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ヨハネの福音書1章 / 沙耶香 引用

今日からヨハネを読もうと思います。
今日は初めの1章を読みます。なれないのでなかなかてこずるとは思うのです・・・

すべての造り主が神だということが最初に書いてあると思います。
神様に命がありこの命は人の光であり、神から遣わされたヨハネという人が現れ、この光についてあかししていた。神様は御自分の国にこられたのに、御自分の民は受け入れなかった。神様の名を受け入れた人々だけ神の子とされる特権があったことが書かれています。
14節の
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。とはどういう意味だろうか?ことばが人となる・・・御言葉のことだろうか?・・・うーん、でもよく分からない・・・
15節の
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「「私のあとからくる方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。」と私が言ったのは、この方のことです。」は神様のことを私より先におられたからであると言っているのだろうか?私より先におられたとはどういうことだろうか?いろいろ考え出すと混乱する・・・

子なる神様が父なる神様のことを解き明かされた。
ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネに遣わし、誰かと聞くと、キリストでもなく預言者でもなくエリヤでもなく、「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいるものの声だと言った。
彼らはキリストでもなく預言者でもなくエリヤでもないのに何でバプテスマを授けてるんだとヨハネに尋ねると、私は水でバプテスマを授けているが、あなた方の知らない人があなた方の中に立っておられるといった。
ヨハネはイエス様が自分のほうにこられるのを見て世の罪を取り除く神の子羊、この方のためにバプテスマを授けているのですと伝えた。
ヨハネは御霊が天から下って、イエス様の上に留まられるのを見たと証言した。
ヨハネもイエス様のことを知らなかったが、聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのが貴方に見えたなら、その方こそ聖霊によってバプテスマを授けるかたである。とある方に言われ、それを実際に見てそれでこの方が神の子であると証言しているのですと伝えた。
ヨハネから聞いて、イエス様についていった二人のうちの一人はペテロの兄弟アンデレであった。
イエス様はガリラヤに行こうとされてピリポを見つけて、私に従ってきなさいといわれた。
ピリポはナタナエルを見つけてイエス様のことを告げた。ナタナエルは最初はイエス様のことを受け入れなかったが、イエス様の不思議な御技で、神の子だと信じた。
・・・大体このようなことが書かれていると思います。

何度も読み返さないと分からないし、読み返してもなかなか頭に入らないし、情景も浮かばない。本当に悪戦苦闘で・・・読解力があり、読書が趣味だという人が羨ましいです。

No.1596 2007/01/24(Wed) 20:41:09

Re: ヨハネの福音書1章 / 昌夫 引用

1章の1−18節は、ヨハネの福音書全体の序言となっています。だから、よく分からないところは、全体を読んでから、もう一度読んでみると、よりよく理解できると思います。今は分からなくても、繰り返し読むうちに分かってくるし、祈っていれば、今、分かるべきところは、すべて神さまが教えてくださいます。だから、分からないところが多くても、がっかりしないで大丈夫です。あせらずに、祈りのなかで、ゆっくり読んでいってください。詩篇に比べて長いので、一章全部を読まずに、適当な長さだけ読んでいっても良いと思います。

1節の「ことば」とあるのは、もとのギリシア語でロゴスという言葉の訳です。ロゴスとは、神を啓示する手段という意味があるようです。「ことば」と書くと、混乱するので、ロゴスと書くことにします。

6節はヨハネは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人です。この福音書を書いたヨハネは、12使徒の一人のヨハネで、別の人です。

ここで、創世記1章の1−3節を読んでみてください。創世記の「神」は父なる神で、3節で「光よ。あれ。」と神が言われたことばが、ロゴスだと言われています。父なる神が、ロゴスによって、世界を創造されました。ロゴスが、子なる神です。1節で「神の霊」とあるのが、聖霊です。父なる神と、ロゴスと、聖霊は、異なる人格(神学では位格)と言いますを持たれていますが、三位一体のひとつの神です。

14節で、ロゴスが人となられたのは、ロゴスが、処女マリヤさまから、人間のイエスさまとして、お生まれになったことを書いています。こうして神であられるロゴスが、天からこの世に降臨され、人間のイエスさまとして、人間たちの間に住まわれました。

15章で、バプテスマのヨハネは、人間としては、イエスさまより先に生まれたのですが、イエスさまがロゴスであり、ロゴスは、自分よりも先にあったということを知って「私より先におられれた」と言ったのだと思います。

21節で、「あの預言者」とは、普通の預言者ではなく、モーセが申命記18章15節で預言した、特別な預言者です。この預言者とは、実は、20節の「キリスト」なのですが、質問者は、このことを理解していませんでした。それで、バプテスマのヨハネが自分はキリストではない、と20節で言ったのに、「あなたはあの預言者ですか。」と聞きました。

No.1598 2007/01/25(Thu) 03:22:57

再ヨハネの福音書1章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度ヨハネ1章を読みます。

ふーん、ことば=ロゴス=神を啓示する手段・・・??
えーー?同じヨハネで違う人なの?紛らわしいですね・・・バプテスマのヨハネと使徒の一人のヨハネと違う人なの?うーん、分かりづらい・・・

創世記1章の1−3節・・・
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

えーーロゴスが子なる神なの?えーだって「光よ。あれ」といわれたことがロゴスなんでしょ?だったら「光よ。あれ」=子なる神ということになりますよ・・・おかしいことないですか?もーーー頭が混乱してきました。
2節で「神の霊」とあるのが聖霊・・・

あ、そうですね・・・14節を読むとことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとからこられたひとり子としての栄光である。この方は恵とまことに満ちておられた。
だからことばが子なる神だと分かりますね・・・

15節のバプテスマのヨハネは人間としてはイエス様より先に生まれたが、イエス様がロゴスであり、ロゴスは自分よりも先にあったということを知ってとあるが、何でロゴスは自分より先にあったの?
これが「光よ。あれ」と関係あるんだろうか?
これがロゴスだから光は先にあっただろうから・・・

申命記18章15節・・・
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

21節の解説は意味不明です。(せっかく解説してくれているのに、それを読んで意味不明なんて言うのは失礼なのですが、分からないものは分からないので・・・)何がなんだか分からないです。結局はバプテスマのヨハネがキリストなんですか?うーん???混乱している・・分からない・・・

ではもう一度通読します。
13節の
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。はクリスチャンのことだろうか?

