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詩篇33章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇33章を読みました。

1節の
心の直ぐな人たちという表現はよく出てきますね。

2節に
竪琴を持って主に感謝せよ。
十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。とありますが、楽器の使用が勧められているからうちの牧師はギターを購入しギターを習い始めたのだろうか?

3節の
新しい歌を主に向かって歌え。
喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。
とは新しい賛美を主に向かって歌え、喜んで響かせて歌い、それとともに楽器もうまく鳴らせと言いたいのだろうか?

5節の
地は主の恵みに満ちているとはこの世の中は主の恵に満ちているということだろうか?

8節の
全地よ。とはどういう意味だろうか?
オンライン辞書で調べたが出てこなかった。
賛美でよく聞く言葉だが、意味不明だ。

9節に
まことに、主が仰せられると、そのようになり、
主が命じられると、それは堅く立つ。とありますが、これがいつも管理人さんがよくおっしゃっておられる、何事も神様の御心にしかならない、神様の赦しなくては何も起こらないということかな?

12節の
幸いなことよ。
主をおのれの神とする、その国は。
神が、ご自身のものとしてお選びになった、
その民は。はどういうことだろうか?
後半は信仰者のことをおっしゃっておられるのだろうか?

私は15節の
主は、彼らの心をそれぞれみな造り、
彼らの技のすべてを読み取る方。というところが印象に残りました。主はどこで何をしていても何ひとつも見落とさないんですね・・・すばらしいですね・・・

16節の
王は軍勢の多いことによっては救われない。
勇者は力の強いことによっては救い出されない。とはどういう意味だろうか?
17節の、
軍馬も勝利の頼みにはならない。
その大きな力も救いにならない。とはどういう意味だろうか?何だか情景が見えてこない。

No.1147 2006/11/02(Thu) 21:51:15

Re: 詩篇33章 / 昌夫 引用

>楽器の使用が勧められているからうちの牧師はギターを購入しギターを習い始めたのだろうか?

そういう可能性もありますね。牧師に聞いてみてください。

>新しい賛美を主に向かって歌え、喜んで響かせて歌い、それとともに楽器もうまく鳴らせと言いたいのだろうか?

そうだと思います。

>5節の
地は主の恵みに満ちているとはこの世の中は主の恵に満ちているということだろうか?

だいたいそうですね。自然や人間社会も含めての地上には、主の恵みが満ちているということだと思います。

>8節の
全地よ。とはどういう意味だろうか?

へブル語の詩は同じ意味のことを繰り返すので、前後を読むとよく分かることがあります。8節の後半の「世界に住む者」と同じ意味で、全世界の人々、という意味です。

>何事も神様の御心にしかならない、神様の赦しなくては何も起こらないということかな?

そうですね。誤解がないように、少し言い方を変えると、全てのことは、全知全能の神さまのご計画どおりにしかならない。神さまの許可がないかぎり、何も起こらない、ということです。

12節では、旧約のころは、神さまがイスラエルの国を選ばれて十戒などの律法を与えて祝福されていたので、イスラエルの国と民のことを書いています。今なら、キリストを信ずる信仰者の全体のことにあたります。

>主はどこで何をしていても何ひとつも見落とさないんですね・・・すばらしいですね・・・

本当にすばらしい御力ですね。

16−17節は、国の王や勇者が多くの敵に囲まれるているところを想像してください。王は、自分の軍勢や軍馬の力により頼むことが多いし、勇者は、自分の力により頼むことが多いでしょう。けれど、本当は、軍勢などの人間の力ではなく、神さまの力によって、王も勇者も敵から救われます。

No.1150 2006/11/03(Fri) 01:36:42

再詩篇33章 / 沙耶香 引用

今日はちょっといろんなことに手間取り、こんな時間になってしまいました。
もう一度詩篇33章を読みました。

牧師は教会の上の人に集会のときにギターをひきながら賛美をしたらどうか?と勧められたそうです。そして確認とって御心だと思ったそうです。
でもその上の人がこの2節から語られたのかもしれないですね。

地上には主の恵をたくさん受けて相当この世的祝福を受けている人と、あまりこの世的祝福を受けていない人がいます。私は元々は祝福されていない何もない人だったが、イエス様と知り合っていろいろ祝福されてきました。

全地=世界に住む人々・・・ふーん、全地っていう言葉からは人とは結びつかないけれど・・・そうなんだー

自分の力だと思っていることも本当は神様が自分に与えてくれている力なのです。軍勢や軍馬の力だってイエス様が与えてくれている力なのです。だから本当はすべてはイエス様の御力なのです。

No.1151 2006/11/03(Fri) 12:37:04
詩篇31章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇31章を読みました。

あれ?何だかはじめて読む節のような気がしないですね・・・よく似た表現が多いですね・・・

3節の最後の
私を導き、私を伴ってください。とありますが、私を伴ってくださいというのは私といつもともにいてくださいという意味だろうか?

5節の
私のたましいを御手にゆだねます。
真実の神、主よ。
あなたは私を購いだしてくださいました。
とはどういう意味だろうか?
最後の審判のときのことだろうか?何だか難しいですね・・・

11節の
私は、敵対するすべての者から、非難されました。
わけても、私の隣人から。
私の親友には恐れられ、
外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
はどういう意味だろうか?みんなから非難されているにはわけがあるのだろうか?何か悪いことしたんだろうか?

12,13節なんか今のいじめみたいですね・・・私もずっと学生時代体験してきました。
先生なんかは当てになりません。強いものには見て見ぬふり、弱いものがいじめられていても知らん顔、これが教師です。そして辛くてCENSOREDの道を選んでしまうのです。
でもCENSORED完遂できた人はまだいいけれど、未遂になったらもっとみじめだ。
いじめられて辛くてCENSOREDしたが未遂になった事件もありました。もうこうなったら持って行き場がないでしょうね・・・
この世の中からいじめや弱いものに対するしわ寄せ、そういうものがなくなればいいんだけれど、なくならない。
辛い。
犯罪被害でも社会的弱者を狙うケースが多いらしい。
私たち社会的弱者は生きていてはいけないのか?

17節の
主よ。私が恥を見ないようにしてください。
私はあなたを呼び求めていますから。
悪者をはずかしめてください。
彼らをよみで静まらせてください。の最後の
よみで静まらせてください。はどういうことだろうか?うーん、混乱してくる・・・

なかなか聖書は難しくて理解しがたい。

No.1136 2006/10/31(Tue) 20:52:01

Re: 詩篇31章 / 昌夫 引用

>3節の最後の
私を導き、私を伴ってください。とありますが、私を伴ってくださいというのは私といつもともにいてくださいという意味だろうか?

「私といつもともにいてください」とよく似た表現ですが、「私を伴ってください」と言ったほうが、主が先に歩いておられ、自分はついていっている、という意味があると思います。

5節の「私のたましいを御手にゆだねます。」が、イエスさまの十字架上での最後の祈りでした。新約のルカの福音書23章46節を読んでみてください。

5-8節は、ダビデが、主を信頼する信仰によって、罪から贖いだされる恵みをいただき、神さまと正しい関係を持っていることを表していると思います。クリスチャンが、信仰によって罪の贖いの恵みをいただいているのと、同じようで、ダビデは、それを実感していたのだと思います。クリスチャンが、信仰を持ってからも苦しみにあうように、ダビデも、信仰を持っていても、この詩篇のように苦しみました。

10節に咎(とが)とあるのは、ダビデは何か罪を犯してしまったようです。そして罪が原因で、何かの病気になっていたようです。11節は、それを見た敵には罪のことを非難され、親友にも罪の結果の病気を見て恐れられてしまった、ということだと思います。

12,13節では、弱っているダビデを、多くの敵が責めていて、沙耶香さんの書かれたように今の弱者に対するいじめと似ていると思います。14節以降にあるように、弱者が主により頼むとき、主が弱者を救い出されます。

