|
今日は詩篇108、109章を読みました。
10節の要塞=戦略上の重要地点に設けられる、主に防衛を目的とした軍事施設。...
12,13節の どうか敵から私たち助けてください。 まことに人の救いはむなしいものです。 神によって、私たちは力ある働きをします。 神が私たちの敵を踏みつけられます。が印象に残りました。やはり究極の救い主はイエス様であり、人の救いは虚しくやっぱり私たちクリスチャンも一人の人間としては何も力を持っていないけれど、イエス様により力を持つことができます。
109章 悪者を8―10節の 彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、 その子らはみなしごとなり、 彼の妻はやもめとなりますように。 彼の子らは、さ迷い歩いて、 物乞いをしますように。 その荒れ果てた家から離れて、 物乞いをしますように。というように裁かれたらいいのになー・・・ 16節の それは、彼が愛のわざを行うことに心を留めず、 むしろ、悩むもの、貧しい人 心ひしがれたものを追い詰め、殺そうとしたからです。が印象に残りました。ずっとそういうことをされ続けた方の人間だから・・・
28節の 彼らは呪いましょう。 しかし、貴方は祝福してくださいます。 彼らは立ち上がると、恥を見ます。 しかしあなたのしもべは喜びます。の最初の彼らはのろいましょうという表現はあまり信仰者にふさわしくないと思うのだが、前にも書いたけれど、イエス様は悪者、自分に害を与えたものに仕返しをすることを容認しているのだろうか? そんな感じの御言葉が結構あったと思うけれど・・・・
31節の 主は貧しい者の右に立ち 死刑を宣告する者たちから 彼らを救われるからです。が印象に残りました。 |
No.1492 2007/01/04(Thu) 21:42:16
|
☆ Re: 詩篇108、109章 / 昌夫  |
引用 |
|
>やはり究極の救い主はイエス様であり、人の救いは虚しくやっぱり私たちクリスチャンも一人の人間としては何も力を持っていないけれど、イエス様により力を持つことができます。
本当にそうですね。
どうか、十字架の購いによって罪を赦し、僕たちの中に入ってくださったイエスさまが、僕たちのまわりの人々を救われる力ある働きを、してくださいますように。
6−16節は、詩人が悪者をのろっているわけではありません。詩人は、主が悪者を正しくさばかれるように、主にお願いしています。これは、似ているようでも、全く違うことです。詩人が悪者をのろったら、17節の、のろうことを愛する悪者と同じになってしまいます。28節の「彼らはのろいましょう」の、彼らは信仰を持たない悪者のことです。主は、自分に害を与ええたものに、信仰者自身がのろったり、仕返しをしたりすることを喜ばれません。
今のクリスチャンが、自分でのろったり、仕返しをするのではなく、6−16節のような、イエスさまの悪者への正しいさばきを願う祈りをすることはどうでしょうか。黙示6章10節を読むと、そういう祈りが主の御心にかなう場合もあるように思います。自分に対する悪人の罪を全て赦した後に、自分に対する罪の仕返しでなく、純粋に悪人の主に対する罪が正しくさばかれるように祈るなら、御心にかなう場合もあると思います。でも、これは、うらみの気持ちを持ちやすい人間の性質を考えると、誰にとっても、とても難しいことだと思います。だから、基本的には、そのような祈りはしないほうが良いと思います。もし、どうしてもする方が良いと思うときは、牧師や信頼する兄弟姉妹とよく相談してからすることが大切だと思います。 |
No.1494 2007/01/05(Fri) 00:21:52
|
|
|
今朝はもう一度詩篇108,9章を読みました。
ふーん・・・詩人がのろっているわけではなく、主に悪者を正しく裁かれるようにお願いしている・・・6―16節はそうだけれど、28節に彼らはのろいましょうとあるので、悪者に対してのろっているのかな?と感じたんだけれど・・・ 信仰をもたない悪者の考えか・・・ うん、なんだか聖書の理解はとてつもなく難しいです。
でも悪者に対する神様からの裁きを祈ることをしたいと思うときも今まで多々ありました。でも私には意味不明で分からないのでしませんでした。うーん、でも私は相当の被害にあい、その人に今も嫌がらせを受けています。 だからその人に対して神からの裁きをお祈りしたいけれど・・・
もう一度読み直してもあまりよく分からないけれど、結局主は望んでおられることは相手を許し、自分では裁かず、裁きは主に任せるという感じかな?と思います。 本当聖書って難しいですね・・・ |
No.1495 2007/01/05(Fri) 10:43:59
|
|