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今日はヨハネの福音書2章を読みます。
ガリラヤのカナで婚礼があって、イエス様の母がいてその婚礼にイエス様も弟子も招かれた。 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエス様に向かって告げるとまだ私のときがきていないのでとイエス様は言われたので、手伝いの人たちに母はイエス様の言われることを何でもしてあげてくれと頼んだ。 イエス様が水がめに水をいっぱいにするように命じた。 彼らはそのようにした。 イエス様は彼らに今汲んで世話役のところに持っていきなさいと命じた。 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を飲んだ。 そのぶどう酒を飲んだものが、 誰でも最初は良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだときになると悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。 といった。 それで弟子達はイエス様を信じた。 そののちイエス様は母や兄弟たちや弟子達と一緒にカペナウムに下って滞在されたのち、エルサレムに上られた。 宮の中に、牛、はと、羊を売るものたちと両替人が座っているのをご覧になり、怒り心頭で それをここから持っていけ、私の父の家を商売の家としてはならない と告げた。 そこでユダヤ人たちが あなたがこのようなことをするにはどんなしるしを見せてくれるのですか といった。 この神殿を壊したら三日でそれを建てよう とイエス様は答えた。 イエス様が死人の中からよみがえられたとき、弟子達は、イエス様がこのように言われたことを思い出し聖書とイエス様が言われたことを信じた。 イエス様が過ぎ越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人がイエス様のおこなわれたしるしを見て御名を信じた。 ・・・大体このようなことが書かれていると思うのですが・・・・ |
No.1603 2007/01/26(Fri) 01:38:48
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今朝はもう一度ヨハネの福音書2章を読みます。
管理人さんの解説がないので、分かりづらいですが、もう一度読み直すとそれなりに深まると信じて期待して感謝します。
頭痛が相当します。でもイエス様が取っ払ってくださると信じて期待して感謝します。
何でイエス様は4節で自分の母に あなたはわたしと何の関係があるでしょう。女の方。私のときはまだ来ていません。 とおっしゃったのだろうか?お母さんに何の関係があるのでしょうなんて言うなんて???
イエス様たちはガリラヤのカナというところにいた後にカペナウムに滞在されたんですね、その後エルサレムに上られた。
14-16節で憤慨している。エルサレムが父なるイエス様の家だといっている。これはどういうことだろうか?
20,21節で神殿を壊しても3日で建て直すといっていて、イエスは御自分のからだの神殿のことをいわれたのであると書いてあるが、御自分のからだの神殿って一体何のことだろうか?
24節で イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかったとあるが、弟子達にご自身を任せないとはどういうことだろうか?
25節で また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。 とあるが、これはどういう意味だろうか? |
No.1605 2007/01/26(Fri) 10:19:02
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☆ Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫  |
引用 |
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1−11節の背景として、当時、婚礼のときに、ぶどう酒をきらすのは、新郎の家族が訴訟を起こされる可能性があるほど重大で恥となることだったそうです。マリヤは新郎の家族の親戚だったと考えて良いと思います。
それで、3節で、マリヤは、ぶどう酒のことで、イエスが親戚の新郎の家族を助けてくれるように、イエスに頼んだと思います。 4節は解釈が難しいです。「あなたはわたしと何の関係があるでしょう」とイエスが母に言われ、また、「女の方」と母に呼びかけられました。これは、女の人に尊敬をこめた呼びかけだったそうですが、母に対して、このように言う習慣はなかったそうです。次の「わたしの時」とは、ヨハネの福音書では、イエスが「十字架にかけられる時」という意味です。
だから十字架の時がまだ来ていないので、イエスは奇蹟の力を使って新郎の家族を助けて注目を集めることを、4節では断られたと思います。マリヤを母と認めないような言い方をされたのは、マリヤに、「自分は母だから」という気持ちがあって、それを神であるイエスに頼むときの気持ちとしては、適当ではなかったということだと考えます。5節で、マリヤが母としてより、信仰者としてイエスへの信頼を示されたので、6-9節で、イエスが、奇蹟の力を使われたのだと思います。
14節の「宮」と、16節の「わたしの父の家」は、どちらも、神殿のことです。イエスは、人々が神殿で商売をすることをお許しになりませんでした。
20-21節で、イエスは、十字架上で死なれた後、3日後に復活されます。神であられるイエスが、人間の体の中に入っておられるとき、体には神殿の意味があります。だから、死んで3日後に復活されることを、神殿がこわれて、3日で新しい神殿が建つと表現されました。
23節で多くの人々が、イエスの起こされる奇蹟を見て、御名を信じました。でも、彼らの信仰は深いものではありませんでした。
24-25節で、イエスは全知の力で、エルサレムの人々の信仰が浅いことを、誰にも聞かずに知られました。それで、ご自身を彼らに任せられなかった。ここで具体的に、「ご自身を彼らに任せられなかった」のがどういう意味であるか、よく分かりませんが、彼らのリーダーにならなかった、という意味かと考えます。 |
No.1607 2007/01/26(Fri) 14:46:37
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十字架にかけられるときじゃないと奇跡を表せないというのは変ですね。イエス様はみなから注目を集める為に、奇跡を表していたの? マリヤとイエス様の母子関係ってなんだかよく分かりえないですね・・・ えーーー?イエスが人間の体の中に入っておられるとき、体には神殿の意味があるの?面白いなーー。 |
No.1608 2007/01/26(Fri) 19:35:27
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☆ Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫  |
引用 |
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奇蹟の主な目的は、十字架による救いを示すことです。それで、ヨハネの福音書では、「奇蹟」のことを、「しるし」と書いています。
