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ヨハネの福音書9章26節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書9章の26節までを読んでみます。

3節の
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでも
なく、両親でもありません。神の技がこの人に現れ
るためです。
が印象に残りました。だったら私が精神障害者なのも
目や体がふらつき重心が整わないのも、全部神の業が私に現れるためかな?
そろそろ現してくれないかな?待っているんだけれどなー・・・すべての病から解放されて楽になる日がこないかなーーー?辛い日々をすごしているんだけれどなーーー
でもこんなこと言ったら、甘えているだけ、みんな苦しいのに我慢して生きているとか言われそう・・・
でもイエス様はきっと私の本当のところを見てくださっていてそういう勘違いはしないと思うので・・・
ほかの人が何を言ってもいいんだ。。。

No.1664 2007/02/03(Sat) 20:45:44

Re: ヨハネの福音書9章26節まで / 昌夫 引用

9章の生まれつきの盲人は名前が分かりませんが、素晴らしい信仰をいただいて神のわざを現した人だと思います。5章で癒された病人と、いろいろな意味で対称的なので、細かく比べてみると良いと思います。

沙耶香さんの病気や障害は、沙耶香さんの特定の罪が原因になっているのではないと信じています。そして、沙耶香さんが神のわざを現す大きな祝福をいただけると信じています。

ところで、5章で癒された病人は、特定の罪が原因で、病気になっていたと思いますが、それでも、イエスは多くの病人たちの中から、彼をあわれんで選んで癒してくださいました。それなのに、自分を癒してくださった方が誰であるかも聞かなかったようです(5章13節)。9章の盲人は、9章11節にあるように、イエスが癒してくださったと知っていました。5章の病人はイエスに厳しい警告を受けました(5章14節)。9章の盲人は、ユダヤ人の会堂から追放されてしまいましたが、イエスに見つけ出していただき、イエスがキリスト=人の子 であることを教えていただきました(9章35-38節)。

このことから、まず、自分を造ってくださり、自分に食物を与えてくださり、自分を癒してくださり、自分を罪から自由にして救ってくださる方は誰なのか、聞いて知ることが大切だな、と思います。

No.1667 2007/02/04(Sun) 04:07:00

再ヨハネの福音書9章26節まで / 沙耶香 引用

罪のために病気になっている人は今はいるんだろうか?心身ともに健康な人は罪がなくてどこかに病気のある人は罪があるなんてことないと思うけれどなー・・・
そりゃー病気の人の中には罪がある人もいるでしょう。
何だかいろいろ考えていると難しいですね・・・頭が混乱してきます。
でも結局は造り主、癒し主、罪から救ってくださる主、必要を与えてくださる主はイエス様だということは永遠に変わりのない事実だ。

4節に
わたしたちは、わたしを遣わした方の業を、昼の
間に行わなければなりません。だれも働くことので
きない夜がきます。とありますが、何で昼の間に行わないといけないのだろうか?夜でもわざを行うことは可能だと思うんだけれど・・・

私の病や障害や苦しさや辛さも3節のように、神の業がこの人に現れる為だといいんだけれど、いやきっとそうです。時がきたらいずれきっと主イエス様が癒してくださいます。

No.1669 2007/02/04(Sun) 06:37:00

Re: ヨハネの福音書9章26節まで / 昌夫 引用

>心身ともに健康な人は罪がなくてどこかに病気のある人は罪があるなんてことないと思うけれどなー・・・

そうですね。特定の罪がなくても病気になる人がいることは、ヨハネ9章2節にはっきり書いてあるし、まだ沙耶香さんは詳しく読んでいないでしょうか、ヨブ記にもはっきり書いてあります。また、この世的な意味で心身が健康だからといって、罪がないとは限らないことも、聖書に書いてあることだと思います。

>罪のために病気になっている人は今はいるんだろうか?

何か特定の罪のために病気になっている人は今でもいると思います。でも、特定の罪がなくて病気になっている人も今でもいます。だから、病気になっている人が、罪のために病気なのか、そうでないかは、人間の力で分かることではありません。だから病気の人に対して、「あなたは罪のために病気になっている。」というようなことを言わないように注意する必要があると思います。そのようなことをヨブに言ったヨブの3人の友人は、主に厳しく叱られました。

4節の昼と夜というのは、普通の意味ではなく、霊的な意味の昼と夜です。今は、キリスト者が働いていますが、最後のさばきの前に、あまりの厳しい苦しい状況のためにキリスト者がイエスとともにいても働けないほどの恐ろしいときが来るのだと思います。

No.1673 2007/02/04(Sun) 07:37:37

Re: ヨハネの福音書9章26節まで / 沙耶香 引用

うーん、何だか難しいですね・・・

No.1681 2007/02/07(Wed) 19:57:43
永遠の天国 / 昌夫 引用

僕の好きなYMOがCMのためだけに復活して、タイム・トラベルのCMをやっています。

もしタイム・トラベルができるなら、面白いと思うのは、未来にすることで、過去が変わるということ。もしも、永遠の世界には時間がないとすると、時間的には、この世の時間の前に、永遠の世界がある、ということも言えるので、永遠の世界はこの世の過去でもあり、未来でもある。それで、人が信仰を持ったので、未来に永遠の天国に行くというのは分かりやすいけれど、人が信仰を持ったので、ある意味では過去である永遠の世界にも存在する、というのは分かりにくい。でも、「時をかける少女」とか「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」などのタイム・トラベルを考えてみると、少しは分かる気がする。

永遠の天国は、時間に関係なく存在するけれど、僕たちの天国での存在は、この世で信仰を持つかとうかに依存する。そういう、危ういループ的に存在するのだと思います。

神さまは「わたしはある」と言われるように、何にも依存しないで永遠の世界に存在される。この永遠の世界では、いつも神さまは休まれておられるが、そこから自由に時間のあるこの世に出てこられる。

僕たちも、天国に行って休み、自由に時間のある世界に出て働きができるようにされるのだろうと思います。

No.1666 2007/02/04(Sun) 03:27:21

Re: 永遠の天国 / 沙耶香 引用

えーー、管理人さんYMOが好きなの?何だか意外・・・
うーん??私はまだまだ勉強不足だし、時をかける少女やバック・トゥ・ザ・フィーチャーも見ていないので、あまり管理人さんが書かれていることは分からない。

最後の2行のは永遠の天国に行ってからのことですか?
でもだとすると、自由に時間のある世界に出て働きができるようにされるというのはどういう風にですか?

No.1671 2007/02/04(Sun) 06:55:41

Re: 永遠の天国 / 昌夫 引用

>最後の2行のは永遠の天国に行ってからのことですか?