17節の「よみで静まらせてください」は、ダビデが弱くなったのを見て、ダビデを責めている敵の悪人たちの命を主が奪って、静まらせてください、という願いを祈っています。

No.1137 2006/10/31(Tue) 22:52:30

再詩篇31章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度詩篇31章を読みました。

そうですね・・イエス様が先頭を切って連れて行ってくれるほうが私たちクリスチャンはいいですね・・・

ルカの23章46節に
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こういって、息を引き取られた。とあります。ダビデが苦しんでいるように私も苦しんでいます。苦しみながらイエス様を信頼する信仰によって恵をいただいています。何だか似てますね・・・

ダビデのように信仰深い人でも罪を犯してしまうのだから、罪の誘惑というのは相当すごいのでしょうね・・・

うーん、でもこの世の中弱者が主により頼んでもなかなか救い出してくれず、悪に飲み込まれることが多い。この世の中は本当に悪がはびこっている。

ダビデが弱くなったのを見てとありますが、誰が見たんですか?この17節に出てくる私とはダビデのことでしょ?じゃ、管理人さんが書いている、ダビデが弱くなったのを見たのは誰だろう?うーん、わかりづらい。

16節の
御顔をあなたのしもべの上に、照り輝かせてください。
あなたの恵によって私をお救いください。が印象に残りました。

No.1139 2006/11/01(Wed) 18:35:13

Re: 詩篇31章 / Aja 引用

沙耶香さんお久しぶりです。書き込みませんでしたが掲示板を見ながら毎晩詩編を読んでいましたよ。

「伴う」はイエス様が共にいてくださる、という以上にイエス様が先に立って行って私を連れて行ってくれるのだというのはうれしいですね。詩編23章の「主は私をいこいの水のほとりに伴われる」を思い出しました。

最近いじめによるCENSOREDのニュースが多いですね。いじめられて孤独で苦しんでいる人を、神様はどうしてCENSOREDする前に助けてくれないんだろうと思います。神様はその人も愛しているはずなのに、どうして助けの手をさしださないのかと考えるとわからないです。
クリスチャンになる前にこのような問いをクリスチャンの人にしたら、困惑した様子で、「…だから私達は福音をのべ伝えているんだ」と言いました。私はそれ以上何も聞けなくなってしまいましたが今でもやっぱり答えはわかりません。この世には悪魔も働いているからなのでしょうか。人間の罪が深いせい…なのでしょうか。

No.1141 2006/11/01(Wed) 22:52:05

Re: 詩篇31章 / 昌夫 引用

Ajaさんにレスです。

>神様はその人も愛しているはずなのに、どうして助けの手をさしださないのかと考えるとわからないです。

人間はこの世のことも、その後の永遠の死後の世界のこともよく分かっているわけではないの、僕たちが考えても分からないことが多いのは当然だと思います。現在の時点では分かりようがないので、疑問を持ちつづけ、神さまにいつか教えてくださるように頼んで、とりあえず考えるのやめる、ということもひとつの選択だと思います。疑問を持ちつづける、ということも大切だと思うからです。僕は、CENSOREDのことも、他のこの世の大きな苦しみのことも、神さまの永遠の目から見たら、天国に行く人にとっても、そうでない人にとっても、必要なことなのだろう、と考えて、今の時点では疑問を持ちながら、とりあえず思考を停止しています。

もし、考えていくなら、このことについて聖書には、何がはっきり書かれているか、を基礎として、できるだけ他の思い込みは排除して祈りの中で考えていくと良いと思います。聖書には、1.神さまがCENSOREDする人も含めて、一人一人を神さまが無条件に愛してくださり、永遠の救いを与えようとしてくださること、2.人間は神に逆らう自由意志が与えられていること、3.悪魔がいくら働いても、人間の罪が深くても、神さまの許しがないと人間が死ぬことも他の悪いことも起こらないこと、4. 特定の罪の結果としてでなく人間がこの世で苦しむことがあること、がはっきり書かれていると思います。

第4点を考えると、CENSOREDは罪だから、CENSOREDした人は地獄へ行くのだという聖書解釈は、単純にすぎるように思いますし、「さばくな」という御言葉にも反すると思います。カトリックでは、昔はCENSOREDした人の葬儀はしなかったけれど、今は解釈が変わり、葬儀をするそうです。第3点を考えると、悪魔が働き、人の罪が深いから、という答えでは、なぜ、神さまがCENSOREDにいたる悪の状況を許容されたのか、ということの答えには足りないように思います。

No.1142 2006/11/02(Thu) 08:11:42

Re: 詩篇31章 / 昌夫 引用

沙耶香さんにレスです。
 11節ではダビデの敵、隣人、親友たちが、ダビデの病気の様子を見て、それぞれ、その様子に反応しています。敵は、ダビデが罪を犯して神さまに罰を受けたとして非難し、隣人や親友は恐れた、ということだと思います。

No.1143 2006/11/02(Thu) 08:15:35

Re: 詩篇31章 / 沙耶香 引用

そうですよね?いじめられてCENSOREDする人も後をたちません。神様おられるんだったら何でその人に救いの手を差し伸べてあげられないのか?もしそのいじめられている人がクリスチャンでなかったら、天国にいけない。いじめられて苦しみ、CENSOREDして地獄に行くなんてもう最悪です。

公平な神様なのにどうしてなのだろうか?

No.1144 2006/11/02(Thu) 09:43:41

Re: 詩篇31章 / Aja 引用

たしかに「考えるのをやめる」というのもひとつの道ですね。すべてがわかるわけはないし、わかる必要もないのかもしれません。

ただ私は神様の愛を完全に信頼する、ということの妨げとなってしまうので考えないではいられそうもないです。
頭では「神は愛」と理解しているけど心の奥深くで様々な疑問があり信じきれていない感じです。

1の神様はすべての人を愛しているし、救いたいと願っている、という事実は聖書にはっきりと示されていることですね…。その事実だけに注目していきたいです。

CENSOREDしたら地獄へ行くのだ、とは私も思いません。神様がその人を見て心を痛められないとは思えません。神様が一番心ひきさかれる思いで悲しんでおられるのでしょうか。

No.1148 2006/11/02(Thu) 23:37:04

Re: 詩篇31章 / 昌夫 引用

いじめられてCENSOREDする人のことを考えるとき、まず、「クリスチャンでなくて、CENSOREDしたら地獄に行く」というような「さばく」考えは、避けないと、混乱するように思います。人が天国に行くとか、地獄に行くかさばかれるのは神さまなので、人間がそういうことを、具体的に存在する人について考えるのは、神さまに喜んでいただけることではないのではないかと思います。

そうすると、この世でいじめられて苦しんでも、その後にその人が永遠の天国に行く場合は、神さまの愛に納得できると思います。

それから、僕たちの愛は、全て神さまからいただいたことを思うと、CENSOREDした人のことを愛する人たちや、悲しむ人たちがいて、その中で、最も愛する人よりも、神さまがCENSOREDした人を愛しているはずだし、最も悲しむ人よりも、神さまが悲しまれているはずです。

No.1149 2006/11/03(Fri) 01:19:26
詩篇32章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇32章も読みました。

何だかこの章もはじめて読むような気がしませんね。似たような表現が多いですね・・・

6節の
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。
あなたにお会いできる間に。
まことに、大水の濁流も、彼のところに届きません。
ってどういうことだろうなー?主に会えるときに祈っているのだろうか?大水の濁流が届かないように祈っているのだろうか?

