★ (No Subject) / NGK  |
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昌男さん、みなさん、
ここ最近、礼拝への出席についての書き込みを多数させて頂きました。私が自分の知りえることを超えて、みなさんに対して不当に何かを決め付けてしまったり、何かを強要してしまったりしたなら、申し訳ありませんでしたとお詫びするほかありません。
私はクリスチャンになってから、教会という群れを離れたことはありません。単一の群れにずっと属してきた訳ではなく、いくつかの教派にわたって関わる教会を転々としたこともあります。
ですがいろいろな教会体験を通して、今は、「兄弟姉妹が一所にあつまり、礼拝をする」という行いには、自分の心の健康(喜び)と、神様への信仰に深く影響する何か神秘的な、かつ実質的な力があるのだとの確信を深めています。
初代教会では、それこそ「毎日」宮に集まり礼拝をしていました。それが私たち日本の文化では、それぞれの仕事やライフスタイルの事情からでしょう、日曜日と水曜日だけに集まるという習慣が一般的になっています。
ですが、韓国では、「毎朝」5時に集まり、祈りをすることが結構一般的と聞きます。パプアニューギニア宣教師の話では、片道何時間もかけて徒歩で礼拝に通う人もいるそうです。中国では地下にもぐってでも礼拝を守り、また教会で礼拝中に爆弾を投げ込まれて命を失うクリスチャンもかつていたことを思い出します。
それらクリスチャンの苦しみにしても、神の御子イエス様が十字架を背負われ、なじられ、あなどられ、打たれ、つばを吐かれ、裏切られ、挙句の果てに処刑されてしまった苦しみに比することはできないでしょう。
他のクリスチャンの払ってきた犠牲、またイエス様ご自身の壮絶な人生とに照らし合わせて見ると、自分の信仰生活とキリスト者としての証(あかし)は、なんと力なく、なんと徹底さを欠き、なんと不誠実で曖昧で、おろかなものかと、思えて来てなりません。
「自分の十字架を負い、自分を捨てる」ということを考えるとき、私自身は自分にあまりに「甘え」と「逃げ」が多いということを感じずにいられません。
そのような自分であっても、神様は慈しんで、兄弟姉妹の中で私を守り続けてくださる。これが恵みと愛でなく、何でしょうか・・・。その恵みが無ければ、今夜眠ることもままならないことでしょう。
私たちを救って下さる、主イエス様に感謝します。神様の愛の保証として共に生きていてくださる方に感謝します。
皆様、おやすみなさい。 |
No.221 2005/08/19(Fri) 01:21:11
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☆ Re: (No Subject) / 昌夫  |
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NGKさん、礼拝についての貴重な書き込みをありがとうございました。
今日、日本のある教会の老婦人の話をメールで受け取りました。次男夫妻はクリスチャンで、長男夫妻はキリスト教に強く反対しておられるそうです。長男夫妻の家に住むと、老婦人は礼拝に行くことを禁じられるそうです。でも、教会の兄弟姉妹との祈りのなかで、あえて、老婦人は長男夫妻の家と次男夫妻の家に交互に住むことを選ばれたそうです。老婦人の信仰の姿を長男夫妻に見せることを考えられたからだそうです。長男夫妻の家に住む数ヶ月間、日曜日の礼拝の時間帯、老婦人は、自分の部屋で、「今、賛美の時間だな・・・。今頃、メッセージの時間だな・・・・。」と言う風に、自分の置かれた状況で、精一杯心を尽くして神様を礼拝しておられるそうです。
兄弟姉妹との礼拝は僕たちが努力して行くためのものではなく、神さまの素晴らしい恵みだな、との感を強くしました。 |
No.222 2005/08/19(Fri) 13:31:00
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