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第二巻通し、読み直し(音読or黙読) / 沙耶香 引用

今朝は詩篇の第三巻から読みます。だから73章からです。何だかお腹と頭が痛くて憂鬱で何もする気がしないです。このままイエス様迎えに来てはくれないだろうか?
家のものに呼び出されて76章5節の途中で中断。
また読む。
78章まで読みました。なかなかとろくさくて進みません。また時間が空き次第拝読させていただきます。

No.1505 2007/01/08(Mon) 12:42:29

Re: 第三巻通し、読み直し(音読or黙読) / 沙耶香 引用

上の表題の第二巻は第三巻の間違いです。ごめんなさい。パスワード作ったんだけれど、使い方がどうも分からない・・・
・・・やっと読み終わりました。。。
この第三巻で印象に残ったところは、73章の27節の
それゆえ、見よ。
あなたから遠く離れているものは滅びます。
あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。と
同じ章の28節の
しかし私にとっては、
神の近くにいることが、しあわせなのです。
私は神なる主を私の避け所とし、
あなたのすべてのみわざを語りつげましょう。と、
75章の2節の
「わたしが、定めのときを決め、
わたしみずから公正にさばく。と
76章の9節の
神が、さばきのために、
そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、
立ち上がられたそのときに。と
82章の3節の
弱いものとみなしごとのためにさばき、
悩むものと乏しいものの権利を認めよ。と
続く4節の
弱いものと貧しい者とを助け出し、
悪者どもの手から救い出せ。と
83章の17節の
彼らが恥を見、いつまでも恐れおののきますように。
彼らが辱めを受け、滅びますように。と
89章の32節の
わたしは杖を持って、彼らのそむきの罪を、
むちをもって、彼らの咎を罰しよう。
です。
天のお父様私にまつわるいろんな問題がすべて解決しますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

No.1507 2007/01/08(Mon) 21:24:03
詩篇第二巻通し、読み直し(音読) / 沙耶香 引用

42章の表題のマスキール・・解説にも意味不明とある・・・869ページに入りました。あーーー
下の段に入りました。お腹すいた・・・寒い・・・
44章3節まで読みました。頭がおかしくなりそうだ・・・(元々おかしいという説もある・・・)870ページ下の段に入りました。。。
音読しているとあくびが出ますね・・集中しているんだけれど・・・活字が苦手だから・・・苦戦しています。
871ページに入りました・・・こうして書いていないとどこまで読んだか分からなくなるのです。
眠いです・・・44章まで読みました。しるしもつけていますけれど、あまり記しつけているとまた今度読むときに困るかなという思いもあります。聖書は薄っぺらいので、消しゴムで消すと破れそうで・・・
45章6節まで読みました・・・
音読で疲れたのか、寒さで風邪ぎみなのか、喉が痛いです。天のお父様癒してください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
10節から・・・しんどい、疲れた・・・喉痛い・・・
今痛いが遺体に変換されたので思ったが、自分の兄弟の死体をばらばらにしてつめて収納するという事件が起こったが、よくそんなことができるものだ・・・
私なら怖くて気を失ってできないと思う・・・うーん、不思議だ・・・イエス様イエス様・・・
まだ四十章台だ・・・・先が思いやられる・・・
46章7節まで読みました。
47章に入った。
あーーーー疲れた・・・・あーーーー辛い・・・・
873ページに入った・・・
ううううーーーん、、、、寒さと眠さとしんどさで頭がおかしくなりそうだ・・・・
48章に入りました。
うーーん、私も活字がすらすら読めるようになりたいなーーー本読むのが好きだという人が羨ましいです。
49章に入ります。
あーーーー声がおかしくなっている・・・・音読しづかれか寒さで風邪引いたかどちらかだ・・・
7節の
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身代金を神に払うことはできない。が印象に残りました。
・・・なんて言っている場合ではないんだ・・・
49章14節まで読み終えました。
あーーー寒い、疲れた・・死にそう・・・
15節の
しかし神は私のたましいを、
よみの手から買い戻される。
神が私を受け入れてくださるからだ。が印象に残りました。
・・・なんて書いているとどんどん遅くなる・・・・
20節の
人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、
滅び失せる獣に等しい。が印象に残りました。いくらこの世の中で繁栄してお金持ちで裕福な暮らしをしていて地位や名誉を獲得しても神への信仰がなければ滅びにつながります。
・・・こういう風にしていると進まない・・・
寒い875ページ・・・寒さ対策にちょっとある工夫をしてみた・・・管理人さんが前に言ってくれた方法のアレンジというか、そのまんまなんだけれど、お風呂のお湯は冷えているので・・・なんて言っている場合ではない・・・
50章11節
わたしは、山の鳥も残らず知っている。
野に群がるものもわたしのものだ。が印象に残りました。この世の中はすべてイエス様の支配下なんだ。
ため息ため息・・・・やっと50章台だ・・・・
52章2節の
欺くものよ。おまえのしたは破滅を図っている。
さながら鋭い刃物のようだ。が印象に残りました。
二度目のセラまで読んだ。疲れた・・・
53章に入ります。
54章にきました。
下の段・・・

いろいろな用事終わった。また読む。
部屋の周りが布団の羽や毛布の破片で汚い・・・とかいっている場合でもないんだ・・・・
55章に入ります。
マスキール何度も出てくるが、お酒のような名前だね。。879ページ入ります・・・
下・・・はーーーもーー疲れた・・・
19節のセラまで・・・
56章はいります。
ため息ばかり・・・
11節の私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。が印象に残りました。イエス様最高峰なお方だ。。。

No.1501 2007/01/07(Sun) 08:30:38

Re: 詩篇第二巻通し、読み直し(音読) / Aja 引用

お久しぶりです。沙耶香さんがんばってますね。
応援します〜。
今日は風が強くて本当に寒かったですね。
私は最近聖書あまり(というかほとんど)読めていなかったので、毎日少しずつでも読むようにしようと思います。
父はおおみそかの日に一般病棟に移り、順調に回復しています。ここ何日か熱があるんですが。

なんだかものすごい音で風がふいてます…。
よく眠れますように。ではまた。

No.1502 2007/01/07(Sun) 20:28:26

Re: 詩篇第二巻通し、読み直し(音読) / 沙耶香 引用

うっわーーーお久しぶりです。Ajaさん、とても嬉しいです。もうおられなくなったかなと思っていたので・・・
天のお父様イエス様どうかAjaさんのお父様が一日も早く元気を取り戻しますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
私は毎日読んでいますが、でも頭が人より劣るので、なかなか理解できません。
えーーー感想を後で述べようと思ったらもう一度読まないとできないなーーー何が何だか分からなくて混乱してくるから・・・

今第二巻を通して読みました。
62章の10節の
圧倒にたよるな。
略奪にむなしい望みをかけるな。
富が増えても、それに心を留めるな。と
69章の
33節の
主は、貧しい者に耳を傾け、
その捕われ人らをさげすみなさらないのだから。と
71章の
20節の
あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、
あわせなさいましたが、
私を再び生き返らせ、
地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。

72章の13節の
彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、
貧しい者たちのいのちを救います。が印象に残りました。
それにしても通して読むのはすごく辛いし苦痛だし何だか頭がついていかないけれど、でもイエス様がだんだん活字なれさせてくださると信じて期待して感謝します。

