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(No Subject) / NGK 引用

昌男さん、みなさん、

ここ最近、礼拝への出席についての書き込みを多数させて頂きました。私が自分の知りえることを超えて、みなさんに対して不当に何かを決め付けてしまったり、何かを強要してしまったりしたなら、申し訳ありませんでしたとお詫びするほかありません。

私はクリスチャンになってから、教会という群れを離れたことはありません。単一の群れにずっと属してきた訳ではなく、いくつかの教派にわたって関わる教会を転々としたこともあります。

ですがいろいろな教会体験を通して、今は、「兄弟姉妹が一所にあつまり、礼拝をする」という行いには、自分の心の健康(喜び)と、神様への信仰に深く影響する何か神秘的な、かつ実質的な力があるのだとの確信を深めています。

初代教会では、それこそ「毎日」宮に集まり礼拝をしていました。それが私たち日本の文化では、それぞれの仕事やライフスタイルの事情からでしょう、日曜日と水曜日だけに集まるという習慣が一般的になっています。

ですが、韓国では、「毎朝」5時に集まり、祈りをすることが結構一般的と聞きます。パプアニューギニア宣教師の話では、片道何時間もかけて徒歩で礼拝に通う人もいるそうです。中国では地下にもぐってでも礼拝を守り、また教会で礼拝中に爆弾を投げ込まれて命を失うクリスチャンもかつていたことを思い出します。

それらクリスチャンの苦しみにしても、神の御子イエス様が十字架を背負われ、なじられ、あなどられ、打たれ、つばを吐かれ、裏切られ、挙句の果てに処刑されてしまった苦しみに比することはできないでしょう。

他のクリスチャンの払ってきた犠牲、またイエス様ご自身の壮絶な人生とに照らし合わせて見ると、自分の信仰生活とキリスト者としての証(あかし)は、なんと力なく、なんと徹底さを欠き、なんと不誠実で曖昧で、おろかなものかと、思えて来てなりません。 

「自分の十字架を負い、自分を捨てる」ということを考えるとき、私自身は自分にあまりに「甘え」と「逃げ」が多いということを感じずにいられません。

そのような自分であっても、神様は慈しんで、兄弟姉妹の中で私を守り続けてくださる。これが恵みと愛でなく、何でしょうか・・・。その恵みが無ければ、今夜眠ることもままならないことでしょう。

私たちを救って下さる、主イエス様に感謝します。神様の愛の保証として共に生きていてくださる方に感謝します。

皆様、おやすみなさい。

No.221 2005/08/19(Fri) 01:21:11

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

NGKさん、礼拝についての貴重な書き込みをありがとうございました。

今日、日本のある教会の老婦人の話をメールで受け取りました。次男夫妻はクリスチャンで、長男夫妻はキリスト教に強く反対しておられるそうです。長男夫妻の家に住むと、老婦人は礼拝に行くことを禁じられるそうです。でも、教会の兄弟姉妹との祈りのなかで、あえて、老婦人は長男夫妻の家と次男夫妻の家に交互に住むことを選ばれたそうです。老婦人の信仰の姿を長男夫妻に見せることを考えられたからだそうです。長男夫妻の家に住む数ヶ月間、日曜日の礼拝の時間帯、老婦人は、自分の部屋で、「今、賛美の時間だな・・・。今頃、メッセージの時間だな・・・・。」と言う風に、自分の置かれた状況で、精一杯心を尽くして神様を礼拝しておられるそうです。

兄弟姉妹との礼拝は僕たちが努力して行くためのものではなく、神さまの素晴らしい恵みだな、との感を強くしました。

No.222 2005/08/19(Fri) 13:31:00
こんばんは。 / かおり 引用

みなさん、今夜はどんな風にお過ごしでしょうか?

NGKさん、昌夫さん、ここを訪れる方々は、本当に心をつくし、思いをつくして、神様をお礼拝しょうとされているのですね。頭がさがります。
私は難しい事は何も分からないのですが、お二人の書き込みを読ませていただいてどちらの書き込みにも「うんうん」と頷いています。
神様は1人1人に違うようで、でも、行き着くところは同じ思いを与えられているような気がします。
(すいません。伝わるかなぁ。)
私も教会のことでかなり悩んでいますが、ここで思いを掃きだしみなさんのレスを読んでいるうちに「おもいわずらうな」という思いがやってきました。感謝です。

ペンテコステ派でも(少ないんでしょうね)今はただそこに置かれたんだなぁぐらいの気持ちになってます。

プリンス・オブ・エジプトでしたっけ、アニメの映画の中でミディアンの踊りの所でかかる曲を思います。
壁掛けに紡がれた1本の糸にデザインの全てを見る事はできない。山の頂に立つ大きな石より大切なものは支えている石。どうすれば見えるのか本当の価値が、人の目には見えはしない。人生を神の目でみつめよう。

場違いだったらごめんなさい。アニメの話なんか持ち出して。
今夜もゆっくりおやすみなさい。

No.211 2005/08/18(Thu) 00:54:19

Re: こんばんは。 / NGK 引用

>場違いだったらごめんなさい。アニメの話なんか持ち出して。

こんにちは、かおりさん。

プリンス・オブ・エジプトの映画は、私も見ました。見ながら、また聞きながら、涙が流れたシーンは二つ。

かおりさんのおっしゃっておられるシーンと、モーセが主と合い、「だれがその口をあなたに与えたのか!」と怒りを燃やされた直後に、今度は彼を(消えない炎で)やさしく包み込むシーン。

私たちは神様に支えられながら、また他の人たちのために自分を捧げながら生きてゆくんだなぁと、感動しました。

アニメ、私も好きです。同じ映画制作会社が作っている「ヨセフ」も面白いですよ。

No.212 2005/08/18(Thu) 02:34:04

Re: こんばんは。 / 昌夫 引用

>「おもいわずらうな」という思いがやってきました。

素晴らしいですね。僕たちは、全知全能の神さまが愛で導いてくださるので、恐れに支配される必要がないですね。

>ペンテコステ派でも(少ないんでしょうね)今はただそこに置かれたんだなぁぐらいの気持ちになってます。

キリスト教は西洋を中心とした宗教というイメージがありますが、今は、世界のキリスト教徒のなかで、西洋の人たちは少数派となったそうです。このように伝道が進んだことに特にアフリカ、南アメリカ、アジアで大きく貢献したのがペンテコステ派です。かおりさんが日本ではまだ数少ないペンテコステ派の教会に置かれたのは、大きな意味があるのではないかな、と思います。

No.215 2005/08/18(Thu) 12:56:01

Re: NGKさんへ / 昌夫 引用

アニメのことを読んで、僕がNGKさんに。ぜひ伝えたいと思っていることが、ひとつはっきり心の浮かびました。

それは、神さまは全てを造られて、コントロールされているので、宗教色のないことの中にも働かれるということです。特にまじめな聖職者志望の人たちが、自分が世俗的な仕事を、つらくとも捨てるお導きを受けただけに、礼拝とか、伝道とか、祈りの会とか、宗教色の強いことだけを重視する場合が多いと思います。

でも、神さまは、クリスチャン全部を聖職者へと導かれるわけではありません。世俗的な仕事を通して、神の栄光を現すように導かれるクリスチャンもいます。イラクに伝道するように導かれる聖職者もいれば、家族に伝道するように、導かれるクリスチャンもいます。

ほとんどのクリスチャンは、聖職者にはならないわけですから、我々のリーダーである聖職者は、そういう、常識的には宗教色のない活動のなかで、普通のクリスチャンがいかに主の十字架を背負っていくべきか、ということを考えて欲しいと願っています。