9節の
騾馬=雌ウマと雄ロバとの一代雑種。ふつう繁殖力はないが、ロバより大... と管理人さんの勧めで教えてもらったオンライン辞書を調べると出てきました。

私は10節の
悪者には心の痛みが多い。
しかし、主に信頼する者には、恵が、その人を取り囲む。というところが印象に残りました。

No.1140 2006/11/01(Wed) 18:53:29

Re: 詩篇32章 / 昌夫 引用

6節の「あなたにお会いできる間に」は、主に個人的に会えたと実感している信仰者が、主がともにいてくださると実感できている間に、ということだと思います。

大水の濁流とは、文字通りの意味ではなく、絶望的な苦難のことを詩的に表現していると思います。信仰者も苦難にあいますが、主により頼んで希望は捨てないから絶望にはならないのだと思います。

6節では、聖徒たちは苦難から救い出されるように主に祈っているのだと思います。

僕は11節の、「主にあって、喜び、楽しめ。」というところがとても好きです。

No.1145 2006/11/02(Thu) 09:47:00

再詩篇32章 / 沙耶香 引用

今朝は詩篇32章をもう一度読みました。

今回は3節の
私は、黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。が印象に残りました。
罪は告白しないといけない。

最後の11節の
喜びの声をあげよという言葉は賛美によく出てきますね。賛美や聖書に喜びという言葉は多いです。イエス様からほとばしる喜び・・・

No.1146 2006/11/02(Thu) 09:54:33
詩篇30章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇30章を読みました。

1節の
主よ。私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、
私の敵を喜ばせることはされなかったからです。とはどういうことだろうか?私を引き上げるって何をどこに引き上げるのか?

2節に
私の神、主よ。
私があなたに叫び求めると、
あなたは私を、いやされました。とあります。私は主に叫び求めても癒されませんが・・・どうなっているんでしょうか?御言葉は真実なのでしょ?叫び求めると癒されるというのが真実だったら私も癒されないといけないのでは・・・?

3節の
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下っていかないように、
私を生かしておかれました。は前にも同じような御言葉があったような気がします・・・

5節の
まことに御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
とはどういう意味だろうか?
恩寵って何だろうか?
うーん、あまりよく意味がつかめない。

7節の
主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を
強く立たせてくださいました。
あなたは御顔を隠され、
私はおじ惑っていましたが。とはどういう意味だろうか?おじ惑うってなんだろうか?恩寵がまた出てきたが・・・うーん、意味がわからない言葉ばかり出てくると混乱して混乱して意味不明・・・

9節の
私が墓に下っても、
私の血に何の益があるのでしょうか。
ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。
あなたのまことを、告げるでしょうか。はちり=死者と解説にあるが、死者だって永遠の御国にいったクリスチャンであれば主を褒め称えて永遠に生きているはずなのに、何でそれを否定するようなことを書いてあるのでしょうか?

11節の
あなたは私のために、
嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、
喜びを私に着せてくださいました。とは病気を癒して、悲しみや悩みを解いて、喜びに変えてくださることの比喩的表現だと思うけれど、何でイエス様は私にはそういう風にしてくださらないの?
御言葉は真実でしょ?何で私は悲しみや悩みを解き放ってくださらないの?病は癒されないの?
まだまだ時がきていないのだろうか?

12節に
私のたましいがあなたを褒め歌い、
黙っていることがないために。
私の神、主よ。
私はとこしえまでも、あなたに感謝します。とあるが、解説に神の癒しの経験から出た感謝の思いは、地上の生を突き抜けて永遠に続くとあるが、
神の癒しの経験がない者はどうなるのだろうか?まだまだこれからなのだろうか?これから癒されて感謝の思いが出てくるのだろうか?

10節の
聞いてください。主よ。
私をあわれんでください。
主よ。私の助けとなってください。が印象に残りました。いつも私もこうやってお祈りしているからです。

No.1128 2006/10/30(Mon) 20:18:27

Re: 詩篇30章 / 昌夫 引用

この詩篇では、ダビデが病気になって死にそうであったのを、神さまがいやしてくださって快方に向かっているので、感謝をささげていると思います。8-10節から、病気が完全にいやされたのではなく、ダビデはまだ病気がぶり返して死の不安に悩まされている状態で、主が完全にいやしてくださり、死の不安を取り除いてくださることを願って祈っているのだと思います。

1節では、ダビデの敵は、ダビデが病気で死ぬことを願っていたところを、主がダビデの病気を癒されたこと詩的に表現していると思います。

2節ですが、ダビデが病気のときに主にさけび求めたら、一瞬にして、すぐに癒されたとは限りません。長い間、祈り叫び求めた後に主の癒しが始まったので、まだ、完全には癒されていないけれど、この感謝の詩篇を書いていると考えると良いです。沙耶香さんも、いつか神さまが一番良いとお考えのときに神さまが完全に癒されます。今までに、すでに主が癒しを始めておられる病気があったり、以前よりも体調が良いことがあったら、この詩篇を参考に感謝の祈りをすると良いと思います。

3節は詩篇第6篇に似たようなところがありました。この機会に第6篇を読みかえしてみてください。第6篇では、病気になったダビデにまだ主が癒しを始めておられず、ダビデが癒しを願っています。第30篇では、主が癒しを始められて体調が良くなったので、まだ完全な癒しではないけれど、ダビデが感謝の祈りをささげていると思います。

5節の恩寵とは、主の愛と恵みのことです。オンラインの辞書があるので分からない言葉があるときに使ってみると良いかもしれません。例えば

http://jp.msn.com/?HTTP_HOST=www.msn.co.jp&url=/

のMSNで、上の方の辞書というところをクリックしてから、調べる言葉を白色の長四角にいれて、検索すると辞書が使えます。

夕暮れにはダビデが泣いていても、次の日の夜明けにはもう主の恵みによって、喜びの祈りを叫ぶことができる、ということです。主が遠くに感じられる苦しみのときは短く、主とともにある喜びのときが、すぐに来ることを詩的に表現しています。

7節の「おじ惑う」とは、おじけづいて、うろたえる、という意味です。

9節ですが、旧約のころには、永遠の天国のことは、まだ神さまが教えておられなかったのです。それで、ダビデは、天国のことははっきりとは知らなかったのです。

11節ですが、イエスさまが来られてから、神さまが完全に嘆きが踊りに変えられるのは、天の御国が完全に来てからということを示されました。それで、この世では、嘆きが完全になくならなくても、以前より体調をよくされるなど、主が嘆きを取り去るわざをすでに始められていることを示してくださることが多いようです。そのときに、嘆きが完全に取り去くとも、すでに、主のわざが始まったことに、この詩篇を参考にして感謝の祈りをすると良いと思います。

>神の癒しの経験がない者はどうなるのだろうか?

全くまだ癒しが始まっていない場合は、詩篇第6篇を参考にして、癒しを信じて願って祈り、主が祈りを聞いてくださったことを確信して、そのことに感謝して祈ると良いと思います。

No.1131 2006/10/31(Tue) 06:51:28

再詩篇30章 / 沙耶香 引用

今朝は、もう一度詩篇30章を読みました。

うん、管理人さんのお勧めで、オンライン辞書使ってみました。お気に入りに追加しておいたので、今度から使えます。本当に私は知らない言葉が多すぎるので、その都度分からない分からないと言われたら困りますよね?

第6章読み返しました。
前にも聞いただろうけれど、また6節のふしどというのがわからなくて、辞書で検索しました。寝床らしいですね・・・読み返してもすんなり分かるような感じではないですね・・・読解力も理解力もなくて・・・

うーん、そういう聖書のつながりは全体的情景が分からないと飲み込めないですね・・・6章で癒しを求め、30章で少しずつ癒しが始まり感謝・・・

そういう詩的表現とか比喩的表現て難しいですね・・・

あの辞書ではおじ惑うは出てませんでした。普通聞かない言葉ですもんね。

ふーん、旧約のころはまだ永遠の天国のことは知られてなかったんだ?うーん、何だか難しいですね・・・

主よ。私を哀れんでください。
私は体調精神状態がよくなくていろんなところに苦痛を感じながら生活しています。
私は衰えております。
主よ。私を癒してください。
私の骨は恐れおののいています。
主は切なる願いを聞かれた。
主は私の祈りを受け入れられる。
・・・こんな風でいいのかな?

