[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

コロサイ2章 / 大垣 引用

コロサイ2章。2節。神の奥義であるキリストを個人的に出会って真に知るようになるためには、主にある兄弟姉妹がキリストの愛で結び合わされ、キリストの愛を体験的に実感して、全き確信に達すると良い。キリストとそのように深く出会った人は、パウロのように他の主にある兄弟姉妹のために苦闘し、励ますことができる。

3節.知恵を知識の宝が欲しければ、それらはキリストのうちに隠されているので、キリストを求めると良い。

4節.この世の知者たちの、まことしやかな議論によってあやまちに導かれないことが大切。

8節.この世の知者たちの、むなしい、だましごとの哲学によってとりこにならぬように注意したい。

9節.目に見えない父なる神の満ち満ちたご性質が、キリストのうちに形をとって宿っています。

10節。ここで「支配と権威」とあるのは、当時のユダヤ人の思想で天使の階級を表わしたそうだ。コロサイ人のクリスチャンたちは天使を崇拝する異端的な教えにおびやかされていたらしいが、キリストはそれらの天使たちのかしらである。

14節。僕たちは、罪の債務を持っていたが、イエスの十字架への信仰によって、債務証書は無効にされた。イエスが債務をすべて支払ってくださった。

16、18、21節。コロサイでの異端的な教えは、律法主義的で禁欲的で、天使を礼拝するものであったらしい。特に18節の「ことさらに自己卑下」というところに注目したい。誤った教理が、「謙虚」な考えを装っていることがあるように思う。

No.3634 2007/12/19(Wed) 23:41:38

Re: コロサイ2章 / 亜衣瑠 引用

コロサイ2章
3節「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」喜びのみことばです。前節2節の「神の奥義であるキリスト」とあるように、奥義はキリスト、キリストは奥義そのものである。わたしたちがすることは、また勧めることは、キリストを知ることだけでいい。知って深めていくだけでいい。それが2節の「真に知るようになる」こと。そうすれば、3節のとおり、「すべてが」隠されているのだから。隠されている、ということは わたしたちは発見できる、ということでもある。また、隠されているということは同時にすでにあらわにされている、ということでもある。わたしたちとキリストの間には 立ち入るものはないし、間に入っていただかないと都合が悪い、とか、そういう存在が必要である、ということがない。その光栄の身分の者になったことを喜んで感謝します。
8,9,10節 気になる表現は 皆キリストに関する。8節「キリストに基づく」9節「キリストのうちにこそ」10節「キリストにあって」
11−15節 神が成されたこと、神がわたしたち罪人のために してくださったこと。人から出たものではない。自分たちにはそれを信じて信仰を持ちつづける、ということしかできない。
12節「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」 キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じることができるようにしてくださった神の力に感謝します。
17節「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」ヘブル10:1を読みます。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、」律法というものの役割やすばらしさについてはつづくヘブル10章の3節がわたしには判りよい。「ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」ロマ7:7の理屈も同時に思い出します。「律法によらないでは、わたしは罪を知ることがなかったでしょう。」
19節「かしらに堅く結びつく」どうか、神さま、わたしたちが堅く結びつくは、かしらであるあなたさまのみでありますように。堅く結びつきたいと望むものは かしらであるあなたさまだけでありますように。
22節「人間の戒めと教え」 出どころが人間である場合、上から来るものとはそもそもルーツが違うから よくよく注意が必要である。
わたしたちの仲保者であるイエスさま、直接この世に降りてきてくださって感謝します。

No.3635 2007/12/19(Wed) 23:42:33
民数記15章残り / 沙耶香 引用

今日は民数記15章残りを読みます。

今日は、賛美の練習に高知まで行って来ました。

27節に
もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ1頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。
とあるが、この時代は、今のように悔い改めの恵というものがなかったのでしょうね・・・いろいろささげないと赦されない。

28節に
祭司は、あやまって罪を犯したもののために、主の前で購いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の購いをすれば、そのものは赦される。
とありますが、うーん、祭司は結構大変な職なのですね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の17章23-26節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、26節の
そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、また私が彼らの中にいるためです。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
私たちの中にイエス様がとどまっていると、うちの教会の中の私への仕打ちのようにはならないはずなのだが・・・

No.3629 2007/12/19(Wed) 00:07:57

再民数記15章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記15章残りを読みます。

34節に
しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
とありますが、この時代は監禁ということが日常茶飯事だったのですね・・・

