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ヨハネ13章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書13章残りを読みます。

20節の
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れるものは、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れるものは、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
が印象に残ったというか、三位一体の神様という感じでいいですよね・・・

31節の
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
と続く、32節の
神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
はどういう意味だろうか?うーん???何でユダが出て行ったときに、人の子が栄光を受けるのだろうか?何だか意味不明である。

続く、33節の
子供達よ。わたしはいましばらくの間、あなたがたと一緒にいます。あなたがたはわたしを探すでしょう。そして、「わたしが行くところへは、あなたがたはくることができない。」とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
も意味がわからない。情景が見えない。

36節に
シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今はついてくることができません。しかし後にはついてきます。」
とあるが、どういう意味だろうか?今はついてくることができないけれど、後にはついてくるところ???どこだろうか?天国のことだろうか?

37節の
ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについていくことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
はどういうことだろうか?だってペテロは裏切り者でしょ?あ・・・違うのか。裏切り者はユダだった。あーもー何が何だか分からない・・・・

38節の
イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、というのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしを知らないと言います。」はどういう意味だろうか?ペテロがイエスのために命を投げ出すというのはうそだということなのかな

No.1729 2007/02/15(Thu) 12:40:17

再ヨハネ13章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネ13章残りを読みます。

21節の
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたの一人が、わたしを裏切ります。」が印象に残りました。
得に霊の激動を感じたというところが・・・・

後半は分からないところが多くて、もう一度読んでも分からなくて何だか掴み取れない。

No.1732 2007/02/15(Thu) 21:13:17

Re: ヨハネ13章残り / 昌夫 引用

12章では、20−22節で異邦人がイエスのところに来たことが引き金となって、イエスが「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と宣言されました。31節では、ここでは、さらにユダが出て行ったことによって、ユダの裏切りによって、イエスが捕らえられ十字架にかけられるという一連の出来事が始まったので、「神は人の子によって栄光をお受けになりました」と言われと思います。

32節で、「ただちに」とあるのは、十字架の時のことだと思います。十字架にイエスが上げられたとき、この世的には最悪の恥辱を受けられたけれども、神の国での最高の栄光を、同時に受けられたということだと思います。

33節では、イエスがもうすぐ天国に昇られるので、すぐには、弟子たちはそこに行くことはできないことを言われたと思います。弟子たちは、まだイエスとともに十字架にかけられて、天国で栄光を受けるだけの心の準備ができていないので、その意味では、7章33−34節と8章21節でのユダヤ人のリーダーたちと変わらない面がある、いうことだと思います。

36節で、イエスは、ペテロが、今はまだイエスについてきて十字架に一緒にかかって天国の栄光を受けることができないが、後になって、ペテロはそれだけの信仰を持つようになることを言っておられると思います。

37−38節で、ペテロは12弟子のリーダーであることを覚えておいてください。意識の上では、ペテロはイエスのためにいのちを捨てることができると思っていたと思います。しかし、本当にイエスが捕らえられたとき、ペテロはイエスのためにいのちを捨てるどころか、イエスを知らないと3度も言ってしまいました。人間は意識ではできると思っていることも、できないことが多いです。ある意味では、ペテロはイエスに嘘を言ったことになります。イエスはそのことを知っていながら、ペテロを愛してリーダーに選んでおられました。ここでヨハネ18章16−18節と25−27節を読んで、イエスが捕らえられたときに、ペテロがイエスの弟子ではないと言ってしまったことを読んでおいてください。次にヨハネ21章15−19節を読んでみてください。イエスを3知らないと言ってしまったペテロが、復活されたイエスに「わたしを愛しますか」と聞かれたとき、「私はあなたを愛します。」とは言えずに「私があなたを愛することは、あながご存知です。」と言った気持ちを思います。沙耶香さんは、彼がどういう気持ちだったと思いますか?

No.1734 2007/02/16(Fri) 04:13:55

Re: ヨハネ13章残り / 沙耶香 引用

ヨハネ18章16―18節・・・
しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出てきて、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。
すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんなものではない。」といった。
寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこにたって温まっていた。ペテロも彼らといっしょに、たって温まっていた。

25―27節・・・
一方、シモン・ペテロは立って、温まっていた。すると人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんなものではない。」と言った。
大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでも言うのですか。あなたはそのであの人といっしょにいました。」
それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。

ヨハネ21章15―19節・・・
読みました。
うーん、私はペテロが実行できなくても意識の中ではイエスのためにCENSOREDると思っていたことを知っているでしょ?と言いたいのだと思います。

No.1735 2007/02/16(Fri) 11:53:08

Re: ヨハネ13章残り / 昌夫 引用

>うーん、私はペテロが実行できなくても意識の中ではイエスのためにCENSOREDると思っていたことを知っているでしょ?と言いたいのだと思います。

なるほど、21章15-16節の興味深い読み方だと思います。たぶん、これからヨハネの福音書読み進んでいって、21章を読むときには、沙耶香さんが別の感じを持って読まれるような気がします。楽しみにしておきます。

No.1736 2007/02/16(Fri) 12:05:44

Re: ヨハネ13章残り / 沙耶香 引用

えーー?そんな風に言われるとわけがわからなくなります。だっていろんな読み方があるんだったら、何が言いたいのかさっぱり分からないじゃないですか?
うーん、またまた混乱してきます。

No.1742 2007/02/16(Fri) 21:17:50

Re: ヨハネ13章残り / 昌夫 引用

>だっていろんな読み方があるんだったら、何が言いたいのかさっぱり分からないじゃないですか?