No.1132 2006/10/31(Tue) 10:19:49

Re: 詩篇30章 / 昌夫 引用

>その都度分からない分からないと言われたら困りますよね?

別に困りませんが、自分で辞書でひけるようになっていたほうが、便利なことが多いと思います。

詩篇を参考にしたお祈り、とても良いと思います。

No.1135 2006/10/31(Tue) 19:55:45
詩篇29章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇29章を読みました。

1節に
力あるものの子らよ。主に帰せよ。とありますが、この帰せよとはどういう意味だろうか?力あるものの子らよ。とはどういうことだろうか?力あるもの=主だろうか?神の子すなわちクリスチャンのことだろうか?

6節の
主は、それらを子牛のようにはねさせる。
レバノンとシルヨンを若い野牛のように。とはどういう意味だろうか?

8節の
主の声は、荒野をゆすぶり、
主はカデシュの荒野をゆすぶられる。とはどういう意味だろうか?

9節に
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、
大森林を裸にする。
その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。
とありますが、どういう意味だろうか?動物と神様って何か関係があるのだろうか?万物創生の神様だから動物も神様が造られたのは分かるが、それ以上に何か深い関係があるのだろうか?

10節に、
主は大洪水のときに御座に着かれた。
まことに、主はとこしえに王として
御座に着いておられる。
とありますが、どういう意味だろうか?
情景が浮かんでこないし、昔は大洪水がたくさんあったのだろうか?
御座に着かれるとか御座にいますとかいう表現をよく使うが、どういう意味だろうか?

今回は分からないところが多く、印象に残ったところは分からないです。

No.1124 2006/10/29(Sun) 22:12:57

Re: 詩篇29章 / 昌夫 引用

1節ですが、「帰せよ」と書かれていても、「何が」がここではよく分からないですね。こういうときは、へブル語の詩は同じような意味を繰り返すことが多いので、その前後の節を読めば意味が分かることがあります。2節を読むと、「栄光と力」を主に帰せよ、といっていることが分かります。何か良いことをすることができたら、自分の栄光、自分の力と思わずに、主の栄光、主の力と思いなさい、ということです。

詩篇が書かれたころの「神の子」とは、イスラエルの国か、御使い(いわゆる天使)のことだったと思います。「「力ある者の子ら」とは、御使いたち、という意味だったと思います。新約の今なら、神の子とされたキリスト者にあてはめて考えて良いと思います。

6節の「それら」はレバノンの杉の木です。イスラエルの北方のレバノンには、堅固で有名だった杉の木がたくさんありました。主の声は、そのような杉の木も、はねまわらす力を持っている、ということを詩的に表しています。また、イスラエルの南方にあったと思われるカデシュの町のあたりの荒野でさえ、主の声で地震が起こり震えます。イスラエルの北と南の地を、主が御声で支配されていることを書いて、主が御力で全世界を支配されていることを表現していると思います。

9節では、主の声を聞くと、雌鹿が驚いて早産しそうになり、大森林も主の声によって木が根こそぎになってしまう。3-9節では、主の声のすさまじいまでの力を表現していると思います。

9節最後の宮とは、この場合、主がおられる全世界と考えたら良いと思います。御使いも、動物も、植物も、主の力を知り、栄光を讃える、という意味だと思います。

10節の「大洪水」とはノアの洪水のことだと思います。御座とは、天国の王座のことです。

No.1125 2006/10/30(Mon) 08:19:52

再詩篇29章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇29章を読みました。

うーん、栄光はすべて主のものだということですね・・・
旧約のころとか新約のころとか分けていわれても分からないです。そんなことしているとますますこんがらがってくるんだけれど・・・でもそんなこと言っていてもいけないですよね?理解しようとしないと・・・

御使い(天使)っているの?天使って童話の中だけの話ではないの?例えばどういうもの?分からない・・・

ノアの洪水って絵本で読んだことがあるけれど、もう忘れました。御座=天国の王座・・・何だか難しいですね・・・

やっぱり背景が分からないと見えてこないですよね?いろいろ聖書って難しいですね・・・

私は11節の
主は、ご自身の民に力をお与えになる。
主は、平安を持って、ご自身の民を祝福される。
というところが印象に残りました。

No.1126 2006/10/30(Mon) 12:02:11

Re: 詩篇29章 / 昌夫 引用

>旧約のころとか新約のころとか分けていわれても分からないです。

イエスさまは、約2006年前に人間として生まれられる前から、神さまとして存在されていたということは、分かりますか?旧約聖書は、神さまであられるイエスさまが人間としてこの世に来られる何百年も前に書かれました。旧約のころとは、イエスさまが人間として生まれられるずっと前のころ、という風に理解しておくと良いと思います。

>御使い(天使)っているの?

新約のルカの福音書の1章26節から38節までを読んでみてください。ここではガブリエルという名の御使いが、処女のマリアさまが、イエスさまを身ごもるということを、告げに来たところです。

>ノアの洪水って絵本で読んだことがあるけれど、もう忘れました。

この機会に絵本が手元にあったら、もう一度読んでみると良いかもしれません。

>いろいろ聖書って難しいですね・・・

聖書には無限の神さまのみことばが書いてあるので、理解することはとても難しいです。人間にはなかなか理解できないことが書いてあります。よく理解したつもりになって、理解していないよりも、難しいということを知っていたほうが良いと思います。

11節にあるように、僕たち信仰者が神さまに力と平安をいただいて、祝福していただけることは、素晴らしいですね。

No.1127 2006/10/30(Mon) 20:03:54

Re: 詩篇29章 / 沙耶香 引用

ルカの1章26節から38節まで読みました。御使いが何かをつげにくるなんて御伽噺みたいですね・・・天使ということは目に見えなかったのですか?うーん、いまいちピンとこない。

管理人さんのお勧めで絵本を引っ張り出してきました。ノアのはこぶねという絵本がありました。もう一度読んでみます。
読みました。神様が人間に罰を与えたのですね・・・
最後の審判みたいですね・・・最後の審判でクリスチャンだけが天国にいけるというのとノアの箱舟にノアと動物たちが乗って助かったというのと似ていますね・・・

最近聖書から聖書の絵本から、信仰生活真っ只中です。いつも神様と一緒です。嬉しいです。

No.1129 2006/10/30(Mon) 20:36:36

Re: 詩篇29章 / 昌夫 引用

>天使ということは目に見えなかったのですか?

御使いは目に見えることが多いようです。

http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci_annunciazione_u.html

にレオナルド・ダ・ヴィンチという画家の想像したガブリエルがマリアさまイエスさまを身ごもったことを告げしらせるところの絵があります。想像するのに役にたつかもしれません。

>最後の審判でクリスチャンだけが天国にいけるというのとノアの箱舟にノアと動物たちが乗って助かったというのと似ていますね

そうですね。とても良いところに気づかれたと思います。神さまは、同じ型を何回も使われるので、よく似たことが何回も起きます。何回かよく似たことが繰り返された後、最後には、その型の完全なことが起きます。現実の経験でも、聖書を読むときも、型に気をつけておくと、神さまのメッセージを理解しやすいと思います。

>最近聖書から聖書の絵本から、信仰生活真っ只中です。いつも神様と一緒です。嬉しいです。

沙耶香さんが苦しい試練のなかで、イエスさまがともにおられることを実感して喜んでおられるのは、素晴らしい信仰の姿だと思います。イエスさまが沙耶香さんを大いに祝福され、いつも一緒におられることを実感させてくださっていることを喜び、感謝します。

No.1130 2006/10/30(Mon) 21:30:39

Re: 詩篇29章 / 沙耶香 引用

御使いのHP見てみました。天使みたいに羽を生やしていました。この聖書が書かれた時代にはあんな羽を生やした天使が実際にいたの?うーん、何だか御伽噺みたいで・・・

うん、イエス様はいつも一緒なのだ。苦しいときこそ一緒です。イエス様イエス様イエス様イエス様・・・

No.1133 2006/10/31(Tue) 19:34:40

Re: 詩篇29章 / 昌夫 引用

>この聖書が書かれた時代にはあんな羽を生やした天使が実際にいたの?