38,39,40節に
「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその4隅にふさを作り、その隅のふさに青い紐をつけるように言え。
そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行う為、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、
こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。
とあるが、脚注を見てみると、パリサイ人はこのふさを長くして、他人の目を引こうとしたとありますが、これでは本来の意味をなさないじゃないですか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の18章1-5節を読みます。
天のお父様神様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
ユダは本当にイエス様と一緒にいて裏切ることを考案し、実行に移そうとしているのだから、なかなかのつわものですよね;・・でもイエス様を裏切ろうとしたらきっと後で相当の罰が・・・

No.3632 2007/12/19(Wed) 10:43:31
コロサイ1章 / 大垣 引用

コロサイ1章。1-2節。コロサイの教会には異端の教えが入っていたようで、それにまどわされた人たちもいたろうと思いますが、パウロはコリントの教会でいろいろな分裂や不品行の問題があっても教会の人たちを聖徒と呼んだように、コロサイの教会の人々も聖徒と呼んで、さらに「キリストにある忠実な兄弟たち」と呼んでいる。1コリント12:3には、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできないとあるのだから、どんなにまどわされたり、問題行動のある人たちでも、「イエスは主です。」と言う人たちを、僕は聖徒と呼び、「キリストにある忠実な兄弟たち」と呼び、ピリピ2:3にあるように、「自分よりもすぐれた者」と思いたいです。それには、人の「問題があって自分よりも劣っている」と感じられる一面があっても、もしかすると、それはその人が自分よりもさらに深い神の理解をしているからかもしれないと考えたい。そうでなくとも、自分には理解できない事情と原因があるかもしれない。また、人の一面だけ見ないで、全体を見るようにしたい。さらに、自分には人の全体像は見えるはずもない、ということをよく考えたい、と思います。

3-4節で、パウロたちはコロサイの教会の人たちのキリストに対する信仰と、すべての聖徒に対する愛について神に感謝しました。そして9−12節で、パウロたちはコロサイのクリスチャンたちが神のみこころに関する真の知識に満たされるように、また、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように、また、神に喜びをもって感謝をささげられるように、祈ります。

16節。万物は御子によって、御子のために造られた。どのように無意味、あるいは有害に思える被造物も、永遠の目からみれば、「御子のため」という意味があるはずである。それは、人間にも、よく目を開けて見れば意味が分かることもあるだろうし、人間には分からない場合もあるだろうと思う。

21節。僕たちはかつては神を離れ、心において神の敵となり、悪い行いの中にあった。今はキリストの十字架によって、神と和解させていただきました。それは僕たちが神の御前に立たせていただくためである。

24節。パウロの苦しみは、キリストの苦しみの欠けたところを満たした。僕たちキリスト者がキリストのために苦しむとき、キリストの苦しみの欠けたところを満たす祝福が与えられるのだと思います。

28節。パウロたちがキリストを宣べ伝え、あらゆる人を戒め、教えるのは、すべての人をキリストにある成人として立たせるためであった。キリストにある成人として立つことは簡単なことではない。ピリピ3章13-15節のように、天にある目標を目ざして一心に走っている人が成人である。