えーー?管理人さんは21節のあの預言者は20節のキリストだとおっしゃるけれど、この預言者が27節でその方は私のあとからこられる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。とその方=キリストと預言者が別人であることを言っていると思うのだけれど・・・???もーーーいろいろ考えていると余計に分からない・・・何がなんだか分からない・・・

日が入ってきて見えづらい。カーテン閉めているがもう25年も前につけたやつだから破れていてカーテンの役目果たしていないのだ。しかしこのことにも感謝します。きっとこのことをも神様が益としてくださるから感謝します。

ナタナエルという人はなんだか私は御使いのような気がしてしまうのです。ガブリエルと名前が似ているので・・・

No.1600 2007/01/25(Thu) 12:14:22

Re: ヨハネの福音書1章 / 昌夫 引用

>バプテスマのヨハネと使徒の一人のヨハネと違う人なの?うーん、分かりづらい・・・

ヨハネの福音書の中では、「ヨハネ」とは、みな、「バプテスマのヨハネ」です。使徒のヨハネは、著者自身なので、名前を出していません。そういう意味で分かりやすいです。他の福音書では、どちらのヨハネが注意して読む必要があります。例えば、マタイ3章1節で、「バプテスマのヨハネ」とあるので、4、5,13,14,15節の「ヨハネ」は「バプテスマのヨハネ」だと分かります。マタイ14章10節で、バプテスマのヨハネは殺されます。だから、時間的にそれ以後に出てくる「ヨハネ」は、使徒のヨハネだと分かります。、例えば、17章1節に出てくる「ヨハネ」は使徒のヨハネです。

ヨハネの1章の1節の「ことば」、または「ロゴス」が、子なる神です。4節にあるように、ロゴスに中に「いのち」があり、「いのち」は「光」です。

このロゴスが、天から降りてこられ人間となられたのが、イエスです。イエスは、キリスト(20節)であり、モーセが預言した「あの預言者」(21節)です。

子なる神は天地や動物や人間を創造されたので、バプテスマのヨハネや、他の人間よりも、「先におられ」ました(15節、30節)。人間としてのイエスは、バプテスマのヨハネの後から生まれられたので、「あとから来る」方でした(15節、30節)。

20節と21節で、バプテスマのヨハネは、自分は、キリストでもないし、「あの預言者」でもない、と正しく言っています。

No.1602 2007/01/25(Thu) 23:08:04

Re: ヨハネの福音書1章 / 沙耶香 引用

えーーー?私はヨハネといえばヨハネ一人だと思っていたので、使徒のヨハネとバプテスマのヨハネといるという時点で混乱します。
ヨハネの福音書の中ではみなバプテスマのヨハネ
使徒のヨハネは著者自身
マタイのヨハネは最初はバプテスマのヨハネだが、14章10節でバプテスマのヨハネが殺されるのでそれ以降に出てくるヨハネは使徒のヨハネ・・・
子なる神の中にいのちがありいのちは光・・・・うん、なんだか分かるような分からないような・・・

えーー???でもイエス様は20節でキリストではないと告げているし、21節であの預言者でもないと言っているではないですか?
なのに管理人さんはなぜ、イエス様はキリストであり、あの預言者だと言っているの?

うーーーん???子なる神が天地や動物や人間を創造されたので、バプテスマのヨハネやほかの人間よりも先におられたが人間としてのイエス様はバプテスマのヨハネの後から生まれられたので、後からくる方・・???
よく言っている、100%人間であり、100%神様であるという表現がありますよね?その神様の部分が先におられたけれど、人間の部分はバプテスマのヨハネの後から生まれたということかな?

あ、20節と21節で言っているのはバプテスマのヨハネのことなのですか?
あ、そうですね・・・19節でヨハネの証言はこうである。という感じで言っていますね・・
うん、イエス様はキリストであり、モーセが預言したあの預言者なのですね・・・
このモーセが預言したあの預言者というのはなんだろうか?前にも聞いたかもしれないが、分からない・・・頭が劣っているので・・・

No.1604 2007/01/26(Fri) 02:09:05

Re: ヨハネの福音書1章 / 昌夫 引用

>よく言っている、100%人間であり、100%神様であるという表現がありますよね?その神様の部分が先におられたけれど、人間の部分はバプテスマのヨハネの後から生まれたということかな?

だいたいそういうことです。ただ、「神さまの部分」「人間の部分」という風に言うと、まるで、部分ごとに分けることができるようなので、神さまとして先におられたけど、人間として生まれられたのは後、と言うほうが良いと思います。

>モーセが預言したあの預言者というのはなんだろうか?

申命記18章15節に書いてある預言者のことです。

No.1606 2007/01/26(Fri) 13:27:53

Re: ヨハネの福音書1章 / 沙耶香 引用

申命記18章15節・・・
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
でもこの預言者はキリストのことなのでしょ?この預言者の部分をキリストに当てはめるとなんだかおかしくありませんか?

No.1609 2007/01/26(Fri) 19:41:17

Re: ヨハネの福音書1章 / 昌夫 引用

沙耶香さんの質問の意味がよく分からないのですが、関連すると思えることを書いてみます。人間としてイエスは申命記18章15節に書いている「預言者」であり、永遠の王であり、大祭司であられます。永遠の王とは、第2サムエル記7章8−16節で主がダビデに約束された王のことです。イエスが永遠の大祭司であるということは、へブル書に書いてあるので、いつか、へブル書を読んでから詳しく考えてください。簡単に書くと、モーセの律法では、大祭司が、動物のいけにえをささえて民の罪を贖いました。イエスは、大祭司として、ご自分をいけにえとして、ささげられて、僕たちの罪を贖われました。ヨハネの福音書では、イエスがキリストであり、預言者であることを、書いています。

1章19−24で、パリサイ人の中から遣わされて、バプテスマのヨハネに質問している人たちは、キリストが来ることは旧約聖書を読んで分かっていたので、ヨハネがキリストかどうか、ということを知りたかったのです。彼らは第2サムエル記7章8−16節の永遠の王が、キリストであることは理解していました。だから、ヨハネが「私はキリストではありません。」と答えたので、ヨハネは永遠の王ではないと理解したはずです。

でも、彼らは、申命記18章15節に書いている「預言者」は、キリストとは別の人が、いつか主から送られてくるのだと思っていたのです。それで、「あなたはあの預言者ですか。」と質問しました。

No.1611 2007/01/27(Sat) 00:10:41

Re: ヨハネの福音書1章 / 沙耶香 引用

第二サムエル記7章8-16節・・・
主はダビデをイスラエルの君主とした。
万軍の主がイスラエルを守るので、イスラエルの民は何の不安も心配もない。キリストが永遠の王座を保つことを書いているのかな?
何が分からないかが分からない・・・何が何だか分からない・・・・

No.1616 2007/01/27(Sat) 08:47:49

Re: ヨハネの福音書1章 / 昌夫 引用

>何が分からないかが分からない・

そういうときは、今は、その部分は分からなくとも良いということだと思います。気にせずに、他のもっとよく分かるところを時間をかけて読むようにしてください。

No.1618 2007/01/27(Sat) 08:52:55
次に読む書 / 昌夫 引用

沙耶香さんが、さらに聖書をここで読み進められるなら、次は、新約聖書が良いのではないかと思いますが、どうでしょうか。福音書の中で、ヨハネか、ルカが良いと思います。ヨハネの福音書には、イエスさまが、神であられ、いのちのパンであられることなど、霊的なことが多く書かれています。これに対し、ルカの福音書は、歴史的な出来事を中心に書かれています。

