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今日は詩篇73章を読みました。
2節のしかし、私自身は、この足がたわみそうで、 私の歩みは、すべるばかりだった。はどういう意味だろうか?たわみそうってなんだろうか?足がたわむ?なんだろう?
12節の 見よ。悪者とは、このようなものだ。 彼らはいつまでも安らかで、富を増している。は悪者はいつまでも安らかで富を増しているということなのか?うーん?どうなっているんだろうか?不信だ。
18節の まことに、あなたは彼らをすべりやすいところに置き、 彼らを滅びに突き落とされます。が印象に残りました。 |
No.1324 2006/12/06(Wed) 21:11:04
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先週の礼拝説教でちょうどこの詩篇の箇所が読まれました。 3節〜12節、悪が栄えている様子を書いているのだと思います。 なぜ悪者が栄えているのですか、いつまでなのですかと嘆きたい時がある。 けれども我々の裁き手(神)は公平な方。 だから今起こっていることに絶望しない、まわりに起きている悲劇に目を奪われない、 あなたのため命を捨ててくださった方、その方が私を裁く方。 唯一の裁き手に目をとめれば、心を向ければ解放されるでしょう、という内容の説教でした。
23節以降、励まされる言葉ですね。
あなたは私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。 地上では、あなたのほかに私は誰をも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。 私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。
今夜も冷えますね。寒い夜は月がきれいです。昨夜はとても月が明るくて驚きました。カーテンのすきまから光が差し込んでいて、思わずベランダに出てしばらく月をながめていました。 星もいつもよりはたくさん見えますよ。 |
No.1325 2006/12/06(Wed) 22:18:02
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☆ Re: 詩篇73章 / 昌夫  |
引用 |
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2節の前半と後半は、同じような意味のことを繰り返しています。だから、ここでの「足がたわみそう」は、「足がすべる」と同じような意味で、足がすべって、けつまづきそうになっている様子だと思います。ここでの意味は、実際の歩みでのつまづき、というより、信仰の歩みの中で、3−16節のように、間違えた考えを持って、苦しんでいたという意味です。
どういう風に間違ったかというと、3−12節のように詩人は悪が栄えるのを見て、13−14節のように、心をきよめても、報いがなくむなしいと考えました。15節のように、もしも、そのような間違った考えを、詩人が若い人たちに教えていたら、若い人たちを裏切ることになっていたところでした。
16節のように、詩人は苦労して、なぜ悪がこの世で栄えるかに思いをめぐらし、17節のように、彼が神殿に入ったとき、神が悟りを与えられました。18−20節のように、神は悪人たちを急に滅ぼしつくされることが、示されたのです。
このような悟りが示されてみると、悪がいつまでも栄え、心をきよめても報いがないという考えは、愚かで、わきまえもなく、獣のような考えであったと詩人が悟ったことが22節に書かれています。そのような愚かな考えを持っていたときも、23節以降のように、主がともにいてくださり、詩人を導いてくださっていました。
27−28節にあるように、神から遠く離れているものはいずれ滅び、神の近くにいることが、しあわせです。
>あなたのため命を捨ててくださった方、その方が私を裁く方。
ということが、とても大切だと思います。キリストが、自分のために命を捨ててくださったことを思うとき、神の慈しみということに気づきます。でも、その慈しみは、義とさばきに基づかない、安っぽい優しさではない。神は悪の行いを必ずさばき、罰されるので、キリストが死ななければ人間は誰も救われなかった。公平なさばきと義にもとづいた、聖なる神の愛をより深く知るように求めていくことが、大切なのだと思います。 |
No.1326 2006/12/07(Thu) 03:57:11
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今朝はもう一度詩篇73章を読みました。
なかなか私は文章のつながりっていうことが分からないし、なかなか意味がつかめない。いくら読み進めても、普通の人に比べたら劣るのが辛い。 神様イエス様どうか意味が少しずつでも取れて、イエス様のお考えが少しずつでも頭に入っていきますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・ |
No.1327 2006/12/07(Thu) 11:38:39
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押し間違えた。
27,8章のように神の近くにいるのが幸せだと思うけれど、うちの教会で伝道師だった人が仕事が忙しいのと家族と一緒にいたいという理由で辞めていきました。 神よりも富と家族を選んだのです。 いつも何を差し置いても礼拝を一番にしないといけないイエス様を一番にしないといけないと言っている人が・・・ ご両親もきていたが、もう何ヶ月か前にこなくなりました。老齢で大変だからということで・・・奥さんもそれより前にこなくなりました。体調がよくなり仕事し始め、忙しいからという理由で・・・息子も部活が忙しくてなかなかこなくなっていました。 伝道師自体も、第一だけしか出なくなっていました。 そして先週辞められていました。 自分が周りの人も誘ってこないといけない、イエス様を知らないと地獄に落ちるからと言っておいて、自分の周りの人はだんだんこなくなり、自分も神様よりも富や家族を選んでしまって・・・言っていることが矛盾している。。。 ショックで立ち直れない。
文章のつながりが分からないと、聖書の理解につながらないですね・・・ |
No.1328 2006/12/07(Thu) 11:52:55