No.3630 2007/12/19(Wed) 00:26:03

Re: コロサイ1章 / 亜衣瑠 引用

コロサイ1章 緒論及び聖書ハンドブック(ヘンリー・H・ハーレイ著、聖書図書刊行会)の前書きを読む。これまで、さほど気にとめずにいた執筆事情と特色に心が留まる思いだった。エパフラスの名も今回やっと目に留まった。(遅い)誤ったユダヤ教的教え、御使い礼拝、禁欲主義、ギリシアの思弁的哲学。これら異端的教えに対して、パウロがキリストを明らかにした。
6節 「ほんとうに理解したとき」わたしは キリストの福音を、神の恵みとして今の段階で理解していると思っているが、さらに理解が深まり、さらに恵みを知って、今を超える境地になっていくのだろうと想像します。
「実を結び広がり続けています」ときにはそうでないように見えるときもあるだろうが、神のご計画は「成る」計画なので、そのとおりになっていくと信じられることが幸せです。
7節「エパフラス」 この名まえを覚えます。エパフラス。
10節「主にかなった歩み」懸命に歩んでいても、やみくもに歩んでいても 神が喜ばれるかどうかは、それが「主にかなった歩み」であるかどうか、だ。その見分けができますように。その選択を誤りませんように助けてください。
11節 読むとすぐエペソ3章の祈りを思い出すが、ハンドブックによると、両者の主題は全く異なっているとのことだ。エペソでは「教会の一致とその雄大なこと」を、コロサイでは「キリストの神性とその充足性を扱っている」とある。だいたい分かるような気がするが、4章まであらためて読むことで、それがはっきりされることを望みます。
14節「この御子のうちにあって」このひとことはとても大きい。そして、この恵みを受けた者として、わたしたちは10節にあるように「主にかなった歩み」をすることになる。
15節「御子は。見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」ヨハネ1章1−3節を思う。
16節 この節のみことばを 忘れないようにしよう。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
20−22節「和解」のことばが こんなにあったことが印象的。いままで気がつかないでいた。和解させてくださったのは、「神のみこころ」によりなのだ。
23節「信仰に踏みとどまらなければなりません。」 ヨハネ15章ぶどうの木のところ、4節を思います。「わたしにとどまりなさい。」 Remain in me, and I will remain in you.
「わたしも、あなたがたの中にとどまります。」
24節「苦しみを喜びとしています」
苦しみと喜びが縄のようにわらのように撚られてイエスさまへのつながりが太くなっていくと学んでいます。苦しみだけ、喜びだけ、のっぺらぼうではないものを神さまはご用意くださった。「キリストのからだとは、教会のことです。」教会とはキリスト。
折しもクリスマス、街の喧騒とは無縁のところでイエスさまがお生まれになった。神のご計画により、わたしたちをその汚れないご自分の血により、十字架により聖めてくださるために。神に長く背いて歩んでいたわたしたちが御父であられる神そのお方と和解できるように、イエスさまが橋渡しをしてくださった。感謝します。まだそのご計画を知らずにいる特にこの国の多くの人が イエスさまご誕生の意味を知っていきますように。お知らせする良い知恵をわたしたちがいただけますように。

No.3631 2007/12/19(Wed) 00:29:45
民数記15章21節まで / 沙耶香 引用

今日は民数記15章21節までを読みます。

4節に
そのささげ物をささげるものは、穀物のささげ物として、油4分の1ヒンを混ぜた小麦粉10分の1エパを主にささげなければならない。
とあるが、また始まったーーという感じですね・・・次節もまた次節も次々とこういう説明ですね・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の17章13-17節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、14節の
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。私がこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
したの脚注も見ましたが、「この世は悪の支配下にある限り、神の真理の光に照らされた教会とは永久に対立関係にある。」と書いてあるが、うちの教会では悪の支配下であるこの世とあまり変わらない、無視やしかとがありますが・・・

No.3624 2007/12/17(Mon) 19:20:32

再民数記15章21節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記15章21節までを読みます。

15節に
1つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々に渡る永遠の定めである。主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。
とあるが、在留異国人という言葉は聖書によく出てくるが、これははっきりとした意味がわからないと思って、辞書を引くと、載っていなくて、「在留異国人」で検索すると、聖書の御言葉に使われているだけの言葉みたいですね・・・多分、外国人なのに、イスラエルにとどまっている人だと思うけれど・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の17章18-22節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、21節の
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな1つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
本当の意味でイエス様と一緒にいつもいられるといいです・・・

No.3628 2007/12/18(Tue) 06:52:57
ピリピ4章 / 大垣 引用

ピリピ4章。1節。ピリピの教会の兄弟姉妹たちこそ、パウロの喜びであり、栄冠である。僕たちが信仰の種まきと水やりをすることに用いていただくとき、その人々が主の日に僕たちの喜びと栄冠となる。

2節.ユウオデヤとスントケはピリピの教会のリーダー格の女性2人であったらしい。彼女たちが主にあって一致できなかったのは、2章3-8節のへりくだりがお互いにできなかったということだと思う。

3節.パウロの真の協力者は、彼女たちのことを苦々しく思っていたのだろうか。パウロが真の協力者に彼女たちのことをお願いしていることが印象的。

4節、「いつも主にあって喜びなさい。」嬉しいことがあったときは、「主にあって」喜ぶことを忘れないようにしたい。苦しいことがあったときは、主がそのようなことも他のこととともに働かせて益としてくださることを覚えて、喜んで感謝したい。