もし、旧約聖書を読むことをつづけられるなら、沙耶香さんがなじんできた詩の形式で書かれた部分の多いヨブ記か、歴史的な出来事を詳しく知るために、創世記を読むと良いと思います。

休養をとるか、どれかの書を読みつづけるか、祈ったり牧師か信頼する兄弟姉妹と相談したりして検討してみてください。

No.1593 2007/01/24(Wed) 00:55:15

Re: 次に読む書 / 沙耶香 引用

そうですね・・・休養を取ることは考えていません。今日祈って、ヨハネにしようかと思うのだけれど・・・

No.1595 2007/01/24(Wed) 19:47:25

Re: 次に読む書 / BISKO 引用

> そうですね・・・休養を取ることは考えていません。今日祈って、ヨハネにしようかと思うのだけれど・・・

こんにちは。

管理人さんに一つサジェスチョンがあるんですが、

この掲示板の構造上、聖書の通読とその解説を連続して書き込んでいると、ログが次から次へと流れてしまい、掲示板をかねてから見ている人たちは元より、たまたまここを訪れた人などは、何がどう話されているのか、皆目見当がつかないということになってしまう気がします。

少なくとも、詩篇の通読にて交わされた会話の経緯に関しては、別途まとめて、別ページに掲載し直すなどの処置を施したほうが良い気がします。

また、今後同様な 通読+解説 を行うならば、この掲示板の構造は、的確ではないようにも思います。

老婆心ですが、一応 ご指摘させていただきました。

ヨハネの福音書の通読、がんばってください。 

No.1597 2007/01/24(Wed) 22:01:20

Re: 次に読む書 / 昌夫 引用

BISKOさん、サジェスチョンに感謝します。
詩篇の通読というような、別ページを作ることを検討してみたいと思います。大きな変化は、基本的に慎重に時間をかけて祈りのなかで検討することにしていますので、ご理解ください。

No.1599 2007/01/25(Thu) 03:27:56
詩篇147-150章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇147-150章を読みます。

147章
2節の
主はエルサレムを建て、
イスラエルの追い散らされたものを集める。とはどういう意味だろうか?
イスラエルの追い散らされたもの??何のことだろうか?

3節に
主は心の打ち砕かれたものを癒し
彼らの傷を包むとあります。解説に心の打ち砕かれたもの=失望したものとあります。この御言葉は私のための者みたいな感じですね・・・

6節の
主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面にひき下ろすが印象に残りました。

13節の
主は、あなたの門のかんぬきを強め、
あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。はどういう意味だろうか?

14節の
主は、あなたの地境に平和を置き、
最良の小麦であなたを満たされる。はどういう意味だろうか?

149章
2節の
イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。
シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。はどういう意味だろうか?おのれの王とはイエス様のことだろうか?

やっと詩篇が全部終わった。長かった。疲れた・・・

No.1591 2007/01/23(Tue) 20:21:29

Re: 詩篇147-150章 / 昌夫 引用

詩篇の通読の完了、おめでとうございます。活字アレルギーというほど読書のきらいな沙耶香さんが、ずっと読んでこられた苦労を思います。

147篇はバビロン捕囚を背景としています。

2節は、紀元前586年にバビロンに滅ぼされたエルサレムを、主が、また建てられること。捕囚となって、遠くの地に追い散らされたイスラエルの人々をイスラエルに集められること、を書いています。

13−14節の「あなた」はエルサレムです。13節ではバビロンがエルサレムを滅ぼしたとき、エルサレムを守っていた城壁や門のかんぬきも破壊されました。主が、捕囚からエルサレムに帰ってきた民を守るために、城壁や門のかんぬきを修理されることを書いています。

14節は、エルサレムに平和を与え、地境に、敵軍がおしよせてこないようにして、最良の小麦などの農作物で、エルサレムに帰ってきた民を祝福されることを書いています。

149篇の2節、おのれの王とは、エルサレムを都とするイスラエルの王です。永遠のイスラエルの王は、イエスさまです。だから、おのれの王にあって楽しめ、とは、「主イエスさまにあって、楽しめ」ということです。僕たちが、主を忘れて自分勝手に楽しんでいると罪になるのですが、主にあって喜び楽しむとき、神さまが喜んでくださいます。素晴らしいですね。ハレルヤ。

No.1592 2007/01/24(Wed) 00:44:05

再詩篇147-150章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇147-150章を読みます。

やはり何でも主イエス様にあって楽しむ、喜びを共有するという気持ちが大事ですよね。
うん、自分勝手に自分の欲望を満たしていると罪になりますが、主イエス様とともに喜ぶときに私たちクリスチャンは本当の祝福を得られます。

147章
5節の
われらの主は偉大であり、力に富み、
その英知は測りがたい。が印象に残りました。

149章
6節の
彼らの口には、神への称賛、
彼らの手には、もろ刃の剣があるように。が印象に残りました。

No.1594 2007/01/24(Wed) 10:29:22
詩篇145,146章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇145,146章を読みます。

146章
8,9節の
主は盲人の目をあけ、
主はかがんでいるものを起こされる。
主は正しい者を愛し、
主は在留異国人を守り、
みなしごとやもめをささえられる。
しかし主は悪者の道を曲げられる。はどういう意味だろうか?

No.1586 2007/01/22(Mon) 19:58:36

再詩篇145,146章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇145,146章を読みます。

145章
8節の
主は情け深く、あわれみ深く、
怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。が印象に残りました。
14節の
主は倒れるものをみなささえ、
かがんでいるものをみな起こされます。が印象に残りました。
16節の
あなたは御手を開き、
すべての生けるものの願いを満たされます。が印象に残りました。
20節の
すべて主を愛するものは主が守られる。
しかし、悪者はすべて滅ぼされる。が印象に残りました。

No.1588 2007/01/23(Tue) 09:13:17

Re: 詩篇145,146章 / 昌夫 引用

146−150篇は、詩篇の書の最後を飾る賛美の詩篇で、「ハレルヤ詩篇」と呼ばれています。

146篇の8節の「盲人の目をあけ」は、実際に主キリストは、盲人の目が見えるようにされました。また、これは、霊的に目が見えず、神の存在も分からなくなっている人間を主が奇蹟の力で、神の存在や愛や力を理解するようにされることを書いています。

9節の在留異国人とは、イスラエル人でない異邦人で、イスラエルに在留していた人たちです。やもめは、夫を亡くした婦人です。在留異国人と、やもめは、当時のイスラエルの弱者の代表でした。だから9節の最初の2行は主が弱者を守り、ささえられることを書いています。「主は悪者の道を曲げられる」とは、主が悪者の計画がうまくいかないようにされる、という意味だと思います。

No.1589 2007/01/23(Tue) 10:08:49

Re: 詩篇145,146章 / 沙耶香 引用

へーーだとすると私には嬉しい一節だということになります。私は弱者の代名詞だから・・・
何も自慢しているわけではありません。私だって本当はこの世的に祝福されている強者でいたいけれど、何分今は精神障害者で自宅でいる身です。そういう人も神様を知ってイエス様とともに勝利を勝ち取り、いろいろ祝福されて生きていると楽しいんだと伝えたいのです。
いつものことだが、だんだん何が言いたいのか分からなくなってきました。

No.1590 2007/01/23(Tue) 19:49:36
詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇133-135章を読みました。

133章
2節の
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。
それはひげに、アロンのひげに流れて
その衣のえりにまで流れしたたる。はどういう意味だろうか?

