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ピリピ1章 / 大垣 引用

ピリピ1章。1−2節。監督と執事という役割がすでにピリピの教会にこのときにあったのが興味深い。パウロは伝道しただけでなく、教会が機能するように、監督と執事などの役割を信じた人たちに説明したと思われる。ピリピの教会は、聖書に出てくる教会の中で、最も問題のない教会であったらしい。その教会に対する祈りが働きのことなどではなく「恵みと平安」であることが興味深い。

3-5節.ここで、パウロはパウロの伝道を経済的に助けた人々に感謝するのではなく、彼らのことを神に感謝している。

6節.信仰による義認は、聖化へとつづく救いの過程の始めで、その良い働きを信仰者に始められた方は、主の再臨の日が来るまでにそれを完成してくださる。

7節.特定の人が地獄に行くと信じることはさばくことで御心にかなわないと信じます。しかし、ともに恵みにあずかった人々が必ず救われると信じることは正しいことであると思います。

9-11節。愛が真の知識と識別力で豊かになると、真にすぐれたものを見分けることができるようになる。キリスト者が、主の日に純真で義の実に満たされている者になっていれば、神の御栄えと誉れが現されます。

どうか僕たちの愛を豊かにして、真にすぐれたものを見分けることができるようにしてくださいませ。また、主の日までに、僕たちを純真で義の実に満たされた者としてくださいませ。

12節。パウロが投獄された、という普通には悪いことを、全知全能の神は善用されて、福音を前進させるのに用いられた。

17節。福音を伝えるクリスチャンたちにも、動機が不純で、投獄されたパウロをさらに苦しめようとしていた人たちがいた。

18-19節。パウロは、自分を苦しめようとして、不純な動機で伝道している人たちのことさえ、キリストが宣べ伝えられているということで、喜んでいた。

21−24節。パウロにとって死ぬことは、世を去ってキリストとともにいることなので、そのことが生き続けることよりもパウロには好ましかった。

25節。パウロがこの手紙をローマから書いていて、ここでのパウロの確信が神からのものであるなら、パウロはローマでいったん釈放されてピリピの教会に行き、その後でまた捕えられて死刑にされたらしい。

27-30節。ピリピの教会のキリスト者たちも反対者によって苦しめられていたらしい。パウロは反対者に対して何かをするように、と書かず、「ただキリストの福音にふさわしい生活をしなさい。」と助言した。そうすれば、どんなことがあっても、反対者に驚かされることはない。

No.3604 2007/12/13(Thu) 21:46:38

Re: ピリピ1章 / 亜衣瑠 引用

ピリピ 
緒論ではあて先についての記述が今回最も興味深かった。アレクサンドロス大王の父マケドニヤの王フィリップによって建設された町ということ。そのままの命名なんだと確認するが、そのような町誕生の由来、関わった人物名ブルータスやアントニウス、オクタヴィアヌスが登場し、繰り返し同じ場所が「掘られる」のだ、いう感触を持つ。
今を生きるそれぞれの人にもそのような場所や土地があるのではないだろうか、と思う。主題に掲げられた「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」はクリスチャンの「喜び」の質、喜びの意味をわたしたちに考えさせる。わたしたちの喜びはどこにあるのか、わたしたちはどういうとき喜ぶのか。・・・・「いつも主にあって」なのです。しかし、今ハンドブックを読むと、「この手紙の主題は決め難い」とあった。わたしとしては 書いてあることを読み、きょうわたしに届けられた手紙としてまず読みたい。
そこで このことに焦点が絞られているとか、このことを強調してかいてあるようだ、と受け留められれば、それが主題として読める。長きに渡り、研究を重ねてきた結果については尊重して聞き、わからないことはそのまま、そして、きょうの自分の読みを続けていきます。きょうのイエスが語りかけてくださる。
1章 4節 早くも「喜び」のことばが見える。
6節 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」 これは次の2章の13節をありありと浮かばせる。「あなたがたのうちにはたらいて」くださるのは いつも神であるキリストなのである。その方がことを始めてくださる。だから完成させてくださる。「わたしはすぐに来る」とイエスはおっしゃられるので、「ちょっと待ってください!」と言いたくなるのだが、その日までにわたしたちの「良き働き」が完成するように事を行なわせてくださるから平安でいられる。♪よきはたらきを なさしめたまえ(賛美歌461ですね)
8節 「あかしをしてくださる」のが「神です」というところに惹かれる。
9−11節の祈りは パウロにこのわたしも祈っていただきたいと願います。幸いにもきょうこのようにして、聖書を手にして読むことができます。神に触れることができます。感謝します。
18節 初めてこの節を読んだ時、大変驚いた。15−17節のような動機であろうと、見せかけであっても、キリストが宣べ伝えられているのであれば、パウロは喜ぶのだ!!何という人なのだろう、パウロという人は。何という伝道者なのだろう!それで、21節のようなことばが出てくるパウロなのだろう。すでに生死は越えたところにある。
23−24節のような考えになることがよくわかる。それにしても25節のように「自分の伝道のため」ではなく、「あなたがたの信仰の進歩と喜びのために」生きながらえることの重要さ、必然さを知っていると書くパウロの兄弟姉妹たちへの愛が滲み出ている。もうとっくにパウロの命はパウロのものではなくなっている。
28節「これは神から出たことです。」 ロマ11:36を思い起こします。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」
For from him and through him and to him are all things.
29節「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」 これは大変印象深い句である。日付とともにマークされている。他に2:6−8、3:10−12とともに、06.1.18 明らかなのは苦しみもまたギフトであるということ。ちっとも嬉しいとは思えないが、これもまた与えていただいたものである、また、喜びとともに「苦しい」と感じられることも神に与えていただいたわたしたちの特徴なのである。?Tペテロをまた読み返す。2章19節より21節
「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」 このあとに「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」と続くところに わたしたちクリスチャンは感謝するものです。ハンドブックに「パウロは神が報いてくださる日を見つめていた」とある。目の前に見えるものにでなく、目を留めるべきは神のみこころの在りかであることを きょうも確認して感謝いたします。