そうです。たとえば、マタイ17章1-3節を読んでみてください。モーセとエリヤは、この世の時間的に言えば、最後の審判の時を待って、黄泉で他の義人たちと悪者たちと一緒に休んでいるはずだと思います。ところが、モーセとエリヤは、最後の審判が終わったあとの天国から来て、高い山の上に急に現われました。

天国には時間がないかどうか、ということも、聖書に書いていないので、よく分かりません。いろいろ考えたり想像できるだけです。

YMOはCMでも使っているライディーンや、ナイス・エイジのような高橋のボーカルの入った曲も好きです。細野晴臣が1969年結成された「はっぴえんど」というロック・グループのメンバーの一人で、僕はこのグループが好きだったのです。「はっぴいえんど」のボーカルの大瀧詠一がソロになって出した「ロング・バケーション」というアルバムは最近、再発売されたと聞いてますが、このアルバムの中の「さらばシベリア鉄道」と「恋するカレン」をカラオケで歌うことがあります。高橋幸弘は、サディスティック・ミカ・バンドというロック・グループにいたのですが、このグループの1973年の「黒船」というアルバムが、僕は今でも大好きです。坂本龍一がソロになってからでは、「戦場のメリー・クリスマス」の映画で使われたフォービドゥン・カラーズの曲とか、Beautyというアルバムとか好きです。

No.1675 2007/02/04(Sun) 09:25:54

Re: 永遠の天国 / 沙耶香 引用

マタイ17章1―3節・・・
それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

へーー何だか相当お詳しいですね・・・うん、YMOのなかにそういうメンバーがいたことは聞いたことあります。

永遠の天国か、行ったことないからいまだ未知数ですね・・

No.1676 2007/02/07(Wed) 10:26:38
ヨハネの福音書8章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書8章の残りを読んでみます。

29節の
わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。
わたしを一人残されることはありません。わたし
がいつも、そのみこころにかなうことを行うからで
す。が印象に残りました。

44節の
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た
者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと
願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真
理に立ってはいません。彼のうちには心理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し
方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、ま
た偽りの父であるからです。
が印象に残りました。

52節の
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊に
つかれていることが、今こそわかりました。アブラハ
ムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなた
は、「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は
決して死を味わうことがない。」と言うのです。
が印象に残りました。

57節に
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。
「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハム
を見たのですか。」とあるが、五十歳になっていないということが何か関係がるのだろうか?

No.1657 2007/02/02(Fri) 20:36:26

再ヨハネの福音書8章残り / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ヨハネの福音書8章残りを読みます。

32節の
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがた
を自由にします。が印象に残りました。
私たちクリスチャンはいつも罪の奴隷ではなくて、イエス様の奴隷でいたいですね・・・

37節の
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。が印象に残りました。
クリスチャンでもイエス様の言葉がうちに入っていない人たくさんいますが、もっともっとイエス様を知りイエス様の言葉を蓄えて、イエス様に近づきたいですね・・・

51節の
まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれ
でもわたしのことばを守るならば、その人は決して死
を見ることがありません。
が印象に残りました。

No.1660 2007/02/03(Sat) 09:48:32

Re: ヨハネの福音書8章残り / 昌夫 引用

32節ですが、31節の後半から「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とありますね。本当に罪の束縛から自由になるためには、どうしても、イエスのことばにとどまってイエスの弟子になることが必要だと思います。一時的に感激したりして、イエスに従うことができても、イエスのことばにとどまることは、自分の力ではとうていできないことだと実感しています。

どうか、僕たちが、イエスさまのみことばにとどまることができますように。

57節ですが、アブラハムはイエスがお生まれになる千年以上も前に死んだ人です。だから、50歳の人間は、アブラハムを見たはずはない、ということです。

58節はとても重要だと思います。最後の「わたしはいる」というところは、日本語では分かりにくいですが、出エジプト記3章14節で、神がモーセに「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われた、「わたしはある」と同じ言い方だそうです。58節で、イエスはご自分が神と等しいことを言われたと思います。59節でユダヤ人はそれを理解したので、神への冒涜と勘違いして、石打ちで殺そうとしました。

No.1668 2007/02/04(Sun) 04:39:19

Re: ヨハネの福音書8章残り / 沙耶香 引用

出エジプト記3章14節・・・
神はモーセに仰せられた。「わたしは、「わたしはあ
る。」という者である。」また仰せられた。「あなたはイ
スラエル人にこう告げなければならない。「わたしは
あるという方が、私をあなたがたのところに遣わされ
た。」と。」

うーん、何だかとても難しいですね・・・

No.1670 2007/02/04(Sun) 06:46:34
ヨハネの福音書6章 / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書6章を読んでみます。

うっわーー相当長いですね・・・・これ読めるのかな?読めなかったら途中でやめることも考えます。

イエスはテベリヤの湖の向こう岸に行かれたが、イエスが病人たちになさったしるしを見た大勢の群れが一緒にいた。
イエスは大勢の人々が自分のほうにくるのを見て、ピリポに、
どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。
といわれた。
するとイエスはピリポに二百デナリのパンでは足りないことを告げた。
ペテロの兄弟アンデレがイエスに
ここに少年が大麦のパン5つと小さい魚を2つ持っていますがこんなに大勢ではどうすることもできないことを告げた。
しかし5千人が満腹になるように奇跡の御技を見せたためみなはイエスのことを預言者だと言った。
イエスが湖の上を歩いて船に近づいてこられるのを見て、弟子達は驚いた。
みながイエスを探している様子を見て、イエスは
あなたがたが探しているのはしるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからで、なくなる食物のためではく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
ということを告げた。
彼らはイエスに
私たちは、神のわざを行うために何をすべきかを聞いた。
イエスは神が遣わしたものを信じることが神の業だと伝えた。
彼らはイエスにあなたを信じるために何をしてくださいますかと問うと、イエスは
モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではなく、私の父は天からのまことのパンをお与えになった。神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与えるものだからだということを告げた。
彼らはイエスにいつもそのパンを私たちに与えてくれと頼んだらイエスは、
私がいのちのパンです。私にくるものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものはどんなときも決して渇くことがない。
しかしあなたがたは私を見ながら、信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
わたしが天から下ってきたのは、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
わたしを遣わした方の御心は、わたしにあたえてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえられることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じるものがみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちを終わりの日によみがえらせます。
と言った。
ユダヤ人たちはイエスに
あなたはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。なのにどうして天から下ってきたと言っているのかと問うた。
イエスは
わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、だれもわたしのところにくることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
父から聞いて学んだものはみな、わたしのところにきます。
誰も神を見たものはありません。ただ神から出たもの、すなわち、このものだけが、父を見たのです。
信じるものは永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。

49節の
先祖は荒野でマナを食べたが死んだというのは何が言いたいんだろうか?
マナを食べているのに餓死したんだろうか?うーん・・・今一ピンとこない。

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが死んだ。
しかし、これは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことはないのです。
わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世の命のため、わたしの肉です。
と告げた。
するとユダヤ人たちはイエスにどういう風にしてその肉を与えて食べさせることができるのかと問うた。
イエスは、
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、わたしのうちに留まり、わたしも彼のうちにとどまります。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きていけるように、わたしを食べるものもわたしによって生きるのです。
このパンを食べるものは永遠に生きるのです。
といわれた。
すると弟子達のうちの多くのものがひどい言葉だ、誰がそんなことを聞いておられようかということを言った。
イエスはそれを知り、
このことであなたがたはつまづくのか。
それではもし人の子がもといた所に上るのを見たらどうなるのか。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。しかしあなたがたのうちには信じないものがいます。
と言い、イエスは初めから、信じないもの、裏切るものが誰であるかを知っていた。
弟子達のうちの多くのものが離れ去っていった。
そこでイエスは12弟子に
まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょうね。
といった。
するとペテロが
あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたを信じています。
といった。
イエスは12弟子達に
わたしがあなた方12人を選んだんではないですか。しかしそのうちの一人は悪魔です。
と告げた。
その悪魔とはユダのことであった。
ユダは12弟子の一人であったが、イエスを売ろうとしていた。
・・・・大体このようなことが書かれていると思うのですが。。。
何だか難しいですね・・・
私はここに書き込むためには何度も読まないと分からない。一度通読して、その後で小分けにして何度も読まないと何を書いているのか分からない。
小分けにしても何を書いているのかよく分からない。
本当に悪戦苦闘している。