ヨハネ21章15−19節で、ペテロがどういう気持ちだったかは、聖書に書いていません。だから、「彼はこういう気持ちだった。」と断言することは人間にはできないと思います。人間には分からないことが多いので、人と自分の感じ方が違ったり、自分の感じ方もだんだん変わってきても、全く混乱する必要はないと思います。人間は分かるはずもないことでも、分かるだろう、と思うから混乱するのではないか、と思います。

No.1752 2007/02/17(Sat) 01:25:25
ヨハネの福音書12章残り / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書12章の残りを読みます。

31節の
今がこの世の裁きです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
はどういう意味だろうか?今がこの世の裁きって最後の審判のときが裁きのときじゃなかったの?

32節の
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せられます。
はどういう意味だろうか?
地上に上げられる・・・十字架にかけられるときにイエスに関心を示すということだろうか?

38節の
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを、信じましたか。また主の御腕は誰に現されましたか。」といった預言者イザヤのことばが成就するためであった。
はどういう意味だろうか?預言者イザヤ・・・どういう人だろうか?

40節に
「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らを癒す、ということがないためである。」
はどういう意味だろうか?最後のそしてわたしが彼らを癒すということがないためであるというのが分からない。。。だって何で否定するのだろうか?イエスの御業を否定するのだろうか?

43節に
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
とあるが、クリスチャンでもそういう人が多いので、純粋に神からの栄誉を愛せるようになりたいですね・・・

No.1710 2007/02/13(Tue) 08:56:22

再ヨハネの福音書12章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの福音書12章残りを読みます。

33節の
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
はどういう意味だろうか?どのような死に方で死ぬのか?って十字架にかけられたことを言っているのだろうか?

34節の
そこで、群集はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子はあげられなければならない、と言われるのですか。その人の子とは誰ですか。」
はどういう意味だろうか?
何だかちんぷんかんぷんである。

No.1713 2007/02/13(Tue) 20:22:57

Re: ヨハネの福音書12章残り / 昌夫 引用

20−36節は、異邦人がイエスのもとに来たことによって、「時」が来たことをイエスが告げることがテーマになっています。

20−22節で、異邦人であるギリシア人がイエスのところに来ました。このことで、イエスは、十字架の時が来たことを知られたと思います。

31節は、完全に最後の審判が来る前に、すでに、さばきは、ある意味でもう始まっていることを書いていると思います。「この世を支配する者」とは、サタンのことです。

32節の「地上から上げられる」とは、3章14節、8章28節のように、ヨハネの福音書では、イエスが十字架につけられることです。イエスが十字架につけられる時が、栄光を受ける時でもあります。ここで「すべての人」とは、イエスを信仰しない人たちは含まず、「イスラエルの人たちだけでなく、異邦人も」信仰に引き寄せられる、という意味だと思います。20−22節で、異邦人がイエスのもとに来たことを引き金にして、この説教が始まったからです。

33節で、著者のヨハネが、32節のイエスのことばは、十字架に上げられてイエスが死なれることを言ったことを解説しています。

34節で、群集が「律法で」と言っているのは今の旧約聖書のことです。旧約聖書のイザヤ書9章7節などに、キリストは永遠に生きることが預言してあるのを群集は知っていました。ところが、群集がキリストであろうかと思っているイエスが、「人の子はあげられなければならない」という意味のことを言われたので、混乱しています。イエスはご自分のことを「人の子」とよく言われました。イエス=人の子=キリストであるなら、人の子が上げられて死ぬと、キリストとして永遠に生きられないではないか、と群集は考えたと思います。

37−50節は、不信仰がテーマになっています。ここで出てくる預言者イザヤは、イエスのお生まれになる700年以上前に神さまに預言者として召されて、イザヤ書を書いた人です。特にイザヤ書の40−55章は、イエスのことをはっきり預言していて、第5の福音書と言われるほどです。イザヤ52章13節から53章12節までを読んでみてください。イザヤがイエスのことを、「苦難のしもべ」として詩の形式で預言しています。

38節は、イザヤ53章1節を引用しています。多くのユダヤ人がイエスが現れても信じないことも、イザヤによって、何百年も前に預言されていました。

40節は、イザヤ6章10節の引用です。主が不信仰なユダヤ人たちを、霊的に盲目にされ、心をかたくなにされ、彼らがイエスの救いによって癒されることのないようにされたことを書いています。

