re: ヨハネの福音書11章残り / 昌夫 引用

そうですね。もうすぐご自分がよみがえらせると知っておられても、愛するラザロが死んだことを悲しまれたと思います。でも、33節と38節に「憤りを覚え」とあることから、ただ、悲しまれただけでなく、死の原因となる人間の罪に怒りを覚えられた、ということもあると思います。

僕はクリスチャンがお祈りして現代の日本で死んだ人が4日くらい経過してよみがえっても、多くの人々が信仰するようになるとは思いません。ほとんどの人々は、死んだと思ったのは何かの間違いで、本当は死んでいなかったのだろう、とか、そういう風に考えると思います。

No.1708 2007/02/12(Mon) 23:01:46

Re: ヨハネの福音書11章残り / 沙耶香 引用

じゃ、何で昔の人は4日くらい経過してよみがえったら、多くの人が信仰をもつようになったのですか?
今の人と昔の人と違うのですか?

No.1709 2007/02/13(Tue) 08:28:16

Re: ヨハネの福音書11章残り / 昌夫 引用

>じゃ、何で昔の人は4日くらい経過してよみがえったら、多くの人が信仰をもつようになったのですか?

昔の人たちは、科学的な知識はあまり持っていなかったかわりに、目に見えない霊的な世界が存在することはよく知っていました。今の日本人の多くは、科学的な知識を多く持っているかわりに、目に見えない霊的な世界が存在することさえよく知らない人が多いと思います。例えば僕がそうでした。科学的な説明があると、それで安心してしまって、さらに深い霊的な意味を考えることをしない日本人が多いと思います。これは、世界的には日本は特殊だと思います。例えばアメリカ人はクリスチャンが多いし、そうでなくとも、霊的なことに深い興味を持っている人が多いと思います。

No.1725 2007/02/15(Thu) 05:14:46

Re: ヨハネの福音書11章残り / 沙耶香 引用

うん、でも学識を積めば積むほど論より証拠というか、科学的な根拠に基づくようになるんですよね?非科学的なことは認めないのです。
そういうところがあるのは認めます。うん、なかなか難しいですね・・・

No.1746 2007/02/16(Fri) 21:32:50

Re: ヨハネの福音書11章残り / 昌夫 引用

>うん、でも学識を積めば積むほど論より証拠というか、科学的な根拠に基づくようになるんですよね?非科学的なことは認めないのです。

そうですね。ここに大きな落とし穴があります。科学は、繰り返し起こることしか研究しないので、キリストの復活のように歴史上一回しか起こらないことは、科学の研究の対象にはなりません。ところが、科学の対象が何であるかということを深く考えず、科学知識がなまはんかにあると、キリストの復活というようなことは非科学的だから嘘だ、という考えをしてしまいがちです。科学自体は、正しく使えば、神さまに近づいていくための素晴らしい道具になるはずなのですが、科学の力は強いだけに、人間が正しく使うのは難しいのです。

ぼくの父は現役の生物学者ですが、キリストを信じ、去年の11月にバプテスマを受けました。

No.1748 2007/02/16(Fri) 23:51:37

Re: ヨハネの福音書11章残り / 沙耶香 引用

へーーー、管理人さんのお父様って現役の生物学者だったんだ?教授さんだとは知っていたけれど・・・
やっぱりかえるの子はかえるだね。
頭脳明晰は引き継がれるんだね。

学識を積んでいながら、イエス様を信じておられるなんて素晴らしいですね・・・・

No.1758 2007/02/17(Sat) 10:17:36

Re: ヨハネの福音書11章残り / じんない 引用

>ぼくの父は現役の生物学者ですが、キリストを信じ、去年の11月にバプテスマを受けました。

本当に素晴らしいことですね。僕もとても嬉しいです。

No.1761 2007/02/17(Sat) 14:24:33

Re: ヨハネの福音書11章残り / 昌夫 引用

じんないさん、お久しぶりです。ともに喜んでいただいて嬉しいです。

父は生物学者で進化論を信じているし、僕が2003年にキリストを信じて父と話したときは父は全くキリスト教に興味を持っていませんでした。それから、神さまの不思議なわざでキリストを信じるようになりました。父は86歳と高齢だし、研究で多忙なので、僕が父の証を書くつもりで、いつかこの掲示板にも書き込みたいと思っています。

No.1767 2007/02/18(Sun) 05:12:18

Re: ヨハネの福音書11章残り / じんない 引用

>父は86歳と高齢だし、研究で多忙なので、僕が父の証を書くつもりで、いつかこの掲示板にも書き込みたいと思っています。

楽しみにしています。科学者は宗教的になれないと思っている人と出会うことがあります。生物学者で信仰を持っていらっしゃるというのは、そのような考えを持つ人に対してもとても力強い証になると思います。

No.1771 2007/02/18(Sun) 07:33:05
ヨハネ13章18節まで / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書の13章18節までを読みます。

1節の
さて、過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分のときがきたことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
はどういう意味だろうか?

