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?Tテモテ3章 / 大垣 引用

?Tテモテ3章。1−13節。「監督」は5:17にある「長老」と同じだと思う。当時の教会には監督と8節にある執事という2つの職があったのだと思います。監督は、5:17にあるようにみことばを教えるので、今でいう牧師を含むと思います。ひとつの教会の中で、1−13節に書いてあるすべての条件に当てはまる人々が監督と執事になれば理想的だろうが、なかなかそうはいかないことも多いのではないかと思います。たとえば、ある牧師が、他のすべての条件を満たしているが、数人いる子どものうちの一人が反抗期に彼に逆らっている場合、5節を考えて、牧師が辞任したり、あるいは教会が解任したりすることが、必ず御心にかなうことなのかどうか疑問に思います。聖書のみことばは、ただ僕たちが機械的に応用していくように書かれたのではないと思います。ひとつひとつの場合に、みことばに照らしながら、神に祈りの中でどうすれば良いか聞き求めることが大切だと思います。

2節、「よくもてなし」ということは、テトス1:8にも「旅人をよくもてなし」とあり、監督の重要な仕事のひとつのようです。8−12節で執事には「よくもてなし」という条件が書いていないところが興味深い。というのは、エルサレムの最初の教会では、最初のころは12使徒が監督の仕事をし、使徒6章?T−5節に説明のある7人が執事の仕事をしたと思います。それで執事の仕事の一部は教会の食卓のことに仕えることであると思うのですが、「もてなす」ということに、より直接に関係しそうに思えます。ところが、監督の条件の方に「よくもてなし」と書いてある。旅人をもてなす、ということは、パウロにとって、この世の食卓のことより、むしろ「いのちのパン」であられ「ことば」であられるキリストを分かちあうことだったのだろう、と思います。

4−5節。キリスト者のリーダーが家庭をよく治めることの大切さを思います。ルカ16:10を連想します。家庭のことについて主のみことばに忠実な人な人は、反抗期の子どもというような短期的にはいろいろなことがあっても、長期的には家庭をよく治めることができるだろう。そういう人は、教会のリーダーになることができる。

6節。パウロから伝道を受けたばかりの地方では、基本的には信者になったばかりの人たちしかいないので、そういう人たちが教会の監督や執事にならざるをえなかったであろう。そういう人たちは、高慢にならないように、特に注意が必要であったと思います。

7節。教会内では評判が良くて教会外では評判の悪い人というのは、極端に宗教的な人であろうか。そういう人は律法主義という悪魔の罠に陥りやすい、ということかもしれない。

11節の「婦人執事」は執事の妻であるという説もあるそうだ。しかし、ローマ16:11のように、女性の執事がいたことを考えると、ここは女性の執事の条件を書いてあると思います。特に「悪口を言わず」ということが書いてあるのが大切であると思います。

15節。僕が2章8−15節で書いたことに関連することとして、この手紙が教会でどのように行動すべきか書いてあることが、この節ではっきり分かる。

「教会は、真理の柱また土台です。」

とあるのが重要だと思います。ここで「教会」とは信仰者全体の集まりという意味だと思います。プロテスタントのいろいろな教派が、基本的な教えについては一致していても、それ以外のところでは、お互いに整合的ではありえない聖書解釈をしていることを思うと、この聖句は教会が決して聖書解釈を間違わない、という意味ではないと信じます。しかし、自分個人の聖書解釈が真理と整合的ならば、「イエスは主です」と告白した信仰者の誰かが、現在までに同じような解釈をするか、現代の信仰者に賛同をもらえるはずだと思います。

No.3728 2008/01/02(Wed) 10:19:52

Re: ?Tテモテ3章 / 亜衣瑠 引用

2-7節 監督の条件 8-10、12-13節 執事の条件 11節 婦人執事の条件  これら条件は これらの職につくための条件というだけでなく、信頼できるクリスチャン、信頼に足る人間であるためにあってほしい要素とかなり重なると思います。目ざしたい像です。
「非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり(既婚)、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせ、信者になったばかりの人ではなく、教会外の人々にも評判がよく、謹厳で、二枚舌を使わず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人。」さらにこれに婦人の場合「悪口を言わず」が入る。口の成す災いごとが実際多くあったのだろう。
15節「神の家」 「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」「生ける」であることが条件である。

No.3731 2008/01/02(Wed) 11:54:22
民数記23章残り / 沙耶香 引用

今日は民数記23章残りを読みます。

19節に
神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
人の子ではなく、悔いることがない。
神は言われたことを、なさらないだろうか。
約束されたことを成し遂げられないだろうか。
とあるが、これはどういう意味だろうか?と思って脚注を見ると、神は普遍なお方だみたいに書いています。
・・・でも人の子ってイエス様のことでしょ?神は人の子ではないなんてちょっとおかしくないかな?