No.1503 2007/01/07(Sun) 22:56:57

Re: 詩篇第二巻通し、読み直し(音読) / 沙耶香 引用

あ、今のレスの第二巻を通して読んだというのは朝読んだ続きの後の残りの部分のことです。誤解を招くといけないので・・・

No.1504 2007/01/07(Sun) 22:58:13
詩篇第一巻通し、読み直し(音読) / 沙耶香 引用

1章から読み始めましたが、最初はここには書き記さないつもりだったので・・・ただ今詩篇10章を音読しています。
聖書をずっと読んでいるとなんだか頭が混乱してきます。今11章を読み終えました。なんだかこの先思いやられます・・・・うん、いつものように次の箇所を読んで掲示板に載せるのはお休みにしてこちらに集中します。今13章を読み終えました。
15章を読み終えました。最後の5節の
金を貸しても利息を取らず、
罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。
このように行う人は決してゆるがされない。が印象に残りました。・・・・なんて書いているといつのことになるか分からないので・・・読み進めないと・・・・
今16章読み終えました。あーーー疲れる・・・今17章6節・・・黙読より音読の方がなんだか疲れますね・・・
寒い・・・今日は天気が荒れ狂っています。でもこの会話は最近管理人さん何だかお嫌いみたいだから・・・多分アドバイスくれてもいろいろ難しいこと言うからだろうけれど・・・ごめんなさいね・・・気分を悪くされたなら謝ります。
あ、そんなこと言っている場合じゃないんだ。。。読み進めないと・・・18章16節・・・何だか頭が混乱しています。でも小さい声で音読しないとみなに聞こえたら何かと思われたらいけないので・・・。またいじめネタになる。遅い時間になったら音読ではなく、黙読にせざるを得ないかもしれないです。
18章42節相当小さい声で音読しています。黙読に近いかもしれないです。今日は外が嵐なので、私の声もあまり響かないとは思うけれど・・・
下から呼び出されまた手伝ってきました。
あ、こんなこと書いている余裕はないんだ・・・明日は礼拝・・・第一巻で二時間ではとても終わりそうにないですよ。気が遠くなります。22章7節・・・849ページに移りました。
23章の4節の
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私は災いを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。が印象に残りました。今の私、今までの私にぴったりの御言葉です。
・・・なんて言っている場合ではないんだ・・・読み進めないと・・・
主を形容する言葉は多いけれど、万軍の主という形容詞は好きです。
・・・そんなこと言っている場合ではない、25章にきました。8節まで読みました。もーー疲れた・・・かなりエネルギーかかりますね・・・853ページ・・・
詩篇28章にきました。
29章3節の
栄光の神は、雷鳴を響かせるが印象に残りました。雷の音は神様の声にたとえられます。
・・・なんて言っている場合ではないんだ。
読み進めないと・・・
これ今日中に読み終えることができるのだろうか?不安だ。
31章8節まで読みました。ため息ため息・・・疲れた・・・16節・・・
これを見て適当に読んでいるように見せかけていると思う人もおられるだろうけれど・・・でもイエス様はきちんと私を見ていて誤解されないから・・・
・・・なんて言っている場合じゃないんだ・・・・
32章に入りました。ため息ため息・・・疲れたーーー
5節を読み終えました。本当に疲れる・・・
33章8節まで読みました。あーーーー疲れた・・・
33章読み終えました。
34章4節の
私が主を求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から救い出してくださった。が印象に残りました。私にふさわしい御言葉だという気がします。
・・・なんて言っている場合ではないんだ、読み進めないと・・・・終わらない・・・

34章の12節まで読みました。
19節の
正しい者の悩みは多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。が印象に残りました。悩みは尽きない・・・次々に困難押し寄せるが、でもきっとすべてから救い出してくださると信じて期待して感謝します。
次は35章だ・・・もー疲れた・・・イエス様助けてください。
860ページに突入しました。
父や母が部屋の前を通るときは音読をやめています。
もうこれ以上の面倒なことはお断りだ。
あー861ページだ・・
35章27節
私の義を喜びとする者は、
喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。が印象に残りました。何だか嬉しい御言葉ですね・・・

No.1499 2007/01/06(Sat) 22:08:25

Re: 詩篇第一巻通し、読み直し(音読) / 沙耶香 引用

36章に入りました。
37章の
1―4節の
悪を行う者に対して腹を立てるな。
不正を行う者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、
青草のように枯れるのだ。
主に信頼して善を行え。
地にすみ、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。が印象に残りました。
私は***という悪者に相当ひどい目にあわされ、ずっと苦しめられていますが、でも***は滅びるでしょう・・・

13節・・・
15節の
彼らの剣はおのれの心臓を貫き、
彼らの弓は折られよう。が印象に残りました。悪者は正直者や貧しい者や弱者困難にあるものを狙うが結局は自分の首をしめることになる・・・
嬉しい御言葉です。
・・・なんて言っている場合ではないんだ。
864ページ突入・・・
あ”ーーーーーもーーーーー疲れたーーーーー。
37章終わった。

朝早く起きた・・・寒い・・・底冷えする・・・ごえごえごえ・・・・
38章からだ・・・865ページに入った。しっかし、寒い・・・ごえごえごえ・・・
イエス様イエス様イエス様イエス様・・・私は今イエス様をまとっています。イエス様からのいただきものを大事にまとっています。寒さに耐えられるようにしてください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
38章読み終わった。
朝早いからか細い声で読んでいる。やっと866ページ・・・第一巻の終わりが四十何章だったからもうすぐだ・・・うーーーん・・・でも一巻が終わったら二巻がある・・・うーーー・・・
39章の12節の
私の祈りを聞いてください。主よ。
私の叫びを耳に入れてください。
私の涙に黙っていないでください。
私は貴方とともにいる旅人で、
私のすべての先祖達のように、寄留のものなのです。が印象に残りました。
・・・なんて言っている場合ではない・・・

管理人さんのご出張先は寒さは大丈夫なんだろうか?あ、でもホテルとかだったら冷暖房完備でしょうから・・・でも油断してお風邪など引きませんように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
40章11節まで読み終えました。あ”ーーーーーー疲れた・・・
あーーー868ページに突入第一巻終わりが見えてきました・・・うっれしいーーーー・・・・
あ・・第一巻終わった・・・

No.1500 2007/01/07(Sun) 06:17:51
公平 / 昌夫 引用

沙耶香さんが以前に書かれた「人生でずっと悪いことをしてきた人が、死ぬ直前に悔い改めて、信仰を与えられて天国に行くとしたら、不公平ではないのか」という問題について考えてみました。

仮に殺人などの悪いことをたくさんしてきたAさんという人が、死ぬ直前に悔い改めて天国に行くことを考えてみます。このAさんと僕との比較で言えば、全く不公平ではないと思います。まず、信仰を持った後のことを考えます。信仰を持った後、僕がイエスさまの力によって何か良い行いをすることができたとすると、神さまがそのことを報いてくださいます。Aさんは、死ぬ直前に信仰をいただいて、信仰からの良い行いはほとんどできなくて、報いも少ないわけですが、それは不公平とは、誰も言わないと思います。

それで次に信仰を持つ前のことを考えます。僕はAさんと違って、殺人はしたことはないので、殺人をしたAさんと僕がともに信仰によって罪を赦されて天国に行くことは、不公平だと考える人もいると思います。

でも、僕が信仰を持つ前は、ほとんど純粋に利己的に生きていました。小さいころは、すぐに自分の利益となることをしました。だんだん教育と環境によって、だんだん長い目で見て自分の利益になることをするようになりました。常識的な道徳や法律に反するようなことをすると、長い目で見ると自分の利益にならないことが分かってきたので、あまり道徳や法律に反するようなことはしないようになりました。

Aさんも、おそらく利己的に生きてきて、殺人するのが、自分の利益になると信じて殺人をしたと思います。例えば、Aさんは犯罪者のグループの中で育って、その中では人生の長い目で見ても、殺人することが利益だったのかもしれません。僕がAさんの環境の中で育っていれば、同じか、もっと悪いことをしたかもしれません。利己的ということでは、僕とAさんは違うところはないのだけれど、環境や教育が違っただけだと思います。

どのような環境で育ちどのような教育を受けるかは、究極的に主が決められて、そのようにしてくださることです。だから、僕が信仰を持つ前にAさんと違って殺人をしなかったということは、主の恵みであって、僕がAさんに対して誇れることではありません。

こう考えると、僕とAさんの信仰を持つ前のことを比較しても、悔い改めて2人がともに天国に行くことに不公平はないと思います。

No.1470 2007/01/02(Tue) 10:48:08

Re: 公平 / 沙耶香 引用

うん、考え方はいろいろあると思いますが、私が印象に残ったのは、管理人さんが信仰を持ってから信仰によってよい行いをすれば主が報いてくださるが、Aさんは信仰を持っていないので、主は報いてくださらないということです。
でもAさんは信仰によって主に報いてはもらえないが、主はそういう人をも祝福されるので、悪いことをする人も子孫繁栄したりお金持ちになったりしてこの世的には祝福されている人はたくさんいます。
でも結局は主がすべてをつかさどっているので、主に間違いはないので、すべてを主に委ねます。

No.1471 2007/01/02(Tue) 11:36:59

Re: 公平 / BISKO 引用

始めまして、こんにちは。

ROMしておりましたが、今回投稿させていただこうと思いました。

詩篇の通読、よく続けておいでですね。
少なからず、感心しながら拝読させて頂いています。

さて、横レスになりますが、

イエスのされた、ブドウ畑と日雇い人のたとえ話がありますね。朝から働いた者も、昼から働いた者も、また夕方からちょっとだけ手を出したものも、みな変わらず1タラント支払らわれ、朝から働いた者たちが「不公平だ!」と不満を言ったが、雇い主は「何も不公平などしていない。」と応じた、あの話。

神様の下さる祝福や救いの基準は、人間的な「公平・不公平」の感覚の次元を超えているのではないかと思います。

むしろ、神様の救いや祝福の基準を少しでも理解する者は、「他者との比較」において自分の祝福や救いがどうのこうのと言うような、そういう価値基準を脱却するべきなのではないかと。

また、しばしば「大いに祝福されますように」と拝見するとき、私は「そもそも祝福とは何ぞや?」といつも思っていました。

>人も子孫繁栄したりお金持ちになったり

というのが、主が下さる祝福なのでしょうか?