2節に
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
とあるが、そのころから悪い心は悪魔(サタン)が入れていたんですね・・・

10節に
イエスは彼に言われた。「水浴したものは、足以外は洗う必要がありません。全身清いのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
とありますが、水浴したものは全身清いのです。と断言しておきながら、みながそうではありません。といっているのはどうしてだろうか?

18節の
わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだものを知っています。しかし聖書に「わたしのパンを食べているものが、わたしに向かってかかとを上げた。」と書いてあることは成就するのです。
はどういう意味だろうか?
私のパンを食べているものがわたしに向かってかかとを上げた???さっぱり分からない・・・

No.1718 2007/02/14(Wed) 10:07:05

Re: ヨハネ13章18節まで / 昌夫 引用

1節は、12章23節で、イエスが、十字架の時が来たことを知られたことから、イエスが3-11節にあるように弟子たちの足を洗って愛を示されたことを書いていると思います。

2節ですが、ユダが悪い心を持っていたので、それが隙となって悪魔に悪い思いを入れられたのだと思います。

10節で、「みながそうではありません」とイエスが言われたのは、11節にあるように、裏切り者のユダはきよくなかったからだと思います。ユダは本当の信仰を持っていなかったので、きよめられていなかったということだと思います。

18節の「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。」とあるのは、詩篇41篇9節の引用です。詩篇41篇を読んでみてください。この詩篇はダビデが病気になったときに、敵だけではなく、ダビデのパンを食べた友人までもが、ダビデに敵対したことを嘆いています。「かかとを上げる」が具体的にどういう行為かは分かりませんが、敵対する行為を意味しています。神はダビデ王とダビデの子孫であるイエスに同じような型を使われます。神は「王に対する友人の敵対」という型を使われて、「ダビデに対する友人の敵対」と、「イエスに対する12弟子の一人のユダの裏切り」ということを起こされました。このように、神が旧約聖書に書いてある型がイエスに使われるとき、新約聖書では「聖書に書いてあることが成就する」と言います。これをタイポロジーといいます。普通の預言の成就という意味とは違っているので、区別することが大切だと思います。

No.1719 2007/02/14(Wed) 12:18:28

Re: ヨハネ13章18節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ13章18節を読みます。

詩篇41章・・・読みました。
この18節のところの管理人さんの説明難しすぎて、わけがわからない。

7節に
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
はどういう意味だろうか?水で足を洗うという行為があとでどういう風に分かるようになるのだろうか?

14節の
それで、主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗いあうべきです。
が印象に残りました。

No.1720 2007/02/14(Wed) 20:03:50

Re: ヨハネ13章18節まで / 昌夫 引用

7節ですが、主イエスが弟子たちの足を洗うことによって、主イエスがご自分を低くして弟子たちに仕える行為をされました。このことは、主イエスが十字架にかかってご自分を低くされることによって、人間の罪の赦しを得られる行為を指し示していると思います。主が十字架でご自分を低くされて弟子たちや僕たちを愛される行為は、理解しがたいことで、弟子たちは、全く理解できていませんでした。しかし、十字架の後のイエスの復活と、ペンテコステの聖霊の降臨の後、弟子たちは、理解するようになりました。

>この18節のところの管理人さんの説明難しすぎて、わけがわからない。

ちょっと説明を変えてみます。旧約聖書に書いてあることが「成就する」というときに、2つの違う成就のしかたがあります。

1.未来に何かが起こることが預言されていることが成就する。例えばイザヤ53章5節にある、キリストは「私たちのそむきの罪のために刺し通される。」という預言は、キリストが十字架にかけられて、成就しました。