第1テサロニケ5:17−18で、神さまは、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなさい。と言っておられます。また、ピリピ4:4で、いつも主を喜びなさい、と言っておられます。礼拝に参加するなどの行いが重要なのはもちろんですが、僕たちが宗教的なテーマのアニメを見るときも、まったく宗教的でないアニメを見るときも、仕事をするときも、家族と関わるときも、すべて祈りと感謝のなかで、主にあって喜んでするならば、常識的には宗教色のない行為でも、主の十字架を背負ってすることができるし、主がそのような行為を命じられることもあることが理解されると思います。

No.216 2005/08/18(Thu) 13:19:42

Re: こ?ばんは。 / NGK 引用

私には会話の能力が欠けているのでしょうか。
話が、どんどんそれて行きます。

これまで、プロテスタント一般の礼拝出席について考えてきたのに、今度は「聖職者と普通のクリスチャン」という区分が出てきてしまいました。・・・もう私には会話の行き先が判りません。

>常識的には宗教色のない行為でも、主の十字架を背負ってすることができるし、主がそのような行為を命じられることもあることが理解されると思います。

私は礼拝や祈りの会を「宗教色の強い活動」として、実生活から分離させて考えていません。礼拝や祈りの会への出席は、かおりさんが紹介してくださったアニメの歌にあるように、壁掛けを紡いでいる糸の一本として、私の人生に編みこまれてゆくものです。それは金色のまばゆい光を放つ、美しい糸です。

>普通のクリスチャンがいかに主の十字架を背負っていくべきか、

私には、聖職者と普通のクリスチャンという区分そのものが存在しません。

礼拝への出席については、私は各個のために判断をする立場にはありませんから、もし私の投稿がそのような印象を与えてしまったなら、この場をお借りしてお詫びします。

私は、神様に従いたい。それだけです。家族の反対、仕事の問題、来れば来よ。そのときは出来る限りのことをするまで・・・。

No.218 2005/08/18(Thu) 15:23:36

Re: こんばんは。 / 昌夫 引用

No.219は、No.218を読む前に書きました。話がいろいろ飛んで申しわけなかったです。NGKさんが大いに祝福されて、無限に深い神さまの甘美な愛に近づいていかれますように、お祈りいたします。

No.220 2005/08/18(Thu) 15:48:31
(No Subject) / 礼拝について 引用

管理人さん(たち)と昌夫さん、

私は掲示板に論争の種を撒き散らしてしまったような気がして、申し訳ない気持ちがしています。申し訳ないです。

No.192でMeranさんが言及されて居られますが、信者が一所に集まってイエス様を拝するという行いや、聖霊典のひとつである聖餐について、プロテスタントとカトリックの間で「次元が違う」ほどの差があるのだとすれば(Meranさんからは未だ明確なお答えを頂けていませんが)、それらに関していたずらに論ずるのは、プロテスタントとカトリックの方々が同居しているこの掲示板では混乱と論争を招くだけだと、自分で思いました。

Meranさん、もしこの投稿をお読みになっておられる時点で、私への返信を作成されて居られないなら、私の質問については、まことに勝手なこととは存じますが、ご放念ください。

>一つの行いを絶対視して、人に薦めたりするのは避けたほうが良い。

昌夫さんのこのご意見は、深く心に留めさせていただいています。ご指摘には感謝しています。

>「行いにとらわれないで、ただ聞き従うことを選択することがバプテスマを受けて信仰を持つクリスチャンに必要なただひとつのことである (No.198)

このご意見についても同じです。その通りだと思います。ですが、実際に、本当は、一体何に「聞き従うのか」と考えると、最終的には クリスチャンは「御言葉」に聞き従うしかないのでは無いでしょうか?

プロテスタント教会の過去と現在を見ると、「御言葉を唯一の規範とする」というスローガンの下、礼拝の形式やバプテスマのなどの事柄について「主が教えられた正しい方法」追い求めた末、分裂、また分派を繰り返して来たという苦渋の歴史があります。 

「御言葉に従いたい。御言葉にしたがって主に従いたい」と心に決めた人たちが試行錯誤する中、時に兄弟姉妹と対立し、また分裂という非常な悲しみによって心を刺し通されながら、今の私たちのプロテスタント教会の伝統は形成されてきました。

日曜礼拝に出席するという、いわばプロテスタント教会の「伝統」は、そのような1000年以上にわたる「信仰の歴史・信仰者の労」の上に建てられている伝統なのではないでしょうか。そのような、日曜礼拝を守るという伝統に対して、そこへの出席の有無を個々の一存で決定するような自由が果たして私たちに与えられているのでしょうか。 昌夫さんとの会話を通して、私はそう感じました。

とはいえ、私が礼拝に出席する理由は、ただ兄弟姉妹と会い、共に礼拝をしたいという、それだけのことですが。

No.201 2005/08/17(Wed) 14:15:18

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

NGKさん。たしかにプロテスタントとカトリックのミサ・礼拝、聖体拝受・聖餐式の神学上の立場の違いというのは、神学の教科書に説明してあることですし、興味のある人はそういう本を読んでいただくのが良いのかもしれません。そういう意味で、この掲示板で話しあうことが適当ではないかもしれません。ご配慮に感謝します。

>そこへの出席の有無を個々の一存で決定するような自由

「聞き従う」というとき、僕は個々の一存で決定するということを考えているのではありません。聖書、伝統、牧師や兄弟姉妹の意見、個人に与えられる家庭や社会の中での事情も含めて、全てのことで僕たちに語られる神さまのことばを聞いて、従うことを選び、後は祈りによって、神さまに導いていただくことを考えています。もちろん聖書の御言葉に反することを神さまは言われるはずはありません。ただ僕の聖書解釈では聖書はクリスチャンに神を愛し隣人を愛する心で全ての行いをすることを命令しているのであって、あるひとつの特定の行いを絶対的に命令したり禁止している箇所はないと考えています。

僕たちクリスチャンは、罪の誘惑から主によって自由にされ、また「この行ないは絶対必要、あるいは絶対禁止」というような常識や思い込みからも主によって自由にされ、全ての行いを信仰によって感謝とともに主に従ってするようになることが、神さまに望まれている、と考えています。

No.202 2005/08/17(Wed) 15:33:17

Re: (No Subject) / NGK 引用

>聖書、伝統、牧師や兄弟姉妹の意見、個人に与えられる家庭や社会の中での事情も含めて、全てのことで僕たちに語られる神さまのことばを聞いて、従うことを選び、後は祈りによって、神さまに導いていただくことを考えています。

私がプロテスタント教会の歴史を引き合いに出したのは、昌夫さんのおっしゃるとおり、↑↑↑に書かれていることを実践してきた先人たちが聖書の教えの結晶(宝石)として保ち続けてきたのが、礼拝なのではないか?ということを言いたかったからなのですが。

聖書解釈の課程で、分裂分派、教派間におけるお互いへの敵意、またさまざまの規定を生み出してきた混沌とした歴史とプロテスタント教会の現実の中にあって、礼拝への参加ということ(だけ)は明らかに必要なものとして保たれてきていると思うからです。

それら先人たちの試行錯誤の結果を見ないことが個々の「一存」という意味で、それを考えれば、礼拝に対する認識もそれ相応に変化すると思うのですけれど。私は自分で話していて、改めて変わりました・・・。

それはそれとして、話がかみ合っているようで、実はぜんぜんすれ違ってしまうので、すごく変な感じです。私、変なんですかねぇ?それともこれが「意見の違い」というものなのでしょうか。なんか自信喪失です。