聖書には、御使いが羽を生やしているとは書いていません。でも、御使いは、聖書が書かれた時代だけでなく、今でも存在すると信じます。でも、御使いが大切なのではなく、イエスさまが大切なので、あまり気にしないほうが良いかもしれません。

No.1134 2006/10/31(Tue) 19:52:01
詩篇28章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇28章を読みました。

2節の
私の願いの声を聞いてください。
私があなたに助けを叫び求めるとき。
私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。
とはどういう意味だろうか?あなたの聖所の奥に向けて上げるときというのが意味不明だ。

4節に
彼らのすることと、彼らの行う悪にしたがって、
彼らに報いてください。
その手のしわざにしたがって彼らに報い、
その仕打ちに報復してください。
とありますが、イエス様はされた仕打ちを赦してあげることを喜ばれると思っていたのですが、悪いことは神様に裁いていただくことを求めているのでしょうか?

私は7節の
主は私の力、私の盾。
私の心は主により頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、
私は歌を持って、主に感謝しよう。というところが印象に残りました。

No.1120 2006/10/29(Sun) 00:09:11

Re: 詩篇28章 / 昌夫 引用

2節の「あなたの聖所の奥に向けて上げるとき」は、お祈りをするために主の幕屋の奥に向かって手をあがています。これは、ダビデの当時の主の天幕の中は2重構造になっていました。前部は聖所と呼ばれ、その奥に垂れ幕があり、そのうしろには至聖所と呼ばれるところで、神の箱という十戒を書いた板が入った箱が置かれていました。それで、お祈りするときに、ダビデが主の天幕の奥の至聖所に向かって手を上げることが多かったのだと思います。

4節ですが、むずかしく、いろいろな解釈があるところなので、牧師に聞いてみてください。

僕の考えでは、キリスト者は、人の自分に対する罪は、いつもすぐに赦すことが大切だと思います。また、神さまに命令されないかぎり、自分が悪を罰する行為や、人を呪う行為をしないことも大切だと思います。

でも、罪には、神に対する部分があり、人間は、これを赦す権威を持っていません。それで、とりなしの祈りといって、人が神さまに意図的に反逆して神さまに対して犯したとき、その人を悔い改めに導いてイエスさまの十字架によって赦してあげてください、と祈ることが神さまに喜んでいただけます。でも、その人が、悔い改めなければ、神さまは、その人の神さまに対する罪に罰を与えられます。それで、場合によっては、キリスト者も、神さまが悔い改めない人に罰を与えられることに、祈りで参加することが御心にかなう場合もあるように思います。黙示6:10で、天国でも、聖者たちが、神さまが悪人を呪われるように、願って祈っています。キリスト者は自分で呪ってはいけないけれど、神さまが悔い改めない悪人を呪われるようにお願いして祈ることは、御心にかなう場合もあると思います。

ダビデは詩篇を読むと、神さまに敵を罰してくださるよう何回も祈っています。ダビデが実際に自分を殺そうとしている敵のサウルに会ったとき、ダビデは、サウルの悪は主が罰されると信じて、自分はとても礼儀正しくサウルに話しかけました。

No.1121 2006/10/29(Sun) 06:27:01

再詩篇28章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度、詩篇28章を読みました。

私は二度読み直しても、管理人さんのように、背景や情景がなかなか掴み取れない。おぼろげに残るだけで・・・
それに聖所とか至聖所とか言われてもピンとこない。何が何だか分からない。

うーん、人から受けた罪は赦すことが御心だと思っていたし、牧師にもそういわれてきたけれど、赦さず呪うことが御心のこともあるの?何だか難しいですね・・・よく分からないので、牧師に聞いてみます。

詩篇の中でダビデは何度も敵を罰するように祈っているとありますが、牧師に私が前に***という悪者からひどい仕打ちを受けたときにその悪者を罰する祈りをしてもいいか?というようなことを管理人さんを通じてしたときに、牧師は赦せなかったら私への祝福が減るからという感じで、そういうお祈りをしていると赦せなかったらいけないので、そういうお祈りをしてはいけないとおっしゃったことないですか?

うーん、何だかよく分からないですね・・・

No.1122 2006/10/29(Sun) 07:32:47

Re: 詩篇28章 / 昌夫 引用

>うーん、人から受けた罪は赦すことが御心だと思っていたし、牧師にもそういわれてきたけれど、赦さず呪うことが御心のこともあるの?

人から自分が受けた罪は、いつもすぐに赦すことが大切だと思うし、人を自分が呪うということは、御心ではないと思います。僕が書いたことは、別の意味ですが、かなりややこしいことなので、掲示板に書くだけでは伝わりにくいようです。4節についは、牧師に聞いてみてください。

No.1123 2006/10/29(Sun) 21:33:09
詩篇27章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇27章を読みました。

2節の私の仇ってどういう意味だろうか?敵ということだろうか?

4節に
私はひとつのことを主に願ったとあるが、このひとつのこととは一体なんだろうか?
その後の
私の命の日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。とはどういうことだろうか?信仰に関することなんだろうか?

5節の
それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかなところに私をかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。
がとても印象に残りましたが、悩みの日に私はかくまってもらっていないが・・・どうなっているのだろうか???なぜ私には毎日のように悩みの日が出て、イエス様はかくまってくださらないのだろうか?

8節の
あなたに代わって、私の心は申します。
「私の顔を、慕い求めよ。」と。
主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
って何だか意味がわからない。どういう状況で何が伝えたいのだろうか?

9節の
御顔を私に隠さないでください。という御言葉、どこかで見たような気がします。今まで私が読んだところになかったかな?

12節に
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。とありますが、暴言を吐いているなんて、どっかの誰かみたいだ・・・と管理人さん、思いませんでした?笑・・・

13節に
ああ、私に、
生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
信じられなかったなら。とありますが、本当にそうですね・・・神様を知らずにこの世を去ってしまったら辛いでしょうね・・・だから私たち信仰者はより多くの人に福音を述べ伝えないといけない。

14節の待ち望め。主を。
雄雄しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。ってどういうことだろうか?
主を待ち望めってなんだろうか?うーん、想像つかない。

No.1114 2006/10/27(Fri) 22:43:31

Re: 詩篇27章 / 昌夫 引用

>2節の私の仇ってどういう意味だろうか?

仇とは「うらみのある相手」という意味です。私の敵、とよく似た意味です。ここも、同じような意味のことを繰り返しています。

>4節に
私はひとつのことを主に願ったとあるが、このひとつのこととは一体なんだろうか?

その次にある「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」を願っています。これは、生きている限り、主とともにありたい、そのために、当時の主の幕屋に住みたい、という意味だと思います。

>主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。とはどういうことだろうか?信仰に関することなんだろうか?

そうですね。「宮」とは主の幕屋のことで、そこで主の麗しさを賛美し、主の栄光について思いをめぐらしたい、というような意味です。

>なぜ私には毎日のように悩みの日が出て、イエス様はかくまってくださらないのだろうか?