6節、自分の思いどおりにならないときも、思い煩わないで主を信頼し、嬉しいときも苦しいときも感謝の気持ちで祈って願い事を神さまにごらんになっていただきたい。

8節、日本には信仰を持たない人々がほとんどだが、一般に評判の良いことは、心を留めておきたい。主がそういうことについて、信仰者を用いてくださることが多いと思う。

11-12節。箴言30章7-9節を連想しました。

No.3626 2007/12/17(Mon) 22:03:00

Re: ピリピ4章 / 亜衣瑠 引用

ピリピ4章
1節 今回の通読で初めて気づいた、「冠よ」とピリピの人々に呼びかけている、この栄えある呼びかけ。
2節 ユウオデヤとスントケの二人が女性であることも今回確認。(ちょっと遅すぎ)
3節 何かしら一致が困難な状況のとき、当事者だけでなく、第三者の力も必要とされる。その場合、問題を解決しながら、一致の方向に向かう二重の祝福がある。
4節 ピリピ4章4節 4の続くこの喜びのことば。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
Rejoice in the Lord always, I will say it again: Rejoice!
パウロ先生がこう命令されますから、いつも主にあって喜びましょう。わたしたちは いつも 主に在って喜びましょう。いつでも。ここから続く7節まで、今年9月に励みとなっていたみことばたちです。6節 神はご存知です。(マタイ6:8)  7節「そうすれば」
いつもみことばはそうです。必ずわたしたちに約束してくださいます。「そうすれば」
信頼により、信仰により、そのようにすれば、そうなるのです。  ここでは、信頼して感謝とともに祈り、自分を神に明け渡すことを求めている。そのとき、もはや、「我」は消えてキリストの平安が自らのうちにあることをわたしたちは感じることができる。
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
11節 4節の「いつも」が美徳で言っているのではないことがわかる。
13節 涙して読みます。「どんなことでもできる」
15節 何でも 最初にした人がいる。
17節 まるでパウロはここで神の代弁者のようだ。
18節 神さま わたしも あなたからいただいたもので満ちあふれています。
21−23節 こちらからあちらへ、あちらからこちらへ、祈りが行き交い、主イエスが行き交い、すべての聖徒たちが主イエスの恵みのもとに集まってくる。
20節「どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」
 To our God and Father be glory for ever and ever. Amen.
リボンかけもなく、化粧箱にも入っていないけど、美しい贈り物。

No.3627 2007/12/17(Mon) 22:04:08
ピリピ3章 / 大垣 引用

ピリピ3章。
1節. 主にあって喜ぶことが大切である。
2節. 悪い働き人に注意したい。特に自分が行いばかりに目のいく人間にならないように。
3節. 人間的なものを頼みとしないように注意したい。
9節.キリストを知っているということのすばらしさをいつも覚えていたい。

どうか僕たちがキリストのためにすべてを捨てて、それらをちりあくたと思うようになりますように。

11節。僕たちはキリストの十字架の働きによって義と認められたので、キリストの恵みでいつも神の御前に大胆に出て、神の聖い愛でかたくなな心を変えていただいて、どうにかして死者の中からの復活に達したい。

12節。イエスが僕を捕えてくださったとき、イエスの与えてくださった救いはすでに完全だったと信じます。しかし、その救いを完全に受け取っていくには時間がかかる。僕はイエスの恵みによって心を変えていただき、完全にされて、救いの達成を追求しています。

13-14節。過ぎ去ってしますこの世の栄冠を得るためにも、その栄冠を得るためには、目標をめざして、ひたむきに前のものに向かって進んでいく必要がある。僕たちが目標として目指すのは、永遠の神の国での栄冠で、それを得るには、一心に前のものに向かって走る必要がある。罪でなくとも益とならないことにかまけているわけにはいかない。

16節。信仰をいただいて、すでに僕たちは罪を赦され、汚れをきよめられ、神の御前に大胆に出ることができる。このために善行をする必要はない。僕たちはこのようにすでに達したところを基準にして、あせって善行をするより、まず、神の前に静まりたい。自分が、今何をすると益になるの示していただいたときに、すぐに聞き従って、備えられた良い行いをしたい。

17節。手本として身近に与えられたキリスト者に目を留めて、見習いたい。

18−19節。思いが地上のことだけの人たちは十字架の敵である。

20−21節。信仰を与えられた僕たちの国籍はすでに天にある。寄留地の地上でのことは、本国の天との関係がどうなっているのかにいつも注目したい。そして主イエス・キリストの再臨を待ち望みます。

どうか主が僕たちを主の日までに救いの達成に導き、主の日にご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいますように。