22節の
彼らをエジプトから連れ出した神は、
彼らにとっては野牛の角のようだ。
が印象に残りました。

23節に
まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。
とあります。占いなどは神様は好まれません。

24節に
見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」
とありますが、殺したものの血を飲むまでは休まないってすっごいなーーー。と思って、脚注を見ると、神がともにいる勇敢なイスラエルの姿を言っているそうだが、しかしこの表現はすごい。

27節に
バラクはバラムに言った。「さあ、私はあなたをもう一つ別のところへ連れて行きます。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」
とあるが、神の御目に叶った場合、イスラエルを呪うことにはならないのじゃないのかな?だって御心じゃないですもんね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の21章13-17節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、17節の
イエスは3度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしは愛しますか。」ペテロは、イエスが3度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。あなたは、わたしがあなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「私の羊を飼いなさい。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うーん、人間自分を守る為につくうそは段々と過激になりますね・・・うそは段々と塗り壁のようになっていき、重ねないといけなくなります。

No.3721 2007/12/31(Mon) 21:40:55

再民数記23章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度、民数記23章残りを読みます。

20節で、
見よ。祝福せよとの命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。
とありますが、この私とは誰だろうか?モアブのことだろうか?

21節に
ヤコブの中に不法を見出さず、
イスラエルの中にわざわいを見ない。
彼らの神、主は彼らとともにおり、
王をたたえる声が彼らの中にある。
とありますが、これも今まで管理人さんがご説明くださったように、ヤコブとイスラエルは同じイスラエルで一行目と二行目で同じようなことを繰り返して述べているのかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の21章18-22節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、22節の
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
あなたは、わたしに従いなさい・・・やっぱりイエス様の道がすべての王道・・・

No.3722 2008/01/01(Tue) 06:35:57

Re: 民数記23章残り / 大垣 引用

「人の子」とは、もともとは神に対して「人間」という意味だと思います。だから聖書の中で、いつも人間となられた子なる神のイエス、という意味で「人の子」という言葉が使われるわけではありません。19節の「人の子」は人間という意味です。

18-24節は「立て、バラクよ」以降が、預言者バラムが言ったことで、20節の「私」とはバラムのことです。

19節と21節の最初の2行を含めて18-24節でバラクが言ったことは、沙耶香さんが書かれたように、へブル語の詩の形式になっていて、同じような意味のこことを繰り返しています。

No.3724 2008/01/01(Tue) 11:15:37

Re: 民数記23章残り / 沙耶香 引用

>>「人の子」とは、もともとは神に対して「人間」という意味だと思います。だから聖書の中で、いつも人間となられた子なる神のイエス、という意味で「人の子」という言葉が使われるわけではありません。19節の「人の子」は人間という意味です。

ふーん、あ、そうなんだ。そのままの意味のときもあるんだ。元々読解力がない人が聖書のような難解書物を読んでいるので、いろいろな誤りを赦してください。

>>18-24節は「立て、バラクよ」以降が、預言者バラムが言ったことで、20節の「私」とはバラムのことです。

うーん??カギカッコが24節まで続いていますね・・・何だかややっこしいが・・・

No.3727 2008/01/02(Wed) 06:52:24
?Tテモテ2章 / 大垣 引用

?Tテモテ2章。1−2節。パウロはクリスチャンが、すべての人のために、またすべての地位にある人のために、願い、祈り、とりなし、感謝をささげるように勧める。それは、クリスチャンが、敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過すためである。このように、聖書で信仰者に勧めがあるとき、その理由として、その信仰者の益になるから、ということが書かれていることが多い。このように「自分の益になる」という理由を、多くのクリスチャンは「利己的」として、悪いことのように思うようである。僕は利己的であること自体が悪いのではなく、自己中心が悪いのであって、自己中心な人が利己的にふるまうとき、悪いことをするのだと考えています。神中心の心を持つようになった人が、神が望まれるように、自分の神の国での益と報いを求めて生きるとき、自分を愛するように人をも愛する人になるような気がします。「自己犠牲よりも、従うことのほうが優れている。」とか、「神のために神を愛する」よりも「神のために自分を愛する」ほうが優れている、という考えを聞いたことがありますが、自己中心と利己的の区別ということに関連していると思います。

3−4節。神はすべての人が救われて、真理を知るように望んでおられる。?Uペテロ3:9には「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。だからこそ、1−2節のようにすべての人のために祈ることが、神に喜ばれる。

6−7節。キリストは神の愛を十字架であかしされ、パウロはそのあかしの宣伝者また使徒、異邦人に教える教師に任命された。僕たちもパウロの書いた手紙を読み、少しでもキリストのあかしを伝えていきたい。

8−15節は、アメリカのプロテスタントの間で大きな議論になっているところ。女性の牧師を認めるかどうか、というような現実の問題がある。

まず、8−15節は教会での男女のありかたを書いてある、という考えが一般的。ここだけ読んでも、そうであるとは確信しがたいが、3章1節から教会の監督と執事の職について書かれていること、この手紙がテモテに教会に関する種々の注意を与えるために書かれたらしいことを考えると納得できるように思う。

12節が特に議論の中心点で、女が男を教えることに関して2つの極端な解釈がまず考えられると思う。

1.当時の一般的な文化として、女は男を教えなかったことを根拠として、12節が書かれたので、現代には関係がない、という解釈。

2.文化に関わりなく、教会でクリスチャンの女は男を教えてはならない、という解釈。

1番目の解釈で釈然としない点は、13−14節のように、パウロは創造のときの男女の役割の違いを根拠としているので、当時の文化を根拠としてはいないということ。2番目の解釈で釈然としない点は、?Tコリント11:3−16で、女は教会でかぶり物を着けるべき、という命令についても、創造のときの男女の役割の違いが根拠になっているが、11:16で文化について言及していること。