私は何か違うと思います。 たとえば、金銭的に恵まれたが故に、生活がめちゃくちゃになってしまう人もいます。

>でも結局は主がすべてをつかさどっているので、
>主に間違いはないので、すべてを主に委ねます。

これができるようになったときにこそ、きっと、本当の意味での平安が訪れるのでしょうね。

それでは、2007年もよき歳となりますように。

No.1472 2007/01/02(Tue) 12:10:25

Re: 公平 / 昌夫 引用

BISKOさん、はじめまして。書き込みをありがとうございます。

>ROMしておりましたが、今回投稿させていただこうと思いました。

最近、特に投稿者の数の少なくなってきた掲示板なので、投稿しないでもROMしてくださっている方がおられるのだと知って勇気づけられます。

>むしろ、神様の救いや祝福の基準を少しでも理解する者は、「他者との比較」において自分の祝福や救いがどうのこうのと言うような、そういう価値基準を脱却するべきなのではないかと。

他者との比較する気持ちに支配されて、ねたむ気持ちとかを持つことから脱却することが大切だと思います。それとは別に、人間の理解の次元を超える神さまの公平を力のかぎり理解しようと疑問を神さまにぶつけてみることは、御心にかなうことだと思います。

例えばヨブ記のヨブは、悪人の中に金銭的に恵まれ、子孫が増えて繁栄するという現世的な主の祝福をいただく人たちがおり、神に聞き従ってきた自分のすべての財産と子供を奪われたことと比較して理解しようとしたと思います。

>また、しばしば「大いに祝福されますように」と拝見するとき、私は「そもそも祝福とは何ぞや?」といつも思っていました。

僕は今のところ、祝福とは、神さまに近づけられること、と考えて祈ります。その具体的現われは、いろいろな形があって、時にはむしろ現世的には苦しいことが祝福であることもあると思います。「大いに祝福されますように」という祈りは、現世的にも霊的にも祝福の内容を指定しないで、神さまに委ねるところが良いところだと思います。

BISKOさんの2007年が良き年となりますように。

No.1473 2007/01/02(Tue) 12:38:00

Re: 公平 / じんない 引用

>他者との比較する気持ちに支配されて、ねたむ気持ちとかを持つことから脱却することが大切だと思います。

僕も全く同感です。

他の多くの分野、業界でも同じでしょうが、僕がいる大学院での研究もとても競争的ですし、先が見えない不安もあってストレスがたまります。僕にはもともと他者の目がとても気になるという弱さもあります。他者との比較で気が滅入る今の自分から変えられたいと強く願っています。

第一コリントが好きで、落ち込み気味の最近はよく読んでいます。特に13:4-7「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを堪え忍びます。」というところが好きです。ここに書かれているような愛を実践することからはほど遠い者ですが、そのような者へと変えられたいと願っています。

No.1483 2007/01/03(Wed) 14:24:32

Re: 公平 / 昌夫 引用

大学院でのストレスというのは、すごいものがあると思います。僕は大学院で修士論文を仕上げているときと、博士論文を仕上げているときに、苦しさのあまりCENSOREDしたくなりました。博士論文の研究がうまくいかず、何をしてもうまくいかなくなったときには、あきらめて一週間くらい、たくさん寝て休養しました。そうすると良いアイディアが浮かびました。あせるのをやめて休養したのが良かったと思います。当時は神さまの存在も知らなかったのですが、主があわれんで助けてくださったと信じて感謝します。

僕たちが、他者の評価を気にせず、主の評価だけが気になるように変えていただくように、第1コリント13章の愛を実践するものに変えていただくように、祈っていれば、いつか主が必ずそうしてくださると信じて感謝します。

No.1490 2007/01/04(Thu) 12:23:51

Re: 公平 / じんない 引用

先生がそんなに苦労されていたとは正直おどろきですし、先生でもそうだったのかと思うと気が楽になる気がします。どうもありがとうございます。

No.1497 2007/01/06(Sat) 05:39:56
詩篇108、109章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇108、109章を読みました。

10節の要塞=戦略上の重要地点に設けられる、主に防衛を目的とした軍事施設。...

12,13節の
どうか敵から私たち助けてください。
まことに人の救いはむなしいものです。
神によって、私たちは力ある働きをします。
神が私たちの敵を踏みつけられます。が印象に残りました。やはり究極の救い主はイエス様であり、人の救いは虚しくやっぱり私たちクリスチャンも一人の人間としては何も力を持っていないけれど、イエス様により力を持つことができます。

109章
悪者を8―10節の
彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、
その子らはみなしごとなり、
彼の妻はやもめとなりますように。
彼の子らは、さ迷い歩いて、
物乞いをしますように。
その荒れ果てた家から離れて、
物乞いをしますように。というように裁かれたらいいのになー・・・
16節の
それは、彼が愛のわざを行うことに心を留めず、
むしろ、悩むもの、貧しい人
心ひしがれたものを追い詰め、殺そうとしたからです。が印象に残りました。ずっとそういうことをされ続けた方の人間だから・・・

28節の
彼らは呪いましょう。
しかし、貴方は祝福してくださいます。
彼らは立ち上がると、恥を見ます。
しかしあなたのしもべは喜びます。の最初の彼らはのろいましょうという表現はあまり信仰者にふさわしくないと思うのだが、前にも書いたけれど、イエス様は悪者、自分に害を与えたものに仕返しをすることを容認しているのだろうか?
そんな感じの御言葉が結構あったと思うけれど・・・・

31節の
主は貧しい者の右に立ち
死刑を宣告する者たちから
彼らを救われるからです。が印象に残りました。

No.1492 2007/01/04(Thu) 21:42:16

Re: 詩篇108、109章 / 昌夫 引用

>やはり究極の救い主はイエス様であり、人の救いは虚しくやっぱり私たちクリスチャンも一人の人間としては何も力を持っていないけれど、イエス様により力を持つことができます。

本当にそうですね。

どうか、十字架の購いによって罪を赦し、僕たちの中に入ってくださったイエスさまが、僕たちのまわりの人々を救われる力ある働きを、してくださいますように。

6−16節は、詩人が悪者をのろっているわけではありません。詩人は、主が悪者を正しくさばかれるように、主にお願いしています。これは、似ているようでも、全く違うことです。詩人が悪者をのろったら、17節の、のろうことを愛する悪者と同じになってしまいます。28節の「彼らはのろいましょう」の、彼らは信仰を持たない悪者のことです。主は、自分に害を与ええたものに、信仰者自身がのろったり、仕返しをしたりすることを喜ばれません。

今のクリスチャンが、自分でのろったり、仕返しをするのではなく、6−16節のような、イエスさまの悪者への正しいさばきを願う祈りをすることはどうでしょうか。黙示6章10節を読むと、そういう祈りが主の御心にかなう場合もあるように思います。自分に対する悪人の罪を全て赦した後に、自分に対する罪の仕返しでなく、純粋に悪人の主に対する罪が正しくさばかれるように祈るなら、御心にかなう場合もあると思います。でも、これは、うらみの気持ちを持ちやすい人間の性質を考えると、誰にとっても、とても難しいことだと思います。だから、基本的には、そのような祈りはしないほうが良いと思います。もし、どうしてもする方が良いと思うときは、牧師や信頼する兄弟姉妹とよく相談してからすることが大切だと思います。

No.1494 2007/01/05(Fri) 00:21:52

再詩篇108、109章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇108,9章を読みました。

ふーん・・・詩人がのろっているわけではなく、主に悪者を正しく裁かれるようにお願いしている・・・6―16節はそうだけれど、28節に彼らはのろいましょうとあるので、悪者に対してのろっているのかな?と感じたんだけれど・・・
信仰をもたない悪者の考えか・・・
うん、なんだか聖書の理解はとてつもなく難しいです。

でも悪者に対する神様からの裁きを祈ることをしたいと思うときも今まで多々ありました。でも私には意味不明で分からないのでしませんでした。うーん、でも私は相当の被害にあい、その人に今も嫌がらせを受けています。
だからその人に対して神からの裁きをお祈りしたいけれど・・・

もう一度読み直してもあまりよく分からないけれど、結局主は望んでおられることは相手を許し、自分では裁かず、裁きは主に任せるという感じかな?と思います。
本当聖書って難しいですね・・・

No.1495 2007/01/05(Fri) 10:43:59
詩篇107章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇107章を読みました。

10節の
やみと死の陰に座す者、
悩みと鉄のかせとに縛られている者、ってなんだろうか?