聖書がいかに正しくとも、人が実際に神様の御前に歩むことについては、それぞれが体験して学んでゆくしかないんですよね。実際は。

昌男さんや、参加者の方々お一人お一人に、神様のお導きがありますように。私のためにもお祈りください。

NGK

No.205 2005/08/17(Wed) 22:49:41

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

>礼拝への参加ということ(だけ)は明らかに必要なものとして保たれてきていると思うからです。

もし礼拝への参加という行為が絶対的に必要なものであるなら、教会のないところに伝道に行くクリスチャンはどうなるのかな、と思います。

>聖書がいかに正しくとも、人が実際に神様の御前に歩むことについては、それぞれが体験して学んでゆくしかないんですよね。実際は。

そうですね。残念ながら言葉では伝え合えないことが多いと思います。

>昌男さんや、参加者の方々お一人お一人に、神様のお導きがありますように。

お祈りありがとうございます。NGKさんのためにお祈りします。

No.208 2005/08/17(Wed) 23:50:33

Re: (No Subject) / NGK 引用

>もし礼拝への参加という行為が絶対的に必要なものであるなら、教会のないところに伝道に行くクリスチャンはどうなるのかな、と思います。

そこに救われる人がいたなら、教会ができ、礼拝がもたれるんじゃないでしょうか? パウロがコリント、ガラテヤ、エペソ、またローマと伝道する中で、教会ができ、そこで礼拝(本質的に、共に交わり、パンを割き、使徒たちの教えを堅く守る努力としての礼拝,使途2:42)があったわけですから・・・。

私は礼拝が「絶対的」に、「律法のごとく」何が何でも必要、というスタンスで話していませんよ。:)

神を愛し、また兄弟姉妹を愛するなら、礼拝という行為を求める心が不可避的に生ずるだろうというスタンスです。その意味で、礼拝と聖餐は切り離せないだろうとも申し上げました。私は、「礼拝に出ない、イコール、即悪」みたいな極論で、礼拝についての考えを一刀両断にしているような印象を与えているのでしょうか。

もしそうだとすると、誤解がありますね。:^|

No.209 2005/08/17(Wed) 23:59:22

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

誤解はあると思いますが、僕はNGKさんが

>と仰っておられますが、そのような選択は、礼拝を守って主をあがめるというひとつの信仰の行為よりも、家族行事の方が重んじられている結果だとしか私には理解できず

>また礼拝に出ない、という選択には、いつも信仰とは別の理由があるのだと、私は考えています。仕事の事情とか、家庭の事情とか、そういったことです。

と書かれたことが、とても心に残っています。

僕がNo.47で「家族の行事があるときは日曜の礼拝に参加しないことにした」クリスチャンで、NGKさんが、家事をすましてから礼拝に参加したクリスチャンとはとても同列には考えられないとされた方について、書いてみます。このクリスチャンは、主婦の方ですが、ご主人はまだ信仰を持っておられません。そのご主人が熱心にしておられるスポーツ行事に日曜に出られるとき、彼女は礼拝を休んでご主人の応援に行かれます。僕は、これはご主人に福音を伝えるための信仰から来る行為だと考えています。伝道者が礼拝を休んで伝道旅行に行くことと、質的に同じ行為だと思います。

彼女のような行為について、家庭の事情であって、信仰上の理由からでありえない、と考えておられるNGKさんは、僕には「礼拝の参加という行為を絶対視されている」ように思えます。僕は主は「今日は礼拝したいだろうが、家族への伝道の仕事を与えるので、そのために休みなさい」と言われることもある、と考えています。

No.210 2005/08/18(Thu) 00:28:17

Re: (No Subject) / NGK 引用

>このクリスチャンは、主婦の方ですが、ご主人はまだ信仰を持っておられません。そのご主人が熱心にしておられるスポーツ行事に日曜に出られるとき、彼女は礼拝を休んでご主人の応援に行かれます。

>僕は、これはご主人に福音を伝えるための信仰から来る行為だと考えています。伝道者が礼拝を休んで伝道旅行に行くことと、質的に同じ行為だと思います。

昌夫さん。

私には個人の事情の詳細にまで踏み込んで何かを決定するような事はできませんし、昌夫さんのご存知のそのクリスチャンの方の、実生活の他の側面を見ることもできないので、昌夫さんのご意見にはコメントしないほうが良いと思います。


マタイ 8:21、22
マタイ10:34〜39
ルカ 14:26〜27

私は上の聖書のみことばから、あるお答えをいただいて、その答えに基づいてある立場をとり続けてきました。

昌夫さんも、みことばから お答えをいただいて下さい。答えるのは、私ではありません・・・。

No.213 2005/08/18(Thu) 02:51:44

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

NGKさん。
僕が一貫して言おうとしているのは「自分の十字架を背負ってわたしについてくる」と主が言われたときに、その具体的な行いは、一人一人、また時によって、全く違ったことになることがある、ということです。「今の教会で礼拝せずに、イラクに伝道にいきなさい。」と言われることもあれば、「イラクに伝道に行かずに礼拝しなさい」と言われることもある。遠くに伝道に行って、教会をたちあげる前に、すぐ病気になって死んでしまった伝道者も多いのです。同じように、「私のために家族への伝道のために礼拝を休みなさい。」と主が言われることも「家族の反対を気にせずに、礼拝に行きなさい」と主が言われることもある。

NGKさんが、あげられた聖句を読んで、家族に反対されて、礼拝に出席しない人は皆、これらの聖句に反した行いをしている、と解釈されているのではないか、と危惧してるのですが、誤解であれば幸いです。

No.214 2005/08/18(Thu) 12:43:18

Re: (No Subject) / NGK 引用

> NGKさんが、あげられた聖句を読んで、家族に反対されて、礼拝に出席しない人は皆、これらの聖句に反した行いをしている、と解釈されているのではないか、と危惧してるのですが、誤解であれば幸いです。

聖句は聖句ですよ・・。
誤解もなにも・・・。
それらの聖句が、昌夫さんの心にどのように響いたのかが、大切なことであって、私がそれをどう解釈しているかが、それほど重大なのでしょうか。

あと、昌夫さんがいろいろと例として挙げられた人たちについては、私は誰一人として直接的に知りませんので、彼らの行為の一つ一つが主への信仰に基くものかどうか、私には判断しかねます。 肝心なのは、その人たちの「実生活全般」にわたる総合的な信仰の態度ですから、特異的な状況における判断云々を色々と出されても、私としてはなんとも応じようがありません。

No.217 2005/08/18(Thu) 14:24:26

Re: (No Subject) / 昌夫 引用

>私がそれをどう解釈しているかが、それほど重大なのでしょうか。

僕はNGKさんが聖職者になろうとされて勉強されている方と考えて書いていますが、間違えていたらごめんなさい。No.216にも書きましたが、NGKさんが聖職者になられるなら、「十字架を背負う」ということが、常識的に宗教色のある活動だけではない、むしろ、聖職者以外のクリスチャンには、仕事や家庭の日常の活動でこそ、十字架を背負うのだ、ということをよく知った聖職者になっていただきたい、と祈りながら書き込みをしています。

No.219 2005/08/18(Thu) 15:28:59
はじめまして / Antonia 引用

カトリックの者です。最近、家族や体調などの理由でミサに行くことが間々ならず、身体を流れている血がどんどん澱んできているような気がします。
時間ができても疲れはてていたり・・・。

No.43 2005/06/02(Thu) 00:00:14

Re: はじめまして / 大坂 引用

はじめまして。こんにちは。お気持ち分かりますよ。そういう時は、
教会に行くだけが信仰じゃないんだと自分に言い聞かせてみても、
かえってなかなか落ち着かないものですよね。
血が澱んでいると感じているあいだに、状況が改善されると良いですね。
クリスチャンであると否とに関わらず、いろいろな人と関わりあうなかで、
信仰は自分のものだけじゃあないんだ!と気付かされてきました。
私の家は、クリスチャンの家庭ではありません。
ですが、教会に行けない日があると、
教会にも行かないで何をやっているの?
と、逆に言われてしまいます。
思ってもみないことでしたが、私に平安がないと、
家族も迷惑なんですよね。よく考えてみれば。
それこそ、父や母、愛する家族を捨てて、
イエス様に従うことが、当の家族からも、
ほんとうには期待されていることかも知れません。