No.3605 2007/12/13(Thu) 21:48:38
民数記7章59節まで / 沙耶香 引用

今日は民数記7章59節までを読みます。

43節に
そのささげ物は、銀の皿1つ、その重さは130シェケル。銀の鉢1つ、これは70シェケルで、聖所のシェケルによる。この2つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。
とあるが、このように12部族の何族がどういうささげ物をしたかとか書き綴っていても、あまり意味がないように思えるが・・・だってこんなことばかり並べたくっても、何も印象に残るような御言葉はないし、心に響かないんだけれどなーーー。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の13章32-36節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・
何度か読んでいると、34節の
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うちの教会の人もこの御言葉守れない人が多いが・・・一番守れなかった伝道師の主人はもう教会を移ったが、その伝道師夫妻はこの世的にはかなり祝福されているが、でもきっとイエス様が罰を何らかの形で与えると信じます。

No.3562 2007/12/06(Thu) 21:20:36

再民数記7章59節まで / 沙耶香 引用

>>誰かの行いや状態を見て、それに対して「いつかイエスが罰を与えるはずだ」と考えるのであれば、それと同じ考えが自分自身に向けられたとき、沙耶香さんはその裁きに耐えることがおできになりますか?

伝道師の主人は私をずっと無視し続けました。私の外見や容姿やら、この世的なものは何も祝福されていない状態なので、近寄るのがいやだったのでしょう。こちらから挨拶しても無視していました。それが同じ教会員である私にどれだけの苦痛を強いていたかしれません。そういうことをしたらきっと罰が与えられると信じます。私はそういうことはしないので、それに罰が与えられるようなことをしたらそういうときは、きっと裁きに耐えられるように神様がしてくださるでしょう。
まことさん、私はまだまだの信仰者なので、誤解を与えることが多いと思いますが、赦してください。まことさんも大いに祝福されると信じて期待して感謝します。

今日は嫌な夢見ていました。病院でお医者さんや男性看護師さんにいやな目に合わされました。夢でよかったです。

今日はもう一度民数記7章59節までを読みます。

47節に
和解のいけにえとして雄牛2頭、雄羊5頭、雄やぎ5頭、一歳の雄の子羊5頭。これがデウエルの子エルヤサフのささげ物であった。
とありますが、こうやって聖書の聖句で言わなくても、下の脚注のようにまとめたら少しで済むのに・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の13章37、38、14章1-3節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、2,3節の
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをもおらせるためです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様が備えてくれる天の場所って最高でしょうね・・・

No.3566 2007/12/07(Fri) 09:48:21

Re: 民数記7章59節まで / まこと 引用

沙耶香さんへ。返信ありがとう。

>きっと裁きに耐えられるように神様がしてくださるでしょう。

沙耶香さんが、他の人を恨んだり、その人たちに神の罰が下るようにと望んだりするメンタリティから、解放されますことを、願っています。そこに心の平安はありませんから・・。

ただね、沙耶香さん。もし神様が、私たちの悪い行いの一つ一つに容赦ない「罰」を下されたなら、私たち誰一人として、その裁きに耐えられる人はいないのですよ。そして、生まれながらの人間としては、裁かれない人は一人もいないのです。

その自分も耐えられない、また逃れられない裁きを、人間である貴女が、他の人に下して良いのでしょうか。

私たちは多くの間違いをします。勘違いをしたり、誤解したり、傲慢になって他の人を見下したり、未熟さゆえに他の人の意見を間違いだと裁いたりします。でもその「裁き」と、私がここで言っている「裁き」は別次元での話です。