16節の
まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。が印象に残りました。
すばらしい神の御技だと思います。

18節の
彼らのたましいは、あらゆる食物を忌み嫌い、
彼らは死の門にまで着いていた。とはどういう意味だろうか?あらゆる食物を忌み嫌う?ってどういうことだろうか?

25節の
主が命じてあらしを起こすと、
風が波を高くした。も印象に残りました。主の奇跡の御技ですよね?

41節の
しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、
その一族を羊の群れのようにされる。が印象に残りましたし、すごく大好きです。

No.1484 2007/01/03(Wed) 20:55:25

Re: 詩篇107章 / 昌夫 引用

第107篇から詩篇の第5巻が始まります。第106篇のレスで書いたように、第4巻の終わりで、捕囚にある民を国々から集めてイスラエルに帰してくださるようにお祈りがありました。1−3節は、その祈りをかなえてくださった主に感謝しています。

10節は、捕囚にあったイスラエルの民のなかでも、特に暗い牢屋に入れられて、鉄のかせをつけられていた人たちのことを詩的に書いていると思います。10−16節は、その人たちが牢屋から解放されたことを書いているようです。これは、今なら、罪の奴隷となっていた僕たちが、信仰によって、罪の支配から解放されることに対応しています。

18節は、今でいう拒食症のような心の病となり、食物を食べられなくなって苦しみ悩んでいた人の様子を書いていると思います。17−22節は、心の病で悩ンデいた人たちを、主が癒されたことを書いているようです。

23−32節は、船乗りの感謝です。25節は、特別な奇蹟の力によるあらしというより、全てのあらしは主が命じて起こされているということを書いています。あらしは、科学的に説明できますが、人間が「偶然」と呼ぶことを、主が支配されて、あらしをご計画のままに起こされます。

No.1486 2007/01/04(Thu) 03:29:35

再詩篇107章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇107章を読みました。

えーー?牢屋から解放されたことを素晴らしい御技だと思っていたが、罪の支配から解放されることを意味していたんだ???・・・駄目だ・・・ずれていってしまう・・・

ふーん、そうなんだー・・・当時も拒食症ってあったんだ??現代病かと思っていたが・・・
心の病も主が癒されるんだったら私もきっと癒されると信じて期待して感謝します。

えーーー??またまた勘違いしている??奇跡の御技ではなくて、嵐までも主が支配されて起こしているということか????
駄目だ・・・私は何かと勘違いしやすい・・・

32節の
また、主を民の集会であがめ、
長老たちの座で、主を賛美せよ。が印象に残りました。
礼拝で牧師を中心に主を賛美しています。

No.1487 2007/01/04(Thu) 11:02:57

Re: 詩篇107章 / 昌夫 引用

10-16節については、詩人が書いた当時の意味は牢屋からの解放だと思います。そういう当時の意味に対し、現在のわれわれに対する意義ということがあります。その意義として、罪からの解放ということがあると思います。沙耶香さんが牢屋の解放と最初にとったのが、ずれているとは思いません。僕のNo.1486の10-16節のところをもう一度読んでみてください。

No.1489 2007/01/04(Thu) 12:12:12

Re: 詩篇107章 / 沙耶香 引用

管理人さんのNo,1486の10―16節のところをもう一度読みました。
10−16節は、その人たちが牢屋から解放されたことを書いているようです。これは、今なら、罪の奴隷となっていた僕たちが、信仰によって、罪の支配から解放されることに対応しています。

とあります。今なら、罪の奴隷となっていた僕達が、信仰によってつみの支配から解放されることに対応している・・とあります。
でも今ならどう捉えたらいいのか?が一番重要じゃないですか?だって私たちは現代に生きているのです。今どう捉えるかが大事だと思います。
マラキ書の3章のところだって宝物倉が今では教会に当たるとおっしゃったことと同じだと思います。
ずれてはいないけれど、今に直したらどういう意味なのかを捉えないと・・・

No.1491 2007/01/04(Thu) 21:08:38

Re: 詩篇107章 / 昌夫 引用

沙耶香さんが書かれたように、聖句を使って、今、自分にとって、どういうことを神さまが言われているのか知ることが、もっとも大切だと思います。僕はこれを聖句の意味と区別して意義と読んでいます。今の自分にとっての意義を知ることが、最も大切ですが、これは、とても難しいのです。聖書を読んで、自分の願望を聖書に向かって読み込んでしまい、聖書に書かれていないことを、書いてある、と思い込むことが多いです。

それで、僕は、聖書の自分にとっての意義を考える前に、まず、聖書を神さまの霊感によって書いた人間の著者が、当時、どういう意味を、著者の意図した読者に伝えようと思ったのかを、まず考えるようにしています。自分にとっての意義と区別して、これを、僕は聖句の意味と呼んでいます。意味は基本的にひとつに決まっていると言って良いと思います。10−16節の意味は、捕囚にあって牢屋に入れられていたイスラエルの民の牢屋からの解放だと思います。

10−16節の、現代の僕たちの意義は、状況によって変わると思います。つまり、聖書の意義は、ひとつではありません。人により、時代により、状況によって違ってきます。

例えば、今でも、中国やイスラム教国などで、キリストを信仰しているために迫害されて牢屋に入っている人がいます。その人にとっての10−16節の意義は、実際に牢屋からいつか解放される、ということかもしれません。

でも、牢屋に入っていない今の信仰者には、別の意義があると思います。今の信仰者が、全て、罪から解放されていることを思うと、今の信仰者に共通の6−10節のひとつの今の僕たちへの意義は、罪からの解放だと思います。

聖句の意味からかけはなれた意義というのは、神さまからのものではなく、自分の願望などから来ていることが多いと思います。ただし、ひとつしかない聖句の意味と違って、自分にとっての意義は、ひとりひとり違うので、どれがずれているとか、正しいとか、人と話しあうことが難しいのです。聖句の意味を考えながら、祈りのなかで自分にとっての意義を神さまが示してくださるように求めていくことが大切だと思います。

No.1493 2007/01/04(Thu) 23:57:52
詩篇106章 / 沙耶香 引用

うーん、本当最近レスつける人は減っているが、でも見ておられるかたは結構いらっしゃるのでは・・・レスがあまりないからと言って落ち込む必要はないと思うし、私は今後もずっとこういう風に聖書を通読して感想を述べていこうと思います。
管理人さんのほうから迷惑だから辞めてくれと言われない限りは・・・

今日は詩篇106章を読みました。

7節の
私たちの先祖はエジプトにおいて、
あなたの奇しいわざを悟らず、
あなたの豊かな恵みを思い出さず、
かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。
の一番下の葦の海ってなんだろう?読み方も分からない・・・マウスで書いて出してみた・・・うーん???
あ、後の節であしと読むことが分かりました。葦の海とはなんだろうか?

17節の
地は開き、ダタンをのみこみ、
アビラムの仲間を包んでしまった。
のダタンとアビラムの仲間ってなんだろう?解説には不従順の扇動者とあるが、それも意味がわからない、神にしたがわない人ということかな?

30節の
そのとき、ピネハスが立ち、
なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。のなかだちのわざとはなんだろうか?何かとっぴなことをしたんだろうか?