No.1633 2007/01/29(Mon) 21:36:05

Re: ヨハネの福音書6章 / 昌夫 引用

沙耶香さん、たくさんの書き込みをありがとうございます。ただ、こういうことが書かれていると思う」の部分は、掲示板には量が多くなりすぎると思います。掲示板には書き込むのは、印象に残ったところ、質問があるところ、だけを書き込むようにしてください。よろしくお願いします。

49節は、マナを食べて生きても、いずれ年をとるなどして皆死んでしまったことを書いています。これに対し、50節にあるように、いのちのパンを食べると、永遠のいのちをいただいて、死ぬことがないのです。

いのちのパンを食べるということは、沙耶香さんは、どういうことだと思いますか?

No.1634 2007/01/30(Tue) 04:46:25

再ヨハネの福音書6章 / 沙耶香 引用

こういうことが書いてあると思うという部分も私がそう思っているだけで、実際には違って思い込んでいるところも多々あると思うのです。
それも修整して欲しいという思いもあります。
それにそれを書き込むことによってまた頭にインプットされるのでより深い理解につながると考えられるのですが・・・

いのちのパンを食べるはイエス様の御言葉を蓄えることとか、信仰を深めることだと思いますが・・・

35節の
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしにくるものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものはどんなときも、決して渇くことがありません。
が相当深く印象に残りました。

63節の
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり、またいのちです。が印象に残りました。

ユダが裏切り者だと気づいていたのに、何でイエスはユダを12弟子に選んだんだろうか?

No.1635 2007/01/30(Tue) 09:24:59

Re: ヨハネの福音書6章 / 昌夫 引用

>それにそれを書き込むことによってまた頭にインプットされるのでより深い理解につながると考えられるのですが・・・

いろいろ良い点があると思いますが、掲示板には適当でないと思います。書かれたときは、メールで送ってください。

>いのちのパンを食べるはイエス様の御言葉を蓄えることとか、信仰を深めることだと思いますが・・・

僕はイエスとの出会いと信仰のことだと思います。40節の「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つこと」と51節の「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」を比べてみてください。「子なる神を見て信じる」者、あるいは、「いのちのパンを食べる」を者は、永遠の命をいただけるということだと思います。だから「イエスに何らかの意味で出会って信仰を持つこと」が、「いのちのパンを食べること」だと思います。

信仰を持つことは、霊的には、「いのちのパン」である「イエスの肉」を食べることで、聖餐式は、この真実と対応した経験をこの世でするための儀式だと考えます。

>ユダが裏切り者だと気づいていたのに、何でイエスはユダを12弟子に選んだんだろうか?

鋭い質問ですね。いろいろな深い意味があるでしょうが、ひとつには、信仰を持っているように見え、主イエスさまに祝福されていると思える人でも、裏切り者である場合もある、という警告だと思います。

No.1636 2007/01/30(Tue) 12:07:41

Re: ヨハネの福音書6章 / 沙耶香 引用

うーん・・・何だか難しいですね・・・(ユダ)

いのちのパンを食べることが信仰を持つことか・・・
うーん、そうですね・・・
でもなかなか難しいですね・・・
何でもかんでも難しいと言っているだけではないのですよ。本当に難しくて私には難しくて理解しがたいから難しいと言っているのです。

No.1640 2007/01/31(Wed) 11:42:20

Re: ヨハネの福音書6章 / 昌夫 引用

そうですね。なぜイエスさまがユダを選ばれたのか、ということも、「いのちのパン」の説教も、かなり難しくて理解しがたいと僕も思います。無限の神さまのことを、有限が理解しても、ほんの一部だと思います。完全に分かるはずがないのに、分かったと勘違いするより、分からないと思っているほうが良いと思います。

No.1645 2007/01/31(Wed) 13:46:33

Re: ヨハネの福音書6章 / 沙耶香 引用

笑・・・うーん、持ち上げ方もあるもんですね・・・
でも私の場合は分からないと思っているだけではなくて、なかなか理解しがたいし頭脳も劣るので、本当にまだまだ理解不能で・・・いつになったら聖書が少しはつかめるようになるのだろうか?先のまだ先の話だ。

No.1658 2007/02/02(Fri) 20:39:32
ヨハネの福音書7章残り / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書の7章の残りを読んでみます。

38節の
わたしを信じるものは、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るように
なる。が印象に残りました。
心の奥底から生ける水の川が流れ出るように・・・という表現が好きです。
詩に使えそう・・・

44節に
その中にはイエスを捕えたいと思ったものもいたが、
イエスに手をかけたものはいなかった。とあるが、
捕えたいと思ってもなぜ捕えなかったのか。

No.1648 2007/01/31(Wed) 19:50:07

Re: ヨハネの福音書7章残り / 昌夫 引用

>捕えたいと思ってもなぜ捕えなかったのか。

44節で人々がどうして、イエスを捕えることができなかったか、ということは、書いていないので分かりません。究極的には、神が、この時点でイエスが捕えられることを許されなかったからで、イエスが十字架にかかる時はまだ来ていなかったからです。ここで30節を読んでみてください。44節と同じようなことが書いてあるので参考になります。

No.1650 2007/01/31(Wed) 23:06:46

再ヨハネの福音書7章残り / 沙耶香 引用

30節・・・
そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけたものはなかった。イエスのときが、まだ来ていなかったからである。
でもイエスのときがまだ来ていなかったのはイエスは分かっているが、ほかの捕えようとしている人は分からないでしょ?

37節の
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立
って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わ
たしのもとに来て飲みなさい。
が印象に残りました。
渇いている人はイエスが泉で満たしてくれるという感じがして・・・
イエス様は渇いている人も満たしてくれるし、病んでいる人も癒してくださるし、しんどい人も重荷を楽にしてくださるし、イエス様って本当に万能ですね・・・

51節の
「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その
人が何をしているのか知った上でなければ、判決
を下さらないのではないか。」
はどういうことだろうか?そういう決まりごとなのだろうか?