誰かに対して、神の罰を望む。その罰が当然であるかのごとく考える。それは自分自身が神になることです。・・・そういう考えは、キリストの教えの中にありません。

No.3567 2007/12/07(Fri) 10:41:53

Re: 民数記7章59節まで / 大垣 引用

沙耶香さん、聖書には、僕たちの心に響くことが多く書いてあります。それと同時に、僕たちには書いてある意味が分かりにくいことも多く書いてあります。意味がないように思えるときは、まず「なぜこういうことが聖書に書かれているのでしょうか。今、書いてる意味を知るべきなら、教えてください。」と、いうような祈りで神さまに聞いてみると良いと思います。聖書が書かれた理由は僕たちの心に響くように、という意味だけでなく、いろいろな意味があるのだろうと思います。12-88節で、各部族の長がそれぞれ同じささげ物をしたことを、繰り返し書いてあることの意味は僕にも分かりません。ただ、僕は音楽での同じメロディーの繰り返しと同じような意味もあるのかもしれない、と思いました。

No.3571 2007/12/07(Fri) 23:39:25

Re: 民数記7章59節まで / 大垣 引用

まことさん、ひとつ質問と2,3コメントがあります。

黙示6章9−10節での天の聖徒の復讐を願う叫び、ガラテヤ5章12節でのパウロの「いっそのこと不具になってしまうほうがよい」という願いと、まことさんの「神の罰が下るようにと望んだりするところには、心の平安がない。」という聖書の解釈とは、どのような関係にあるのでしょうか?僕は、神が正しいさばきによって復讐することを願う心と、自分が復讐しようとする心には、大きな違いがあると考えて、これらの聖句を読んでいます。

ローマ14章1-10節では、主にある兄弟姉妹をさばいたり、侮ったりする人たちに対し、パウロは「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになる」ことを教えています。ここも、「主の正しいさばき」を信頼する心が、正しい行いに通ずることを教えていると、僕は読んでいます。

No.3572 2007/12/07(Fri) 23:40:44

Re: 民数記7章59節まで / まこと 引用

大垣さん。

私は沙耶香さんに、ねたみや憎しみを心の内で成長させて、さらにねたみと憎しみの淵へと沈んでゆくという、そういう心の悪循環から早く解放されて欲しいと願っています。

大垣さんのように、相手に復讐を願うことは正しい行動に結びつく、見たいな事を書かれては、私の投稿は台無しです。


>まことさんの「神の罰が下るようにと望んだりするところには、心の平安がない。」という聖書の解釈とは、

聖書「解釈」は、もうやめませんか? 私が書いたことは、聖書「解釈」ではありません。他を憎んだり、ねたんだり、責めたり、神の罰を願ったりする心のあり方の行き着くところは、さらに深い憎しみとねたみという闇の淵であるということ。そして、むしろそうではなく、それがたとえ自分自身が痛んだとしても他を赦し、愛し、受け入れてゆくことで「人知を超えた心の平安が訪れる」ということを、経験上確認した上でのコメントです。私がアタマで納得した「解釈」ではありません。


>黙示6章9−10節での天の聖徒の復讐を願う叫び、

これについては考えていませんでした。


>ガラテヤ5章12節でのパウロの「いっそのこと不具になってしまうほうがよい」という願いと、

これは、パウロの、律法主義者達、すなわち「割礼が無いと救われない」と言っていた人たちへの、皮肉をこめた痛烈な批判です。割礼、すなわち「生殖器の包皮が切り取られていないと救われないと言うなら、いっそのこと、生殖器全部を切ってしまえ!ばかばかしい!」という皮肉ですね。パウロが、神に対して、「彼らを不具にしてください」と願っているのではないと思います。

>どのような関係にあるのでしょうか?

大垣さんがコメントされた聖書箇所は、私が沙耶香さんに宛てて差し上げたコメントとは、あまり関係ないと思います。少なくとも、それらが関係あることとして私の心の内で関連付けられていません。したがってその関連性についてはコメントできませんし、しても仕方がありません。


>僕は、神が正しいさばきによって復讐することを願う心と、自分が復讐しようとする心には、大きな違いがあると考えて、これらの聖句を読んでいます。

自分の経験した状況と、自分がそれに対して感じた感情とを基準に、他者に対して苦しみという罰が下ることを望んでいる、と言う点では、どちらも同じです。 私はその「基準」がおかしい、と言っているのです。

キリストは、赦しと愛を教えます。それがキリストが私たちに教える基準です。 対して、誰かに神の罰が下ることを望むということは、復讐と相手が苦しむことを望んでいるという、赦しと愛と完全に逆行する基準を出発点とする考えです。 キリストは、そのような考えを奨励するような教えは与えておられない、ということです。