32節に
彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのために
わざわいをこうむった。とありますが、またメリバの水が出てきましたね。。。

全体的な意味は汲み取れないし、なんだかよく分からないなー・・・読んでその情景が脳裏に浮かぶようになってくるといいなー・・・そうなることを信じて期待して感謝します。

No.1476 2007/01/02(Tue) 17:24:38

Re: 詩篇106章 / 昌夫 引用

第106篇で詩篇第4巻が終わります。この詩篇も第104、105篇のように「ハレルヤ」で終わっていることが特徴の一つです。また、この詩篇も第105篇のように、イスラエルの歴史を述べていますが、主の不思議なわざを描いた105篇に比べて、106篇はイスラエルの民が主に逆らったことを強調しています。また、105篇がアブラハムからモーセまでの歴史を書いたのに対し、106篇はモーセからバビロン捕囚までの歴史を書いています。47節は捕囚としていろいろな国々に連れて行かれたイスラエルの民を、イスラエルに集めてくださるように主に祈っています。詩篇第5巻は、107篇1−3節で、主が、47節の祈りに答え、捕囚にあったイスラエルの民を集められたことに感謝することから始まります。

6−12節は、モーセに率いられた出エジプトのことを書いています。7節の「葦の海」とは、出エジプトのときに主が分けられた海の名前です。エジプトのパロはイスラエルの民がエジプトを出る許可を出したけれども、すぐに考えを変えて軍勢を率いて民を追いかけたのです。そのときに、葦の海の前に宿営していたイスラエルの民は主を信頼せずにエジプトの軍勢を恐れ、モーセと主に逆らいました。民数記14章5−12節に書いてあります。

詩篇106章13−15節の背景として、民数記の11章の4−6節と31−35節を読んでみてください。イスラエルの民はシナイ山のふもとに一年間くらいとどまり、十戒をいただき、礼拝をするための主の天幕を作りました。それから出発し、東北に進みました。3日ほど進んだところで、イスラエルの民はマナあきて、肉を食べたいという欲望にかられて不満を言いました。主は、うずらという鳥を運んできて、民に食べさせましたが、不満を言う民に怒られて、疫病をはやらせて多くの人々が亡くなりました。

16−18節の背景は民数記16章に説明があります。コラとダタンとアビラムとその仲間が、モーセとアロンに逆らって、民のリーダーになろうとしました。主は怒られて、詩篇106章17節にあるように地面が割れて悪者がのみこんだりする罰を与えられました。ここでコラという人が、主に逆らいましたが、その子孫は何百年後のダビデ王のころに、音楽で主を賛美する役をいただきました。詩篇84−85、84−89章はコラの子孫の賛歌です。

19−23節はモーセがホレブ山(シナイ山の別名)で十戒をいただいていたとき、イスラエルの民が山のふもとで、金の子牛の偶像礼拝をする罪を犯したこと、モーセが民のためにとりなしの祈りをしたことを書いています。

28−31節は、イスラエルの民が荒野でさまよっていたとき、バアル・ペオルという異教の神を礼拝した罪のことを書いています。このときのことは民数記25章に書いてあります。モーセの弟のアロンの孫、ピネハスが、不信仰なイスラエル人と、悪いたくらみをしていたミデヤン人の女をCENSORED主の怒りをなだめました。

32−33節は、以前にも出てきた民数記20章2−13節のところです。モーセがこのときに、軽率なことを言ったために、約束の地を踏むことができませんでした。

34−46節は、イスラエルが約束の地に入ってからのことです。イスラエルは不信仰の罪を犯しては、罰として敵にしいたげられ、主に救いを求めました。主はあわれまれて、救い出されました。でも、イスラエルは、また罪を犯しました。主は、またあわれまれて救い出されました。このサイクルをイスラエルは何回も繰り返し、ついに、北イスラエルも南ユダも滅ぼされて、民は遠い国で捕囚となりました。それでも、主はイスラエルの民をあわれんで、捕囚のときも、民が敵にあわれまれまれるようにされました(46節)。

No.1479 2007/01/03(Wed) 01:53:45

再詩篇106章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇106章を読みました。

へーーあの二分された海を葦の海というんだ。
民数記14章5−12節見てみます。
そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の
全集会の集まっている前でひれ伏した。
すると、その地を探ってきたもののうち、ヌンの子ヨ
シュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き
裂いて、
イスラエル人の全会衆に向かって次のように言っ
た。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い
地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの
地に導きいれ、それを私たちに下さるだろう。あの地
には、乳と蜜とが流れている。
ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐
れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。
彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主
が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはなら
ない。」
しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出し
た。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイ
スラエル人に現れた。
主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわた
しを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべて
のしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じない
のか。
わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あな
たを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

詩篇106章13−15節の背景・・・民数記の11章の4−6節と31−35節
また彼らのうちに混じってきていたものが、激しい
欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で
泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出
す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにく
も。
だがいまや、私たちののどは干からびてしまった。何
もなくて、このマナをみるだけだ。」

さて、主のほうから風が吹き、海の向こうかrあう
ずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営
の周りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも
約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。
民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行
って、うずらを集め、―最も少なく集めたものでも、
十ホメルほど集めた。―彼らはそれらを、宿営の回
りに広く広げた。
肉が彼らの歯の間にあってまだ噛み終わらないうち
に、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に
激しい疫病で民を打った。
こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋め
たので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。
キブロテ・ハタアワから、民はハツェロテに進み、
ハツェロテにとどまった。

私の場合はこの前地図で見たところだ。マナに飽きて肉を食べたい・・・現代では普通に思えるけれど、神が与えてくださるものに不平を言ってはいけないですね・・・
でも現代の食も経済もイエス様が満たしてくれているので、本当は毎日違うものではないとと文句をいうのはおかしいのですが・・・人間とは本当に欲深い生き物です。

民数記16章・・・これは長いからこれを書き込んでいたらいつになるか分からないので・・・かけるところまで書きます。
レビの子ケハテの子であるイツハ
ルの子コラは、ルベンの子孫である
エリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オ
ンと共謀して、
会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名の
あるものたち二百五十人のイスラエル人とともに、モー
セに立ち向かった。ここからは書かずに読みます。・・・・・・・・・・
・・・・
アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集
会の真ん中に走っていったが、見よ、神罰はすでに民の購
いをした。
彼らが死んだものたちと生きているものたちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。
コラの事件で死んだものとは別に、この神罰で死んだ
者は、一万四千七百人になった。
こうして、アロンは会見の天幕の入り口のモーセのと
ころへ帰った。神罰はやんだ。
私のスレやレスを読んでくれている人は御自分の聖書で確認してみてください。

民数記25章
イスラエルはシティムにとどまっ
ていたが、民はモアブの娘達と、
淫らなことをし始めた。
娘達は、自分たちの神々にいけにえをささげるの
に、民を招いたので、民は食し、娘達の神々を拝ん
だ。
こうしてイスラエルは、バアル・ぺオルを慕うよう
になったので、主の怒りはいす耐えるに対して燃え上がった。
主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをいm
な捕えて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせ
よ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」
そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちにいった。
「あなたがたは、おのおの自分の配下のパアル・
ペオルを慕ったものたちを殺せ。」
モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入り口
で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の
女を連れてやってきた。
祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや
会衆の仲から立ち上がり、手に槍を取り、
そのイスラエル人の後を追ってテントの奥の部屋
にはいり、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹
を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰が
やんだ。
この神罰で死んだものは、二万四千人であった。
主はモーセに告げておおせられた。
「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたし
のねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わた
しは、私のねたみによってイスラエル人をたち滅ぼす
ことはしなかった。
それゆえ、言え。「見よ。わたしは彼にわたしの平和
の契約を与える。
これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわ
たる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表し、イスラエル人の購いをしたから
である。」
その殺されたイスラエル人、ミデヤン人の女といっしょに
殺されたものの名は、シメオン人の父の家の長
サルの子ジムリであった。
また殺されたミデヤン人の女の名はツルの娘コズビ
であった。ツルはミデヤンの父の家の氏族のかしらで
あった。
主はモーセに告げておおせられた。
「ミデヤンじんを襲い、彼らを打て。
彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなたがたを
襲ってペオルの事件を引き起こし、ペオルの事件の神
罰の日に殺された彼らの同族の女、ミデヤンの族長の
娘コズビの事を引き起こしたからだ。」