2つの解釈の次のような中間的な考えが可能であると思う。創造のときから男女は同価値である(創世記1:27)が、神の意図された役割に違いがあり(創世記2:18)、そのような男女の役割の違いはそれぞれの教会の状況に応じた形で反映されるべきである。パウロは、創世の時に神が意図された男女の役割の違いを、当時、女が男を教えることはなかったという文化の下にあった教会の状況に応用して、女が男を教えてはならない、と書いたと思われる。そうであれば、現代の教会に男女の役割の違いを応用するとき、文化や各教会の状況をよく検討するのが良いと思われる。機械的に女が男を教会で教えることを禁止するような応用は避けたほうが良いように思う。

No.3723 2008/01/01(Tue) 11:04:35

Re: ?Tテモテ2章 / 亜衣瑠 引用

1−8節 王や高い地位のある人たちへの祈り 参照箇所ロマ書13:1はもちろんのこと、テトス3:1、?Tペテロ2:13、ヨハネ19:11を読む。「仕える」というわたしたちの目的を思い起こす。マタイ20:28「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」―just as the Son of Man did not come to be served, but to serve, and to give his life as a ransom for many.
?Tペテロ2:18にも仕えるときはその対象がどんなであれ、仕えるべきことが美しく記してある。たとえ主人が「横暴」であっても、というのはこの世の量りでは納得いかない面もあろうが、それさえ忠実に守ることでわたしたちは主の栄光を現すことができる。
9−12節まで教会での女性のふるまいについてパウロが述べている。12節「許しません」は大変強い表現で他への言い換えは難しく思える。(≠しない方がいいでしょう、時と場合によっては考えてみましょう)
9節 「つつましい身なりで」?Tペテロ3:3−4を思い起こして読み直します。
13,14節で創造の秩序に基づいた根拠が述べられている。これは?Tコリント11章で女性のかぶり物について語っているのと同様の語り方だと思う。創造の秩序に従うことは創造された方、神への従いの態度を示すことにつながるからだと思う。「かぶり物」が頭にかぶる物体だけでなく、比喩に用いられていることを 今年春ごろまで気づかすにピンとこないでいた。創造の秩序とはいっても、創造そのものについて各人がどのように捉えるかは、それ自体が信仰を現すものに直結するような気がする。

No.3725 2008/01/01(Tue) 11:18:02
民数記22章残り / 沙耶香 引用

今日は民数記22章残りを読みます。

23節に
ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
とありますが、抜き身の剣とは一体何だろうと思って、脚注を見ると、主の怒りを表すのだとご説明くださっています。

28節に
すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を3度も打つとは。」
とあるが、ろばが人間に話せるのだろうか?と思って、脚注を見ると、主がなした業だとご説明くださっています。3度打ったという3度という回数は何か意味があるのだろうか?

33節に
ろばはわたしを見て、3度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたをCENSOREDおり、ろばを生かしておいたことだろう。」
とあるが、身を巡らすとはどういう意味だろうか?と思って辞書を引くと、巡らすで引くと、周りを取り囲むことみたいだ。ということはろばが抱きついてきたのだろうか?うーん??考えにくいが・・・あ、回転させるという意味もあるみたいだから、周りをまわったのかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の20章24-28節までを読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、26節の
8日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
本当イエス様的平安・・・これが一番の幸せですよね。

No.3703 2007/12/29(Sat) 20:13:06

再民数記22章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記22章残りを読みます。

28,29,30節のように、
動物と口で会話できるといいですね・・・動物が何を思っているか分かり、もっと意思の疎通ができるようになります。
今、ストレス社会で癒しを求めてペットを飼う人が多いです。私もできれば、将来ペットと一緒に暮らしたいです。ふくろうか猫と暮らしたいです。ふくろうは夜型だが、首が180度回転して面白くてふくろうのぬいぐるみの「おふう」というのを買って以来好きになりました。猫はかわいく愛くるしくて大好きです。そういうペットたちと会話できたら幸せだろうなーと思います。今、話すぬいぐるみ、育つぬいぐるみというのが出ているそうです。それだとえさをやらなくていいし、いろいろ面倒がかからないと思うけれど、でも虚しいだろうね・・・

33節に
ろばは私を見て、3度もわたしから身をめぐらしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身をめぐらしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたをCENSOREDおり、ろばを生かしておいたことだろう。」
とあるが、このあなたというのはバラムでわたしというのは主のことですよね?何でろばがわたしから身をめぐらしていなかったなら、主はバラムをCENSORED、ろばを生かしておいたのだろうか?なんだかよく分からないなーーー。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の20章29-31節、21章1,2節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると31節の
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様の御名による権威ですね・・・

No.3704 2007/12/30(Sun) 06:48:20

Re: 民数記22章残り / 大垣 引用

33節でろばが3度も主の使いから身を巡らしたというのは、23、25、27節で、道からそれたり、石垣に身をおしつけたり、うずくまったりして、主の使いの方向に進まないようにしたことを表現しています。「巡らす」とは、この場合「方向を変える」というような意味で書いてあると思います。