>ここも、「主の正しいさばき」を信頼する心が、正しい行いに通ずることを教えていると、僕は読んでいます。

相手を赦すことをせず、いつまでもねたみにと憎しみに心が支配されていることが、正しい行いに通じるとは私は思いません。「主の正しいさばき」に信頼する心は、そういう、人間中心のねたみや憎しみから、人を解放するべきものだと思っています。

最後に、大垣さんにお願いがあるのですが、個々の聖書箇所を単独に引用して、それを自分の立証したい命題に合わせて解釈を施すということは、お控えになられた方が良いと思います。

No.3573 2007/12/08(Sat) 00:42:20

Re: 民数記7章59節まで / 大垣 引用

まことさん、レスをありがとうございます。

頭で考えただけでなく、体験として実感された聖句の理解というのは素晴らしいことだと思います。僕は言葉の使い方として、そういう素晴らしい理解も含めて「解釈」と呼んでいますが、別の言い方をいしたほうが良いのかもしれません。

このことに関係するのですが、まことさんの使われた「経験上確認」ということは、このことについては、完全に神の真理と確認できた、という意味ですか?

僕の場合は、体験も含めて実感として理解できたと思う聖句にも、さらに深い意味があることを知ることが何度かあり、神の人知を超えた真理ということを感じます。そうすると、僕にできることは「今、聖書をこう読んでいる」という証しをすることだけだと思うようになりました。

僕はまことさんの読まれているように多くのクリスチャンが、罪の赦しについて読んでいることは知っていますが、別の読み方をしているクリスチャンたちも知っています。このことについて、僕が、黙示6:10の一箇所だけで、まことさんと違うように読み始めた、ということではありません。たとえば、

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすこととをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(1ペテロ 2:23)

では、イエスがご自分をののしり、苦しめる人たちを赦すことの理由は、父なる神の正しいさばきに対する信頼があるということだと思って読んでいます。イエスは人々のご自分に対する、また父なる神に対する罪を見過ごして赦されたのではない。イエスは罪は正しくさばかれるということを深く知っておられるからこそ、人々のご自分に対する罪を赦された。そう僕は読みます。まことさんは、この聖句をどう理解されますか?

また、ダビデはキリスト者ではありませんが、神と個人的に深い交わりをした素晴らしい信仰者だと思います。ダビデの詩篇を読むと、彼がサウル王の自分に対する罪に深い怒りを持っていたことが僕には感じられます。そういう思いを持って、1サムエル26:6−20を読むとき、ダビデがサウルの自分に対する罪を赦したのは、19節にあるように、人の罪は主がさばかれることを信じていたからだということが感じられます。

詩篇に多くあるのろい(例えば137:9)についても、自分が人の罪に復讐しようとすることと、神が人の罪をさばかれることを願うのは、全く違うことである、と考えて、僕は読んでいます。

どうか、主のあわれみによって、人知を超えた主のさばきと恵みと赦しの真理を、僕とまことさん沙耶香さんがより深く知って、謙虚に主に聞き従えるようになりますように。

No.3577 2007/12/08(Sat) 21:03:07

Re: 民数記7章59節まで / まこと 引用

大垣さん。

私は、聖書のこの箇所が、別のこの箇所にこう関連して、こう理解されて、結果、こう解釈される、という、まるでパズルを解くかのごとく聖書を読み解くというような作業には関心ありません。

聖書の一節を「どう理解しますか?」というご質問ですが、そういう質問に答え始めると、やはり、また結論の出ない、すれ違うばかりの、延々とした解釈の繰り返しという暗闇へと足を踏み入れてゆくことになります。「私はこう解釈します」と言えば、大垣さんは、「いえいえ、私はこうだと思いますよ」と仰るでしょう。次々に色々な聖書箇所を引用されてね・・・。そうやってだんだんと深みにはまって行くのです。私はそれはしたくありません。

>完全に神の真理と確認できた、という意味ですか?

有限の人間が、無限の神の真理を「完全に」確認することなど、最初から出来はしません。どうしてそのようなことを私に問うのです? 神の御心は深くて、人間には知ることが出来ません、というのは、大垣自身がいつも仰ることではありませんか。 

ある賛美歌の一節は「十字架の上にかけられつつ、人を赦しし、この人を見よ。この人を見よ。この人こそ、生ける神なれ。」と歌っています。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※ここ、一番重要です。出来れば注意してお読み下さい。※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
十字架の上で殺されながらも「神よ、この人たちをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわかっていないのです。」と仰ったキリストのお心。その十字架の上のイエスを目の前にして、私たち自身が、「神よ彼らに罰をお与えください。彼らは私をののしったからです。」と言えますか? 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

聖書解釈云々ではなく、私はこのような「私のたましいの呼応」を問題としています。イエスの十字架が自分自身のうちに立つとき、それに対して自分の心が呼応するとき、他に対して神の復讐を願うというような心は、居場所を失います。それが私が体験したことです。