No.45 2005/06/02(Thu) 22:26:06

Re: はじめまして / 昌夫 引用

Antoniaさん、はじめまして。

家族の中で1人だけキリスト者ということも多い日本では、家族が理由でミサや礼拝に行くことがままならない人が多いのではないでしょうか。もしAntoniaさんのご家族が、キリスト者ではなくて、ミサに行くことに反対されておられるなら、もし、自分が相手の立場なら、その人にどうして欲しいと思うだろうか、というところから考え始めるのが良いかもしれないと思います。自分がしたいことよりも、まず他の人のことを考える、ということがキリストの教えに従うことになると思うからです。

僕の知っているプロテスタントのキリスト者では、家事を必ずしっかりすませてから毎日曜必ず礼拝に参加した人、家族の行事があるときは日曜の礼拝に参加しないことにした人、日曜の礼拝には基本的には参加しないで平日に礼拝している人など、対応は違いますが、それぞれに神さまを礼拝したい、神さまに従いたいという心からの対応だと思います。

どの場合にもこの行動が良いということは、言えないのではないかと思うのですが、神さまに従う心を持って、お祈りして、お導きを求めれば、道を開いてくださる、と信じます。Antoniaさんが、ミサへの参加がままならないという困難な状態の中で、神さまのお導きを受けられて出口を示していただけますように、お祈りいたします。

No.47 2005/06/02(Thu) 23:32:45

Re: はじめまして / NGK 引用

皆様こんにちは。ネットを流れておりました折、ここを訪れ、ログを拝見いたしました折、礼拝への参加について、大阪氏、また昌夫氏のお二方のコメントをしたく思いましたので一筆書かせていただきます。

大阪氏が上に

>私に平安がないと、家族も迷惑なんですよね。よく考えてみれば。それこそ、父や母、愛する家族を捨てて、
イエス様に従うことが、当の家族からも、ほんとうには期待されていることかも知れません。

と書かれておられますが、信仰に入り、日曜礼拝に出席しております私と致しましても、そのとおりだなと思います。礼拝への出席に限らず、自分のやっている何かについて人を納得させるものは理屈よりも何よりも、それに対する本人の一途な、一貫した、真摯な取り組みの態度でありますから。ましてや、家族との時間を犠牲にしてまで取り組んでいることであるなら、そのご本人が一貫した態度でそれに取り組んでいないなら、ご家族としてもまったく納得が行かないでしょうし・・・。 たましいの救いということに関して考えるなら、ご家族の反対を押し切ってまで主を礼拝することに一貫することが、ご家族にイエス様を礼拝することの大切さが伝わるために究極的に一番必要なことだとも、私は思います。

ところで昌夫さんは、

>家族の行事があるときは日曜の礼拝に参加しない

ことが、

>神さまに従いたいという心からの対応だ

と仰っておられますが、そのような選択は、礼拝を守って主をあがめるというひとつの信仰の行為よりも、家族行事の方が重んじられている結果だとしか私には理解できず、

>家事を必ずしっかりすませてから毎日曜必ず礼拝に参加した

という一貫した態度と同列に比較されていることに、なんだか変な感じがします。

私は日曜礼拝への出席は、やむを得ない場合を除いて、万障を廃して気持ちが追いつかなくともするべき、クリスチャンとしての責任として考えています。そのように育ってきたからかもしれませんが。

No.48 2005/06/03(Fri) 12:28:06

Re: はじめまして / 昌夫 引用

NGKさん、はじめまして。
貴重なコメントをありがとうございます。

NGKさんのおっしゃりたいことはよく理解しているつもりです。

僕自身は、神は心を見られるということから、日曜礼拝参加ということであっても行動よりも、心が一番大切だと考えています。日曜に礼拝に参加しながら、心は神さまから離れて「礼拝に参加しているから、平日は神さまのことを忘れて自分のこととをしていてよい。」という生き方をすることも可能だと思います。その反対に、日曜に礼拝に参加しないで、まだイエスさまを知らない妻や夫とイエスさまの愛を現すために時間を過ごすことで、主に心の礼拝を捧げることも可能だと思います。何をどこでしているかよりも、心と魂が最も大切だということがヨハネ4:23−24で、イエスさまが「霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言われたことの意味だと考えています。

礼拝する日については、ローマ14:1−6に、それぞれ自分の心の中で確信を持って、日を決めるように書いてあると思います。このことから礼拝の場所、方法についても、各自、それぞれの状況の中で、確信を持ってすれば良いのではないでしょうか。

日曜礼拝は伝統の長い基本ですから、それを守るという行動は、とても尊いものだと思います。ただ、日曜に働く仕事を神さまに与えられている人々もおられるし、家族の行事への参加を通して、家族への伝道の仕事を与えられているキリスト者もいるかもしれません。外から、行動を見ても、その人たちが神さまの御心に従っているかどうかは、僕たちには分からないと考えます。何かの行動が全ての場合に正しいと考えて、他の人たちに薦めるよりも、その人たちがイエスさまに従って、すべての行動を主の栄光を現すためにすることができるように祈ることが大切ではないかと思っています。

礼拝ということについて、Antoniaさん、大坂さん、NGKさん、僕に主のお導きがあり、それぞれが主の御心を知って、心から従えますように、お祈りいたします。

No.49 2005/06/03(Fri) 22:59:59

Re: はじめまして / NGK 引用

皆様それぞれの地にあって、こんにちは。

昌夫さんへ>

お祈りありがとうございます。

どうも私の場合は毎週礼拝に出席して皆と賛美し、またみことばを聞かないと、心が「澱(よど)んで」しまいます。自分の都合で礼拝を休むと、その次の週も行きたくなくなって、どんどん自分の心の澱みの中にはまって行くので、嫌だと思っても、私は礼拝に出ます。

今までもそうして来ましたし、これからもそうするでしょう。澱んだ心では、喜んで生活できませんから。

ある意味、そうすることは私のクリスチャンとしての生き方の、一番小さな、でも一番大切な証であると思います。

No.52 2005/06/04(Sat) 08:17:01

Re: はじめまして / 昌夫 引用

NGKさん。
 レスありがとうございます。
 そうですね。兄弟姉妹と礼拝に参加できるということは、素晴らしい恵みであって、僕たちクリスチャンの特権だと思います。僕たちが、さまざまな事情で礼拝に参加できない兄弟姉妹のために祈りながら、感謝と讃美の心でいつも礼拝に参加できますように、と願います。

No.55 2005/06/05(Sun) 04:56:40

Re: はじめまして / かおり 引用

Antoniaさん。
私は難しいことはわからないけど、Antoniaさんの心と身体がイエス様に癒されるようにお祈りしてます。

苦しい時、悲しい時、さみしく感じるとき、また書いてください。自分が弱い時ほど神様を強く求めますよね。私もそうでした。出口がないような、重い気分がずっしりとのしかかって、でも、神様は必ず今このときの事も益に変えてくださいます。

神様、今、Antoniaさんの心と身体の癒しが必要です。神様はすべてご存知ですからどうか癒しの御手をおいてください。問題の解決も神様の知恵を与えてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。  アーメン

No.64 2005/06/09(Thu) 23:54:40

Re: はじめまして / meran 引用

> カトリックの者です。最近、家族や体調などの理由でミサに行くことが間々ならず、身体を流れている血がどんどん澱んできているような気がします。
> 時間ができても疲れはてていたり・・・。


はじめまして。カトリックでしたら、日曜日の典礼ミサに参加できなくても、聖体拝領だけなら毎日できます。神父様にお願いして時間のある時に聖体拝領だけしてきてはどうでしょうか?