ただし、ローマ11章25−28節に、このようにイスラエル人の一部がかたくなになったのは、一時的なことであることが書いてあります。

No.1715 2007/02/14(Wed) 02:26:49

Re: ヨハネの福音書12章残り / 沙耶香 引用

本当にこの世はサタンの支配下にありますよね?
政治も高齢者や障害者やいわゆる弱者をいじめる雲行きですね・・・・
生活保護の削減を進めていて生活水準の低い世帯をいじめているのに、石原都知事は息子に一泊26万円のホテルを公費で負担させた。
何だか弱者が住みにくい世の中だ。イエス様イエス様どうかこの世の中を弱者が住みやすい世の中に変えて下さい。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

イザヤ52章13節から53章12節・・・読んでみましたが、イザヤがイエスのことを「苦難の僕」として詩の形式で預言しているということは分かりませんでした。

イザヤ53章1節・・・
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、誰に現れたのか。

イザヤ6章10節・・・
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

何だかやっぱりいろいろ難しいですね・・・・

No.1722 2007/02/14(Wed) 21:27:13

Re: ヨハネの福音書12章残り / 昌夫 引用

>イザヤ52章13節から53章12節

ここだけ読んでも難しいですね。少し説明しておきます。52章13節で、「わたしのしもべ」とありますが、「わたし」は父なる神で、「しもべ」がキリストだと思います。

キリストは永遠の王なのですが、イザヤはキリストがさげすまれ、苦しむことを預言しています。52章13節ー53章12節の「彼」がキリストですが、例えば、53章3節でキリストがさげすまれ、5節で、私たちの罪のために刺し通され、7節で、痛めつけられることが預言されています。

No.1727 2007/02/15(Thu) 05:43:22

Re: ヨハネの福音書12章残り / 沙耶香 引用

何だか余計に分からなくなるんだけれど・・・(失礼に当たったらごめんなさい。)

No.1744 2007/02/16(Fri) 21:28:55

Re: ヨハネの福音書12章残り / 昌夫 引用

僕の説明が悪いのかもしれないけれど、基本的には神さまが、沙耶香さんはイザヤ書のこの部分はまだ分からなくて良いと思っておられるのだと思います。だから気にしないで、もっと自分の心に響いてくる聖書の箇所に時間をかけて読んでください。

No.1750 2007/02/17(Sat) 00:25:12
ヨハネの福音書12章25節まで / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書12章25節までを読みます。

1節に
イエスは過ぎ越しの祭りの6日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
とあります。イエスの御業を代表する御言葉ですね・・・

3節に
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油3百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
とあるが、昔はこういう風に高価な香油を塗る習慣があったのだろうか?

13節の
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によってこられる方に。イスラエルの王に。」
のホサナってなんだろうか?

24節の
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もしCENSOREDば、豊かな実を結びます。
はどういう意味だろうか?
一粒の麦が地に落ちる・・・うーーん???分からない・・

25節の
自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って永遠のいのちにいたるのです。
はどういう意味だろうか?この世でその命を憎むものはそれを保って永遠のいのちにいたる???分からない・・・

No.1705 2007/02/12(Mon) 11:52:36

再ヨハネの福音書12章25節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの福音書12章25節までを読みます。

9節の
大勢のユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やってきた。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
が印象に残りました。
私もその当時にいたら死人の中からよみがえったラザロを見たくなると思うからだ。

No.1707 2007/02/12(Mon) 19:54:27

Re: ヨハネの福音書12章25節まで / 昌夫 引用

ここの 1−8 節と、マタイ26章 6−13 節、マルコ14章 3−9 節、ルカ7章 36−50 節を比べてみてください。まず慣習として、イスラエルには、預言者や王の頭に油を注ぐ儀式がありました。ルカ7 章の44− 45節を読むと、当時の通常の客に対するもてなしの慣習として、足を洗う水を与えて口づけするということがあったことが分かると思います。 46節を読むと、さらに客の頭に油をそそいでもてなすこともあったようです。イエスの足を高価な香油で塗ることは、イエスに対する最高の尊敬と愛を表す行為だとまたマタイ 26章 12節を読むと、当時に香油を塗ることは、埋葬のときにする慣習でもあったことが分かります。

ルカ 7章のできごとは、マタイとマルコとヨハネの福音書にあるベタニヤのマリヤがイエスに油を注いだこととは違うときのことだと思います。マタイとマルコはほぼ同じ描写ですが、ヨハネの福音書は、異なる点もあります。それでも全体的に見て共通点が多いので、同じできごとの異なる観点からの描写と思います。

13 節の「ホサナ」は「どうぞ救ってください」という意味です。

24 節は、たとえです。一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって、新しい麦が生えて多くの麦の実を結びます。イエスが十字架の上で死なれることによって、多くの人々が永遠のいのちをいただきます。