「憎め!ねため!復讐せよ!」と自分の感情と心が燃え上がるとき、「人を愛し、赦せ。」という御言葉も同時に静かにささやくのです。そして両者は、私の心の内で対決し、戦います。そして、神の御言葉が「勝利する」のです。 私が書いたのは、その戦いを心の内で目の当たりにし、神の御言葉が私の醜い心に打ち勝つその勝利の瞬間を、私は体験した。そこに平安があった。という意味でしかありません。

No.3581 2007/12/08(Sat) 23:51:03

Re: 民数記7章59節まで / 大垣 引用

>十字架の上で殺されながらも「神よ、この人たちをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわかっていないのです。」と仰ったキリストのお心。その十字架の上のイエスを目の前にして、私たち自身が、「神よ彼らに罰をお与えください。彼らは私をののしったからです。」と言えますか? 

僕はキリストを受け入れてからも、人をなかなか赦せなくて苦しんだことが何回かありました。そのときに僕が赦すために通った道筋というのはいろいろな場合がありました。それらを大きく2つに分けて、主との対話のように次のように表わすことができると思います。

「主よ、なぜ僕がののしられなければならないのですか。これではまるでドア・マットのようです。なぜ僕がドア・マットにならないといけないのですか。」「私があなたに与えた赦しと祝福を考えなさい。」「はい。どうか、彼を赦す心にしてくださいませ。」

「主よ。僕の罪を赦していただいたので、彼が僕をののしった僕に対する罪を僕は赦したいと思います。でも、彼が僕をののしったとき、主に対しても犯したと思います。その罪が罰されないことは正しいことだとは思いません。彼が悔い改めないときも、罪を罰されないのですか。いや、あなたは罪を正しくさばかれます。彼が悔い改めないならば、あなたが正しいさばきを下されると信頼します。そして、あなたは、彼が悔い改めることを望まれておられます。だから、僕も祈ります。どうか彼が悔い改めて、主に罪を赦されますように。」

後者のように、主の正しいさばきに対する信頼が、僕が赦すことのできるようになる基礎となったことがありました。僕の場合はそれほどのことでもなかったのですが、非常に深い心の傷を負わされたキリスト者が、なかなか相手を赦すことができない場合、まず、主のさばきに対する信頼を取り戻すことがひとつのステップとして有用であった、というクリスチャン・カウンセリングをしている方の証しを聞いたことがあります。この方のお話と僕の経験では、このステップでは、「主が罪を罰されること」と「自分が罪に対して復讐する」ことを区別することが重要であると思います。僕は沙耶香さんが、そのような区別をしっかりしておられると思いました。それは、沙耶香さんのキリスト者としての最終の姿ではないかもしれないけれど、少なくとも道筋としては、1ペテロ 2:23で、正しくさばかれる方にゆだねられた主イエスと、通じていくものを僕は感じました。

>どうしてそのようなことを私に問うのです?

具体的には、特にまことさんの書かれた2つのことに違和感を覚えて、まことさんがそのように書かれた原因は、ご自分の実感をともなった聖書の読みに対する過度の信頼にあるのではないか、と思ったからです。

>「神の罰が下るようにと望んだりするところには、心の平安がない。」

というところ、僕は沙耶香さんの心の状態と、主との関係に対する一方的な断定であると感じました。例えば「私が人に神の罰が下るようにと望んだときには心の平安がありませんでした。」というように書かれたなら、大いに印象が違ったと思います。

>「誰かに対して、神の罰を望む。その罰が当然であるかのごとく考える。それは自分自身が神になることです。・・・そういう考えは、キリストの教えの中にありません。」

というところ。これも、罪に対して怒り、正しくさばかれる神に対する信頼を表明された沙耶香さんに対して、一方的な断罪であるように、僕には感じられました。ご自分の体験から証しとなるような別の表現が可能だったと思います。

どうか、僕とまことさんと沙耶香さんが、考えや道筋が違っても、それぞれ主に聞き従って、主にある交わりを与えられ、主に近づけられていきますように。

No.3594 2007/12/11(Tue) 23:55:26

ご本人の口から。 / まこと 引用

沙耶香さん(CC:大垣さん)へ。

大垣さんから、以下のご意見がありました(詳しくは上の記事を参照してください)。

>僕は沙耶香さんの心の状態と、主との関係に対する一方的
>な断定であると感じました。

私の側で、沙耶香さんの「心状態」についての断定があったことは認めます。しかし、沙耶香さんと主との関係については、私は何も断定していません。その点は、ご理解ください。


加えて、大垣さんより、以下の意見がありました。

>「主が罪を罰されること」と「自分が罪に対して復讐する」ことを区別することが重要であると思います。僕は沙耶香さんが、そのような区別をしっかりしておられると思いました。

私自身の考えについて言えば、沙耶香さんは、そのような区別をされておられるようには見えません(読めません)でした。私が沙耶香さんの書かれた文面から感じたのは「うらみ」でした。