No.170 2005/08/13(Sat) 19:38:39

Re: はじめまして / 昌夫 引用

meranさんはじめまして。
 カトリックでは聖体拝領を毎日できるということで、素晴らしいですね。僕もプロテスタントですが、個人的事情で日曜に聖餐式を長く受けられなかった時期に、キャンパス・ミニスターのハワード師に頼んで平日にいろいろ教会に連れていっていただいて聖餐式を受けさせていただきました。
 聖餐式などで神さまに近づいていくことはとても大切なので、こういうときに遠慮しない方が神さまに喜んでいただけると考えています。

No.174 2005/08/15(Mon) 08:45:23

Re: はじめまして / NGK 引用

>聖餐式などで神さまに近づいていくことはとても大切なので、

昌男さん。

「聖餐式で神様に近づいてゆく」とおっしゃっておられる意味が、今ひとつ理解できずにおります。差し支えなければ、ご説明願えますでしょうか。

No.189 2005/08/16(Tue) 04:09:46

Re: はじめまして / 昌夫 引用

NGKさん、聖餐式で神さまに近づいていくと書いたことの説明を書いてみます。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)

と御言葉にありますが、バプテスマも聖餐式も教会で讃美することも、全て根源的にクリスチャンが神さまに近づいていくために神さまが与えられた手段だと考えています。他にも意味があることを否定するわけではないし、これが真理かどうかは知りません。僕は、そう考えているということです。

No.193 2005/08/16(Tue) 14:16:26

Re: はじめまして / NGK 引用

>神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)と御言葉にありますが、バプテスマも聖餐式も教会で讃美することも、全て根源的にクリスチャンが神さまに近づいていくために神さまが与えられた手段だと考えています。

昌夫さん、お返事をありがとうございます。(上の投稿では昌男さんとなっており、お名前を間違えてしまいましたこと、失礼しました)

私は、聖餐を受けるという行為自体には、人を神に近づける力は「無い」と思っています。

人を神様に近づけるのは主に対する信仰のみであって、イエス様を信じて彼を礼拝するその信仰が伴わなければ、聖餐はただのパンとワインという物体であり、洗礼もまた水に濡れるだけのお風呂に入るのと変わりない行為であり、賛美も歌謡曲を歌うのと大差ない行為になってしまうと私は思います。

聖餐について言えば、Iコリント11章を読むと明らかですが、主の食卓にあずかるという行為は 自らが教会という主のからだの一部であるという認識と、その認識を他の兄弟姉妹と確認し合うという求めに基づいて行われるべきものであって、なんらかの理由で礼拝に出席できないという状況を「補完」するための手段であってはならないのではないか? というのが私の意見です。

主は心を見られる

「お前の心はわたしと、わたしの愛する子供たちに向いているか?」・・・いつも、毎日、神様から届く、私に対する問いかけです。

No.194 2005/08/16(Tue) 15:11:58

Re: はじめまして / 昌夫 引用

>私は、聖餐を受けるという行為自体には、人を神に近づける力は「無い」と思っています。

僕も聖餐式を含めて、どのような行為にも、それ自体には、人を神に近づける力はないと思います。主日に礼拝に出席するという行為も、信仰なしには、意味がないと考えています。

信仰が恵みであり、信仰からの行い以外は全て罪である、と聖書にあります。礼拝に出席したり聖餐を受ける行為が罪でないためには、行為は信仰からのものでなくてはならないと思います。

人が信仰から神に近づこうとするとき、人によって、いろいろなお導きが与えられると思います。それは主日の礼拝出席であることが多いですが、まれに人によっては平日での聖餐式であることも可能だと思います。

自分が信仰によってお導きを受けているかどうか、祈りの中で自分の心を調べることが僕たちのするべきことであって、他人がどういうお導きを受けていて、それに従っているか、判断することは僕たちの仕事ではないと思います。

主日礼拝のような基本的な信仰の行為でさえ、その行為を絶対視したり、義務だと思ったりすると、パリサイ人のパン種にとらわれてしまうのではないでしょうか。どのような行為でもなく、信仰を持って聞き従うことを選ぶこと、それだけが必要であるということがルカ10:38−41で、主が僕たちに教えてくださっていることだと考えます。

No.195 2005/08/16(Tue) 15:44:26

Re: はじめまして / NGK 引用

昌夫さんこんにちは。お返事ありがとうございます。

>主日に礼拝に出席するという行為も、信仰なしには、意味がないと考えています。

そうでしょうね。もっとも、礼拝については、私は信仰を有する人が当然(自然に)導かれてゆく行為であると思いますけれども。洗礼についても同じですね。洗礼を受けない、また礼拝に出ない、という選択には、いつも信仰とは別の理由があるのだと、私は考えています。仕事の事情とか、家庭の事情とか、そういったことです。

>まれに人によっては平日での聖餐式であることも可能だと思います。

それはないでしょう。聖餐式は礼拝の一部であって、同等のものではないのですから。

聖餐が根本的に「自分が主イエスのからだの一部であることの認識と、他の兄弟姉妹を共同体の一部として認識する」愛に基くものであるとの立場を取る以上、聖餐式にあずかることだけで、それが他の兄弟姉妹と共に礼拝を守るということを完全に補完するということは、まずありえないと私は思うのですが。

学問上、神学的に見て、どう解釈されているかは知りません。

>他人がどういうお導きを受けていて、それに従っているか、判断することは僕たちの仕事ではないと思います。

そうですね。その通りだと思います。

>主日礼拝のような基本的な信仰の行為でさえ、その行為を絶対視したり、義務だと思ったりすると、パリサイ人のパン種にとらわれてしまうのではないでしょうか。

その通りです。私の投稿の本意は、Meranさんの「礼拝に出れなければ聖餐だけでも受けたら?」というご意見に対しての疑問です。聖餐式にあずかることが礼拝に出れないことへの罪滅ぼしのための手段に引きおろされていませんか?という。

礼拝、聖餐、洗礼などの行為には、霊的な効力を伴う意味があると思います。主が御言葉を通して教えてくださった通りに、正しく行いたい。私の今の考えや認識には間違っている部分がきっと多いでしょうけれども、正しい行いに導かれてゆきたいものです。

まぁ、私の意見を一言で言うと、「聖餐式にあずかることを考える前に、礼拝に出席できるように考えようよ。」

お返事ありがとうございました。
MeranさんやAntoniaさんのご意見もお伺いしたいですが、スレッド、長すぎますね・・・。

No.196 2005/08/16(Tue) 21:48:03

Re: はじめまして / meran 引用

> その通りです。私の投稿の本意は、Meranさんの「礼拝に出れなければ聖餐だけでも受けたら?」というご意見に対しての疑問です。聖餐式にあずかることが礼拝に出れないことへの罪滅ぼしのための手段に引きおろされていませんか?という。

これは大きな誤解です。と、言うよりNGKさんはこれまでの書き込みだけで判断する限りプロテスタントの方ですね?このスレ主はカトリックの方です。そこが大きな違いです。

プロテスタントは日曜日教会では礼拝主体ですが、カトリックはミサです。ここが全く違うのです。もちろん一番大事なのは信仰ですが、信者にはもう信仰はありますからカトリックの信者にとってミサこそが全てです。プロテスタントの信者にとっては礼拝でしょうね。

オーソにしてもカトにしてもプロとは違います。それを同じ次元では語れません。つまり、意味が全く違います。

>>ミサに行くことが間々ならず、身体を流れている血がどんどん澱んできているような気がします。

スレ主のこの書き込みをみてもどれだけカトにとってミサが大事かわかりますよね?プロとは認識が全く違うんですね。

No.197 2005/08/16(Tue) 23:44:07

Re: はじめまして / 昌夫 引用

新しいスレッドを建てようかとも思いましたが、分かりにくいかなと思って、つづけます。

礼拝にしろ、聖餐式にしろ、義務や、何かの罪滅ぼしの手段としてしまったら、信仰から参加したことにはならないと思います。聖餐式が礼拝の時間に行なわれるから、礼拝の一部であるとは言えないと思います。イエスさまが最初に聖餐式を始められたときに、主日の礼拝の一部として行なわれたわけではないからです。

僕の意見を、できるだけまとめて言うと、「行いにとらわれないで、ただ聞き従うことを選択することがバプテスマを受けて信仰を持つクリスチャンに必要なただひとつのことである。聞き従うとき、主日の礼拝、聖餐式への参加などの行ないが伴うのが普通であるが、お導きは1人1人さまざまでありうるので、一つの行いを絶対視して、人に薦めたりするのは避けたほうが良い。」

No.198 2005/08/16(Tue) 23:47:23

Re: はカめまして / NGK 引用

Meran さん、こんにちは。

>これは大きな誤解です。

誤解を解くために、少しお話させてくださいね。

>NGKさんは・・・プロテスタントの方ですね?