25 節は、キリスト者も、バプテスマによってイエスとともに十字架にかかることによって、死んで新しく生まれかわり、神の栄光のために働くという実を結びことを書いていると思います。25節の最初の「自分のいのち」はこの世でのいのちのことです。「それを失い」とは、永遠のいのちを失う、ということだと思います。次の「この世でそのいのちを憎む者」は、この世での自分を含めて多くの人々の罪に満ちた生活を憎む人のことだと思います。そういう人は、かえっていのちを保ち、イエスを信じて永遠のいのちに至ります。

No.1711 2007/02/13(Tue) 08:56:22

Re: ヨハネの福音書12章25節まで / 沙耶香 引用

私の12章残りのスレッドと管理人さんのレスが秒数まで同じ時間に書かれています。素晴らしい偶然ですね・・・

マタイ26章 6−13 節、マルコ14章 3−9 節、ルカ7章 36−50 節
ヨハネの福音書の12章1―8節とマタイとマルコは同じように感じるが、ルカだけ何だか少し違うような気がするけれど結局は同じことなんでしょうね・・・
読み比べるのって結構難しいし頭が混乱しますね・・・

やはり私たちクリスチャンはこの世的な自分の栄光を求めずにイエス様の栄光だけを見上げないといけないんだけれど・・・なかなか罪が邪魔してそうなれない・・・
私は病気が邪魔して・・・

No.1712 2007/02/13(Tue) 20:10:16

Re: ヨハネの福音書12章25節まで / 昌夫 引用

>素晴らしい偶然ですね・・・

意味は分からないけれど、神さまの不思議なわざを感じます。

>ルカだけ何だか少し違うような気がするけれど結局は同じことなんでしょうね・・・

ルカも同じことを違う観点から書いている可能性もありますが、僕は、ルカだけが違うときの違う出来事を書いていると思います。

>読み比べるのって結構難しいし頭が混乱しまね

神学者の間でもいろいろ違う意見があるほどで、とても難しいと思います。

>なかなか罪が邪魔してそうなれない・・・私は病気が邪魔して・・・

自分の力では、罪の力にも病気の力にも勝ちようがないですが、祈りの中で、求めていけば、必ず神さまが、僕たちを変えて、神さまの栄光だけを求める人間にしてくださいます。

No.1714 2007/02/14(Wed) 01:24:25

Re: ヨハネの福音書12章25節まで / 沙耶香 引用

管理人さんのNo.1711と私のNo.1710が同じ時間を刻んでいると言いたいのです。
神様イエス様どうか私がイエス様の栄光だけを求める人間に変えてくださいますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.1723 2007/02/14(Wed) 21:31:44

Re: ヨハネの福音書12章25節まで / 昌夫 引用

>管理人さんのNo.1711と私のNo.1710が同じ時間を刻んでいると言いたいのです。

沙耶香さんが、そういう意味で書かれたことは理解したのですが、神さまが、どういうわけで、そういう風にされたのか、意味が分かりません。でも、秒まで同じというのは不思議で興味深いですね。

No.1726 2007/02/15(Thu) 05:34:14

Re: ヨハネの福音書12章25節まで / 沙耶香 引用

うん、秒まで同じっていうのがすごいですよね?これも主による恵かもしれないです。

No.1745 2007/02/16(Fri) 21:30:26
マタイを読む / 前田 引用

・・・・何度目の通読になるでしょうか、覚えるほどに難しい・・・・

No.1730 2007/02/15(Thu) 15:04:40

Re: マタイを読む / 沙耶香 引用

パソコンが壊れて使えなくて、接続しなおしても使えなくて、もう一度接続しなおしたら使えるようになりました。うっれしい。
ごめんなさい。関係のないこと書き込みまして・・・・
前田様は相当マタイが好きなのですね・・・

No.1731 2007/02/15(Thu) 20:08:07

Re: マタイを読む / 昌夫 引用

前田さんは、マタイのどういうところが特に心に響きますか?

僕はマタイは山上の説教のところと、旧約聖書で書いてあるいろろな出来事と似たことがイエスさまにも起こるタイポロジーと、預言の成就が多く書いているところが特に好きです。

No.1733 2007/02/16(Fri) 01:00:16
歩みを変える / 前田 引用

今までの歩みは変えられないが
これからの歩みは変えられる
新しい聖書を読む
マタイ1:1

No.1716 2007/02/14(Wed) 02:27:20

Re: 歩みを変える / 昌夫 引用

そうですね。過去のことは自分の力では変えることができません。でも、イエスさまを信じる者は永遠のいのちをくださるという神さまの約束を今、信じて歩むなら、どのような過去を持つ人にも未来に圧倒的な勝利が約束されています。当時ユダヤを支配していたローマの取税人として、多くのユダヤ人に蔑まれた過去を持つマタイが、遊女のラハブやダビデ王の姦淫の相手のウリヤの妻を含むキリストの系図を福音書の最初に書いたときの気持ちを思います。

No.1717 2007/02/14(Wed) 08:47:07

Re: 歩みを変える / 沙耶香 引用

遊女のラハブやダビデ王の姦淫の相手のウリヤの妻を含むキリストの系図を福音書の最初に書いたときの気持ちってどういう気持ちだったの?