ダビデも多くの悩みの日がありました。主はいつもダビデを見守っておられ、どんなにダビデが多くの敵に苦しめられて、絶体絶命という状況になっても、ダビデが殺されたりしないように、かくまっておられれました。そしてやがて時が来たときには、ダビデの敵をほろぼされ、ダビデを苦しみから救われ、イスラエルの王にされました。主がかくまわれるとき、必ずしも、苦しくない、ということではないと思います。主は沙耶香さんを見守っていてくださり、沙耶香さんが苦しんでも魂に致命的な傷がつかず、沙耶香さんんが苦しみの訓練によってイエスさまに近づくようにされ、やがて時がきたら苦しみから救い出してくださることを信じています。

8節の「主の御顔を慕う」とは、ダビデが苦しいときに、主が背を向けて、自分の方を向いてくださっていないと感じていたのだと思います。それで、主が御顔を向けて自分を見てくださるとき、主の祝福と愛を実感できるので、主が御顔を向けてくださることを願っています。苦しくて、主は遠く感じられるので、主が直接話しかけてくださらないけれど、自分の心が主に代わって、「わたしの顔を、慕い求めよ。」と言っているように感じていると思います。

9節では、御顔を隠さないで、自分の方を見て、祝福してください、と主に祈り願っています。「御顔を隠す」とう表現は、今まで沙耶香さんが詩篇22:24でも出てきました。

12節の暴言は、人を陥れるために、うそをつく人たちの暴言で、沙耶香さんのように真実を求める人が、まわりが見えなくなって「暴言」を言ってしまうというのと、全く意味が違います。

13節ですが、この詩篇を書いたときに、11節のように待ち伏せする敵や12節にあるようにダビデはうそで訴える敵によって、かなり苦しい状況にあったと思います。だから、もし、主の救いを信じることができなければ、絶望してCENSOREDしたいような状況であることを、13節で言っていると思います。

14節で、苦しい状況にあるダビデが、自分に「主はきっと自分を見捨てないで、今の苦しみから救ってくださる。だから、主を信じて、救いの望みを持ちながら、待て。」と言っています。

この詩篇も哀歌で、ダビデが無実の罪で訴えられて、とても苦しいときの祈りだと思います。1-3節で、ダビデは以前に戦争で敵にかこまれたとき、主が救ってくださったことを思い出しているようです。3-6節は主の幕屋で主を礼拝したいという気持ちを表現しています。4-12節では、今の苦しみから救っていただきたいと願って祈っています。13-14節では、自分に主への信頼を持って、心を強くして主の救いを待つように言い聞かせています。

沙耶香さんも、この詩篇を参考にして、主が以前に絶対絶命という苦しみから救ってくださったことを思い出し、主をいつも礼拝したい気持ちを主に伝え、今の困難から救い出してくださることをお願いし、自分が心を強くして主を待ち望めるように、お祈りすると良いと思います。

No.1115 2006/10/28(Sat) 06:50:26

再詩篇27章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇27章を読みました。

あれ?13節は解釈が違ったのですね・・・うーん、でもダビデのように苦しい状況にあったらイエス様を知らなかったらCENSOREDしたいようになるでしょうね・・・
私はあまりにも困難、辛いことが多すぎるので、イエス様を知ってもイエス様に早く迎えにきてくれないかな?という思いがよく出てきます。
でもイエス様とともに苦しんでいるから意味があります。

そうですね・・・以前に何度か私は絶体絶命のときがありました。
もうどうなってしまうか分からない・・・でも自分がまいた種だから仕方がない、でもイエス様は何とか解決してくださるお方だと信じて主に訴え、希望を捨てずにいると解決されたことがありました。
もうそのときは生きた心地せず、何が何だか分からなかったです。
でももし問題が起きてすぐに解決されていたら教訓にならなかったと思うのです。問題が起きてすぐに誰かに伝えていたらこういう最善の方法にならなかったと思うのです。イエス様的解決はすばらしいのです。
でもその苦しみの真っ只中にいるときはなかなかそう思えないのです。
人間とは弱いもの、そして私はまして精神障害者だから、すぐにぼろぼろになります。
今も苦しくてたまらない。でもイエス様イエス様イエス様イエス様・・・

No.1116 2006/10/28(Sat) 11:54:49

Re: 詩篇27章 / 昌夫 引用

>私はあまりにも困難、辛いことが多すぎるので、イエス様を知ってもイエス様に早く迎えにきてくれないかな?という思いがよく出てきます。

聖書の中のヒーローであるヨブも、モーセも、エリヤも苦しいときに、自分の命を終わらせてほしいという意味のことを神さまにお願いしてお祈りしています。神さまを信頼せずにCENSOREDしてしまうのは罪ですが、イエスさまに迎えにきていただくようにお願いして祈るのは罪ではないということだと思います。

>イエス様的解決はすばらしいのです。

本当にそうですね。今の苦しみもきっとイエスさまが解決してくださいます。

>でもその苦しみの真っ只中にいるときはなかなかそう思えないのです。

本当にそうですね。苦しいときには、神さまの全知全能の御力のことを忘れて、おろおろ、あたふたとしてしまうのが人間だと思います。人間の力だと誰でもそうです。それだけに、神さまはこのような詩篇を今、沙耶香さんが読むようにされたのではないでしょうか。それで、この詩篇を参考にして、以前に絶体絶命の状況のときにイエスさまが解決してくださったこと、今回も解決してくださることを信じること、などをお祈りするようにすると良いと思うのです。

No.1117 2006/10/28(Sat) 12:55:14

Re: 詩篇27章 / Aja 引用

昌夫さんの「苦しみの訓練によってイエス様に近づくようにされる」という言葉と沙耶香さんの「イエス様とともに苦しんでいるから意味がある」という言葉にハッとしました。苦しむだけだと本当に苦しいだけですが、忍耐して練られていったら希望が生まれる(ロマ書5章)と信じていきたいですね。

この詩編の中では、1節 だれを私は恐れよう。 だれを私はこわがろう。 3節 私の心は恐れない。 私は動じない。 という箇所が心にとまりました。ダビデのように神様によって心強くされたいと思いました。

No.1118 2006/10/28(Sat) 22:03:13

Re: 詩篇27章 / 昌夫 引用

>苦しむだけだと本当に苦しいだけですが、忍耐して練られていったら希望が生まれる(ロマ書5章)と信じていきたいですね。

本当にそうですね。苦しいときには、苦しみに神さまが意味を与えてくださっている、と信じて耐え忍んでいきたいです。

>ダビデのように神様によって心強くされたいと思いました。

ダビデは、詩篇第3篇にあるような、敵軍に囲まれて絶対絶命という状態から救われたことを以前に経験し、それをよく覚えていた、ということが重要だと思います。神さまのしてくださったことを忘れないことが、信仰者の強さになっていくと思います。

No.1119 2006/10/28(Sat) 23:31:54
(No Subject) / じんない 引用

大垣先生、お久しぶりです。

先日、Texas Austinの日本人大学院生Kさんと電話で話してこの掲示板のことが話題になったので、久しぶりに覗いてみました。Kさんとは経済学の大学院生という点でも、クリスチャンという点でも共通点があるので、話していてとても楽しいし、これからも連絡を取り合いたいと思っています。

この夏は私はワシントンのIMFでインターンをしていました。3ヶ月弱の滞在期間でしたが、期間中はワシントンで日本語教会兼日本人コミュニティーセンターをされている西郷牧師のお宅に滞在させてもらいました。牧師の家に下宿するのは初めてでしたが、生活を共にして、奉仕をして、とても恵まれた滞在でした。神様に感謝です。

No.1089 2006/10/24(Tue) 12:20:07

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

じんないさん、お久しぶりです。
 
共通点の多いクリスチャンの友人や、牧師との交流を通して、神さまがじんないさんを大いに祝福してくださっていることを知って嬉しく思います。

どうか、じんないさんが、ますますイエスさまに近づけられますように。それを通して、じんないさんのまわりの多くの人々が祝福されますように。

No.1091 2006/10/24(Tue) 13:28:12

Re: (No Subject) / 沙耶香 引用

へーー牧師の家に滞在できるなんて大きな祝福ですね・・・羨ましいです。

神様が祝福してくださっているのでしょう。

じんないさんも多分管理人さん同様、世界を飛び回っておられる方なんでしょうね・・・素晴らしいですね・・・・

No.1092 2006/10/24(Tue) 20:07:56

(No Subject) / じんない 引用

沙耶香さん

お返事どうもありがとうございます。夏の間は牧師家族に家族の一員のようにしてもらって、とても恵まれました。本当に感謝です。

僕は世界中を飛び回っているわけでは無いです。アメリカの東海岸にある、プリンストンという小さな街で大学院生をしています。とてもせまい世界ですし、単調な毎日ですが、与えられた場所に感謝して毎日がんばっています。

No.1095 2006/10/25(Wed) 12:07:24

Re: (No Subject) / 沙耶香 引用

えーーその大学院生っていうのがまたすばらしいじゃないですか?しかも海外の大学院生だなんて・・・

牧師家族に家族の一員として迎え入れてもらえるなんて最高の祝福ですね・・・

私は今の教会の牧師のことが好きなので、牧師の家に住まわせてもらえるなんて想像するだけで頭がピンク色になります。でも教会の牧師は女性なのです。女性が女性を愛してしまってはいけないですか?