おっしゃる通りです。

>プロテスタントは日曜日教会では礼拝主体ですが、カトリックはミサです。ここが全く違うのです。

カトリックのミサと、プロテスタントの礼拝は、何がどう違うのでしょうか。私はカトリックのミサに出たことは無く、また学んだこともあまりありませんので、よろしければ教えてくださいませんか?

>オーソにしてもカトにしてもプロとは違います。それを同じ次元では語れません。つまり、意味が全く違います。

何の、意味が違うのですか? 礼拝とミサとの違いのことでしょうか?

>スレ主のこの書き込みをみてもどれだけカトにとってミサが大事かわかりますよね?

カトリックのミサと聖餐そのものに、肉体に及ぼす実際的な「浄化作用」のようなものがある・・・・ということでしょうか? カトリックにとってミサが大切ということはよくわかりました。

>プロとは認識が全く違うんですね。

何に対する認識のことでしょうか。目下は「プロテスタントの、カトリックのミサに対する認識」という理解でおります。間違っているなら、ご教示をお願いします。

No.199 2005/08/17(Wed) 00:30:31

Re: はじめまして / meran 引用

> カトリックのミサと、プロテスタントの礼拝は、何がどう違うのでしょうか。私はカトリックのミサに出たことは無く、また学んだこともあまりありませんので、よろしければ教えてくださいませんか?

カトのミサはミサです^^;

プロの礼拝の原型はツヴィングリやルーテル等のプロテスター達が日曜日に説教をしだした事にあります。もちろんプロでも説教の無い教派もありますが、基本的にプロは説教するための礼拝です。これは中世にカトが聖書から逸脱し過ぎた為、聖書等読む事どころか聖書の存在すら知らない信者達に聖書の存在とその内容を理解させ、何故カトから分裂したかを理解させるためです。今なら自分で教派を選ぶ事ができますが当時教会は地域性、及び政治性が高かった為実際の農民達は生活の場の教会に合わせるしかなかったからです。従ってカトのミサとは全く違う日曜日が出来上がった事になります。

結果的には現状を見ればわかるように聖書を正しく解釈する事は誰一人できず、プロは分裂に分裂を重ねリベラル派、福音派、ペンテコステ派の3つのグループから、何百と言う教派に分かれています。

プロと違いオーソやカトなどの歴史的教派の日曜日の集まりは、奉神礼、ミサと儀式ですから当然説教などありません。

近年中世と違い一般市民が字の読み書きができるようになり、印刷のテクノロジーが普及し、カトは第二バティカン公会議以降近代化をはかり、一般市民も聖書の存在を知るようになり、日曜日にミサだけでなく御言葉の重要性を感じ説教を持ち込むようになり、30年程前から5分から10分程度の説教もやりだしています。しかし、あくまでミサです。

オーソはあくまで伝統的な奉神礼を守っており今でもヘブライイズムが残っています。


> 何の、意味が違うのですか? 礼拝とミサとの違いのことでしょうか?

ミサの持つ意味はプロとはまるで違うのは上記に書いたとおりですが、それだけでなくホスチアの段階ではプロと違いは無いかもしれませんが、聖体となった時にはそれ自体全く違いますね?プロにはその理解はありません。

> カトリックのミサと聖餐そのものに、肉体に及ぼす実際的な「浄化作用」のようなものがある・・・・ということでしょうか? カトリックにとってミサが大切ということはよくわかりました。

浄化作用というよりカトにとって聖体ですから、その物の持つ意味自体が違います。

秘蹟の中でもミサが最も重要ですが、カトにとってはミサこそ全てです。

No.203 2005/08/17(Wed) 22:31:12

Re: はじめまして / NGK 引用

Meranさん。

ミサに関するご説明ありがとうございます。

もっと詳しくお伺いしたいのですが、どこか別の場所に場を移すことはできますでしょうか。たとえば、Meranさんの掲示板とか。

お返事お待ちしております。

No.204 2005/08/17(Wed) 22:48:42

Re: はじめまして / meran 引用

ご自由に利用してくださいね。

No.206 2005/08/17(Wed) 23:01:51

Re: はじめまして / NGK 引用

> ご自由に利用してくださいね。

すみません。

アドレスをメールで教えてくださいますか?

ではまた〜。

追伸:
Meranさんからのメール、確認いたしました。
お返事を送信いたしましたので、ご確認ください。
今後しばらくMeranさんのお宅にお邪魔させていただきます。

No.207 2005/08/17(Wed) 23:04:49
(No Subject) / エセックス 引用

神よ
全ての人に平和をお与え下さい。
過失に対しては、許しがありますように。

No.200 2005/08/17(Wed) 13:19:03
・・・・ / かおり 引用

教会に行くのが怖い。

プロテスタント系の単立教会ってあるんですか?
私の所属している教会は単立らしい・・・もう7年も行っているのに最近気づいたんです。
最初はすごーく仲良くしていただいて感謝だったのですが、最近自分の中でなにかが変わったせいか、・・・なんです。神様を礼拝するのだから、教会は関係ないのかもしれないし、自分がしっかりすればいい、って思いながらもしっかりできない自分が分かるので・・・

1.ウエルカム
2.今週のスケジュール
3.讃美4.祈り(この時牧師先生やみなさん陶酔したように・・・ちなみに讃美ボーカルは牧師先生の娘さんです)
5.メッセージ
6.リニューアルの祈り

教会に集まる人全てが同じレベルの信仰をもっているわけではないと思うのですが・・・
異言でも祈るし「教会に来れないのは、サタンの惑わしがあるから」って教会から離れていく人には、「神様の御業」が現されたって。結局は神様が離れさせたって言う感じなんです。おかしいと思うんですが。
特になにも感じないで今まで来ちゃったし、すごーく「変」でもない。兄弟姉妹は熱心なクリスチャンで1人1人はみなさんいい方ばかり、
私に罪がありすぎるからこんな考えがおきてくるのかな?

No.175 2005/08/15(Mon) 09:31:21

Re: ・・・・ / 大坂 引用

> 私に罪がありすぎるからこんな考えがおきてくるのかな?