No.1651 2007/02/01(Thu) 10:58:15

Re: ヨハネの福音書7章残り / 昌夫 引用

30節ですが、考える方向をちょっと変えてみてください。人々がどういう理由で何をしようとしていても、究極的には、神のご計画どおりになります。だから、まず、人々が何を考えて、何をしようとしていたか、と考えていくより、神のご計画は、どうであったか、を考えてみると良いと思います。

30節には、「イエスの時はまだ来ていなかった」とあるので、神のご計画は、この時には、まだ、イエスは捕えられないということでした。それが分かれば、実際に神のご計画どおりになるように、神がどのような方法をとられたか、はそれほど重要ではないと思います。30節には、神が使われた方法は書いてありません。

神が、ご計画がなるように使われた方法の例としては、捕えようとした人々が、「自分はイエスを捕えたいが、そうすれば、イエスを信じている群衆に反対に自分が殺されるかもしれない」と考えるようにされたのかもしれません。

51節ですが、沙耶香さんが書いたように、当時に、そのような決まりごとがあったと思います。ただ、聖書に書いてある律法に、このような決まりが書いてあるわけではありません。ここで申命記1章16節を読んでください。「よく聞きなさい」とあるので、関連があります。おそらく、このような聖書の記述などに基づいて、「直接聞いてからさばく」という決まりごとがイスラエルに出来ていたのだと思います。

51節の決まりごとを言って、イエスが殺されないようにしようとしたニコデモは、3章で、イエスから教えを受けたニコデモです。

No.1653 2007/02/01(Thu) 23:32:04

Re: ヨハネの福音書7章残り / 沙耶香 引用

申命記1章16節・・・
またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに
命じていった。「あなたがたの身内のものたちの間の
ことをよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、
また在留異国人との間をただしくさばきなさい。

ふーん、直接聞いてからという決まりごとがあったのかもしれないですね・・・

あーもう3章のことなんて忘れていましたね。ニコデモという人が出てきたのは覚えているが、イエスから教えを受けたニコデモだということは忘れていました。

No.1656 2007/02/02(Fri) 20:04:02
ヨハネの福音書7章35節まで / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書7章を読んでみます。

3節にイエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。
とあるがイエスの兄弟たちって誰のことだろうか?

22節の
モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖達からです。それで、あなた方は安息日にも人に割礼を施しています。
はどういう意味だろうか?モーセの律法で決められたことだろうか?

No.1637 2007/01/30(Tue) 20:10:05

Re: ヨハネの福音書7章35節まで / 昌夫 引用

人間としてのイエスの母はマリヤで、父は神ですが、マリヤはヨセフと結婚したので、ヨセフはイエスの養父です。イエスが生まれた後にヨセフとマリヤの間に生まれた子どもたちがイエスの兄弟たちだと思います。マタイ13章55節に4人の名前があげられています。このイエスの弟たちがイエスへの信仰を持つようになるのは、イエスの復活の後だと思います(5節)。弟たちのうち、ヤコブは、エルサレム教会の指導者の一人となりました。彼が聖書にある「ヤコブの手紙」を書いたと思います。

22節については、まず創世記17章1−22節を読んでみてください。モーセの先祖のアブラハムのときに、アブラハムと神との契約のしるしとして、割礼が与えられました(創世記17章9−12節)。12節にあるように、男子は、生まれて8日目に割礼を受けました。

安息日は、アブラハムからかなりの年月がたってから主がモーセを通してイスラエルに与えられた契約のための、律法にあります。律法の中でも特に初めに与えられた十戒が出エジプト記の1−17節に書いてあるので読んでください。8−11節が、安息日についての戒めです。もし、男子が生まれて8日目が安息日であった場合、ユダヤ人たちは、安息日であっても、割礼を施しました。

ユダヤ人たちは、5章1−18節で、イエスが安息日に病人を癒すことをされたのを、安息日の律法を破っていることだと思って腹をたてていました。ところが、自分たちは、安息日に割礼を安息を施していました。ユダヤ人たちの安息日の律法に対する考え方が間違っていることを、イエスはこのようにして示されました。

No.1638 2007/01/31(Wed) 00:30:49

再ヨハネの福音書7章35節まで / 沙耶香 引用

創世記17章1−22節・・・
読みました。うん、男子は割礼をすることが書かれています。
出エジプト記の何章の1―17節ですか?

4節の
自分から公の場に出たいと思いながら、隠れたところで
ことを行う者はありません。あなたがこれらのことを行
うのなら、自分を世に現しなさい。
が印象に残りました。

17節の
だれでも神の御心を行おうと願うなら、その人
には、この教えが神から出たものか、わたしが自分
から語っているのかがわかります。
が印象に残りました。

続く、18節の
自分から語るものは、自分の栄光を求めます。しかし
自分を遣わした方の栄光を求めるものは真実であり、その
人には不正がありません。
も印象に残りました。

No.1639 2007/01/31(Wed) 11:38:27

Re: ヨハネの福音書7章35節まで / 昌夫 引用

>出エジプト記の何章の1―17節ですか?

すみません、書き忘れました。20章です。

4節は、信仰をまだ持っていないイエスの兄弟たちが、イエスがわざをされる動機は、自分が公の場に出ることだと勘違いしていて、祭りで多くの人々が来ているエルサレムに行くように言っています。これに対し、イエスは、6-8節で、行くことを断っておられますが、10節で、エルサレムに行かれました。

No.1646 2007/01/31(Wed) 13:55:25

Re: ヨハネの福音書7章35節まで / 沙耶香 引用

出エジプト記20章1―17節・・・
偶像礼拝をしてはならないことや、うん、8―11節に安息日についての戒めが書いてあります。あと両親を敬え、殺しは駄目、姦淫も駄目、盗みも駄目、とかいろいろ書いてあります。
何だかモーセの十戒みたいですね・・・

No.1647 2007/01/31(Wed) 19:40:42

Re: ヨハネの福音書7章35節まで / 昌夫 引用

>何だかモーセの十戒みたいですね・・・

この出エジプト記20章のところに「モーセの十戒」と言われる戒めを主がモーセに与えられたときのことが書いてあります。

No.1649 2007/01/31(Wed) 22:56:48
ヨハネの福音書5章 / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書5章を読みます。

結構長いですね・・・うん、私にとってはかなり長い。理解できるんだろうか?

イエスはエルサレムに上られいろんな病にかかった人がいた。
その中で38年も病に伏せっている人がいて、主に自由な体になりたいと訴えるとイエスは彼に、
起きてとこを上げて歩きなさい。
といった。するとその人は歩き出した。
その人はユダヤ人たちに自分を治してくれたのはイエスだと告げたのでユダヤ人たちはイエスを迫害した。

イエスはユダヤ人たちに
子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない。父がなさることはなでも子も同様に行うのです。
父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じるものは、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

この25節の
死人が神の子の声を聞くときがきます。今がそのときです。そして、聞くものは生きるのです。
は一体どういう意味だろうか?
永遠の命のことだろうか?死人とするのはキリストが入っていないノンクリスチャンのことだろうか?

28節の
墓の中にいるものがみな、子の声を聞いて出てくるときがきます。はどういうことをいっているんだろうか?

イエスを信じたものはよみがえりの命を受け、信じなかったものは裁きを受けます。
私の裁きは自分の望むことを求めず、私を遣わした方の実心を求めるから正しいのです。

私が行った技そのものが私について、父が私を遣わしたことを証言しているのです。
私を遣わした父自身が私について証言しているが、あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも泣く、御姿を見たこともありません。
父が遣わしたものをあなた方が信じないからそのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。
あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思うので、聖書を調べています。
その聖書が、わたしについて証言しているのです。

モーセのこととイエスのこととどう関係があるのだろうか?なんだかよく分からない。

あなた方は命を得るためにわたしのもとに来ようとはせず、あなたがたのうちには、神の愛がありません。

モーセの書を信じるもののみわたしのことばを信じる。
・・・大体このようなことが書いてあると思うけれど・・今一ピンとこないですね・・・
モーセの書とイエスの言葉とどう関係があるのだろうか?