8節に
主はエジプトの初子を
人から獣に至るまで打たれた。とあるが、これはどういうことなのだろうか?何で主がこんなことをなさるんだろうか?

9-12節でも何だか前節に続く恐ろしいことが書かれてあるが、戦争でもしているんだろうか?
何だか時代背景が全く分からないので掴み取れない。

No.1557 2007/01/18(Thu) 02:00:26

Re: 詩篇133-135章 / 昌夫 引用

133篇2節は、モーセの兄のアロンが大祭司に任命されて、油を頭からそそがれたときの様子です。出エジプト記28章42節で、主が、大祭司と祭司の任職式のときに、アロンとその子らに油をそそぐように命じられています。1節のように、兄弟が一つになって住むことは、大祭司の任職式の喜びほどに大きいと書いています。

135篇の8−12節はイスラエルの歴史のことを書いています。8節は、78篇の51節と同じように出エジプト記12章29−30のことを書いています。

イスラエルの民を奴隷にしていたエジプトのパロは、主がモーセとアロンを通して、民を解放するように命じても聞き入れなかったのです。その罪のために、主は78篇の44−50節のように、ナイル川の水を血に変えたり、あぶの群れを送ったりして、エジプトを罰されました。このことが、135篇の9節に書いてあります。それでも、パロは主に聞き従わなかったので、ついに、主はエジプトの初子を打たれました。この恐ろしい罰のために、パロは、ついに、イスラエルの民に、エジプトを出る許可を与えました。主はいつくしみ深く、あわれみ深いですが、いつまでも悔い改めずに罪の行為を繰り返す者には、恐ろしい罰を与えられます。

135篇11節の前半の「エモリ人の王シホン、バシャンの王オグ」は、イスラエルの民が、カナンの地に向かっていたときに、イスラエルの民と戦争をした王です。この2人の王の軍隊に対して、主がイスラエルの民に勝利を与えられたことを書いています。民数記の21章21−35節に、このことが書いてあります。

10−12節は、エジプトを出た後に、主がイスラエルの民に、さまざまな王国に対する戦争での勝利を与えられ、領土を与えられたことを書いています。

11節後半の「カナンのすべての王国を。」とは、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がヨルダン川を渡って入った約束の地のカナンに多くあった王国に対する戦争で、主がイスラエルに勝利を与えられたことを書いています。

No.1558 2007/01/18(Thu) 03:45:18

再詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇133-135章を読みました。

出エジプト記28章42節・・・彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。腰からももにまで届くようにしなければならない。
これが主が、大祭司と祭司の任職式のときに、アロンとその子らに油をそそぐように命じられていることなの?ふーん・・・何だか意味不明・・・
133章2節はモーセの兄のアロンが大祭司に任命されて、油を頭からそそがれたときの様子ですか・・・?

詩篇78章の51節
また、エジプトのすべての初子、ハムの天幕の彼らの力の初めの子らを打ち殺された。
出エジプト記12章29-30
真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

ところで初子ってなんだろうか?エジプトの初子を打たれた・・・初子??

民数記21章21-35節・・・読みましたが、あまりよく分からない。

うーん、何だか時代背景が密接にかかわり難しいですね・・もう一度読みます。
うーん、読んでもあまりピンとこないですね・・・

No.1559 2007/01/18(Thu) 10:20:11

Re: 詩篇133-135章 / 昌夫 引用

>これが主が、大祭司と祭司の任職式のときに、アロンとその子らに油をそそぐように命じられていることなの?

すみません。間違いました。出エジプト記28章41節です。「彼らに油をそそぎ」とあります。

詩篇135篇8節に出てくる初子とは、長子のことで、初めて生まれる男の子のことです。父親が亡くなったときに、父親の財産を他の子の分の2倍受けつぐことになっていました。

No.1560 2007/01/18(Thu) 14:09:30

Re: 詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

出エジプト記28章41節・・・これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。
・・・うん、これなら分かります。
ふーーーん、昔は長男が相当もてはやされていたんですね・・

No.1561 2007/01/18(Thu) 19:43:37

Re: 詩篇133-135章 / 昌夫 引用

>ふーーーん、昔は長男が相当もてはやされていたんですね

長男に2倍の分け前を与えるということは、申命記21章15−17節にある律法にあります。現代の感覚からいうと、不公平に思えるところです。「現代の感覚が正しく、昔のことは時代遅れである」という風に考えると、混乱すると思います。

聖書では、人間は一人一人神のかたちに造られていて存在として価値が平等であるけれど、役割の違いはある、ということが書いてあります。時には役割は主従の関係になります。子なる神たるイエスも、父なる神も、ともに存在として神であるけれど、役割は異なり、子なる神は父なる神に従われます。少なくとも律法が与えられた当時は、長男に父の財産を、他の息子よりも2倍うけつぐ役割が与えられていました。

財産はこの世のことなので、霊的には長男と他の息子の役割は反対になっていることが多いようです。例えばアブラハムの息子、イサクには、長男のエサウと次男のヤコブがいました。神さまは、アブラハムとイサクに与えられた約束という霊的な財産をつぐ息子を、長男のエサウではなく、次男のヤコブにされました。創世記25章19−34節、27章1−40節に、イサクとヤコブの長男の権利のことが書いてあります。

No.1563 2007/01/18(Thu) 23:53:34

Re: 詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

申命記21章15−17節・・・読みました。では今もこの御言葉は生かされるのですか?だって御言葉は永遠に神の言葉だから変わらないのでしょ?そうしたら今も長男が2倍の分け前を取るのですか?

創世記25章19-34節・・・うん、ヤコブがエサウに長男の権利を譲ったことが書いてあると思います。
創世記27章1-40節・・・イサクが長男を祝福しようとしていたが、ヤコブがエサワになりすまし、騙したことが書いてあると思います。

No.1565 2007/01/19(Fri) 09:10:02

Re: 詩篇133-135章 / 昌夫 引用

>申命記21章15−17節・・・読みました。では今もこの御言葉は生かされるのですか?だって御言葉は永遠に神の言葉だから変わらないのでしょ?