その私の読み方について、私の側で誤解があったかどうかについて、および、沙耶香さんが実際に上のような区別(自らの復讐心と、神の正しい裁きの区別)をしておられるかどうかについては、大垣さんの予測ではなく、沙耶香さんご本人の口を通しての説明を、私は望みます(今後本件について会話を継続するならばの話ですが)。

一方、突然申し訳ありませんが、思うところがあり、今後この掲示板から無期撤退しようと、私は考えています。

沙耶香さんからのご説明については、そうされたいと沙耶香さんが望まれる場合ですが、大垣さんに私のEmailを教えて頂き、沙耶香さんと直接対話することを、私は望みます。

もちろん、ご説明をいただけなくとも、構いません。その場合、もし私の側で誤解があったのであれば、その誤解については、前もってお詫びしたいと思います。沙耶香さん、ごめんなさい。

<(_ _)>


PS

大垣さんへ。

私は、「自分の経験上」と書くとき、それは、聖書を通して自分が学んだことについて語る際、その事柄が、「自分の体験以上の権威を付け加えられたものでは無く、しかしながら、自分の体験以下の確証をもって語られたことでもない」という意味です。

私の想像力と配慮の欠けによって、誰かの心の状態について誤解してしまうことはありますが、私が体験したからと言って、私の聖書理解が絶対だ、完全だ、などと言うつもりは少しもありません。

以上です。

No.3595 2007/12/12(Wed) 03:53:42

Re: 民数記7章59節まで / 大垣 引用

まことさん、了解しました。メールします。

No.3601 2007/12/13(Thu) 09:29:29
エペソ6章 / 大垣 引用

エペソ6章。1-3節。子どもはこの世での意味で自分を造ってくれた父と母を敬うべきで、この戒めに聞き従うものには、この世で長く生きる報いがある。同じように、自分を造ってくださった神を敬うべきで、神を敬うものには、霊的に永遠に生きる報いがある。

4節.父も子供たちに主の教育と訓戒を与えられて、感謝します。

5-7節.奴隷は主に仕えるように、地上の主に仕えるべきである。

8節.善い行ないは、さばきの日に報われる。

11-17節。僕たちは常に悪魔の策略に対して立ち向かう必要がある。また、自分たちの格闘は、キリスト以前ではこの世の敵に対するものだった。キリスト以後の格闘は悪霊など、霊的な敵に対するものである。特に悪魔の武器は嘘なので、キリスト者はキリストの真理に立つことがとても重要である。

18節。「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」がとても印象的。

No.3598 2007/12/13(Thu) 00:14:53

Re: エペソ6章 / 亜衣瑠 引用

エペソ6章
この章に数々の武具が揃っていることを知っています。頼もしい保証です。
1−3節 十戒 出エジプトを復習。若い日、『汝の隣人の妻』という本が話題になっていたので読んだ。もちろん信仰のない日々。そこでの勧めは到底神の喜ばれることではなかった。しかし、錯覚の現代においては、神の秩序に逆らい、逆らうことを喜びとする動きに満ち満ちている。クリスチャンの意味、期待がある。
4節「主の教育と訓戒」申命記6:7−9を読む。ここは大変印象深く素敵なところだなーと思って読んだところである。
「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教えこみなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」ここでの「額に置く」にエペソ4章30節「証印を押されている」の連想をします。
Talk about them when you sit at home and when you walk along the road, when you lie down and when you get up.
家に座っているときも―はい。道を歩くときも―はい。寝るときも―はい、寝るときも。起きるときも―はい。 しるしとして目に見えるようにしたら、楽なのかもしれない。そばに聖書はあります。
5節 「真心から」わたしたちは真心からキリストを愛し、真心からキリストに従う者です。5−9節 今この国で奴隷とその主人の身分というのは現実にはない。あるのは わたしたちは主のしもべ、主の奴隷である、ということだけだ。ご機嫌取りの仕え方を主が見破らないわけがない。人に仕えるとき、夫でも、教会の兄弟姉妹でも、まだ見知らぬ未来の兄弟姉妹でも、それは主に仕えるように、そして、その仕え方を示しているお手本を見習いたい。究極の手本イエスさまがいらっしゃるが、身近にも手本の姿を示しておられる方々がいる。目で見てわかるお手本をいただいていることは幸いです。感謝します。9節「主は人を差別されることがない」マタイ20:14−15のイエスさまのことばがわたしには強力な戒めのお言葉です。
10−18節 パウロがこのように記してくださったことをほんとうに感謝して読みます。
それはわたしたちが「大能の力によって強められ」るから。「悪魔の策略に対して、立ち向かうことができる」から。「邪悪な日に際して抵抗でき」「いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように」なり、「悪い者が放つ火矢をみな消すことができ」るから。
そのために、わたしたちには与えられている。主がご用意してくださった。相当の覚悟が要るのだが、しかし、十分に対抗できる、否、勝利できる武具たちがある。
真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣すなわち神のことば。
18節「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」「そのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」師であるイエスが凄絶な祈りをしていても、しかも「目をさましていなさい」とお命じになっていても、何度でも眠りこけていた弟子たちです。肉的にも霊的にも「目を覚ましている」ことは難しい。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)
どうか、このどうしようもなく弱いわたくしが目を覚ましていられるように、目を覚ましていることがどんなに決定的なことか、十分知って、ほんとうに目を覚ましていられますように力づけてください。霊的に盲目に陥ることのありませんように、御霊によりお知らせください。
19節 クリスチャンの喜びは祈り合えること。どこにいても、どんな状況でも、誰とでも、いつでも、瞬時に。
20節 いまや、主イエスに囚えられたパウロは 牢獄の鎖につながれていようと、こうして、牢の鎖からみことばが放たれ、時を超えてこうしてわたしたちに届けられました。神のご計画と力、救いの願いがそのようにされます。
21,22節 「テキコ」その時々に最も適したはたらき人が神によってご用意されている。
23,24節 アーメン。この祈りを祈ります。この祈りを祈ってください。キリストの愛は朽ちぬ愛。
Grace to all who love our Lord Jesus Christ with an undying love. an undying love