民数記20章2−13節
ところが会衆のためには水がなかったので、彼ら
は集まってモーセとアロンとに逆らった。
民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟
たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのな
ら。
なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて
私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとする
のか。
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、
この悪いところに引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つようなところではない。そのうえ、飲み水さえない。」
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の
入り口に行ってひれ伏せた。すると主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに告げて仰せられた。
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を
集めよ。あなたがたが彼らのために岩から水を出し、
会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主
の前から杖を取った。
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を収集し
て、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この
岩からわたしたちがあなたがたのために水を出さなければ
ならないのか。」
モーセは手をあげ、彼の杖で岩を二度打った。すると、
たくさんの水が湧き出たので、会衆もその家畜も
飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたが
たはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前
に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、
この集会を、わたしが彼らに与えた地に導きいれることは
できない。」
これがメリバの水、イスラエル人が主とあらそったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なるもの
として示されたのである。

関連箇所を全部書き出すのは容易ではありませんね。
その箇所を理解するのも容易ではありません。

このところは第四巻の最後のところですね・・・
本当管理人さんのおっしゃるようにイスラエルの民が捕えられたときも民をあわれまれたのが素晴らしい主のお考えですよね・・・

No.1482 2007/01/03(Wed) 12:48:51

Re: 詩篇106章 / 昌夫 引用

沙耶香さん、これだけ聖書の関連箇所を時間をかけて書き出すのは、たいへんだったと思います。主が沙耶香さんの苦労に報いてくださることを信じて感謝します。ただし、今後は特に公開する必要のない聖書の関連箇所の書き出しは個人的なメールとか、ノートとかにするように、お願いします。

公開掲示板での聖句の引用は、書き込みで伝えたいことのために必要な場合だけにして、漢字の変換なども含めて間違いなく聖書から写すように注意してください。

No.1485 2007/01/03(Wed) 23:15:10

Re: 詩篇106章 / 沙耶香 引用

すみません。本当にそうですね・・・自分で読んだらいいのであって何もこんなに書き出さなくてもいいですね・・・
あ、漢字の変換間違えてました?これだけ書き出しているとそうなるのでしょう・・・今後はこういうことはいたしませんので、許してください。

No.1488 2007/01/04(Thu) 11:05:41
詩篇105章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇105章を読みました。

9節に
その契約はアブラハムと結んだもの、
イサクへの誓い。とありますが、イサクはアブラハムの子なのかな?解説からそうとれるが・・・

15節の
「わたしの油そそがれたものたちに触れるな。
わたしの預言者たちに危害を加えるな。」はどういう意味だろうか?わたしの預言者って誰だろうか?

16節の
こうして主はききんを地の上に招き、
パンのための棒をことごとく折られた。
ってどういう意味だろうか?ききんてあの歴史で習ったききんのことかな?ききんを地の上に招きって意味がわからない。

25節の
主は人々の心を変えて、御民を憎ませ、
彼らに主のしもべたちを、ずるくあしらわせた。はどういう意味だろうか?うーん???

28節の
主はやみを送って、暗くされた。
彼らは主の言葉に逆らわなかった。とはどういう意味だろうか?やみを送って??

29節の
主は人々の水を血に変わらせ、
彼らの魚を死なせた。とはどういうことだろうか?
あ、戦争で血の海になって魚が死んでしまったということかな?

30節の
彼らの地に、かえるが群がった。
王族達の奥の間にまで。はどういう意味だろうか?かえるが群がる??分からない・・・

37節の
主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。
その部族の中でよろける者はひとりもなかった。はどういう意味だろうか?金と銀を持たせてどこに御民を連れ出したのか?情景があまり汲み取れない。

No.1464 2007/01/01(Mon) 22:15:53

Re: 詩篇105章 / 昌夫 引用


第105篇は、イスラエルの歴史をアブラハムからモーセのときまでを書いています。モーセのときに主がエジプトからイスラエルの民を救い出されました。また、第104篇と106篇と同じように「ハレルヤ」で終わることも特徴のひとつです。詩篇第4巻は第90篇のモーセの祈りで始まって、ハレルヤで終わる第104-106篇で終わります。バビロン捕囚でダビデの子孫の王政が終わったことを背景に、イスラエルの栄光を約束されたダビデの契約よりも、モーセの契約と出エジプトのときの救いに焦点をおいて、感謝と賛美を主に捧げています。

9節ー10節で、アブラハムの子がイサク。その子がヤコブです。ヤコブは一時カナンの地を離れていましたが、帰ってくるときに、イスラエルという新しい名を主にいただきました。ヤコブの12人の息子の子孫がイスラエルの国の12部族です。

12節で、アブラハム、イサク、ヤコブは、他国に寄留していた、ということが大切です。アブラハムの一族はもととカルデヤ人のウルというところにいて、カランというところに出てきていました。主はカランでアブラハムに、一族を離れていろいろな国々があったカナンの地に行くように言われました。カランでは、アブラハムの一族はアラム語を話していたと思われます。カナンではへブル語が話されていたようです。アブラハムは、エジプトにも一時留まりました。このように、アブラハム、イサク、ヤコブは、ことばも違う外国に寄留したのです。僕たち信仰者は、キリストを信ずることによって神の国に属するものとしていただいたのに、今はまだ、この世に寄留していることに対応します。

13節は、主が他国に寄留していたアブラハムとイサクとヤコブを守っておられたことを書いています。預言者とは、神の御言葉を聞いて語る人のことで、ここでは、アブラハムとイサクとヤコブのことだと思います。

16節―19節は、ヤコブの12人の息子の一人のヨセフがエジプトに奴隷として売られ、さらに無実の罪で牢屋に入れられたときのことを背景にしています。エジプトの王のパロが見た夢をヨセフに主が解き明かされ、ヨセフはエジプトの周辺にききんがくることをヨセフが預言しました。ヨセフはききんに備えて、食糧を貯蔵するようにパロに薦めました。16節は、ききん(農作物がほとんどできないこと)が来て食物がなくなるような苦しいことも、主が起こされることを詩人が理解して書いてあります。「パンのための棒がことごとく折られた」とは、主が起こされたききんのために食物がなくなったことを詩的に表現しています。

20−24節では、ききんを預言したヨセフが、パロに信頼されてエジプトで大臣となり、ききんのためにカナンで食物がなくなって困っていたヤコブやヨセフの11人の兄弟たちもエジプトに来たこと、やがて、イスラエルの民が増えたことを説明しています。

25節は、ヨセフを知らない王がエジプトに起こり、イスラエルの民がエジプトの奴隷にされてしまったことを書いています。このようなイスラエルにとって苦しいことも、主がご計画によって、エジプトの人々の心を変えて行われたことです。エジプトの人たちは、ヨセフのときには、イスラエルの民に好意的だったのに、彼らを憎むようになり、いろいろずるい行いをして、彼らを苦しめました。

28-36節では、モーセとアロンがエジプトの王に、イスラエルの民を解放するようにと主が言われていることを伝えたとき、王が主に逆らって拒んだので、主はエジプトにいろいろな災いを起こされたことを書いています。28節は、出エジプト10章21-23節に書いてある、やみの災いについて書いています。おそらく主は厚い雲がエジプトを覆うようにされ、太陽の光が3日間、届かないようにされたと思います。29節は、出エジプト7章14-25節にある、エジプトのナイル川の水が血に変わったことを書いています。主がどのような方法を用いられて、水を血に変えられたのか、聖書に書いてありません。僕は、ここは科学的な現象を用いられず、奇跡の力を用いられたのではないかと思います。30節は、出エジプト8章1-15節にある、多くのかえるが上がってきて、寝室にも入ってくるという災いです。

37節では、主がイスラエルの民を、エジプトから救い出されたときのことを書いています。主はエジプトの民の心を変えて、イスラエルの民に好意を持たせられ、自分たちの持っていた銀や金をイスラエルの民に与えるようにされました。

No.1469 2007/01/02(Tue) 00:25:36

再詩篇105章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇105章を読みました。

お腹が痛いですがきっと主が癒してくださいます。
アブラハム、イサク、ヤコブは他国に寄留していた・・・
私たち信仰者もこの世に寄留しているだけ・・・うん、いいですね・・・そう考えると天国に属していると思うとイエス様との深いつながりを感じます。
29節のように奇跡の力を使われる場合は現在ではないのだろうか?

No.1474 2007/01/02(Tue) 14:21:30

再詩篇105章 / 沙耶香 引用

今日の朝、105章をもう一度読んでの感想と管理人さんのご説明を読んでの感想をつけたのだが、何故か載っていないので、もう一度感想つけたのだが、上のほうは載っているが、下のほうが載らない。
うーん?インターネット調子悪いのだろうか?うーん???