No.1096 2006/10/25(Wed) 19:09:43

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

沙耶香さん、横レスですが、「女性が女性を愛してしまってはいけないですか?」ということについて書きます。

もしイエスさまの聖い愛で愛するなら、クリスチャンは、同性でも異性でも誰でも愛するのが良いですが、他のクリスチャンを愛するのが特に素晴らしいと思います。ヨハネ13:34に「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあるからです。

また、ダビデはヨナタンの美しい友情の愛が女性の愛よりも素晴らしかったという意味のことを言っています。

ただ、人間の罪の性質から、誰もイエスさまのように完全に聖い愛を持てるのではないと思います。もし、自分の牧師への愛に聖くないところがあると感じられるなら、牧師への愛を聖くしていただくように、お祈りしたり、信頼する他の1人か2人のクリスチャンと、相談するようにしたりすることが大切だと思います。ただし公開の掲示板で相談することは、たぶん適切ではない話題だと思います。

No.1102 2006/10/26(Thu) 09:32:47

Re: (No Subject) / 沙耶香 引用

管理人さんへ。

ごめんなさい。適切でない話題に触れてしまったようで・・・
ただ、今の教会の牧師も同性の人に恋愛というのもどうかと思うとおっしゃっておられるので、あまりよくないことかな?と思ってしまっていたのですが、でも異性でも同性でもイエス様の愛で愛せたらいいですよね?
そのために罪の性質をイエス様にお祈りして取り去ってもらいながら愛します。

No.1103 2006/10/26(Thu) 09:40:50

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

言葉にはイメージがあるので、注意して使わないと、気持ちが伝わらないと思います。沙耶香さんは、たぶん、自分の牧師への愛は、牧師の中のイエスさまを愛する聖い部分が大きいと感じておられるように思います。でも、沙耶香さんが書き込みで使われた「恋愛」という言葉も、「ピンク色」という言葉も、同性に対する愛としては聖い愛からはほど遠いイメージをほとんどの人に与えると思います。日常的にはエロス愛をイメージして使うことの多い「愛する」という言葉もさけて、「大切に思う」というように書いたほうが、イエスさまの聖い愛のイメージはよりよく伝わることが多いと思います。

No.1105 2006/10/26(Thu) 10:03:18

(No Subject) / じんない 引用

聖書の愛を実践するのは人間には本当に難しいですね。人に仕える者になりなさいという戒めも、守るのが本当に難しいです。少しずつイエス様に似る者へと変えられたいと願っています。

パウロがどこかで「私は何かをつかんだとは思っていない。つかもうとただひたすらに努力している人間なのだ」というようなことを書いていたと思います。パウロですらそうなのだから自分も罪人で仕方が無いという風には考えないですが、彼のような人が二千年前に自分と同じように考えて努力していたことはとても励まされます。

No.1107 2006/10/26(Thu) 12:10:02

Re: (No Subject) / Aja 引用

沙耶香さんの教会の牧師さんはきっと素晴らしい方なんでしょうね。
私も、通っている教会の牧師さんを愛し慕っていますが、それは世の中の愛とは違って、「キリストにあって愛し、尊敬している」という感じです。
やはり牧師さんは霊的にとても深いものを持っているので、クリスチャンである私たちがその霊的な部分にひかれるのは自然なことではないでしょうか。
性別も年齢も超えてただ霊的な部分でつながりあうことができるのがキリストにある兄弟姉妹の関係なのではないかと思います。
じんないさんが書かれたように、聖書の愛を理想としながら少しずつでもイエス様に似る者へと変えられていきたいですね。

No.1110 2006/10/26(Thu) 21:43:42

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

イエスさまが地上におられたときも、皆がイエスさまを愛して慕ったわけではなく、多くの人々はイエスさまを見ても美しさが見えず、イエスさまの言われることを聞いても、真実を聞くことができませんでした。

主にある牧師や兄弟姉妹の中のイエスさまの美しさと真実さも、身近な人々に見えなかったり聞こえないことも多くあると思います。主にある牧師や兄弟姉妹の中のイエスさまを見たり感じたりすることができるのは、とても大きな祝福だと思います。

No.1113 2006/10/27(Fri) 19:55:16
詩篇26章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇26章を読みました。

1節の私を弁護してください。ってどういう意味だろうか?正当なさばきを要求しているとあるが、自分の正当なさばきを要求するって何かおかしくないかな?

2節に
主よ。私を調べ、私を試みてください。
私の思いと私の心をためしてください。とありますが、自分は潔白だと言いたいとあるが、でも本当に何もなく潔白な人なんているのだろうか?
そういいながら罪を犯し続けているのが人間なのだ。

10節の
放らつってなんだろうか?

11節の
私を購いだし、私をあわれんでください。とはどういう意味だろうか?購うとは主に使う言葉じゃなかったのか?

No.1108 2006/10/26(Thu) 20:04:20

Re: 詩篇26章 / 昌夫 引用

この詩篇では、ダビデが犯していない罪について敵から訴えを起こされて、法廷にいる、という場面を想像すると良いと思います。1節で、ダビデは、主に自分がそのような罪を犯していない、ということを言って弁護してもらいたい、と祈っています。そして、法廷が、ダビデは無実という正しいさばきをすることを願っています。

2節では、訴えられている特定の罪は犯していない、という意味で、潔白である、ということだと思います。

10節の「ほうらつ」とは、罪の性質も持つ心のままに悪いことも好き勝手にすることです。

11節で出てくる「購う」という言葉は、当時、いろいろな意味で使われました。ここでは、法廷で有罪の判決があった場合、身代金のお金を払って、罰を受けなくてもすむようにする、という意味で使っているようです。

主イエスさまの、購いというのも、いろいろな意味があると思います。最後の審判の法廷で、イエスさまの十字架上での命が、信仰者の身代金になり、信仰者が罰を受けなくてもすむようにする、という意味が、詩篇26篇の意味と対応しています。

No.1109 2006/10/26(Thu) 20:58:55

再詩篇26章 / 沙耶香 引用

今朝はもう一度詩篇26節を読みました。

ふーん、ダビデって苦労したんですね・・・犯していない罪について敵に訴えを起こされるなんて本当についていないです。今でいう冤罪かな?
この世の中冤罪で法廷まで行く人もいるし、冤罪でそのまま刑務所に入らないといけない人もいます。
本当に悪いことをした人は堂々とこの世の中で生きているのです。何だかやるせないですね・・・
ダビデは無実という正しい裁きを願っているとありますが、正しい裁きは行われたのだろうか?