No.1627 2007/01/28(Sun) 20:09:23

Re: ヨハネの福音書5章 / 昌夫 引用

以下は、僕が今は、こう解釈している、ということですが、いちいち、「と思います」というのは省略します。

25節の「死人」とは、罪のために霊的に死んでいる人で、信仰によって罪を赦されていない全ての人のことです。神の子の声を聞く者は、信仰を与えられて、永遠のいのちを与えられ、霊的に生きるようになります。

28−29節は、イエスの再臨の後、信仰者が復活の体をいただいてよみがえるだけでなく、全ての死人がよみがえり、最後の審判を受けることを説明されています。

39節の「聖書」とは、今の「旧約聖書」のことです。イエスがこの世で生きられた当時はまだ新約聖書は書かれていなかったことに注意してください。旧約聖書には、キリストに関する預言が多く書かれているし、預言ではなくとも、民数記21章4−9節の青銅の蛇のように、キリストと同じ型となっていること(タイポロジーと言います)が多く書かれています。ところが、多くのユダヤ人は聖書を調べていたのに、神を心から信頼せず、自分勝手な思いで読んでいたので、間違った理解をして、イエスのもとに来なかったのです。神を信頼しないものの中には、42節にあるように、神の愛がないのです。

43−44節にあるように、人からの栄誉を求め、神からの栄誉を求めない人は、信じることができません。

>モーセのこととイエスのこととどう関係があるのだろうか?

45−47節の、モーセと、イエスの関係はかなり難しいです。聖書全体にかかわることだからです。聖書全体を読んでから、また何回も考えてみると良いことですが、簡単に説明しておきます。まず、47節のモーセの書とは、聖書の最初の5巻のことです。多くのユダヤ人は、これらの書に書かれた律法を自分の力で守って行動すれば、救われると考えて、そのことに希望をおいていました。しかし、律法を本当に信じて、全てを守ろうとすると、自分の力では守ることができないことが分かり、自分が罪人であることが分かるはずです。律法を信じて、自分罪が分かる人は、イエスを信じます。

No.1630 2007/01/28(Sun) 22:55:25

再ヨハネの福音書5章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ヨハネ5章を読みます。

旧約聖書時代はイエス様がこの世で生きられいた・・じゃ新約聖書はイエス様がこの世では生きられていないということですか?じゃイエス様も寿命でなくなったのですか?今一ピンとこない。
でも神を心から信頼しない人って言っても、100%信頼している人、100%御言葉にしたがっている、100%御心を行っている人なんていないでしょ?
聖書の間違った理解と言ってもみんな全部きちんと理解できているわけではないでしょ?

聖書の最初の5巻って何のことだろうか?創世記のことだろうか?
モーセとイエスの関係難しいですね・・・

14節に
その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
とあるが、罪を犯してはならないと言っても人間は罪は日常茶飯事だと思うのです。
みんな罪を犯しながら生きているので、だからみんないろんな病に苦しむのだろうか?
でも健康な人が罪がない人ともいえないと思うけれど・・・

モーセが書いたモーセの書はイエス様のことだということかな?

No.1631 2007/01/29(Mon) 12:06:31

Re: ヨハネの福音書5章 / 昌夫 引用

モーセ5書とは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。伝統的に、モーセが聖書の最初のこれらの5書を書いたと言われています。モーセはおそらく紀元前1400年ころの人だと思われます。ダビデ王は紀元前1000年ごろ、エルサレムが破壊されたのが紀元前586年、最初のバビロン捕囚からの帰還が紀元前536年、エルサレムの城壁が再建されたのが紀元前444年ごろ。旧約聖書のほとんどの書は、モーセのころから紀元前430年ごろまでに書かれたようです。

紀元前3年か4年ころに、イエスさまが、人間としてお生まれになりました。十字架にかかって死なれたのは紀元30年ごろで、3日後に復活され、40日後に天に昇られて、それからは、父なる神さまの右の座に座っておられます。

この後、イエスさまの弟子たちは、再臨がすぐにあると思っていたと思います。それで、イエスさまの生涯を記録に残す福音書を書くという考えは、20年くらい起きなかったようです。最初の福音書はおそらくマルコで、紀元50年代に書かれたようです。

新約聖書で最初に書かれたのは、紀元45-48年ごろに書かれたとされる「ヤコブの手紙」で、最後に書かれた「ヨハネの黙示録」は紀元90年代に書かれたようです。

>でも神を心から信頼しない人って言っても、100%信頼している人、100%御言葉にしたがっている、100%御心を行っている人なんていないでしょ?
聖書の間違った理解と言ってもみんな全部きちんと理解できているわけではないでしょ?

良い質問ですね。人間には、100%信じる力はありませんが、信仰というのは、神が与えられて、それを人が受け入れるものです。神が与えられる信仰は、「心から信じる」完全なもので、人間の側の受け入れが、完全でないだけです。

信仰が与えられて完全でも、行動や聖書理解の方は、人間の有限の力が入ってくるので、完全ということはありえないと思います。でも、イエスのもとに来ることができるかどうかは、行動の問題ではなくて、信仰の問題です。

当時のユダヤ人が、律法の書いてあるモーセ5書の神のことばを心から信じる信仰が神から与えられて受け入れていたら、イエスのもとに来るように導かれたはずです。

14節の「罪を犯してはなりません」は、知らずに犯してしまう罪ではなく、意図的な神への反逆としての罪のことだと思います。健康な人には罪がないとも、罪があれば必ず病気になるとも、聖書には書いてありません。でも、14説は、この人は、何か特定の意図的な罪を犯したために病気になっていた、と考えて読むと良いと思います。ヨハネ9章に、この人と、いろいろな意味で対称的な生まれつきの盲人が出てきます。彼が盲目に生まれついたのは、特定の罪のためではありませんでした。

No.1632 2007/01/29(Mon) 13:46:42

Re: ヨハネの福音書5章 / 沙耶香 引用

罪ばかり犯して悪いことばかりしてこの世的祝福や健康を持っている人もいっぱいいます。
私はそんなに罪を犯していないと思うのですが、でも精神障害者で健康にも恵まれません。
この世的にいえば一見不公平と思えるけれど、永遠の目神様の目から見ると、公平にしてくださるのでしょう。

No.1641 2007/01/31(Wed) 11:46:46

Re: ヨハネの福音書5章 / 昌夫 引用

>永遠の目神様の目から見ると、公平にしてくださるのでしょう。

そうですね。神さまは公平なお方なので、必ずそうしてくださいます。

No.1644 2007/01/31(Wed) 13:41:38
ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書2章を読みます。