22節でなぜ主は怒っておられるのか、難解でいろいろな解釈があるところです。僕の現在の読みを書いておきます。

22章20節までのところで書いたように、バラクはすぐにイスラエルの民をのろってほしいという2度目の願いを断るべきだったと思います。ところが、バラクはモアブの人たちに手厚くもてなされたり、銀や金をもらう誘惑に心を動かされてしまったと思います。それで、もう一度、主が何を言われるか確かめることにしました。

こう考えると20節で主が言われたことは、バラクがこのようにすぐに断らなかった罪に対するさばきのことばであるように思います。18節でのバラクの考えは、普通の信仰者としては、悪くないように思えますが、バラクは預言者なので、より高い水準でさばかれたのだと思います。

22節で、欲の誘惑に負けて、実際にモアブに出かけたバラクは、そのままモアブに行けば、言い訳を考えてイスラエルの民をのろってしまうところだったのだと思います。そのようなバラクに対し、主の怒りが燃え上がります。それで、主の使いは、もしろばが身をめぐらさなかったら、罰としてバラクを殺そうとしたのだと思います。

ろばが話したので、バラクは主の怒りに気づいて慎重になり、イスラエルの民をのろわずにすんだのだと思います。

?Uペテロ2章15ー16節で、バラムは不義の報酬を愛したこと、ろばが人間の声でものを言ったので、バラムが罪の行為をしなかったことが書かれていると思います。

No.3709 2007/12/30(Sun) 12:25:21

Re: 民数記22章残り / 沙耶香 引用

>>33節でろばが3度も主の使いから身を巡らしたというのは、23、25、27節で、道からそれたり、石垣に身をおしつけたり、うずくまったりして、主の使いの方向に進まないようにしたことを表現しています。「巡らす」とは、この場合「方向を変える」というような意味で書いてあると思います。

へーー全く勘違いしていましたねー?

>>こう考えると20節で主が言われたことは、バラクがこのようにすぐに断らなかった罪に対するさばきのことばであるように思います。18節でのバラクの考えは、普通の信仰者としては、悪くないように思えますが、バラクは預言者なので、より高い水準でさばかれたのだと思います。

バラクは一人間であり、一預言者なのですね・・・何だかこういうつながりを考えていろいろなところを読むと混乱してきます。かなり高い水準なのは聖書の読み込みのほうだ・・・

>>ろばが話したので、バラクは主の怒りに気づいて慎重になり、イスラエルの民をのろわずにすんだのだと思います。

主の怒りに気づいてよかったですね・・・私も主の語りかけに気づけるようにならないといけない。

?Uペテロ2章15ー16節・・・
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。
しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないロバが、人間の声で物をいい、この預言者の気違い沙汰をはばんだのです。

何だか私には順番に読んでいくだけでかなりの労力でつながりなんて全く分からない・・・うーん、神様イエス様聖書の文章のつながり、全体のつながり、意味が解読できますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・

No.3720 2007/12/31(Mon) 12:09:22
民数記18章16節まで / 沙耶香 引用

今日は民数記18章16節までを読みます。

1節に
そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。
とあるが、聖所にかかわる咎、祭司職にかかわる咎、あなたの父の家のものたちとは一体何だろうと思って、脚注を見ると、父の家の者達とはレビ族全体を指していて、聖所にかかわる咎とは、祭司や聖なるものに関する律法を犯す罪、一般の人が聖所に近づく罪、ささげ物に関する罪等の責任を負わなければならない。と説明してくださっています。
祭司職にかかわる咎とは、祭司が職務執行状犯す罪、祭司の職務を他のものにさせる罪等。彼らはこれらの咎を自分のものとして負うことになるので、そのために必要な購いをしなければならない。と説明してくださっています。

2節に
しかし、貴方の父祖の部族であるレビ族の貴方の身内の者達も、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、貴方とともにいる貴方の子達に仕えるためである。
とありますが、じゃアロンはレビ族にいたんだ。うーん、だれがどこにいたかなんかって全く把握できない。

10節に
あなたはそれを最も聖なる物として食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。
とありますが、なぜ男子だけが食べれるのだろうと思って、脚注を見てもその理由については記されていない。うーん??何でだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の18章36-40節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、36,37節の
イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
そこでピラトはイエスに言った。「それでも、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、イエス様はこの世の人ではないです。私たちもこの世の人ではありません。うん、イエス様に聞き従おうと私たちは必死です。

No.3655 2007/12/22(Sat) 20:33:46

Re: 民数記18章16節まで / 大垣 引用

10節で男女の違いの理由は僕にもよく分かりません。たぶん、レビ族の男女の役割の違い、ということに関係しているのだろうと思います。聖書には男女が同じように神のかたちとして造られた価値あるものであることが書いてあります(創世記1:27)。それと、同時に、それぞれの時代での男女の役割の違いについても書いてあります(創世記2:20−22、エペソ5:22−33など)。

No.3661 2007/12/22(Sat) 22:05:38

再民数記18章16節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記18章16節までを読みます。

創世記1:27・・・
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神の形に彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

創世記2:20−22・・・
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見当たらなかった。
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れてこられた。

エペソ5:22−33・・・
・・・夫は妻のかしらである。・・・
・・・妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。・・・
・・・自分の妻を愛するものは自分を愛しているのです。・・・

4節の
彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかのものがあなたがたに近づいてはならない。
が印象に残りました。

5節に
あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。
とあるが、これは、どういう意味だろうか?と思って、脚注を見ると、
「聖所と祭壇にかかわる直接的な任務は祭司だけが行う。祭司もレビ人も死の罰を受けない為である。こうして選ばれたものたちによって幕屋が管理されることを示し、民の恐怖を取り除こうとする。」
とあるが、今一意味不明である。民の恐怖を取り除こうとしたらイスラエル人に再び怒りが下ることはない???