そうでないと思いますよ。今、かおりさんが抱いている違和感は、違和感として、かおりさんの健全さの表れかも知れません。ただ、かおりさんの教会については、私自身、むろん、事情を知っているわけではないので、責任のあるアドバイスは致しかねますが、できれば率直に、疑問、相談を、同じ教会の信頼のおける人にされてはいかがでしょうか?かおりさんの忍耐によって、教会が変わり得ることも、まったくあり得なくないと思うのですが。

あるいは、教会を移ることもあり得るかと思いますが、現時点で具体的に探していらっしゃるのでしょうか?教会を転々とするのは、おそらくあまり良いことではないでしょうが、教会を移ること自体は、あくまで、その教会を離れることであって、必ずしも、キリストからから離れることではないでしょう。私も当初、勧められた近所の教会ではなく、わざわざ車で通うところで、礼拝生活をしていますが、良かったと思っています。

けれども、教会は関係ない、ひとりで神様を信じればよいのだ、というのでもなさそうです。
私自身、放浪したあげく、信仰というのは、ひとりで信じるものでもなく、かえって逆に、実に多くの人に支えられ、励まされ、導かれて来たものだなあ、という実感を得ました。だから、今は、教会の内部にあって、仕えて行きたいとも願っています。

No.176 2005/08/15(Mon) 12:17:09

Re: ・・・・ / かおり 引用

教会を変える。前の私では考えられなかったんですが、マルセリーノさんのサイトにたどり着いて、教会ってこんなに色々あったんだ。と。今までは、「他の事(教会)は知らなくっていいんですよ。守られているんです。」
を信じていたし、カトリックはマリヤ様や聖人を偶像礼拝してると思っていたんです。でもそれは違うっていうことも分かって、今頃で恥ずかしいのですが・・・

今すぐに教会を変えるのは難しいので(子供が教会でやっている学園の中2なので)卒業の頃に考えようかと。

でも、すごく燃えているいい教会なんだとおもうんです。
これだけは伝えます。子供たちの教育にも熱心ですし、
「祈りの家」ハウス・オブ・プレイヤーってやっています。
7年前は子供も合わせて40名位だったのですが新しい会堂も出来ていまでは140名を超えることもあるんです。

ただ、今の私にはちょっと合わなくなっただけなんです。
大坂さん、聞いてくださってありがとう。

No.177 2005/08/15(Mon) 13:39:33

Re: ・・・・ / 昌夫 引用

かおりさん、こんにちは。

神さまの助けをいただいても、人間の作る教会が完璧ということはありませんし、教会を変わるということは、とても重要なことだと思うので、慎重によくお祈りして、神さまのお導きを求めていくと良いと思います。変わることを決める前に慎重にいろいろな教会に見学に行くことも良いことだと思います。

僕自身は、個人的な理由で、入信してから最初に行った教会に行かなくなりました。僕の場合は自分に合わなくなったということではありませんでした。

プロテスタントの神学では、教会とは

1.正しく福音が伝えられ
2.バプテスマと聖餐式が正しくとり行われる

クリスチャンの集まりと考えられているようです。このような考えからは、単立の教会も可能です。ただ、クリスチャンはいずれ全員がひとつにされるわけですから、完全に孤立した教会というのは、考えにくいと思います。単立の教会であっても、牧師が神学を勉強した神学校などを通して、神学的にも、霊的にも他のクリスチャンとつながっているということが普通だと思います。とくに神学的に全く他のクリスチャンとつながっていない場合、牧師が間違った聖書解釈をすると、教会内でそのままになってしまう恐れが強いと思います。

No.178 2005/08/15(Mon) 15:59:13

Re: ・・・・ / meran 引用

>異言でも祈るし「教会に来れないのは、サタンの惑わしがあるから」って教会から離れていく人には、「神様の御業」が現されたって。結局は神様が離れさせたって言う感じなんです。おかしいと思うんですが。

> でも、すごく燃えているいい教会なんだとおもうんです。

この書き込みだけで判断するとかおりさんの教会はおそらくペンテコステ派の影響を強く受けた単立の教会かと思います。

ペンテコステ派の教会は異言は今でも頻繁にあると理解しています。そして、かなり情熱的なところが特徴です。聖霊の存在を重んじ何でもかんでも聖霊の力として受け止める傾向があります。事情があって教会に行けない事があってもそれを聖霊の神様の引き起こした事として受け止めがちです。

教会は様々です。教会によって物事の受け止め方も違います。リベラル派等の教会は教会によっては案外あっさりしていたりします。異言等は基本的にあの時代の事として理解しています。教会に来なくなっても人それぞれの事情が尊重されたりします。

キリスト者にとって大切なのはどの教会に行くかではなく、信仰があるかないかですから、あまり、教会の事で悩む必要も無いと思います。自分の気持ちを尊重してあとはお祈りをして決めればいいと思います。

No.179 2005/08/15(Mon) 17:25:29

Re: ・・・・ / かおり 引用

昌夫さん、こんにちは。
meranさん、はじめまして。
meranさんのおっしゃる通りです。祈りを受け(聖霊をうけ)倒れされる。サタンの追い出しの祈り、預言もあります。啓示も、私もそれを信じていました。だから、海外からの使徒的な方も教会には毎年いらっしゃいます。特別集会として、その中では預言もありますし、癒しの奇跡もあります。

信じていますが、全然違う解釈の教会もあるようで、・・

もう少し時間をかけて考え、お祈りしてみます。

No.180 2005/08/15(Mon) 18:46:47

Re: ・・・・ / meran 引用

> meranさんのおっしゃる通りです。祈りを受け(聖霊をうけ)倒れされる。

やっぱりそうでしたか。これは明らかにペンテコステ派です。ペンテコステ派の礼拝は皆で倒れたり、皆で笑ったり、皆で泣いたりとかなり極端です。それだけではありませんが・・・

>サタンの追い出しの祈り、預言もあります。啓示も、私もそれを信じていました。

これもペンテコステ派の特徴の一つですが、リベラル派等ではこれも聖書の時代の事として認識しています。

>だから、海外からの使徒的な方も教会には毎年いらっしゃいます。特別集会として、その中では預言もありますし、癒しの奇跡もあります。

ペンテコステ派は教会名でも教派名でもなく教派のグループ名ですがそもそもアメリカで始まった教会です。聖書に書いてある初代教会ペンテコステの教会をモデルとして始まった教会です。ですから、奇跡や異言や予言は今でもあると固く信じたりもするのが特徴です。リベラル派等では聖書の時代の事として認識しています。

> 信じていますが、全然違う解釈の教会もあるようで、・・

これはペンテコステ派独自の理解です。リベラル派、福音派ではこのような理解は全くありません。あったとしてもそれは牧師がそういうタイプなのです。中でもリベラル派はあっさりしグループです。(私のサイトで各教派について少し説明したページがありますので参考にしてみて下さい)

> もう少し時間をかけて考え、お祈りしてみます。

キリスト教は奇跡を信じたり、異言を信じたりする宗教ではありません。キリストを救い主として信じるのがキリスト教です。そこはお忘れの無いようにしてくださいね。

No.181 2005/08/15(Mon) 19:05:17

Re: ・・・・ / 昌夫 引用

 奇跡や異言については、福音派の中でも神学上で大きな考え方の違いがあります。カルバンの流れの派は、特に異言や預言などの神からの直接的なコミュニケーションは、聖書の正典が成立した後はもう起らないという説をとる学者が多いようです。
 これに対して、他の福音派の学者の中には奇跡、異言、預言は、現代では聖書の時代よりも少ないので慎重に考えないといけないけれど、ありうる、と考えるクリスチャンも多いと思います。
 ペンテコステ派は、異言や奇跡を重視しますが福音派の神学者の間では普通、異端やカルトではなく、福音派のひとつと考えられていると思います。
 聖書では、奇跡はモーセとヨシュアの時代、エリヤとエリシャの時代、キリストと使徒の時代の3つの時代に集中しています。それぞれ、人類の贖罪の観点から重要な時代に、奇跡は神さまから送られた人々のッセージが真に神さまからのものであることを証しする働きをしたと考えられます。
 ペンテコステ派は、アフリカや南アメリカ、中国で多数の信者を獲得しています。これらの地域で、現代でも奇跡が福音を伝えるために重要な証しの働きをするなら、僕は神さまは奇跡を使われることもあるだろうと考えています。
 どちらにしても、異言や奇跡の有無が重要なのではなく、キリストの救いを信じるかどうか、が重要です。キリストの救いを信じるクリスチャンは、これらのことについて神学上の意見の違いがあっても、協力しあっていくのが神さまの喜ばれるところだと思います。人間には「絶対」ということはなく、「絶対」と言えるのは神さまだけですから、「異端、カルト」という攻撃的な言葉は、できるだけ避けたいと思います。