No.3622 2007/12/17(Mon) 13:40:06

Re: ピリピ3章 / 亜衣瑠 引用

ピリピ3章 段々熱を帯びてくるパウロの語り口は 初めてこの書を読んだときから変わらぬ感想だ。ここでは特に8節「いっさいのことを損と思っています。」「それらをちりあくたと思っています。」の強い表現。
そして、13,14節の競技者の像。「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」「目標目ざして一心に走っているのです。」 その目的が「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため」もしそうでないと、単なる狂信者。パウロはこの「熱病」を皆に勧める。これをまねしよ、と。(17節)
もし、まねをしない、まねできない、というなら、その最も逆の進み方の行き着くところは「滅び」です。(19節)
「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」
わたしたちの思いは神の憩われるところに。それは詩篇23の「緑の牧場」であり、詩篇84の「主の大庭」
20節「けれども、私たちの国籍は天にあります。」何という喜ばしい文字。ハンドブックにある記述は「われわれはこの世においては旅人であるが、故郷は天にある。われわれの歩みは地上でなされるが、心は天にある。」
すぐに大好きな?Tペテロを読み返します。2章11節「旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」2章25節「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」4章2節「こうしてあなたがたは、地上に残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」
この世に於いてはわたしたちはaliens であり、strangers なのだ、と思うなら、覚悟しやすいようにも思う。わたしたちの地上に残された時は 確かに長くはない。神がお決めになる長さとしてはきっとそれぞれに十分だと思いますが、とにかく限りがあります。聖書に触れる時間はケチらず取っていきます。滅びの滝壺に落っこちていかないように。また、まちがった手引き(盲人を手引きする盲人)をしないように。(マタイ15:14)
9節(ピリピ)の望みは20節の希望、21節のキリストの力とつながっている。キリストの御力により、その御力を信じる者、信じるわたしたちが 約束の出来事を待ち望む者とされる。
21節「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」卑しい者から聖なる者としてくださる神の御力を賛美します。賛美し、感謝します。感謝は尽きません。

No.3623 2007/12/17(Mon) 13:40:49
ピリピ2章 / 大垣 引用

ピリピ2章。1-2節。キリストにあって愛と交わりが与えれていても、僕たちはなかなか一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることができない。

どうぞ僕たちの心を変えて、僕たち主にある兄弟姉妹が一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることができますようにしてくださいませ。

どうすれば良いかは3-11節に書いてある。お互いにへりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思うこと。このへりくだりの妨げとなるのが、知識からくるおごりの心である。1コリント8章1節に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」とあります。特に神について正しい知識を持つか、持ったと思うほど、高ぶる気持ちが出てきがちです。1コリント12章3節には

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

とあります。「イエスは主です。」と告白する別の教派の兄弟姉妹が、神について自分と違う「間違った考え」と持っていると考えるとき、へりくだることが難しくなります。「異端、カルト」というような言葉をすぐに使いたくなりがちなので、注意したいと思います。

4-5節、自分のこと、自分の教会のこと、自分の教派のことだけでなく、他の人のことも顧みたいと思います。

6−8節。キリストは神の御姿であられる方なのに、人としての性質を持ってこの世に来られ、十字架の死にまでも父なる神に従われた。

9-11節。人間としてのキリストはこの世では十字架の死にまでも従われたので、永遠の神の国では最も高く上げられる報いをお受けになった。僕たちキリスト者も、神に聞き従えば、永遠の神の国で大いに祝福されます。