No.1721 2007/02/14(Wed) 20:27:25

Re: 歩みを変える / 昌夫 引用

罪人として多くの人々に蔑まれてきて、自分も罪を犯してきたということを悔い改めたマタイは、キリストの系図を書いたときに、神の罪の赦しということを思って感謝と賛美の気持ちを持ったと思います。ラハブは異邦人の遊女であったので、多くのイスラエル人に罪人として蔑まれただろうと思います。しかしラハブは信仰を持ったので神が罪を赦され、イエスの系図に名前をつらねるという名誉を与えられました。

No.1724 2007/02/15(Thu) 00:33:18
ヨハネの福音書11章28節まで / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書11章28節まで読みます。

4節の
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受ける為です。
が印象に残りました。

25節の
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。
が印象に残りました。私たちはかけがえのない永遠の命をイエス様よりいただきました。そのことへの感謝の気持ちを片時も忘れないようにしたいものです。

No.1698 2007/02/10(Sat) 11:14:01

再ヨハネの福音書11章28節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの福音書11章28節までを読みます。

2節に
このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
とあるが、このラザロは何の病気だったんだろうか?

9節の
イエスは答えられた。「昼間は12時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。と
10節の
しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。
が印象に残りました。

ラザロは死んだとあるが、結局よみがえるのだろうか?

No.1699 2007/02/10(Sat) 20:30:38

Re: ヨハネの福音書11章28節まで / 昌夫 引用

>このラザロは何の病気だったんだろうか?

病名が書いていないから分かりませんが、急に病気になって死ぬような重い病気だと思います。たとえば、肺炎のような病気だと思います。

>ラザロは死んだとあるが、結局よみがえるのだろうか?

これは、11章のつづきを読んでみてください。

No.1700 2007/02/11(Sun) 00:40:02

Re: ヨハネの福音書11章28節まで / 沙耶香 引用

読みました。よみがえりました。
頭痛と腹痛がひどいが、今日もイエス様を礼拝します。きっとイエス様が癒してくださると信じて期待して感謝します。

No.1702 2007/02/11(Sun) 07:17:42
ヨハネの福音書10章22節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書10章22節までを読みます。

1節の
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかのところを乗り越えてくるものは、盗人で強盗です。はどういう意味だろうか?
羊の囲い?何のことだろうか?比喩的表現だろうけれど・・・

3節の
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
はどういう意味だろうか?
何だかよく分からない。

全く分からないので、先々読んでいくと羊の門=イエス様と判明した。でも羊の囲いってなんだろう?羊の門がイエス様だとすると羊の囲いはなんだろう?イエス様の教えかな?
3節の羊はなんだろう?だって羊の門=イエス様なら羊ってなんだろう?じゃこの3節の彼って誰だろう?
うーん???一つ分かってもまた次が分からない・・・・

No.1684 2007/02/08(Thu) 10:29:40

Re: ヨハネの福音書10章22節まで / 昌夫 引用

たとえ話を読むときは、細部は現実と対応しないかもしれないので、細部にこだわらずに、大まかに意味を捉えるようにすると良いと思います。3節の彼とは、羊の牧者です。7節から、羊の門はイエスで、14節から牧者もイエスと考えて良いと思います。「羊の門」とは神の「ことば」としてのイエスで、牧者は、人間として降臨されたイエスかもしれません。羊は信仰者たちだと思います。羊の囲いは、沙耶香さんが思ったようにイエスの教えを表すのかもしれません。あるいは、囲いの中の羊たちはユダヤ人たちで、16節の囲いに属さないほかの羊とは、異邦人と考えることもできると思います。

1節の盗人と強盗は、神の「ことば」を認めないで救いの方法を教える偽教師たちのことだと思います。

No.1685 2007/02/08(Thu) 13:31:55

再ヨハネの福音書10章22節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの福音書10章22節までを読みます。

うーん、いろいろ解釈があって難しいですね・・
ふーん、神の言葉を認めないで救いの方法を教える偽教師たち??って誰だろう??例えば異端宗教の指導者かな?

でも細部に分からないところがいっぱい出てくるともう何が何だか分からなくなり混乱してきます。

10節の
盗人がくるのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ為です。
が印象に残りました。

11節の
わたしは、よい牧者です。よい牧者は羊のためにいのちを捨てます。はイエス様が十字架につけられたことを言っているのだろうか?

No.1686 2007/02/08(Thu) 20:31:02

Re: ヨハネの福音書10章22節まで / 昌夫 引用

>例えば異端宗教の指導者かな?