No.185 2005/08/16(Tue) 01:09:30

Re: ・・・・ / NGK 引用

>「絶対」と言えるのは神さまだけですから、
>「異端、カルト」という攻撃的な言葉は、
>できるだけ避けたいと思います。

こんにちは、管理人さん。 NGKです。

私の「異端 カルト」に関する投稿ですが、かおりさんの書き込みに対する応答としては不適切だと思いましたので、勝手ながら、自分の一存で削除させていただきました。いろいろとご迷惑をおかけしてすみません。

私も、キリストを救い主と信じる信仰の上に立っているならば、いろいろな信仰の「形」があって良いと思うので、ペンテコステ派や異言や奇跡は否定しません。人それぞれの必要に、神さまはそれぞれ異なる形で応えてくださるのだと私も思いますから。

それはそうと、キリスト者はみな遅かれ早かれ、自分の属している教会の、伝統や習慣、また、誰を見本とするかということに関する人間関係に疑問を感じ、自分と神様との間での確信のみに基づく道を進む決断を、信仰生活のどこかで迫られるのだと思います。赤ん坊が大人になって自立する道のりと、キリスト者が救われて後、神様にあって大人になってゆく道のりは、すごく良く似ている気がします。

No.188 2005/08/16(Tue) 03:44:30

Re: ・・・・ / かおり 引用

みなさん、ありがとう。

NGKさん、私もクリスチャンとして進んで行く過程での反抗期かもですね。今のこのことがいつか「よかった」と思えるように十分に考え祈り進んで行きます。

昌夫さん、こんなにいろんな教派や考え方があるんですね。
一致して神様をお礼拝できる日がやってくる、そんなすばらしいことが早く来る事をお祈りします。

イエス様は私の救い主。ハレルヤ!

No.190 2005/08/16(Tue) 04:19:51

Re: ・・・・ / NGK 引用

かおりさん、こんにちは。

>私もクリスチャンとして進んで行く過程での反抗期かもですね。

その反抗期を通して、かおりさんの今おられる教会に導かれる方も、きっといらっしゃいます。

>今のこのことがいつか「よかった」と思えるように十分に考え祈り進んで行きます。

本当にそうですね。当座は非常に辛かった色々な体験も、後になってから見返すと、それは恵み以外の何ものでもなかったことがわかる時があります。私も祈りながら歩んで行きたいです。

No.191 2005/08/16(Tue) 04:40:13

Re: ・・・・ / 昌夫 引用

僕はこのごろルカ10;38−42のマルタとマリヤのことをよく考えています。僕たちクリスチャンのすべきことは、本当はひとつだけで、それはイエスさまの前に座って従う気持ちで聞くことを選ぶことだけだと思います。選ぶことだけが僕たちの責任で、マルタのように「良い行い」と自分が思うことをする必要もありません。聞き従うことを選びさえすれば、後は主が主の力で、主のために、僕たちとともに、僕たちがするべき良い仕事に導いてくださると思います。

例えば、福音派だけでも多くの考えがあるのに、リベラル派や、バルトの流れからくる新正統派など、聖書解釈には本当に多くの考えがあります。人間の解釈だから、どれも完全に無限の真理に到達したはずはないのだけれど、全部が正しいというわけにはいきません。でも、僕たちは、自分の教会の派が正しいかどうかとかを自分の力で考えて見極める必要はないと思います。祈りのなかで、お導きを求めていけば、イエスさまが僕たち一人一人のそれぞれの時期に一番あった教会に導いてくださると信じます。

でも、お導きを受ける道というのは、快い道でないことが多いと思います。子供が苦しむのを嫌って甘やかしてだめにしてしまう一部の人間の親のような浅い愛ではなく、神さまの愛は人知をはるかにこえて深く甘美だからだと思います。

かおりさんが、神さまのお導きを信じて、恐れや常識や思い込みに支配されずに信仰の道を歩いていかれますように、お祈りいたします。

NGKさんの異端とカルトの投稿は攻撃的なものだとは思わなかったですが、削除してくださったNGKさんの配慮に感謝します。

No.192 2005/08/16(Tue) 12:36:35
meranさんへ / 昌夫 引用

書き込みをありがとうございます。
 ホーム・ページへのリンクをURLのところに書いおられたことに、今になって気がついたのですが、上記のルールにあるように、他のホーム・ページへのリンクはCFIの公式協力者以外はご遠慮いただくことになっています。それで、申し訳ありませんが、リンクは削除させていただきました。これは、以前にはホーム・ページや他のサイトをチェックしていたのですが、そのために膨大な時間がかかることが分かったためで他意はありません。ご了承ください。

No.183 2005/08/16(Tue) 00:38:30

Re: meranさんへ / meran 引用

失礼しました。以後気をつけます。お許しください。

No.184 2005/08/16(Tue) 01:07:36

Re: meranさんへ / 昌夫 引用

主のために時間を使ってホーム・ページを作っておられる兄弟姉妹に対して、とても心苦しいルールなのですが、主に与えられた時間を有効に使うことも重要だと考えて、優先順位の考えからルールを維持しています。了解していただいて、ありがとうございます。

No.186 2005/08/16(Tue) 01:14:02
ああ / バラバ 引用

 イエスさまは、差別をしないはず。
 あるカトリックに人が嘆いていた。教会には韓国
系の迫害者がいて日本人キリスト教徒をいじめるそ
うな?これって本当?統一教会の信者が入っている
んじゃないの。こうして日本の教会には日本人が少
なくなっていく。

No.161 2005/08/07(Sun) 16:30:44

Re: ああ / 昌夫 引用

 イエスさまは差別をされないというのは聖書に書いてある真理だと思います。
 すべての日本の教会に韓国系の迫害者がいるというのなら、明らかにデマだし、特定の国の人たちを攻撃することを目的にした悪意のあるデマとすら言えると思います。

No.163 2005/08/07(Sun) 22:15:02

Re: ああ / 大坂 引用

ところで、バラバさんの発言の真意は、イエスキリストをほめたたえるところにあるのでしょうか??

No.166 2005/08/08(Mon) 22:07:39

Re: ああ / 愚問ですよ。 引用

> ところで、バラバさんの発言の真意は、イエスキリストをほめたたえるところにあるのでしょうか??

No.168 2005/08/09(Tue) 21:11:48

Re: ああ / バラバ 引用

 わたくしの真意ですか?
 書いてあるとおり、宗教や政治の場面で統一教会
が深く浸透作戦を行っているということを確認した
かったためです。同意される方がいなければ、わたし
の思い違いですけども。わたしは神でないので人の
力がないと真相にたどりつけないので、みなさんの
情報を頼りにしているのですが。神仏におすがりす
るのはそのあとですね。

No.172 2005/08/14(Sun) 16:51:53

Re: ああ / 昌夫 引用

全知全能で完全に善であり愛そのものであられ、宇宙を創造された神さまが、すべてをコントロールしておられるということが聖書に書いてある真理だと思います。人の計画はならずに、神さまの計画がなります。

この真理を信じるならば、僕たちの仕事は、人の作った宗教団体の作戦を心配したり、人を頼って情報を集めたりすることではなく、ただ、神さまを信頼して、神さまが何を自分に言われているのか、聞いて、それに従うことだと思います。

No.173 2005/08/15(Mon) 02:23:02
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