御言葉は永遠に変わらないし、神も永遠に変わりません。でも、人間は歴史の中で変わっていきます。それで、人間と神の関係も変わっていきます。人間の神の関係は、神に与えられる契約で決まってきます。キリストの十字架の後には、人間には新しい契約が与えられているので、申命記にあるモーセの律法は、そのままでは今の人間にはあてはまらないのです。

ただしモーセの律法の基礎になっている精神は、神の聖なる愛です。だから、律法にある行いの規定どおりに行動するのではなく、律法の精神に従うようにするいことは大切だと思います。

No.1568 2007/01/19(Fri) 14:05:18

Re: 詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

何だか難しくて理解しがたいですね・・・
じゃ、今は長男がほかの人の2倍の相続の権利を持つという考えはどうなるの?
継続されているの?

No.1574 2007/01/21(Sun) 06:08:07

Re: 詩篇133-135章 / 昌夫 引用

クリスチャンは、モーセの律法の行いの規定に文字通りに従わなくて良いのです。だから長男の遺産を2倍にするという行いをする必要はありません。かえって、文字通りに従った行いをすることばかり気にしていると、信仰と愛の心を忘れた律法主義におちいる危険があります。

けれども、これは、申命記21章15-17節を、クリスチャンは無視して良いということではありません。この律法の背後には、自分の生きている社会の慣習にあわせて自分の子供たちを、えこひいきしないで公平に扱わないといけない、という考えがあると思います。この考えは、人間の気まぐれな愛ではなくて、神さまの公平な愛からの考えなので、クリスチャンも聞き従う必要があると思います。

No.1577 2007/01/21(Sun) 11:09:13

Re: 詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

ふーん、何だか難しいですね・・・律法主義でもいけないけれど、申命記21章15-17節を無視してはいけない・・・その時々によって神様に従いなさいということかな?

No.1583 2007/01/22(Mon) 09:03:50

Re: 詩篇133-135章 / 昌夫 引用

いつも神さまを信頼して拠り頼んで、神さまの方に心を向けていれば、いつも神さまに聞き従えるようにしていただけると思います。そういう単純なことですが、これが人間には難しいと思います。

律法主義というのは、結局、神さまの律法に文字通り従う行いを見たあと、神さまの方に心を向けるのをやめて、行いをする自分の力に心を向けるとうことです。それで、行いをして、自分の力を誇ることになります。

申命記21章15-17節を無視するということは、聖句を読んでも、心を神さまに向けないで、自分の考えに向ける、ということです。

No.1584 2007/01/22(Mon) 11:42:42

Re: 詩篇133-135章 / 沙耶香 引用

うーん、頭が混乱しますね・・・

No.1587 2007/01/23(Tue) 08:52:19
詩篇142,143,144章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇142,143,144章を読みます。

144章
5節の
主よ。あなたの天を押し曲げて降りてきてください。
山々に触れて、煙を出させてください。はどういう意味だろうか?主に何か祈っているというのはわかるのだが・・・

続く6節の
いなずまを放って、彼らを散らし、
あなたの矢を放って、
彼らをかき乱してください。
も意味がわからない。

11節に
私を、外国人の手から解放し、
救い出してください。
彼らの口はうそを言い、
その右の手は偽りの右の手です。とありますが、外国人の手から解放しとはどういう意味だろうか?

12節の
私たちの息子らが、若いときに、
よく育った若木のようになりますように。
私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた
隅の柱のようになりますように。はどういう意味だろうか?刻まれた隅の柱ってなんだろうか?

何だかやっぱり意味があまり汲み取れないですね・・・難しいですね・・・

No.1580 2007/01/21(Sun) 23:42:07

Re: 詩篇142,143,144章 / 昌夫 引用

144篇5-8節は、王である詩人が、主に天から降りてきて敵や大水などの災害から救ってくださるようにお願いしています。

144篇5節の前半は、18篇9節の前半とよく似ていますね。18篇では、主が詩人を助けるために天から力強く降りてこられた様子を描いていました。144篇では、詩人が主に天から降りてきてくださるようにお願いしています。詩人は出エジプト記19章18節で主がシナイ山に降りてこられたとき山々から煙が出たたことを思いながら、144篇5節の後半部を書いたのだろうと思います。

6節では、詩人は主に、いなずまを使って敵の軍隊を散らし、かき乱してくださるようにお願いしています。

11節は、7節の後半と8節を繰り返していることを確認してください。外国人とは、王である詩人と戦争をしている敵の外国人たちのことで、彼らは真の神である主を信仰しないので、偽りに満ちていて信用できないことを書いています。9-10節の賛美を、このように信用できない外国人からの救いの嘆願でサンドイッチにすることによって、主は信頼できる方であることを強調していると思います。

12節で、息子の壮健さを若木にたとえることは、詩篇128篇3節に出てきました。後半は、娘たちの美しさを、宮殿の柱に刻まれた美しい彫刻にたとえています。

No.1581 2007/01/22(Mon) 02:33:54

再詩篇142,143,144章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇142,143,144章を読みます。

18章9節
主は、天を押し曲げて降りてこられた。
暗闇をその足の下にして。
144章5節
主よ。あなたの天を押し曲げて降りてきてください。
山々に触れて、煙を出させてください。
出エジプト記19章18節
シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りてこられたからである。その煙は、
かまどの煙のように立ちのぼり、全山が激しく震えた。

11節は7節の後半と8節を繰り返している・・・
7節
いと高きところからあなたの御手を伸べ、
大水から、また外国人の手から、
私を解放し、救い出してください。
8節
彼らの口はうそをいい、
その右の手は偽りの右の手です。
11節
私を、外国人の手から解放し、
救い出してください。
彼らの口はうそをいい、
その右の手は偽りの右の手です。
うん・・本当、11節は、7,8節を繰り返していると思えます。

9節
神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、
十弦のことをもってあなたに、褒め歌を歌います。
10節
神は王達に救いを与え、
神のしもべダビデを、悪の剣から解放されます。
主は信頼できる方であることを強調しているんだ・・・ふーん・・・

128章3節
あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、
豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。
あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、
オリーブの木を囲む若木のようだ。
144章12節
私たちの息子らが、若いときに、
よく育った若木のようになりますように。
私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた
隅の柱のようになりますように。

そりゃー、管理人さんは頭が素晴らしくいいので、一度言うと理解されると思うから私のように何度も同じことを聞く人が前も説明したのになぜ分からないのか理解不能かもしれないけれど、
私のように劣った頭だと、何度も聞かないと理解できない、一度でも本当には理解しきれないそういう状況なんだから・・・
これからもそのようなことは何度もあると思います。お気を悪くされないように・・・
本当に私にとっては聖書を読むことも大変で、それを理解するなんてもう相当大変で・・・私にとっては一大仕事というか・・・・もうそれは管理人さんには想像できないほどの大変さなのです。

No.1582 2007/01/22(Mon) 09:00:25

Re: 詩篇142,143,144章 / 昌夫 引用

>お気を悪くされないように・・・

気を悪くしたりしません。聖書はこの世のものではない、神の御言葉なので、何度も繰り返して読むと、やっと意味や意義が少しずつ分かってくるものだと思います。僕の解説も、今の時点で、こういう風に僕は読んでいる、という程度のものです。

No.1585 2007/01/22(Mon) 11:48:35
詩篇140,141章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇140,141章を読みます。

140章
3節の
蛇のように、その舌を鋭くし、
そのくちびるの下には、まむしのような毒があります。
が印象に残りました。

9節の
私を取り囲んでいるものの頭。
これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。
はどういう意味だろうか?

