★ 詩篇123,124,125,126,127章 / 沙耶香 |
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今朝は詩篇123,124,125,126,127章を読みました。
123章 4節の 私たちのたましいは、 安逸をむさぼる者たちのあざけりと、 高ぶるものたちのさげすみとで、もういっぱいです。の安逸ってなんだろうか?辞書では載っていないだろうと思ったが、載っていた・・・何もせずのんきにしていることだそうだ。 結局この4節はどういう意味なんだろうか?
125章 1節の主に信頼する人々はシオンの山のようだ。 ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。が印象に残りました。 |
No.1544 2007/01/14(Sun) 04:20:20
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☆ Re: 詩篇123,124,125,126,127章 / 昌夫  |
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第123篇の3−4節は信仰者たちが、信仰を持たない人たちに、あざけられたり、さげすまれたりして、苦しんできて、主にあわれんでくださるようにお願いしています。信仰を持たない人たちは、自分たちが主に逆らって、滅びに向かっていることも気にせず、のんきにしています。「安逸をむさぼっている」とは、そういうことです。また、信仰を持たない人たちは、自分たちは、お金や自分たちの能力や、嘘や、人間が作った宗教や偶像などに頼って、高ぶっています。それで、信仰者は頭が悪いので、主を信頼していると考えて信仰者をさげすみます。「高ぶるものたちのさげすみ」とは、そういうことです。 |
No.1545 2007/01/14(Sun) 13:04:05
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☆ 再詩篇123,124,125,126,127章 / 沙耶香 |
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今日はもう一度詩篇123,124,125,126,127章を読みます。
うーん・・・笑・・まさにうちの家族は私のことを頭が劣るので、主を信頼していると考えているとさげすんでいます。主を信頼するクリスチャンだけが天国にいけるんだと言っても、馬鹿にされます。 管理人さんやきちんと社会に出ている普通の人がクリスチャンだと馬鹿にされないだろうけれど、私はいつも馬鹿にされます。でも迫害されるのはクリスチャンの常だと考えています。
123章 2節の ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、 女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、 私たちの目は私たちの神、主に向けられています。 主が私たちをあわれまれるまで。が印象に残りました。
124章 7節の 私たちは仕掛けられたわなから 鳥のように助け出された。 わなは破られ、私たちは助け出された。が印象に残りました。 |
No.1546 2007/01/14(Sun) 21:51:28
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☆ Re: 詩篇123,124,125,126,127章 / 昌夫  |
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>うーん・・・笑・・まさにうちの家族は私のことを頭が劣るので、主を信頼していると考えているとさげすんでいます。主を信頼するクリスチャンだけが天国にいけるんだと言っても、馬鹿にされます。
十字架のことばは、まだ信仰を神さまにいただいていない人たちは、愚かに聞こえるということが、第1コリント1章18-31節に書いてあります。僕も長い間、キリスト教を信じる人は、知能が劣っているのだと考えて馬鹿にしていました。だから信仰をまだいただいていない人たちに馬鹿にされたときに、驚いたり腹をたてたり意気消沈してしまわないことが大切だと思います。
>でも迫害されるのはクリスチャンの常だと考えています。
そうですね。そのようい考えることが大切だと思います。それから、今は、キリスト者を馬鹿にしている人たちのためにも、イエスさまが死なれたことを思って、「そんなことをしていると地獄に行く」というようなおどしの言葉は言わないで黙っていることが基本だと思います。イエスさまがお生まれになる何百年も前に、イエスさまが人々の罪のために苦しまれることがイザヤ書40-55章に預言されました。イザヤ書は読むのが難しいところのある書ですが、52章の13節から53章の最後までを読んでみてください。52章13節の「わたしのしもべ」とは、父なる神のしもべとしてのキリストのことです。特に53章7節の「彼は苦しんだが、口を開かない。」というところが印象的です。イザヤ書の預言されたように、また、ペテロの手紙第1の2章23節にあるように、イエスさまはののしられ、苦しめられても、黙っていて、おどすことをされませんでした。 |
No.1548 2007/01/15(Mon) 05:29:50
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