12節。僕たちは、いつでも神の御前に大胆に出ることができるので、神とともにいる恵みと畏れを感じながら、恐れおののいて自分の救いを達成したい。

13節。神は、僕たちのうちに働いて志を立てさせてくださる。さらに、事を行わせてくださる。良い行いをあらかじめ備えてくださっている。

14節。どうか僕たちが、すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行うことができますように。

17節。パウロは自分が死刑になっても、喜ぶ心を持っていた。

No.3620 2007/12/17(Mon) 13:38:21

Re: ピリピ2章 / 亜衣瑠 引用

ピリピ2章
2節「一致を保ち」「志を一つ」やはりイエスさまの願い、イエスが御父と一つであられるように わたしたちが一つとなるため。(ヨハネ17:11)
3節「何事でも自己中心や虚栄からでなく」すべての目的は「御子イエスのため」(コロサイ1:16)「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」足を洗ってくださったイエスさまを手本にします。「へりくだり」は勢いや根性でできることではない。
「私」本来の中からも湧いて出てくるものでもない。「まね」するものに思う。先にしてくださった尊い手本の方をまねしてみます。そして、それがごく自然になるように変えていってください、と神さまにお願いします。このあとの6−8節のイエスさまの姿を忘れないようにします。
4節「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」すぐ我がことだけでいっぱいいっぱいになる自分を知っています。自分のことであふれかえって自分のことで洪水になりがちです。神さまにいただく平安に身を横たえて 神の被造物の一つとしての自分、そして同じように愛をもって造られた愛する同胞、神の子どもとしていただいた仲間をいつも顧みられますように。
6節 神ご自身が神のあり方を捨ててこの世に降り立ってくださった。 それをお祝いする季節がやってきていますね。何も知らず、何も知らされずいることは不幸な残念なことです。わたしたちは 上手に愛をもって、この方のこの世に降り立ってくださった事実を まだの方たちに伝える知恵と神の愛が与えられますようにお祈りします。
8節「キリストは人としての性質を持って現われ」この安心!この事実がわたしたちを癒してくださる。イエスご自身がご自分のことを語られるとき、どんな人の語りよりも説得力がある。「わたしは心優しく、へりくだっているから」(マタイ11:29)そうおっしゃられるイエスさまだから、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(同11:28)のお言葉に「どうか、イエスさま 休ませてください」とすがります。深く心に刻まれている?Tコリント10:13のみことばの出だし、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」の「人」はイエスさまの意でもある、と割と最近になって学んでより納得します。より神に感謝のみことばになります。
9節 神が「キリストを高く上げ」「すべての名にまさる名をお与えに」なった理由が10、11節で述べられる。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」神はわたしたちとともにおられる、わたしたちは御霊をいただいた、主が共にいてくださる平安は他に代え難い。しかし、神は 神以外のものと 余りにも隔絶、超絶されたお方である。
12節「恐れおののいて自分の救いを達成してください」はい。13節のみことばがありますから神に信頼します。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」
14節「疑わずに」の言葉にヤコブを思い出します。
「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」(ヤコブ1:6)
16節 ?Tコリント15:58を連想します。
17,18節「私は喜びます」「あなたがたすべてとともに喜びます」「喜んでください」「私といっしょに喜んでください」 喜びがこだまし、喜びが増幅する。この世の喜びとは超越してしまった神の目から見た喜び、歓喜!この世の感覚で言えば、使徒26章24節でパウロに向かって大声でフェストが言ったように「気が狂っているぞ。」ということになるのだと思う。
20節「テモテ」「ほかにだれもいない」とまでパウロに書かせるテモテ、どんなに信仰の人だったか、と思う。テモテは(テモテだけは)21節のようではなかったということだ。
「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」わたしたちは イエスさまだけを求め続けていればよいのです。他のことは真の求めの対象ではありません。そのことをしっかり知った上で進んでいきたいです。
28節 テモテにしてもそうだし、ここで挙げられるエパフロデトもパウロからピリピの教会に送られた。パウロがエパフロデトたちを働き手として送った。送られた人々は働き手を歓迎し感謝するだけでなく、送ってくださったパウロを感じることができる、そして大元の送り手、神を感じることができる。遣わすもの、遣わされるもの、それを待ち受けるもの、皆、主に在っての喜びに溢れる。不安や恐れとは関係のない世界に生きることになる。感謝します。

No.3621 2007/12/17(Mon) 13:39:26
民数記11章残り / 沙耶香 引用

今日は民数記11章残りを読みます。

18節に
あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、「ああ肉が食べたい。エジプトではよかった。」と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。
とあるので、民が欲しがっていたものを下さり祝福を与えたのだと思っていたら、20節に
1ヶ月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出てきて、吐き気を催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、「なぜ、こうして私たちはエジプトから出てきたのだろう。」といったからだ。」
とあり、祝福ではなく、神の戒めだと感じられます。

25節に
すると主は雲の中にあって降りてこられ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。
とあるが、恍惚状態は脚注に、霊の分与の目に見えるしるしとあるが、この説明こそ意味不明である。

33節に
肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。
とあるが、うずらを食べて疫病になったということだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の15章23-27節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、23節の
わたしを憎んでいるものは、わたしの父をも憎んでいるのです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
父なる神様と子なる神様は三位一体だから、こういうことになりますよね。

No.3597 2007/12/12(Wed) 19:06:42

再民数記11章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記11章残りを読みます。

21,22節に
しかしモーセは申し上げた。「私と一緒にいる民は徒歩の男子だけで60万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、1月の間食べさせる、といわれます。
彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」
とありますが、ここまでする意味があるのだろうか?何が目的なのだろうか?

25節に
すると主は雲の中にあって降りてこられ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。
とあるが、彼の上にある霊を取ってとはどういう意味だろうか?