No.3599 2007/12/13(Thu) 00:18:39
エペソ5章 / 大垣 引用

エペソ5章。1節。どうか僕たちを、聖霊を悲しませず、神にならう者と変えていってくださいませ。

2節、キリストは僕たち罪人を愛してご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。どうか、僕たちも自分たちを日々神にささげることができますように。

3-4節.どうか僕たちが、不品行もむさぼりも、口にすることさえしなくなりますように。

7節.1コリント5:9−13にあったように、教会内の不品行な者たちと仲間となって交際しないようにし、外部の人たちはさばかないこと。

8節.どうか僕たちがいつも光の子どもらしく歩むことができますように。

10節。自分の目から見て良いと思うことをするのではなく、主が今日するように言われていることを見分けて、それをすると主に喜んでいただける。

16節。神が与えてくださる良い仕事をする機会を十分に生かして用いることが大切。

17節。どうか、僕たちの目を見えるように、耳を聞こえるように、心が開くようにして、主のみこころは何であるかを悟るようにしてくださいませ。

18節。どうか僕たちがいつも御霊に満たされますように。

19節。どうか僕たちが主に向かって心から歌い、賛美することができますように。

20節。どうか僕たちが、人が当たり前と思うようなときも神のわざを悟って賛美し、つらい試練のときも、すべてのこととともに試練も働かせて僕たちの益としてくださる神に感謝することができますように。

22-33節。結婚はキリストと教会の関係のようであることが理想である。教会がキリストに従うように、妻は夫に従うべきである。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、夫は、家族のリーダーとして、家族のしもべとなり、特に妻に自身をささげるべきである。キリスト者の少ない日本で、そのような理想のキリスト者どおしの夫婦はなかなか存在しえない。しかし、ここを読んで聞き従う気持ちのあるキリスト者の妻は夫は、相手がどういう状態であれ、まず自分が聞き従ってみると良いと思う。必ず主が祝福して、相手も変えてくださると信じます。