イエスはお生まれになってから、2章にあるカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられる奇蹟を行われるまで、約30年間、何も奇蹟を行われなかったと思います。2章11節に、これが、イエスの行なわれた「最初のしるし」であったと書いてあるからです。このときから、約2年半くらいの後に、イエスが十字架にかけられます。その十字架が、多くの人に、父なる神の救いのわざであることを示すことが、イエスのされた多くの奇蹟の主な目的です。
>イエスが人間の体の中に入っておられるとき、体には神殿の意味があるの?面白いなーー。
さらに素晴らしいことに、イエスさまの十字架の恵みで、聖霊さまが、僕たち信仰者の中に入っておられるので、キリスト者一人一人のからだは、神殿なのです。 |
No.1612 2007/01/27(Sat) 00:19:25
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奇跡とイエス様の説明は今一ピンとこないですね・・・頭が劣っていてごめんなさい。
えーークリスチャン一人一人の体は神殿なの?じゃ私の体も神殿なの?えーー??面食らっちゃう・・・ |
No.1615 2007/01/27(Sat) 08:23:27
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☆ Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫  |
引用 |
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>じゃ私の体も神殿なの?
そうです。コリント人への手紙第1の3章16-17節と、6章18-20節を読んでおいてください。19節で「宮」とあるのは、神殿のことです。 |
No.1617 2007/01/27(Sat) 08:49:13
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コリント3章16-17節・・・ あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
コリント6章18-20節・・・ 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの 外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分 のからだに対して罪を犯すのです。 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、 神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや 自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
代価を払って買い取られた?という意味がわからないが・・・ でもま、私たちの体は神殿なので、神様の栄光を現しなさいと言いたいのだろう・・・・ |
No.1622 2007/01/27(Sat) 21:15:10
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☆ Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫  |
引用 |
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>代価を払って買い取られた?という意味がわからないが
罪の奴隷であった僕たちは、イエスさまの十字架の上の死という代価を払って、買いとられました。十字架による「罪の贖い」や、「贖罪」という言葉には、このような意味があります。 |
No.1623 2007/01/27(Sat) 22:38:29
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多分前もこういうことどこかで聞きましたね? なかなか頭に入りづらい。すぐ頭に入る人が羨ましいな。 |
No.1628 2007/01/28(Sun) 20:12:35
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☆ Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫  |
引用 |
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>なかなか頭に入りづらい。すぐ頭に入る人が羨ましいな。
エペソ2章10節を読んでください。沙耶香さんは神さまの作品であって、良い行いをするために主イエスさまにあって造られたのです。だから、沙耶香さんに必要なものは、全て与えられています。
だからもし他の人に比べて、何かがなかなか頭に入らなくとも、問題ないのです。そういう能力は沙耶香さんがするように神さまが定めれられた「良い仕事」には今は必要ないということです。もし、将来、必要になれば、求めれば与えてくださいます。
「自分には能力がない」というような考えは、自分を造ってくださった神さまに頭をたれる謙遜というより、「神さまはあなたに十分な能力を与えていない。」というサタンの嘘のほうに頭をたれる自己卑下になりやすいので、注意するようにしたいです。「羨ましい」という気持ちが出てきたときも、同じように注意したいです。 |
No.1629 2007/01/28(Sun) 22:08:00
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エペソ2章10節・・・ 私たちは神の作品であって、よい行いをするために キリスト・イエスにあて作られたのです。神は、 私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いを もあらかじめ備えてくださったのです。
うーん、私は人よりいろんな部分がかなり劣っているし、足りない部分が多いので、どうしても自己卑下、羨望心が強くなります。 神様イエス様どうか私がイエス様に与えられている自分を感謝して受け入れ、自己卑下や羨望心にかられることがないようにしてください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・ |
No.1642 2007/01/31(Wed) 11:52:55
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☆ Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫  |
引用 |
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素晴らしいお祈りだと思います。必ず、主がこのお祈りをかなえてくださることを信じて感謝します。 |
No.1643 2007/01/31(Wed) 13:39:30
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