34節に
こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。
とあるがkキブロテ・ハタアワは聖書の地図か、地図の本で見たことあります・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の16章1-5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると、3節の
彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、イエス様を知らないと、いろんな悪事を行います。でもイエス様を受け入れても罪から逃れられないですね・・・人間の罪の心は大きすぎるのだ。

No.3602 2007/12/13(Thu) 09:37:00

Re: 民数記11章残り / 大垣 引用

18−20節が印象的です。民は肉を欲しいと思い、それを与えられたのだけれど、それは真の祝福ではありませんでした。真の祝福は、この世で肉を食べることではなく、ヨハネ6章のいのちのパンをいただくことです。この世での長生きを欲する人は多いですが、この世のいのちを手放す人だけが、永遠のいのちを得ます(ヨハネ12:25)。この世での長生きを欲してそれを与えられても、永遠のいのちという真の祝福をいただくこととは違うことです。

21,22節は、実際に起こったことではなく、モーセが主に質問をしています。主が肉を一ヶ月も与えると言われたので、モーセはどのようにして主が与えられるのか、不思議に思って質問しています。実際には主は牛の群れをほふったり、魚を集めたりされず、31節にあるように、うずらを運んでこられて肉を与えられました。

25節で、モーセの上にあった霊は聖霊だと思います。モーセの上にある霊を取るとは、どういうことか、僕には分かりませんが、モーセの上にとどまっておられた聖霊が、70人の長老にも下ったという意味だと思います。使徒2章1−13節で、ペンテコステのときに聖霊が信仰者の上に下られたとき、彼らは13節にあるように酔っているような恍惚状態になって、11節のように、神の大きなみわざを語る預言をしました。ここでも同じように、イスラエルの70人の長老に聖霊が下られたと思います。聖霊が下られても、目には見えないことが普通ですが、恍惚状態になって預言をするなら、何か普通でないことが起こったことが、まわりの人々にわかります。その意味で、聖霊が下ったことの目に見えるしるしです。

No.3607 2007/12/14(Fri) 00:08:14

Re: 民数記11章残り / 沙耶香 引用

>>聖霊が下られても、目には見えないことが普通ですが、恍惚状態になって預言をするなら、何か普通でないことが起こったことが、まわりの人々にわかります。その意味で、聖霊が下ったことの目に見えるしるしです。

ふーん・・・分かるような分からないような・・・恍惚状態・・・常軌を逸した状態なのかな?

No.3611 2007/12/14(Fri) 11:51:12
民数記10章 / 沙耶香 引用

今日は民数記10章を読みます。

2節に
「銀のラッパを2本作らせよ。それをうちものづくりとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。
とあるが、何でラッパなのだろうか?たて笛とか、お琴とかバイオリンとかいろいろあるだろうに・・・・主はラッパが好きなのだろうか?

12節に
それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。
とあるが、パランは写真の本の後ろかどこかの地図で見たことあります。

33節に
こうして、彼らは主の山を出て、3日の道のりを進んだ。主の契約の箱は3日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を探した。
とあるが、主の契約の箱が休息の場所を探した??うーん??何だかおかしくないかな?脚注を見てみたが、腑に落ちない。うーん??

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の15章3-7節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、7節の
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほ

No.3587 2007/12/10(Mon) 21:16:05

再民数記10章 / 沙耶香 引用

あれ?前のスレッド途中で途切れていますね・・・続きは、
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
が気になるので、これをもう何度か読みます。イエス様の御言葉にとどまらないと、欲しいものが手に入らないのですね・・・
でも御言葉にとどまっていないのに、欲しいものをたくさん手に入れているクリスチャンたくさん見ますけれど・・・・
です。もー私は本当に駄目でとろくさくて、人より劣るクリスチャンなのです。お許しください。

今日はもう一度民数記10章を読みます。

神様イエス様、私が自分で聖書を読むのではなく、イエス様が私の体を用いて私に読んでくださいますように。そして、私がイエス様の前に静かにして、聞くことができるようになっていきますように。 イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

10節に
また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」
とありますが例祭とは何だろうと思って、脚注を見ると、過越の祭り、7週の祭り、仮庵の祭り等とかいてありました。新月の日というのは新年のことかと思っていたらこれも脚注に、月の第一日と書いてあります。チェーン式、素晴らしいですね・・・

31節に
そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存知であり、私たちにとって目なのですから。
とありますが、私たちにとって目とはどういうことだろうか?と思って、脚注を見ると、ホバブの道案内のことだと判明した。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の15章8-12節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、12節の
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うーん、これを守っていたら、うちの教会で私があまりみなに相手にされない、完全無視をする人がいるというのはおかしな話だなーー。