ガリラヤのカナで婚礼があって、イエス様の母がいてその婚礼にイエス様も弟子も招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエス様に向かって告げるとまだ私のときがきていないのでとイエス様は言われたので、手伝いの人たちに母はイエス様の言われることを何でもしてあげてくれと頼んだ。
イエス様が水がめに水をいっぱいにするように命じた。
彼らはそのようにした。
イエス様は彼らに今汲んで世話役のところに持っていきなさいと命じた。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を飲んだ。
そのぶどう酒を飲んだものが、
誰でも最初は良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだときになると悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。
といった。
それで弟子達はイエス様を信じた。
そののちイエス様は母や兄弟たちや弟子達と一緒にカペナウムに下って滞在されたのち、エルサレムに上られた。
宮の中に、牛、はと、羊を売るものたちと両替人が座っているのをご覧になり、怒り心頭で
それをここから持っていけ、私の父の家を商売の家としてはならない
と告げた。
そこでユダヤ人たちが
あなたがこのようなことをするにはどんなしるしを見せてくれるのですか
といった。
この神殿を壊したら三日でそれを建てよう
とイエス様は答えた。
イエス様が死人の中からよみがえられたとき、弟子達は、イエス様がこのように言われたことを思い出し聖書とイエス様が言われたことを信じた。
イエス様が過ぎ越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人がイエス様のおこなわれたしるしを見て御名を信じた。
・・・大体このようなことが書かれていると思うのですが・・・・

No.1603 2007/01/26(Fri) 01:38:48

再ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ヨハネの福音書2章を読みます。

管理人さんの解説がないので、分かりづらいですが、もう一度読み直すとそれなりに深まると信じて期待して感謝します。

頭痛が相当します。でもイエス様が取っ払ってくださると信じて期待して感謝します。

何でイエス様は4節で自分の母に
あなたはわたしと何の関係があるでしょう。女の方。私のときはまだ来ていません。
とおっしゃったのだろうか?お母さんに何の関係があるのでしょうなんて言うなんて???

イエス様たちはガリラヤのカナというところにいた後にカペナウムに滞在されたんですね、その後エルサレムに上られた。

14-16節で憤慨している。エルサレムが父なるイエス様の家だといっている。これはどういうことだろうか?

20,21節で神殿を壊しても3日で建て直すといっていて、イエスは御自分のからだの神殿のことをいわれたのであると書いてあるが、御自分のからだの神殿って一体何のことだろうか?

24節で
イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかったとあるが、弟子達にご自身を任せないとはどういうことだろうか?

25節で
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
とあるが、これはどういう意味だろうか?

No.1605 2007/01/26(Fri) 10:19:02

Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫 引用

1−11節の背景として、当時、婚礼のときに、ぶどう酒をきらすのは、新郎の家族が訴訟を起こされる可能性があるほど重大で恥となることだったそうです。マリヤは新郎の家族の親戚だったと考えて良いと思います。

それで、3節で、マリヤは、ぶどう酒のことで、イエスが親戚の新郎の家族を助けてくれるように、イエスに頼んだと思います。
4節は解釈が難しいです。「あなたはわたしと何の関係があるでしょう」とイエスが母に言われ、また、「女の方」と母に呼びかけられました。これは、女の人に尊敬をこめた呼びかけだったそうですが、母に対して、このように言う習慣はなかったそうです。次の「わたしの時」とは、ヨハネの福音書では、イエスが「十字架にかけられる時」という意味です。

だから十字架の時がまだ来ていないので、イエスは奇蹟の力を使って新郎の家族を助けて注目を集めることを、4節では断られたと思います。マリヤを母と認めないような言い方をされたのは、マリヤに、「自分は母だから」という気持ちがあって、それを神であるイエスに頼むときの気持ちとしては、適当ではなかったということだと考えます。5節で、マリヤが母としてより、信仰者としてイエスへの信頼を示されたので、6-9節で、イエスが、奇蹟の力を使われたのだと思います。

14節の「宮」と、16節の「わたしの父の家」は、どちらも、神殿のことです。イエスは、人々が神殿で商売をすることをお許しになりませんでした。

20-21節で、イエスは、十字架上で死なれた後、3日後に復活されます。神であられるイエスが、人間の体の中に入っておられるとき、体には神殿の意味があります。だから、死んで3日後に復活されることを、神殿がこわれて、3日で新しい神殿が建つと表現されました。

23節で多くの人々が、イエスの起こされる奇蹟を見て、御名を信じました。でも、彼らの信仰は深いものではありませんでした。

24-25節で、イエスは全知の力で、エルサレムの人々の信仰が浅いことを、誰にも聞かずに知られました。それで、ご自身を彼らに任せられなかった。ここで具体的に、「ご自身を彼らに任せられなかった」のがどういう意味であるか、よく分かりませんが、彼らのリーダーにならなかった、という意味かと考えます。

No.1607 2007/01/26(Fri) 14:46:37

Re: ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

十字架にかけられるときじゃないと奇跡を表せないというのは変ですね。イエス様はみなから注目を集める為に、奇跡を表していたの?
マリヤとイエス様の母子関係ってなんだかよく分かりえないですね・・・
えーーー?イエスが人間の体の中に入っておられるとき、体には神殿の意味があるの?面白いなーー。

No.1608 2007/01/26(Fri) 19:35:27

Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫 引用

奇蹟の主な目的は、十字架による救いを示すことです。それで、ヨハネの福音書では、「奇蹟」のことを、「しるし」と書いています。

イエスはお生まれになってから、2章にあるカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられる奇蹟を行われるまで、約30年間、何も奇蹟を行われなかったと思います。2章11節に、これが、イエスの行なわれた「最初のしるし」であったと書いてあるからです。このときから、約2年半くらいの後に、イエスが十字架にかけられます。その十字架が、多くの人に、父なる神の救いのわざであることを示すことが、イエスのされた多くの奇蹟の主な目的です。

>イエスが人間の体の中に入っておられるとき、体には神殿の意味があるの?面白いなーー。

さらに素晴らしいことに、イエスさまの十字架の恵みで、聖霊さまが、僕たち信仰者の中に入っておられるので、キリスト者一人一人のからだは、神殿なのです。

No.1612 2007/01/27(Sat) 00:19:25

Re: ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

奇跡とイエス様の説明は今一ピンとこないですね・・・頭が劣っていてごめんなさい。

えーークリスチャン一人一人の体は神殿なの?じゃ私の体も神殿なの?えーー??面食らっちゃう・・・

No.1615 2007/01/27(Sat) 08:23:27

Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫 引用

>じゃ私の体も神殿なの?