2.旧約聖書の時代に起こったことと、似たようなことが、起こる。例えば、民数記21章5-9節で、青銅の蛇を人々が見上げると毒蛇にかまれた人も生きました。これは、未来に何かが起こることを預言しているわけではありません。でも、イエスを見上げると生きることと似ています。もうひとつの例としては、マタイ2章15節で、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」というホセア11章1節に書かれたことが成就したとあります。ホセアは、未来に起こることとして、このことを書いたのではなく、イスラエルに起こったことが書いたのです。それと似たことが、幼いイエスがエジプトから出ることで、起こりました。

No.1728 2007/02/15(Thu) 06:00:15

Re: ヨハネ13章18節まで / 沙耶香 引用

ふーん、何だかやっぱり難しいですね・・・聖書の理解なんていつできるんだろうか?
私が聖書の箇所を誰かに聞かれて説明できる日はいつなんだろうか?気が遠くなりますね・・・・

No.1743 2007/02/16(Fri) 21:23:57

Re: ヨハネ13章18節まで / 昌夫 引用

ペテロやヨハネはもともと猟師で、特に聖書の知識が多い学者だったわけではありませんが、神さまが知恵を与えられました。沙耶香さんにも聖書の箇所を人に説明する知恵がいずれ与えられるのかもしれないし、全然違うことで、神さまが用いられるのかもしれません。

No.1751 2007/02/17(Sat) 00:29:21

Re: ヨハネ13章18節まで / 沙耶香 引用

うん、そうですね・・聖書の箇所を人に教えることができなくても駄目な人だとは限りません。
そりゃーそういうことができる人は素晴らしいけれど、でもまた別のことでイエス様が用いてくださるかもしれません。なんにしろ、イエス様が用いてくだされば素晴らしいのです。

No.1757 2007/02/17(Sat) 10:12:45

Re: ヨハネ13章18節まで / 昌夫 引用

>なんにしろ、イエス様が用いてくだされば素晴らしいのです。

そうですね。永遠の神の国のために、いろいろ違う素晴らしい仕事があります。

No.1759 2007/02/17(Sat) 10:52:24

Re: ヨハネ13章18節まで / じんない 引用

>なんにしろ、イエス様が用いてくだされば素晴らしいのです。

アーメン。素晴らしい信仰ですね。

No.1760 2007/02/17(Sat) 14:20:51

Re: ヨハネ13章18節まで / 沙耶香 引用

じんない様、お久しぶりですね・・・
私の信仰はまだまだだが、イエス様にもっともっと信仰を深くするように手助けしてもらいながら・・・
アーメン・・・

No.1762 2007/02/17(Sat) 20:00:21
(No Subject) / Aja 引用

お久しぶりです。沙耶香さんヨハネをだいぶ読み進んでいますね!がんばっていますね。私は最近あまり聖書を読めていませんでした…。

先日、線路内に入り込んだ女性(CENSOREDしようとしたのか?)を助けようとして警察官が電車にはねられて重症を負い、一週間後に亡くなった事故があり、テレビニュースでもたびたび報道されていました。女性も大怪我をしましたが命はとりとめたようです。(私がいつも利用している電車で、その日も事故を起こした列車の直前の電車に乗っていました)。
自分に危険が迫っても一歩もひかずに、女性を見捨てて自分だけ逃げることもせず、最後まで助けようとしたその警察官の勇気ある行動に多くの人が心うたれていました。

私にも命をかけて助けてくれた人がいた、ということを思いました。イエス様の十字架の死がこの私のためであった、ということをもっと深く知りたいと思う今日この頃です。

No.1738 2007/02/16(Fri) 18:40:57

Re: (No Subject) / 沙耶香 引用

本当お久しぶりですね・・・Ajaさんどうしているかな?と思っていました。元気で何よりです。

昨今の警察官の不祥事には目に余るものがある中で人を救う為に自分の命を惜しまない警察官がまだいたんだと思うだけで元気が出ます。
そういう、素晴らしい警察官がもっともっと増えて悪を退治していって欲しいと思います。

本当イエス様は私たち一人一人のために命をかけて十字架にかかって死なれました。主の愛永遠に・・・

No.1740 2007/02/16(Fri) 20:31:01

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

警官が女性を見捨てなかったように、イエスさまも僕たちを見捨てなかった。イエスさまは僕たちの罪のために死なれたので、僕たちが十字架にかけて殺したのと同じなのに、僕たちを愛してくださる。

どうか、僕たちがより強い実感をもって、より深くこのことを理解できますように。

No.1754 2007/02/17(Sat) 07:28:29
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