12節の
私は知っています。主は悩むものの訴えを支持し、
貧しい者に、さばきを行われることを。
が印象に残りました。

141章
7節の
人が地を掘り起こして砕くときのように、
私たちの骨はよみの入り口に撒き散らされました。
はどういう意味だろうか?

10節の
私が通り過ぎるそのときに、
悪者はおのれ自身の網に落ち込みますように。が印象に残りました。

No.1572 2007/01/20(Sat) 20:53:33

再詩篇140,141章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇140,141章を読みます。

本当に3節の
蛇のように、その舌を鋭くし、
そのくちびるの下には、まむしの毒があります。のように私の人生はそういう悪者に吸い上げられて苦しんできました。
でも今は主が守ってくださっているので大丈夫だ。

本当に10節の
燃えている炭火が
彼らの上にふりかかりますように。
彼らが火の中に、また、深いふちに落とされ、
彼らが立ち上がれないようにしてください。
のように悪者を退治してくれるといいですね・・・

11節の
そしるものが地上で栄えないように。の部分が相当印象に残りました。
なぜそしるものは地上でこんなに栄えているのだろうか?この世は悪が栄えると言われ、悪者が幅をきかせて弱者をいじめている。やがて地獄に落ちるだろうけれど、地上では何でこんなに栄えるのだろうか?

No.1576 2007/01/21(Sun) 06:37:44

Re: 詩篇140,141章 / 昌夫 引用

140篇9節は、詩人を取り囲んでいる悪者たち自身が、彼らの言う悪口や不当な非難の害毒のために被害を受けますように、と願っています。たとえば人の悪口ばかり言っている人たちは、だんだん他の人たちの信用を失っていくものです。詩人はそのようなことを願っていると思います。

141篇7節は、詩人と仲間たちが、悪人たちとの戦いに負けそうになり、もう少しで殺されそうになった様子を詩的に書いていると思います。

悪人が地上で栄えることを神さまが許されることの理由は、人間には理解しがたいですが、神さまの愛と全知全能の力を信頼して考えることが重要と思います。そうすれば、悪人たちが、善人の善意を利用して悪用するように、神は、悪人の悪意も利用して善用されることを、信じることができると思います。

具体的にどのように悪意を善用されるかというと、いろいろ考えることができると思います。まず、もし、悪が全くこの世で栄えなければ、この世で栄えることだけを目的としている人も、悪をしなくなります。これでは、悪を行う自由意志がなくなってしまい、人間は神さまのロボットのようになってしまいます。神さまは、人間を言いなりになるロボットとしてではなく、自分の自由意志で、神さまを愛するようになる可能性のあるものとしてお造りになりました。

次に、最後の審判の後の永遠の栄光は信仰による義人だけが受け、悪人は受けません。これに対し、この世での財産や名誉などの栄光は、悪人も受けることがあります。このことから、信仰者は、悪人でも受けることのできるこの世での財産や名誉は、それほど価値のあるものではないことが理解できると思います。神さまは、そのことを信仰者に教えるために、悪人にもこの世の栄光はお与えになるのかもしれません。矢内原忠雄という第2次世界大戦に反対したキリスト者の、アウグスチヌスの「神の国」という本の講義書に、このような考えが書いてありました。

No.1578 2007/01/21(Sun) 11:41:07

Re: 詩篇140,141章 / 沙耶香 引用

ふーん、いろいろ難しいですね・・・
でもこの世の中では弱者は住みにくく、いつも悪人に利用され、騙され、蔑まれるという構図は何とかしないと・・・弱者は苦しい。
いずれ公平に裁かれるのだけれど、この世の中でいつも苦しんでいていつも貧乏くじが回ってくるのは相当辛いものがあります。

No.1579 2007/01/21(Sun) 22:43:47
詩篇119章 / 沙耶香 引用

今朝は詩篇119章を読みます。

うっわーーかなり長そうですね・・・・読めるのか??
本を読むのが好きで、すらすら読めて頭の中に入ってくる人が羨ましいです。私は祈っても祈ってもなかなか苦戦中で・・・

14節の
私は、あなたのさとしの道を、
どんな宝よりも、楽しんでいます。が印象に残りました。
19節の
私は地では旅人です。
あなたの仰せを私に隠さないでください。の私は地では旅人ですというのが管理人さんがおっしゃっている寄留人ということなのかな?

24節の
まことに、あなたのさとしは私の喜び、
私の相談相手です。が印象に残りました。
本当にそうですよね?神様は間違えないので・・・でも私たち人間は間違うので・・・

48節の
私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、
あなたのおきてに思いを潜めましょう。が印象に残りました。何だか愛の告白みたいだ・・・

95節の悪者どもは、私を滅ぼそうと、
私を待ち伏せています。
しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。が印象に残りました。私はしょっちゅう悪者に襲われ、いろんな被害にあっていますので、この御言葉は重要です。

99節の
私は私のすべての師よりも悟りがあります。
それはあなたの戒めを守っているからです。
のようにいえるようになるといいですね・・・

176節の
私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。が印象に残りました。
神様に求愛しているようだ・・・

No.1534 2007/01/12(Fri) 07:02:47

Re: 詩篇119章 / 昌夫 引用

自分は活字アレルギーと言われるほど本を読むのが苦手な沙耶香さんが、長い第119篇を読むのは苦労があっただろうとお思います。

19節の「地では旅人」は、沙耶香さんが考えたように寄留人ということだと思います。へブル11章13-16節にあるように、信仰者の故郷は天にあります。

僕は今回読んで、特に103節が特に印象に残りました。どうか、僕たちが聖書を読むときも、蜜よりも甘いみことば、と楽しむことができるようになっていきますように。

No.1535 2007/01/12(Fri) 11:52:50

再詩篇119章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度詩篇119章を読みます。

そうですね・・・119章を全部読むのは並大抵ではありませんでした。でももう一度読むのも相当のエネルギーがいります。神様イエス様どうか私に119章を楽しく読めるエネルギーをお与えください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

2節の
幸いなことよ。
主のさとしを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。が印象に残りました。

10節の
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
どうか私が、あなたの仰せから
迷いでないようにしてください。が印象に残りました。

一度目と同じ、24節の
まことに、あなたのさとしは私の喜び、
私の相談相手です。が印象に残りました。

28節の
私のたましいは悲しみのために涙を流しています。
みことばのとおりに私を堅く支えてください。が印象に残りました。

57節の
主は私の受ける分です。
私は、あなたのことばを守ると申しました。はどういう意味だろうか?主は私の受ける分???