2節もそうだけれど、やっぱり背景が分からないと、何だか別の意味にとらえてしまって、意味不明になりますね・・・でも分からないからといって何も読まないと何も進まないので、間違いながらでも読み進めていくことをイエス様も喜んでくださると信じます。

11節の購うなんて、そんなのもう全く分からないですね・・・そんな昔にそんな制度があったっていうのは興味深いですね・・・

購うとは結局どういう意味なのですか?罪を購うとかってよく賛美に出てきます。でも意味もわからず歌っています。
でも信仰者にとっては、イエス様の十字架での命が、信仰者の身代金になり、信仰者が罰を受けなくてすむというのが一番の恵であり、祝福ですよね?
本当私たち人間はみなイエス様に比べたら罪深くイエス様に代わりに罰をうけてもらわなかったらとんでもない罪人だったのです。
だから私たちクリスチャンはいろんな人にそのことを伝道し、イエス様に罪を清めてもらうことを勧めないと・・・

今回は6節の
主よ。私は手を洗って清くし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。というところが印象にのこりました。

No.1111 2006/10/27(Fri) 09:36:10

Re: 詩篇26章 / 昌夫 引用

>ふーん、ダビデって苦労したんですね

ダビデはイスラエルの王となって、さらに子孫から永遠の王が出るという約束を神さまからいただき、大いに祝福されました。でも、王となる前に多くの苦しみにあいました。

>犯していない罪について敵に訴えを起こされるなんて本当についていないです。今でいう冤罪かな?

そうです、冤罪ですね。聖書には、世間的な「ついていない」というような考えはなくて、全知全能の神さまが全てを支配されている、という考えが書かれています。ダビデが冤罪で裁判を受けたということは、詩篇などから推測できるだけで、聖書に記録されていません。イエスさまも無実なのに裁判を受けて、十字架での死刑の判決を受けられました。それは父なる神さまのご計画でした。父なる神さまは、ダビデとイエスさまに同じような型を与えられたので、ダビデが無実の罪で裁判を受けたとしたら、それもダビデに栄光を与えるための神さまのご計画の一部だったわけです。

>購うとは結局どういう意味なのですか?

よく見ると、11節の「あがなう」は「贖う」という漢字でした。辞書には「罪のつぐないをする」という意味が書いてあります。「購う」ほうは同じ語源ですが、「買い求める」とか「ある物と引き換えに別の物を得る」意味だと書いてあります。もともとのへブル語では、「買戻し」をするという意味だったのではないかと思います。イエスさまの十字架の死によって、罪にある人々が買い戻されたので、「買い戻す」という意味の言葉が「罪をつぐなう」という意味に使われるようになってきたのだろうと思います。

イスラエルでのいろいろな買戻しの制度の意味が、イエスさまの十字架による僕たちの贖いの意味にこめられています。イスラエルでは借金を返せなくて奴隷として売られた人を親戚がお金で買い戻して自由にするということもあったそうです。贖いという言葉には、罪の奴隷だった僕たちが、イエスさまの十字架の死の支払いによって自由になったという意味もあります。

>でも信仰者にとっては、イエス様の十字架での命が、信仰者の身代金になり、信仰者が罰を受けなくてすむというのが一番の恵であり、祝福ですよね?

本当にそうですね。そしえ、イエスさまの十字架の命によって、罪の奴隷だった僕たちが解放されて自由になったということも、とても大きな祝福です。僕たちはもう、快楽が欲しいという願望や、恐れなどに支配されていない、というのが真実だと信じます。でも、以前からの習慣にとらわれたり、「快楽を手放すとみじめになる」とか「神を信頼せずに恐れよ」というサタンの嘘にだまされて、なかなか自由を楽しむことができないでいる、ということだと思います。

No.1112 2006/10/27(Fri) 19:49:28
詩篇25章 / 沙耶香 引用

今日は詩篇25章を読みました。

9節に
主は貧しい者を公義に導き、
貧しいものにご自身の道を教えられるとありますが、貧しい人だけに教えるのだろうか?裕福な人には教えないのだろうか?それともこの節の貧しい人というのは違う意味だろうか?

私は11節の
主よ。御名のために、
私の咎をお赦しください。大きな咎を。が印象に残りました。人間はみな罪びとだから・・・神様に悔い改めて赦しをこうしかないのです。

14節に、
主はご自身を恐れるものと親しくされ、
ご自身の契約を彼らにお知らせになる。とありますが、
このご自身の契約とは神様のご計画のことだろうか?

15節に
私の目はいつも主に向かう。
主が私の足を網から引き出してくださるから。とありますが、私はいつも困難ばかりが次々と襲うのですが、これはどういうことだろうか?この御言葉が真実なら、主が引き出してくださるのではないのですか?

No.1097 2006/10/25(Wed) 19:27:48

Re: 詩篇25章 / Aja 引用

7節の「あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ、あなたのいつくしみのゆえに」が心に響きました。神様はこんな私のことも覚えていてくださるんだなあと思いました。

貧しい人、というのはマタイの山上の説教の中の「心の貧しい者は幸い」とつながるように思います。自分自身の貧しさを知っている人は、神様の声を聞こうとするので神様が教えてくださるのではないでしょうか。

「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」詩編119章92-93節

今日たまたま目にした聖句です。御言葉を喜びとして生きる限り、自分の悩みの中で滅ぶことはないのだと思い、励まされました。

No.1098 2006/10/25(Wed) 21:38:23

Re: 詩篇25章 / 昌夫 引用

9節の「貧しい人」は経済的に貧しい人というのではなく、Ajaさんが書かれたように、自分の貧しさを知っている人、と考えると良いと思います。自分は神さまがいなくても満ち足りている、と思う人は、神さまの方を向くことができないのだと思います。

14節の「契約」とは、神さまが信仰者や、信仰者のグループにくださる約束です。この約束は、ダビデの当時は、イスラエルが十戒などの律法を守れば、イスラエルを祝福する、という神さまがモーセを通じてイスラエルにくださった契約がひとつありました。旧約とは、この神さまとイスラエルの国との契約のことです。

Ajaさんが引用された詩篇119篇は、ほとんど全部の節に、律法をさす「みおしえ」「さとし」「戒め」「おきて」「さばき」「仰せ」などの言葉が入っていて、律法の素晴らしさを賛美しています。一番長い詩篇で、とても印象的な詩篇です。

No.1100 2006/10/25(Wed) 22:30:07

Re: 詩篇25章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度詩篇25章を読みました。

最近、Ajaさんのレスがなくてどうしてるかな?と心配していたので、また入ってきて嬉しいです。
それにAjaさんも私なんかと違い、聖書をかなり勉強しておられて素晴らしいですね・・・

貧しい人=心の貧しい人ということですね・・・

うーん、契約、分かりづらいですね・・・その当時のことを言われてもあまりピンとこない。今に直せば、信仰者にくださる約束のことだということですよね?
じゃ旧約が神様とイスラエルの国との契約だったら、旧約聖書は、神様とイスラエルの国との契約のことばかり書いてあるということなの?

No.1104 2006/10/26(Thu) 10:02:01

Re: 詩篇25章 / 昌夫 引用

>今に直せば、信仰者にくださる約束のことだということですよね?

うん、ほぼそういうことで良いと思います。今はイエスさまの十字架以後の新しい契約で、神さまが一方的に信仰者一人一人の心に律法を書いてくださり、聖霊さまを与えてくださり、新しい心を与えてくださり、罪とけがれを取り除いてくださり、主を知ることができるようになることが、新しい契約です。これは、エレミヤ書31章31−34節、エゼキエル書の36章23-32節に、イエスさまが生まれられる何百年も前から預言されています。

>旧約聖書は、神様とイスラエルの国との契約のことばかり書いてあるということなの?

旧約聖書は、ほぼ全部が神さまとイスラエルの国の契約の時代に書かれていて、契約のことだけでなく、その時代の歴史や、神さまの与えられた預言や、その時代に作られた詩篇や箴言などが書いてあります。

No.1106 2006/10/26(Thu) 10:15:12
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