そうですね。神とイエスに敵対することを教える人たちは偽教師です。

>でも細部に分からないところがいっぱい出てくるともう何が何だか分からなくなり混乱してきます。

聖書の御言葉は、この世のものではないので、分からないことがいっぱい出てきて当然だと思います。今、分かるべきことは神さまが解き明かしてくださるようにお祈りしてから読んで、それでも分からないところは、今は、分からないでも良いということです。今は、気にしないで先を読み進むと良いと思います。

10節は、とても大切なところですね。神さまは、僕たちが永遠のいのちを得、またそれを豊かに持つ目的で、全てのことをされる。時には、僕たちは神さまのされることでこの世で一時的に苦しむことにもなる。偽教師たちは、反対に、一時的には僕たちの楽しみとなるようなことをしてくれることもあるが、彼らの目的は、僕たちを滅ぼすことにあります。イエスさまと偽教師の大きな違いは目的にあると思います。

11節は、沙耶香さんの考えのとおり、イエスさまが、僕たちのために十字架でいのちを捨てられることを言われていると思います。

No.1687 2007/02/08(Thu) 23:45:28

Re: ヨハネの福音書10章22節まで / 沙耶香 引用

うーん?でも偽教師たちの目的は私たちを滅ぼすことなのだろうか?

聖書の御言葉はこの世のものではないの?分からないことがいっぱい出てきて当然だと言ってくれたら私もやり切れます。だって読むたびにわけがわからなくて、自分のとろくささや読解力のなさや人よりいろいろ劣っていることを痛感するし、人に言うと努力が足りないと言われるし、もうもって行き場がなかったんだけれど・・・・そういう風に言われると嬉しいです。

No.1689 2007/02/09(Fri) 10:21:30

Re: ヨハネの福音書10章22節まで / 昌夫 引用

>でも偽教師たちの目的は私たちを滅ぼすことなのだろうか?

偽教師たちの意識している目的は、むしろ人々を自分が救いたい、というようなものであるかもしれません。でも、偽教師は知らないうちであってもサタンのために働いていて、サタンの目的は人々を滅ぼすことです。

>聖書の御言葉はこの世のものではないの?

聖書のみことばは神さまから来たのでこの世のものではないのです。だから努力したら完全に分かるというようなものでありません。

No.1693 2007/02/09(Fri) 11:10:22

Re: ヨハネの福音書10章22節まで / 沙耶香 引用

ふーん、結局は滅びにつながりますね・・・
本当三位一体の神様以外に救いの道はないんだけれど、その道に通じている人はその道が正しいとみんな言うんですよね。

でも聖書はこの世で書かれたものでしょ?なのになんでこの世のものではないの?

No.1696 2007/02/09(Fri) 20:42:52

Re: ヨハネの福音書10章22節まで / 昌夫 引用

>でも聖書はこの世で書かれたものでしょ?

聖書はこの世で多くの人間の著者によって書かれました。聖書の本自体はこの世で人間が印刷したたものであって、本を崇拝していたら、偶像崇拝になってしまいます。しかし、聖書の原書に書かれたみことばは、神が人間の著者を使ってこの世に与えられた、「神のことば」です。完全に人間が書いたものでもあるし、完全に神のことばでもあります。

神の「ことば」であられるイエスさまが、完全に人間であり、完全に神であられることと似ていると思います。イエスさまが、この世に属さないで、天に属しておられるように、聖書のみことばも、この世に属さないで、天に属している、という意味で、「この世のものではない」と思います。

No.1697 2007/02/09(Fri) 23:58:47
ヨハネの福音書10章残り / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書の10章の残りを読みます。

26節に
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
のわたしの羊に属していないとはどういう意味だろうか?クリスチャンではないということだろうか?

29節の
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
が印象に残りました。

38節の
しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じれなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、私が父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。
が印象に残りました。

No.1688 2007/02/09(Fri) 10:16:30

Re: ヨハネの福音書10章残り / 昌夫 引用

>わたしの羊に属していないとはどういう意味だろうか?

27-29節にあるように、父なる神が、イエスに属して、永遠の命を受け取る人々をあらかじめ定められています。その人々には信仰が与えられている、ということだと思います。このように救われる人々はあらかじめ定められていると思います。

ところが、反対のことようですが、信仰を持つ人は、救われるのだ、ということも聖書に書いてあります。例えば38節で、イエスが「わざを信用しなさい。」と言われています。人間に反対のことと思えて、理解が非常に難しいことだけれど、両方ともが真実なのだと思います。

あらかじめ救いが定められているということと、信仰を持てば救われるということの関係には、とても難しいことで、いろいろな議論がされています。

沙耶香さんの牧師に、沙耶香さんの属する教会では、26節をどういう風に解釈しているのか、聞いてみると良いと思います。難解でいろいろな解釈があるところは、自分の属する教会の解釈を、とても大切にすると良いと思います。ただ、解釈はあくまでも人間のすることなので、自分の教会の解釈が絶対だと思うと、偶像崇拝のようになる危険があると思います。