63節のともがらは友達でしたよね??確か・・・

77節の
私にあなたのあわれみを臨ませ、
私を生かせてください。
あなたのみおしえが私の喜びだからです。
が印象に残りました。あなたのみおしえが私の喜び・・・いいですね・・・

85節の
高ぶる者は私のために穴を掘りました。
彼らはあなたのみおしえに従わないのです。が印象に残りました。何だか怖いですね・・・

一度目と同じく95節の
悪者どもは、私を滅ぼそうと、
私を待ち伏せています。
しかし、私はあなたのさとしを聞き取ります。が印象に残りました。私の人生の御言葉という感じです。

103節の
あなたのみことばは、
私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。が印象に残りました。管理人さんの一番下の感想の蜜よりも甘いみことばという言葉が印象に残っていて読んでいたので、この御言葉が目にとまりました。

136節の
私の目から涙が川のように流れます。
彼らがあなたのみおしえを守らないからです。が印象に残りました。

161節の
君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。
しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。
が印象に残りました。

163節の
私は偽りを憎み、忌み嫌い、
あなたのみおしえを愛しています。が印象に残りました。

168節の
私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。
私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。が印象に残りました。

ヘブル11章13―16節
うん、信仰者の故郷は天にあることが書かれてあると思います。地上では旅人であり寄留人であると書いてあると思います。

No.1536 2007/01/12(Fri) 21:15:08

Re: 詩篇119章 / 昌夫 引用

57節の「主は私の受ける分」の背景として、カナンの地にイスラエルが攻め入ったヨシュアのときに、土地がイスラエルの部族に分割されたけれど、レビ部族は土地を割り当てられなかった、ということがあります。これは、申命記8−9節を読んでみてください。レビ部族は幕屋や神殿で主の前に立って仕えたりする祭司の役をいただいていました。だから、この世の宝である土地ではなく、主がレビ族の「相続地」、「受ける分」、「ゆずりの地」、「私の分の土地」と言われます。モーセとアロンはレビ部族でした。

信仰者は、レビ部族でなくとも、主と交わるので、この世での繁栄や宝を主がくださらないときも、主が信仰者の受ける分です。

この考えは、詩篇第16篇5−6節に、「受ける分」、「ゆずりの地」として、また、73篇26節に「私の分の土地」として、書いてあります。この機会に、もう一度16篇と73篇を、このことに注意して読んでみたら良いだろうと思います。

沙耶香さんは、この世での受ける分が今まで少なかっただけに、主が沙耶香さんの受ける分となってくださっていると思います。

63節のともがらは、沙耶香さんの記憶どおり、友達とか、仲間のことです。

No.1537 2007/01/13(Sat) 00:47:10

Re: 詩篇119章 / 沙耶香 引用

申命記8、9節・・・申命記の何章の8,9節ですか?申命記8,9章の間違いかな?うーん?わからない・・・・8,9章読みました。レビ部族がどうの、こうのっては書いていないから違う箇所でしょう。

詩篇第16章5,6節・・・
主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
あなたは、私を受ける分を、
堅く保っていてくださいます。
はかり綱は、私の好むところに落ちた。
まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。

73章26節
この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、
私の分の土地です。

笑・・・うん、この世での受ける分がクリスチャンになる前は少なかったと言うよりほとんどなかったというか全くないに近かったのでクリスチャンになってからイエス様が哀れんでくださりいろんな祝福を与えてくださり、いつも思い返したり、今の祝福にも喜んでいます。
いや、本当に主のなせる業はこの世的世間的な考えを超越しすばらしいですよね。
やっぱりどんな人よりも一番一緒にいたいのは主イエス様なんですよね。。

No.1538 2007/01/13(Sat) 10:34:46

Re: 詩篇119章 / 昌夫 引用

>申命記の何章の8,9節ですか?

すみません。間違いました。申命記10章の9節です。

>本当に主のなせる業はこの世的世間的な考えを超越しすばらしいですよね。

本当にそうですね。僕たちのまわりは、この世的な間違った嘘の考えばかりが、まかり通っています。だから信仰をいただいた僕たちは、嘘の考えに支配されないように注意して祈っていることが大切だと思います。

No.1547 2007/01/15(Mon) 01:40:42

Re: 詩篇119章 / 沙耶香 引用

申命記10章8,9節
そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。
それゆえ、レビには兄弟たちと一緒の相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。

私はクリスチャンになって主が私の受ける分をくださっています。ノンクリスチャンのときに何もなかった分を補ってくれています。嬉しいですし感謝しますし、言葉もないです。

No.1575 2007/01/21(Sun) 06:21:30
詩篇138-139章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇138-139章を読みます。

138章の8節の
主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。が印象に残りました。

139章の8節の
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみにとこを設けても、
そこにあなたはおられます。が印象に残りました。どこにいてもイエス様と一緒だという気がして・・・

15節の
私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。はどういう意味だろうか?何だか意味不明・・・

続く16節の
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書き記されました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。はどういう意味なのだろうか?うーん・・・・???

No.1569 2007/01/19(Fri) 19:26:04

再詩篇138-139章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇138-139章を読みました。

138章
7節の
私が苦しみのなかをあるいても、あなたは私を生かしてくださいますが印象に残りました。

139章
1節の
主よ。あなたはわたしを探り、
私を知っておられます。が印象に残りました。

12節の
あなたにとっては、やみも暗くなく
夜は昼のように明るいのです。
暗闇も光も同じことです。が印象に残りました。
面白い。。。

No.1570 2007/01/20(Sat) 09:23:18

Re: 詩篇138-139章 / 昌夫 引用

第139篇15節は、創世記2章7節にあるように、最初の人間アダムは地のちりから造られたということを背景としています。この節は、アダム以外の人間も地のちりから造られていることを述べています。ひとつの解釈としては、アダムが地のちりから造られたとき、すでに、神さまはアダムの子孫のすべての人間を造る計画を持っておられたのだから、ある意味では、すべての人間はアダムとともに造られたということだと思います。その意味で詩人がアダムとともに造られたときに、すでに、神さまには遠い将来に生まれる詩人の骨組みは見えていた、ということだと思います。16節は、詩人がアダムとともに造られたとき、すでに、神さまは詩人が母のおなかのなかの胎児である姿を見られ、天国の書物に、詩人の一生の1日1日のできごとが、ことごとく書かれたことと述べています。最後の、「しかも、その一日もないうちに。」とは、詩人が生まれてからの日々のことがこのように天国の書物に書かれたのは、詩人が生まれて最初の1日を神さまが見られる前だったことを書いています。神さまは時間に支配されないで、このように1日1日に起こるすべてのことを、あらかじめ決めておられます。

No.1571 2007/01/20(Sat) 11:21:22

Re: 詩篇138-139章 / 沙耶香 引用

創世記2章7節・・・その後、神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちを息を吹き込まれた。そこで、人は、生き物となった。
うーん、なかなか難しいですね・・・

No.1573 2007/01/20(Sat) 21:53:29
詩篇136、137章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇136、137章を読みました。

この136章はどうしたんだろうか?いつもその恵はとこしえまでとついていますが・・・

10節のエジプトの初子を打たれた方に、その恵はとこしえまでなんておかしくないか?