14節に
イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。
とあるが、聖絶のものとは一体何だろうと思って、脚注を見ると、ここでは民が個々にささげた物(金、銀など)を指すと思われると書いてあります。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は、ヨハネの福音書の19章1-5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、4節の
ピラトは、もう1度外に出てきて、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出してきます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
アメリカのほうの冤罪の番組を見ました。ひどい話で、2人を殺したとされていて、死刑が確定していて、ひょんなことから法律の学生たちが研究しだして、目撃者の証言がおかしいということから疑問を抱き、無罪になり、命拾いした人がいたが、その当時はアメリカでは、凶悪事件が多くて、一度犯人と決めると、何が何でも証拠はでっち上げ、目撃者の証言もでっち上げで作り出していたらしい。その年、死刑確定で無罪になった人が3人もいたらしい。本当、罪も犯していないのに、囚人として生活しなければならないなんておかしいですよね。人生を闇に葬られるんだからそれなりに国に保証してもらわないと・・・
目撃者は警察に脅されたので、偽証罪に問われなかったらしいが、それは妥当だと思うが、脅したほうの警察を何かの罪に問うことはできなかったのか?と思ってしまう。こういう事件が出ると、本当にこの世の中の闇を思います。

No.3663 2007/12/23(Sun) 06:57:31

Re: 民数記18章16節まで / 大垣 引用

5節ですが、17章12-13節で、民は主の幕屋に近づくことが恐ろしいことである(1:51)ことを実感し、民がいずれ主の怒りによって滅びることを恐れています。18章?T-7節で、主はこのような民の恐れを取りのぞくために、選ばれた者たちが幕屋での任務を果たせばよいということを言われたと思います。

No.3712 2007/12/30(Sun) 12:43:50

Re: 民数記18章16節まで / 沙耶香 引用

あーーそうか・・そういう全体的なつながりがあるんですね・・その場その場で何となく雰囲気くらいしかつかめないので、そういうつながりなんかは全くもって分からない・・・本当に難しいです。

No.3719 2007/12/31(Mon) 11:42:35
民数記23章17節まで / 沙耶香 引用

今日は民数記23章17節までを読みます。

3節に
バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行ってきます。多分、主は私に現れて会って下さるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、貴方に知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。
とあるが、裸の丘って何だろう?と思って、脚注を見ると、禿山のことらしい。占い師たちが高いところに上って、神々にうかがいを立てる習慣があったらしいことを説明してくださっています。

8節の
神がのろわれない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されないものに、私がどうして滅びを宣言できようか。
が印象に残りました。

あーお腹と頭が痛い。イエス様癒してください。アーメン・・・

10節に
だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」
とありますが、これはどういう意味だろうか?と思って脚注を見てみたが、何だかよく分からない。頭が混乱する・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の21章3-7節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、7節の
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
主を愛する気持ちはみな同じだ。

No.3713 2007/12/31(Mon) 01:46:40

Re: 民数記23章17節まで / 大垣 引用

7−10節でバラムが唱えたことはへブル語の詩の形式になっていて、同じようなことを繰り返しています。10節の前半のヤコブとイスラエルは、どちらも、イスラエルの民のことです。イスラエルの民はアブラハムの孫のヤコブの子孫であり、ヤコブはイスラエルと名前が変えられたので、イスラエルの民をヤコブと呼ぶことがあります。「ちり」とは、イスラエルの民が主の祝福によって多数になることを表しています。だから前半は、イスラエルの民が主に祝福されて多数である(あるいは将来多数になる)ことを2度繰り返しています。後半は、バラムが、イスラエルの民と同じように自分も祝福されて死ぬことを願って祈っています。これは、僕の考えでは、22章でろばが話したことで、バラムは自分に対する主の怒りを知ったので、主を恐れて自分の死のことを祈り願っているのだと思います。

民数記22章からモアブが出てきますが、チェーン式の聖書の最後の「出エジプトの経路」の地図を見ておいてください。20章1節にある「第1の月」が、脚注にあるように、おそらく出エジプト第40年の最初の月だろうと思います。イスラエルの民は40年間の荒野でのさすらいの最後にさしかかっています。彼らは地図にあるツィンの荒野(20:1)のカデシュ、エドムに使者を送った(20:14)が、エドムの国を通ることを断られました。イスラエルの民はエドムの国の西側(地図の左側)をアカバ湾の端にあるエヅヨシ・ゲベルとエラテの方に向かいました(申命記2:8)。地図の赤い矢印がアカバ湾の方に向かっているのを見ておいてください。これが20:4にある「葦の海の道」を表しているようです。地図の赤い矢印は、そのままエドムの国の西側を上に向かっていますが、おそらくイスラエルの民はエドムの国を迂回するために(20:4)、エドムの国の東側を通って北上し、モアブの国に向かったと思います。21:13でイスラエルの民はアルノン川に着きました。アルノン川は地図に描いてあります。21:20でイスラエルの民はピスガの頂に着きました。このピスガの頂はネボ山の頂上で地図に描いてあります。後に、モーセがこのピスガの頂で亡くなります。21:21−30でイスラエルの民はこのあたりに住んでいたエモリ人たちと戦って土地を占領しました。その後、イスラエルの民はこのあたりから北のバシャンの方に進んでいき、エデレイというヤボク川の近くの場所でバシャンの王の軍隊を全滅させて(21:33−35)、彼らの土地を占領しました。バシャンの国、エデレイの地、ヤボク川の位置が地図に示されています。この後、ヨルダン川の東側のエリコの対岸にイスラエルの民が宿営していたとき(22:2)、モアブの王バラクがイスラエルの民を恐れ、預言者バラムに彼らをのろってくれるよう頼みました(22:2−7)。