No.1475 2007/01/02(Tue) 14:25:36

再々詩篇105章 / 沙耶香 引用

うーん、なんだかうまくいかなかったので、もう一度105章を読みます。何度も読めという意味でイエス様がそうされたのかもしれないです。

私もパスワードを入れておかないといけない。そうすると間違えたときや、おかしくなったときにもう一度できるから・・・・

2節の
主に歌え。主に褒め歌を歌え。
そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。の奇しいという言葉は聖書によく出てきますが、あまり一般では聞かないですね・・・奇跡的なという風に言うから・・・

管理人さんのご説明も読み直し、聖書も読み直しているのに、またまた意味不明ですね・・・これはなかなか解決しないでしょうね・・・でもいつかきっと主が成し遂げてくださいます。

いろいろな人の様子や内容が書かれているので、あまり印象に残る箇所はなかったです。

この掲示板に来てくださっている人はみな、よいお年をお迎えになられましたか?お餅食べるのはいいけれど、お餅を喉に詰まらせる人が今年は続出しているそうですので、気をつけてくださいね。

No.1477 2007/01/02(Tue) 17:41:10

Re: 詩篇105章 / 昌夫 引用

>29節のように奇跡の力を使われる場合は現在ではないのだろうか?

中国やイスラム教国など、クリスチャンがひどい迫害を受けているところで科学的法則では説明できないと思われる奇蹟が起こったという話を聞くことが多いです。クリスチャンが迫害を受けていないアメリカでも、たまに聞くことがあります。必要があれば、現代でも主は奇蹟の力を使われると思います。

ただし、信仰者の態度としては、奇蹟を見ないでも主の力を実感して信仰を深めていくことが良いと思います。自分が存在することとか、太陽が朝昇るような、主をよく知らない人が驚かないことに、主の不思議な御力を実感して信仰を深めることができると、素晴らしいと思います。

No.1478 2007/01/03(Wed) 00:51:43

Re: 詩篇105章 / 沙耶香 引用

へーー中国やイスラム教国やアメリカでは奇跡を聞くのになぜ日本ではないのだろうか?
奇跡を見ないでも主の力を実感することは大事なことだと思うけれど、でも主の奇跡を見てみたいと思うのもまた信仰者の本音なのではないのだろうか?

No.1480 2007/01/03(Wed) 05:58:51

Re: 詩篇105章 / 昌夫 引用

>なぜ日本ではないのだろうか?

全くないということもないでしょうが、かなり少ないように思います。神さまが奇蹟を用いられる主要な目的は、神さまからのメッセージが、本当に神さまからのものであることを、人々に示すことです。例えば、イエスさまは食糧で、多くの人々に給食する奇蹟を見せられて、ご自分のメッセージが父なる神さまからのものであることを示されました。現代の日本で、キリスト者を用いて、そのような奇蹟を神さまが行われても、人々はうさんくさいと思うだけではないでしょうか。こう考えると、現代の日本では神さまは、あまり奇蹟を用いられないだろうと思います。

いずれ時が来たら、科学現象を用いない奇蹟ではなく、何か違う不思議なわざを大きく用いられて、聖書のメッセージが神さまからのものであることを、多くの日本人に示されるのだろう、という気がします。

No.1481 2007/01/03(Wed) 11:26:48
詩篇104章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇104章を読みました。

3節の
水の中に御自分の高殿の梁を置き、
雲を御自分の車とし、
風の翼に乗って歩かれます。
はどういう意味だろうか?高殿の梁を水の中に置いた??

4節の
風を御自分の使いとし、
焼き尽くす火を御自分の召使とされます。はどういう意味だろうか?何かの比喩表現だと思うが・・・

7節に
水はあなたにしかられて逃げ、
あなたの雷の声で急ぎ去りました。とあるが、雷は神様の声だと言われていますね・・・

16節の
主の木々は満ち足りています。
主の植えたレバノンの杉の木も。のレバノンの杉ってよく出てきますね・・・

26節のそこを船が通い、
あなたが作られたレビヤタンも、
そこで戯れます。
のレビヤタン=海の大型の生き物とありますが、聞いたことないですね・・・そんな生き物いたんだ。

30節の
あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
また、あなたは地の面を新しくされます。はどういう意味だろうか?
やはり何かの比喩表現だろうか?

35節の
罪人らが地から絶え果て、
悪者どもが、もはやいなくなりますように。
わが魂よ。主をほめたたえよ。
ハレルヤ。が印象に残りました。
悪者どもが、もはやいなくなりますように。がいいですね・・・

No.1459 2006/12/31(Sun) 22:31:36

Re: 詩篇104章 / 昌夫 引用

詩篇の書の中で「ハレルヤ」という言葉はこの第104篇で初めて出てきます。詩篇第1−2巻が神さまを信頼する信仰ということに重点を置いているのに対し、今読んでいる第3巻の、この詩篇のあたりから、感謝と賛美ということが、重点となっていっていると思います。

3節を「水」は創世記1章7節で、神は大空の上に水を置かれた、その水だと思います。天の神殿はその水の中に梁(横木のことです)を置き、その梁の上に建てられています。これは、文字通りというより、霊的な意味だと思います。

4節は、風も火も主に支配されていることを表しています。「焼き尽くす火」は、落雷を表現しているようです。

16節にあるレバノンは、カナンの地の北西にレバノン山があり、その山の杉は数も豊富で品質が良いので、有名だったのです。

30節の前半では、主が聖霊を送られると生物が造られて生きることが書いてあります。どのような生物も、主に造られたこと、主が聖霊が送られることが生まれてくるのに必要であることが書いてあると思います。「地の表
を新しくされる」とは、地面に草木が生えてくることの表現だと思います。

No.1460 2006/12/31(Sun) 23:40:42

再詩篇104章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇104章を読みました。

へーー感謝と賛美か・・・でも感謝も賛美も信仰も信頼も大事ですよね・・・感謝と賛美に重点を置いたらいいときと、信仰や信頼に重点を置いたらいいときとあるということだろうな。

梁=横木?横木って何?横たわっている木のことかな?
創世記1章7節
こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、
大空の上にある水とを区別された。するとそのように
なった。
大空の上に置かれた水の中に横木を置き、その上に天の神殿が建てられた・・・ふーん、なんだかよく分からないけれど・・・
16節は地図で確認したところですね・・・
へーーじゃどのような生物も主が聖霊を送られることが生まれるのに必要なのですか?犬やネコも主が聖霊を送られないと生まれてこないの?
人間もそうなの?でも男女の性交渉で排卵したら生まれるのではないですか?やはりそのときも主が聖霊を送られているの?すべての造り主はイエス様という意味は私は最初に人間を作ったのがイエス様だからということかと思っていました。一人一人生まれてくるときに主が聖霊を送られているんだ?ふーん・・・
へーー地の表を新しくされるは地面に草木が生えてくることの表現??何でだろうか?って聞いてもいけないし、新しくされる=草木が生えてくるでいいんですよね?

1節のあなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。が印象に残りました。尊厳と威光を身にまとっておられるなんてすごいかっこいい表現で・・・

レビヤタンてどんな生き物なの?見たことも聞いたこともないですね・・・
お正月もイエス様が作られたんだろうか?でもいつからかできた風習だろうから、人間が作ったものでしょうね・・・

No.1461 2007/01/01(Mon) 11:43:15

Re: 詩篇104章 / 昌夫 引用

>梁=横木?横木って何?

天井や床で見えないですが、作りかけで、天井や床のない家を見ると、縦向きの柱のほかに、横にした材木が、床や天井のところにあります。これが梁です。

>じゃどのような生物も主が聖霊を送られることが生まれるのに必要なのですか?

30節から考えてそうだと信じます。ここで大切なのは、男女の性交渉で排卵したら生まれるというような、科学的な説明と、聖霊が送られて生まれる、という霊的な説明は、両方正しいということです。すべての生命は主が造られるのですが、主が造られるときに、動物の雄と雌、あるいは人間の男女の性交渉という科学的な現象を用いられるのです。科学的な説明をして、神さまの創造は関係ないと考えるのは、科学的な現象の背後に、神の支配があることを知らないからです。反対に、神が造られるということを強調するあまり、科学的な現象を否定するのも、同じ誤りだと思います。

たとえば、聖書には神が雨を降らすという考えが、何回も出てきます。だからといって、水が蒸発して、雲ができて、雨が降るという科学的な説明を否定したり、化学的な説明があるから、神が雨を降らしたりしない、と考えるのは誤りです。神が、水の蒸発や、雲ができあがること、雲の風による動きなど、すべてを支配されています。

>地の表を新しくされるは地面に草木が生えてくることの表現?