No.1694 2007/02/09(Fri) 11:27:45

再ヨハネの福音書10章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書の10章の残りを読みます。

うーん、理解が難しいですね・・・あらかじめ救われる人は決まっている・・・信仰を持とうとする人も天国に行く人もイエス様が決められているんでしょうね・・・
あまり考えていると頭が混乱してくるので・・・
そうですね・・・牧師に解釈を聞いてみましょう。

25節の
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。
が印象に残りました。
イエスの癒しの御業を私にも現して欲しいものです。

30節の
わたしと父とは一つです。
も印象に残りました。

No.1695 2007/02/09(Fri) 20:39:11
ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書8章28節までを読みます。

12節の
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、
世の光です。わたしに従うものは、決してやみの中を歩
むことがなく、いのちの光を持つのです。」が印象に残りました。

今日は異様に冷えます。この間イエス様が用意してくださった寝袋が役に立ちます。イエス様感謝します。いつもいつもイエス様と一緒だよ。

18節の
わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした
父が、わたしについてあかしされます。
も印象に残りました。父なる神様と子なる神様の関係って難しいですね・・・

22から24節の
そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は「わたし
が行くところに、あなたがたはくることができない。」と言うが、CENSOREDするつもりなのか。
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たの
は下からであり、わたしが来たのは上からです。
あなたはこの世のものであり、わたしはこの世のもの
ではありません。
それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬ
と、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、
わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪
の中で死ぬのです。」
はどういう意味だろうか?何だかわかりにくい。でも何だか深そうで重要な箇所だという気がします。

No.1652 2007/02/01(Thu) 20:11:37

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

22節から24節は、沙耶香さんが感じられたように、とても重要なところだと思うので、ゆっくり考えてみると思います。

22節は、イエスが22節で言われたことへの反応なので、21節をもう一度読んでみてください。ここで、イエスは、イエスを信じないユダヤ人のリーダーたちに語っています。イエスが「私は去って行きます。」と言われました。沙耶香さんは、イエスは、どこに去って行かれると言われたのだと思いますか?

No.1654 2007/02/01(Thu) 23:54:05

再ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度ヨハネの福音書8章28節までを読みます。

21節・・・
イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って
行きます。あなたがたはわたしを探すけれども、自分
の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたはくることができません。」
罪があったらイエス様が彼らの中から去っていくということではないか?と思いますが・・・

3、4節に
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕え
られたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつか
まえられたのです。
とあるが、姦淫の現場とか姦淫の場とか言っているけれど、そういう現場を捕えるなんてなかなか至難の業ではないのかな?情景がよく分からないが、何かほかの意味なのだろうか?

19節の
すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこ
にいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがた
は、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、
あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父を
も知っていたでしょう。」
が印象に残りました。三位一体ということがこのことかな?と思います。

No.1655 2007/02/02(Fri) 12:17:25

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

21節ですが、ただイエスが彼らの中から去って行って、この世の他の場所に行くなら、なぜ「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」と言われたと思いますか?この世でない場所に去られることを言われているかもしれない、ということを考えて、読んでみてください。

3,4節は、姦淫の現場でつかまえられたと思います。そういうことが起こるひとつの例として、中国のチャン・イーモー監督の悲しい映画の「紅夢」を思い出しました。これは、昔の中国で大地主に第4夫人として嫁いだ女性が主人公ですが、夫人たちはあとつぎの息子を産むための機械のように扱われています。そのことで悲しんでいる主人公の唯一の友人となった第3夫人は他の男と姦淫していますが、主人公が酒によったときに、このことをうっかり第2夫人に話してしまいます。第2夫人は、大地主を独り占めにしたいので、下男たちを姦淫の現場に送って、第3夫人を捕まえさせました。

19節は、沙耶香さんが理解されたようにイエスと父なる神が一体であることが表れているところだと思います。

ただし、ここでは、聖霊のことは直接には書いてありませんね。三位一体は、聖書全体をとおして、書いてあることで、どこかひとつの聖書の箇所にはっきり書いてある、ということではありません。

No.1659 2007/02/03(Sat) 00:13:53

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

うーん、そういわれると解釈が難しいですね・・・この世ではないのでしたら天国だろうか?罪がある人はくることができないところだから天国じゃないかな?
何だかいろいろ考えていると頭が混乱してきますね・・・

三位一体は聖書の箇所にはっきり書いてあるということではないの?ふーん、初めて知りました。よくみんなが言っているので書いてあると思っていました。

No.1661 2007/02/03(Sat) 11:27:18

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

>罪がある人はくることができないところだから天国じゃないかな?

うん、そうですね。この世を去って天国に行かれることを言われていると思います。

22節で、ユダヤ人たちはイエスが天国に去っていかれることを言われたことをある程度理解したようです。それで、「CENSOREDするつもりなのか。」と言っています。

23節で、イエスがユダヤ人たちに、「あなたがたがきたのは下からであり、わたしが来たのは上からです。」と言われたのは、どういう意味だと思いますか?