No.3714 2007/12/31(Mon) 10:46:46

再民数記23章17節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記23章17節までを読みます。

7節に
バラムは彼のことわざを唱えていった。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れてきた。「来て、私のためにヤコブを呪え。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。」
とありますが、呪うなんて御心ではないのに、どうして、そういうことになるのだろうか?と思って、脚注を見たが、そういうことについては触れていない。

8節に
神がのろわないものを、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されないものに、私がどうして滅びを宣言できようか。
とあるが、神がのろう人なんているの?

あー何だか嫌なことばかりだ。神様イエス様嫌なことを跳ね除けてください。アーメン・・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の21章8-12節を読みます。
神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様のかたられる米お言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
分からないほうが、知らないほうがいいときもある・・・

No.3717 2007/12/31(Mon) 11:00:27

Re: 民数記23章17節まで / 沙耶香 引用

>>これは、僕の考えでは、22章でろばが話したことで、バラムは自分に対する主の怒りを知ったので、主を恐れて自分の死のことを祈り願っているのだと思います。

うーん??そういう文章のつながりは全く分からない。

>>チェーン式の聖書の最後の「出エジプトの経路」の地図を見ておいてください。

ツィンの荒野??どこだろうか?シュルの荒野、エタムの荒野、シンの荒野パランの荒野、あ、ありましたありました。ツィンの荒野・・・カデシュ:バルネアあります。うん、エドムもあります。うん、エドムの左側を通って赤い矢印が示してあります。アカバ湾のエツヨン:ゲベル(エラテ)のほうに向かっています。アルノン川??ないなーーー。エジプト川、ヤボク川ヨルダン川あ、ありましたありました。アルノン川・・・モアブのところだ。ピスガのいただきあります。ネボ山あります。
ふーん、あのモーセの十戒のモーセがこのピスガの頂でなくなるのか・・・ バシャンあります。バシャンに進んでいく。ヤボク川の近くのエデレイあります。ヨルダン川の東側にあるエリコの対岸??見当たらない。ヨルダン川はあるが・・・あっありましたありました。エリコと書いてあります。うーん、何だかいろいろと難しいですね・・・こんがらがります。

No.3718 2007/12/31(Mon) 11:37:27
?Tテモテ1章 / 大垣 引用

?Tテモテ1章。1節。パウロがここでは神を救い主と呼び、ピリピ3章20節では主イエス・キリストを救い主と呼んでいることが印象的。父なる神と子なる神の一体性。

2節。血のつながらないテモテを「信仰による真実のわが子」と呼ぶパウロのテモテへの愛を思います。

3-11節。偽教師の間違った教えに対する警告。偽教師のようにわき道にそれて無益な議論に走らないためには、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標とすると良い。8-10節のように、律法の正しい用い方は、律法を無視する人が、自分の罪を知るように用いる(ローマ7:7−13)。11節のように、栄光の福音によれば、僕たちに自分ではどうしようもない罪があるために、キリストが僕たちのために死なれ、3日後に復活された。

13節。パウロは迫害者であったが、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けた。キリストを信じたのに、悪いことと知っていながら、悪いことをしてしまうことのないようにしたい。

15節。「罪人のかしら」というパウロの自分に対する考えは、やはりパウロがキリスト者たちを迫害したということが大きいと思う。16節にあるように、パウロは神の自分に対する寛容とあわれみを深く実感していた。ルカ7:36-47にあるように、よけいに赦してもらったと自覚するものはよけいに愛する。自分のいろいろな罪を自覚すればするほど、主イエスを愛することができる。