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☆ Re: 詩篇73章 / 昌夫  |
引用 |
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イエスさまはマタイ7章1節で「さばいてはいけません。」と言われていますが、これは、ひとつには、僕たちには人をさばくだけの知識を持っていないからだと思います。たとえば、教会に来るのをやめた伝道師は、「神様よりも富や家族を選んでしまった」と沙耶香さんは断言されますが、伝道師の心の中で何を選んだのか、沙耶香さんは確実に知っていると考えられる根拠は何でしょうか?キリスト者が、一人で教会のない場所に伝道に行った場合、日曜日に教会に行けないことになりますが、それをもって、このキリスト者が神様を裏切ったと考える人は少ないと思います。特に現在の日本の状況では、神さまが家族への伝道にキリスト者を使われることが多いと思います。特定の教会に来なくなったことを取り上げて、人間が「神様より、家族を選んだ」とさばくことは、たとえ、それが真実である場合もイエスさまの喜ばれる行為ではないと思います。人のことよりも、まず、自分のことを、ということを、マタイ7章1-5節、また、ヨハネの福音書の21章15-22節でイエスさまが言われていると思いますが、どうでしょうか? |
No.1329 2006/12/07(Thu) 12:27:44
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だって、伝道師本人が、家族も家でいるので、自分も仕事が忙しいし、日曜日休みたいと言っているので、そうだと思うのですが・・・ 真実であってもイエス様の喜ばれる行為ではない・・・うーん、そうかもしれないけれど、伝道師がそれでは、教会としての使命が果たせない。 伝道師が自分の言っていることとしていることと違ってはいけないですよ。教会の人への示しがつかない。 やすっぽい信仰だったのか!!と思ってしまいます。 マタイ7章1から5節・・・ 人を裁くと同じように裁かれるので、裁いてはいけませんということかな? ヨハネの福音書21章15節から22節・・・ 22節に・・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。とあります。人のことを気にするよりイエス様に従っていればいいということかな?と思います。 でも伝道師は教会はイエス様が満ち溢れているところだから日曜日には教会には何を差し置いても教会に集わないといけないんだと伝道されていたのに・・・そういう風に伝道されていた人がそれを止めたらその教会の人は何を信じたらいいのか分からなくなります。 |
No.1330 2006/12/07(Thu) 20:09:44
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沙耶香さんの気持ちはわかる気がします。
信仰熱心ですばらしいなあと思って見ていたのに、その人が教会を去っていったり、「神様のために尽くしたいとは思わない」などという言葉を聞いたりして寂しく悲しく感じたことが私も何度かありました。
その変わってしまったことに対してショックを受けます。 どうして?あんなに熱心だったのに?と。 牧師さんなら特に影響は大きいですね…。 だけど熱心だったのもその時のその人の本当の姿だったんでしょうが、変わってしまった今のその人の姿も本当なんでしょう。 だから熱心な姿がウソだったわけではないし、やすっぽい信仰だったということもないのでは、と思います。 ただ「変わってしまった」のだと。
昌夫さんの言うこともわかります。 その人が何を心の中で選んで行動に移したのかは、その人にしかわからないです。 「神様よりも家族や仕事を愛した」それが真実であった場合でも裁くのはイエス様が喜ばれない、というのもわかります。わかりますが…やはり心は複雑ですね。 神様から心がはなれていく人を見ると寂しく感じるし、どうして、と責める気持ちになってしまいます。
まずは自分自身が神様につながり続けることと、まわりの兄弟姉妹ひとりひとりにも神様が呼びかけ続けてくださっていると信じて神様にお任せすることでしょうか…。 |
No.1332 2006/12/07(Thu) 22:30:03
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☆ Re: 詩篇73章 / 昌夫  |
引用 |
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信仰者はイエスさまの証人として、信仰を持つ前の人たちに影響を与える役をもらっているし、伝道師や牧師など教会のリーダーとなる人たちは、特に他の信仰者たちの模範となる役を与えられています。だから、熱心だった信仰者やリーダーたちが、教会に来なくなったり、信仰に不熱心になったりした場合に、まわりの信仰者がショックを受けたり、責める気持ちになるのは、確かに人間の自然な感情だと思います。
しかし、ユダはひとつの教会のリーダーどころか、キリスト者全体のリーダーである12使徒の一人だったのにイエスさまを裏切ったわけだし、聖書は、人間ではなく、神を信頼しなさい、ということを何回も繰り返して書いています。それで、僕たち信仰者がイエスさまとの直接の出会いと交わりを深くしていくとき、信仰の根拠がより純粋にイエスさまとの交わりになっていくのだと思います。そうであれば、他の信仰者や、教会のリーダーたちの不信仰と思える方向への変化があったときに、さびしく悲しいという感情が起こっても、大きなショックを受けたり、責める気持ちになるということは、なくなっていくのだと思います。 |
No.1333 2006/12/08(Fri) 03:36:10
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イエス様との直接の出会いと交わりを深くしていく時、信仰の根拠がより純粋にイエス様との交わりになっていく
本当にそうだと思います。イエス様との交わりが深められていったら、教会がどうとかまわりの人がどうとかで左右されることはなくなるのでしょうね。私はまだまだだめですが。求めていきたいです。 |
No.1342 2006/12/10(Sun) 16:20:04
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