15節の
パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。・・・情景が浮かばないが・・・

137章
3節の
それは、私たちを捕らえ移したものたちが、
そこで、私たちに歌を求め、
私たちを苦しめるもの立ちが、
興を求めて、
「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
はどういう意味だろうか?何だかつかめない。

6節の
もしも、私がおまえを思い出さず、
私がエルサレムを
最上の喜びにもまさってたたえないなら、
私の舌が上あごについてしまうように。はどういう意味だろうか?ため息ため息・・・何だかつかめないですね・・・・

7節の
主よ。エルサレムの日に、
「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」といった
エドムの子らを思い出してください。とはどういう意味だろうか?うーーん???

8,9節の
バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。
おまえの私たちへの仕打ちを、
おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
おまえの子供たちを捕らえ、
岩に打ち付ける人は、なんと幸いなことよ。
はバビロンへの報復を期待しているとあるが、誰がバビロンへの報復を期待しているのだろうか?バビロンに何かされたんだろうか?・・うーーーん??何だかちんぷんかんぷんだ。まだまだ・・・本当にまだまだだ・・・

No.1562 2007/01/18(Thu) 20:06:20

Re: 詩篇136、137章 / 昌夫 引用

詩篇は詩なので、いろいろな形式で書かれています。136篇は主の恵みを強調するために、全ての節の後に、「その恵みはとこしえまで」とつけた形式で書かれています。ためしに、「その恵みはとこしえまで」をとばして、136篇を読んでみてください。「その恵みはとこしえまで」を読むときと比べると、どのように感じますか?

10節では、エジプト人の初子は幼児までも主が打たれたと思うので、普通の感覚では主の恵みとの関係が分かりませんね。このように疑問を持ったときに、「自分の現代の感覚が正しい。旧約聖書は古い書なので時代遅れである。」と考える人たちもいますが、それでは、自分の感覚や考えで止まってしまいます。疑問を持っても、主を信頼し、主に祈り聞き求めていくことによって、だんだん主の深いお考えに近づいてけると思います。

まず、主が打たれた初子のなかに幼児も含めて罪がなかったり罪が赦されて義と認められた人がいたら、その人は死んでも天国に行くわけだから、主の恵みだと思います。初子のなかの罪のある悪人を打たれて、それが、やがてキリストを生みだすイスラエルの民のためになったとしたら、やはり主の恵みだと思います。

15節は、出エジプトでイスラエルの民が分けられた葦の海を渡った後、エジプトの軍勢が戻ってきた水に覆われたことを書いています。

137篇の歴史的な背景はバビロン捕囚です。紀元前586年(1年前後する説もあるようです)バビロン軍はエスサレムを攻め滅ぼしました。そのときに、イスラエルの子どもたちを岩に打ちつけてCENSOREDような残酷なことをしたようです。そして、エルサレムから捕囚として遠いバビロンに連れてこられた詩人が、川のほとりで嘆いています。

3節は、バビロン人たちが、捕虜として連れてきたイスラエルの人たちに、エルサレムの歌である賛美歌を一つ歌うように言ったことを書いています。おそらく、バビロン人たちは、戦争に勝つ国の神が強い、という考えから「おまえたちを救えなかったイスラエルの神を賛美する歌を歌ってみろ。馬鹿にしてやる。」というような、気持ちを持っていたと思います。

6節の「おまえ」はエルサレムです。詩人は主が神殿を置くことを選ばれたエルサレムを、バビロンにいても忘れないで、たたえることを誓っています。もし、この誓いを自分が破るなら、主が、のろわれて、自分の舌があごについてしまって、しゃべることができなくても、いい、と言っています。これは、堅い決意の誓いを表しています。5節も、同じように、堅い決意から、エルサレムを忘れないという自分の誓いを守らないときは、主がのろわれて自分の右手が楽器をたくみに演奏できなくなっても良い、と言っています。

7節は、エルサレムが滅ぼされた日に、隣国のエドムの人たちもエルサレムに来て略奪し、エルサレムから避難する人たちを殺したことを背景にしています。エドムの人たちはエルサレムの破壊を喜んだことを書いてあります。

8,9節は、主がバビロン軍のエルサレムの人たちや子どもたちにした残酷な仕打ちに対し、主が正当に報復されることを願っています。

No.1564 2007/01/19(Fri) 00:29:13

再詩篇136、137章 / 沙耶香 引用

あーーーーーコピーしていたのに消えている・・・・うっそーーーーもーーーーうそでしょ??立ち直れない。
もう一度??
その恵はとこしえまでをのけて読んでみてもよく分からない・・・うううう、、、何で消えるの?再起動かけたら消えるの?最悪・・・
初子のなかの罪のある悪人を打たれて、それが、やがてキリストを生みだすイスラエルの民のためになったとしたら・・・じゃ悪人を打たれて、それが、やがてキリストを生み出すイスラエルの民のためにならなかったらどう説明するの?
バビロン軍はエスサレムを攻め滅ぼして、、エルサレムから捕囚として遠いバビロンに連れてこられた詩人が、川のほとりで嘆いているんだ??ふーん・・

エドムの人たちはエルサレムの破壊を喜んだんだ?エドムの人たちはそんなことしていると後で主に打たれるんだ。

この世の中でも悪いことをしている人が正当に主に報復されることを願います。

もう一度読みます。
管理人さんの説明で、5,6節の
エルサレムよ。
もしも、私がおまえを忘れたら、
私の右手がその巧みさを忘れるように。
もしも、私がおまえを思い出さず、
私がエルサレムを
最上の喜びにもまさってたたえないなら、
私の舌が上あごについてしまうように。が印象に残りました。

No.1566 2007/01/19(Fri) 12:07:16

Re: 詩篇136、137章 / 昌夫 引用

>じゃ悪人を打たれて、それが、やがてキリストを生み出すイスラエルの民のためにならなかったらどう説明するの?

最後の審判では悪人は必ず罰されるし、信仰による義人は報いを受けます。だから最後の審判を待たずに、主が、この世でも悪人を打たれることは、公平と正義のためには必要ないと思います。もし、この世で、主が悪人を打たれるときは、信仰者が励まされたり、警告を受ける意味があるからだと思います。だから、それは主の恵みだと思います。

No.1567 2007/01/19(Fri) 13:59:02
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