そうです。コリント人への手紙第1の3章16-17節と、6章18-20節を読んでおいてください。19節で「宮」とあるのは、神殿のことです。

No.1617 2007/01/27(Sat) 08:49:13

Re: ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

コリント3章16-17節・・・
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

コリント6章18-20節・・・
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの
外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分
のからだに対して罪を犯すのです。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、
神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや
自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

代価を払って買い取られた?という意味がわからないが・・・
でもま、私たちの体は神殿なので、神様の栄光を現しなさいと言いたいのだろう・・・・

No.1622 2007/01/27(Sat) 21:15:10

Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫 引用

>代価を払って買い取られた?という意味がわからないが

罪の奴隷であった僕たちは、イエスさまの十字架の上の死という代価を払って、買いとられました。十字架による「罪の贖い」や、「贖罪」という言葉には、このような意味があります。

No.1623 2007/01/27(Sat) 22:38:29

Re: ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

多分前もこういうことどこかで聞きましたね?
なかなか頭に入りづらい。すぐ頭に入る人が羨ましいな。

No.1628 2007/01/28(Sun) 20:12:35

Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫 引用

>なかなか頭に入りづらい。すぐ頭に入る人が羨ましいな。

エペソ2章10節を読んでください。沙耶香さんは神さまの作品であって、良い行いをするために主イエスさまにあって造られたのです。だから、沙耶香さんに必要なものは、全て与えられています。

だからもし他の人に比べて、何かがなかなか頭に入らなくとも、問題ないのです。そういう能力は沙耶香さんがするように神さまが定めれられた「良い仕事」には今は必要ないということです。もし、将来、必要になれば、求めれば与えてくださいます。

「自分には能力がない」というような考えは、自分を造ってくださった神さまに頭をたれる謙遜というより、「神さまはあなたに十分な能力を与えていない。」というサタンの嘘のほうに頭をたれる自己卑下になりやすいので、注意するようにしたいです。「羨ましい」という気持ちが出てきたときも、同じように注意したいです。

No.1629 2007/01/28(Sun) 22:08:00

Re: ヨハネの福音書2章 / 沙耶香 引用

エペソ2章10節・・・
私たちは神の作品であって、よい行いをするために
キリスト・イエスにあて作られたのです。神は、
私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いを
もあらかじめ備えてくださったのです。

うーん、私は人よりいろんな部分がかなり劣っているし、足りない部分が多いので、どうしても自己卑下、羨望心が強くなります。
神様イエス様どうか私がイエス様に与えられている自分を感謝して受け入れ、自己卑下や羨望心にかられることがないようにしてください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.1642 2007/01/31(Wed) 11:52:55

Re: ヨハネの福音書2章 / 昌夫 引用

素晴らしいお祈りだと思います。必ず、主がこのお祈りをかなえてくださることを信じて感謝します。

No.1643 2007/01/31(Wed) 13:39:30
ヨハネの福音書4章 / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書4章を読みます。

結構長いですね・・・うん、私にとっては長い。
イエスがヨハネよりも弟子を多く作ってバプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入っていると主が知られたとき、主はガリラヤへいかれた。
その途中サマリヤの町にきて、ヤコブの井戸がありイエスはそこで腰をおろした。
サマリヤの一人の女が水をくみにきて、イエスは水を飲ませてくれと頼んだ。
ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったため、
ユダヤ人なのになぜサマリヤ人の私に頼むのですかとイエスに問うと、
あなたがもし神の賜物を知り、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたにいける水を与えたことでしょう。
と答えた。
彼女は
あなたはくむものももっておらず、この井戸は深いのです。そのいける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたはヤコブより偉いのですか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子達も家畜も、この井戸から飲んだのです。
といった。
イエスは答えて、
この井戸の水を飲むものは誰でもまた渇きます。でも私が与える水を飲むものは決して渇くことがありません。その人のうちで泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。
といった。
女は、
私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。
イエスは彼女に
あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時がきます、
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝しているが、あなたがたは知らずに礼拝している。
真の礼拝者たちが父を真に礼拝するときがきます。
女がイエスにいった。
私はキリストと呼ばれるメシヤがこられるのを知っています。その方がこられるときは知らせてください。
イエスは
今貴方と話している私がそれですと答えた。
女は自分の水がめを置いて町へ行き、人々にこの方がキリストだろうかと告げた。
弟子達はイエスに
召し上がってください
とお願いした。
しかしイエスは彼らに
わたしにはあなたがたの知らない食物があります。
と告げた。
イエスは
わたしを遣わせた方の御心を行い、その御技を成し遂げることが私の食物です。
といった。

35節から38節の
あなたがたは、「刈り入れ時がくるまでに、まだ四ヶ
月ある。」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言う
ことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づい
て、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠の命に入れら
れる実を集めています。それは撒く者と刈る者がと
もに喜ぶ為です。
こういうわけで、「ひとりが種をまき、ほかのものが刈
りとる。」ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを
刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。
ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を
得ているのです。」
はどういう意味だろうか?何度読んで砕いてみようとしてもなかなか砕けなくて、頭に情景が浮かばないし何が言いたいのかさっぱり分からない・・・

サマリヤ人の多くの人がその女の証言によってイエスを信じた。
サマリヤ人は自分たちのところに滞在してくださるように願ったのでイエスは2日間そこに滞在された。
さらに多くの人がイエス様を信じた。
その後イエスはここを去って、ガリラヤへいかれた。
ガリラヤ人はイエスを歓迎した。
イエスは再びガリラヤのカナにいかれた。
カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいて息子が死にかかっているとイエスのところにきた。
彼はイエスに、
私の子供が死なないうちに下ってきてください。
と告げた。
イエスは彼に告げた。
帰っていきなさい。治っていますから
と。
息子が奇跡の技で治った様子を知って、彼と彼の家族もみなイエスを信じた。
・・・・大体このようなことが書かれていると思います。

No.1621 2007/01/27(Sat) 21:05:20

Re: ヨハネの福音書4章 / 昌夫 引用

35節から38節までは、

1.農業での「畑に種まき」を、

A. 預言者や信仰者たちが「人々に最初に神のことばを伝えて伝道すること」

のたとえとし、

2.農業での「刈り入れ」を

B. 信仰者が、「人々に、さらに神のことばを伝えたり、説明をしたりすることなどにより、人々が信仰を持つことを助けること」

のたとえとし、

3.農業での「実」を

C.人々が「信仰を持つようになり、永遠のいのちに入ること」

にたとえて、

4.農業で刈り入れする労働者が「受け取る報酬」を

D. 伝道者が神から「受けとる天の御国での報い」

にたとえています。

イスラエルの歴史の中で、預言者や信仰者たちが、しばしば迫害されながら神のことばを伝えてきたこと、また、バプテスマのヨハネの活動が、上のAにあたります。それは、「種まき」です。

イエスの弟子たちが人々にイエスのことを伝えて伝道することは、上のBにあたります。それは、「刈り入れ」です。

ヨハネ4章では、イエス自身が7−26節でサマリヤの女に伝道されました。39−43節では、多くのサマリヤの人々が、信仰するようになり、永遠のいのちに入りました。

マタイ13章の3−23節を読んでみてください。3−9節にある「種蒔きのたとえ」を、イエスが19−23節で説明されています。ヨハネ4章34−38節と、たとえが似ています。

No.1624 2007/01/27(Sat) 23:29:41

再ヨハネの福音書4章 / 沙耶香 引用

ふーん、面白いたとえですね・・でもなかなか難しいですね・・・
えーー?でもAとBってどうやって区別つけるのだろうか?イエスの弟子達が人々にイエスのことを伝えて伝道することだってAともとれるが・・・