No.3715 2007/12/31(Mon) 10:56:04

Re: ?Tテモテ1章 / 亜衣瑠 引用

4節 空想は果てしない。
5節 主語「命令は」の結論は「愛」が目標である、ということ。
8節 律法について。これも、主語「律法は」述語「良いものです」大変明確である。どういう風に良いものか。9,10節とともに、ロマ6章に関連すると思う。特に6章14−18節を読みます。もはや過ぎ去った、(?Uコリント5:17のように)しかし、一方で罪との戦いは主の日まで続く(ロマ7:14−25)との認識を、弱気にならずに感謝をもって持ち続けたいと思います。
13−15節 パウロの信仰の吐露に感じられます。
16節 このような書き方をすることですることで、前節まで語っている神の寛容、愛、恵みの偉大さをパウロがどれほどまでに理解していたかを現しているように思います。
「見本にしようと」わたしたちには まずイエスさまという手本がある。そしてパウロを始めとする弟子たちがいる。さらに聖書に登場する信仰のお手本の先輩たちがいる。そしてそこに連なる諸先達がいる。わたしたちは 真似する対象を豊富に豊富にいただいている。手本がないので、どうあったらいいかわからない、ということは絶対に言えない。
2,18節 テモテへのパウロの愛。テモテをいとおしむパウロの愛は やはり他の弟子たちと比べたら格別のものだったように感じられる。多分パウロには実子がいなかったと思うのだが、目に見える人たちがたくさんいる中で、ことさらに目をかけ、何かしら他の人とは幾分違って さらに期待をしたくなるような、さらなる成長を願ってかわいらしいと思いたくなるような対象というのが パウロにもあったのだろう。テモテへのまなざしは 福音の務めに燃え立つパウロとはまた少し違ったパウロを感じさせる。
10節「健全な教え」脚注によると、「健全」という言葉は牧会書簡に特徴的とある。これは自動的に 健全とはいえないものが教会内に見受けられた、あるいは見受けられる危険性が大いにあったことの裏返しだろう。(?Uテモテ4:3、テトス1:9,2:1 参照箇所を読む。)
19−20節 どうかわたしを「信仰の破船」にしないでください、どうか、わたしが「ヒメナオとアレキサンデル」になりませんように。そうでなく「テモテ」になりますように。なっていきますように。信仰と正しい良心を抱き続けてこの道を歩むことができますように、どうかイエスさま、力を与えてください。

No.3716 2007/12/31(Mon) 10:59:07
民数記17章 / 沙耶香 引用

今日は、民数記17章を読みます。

2節に
「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに1本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から12本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書き記さなければならない。
とあるが、杖にそういう血統図のようなものを書くなんて昔は面白い習慣がありましたね。
脚注にレビ族を入れると13になると書いてあるが、じゃレビ族は12部族とは別格だったんだ。何だか今一はっきりしない。

8節に
その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽を吹き、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。
とあるが、これはどういう意味だろうと思って、脚注を見ると、アロンが主の召しによって大祭司としての職務についていることが確証されたと同時に、彼がその職務を十分果たしているということだと書いてありました。

10節の
主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の18章26-30節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、29節の
そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
無罪で冤罪で苦しんでいる人、本当に報われない。かわいそうだ。そうかと思えば、罪を犯して捕まらずにのうのうと生活している人もいる。この世の中本当に割に合わない。

No.3651 2007/12/21(Fri) 19:42:36

再民数記17章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度、民数記17章を読みます。

5節に
わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。
とありますが、これはどういう意味だろうかと思って脚注を見ると、「神は、目に見える形で、アロンに対する神の選びを確証される。」とあるが、余計に意味がわからなくなるのだが・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の18章31-35節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、35節の
ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
本当、この世は理不尽なことばかりですね・・・イエス様が再臨されて、悪を完全に裁かれる日が待ち遠しいです。

No.3654 2007/12/22(Sat) 05:56:27

Re: 民数記17章 / 大垣 引用

5節ですが、16章でのコラたちや、イスラエルの会衆の罪の行いは、主がモーセとアロンを選ばれて遣わされた、ということを、信じていないために起きました。それで、主はアロンの選びをよく目に見える形でイスラエル人たちに示されました。

No.3660 2007/12/22(Sat) 21:54:40

Re: 民数記17章 / 沙耶香 引用

じゃ「わたしが選ぶ人」とはアロンのことだろうか?

No.3665 2007/12/23(Sun) 20:09:22

Re: 民数記17章 / 大垣 引用

そうですね。アロンのことだと思います。

No.3711 2007/12/30(Sun) 12:34:40
?Uテサロニケ3章 / 大垣 引用

?Uテサロニケ3章。1-2節。コリントで苦労していたパウロが、コリントでも主のみことばが早く広まり、あがめられるように、パウロたちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されるように、テサロニケのクリスチャンたちが祈ってくれるように頼んでいる。パウロもテサロニケのクリスチャンたちのために、このように祈っていたことだろう。

3-5節。パウロの確信と祈り。どうか主イエスさまが僕たちの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐を持たせてくださいますように。

6-15節。主の再臨が近いとして、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締りのない歩み方をしている人たちについて。パウロは、福音を伝える仕事をしていたので、他の仕事をしないで献金を受ける権利を持っていた(?Tコリント9:11-18)が、そうしないで、昼も夜も天幕作り(使徒18:3)の仕事をして働いていた。自分の権利を主張するより、模範を示すことが大切。締りのない歩み方をしている教会員がいたら、そのような人たちとは交際をしないようにする。これは、その人たちを敵とみなすためではなく、兄弟として戒めるためである。?Tコリント5:12−13にあるように、教会の外部の人たちではなく内部の人たちをさばくことが大切。?Tコリント5章のように外部の人たちにもないほどの不品行をする教会員は除名し、締りのない歩み方をしている人たちとは交際しないようにする。

16節。どうか平和の主イエスさまが、どんな苦しいときも僕たちに平和と心の平安を与えてくださいますように。どうか、主が僕たちとともにおられ、喜びを与えてくださいますように。