たとえば、冬の間に茶色だった野原が春に緑になった様子が、地の表が新しくなったと表現できると思います。

>レビヤタンてどんな生き物なの?

レビヤタンという生き物は、ワニだという説と、ずっと昔に絶滅した、怪物のような生物だという説があるようです。僕は、ワニのようだけれど、もっと大きくて強い怪物のような生き物で、もう今は絶滅しているのだと考えています。

No.1462 2007/01/01(Mon) 13:04:14

Re: 詩篇104章 / 沙耶香 引用

へーー横木っていうのがあるんだ。柱を立てる土台のようなものなのかな?
両方正しい・・・うーん、じゃ性交渉で排卵することも主がめぐり合わせるのですか?男女がめぐり合うのも性交渉も排卵も全部主のなさることなのですか?男女の結婚前の性交渉は御心ではないのではないですか?
あまり考えているとだんだんわけがわからなくなって煮詰まってきますが、でも多分全部背景には主がおられるのでしょうね・・・

うん、そうでしょうね・・・きっと科学的現象も主が支配されていることだから・・・そう考えると主がすべてをつかさどっていると言えますよね?

冬の間に茶色だった野原が春に緑になった様子が地の表が新しくなったと表現できるという説明・・・すごく分かりやすいです。
さすが管理人さんですね・・・説明の仕方が私のような理解不能な人にでも分かる・・・

レビヤタン・・・聞いた感じはすごい怪物という気がしますが・・・ワニのようでワニでない・・・面白い生き物だったのですね・・・

No.1463 2007/01/01(Mon) 21:23:02

Re: 詩篇104章 / 昌夫 引用

>じゃ性交渉で排卵することも主がめぐり合わせるのですか?男女がめぐり合うのも性交渉も排卵も全部主のなさることなのですか?

僕たちが偶然と考えたり、科学的な自然現象と思うことは、すべて主が支配されておられます。

>男女の結婚前の性交渉は御心ではないのではないですか?

自然現象と異なり、人間は御心に逆らう自由を与えられています。この世では、この自由のために、人間は罪を犯すことを選ぶということがあるので、純粋に天になるような御心がなるのではないのです。それでも、主がすべてを支配されて、ご計画どおりにすべてが行われます。男女の結婚前の性交渉は天になるような御心にかないませんが、そういうことが起これば、それは人間の罪ということを計算にいれられた主のご計画なのです。主の天の御心にかなわない罪の行動や悪がこの世でははびこりますが、全知全能の主のご計画にないことが、実際に起こることはありえない、と僕は考えます。

>きっと科学的現象も主が支配されていることだから・・・そう考えると主がすべてをつかさどっていると言えますよね?

そうです、科学的な自然現象はすべて主が法則を造られ、今でもすべての現象をささえて維持しておられます。

No.1468 2007/01/01(Mon) 23:14:07
詩篇103章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇103章を読みました。

4節の
あなたのいのちを穴から購い、
あなたに、恵とあわれみとの冠をかぶらせ、のいのちを穴から購うとはどういうことだろうか?全体的に意味不明・・・恵とあわれみとの冠をかぶらせる??
何の穴だろうか?

6節の
主はすべてしいたげられている人々のために、
正義とさばきを行われる。はいいですね・・・虐げられてきた私にとっては最高の御言葉ですね・・・

8節の
主はあわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。怒るのにおそいとはどういうことだろうか?なかなか怒らないということだろうか?

11節の
天が地上はるかに高いように、
御恵みは、主を恐れるものの上に大きい。が印象に残りました。主を恐れると相当の恵が天から降ってきそうで・・・

14節の
主は、私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりにすぎないことを
心に留めておられる。ってどういう意味だろうか?ちり?私たちが小さな存在だということだろうか?

18節の
主の契約を守るもの、
その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。の主の契約を守るものは前も聞いたと思うけれど、主の御心を守るものという感じかな?

聞いても聞いても忘れて覚えられない。どうしたら頭の中に入るんだろうか?何かに書くといいのかな?でも書いたら混乱してくるかもしれないと思って・・・うーん?何かいい手立てはないかな?

No.1452 2006/12/30(Sat) 21:09:23

Re: 詩篇103章 / 昌夫 引用

>聞いても聞いても忘れて覚えられない。どうしたら頭の中に入るんだろうか?

僕も前に調べたことを忘れていることはいろいろあります。それで、これは覚えておきたいと思ったときは、特に「どうか、御心なら、このことを覚えることができまるように。そのために何かするべきなら、できるようにお導きください。」という意味のお祈りをします。特に覚えておきたいことは、声に出して読んだり、紙に書いたりすると良いと思います。夜寝るまえに、そうして、朝起きたときに、思い出して、書いたことを読んで確認し、1週間後くらいに、もう一度確認すると、よく覚えることができるようです。

4節は、信仰者も罪のために死ぬはずだったことを、「いのちが穴に落ちる」というイメージで表しています。主の購い(この購いは、主イエスさまの十字架によることは、ダビデ王の時代から約900年後くらいに示されました。)の恵みによって、罪を赦されて、主のあわれみによって信仰者には栄光の冠がいただけることを、書いています。

8節は、主の愛を表すのに、よく使われる表現です。主は僕たちが信仰を持たずに主を無視し、さらに侮辱しても、怒りをおさえてくださって、あわれみ深く、僕たちを救おうとしてくださいます。信仰を持った後も、罪を犯しても、情け深く待っていてくださいます。モーセが「主の栄光を見せてください」と主にお願いしたときに、主はこう言われたのです。出エジプト記の33章18節から34章7節までを読んでみてください。34章6−7節で主の栄光とは、主のあわれみ深い愛であり、その愛は、罰すべき者は必ず罰される聖なる愛であることが分かると思います。

14節に「ちり」とあるのは、創世記2:7にあるように、人間はもともと、ちりから造られたからです。創世記3:19にあるように、死ぬと人間はちりに帰ります。主は、僕たちが人間がちりにすぎない、弱い小さい存在ということを心に留めて、僕たちの苦しみや無力さをあわれに思ってくださいます。

18節の「主の契約」とは、イエスさまの十字架以前のダビデのころは、主がモーセに与えられた十戒などの律法に基づいていました。モーセに与えられた契約では、イスラエルの民が律法を守れば、イスラエルの民と子孫が約束の地で祝福を受けることが約束されていました。だから「主の契約を守る」とは、「モーセに与えられた律法を心に留めて、行う」ということです。

No.1457 2006/12/31(Sun) 00:45:20

再詩篇103章 / 沙耶香 引用

うーん、覚えたいことが何かを忘れてしまっているので・・・あ、このことを覚えておくようにお祈りしたらいいですね・・・でも御心ならだから・・・御心じゃなかったら覚えられない。でも聖書の理解は御心でしょ?

出エジプト記の33章18節から34章7節まで・・・
読みました。なんだかよく分からないけれど、
7節の
罰すべきものは必ず罰して報いるものっていうのがいいですね・・・そうじゃないと弱者の私たちはこの世の強者に泣かされ続けないといけないことになります。

創世記2-7
その後、神である主は、土地のちりで人を形作り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、
生き物となった。
創世記3-19
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない。
もともと小さい弱いものだけれど、主が大きく使ってくれたらいいですね・・・

もう一度読み直すと、17、8節の
しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、
主を恐れるものの上にある。
主の義はその子らの子に及び、
主の契約を守るもの、
その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。が印象に残りました。

No.1458 2006/12/31(Sun) 07:08:51

Re: 詩篇103章 / 昌夫 引用

祈りのときに、「御心ならば」というときには、詳しくいうと、「主のこの世でのご計画にかなうことならば」という意味です。天国では、罪から完全に解放された人間は聖書を完全に理解して覚えることができるようになるだろうと思います。そういう意味で、聖書を理解して覚えることは天になるような御心にかなうことです。でも、だからといって、今すぐ、僕たちが聖書を理解して覚えることが、この世での主のご計画であるということにはならないのです。理解しよう、覚えようとして祈ったり努力することで、僕たちが多くのことを学んでいくことが、主のご計画であるからだと思います。

No.1466 2007/01/01(Mon) 23:11:58
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