No.1662 2007/02/03(Sat) 12:48:50

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

うーん・・・よく分からないけれど、下からというのは地上からという意味で上からというのは天からという意味だと思うのですが・・・よく分からないです。
理解が難しいですね・・・

No.1663 2007/02/03(Sat) 20:09:59

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

>下からというのは地上からという意味で上からというのは天からという意味だと思う

僕もそういう意味だと思います。ここのように霊的なことは、聖書の中でも特に理解が難しいのではっきりとは分かりませんが、そういう意味と理解しておいて、それほどずれていないだろうと思います。

次の「あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。」

はどういう意味だと思いますか?イエスが、信仰を持っていないユダヤ人のリーダーたちに向かって話しておられる、ということに気をつけて、考えてみてださい。

No.1665 2007/02/04(Sun) 01:11:01

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

うーん??あなた方=ユダヤ人たちはこの世にいるけれど、イエス様は天国におられるという意味・・と言っても、現実にそこにいるんですよね?うーん??でもよく、クリスチャンはこの世の人ではない、天の御国の人だというじゃないですか?そういう観点じゃないかな?と思うのだけれど・・・・
これもよく分からないです・・・・

No.1672 2007/02/04(Sun) 07:01:38

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

うん、そういうことだと思います。僕たちはこの世にいるけれど、天の御国に属しているように、イエスはこの世に降りて来られたときも、天の御国に属しておられました。ユダヤ人のリーダーたちは、信仰を持っていなかったので、この世に属していました。

では、24節でイエスが「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。」言われたとき、「それで」というのは、どういうつながりだと思いますか?

No.1674 2007/02/04(Sun) 08:41:07

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

うーん、分かりづらいがだからとかそういう意味だと思うのだけれど・・・

No.1680 2007/02/07(Wed) 19:54:53

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

そうですね。ユダヤ人のリーダーたちは、この世に属している、だから、自分の罪の中で死ぬ、とつながっていくと思います。24節の最後の文は、イエスのことを信じない人たちは、この世に属しているので罪の中で死ぬ、ということだと思います。

No.1682 2007/02/08(Thu) 03:54:01

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 沙耶香 引用

??罪の中で死ぬというのはどういうことだろうか?罪があるから地獄に行くということだろうか?

No.1691 2007/02/09(Fri) 10:28:51

Re: ヨハネの福音書8章28節まで / 昌夫 引用

罪から救われずに死ぬということなので、たぶん神から切り離されて地獄に行くということだと思います。

No.1692 2007/02/09(Fri) 10:59:46
ヨハネの福音書9章残り / 沙耶香 引用

今朝はヨハネの福音書9章残りを読んでみます。

39節の
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世にきました。それは目の見えないものが見えるようになり、見えるものが盲目となるためです。」と
40節の
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
と続く41節の
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたは罪にはならなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
は、どういう意味だろうか?

No.1677 2007/02/07(Wed) 10:43:58

Re: ヨハネの福音書9章残り / 昌夫 引用

41節ですが、ここで目が見える、見えない、というのは、霊的な意味です。パリサイ人たちは、自分の力で律法を意味も分かっているつもりで、律法をすべて守っているつもりでした。それで、自分たちは律法を守るので、主に祝福される権利があると考えていました。このような態度は、自分が霊的なことをよく分かっている、という態度なので、「私たちは目が見える。」と言っていることにあたります。そういうパリサイ人たちには罪が残るというのは、どういう意味だと思いますか?

No.1678 2007/02/07(Wed) 12:52:12

再ヨハネの福音書9章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書の9章残りを読みます。

何だか苦しい。体調崩していますがイエス様がおられるからきっと大丈夫ですね・・・

自分の力でと思っているところで栄光を主に帰すことをしていないからじゃないかな?と思うけれど・・・でもよく分からないです。

31節の
神は、罪びとの言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
が印象に残りました。

No.1679 2007/02/07(Wed) 19:37:13

Re: ヨハネの福音書9章残り / 昌夫 引用

>自分の力でと思っているところで栄光を主に帰すことをしていないからじゃないかな?

そうですね。誰にでも罪はあるのだけれど、自分は世界のことがよく分かっていて、自分の力で罪の償いをできると思っている人たちには、罪が残ります。自分は霊的に盲目で自分の力では罪の償いをできないと思う人は、主に頼るので、主の働きで罪が贖われて罪が残りません。

No.1683 2007/02/08(Thu) 04:02:31

Re: ヨハネの福音書9章残り / 沙耶香 引用

私は人と比べてこの世的にはいろいろと多々劣っているので、主に頼るしかない人だから・・・
自分の力で何でも進んでいける人は主を知らなくてもいいけれど、私はイエス様がおられないと生きてはいけない。

No.1690 2007/02/09(Fri) 10:23:49
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