マタイ13章3-23節・・・
イエス様はたとえ話で
種をまく人が種まきに出かけた。
まいているときに道端に落ちると鳥が来て食べた。
土の薄い岩地に落ちると、土が深くなかったので、すぐに芽を出したが日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった。
茨の中に落ちた種は、いばらが伸びてふさいでしまった。
別の種はよい地に落ちて、何倍もの実を結んだ。
ということを話した。
イエスは弟子に信仰を持っているものはさらに与えられて豊かになり、持たないものはもっているものまでも取り上げられてしまうということを語った。
イエスは
あなたがたは聞いても見ても悟れない、自分の目で見、耳で聞き、その心で悟って、立ち返り私に癒されることのない為である
といった。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪いものがきて、その人の心にまかれたものを奪っていきます。道端にまかれるとはこのような人のことです。
岩地にまかれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことだが、自分のうちに根がない為、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう。
茨の中にまかれるとは、みことばを聞くが、この世の心遣いと富の惑わしとがみことばをふさぐため、見を結ばない人のことです。
よい地にまかれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人は本当に実を結び、何倍もの実を結びます。
・・・・大体そんなような感じだと思いますが・・・
なんだかやっぱり分かりにくいですね・・・

うん、3-9節と19-23節は呼応してますね・・・でもたとえ話というのがなんだか私はよく分からなくて・・・

もう一度4章を読みます。
うーん、やっぱり35-38節は意味不明だ。たとえ話だとは一応分かったという程度だ。

王室の役人がイエスに息子を癒すように頼み、本当に治された御技が印象に残りました。

No.1625 2007/01/28(Sun) 05:40:17

Re: ヨハネの福音書4章 / 昌夫 引用

>でもAとBってどうやって区別つけるのだろうか?

Aは、「最初に」というところがポイントです。神のことばを聞いたことがない人々に、初めて神のことばを伝えることを、ここでは種まきと対応させていると思います。

No.1626 2007/01/28(Sun) 11:07:40
ヨハネの福音書3章 / 沙耶香 引用

今日はヨハネの福音書3章を読みます。

1節にパリサイ人とあるが、このよく出てくるパリサイ人とは一体何者だろうか?
ニコデモという指導者がイエスに
神のもとからこられた教師だということを知っている。神がともにおられるのでなければしるしは誰も行うことができない。
イエスはニコデモに答えた。
人は新しく生まれないければ、神の国を見ることはできません。人は、水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません。
私たちは知っていることを話、見たことを明かしているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受け入れません。
神様は御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ為に一人後をお与えになった。

この御子と言っているのは子なる神様のイエス様のことだろうか?

神は御子を世を救う為に遣わした。御子を信じるものはさばかれないが、御子を信じないものはすでにさばかれている。
光が世に来ているのに、その行いが悪かったから、光よりもやみを愛したのだ。
真理を行うものは光のほうによってくるが、悪いことをするものは光を憎み、その行いが明るみに出ることを恐れ、光のほうにはこない。
その後、イエス様は弟子達とユダヤに行き、そこでバプテスマを授けた。
ヨハネもアイノンでバプテスマを授けていた。

24節に
ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。
とあるが、ヨハネはのちに投獄されるのか?何で投獄されるのか?

あーーーなんだか頭が混乱していました。
ヨハネにヨハネの弟子が
ヨルダンの向こう岸であなたといっしょになって、貴方が証言なさったあの方がバプテスマを授けております
と告げた。
ヨハネは答えて
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。
と告げた。
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
このあかしを受け入れたものは、神は真実であるということに確認印を押したのである。
御子を信じるものは永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わないものは、いのちを見ることが泣く、神の怒りがその上にとどまる。
・・・大体このようなことが書かれていると思います。

No.1610 2007/01/26(Fri) 20:23:29

Re: ヨハネの福音書3章 / 昌夫 引用

パリサイ人は、僕たちが旧約聖書として読んでいる当時の聖書を全体を信じ、律法を自分の力で守ろうとしていた当時のユダヤの宗教のリーダーたちでした。パウロもパリサイ人で、イエスの十字架の後に、最初はイエスの弟子たちを迫害しました。

1−15節は、イエスとニコデモの会話を描いていて、16−21節は、著者のヨハネの解説です。この解説のなかで、「御子」とは、沙耶香さんが理解したとおり子なる神のことです。

この福音書で「ヨハネ」とは、全て「バプテスマのヨハネ」であることに注意して読んでください。24節は、バプテスマのヨハネがまだ投獄されていなかったことを書いています。後にヨハネが投獄されたのは、彼が、ヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの妻をヘロデやを妻として罪を非難したからです(マタイ6章17−28節)。

No.1613 2007/01/27(Sat) 00:33:08

再ヨハネの福音書3章 / 沙耶香 引用

旧約聖書を信じていたら律法を自分の力で守ろうとしていることになるの?旧約聖書も聖書なんだから真実でしょ?・・・あまりよく分からない・・・・

14節の
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。とはどういうことだろうか?

バプテスマのヨハネともう一人は何のヨハネでしたかね?早忘れていると馬鹿にされそうだが・・・
ここのヨハネはバプテスマのヨハネであることは分かります。バプテスマを授けたといっているので・・・

マタイ6章17-28節・・・
うーーん?ここにはヨハネがヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの妻のヘロデヤを妻として罪を非難したことなんて書いていませんよ。

うーん、読み直したが、一番印象に残ったのは、36節の
御子を信じるものは永遠の命を持つが、御子に聞き従わないものは、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
です。

No.1614 2007/01/27(Sat) 08:14:39

Re: ヨハネの福音書3章 / 昌夫 引用

>旧約聖書を信じていたら律法を自分の力で守ろうとしていることになるの?

いや、違います。彼らが、真実である旧約聖書を信じていたのは良いことでした。神の力ではなく、自分の力で律法を守ろうとし、それを誇っていたことが、悪いことでした。

14節の蛇のことについては、民数記21章4-9節を読んでください。イスラエルの民がモーセに率いられて荒野をさまよっていたときに、民が神とモーセに逆らったので、神が毒蛇を送られました。このときに、モーセが青銅の蛇を作って、旗ざおの上につけました。蛇にかまれても、この青銅の蛇を仰ぎ見ると、死なずに生きました。このことは、将来、神を信じてイエスを仰ぎ見る人は永遠の命をいただくことと、よく似ています。このように、神は同じ型を何回も使われます。聖書を読むときに、同じ型ということに注意して読むと、より深く理解することができます。

>マタイ6章17-28節・・・
うーーん?

すみません。マルコ6章17-28節の間違いでした。

No.1619 2007/01/27(Sat) 09:09:30

Re: ヨハネの福音書3章 / 沙耶香 引用

民数記21章4-9節・・・
民は神とモーセに逆らって
あなたがたはどうしてエジプトからつれ上って、荒野で死なせようとするのか。パンも水もない、このみじめな食物に飽き飽きした。
といった。
主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死んだ。
民はモーセのところにきて、私たちは首都あなたを非難して罪を犯しました。蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈るようにお願いした。
主は、モーセに
燃える蛇を造り、それを旗ざおの上につけてかまれたものは、それを仰ぎ見れば生きる
といった。
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、そのものが青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
うん、そうですね、神を信じてイエスを仰ぎ見ると永遠の命をいただくことと似ていますね。

マルコ6章17-28節・・・
何度か読んだことあるけれど、話がつながらなくて・・・
この部分ではヨハネの首をはねて盆の上に載せてヘロデヤの娘に持っていったことのほうが印象に残っていて・・・
うん、ヘロデが自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻としていたことをヨハネが非難したことがヨハネの投獄の理由らしい。

No.1620 2007/01/27(Sat) 20:00:18
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