No.3590 2007/12/11(Tue) 08:11:11

Re: 民数記10章 / 大垣 引用

2節、主はすべてのものを目的をもって造られたので、楽器もそれぞれ目的と役割があって造られたと思います。3-10節のような目的のためにはラッパが良いということだと思います。主は他の楽器はお好きではない、という意味ではないと思います。

33節は、主の契約の箱のところにおられる主と契約の箱を同じように考えて、箱が先頭に立って進み、彼らの休息の場所を探した、という表現をしていると思います。

ヨハネ15:3-7ですが、僕たちが本当に主にとどまるとき、ほしいと思うものは、この世的なものではないだろと思います。民数記11章18-20節のところで書いたことを関連が深いので、読んで考えてみてください。

No.3609 2007/12/14(Fri) 00:14:43

Re: 民数記10章 / 沙耶香 引用

久々に管理人さんが説明+感想をつけてくださっているので、とても嬉しくまた張り合いになり励まされます。

うん、みなに知らせないといけないので、あまり甘い音色では駄目だ~、ラッパが一番よいとされたのかもしれないですね・・・私なんかには主のとてつもなく大きなお考えは分かりかねます。

>>33節は、主の契約の箱のところにおられる主と契約の箱を同じように考えて、箱が先頭に立って進み、彼らの休息の場所を探した、という表現をしていると思います。

じゃ、主の契約の箱は主ということかな?主が休息の場所を探してくださったんだ。素晴らしいですね・・・

民数記のところで書いたもの・・・
>>18−20節が印象的です。民は肉を欲しいと思い、それを与えられたのだけれど、それは真の祝福ではありませんでした。真の祝福は、この世で肉を食べることではなく、ヨハネ6章のいのちのパンをいただくことです。この世での長生きを欲する人は多いですが、この世のいのちを手放す人だけが、永遠のいのちを得ます(ヨハネ12:25)。この世での長生きを欲してそれを与えられても、永遠のいのちという真の祝福をいただくこととは違うことです。

でも、その伝道師は自分達は主にとどまっているから、欲しいと思うものが手に入って、必要は満たされ、健康も守られていると言って、この世的な祝福を強調していたし、管理人さんは主の祝福とはこの世的なものじゃないとおっしゃっておられますが、伝道師も牧師もまた他の教会の牧師も主にとどまっていると、この世的な祝福が得られると言います。でも本当のところは、何が祝福かはイエス様のみぞ知る・・・

No.3610 2007/12/14(Fri) 11:09:57
民数記11章15節まで / 沙耶香 引用

今日は民数記11章15節までを読みます。

1節の
さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端を嘗め尽くした。
が印象に残りました。主らしいですね・・・

4,5節に
また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、その上、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。
とありますが、人間とは本当に貪欲な生き物で、マナばかり食べていると飽きてきたのでしょうね・・・それに同じ物ばかり食べていると栄養的なめんから言ってもよくないそうですよ。いろんなものを食べるほうが栄養的な面からもいいそうですね・・・

7,8,9節に
マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。
人々は歩き回って、それを集め、碾き臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。
夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。
とあるが、8節のそれを集めのそれとは何だろうか?マナだとしたら、この文節の中でおかしくなる。一体何を集めてクリームのパン菓子を作ったのだろうか?コエンドロの種のようなものとはマナのことでしょ?うーん??一体何のことだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の15章13-17節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、17節の
あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
この御言葉を守っていたらうちの教会の人のようにはならないはずだが・・・でもなかなか人間は御言葉を守れないということがよく分かりますね・・・

No.3591 2007/12/11(Tue) 21:43:08

再民数記11章15節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記11章15節までを読みます。

11節の
モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。まぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。
が印象に残りました。モーセの悲鳴が聞こえてきそうです。

15節に
私にこんな仕打ちをなさるのなら、お願いです、どうか私をCENSOREDください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」とありますが、これはいつもの私の心情です。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の15章18-22節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると20節の
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言った言葉を覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
主人には勝らないことを知って、へりくだり、イエス様の御言葉を受け入れることが一番大事なことなのですよね。

No.3596 2007/12/12(Wed) 07:41:10

Re: 民数記11章15節まで / 大垣 引用

8節の「それ」とはマナのことです。7節ではマナはどういうものであるか説明しています。8節では、人々がマナを集めてパン菓子を作ったことを説明しています。

No.3608 2007/12/14(Fri) 00:09:14
全738件 [ ページ : << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ... 74 >> ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

- Skin: Modern v1.81 -

Rocket Board Type-X (Free) Rocket BBS