No.3708 2007/12/30(Sun) 12:04:28

Re: ?Uテサロニケ3章 / 亜衣瑠 引用

3節「しかし、主は真実な方ですから」 ?Tテサロニケ5:24を思い出す。わたしたちの主が真実な方であるから、わたしたちはこの方を主とあがめ信頼し慕い従います。
5節 この祈りを共に祈ります。どうか、主がわたくしたちの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
9節「模範を示すためでした。」 最高の模範、キリスト・イエス その方をまねして後をたどります。?Tペテロ2:21 
13節「たゆむことなく善を行いなさい。」なにごとも一回こっきりすれば、あのときとても大きな苦労や働きや良い行いをしたから、というわけではない。参照箇所ガラテヤ6:9に
「善を行なうのに飽いてはいけません。」 もちろん、飽くほどの善を このわたしはいまだしたことはありません。しかも、その目的はわが身のため、この世のためではないのです。喜びの収穫の日を迎えたいと思います。そのイメージはもちろんここです。詩篇126:5−6
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」
15節 「その人を敵とはみなさず」 ほんとうの敵は何であるか、の見極めが大切である。
16節 わたしたちの神は平和の神である。「初めから人殺し」の悪魔(ヨハネ8:44)と決定的に違う。悪魔が似せてもどうあっても違う。
6−15節の厳しい警告をパウロがしなくてはいけない状態が実際にあったということを思う。いつも人間には誘惑がつきまとう。
17節 「これが私の手紙の書き方です。」がちょっと面白く感じる。たとえ、パウロでない人物が「これが私パウロの書き方です」と記して書いたとしても、きっと読む側には知れたことだろう。たとえ一時的に巧妙な偽ものが回覧されたことがあったとしても、神がそれを明らかにされたことだろう。

No.3710 2007/12/30(Sun) 12:27:51
民数記22章20節まで / 沙耶香 引用

今日は民数記22章20節までを読みます。

もう年末で、大掃除や買出しにお忙しいかもしれないですね・・・今年もイエス様を初めいろんな方にお世話になりました。どうぞみなさん、良いお年をお迎えくださいませ。

4節に
そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。
とあるが、モアブって一人の人なのだろうか?それとも民族の総称だろうか?モアブで聖書検索してみると、モアブ民族の先祖をモアブと名づけたそうだ。

あー、大掃除の手伝いとかしてかなり疲れたので、しんどくて頭が集中しないが、そういう時も霊を通して癒しを起こしてくださると信じます。

17節に
私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。」」
とありますが、この民とはモアブのことだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の20章14-18節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、17節の
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」と告げなさい。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
子なる神様と父なる神様・・・偉大な存在・・・

No.3698 2007/12/28(Fri) 21:01:58

再民数記22章20節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記22章20節までを読みます。

5節に
そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを、招こうとして使者を遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出てきている。今や、彼らは地の面を覆って、私の直ぐ側にとどまっている。
とありますが、これはどういう意味だろうか?と思って、脚注を見ると、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトル=モアブはロトの子孫で、ロトはイスラエルの先祖アブラハムのおい。ペトルはアブラハムの故郷と同地と考えられる。
バラム=占い師であり、預言者としての働きもしていた。バラムの力はかなり高く評価されていたようである。
と説明くださっているだけで、全体の意味はあまりよくつかめないなーー。

6節の
どうか今来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福するものは祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」
が印象に残りました。神様の真理そのものですね・・・

18節の
しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の20章19-23節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、23節の
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
がかなり強く気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、やはり人にされたあまりにもひどい仕打ちは赦せないことが多いけれど、それだと自分の罪も神様に赦していただけない。自分も同じ罪人で日ごろから罪を重ねて生きている同じ人間だと考えないと・・・

No.3700 2007/12/29(Sat) 10:49:19

Re: 民数記22章20節まで / 大垣 引用

5−6節はイスラエルの民が攻めてくるのを恐れたモアブの王が、預言者バラクにイスラエルの民をのろってくれるように頼みました。

9-12節で神はバラクにはっきりイスラエルの民が祝福されているので、のろってはいけないことを言われました。

13節でバラクはモアブの頼みを断りました。

15-17節で、モアブの王は前の者より大ぜいの、しかも位の高い者を遣わし、もう一度バラクにイスラエルの民をのろってくれるように頼みました。だから、17節の「この民」とは、イスラエルの民のことです。

このように2度目にモアブからイスラエルの民をのろってほしいと頼まれたとき、バラクはどうするべきだったか、考えてみてください。

No.3701 2007/12/29(Sat) 13:28:31

Re: 民数記22章20節まで / 沙耶香 引用

うーん、文章のつながりが全く分からなかったです。

>>このように2度目にモアブからイスラエルの民をのろってほしいと頼まれたとき、バラクはどうするべきだったか、考えてみてください。

うーん??のろうのはよくないから、のろわないほうがいいのでは・・・?

No.3705 2007/12/30(Sun) 06:55:09

Re: 民数記22章20節まで / 大垣 引用

そうですね。一度目にはっきり神がイスラエルの民は祝福されているので、のろってはいけないとバラクに言われました。だから、2度目にイスラエルの民をのろうように頼まれたとき、バラクはすぐに断るべきだったと思います。

No.3707 2007/12/30(Sun) 11:57:56
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