No.3592 2007/12/11(Tue) 22:35:18

Re: エペソ5章 / 亜衣瑠 引用

エペソ5章
4章の脚注によると、4:17から6:9までキリストの教会の一員としてのふさわしい生き方を述べる、とある。5章も全部その中に含まれている。ふさわしい生き方が示される。どうか教えてください。
1,2節 「神へのささげもの」神ご自身がなんと御父のご計画に従い、ご自分を供え物として自らいけにえとなられた。愛により。その愛に倣い、その愛に歩む。・・・できますか?
はい、きっとできるようにあなたが助けてくださいます。できるように望んでおりますので、きっとそのとおりにしていただけると信じています。それはほとんど、自分では不可能な愛でしょう。自分で紡ぎ出すものではないから。でも、あなたの愛をこのように受けた身ですので、きっとわが身から注ぎ出す日が来ると信じています。
3,4,5節 不品行に陥らない。口にするだけでもいけない。前章の29節もすぐ思い出す。
また、「口から出るもの」はマタイ15:18もありありと思い起こさせます。内面が表に出る。罪はあらわになる。「相続できない」はガラテヤ5:21での言い方がすぐ耳に聞こえてきます。「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」5節の前置き「あなたがたがよく見て知っているとおり」は 間に「自分の行いを」あるいは「これまでの自分の犯した罪を」が入っている。木や金物に彫った像を拝むのだけが偶像崇拝ではない。しかし、8節「暗やみ」は以前のことです。「今は、主にあって、光となりました。」と宣言してくださることに感謝します。
9節「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」 どうぞ、もみがらになりませんように。どうぞ、結実しますように。みことばを行き渡らせてください。結実できますようにお導きください。
10節 とても大切な教えであると感じます。「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」  しかし、この見分けの力と知恵に欠けるとき、どうぞ助けてほしいのです。その知恵を求めます。
17節も同様に読んで「よく悟る」ことができますように。
19節 賛美もあなたについての語りもすべてあなたに向かっていたします。祈りをもって。
20節 神さま これまで受けてきたことのすべて、きょういただいている恵みのすべて、これからいただく約束の保証のすべて 類い稀なあなたからのギフトをすべて感謝しています。「いつでも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」はい。いつでも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストのお名まえによって父なる神に感謝します。このことを忘れないようにします。
21節「互いに従いなさい」わたしたちがわたしたちの主キリストを恐れ尊ぶなら、互いを尊重し、互いに従うことができます。
22節から夫婦についてのあり方の貴重な教え。従えるでしょうか。「従いなさい。まずこの教えに従いなさい」「従う気持ち、心がありますか?」・・・「はい。あなたに従いとう存じますので、あなたが従いなさい、と言われる者に従うことができると思います。」
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」すぐ続けて理由があります。「なぜなら、キリストは教会のかしらであって・・・」  「主」と「夫」は違うものですが・・・と口答えしたくなります。積極的に「従いたい」とはなかなか思えないでいます。従えるようにしてください。従いとは異質の、悪い言葉がわたしから出ないようにしてください。  ただ、この逆を考えたらどうでしょう?と思う。もし、自分の夫への従いの程度が完全ではなく、また喜んで、自分から勧んでの従いではないとしたら、わたしの主への従いもその程度のものになってしまう、と。それはいやです。そういう従いは従いではありません。そういう教会ではキリストもまたお喜びにならないでしょう。
27節の目的のため。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」わたしの愛する書?Tペテロの句がこだまします。
「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わった虚しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(?Tペテロ1:18-19)
28節 夫婦が一体のものであることが示されている。32節に「この奥義」とあるが、28節から32節までを通してすべてが奥義であると感じます。自分は夫であるなら、その妻も自分の如く愛せる。自分を愛するなら自分と同質(キリストのからだの部分として)のものである妻を同等同質に愛する。妻は主に従うというなら、主と同等の対象として夫に従うことができる。夫も妻も、大きな意味では隣人であって、まずこの隣人を自分自身のように愛するという最も大事な命令が守れないようでは 他のことなど到底できないのだろう。従いは信頼から来る。信頼は神から来る。神を信頼するとき、神は、わたしたちの考えの及ばないさらにもっとすばらしいものをご用意して待っていてくださる。

No.3593 2007/12/11(Tue) 22:36:00
エペソ4章 / 大垣 引用

エペソ4章。1節、召されたことの祝福を思います。どうかその召しにふさわしく生きることができますように。

2-3節.それぞれ別の聖書の読みをし、それぞれ、自分たちこそ神の声を正しく聞いていると考えているキリスト者が御霊の一致を保つためには、謙遜と柔和の限りを尽くし、愛をもって互いに忍び合うしかない。それがどれほど人間には無理なことか、よく知って主により頼むことが重要だと思います。

4-6節.からだは一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、パブテスマは一つ、父なる神は一つである。どうか、僕たちが、お互いの違う考えを尊重して御霊によって一つであることを意識して、互いに忍び合うことができますように。

7-16節。1コリント12-14章、ローマ12:4-8節と並んで、聖霊の賜物について書いてあるところ。聖霊の賜物をいただいたときに、謙虚であることがとても難しくなる。

17-21節。どうかキリストの真理によって、道徳的な無感覚の状態から救い出してくださいませ。

22−24節。どうか僕たちのたましいがしっかり古い人を脱ぐ捨てて、新しくされ、新しい人を着ることができますように。

26-27節。神が罪に対して怒りを燃やされるので、僕たちも特に神に対する罪を憎む気持ちを持つことは正しいことだと思います。しかし怒ると自分が罪を犯すことが多いので、細心の注意で祈っていることが必要になる。日が暮れるまで憤ったままだと、悪魔の巧みな策略にはまりやすくなる。

28節。困っている人に施しをするために、ほねおって働くこと。

29節。どうか、僕たちが悪いことばを、いっさい口から出さず、必要なときにだけ聞く人にイエスの恵みを紹介できるようなことばを話すことができるようになっていきますように。

30節。どうか僕たちが聖霊を悲しませないようになるように、お導きくださいませ。

32節。キリスト者どおしの互いの罪を赦しあうことが大切。これは、神に対する罪に怒りをもつこととは、別のことだと思います。

No.3588 2007/12/10(Mon) 22:32:02

Re: エペソ4章 / 亜衣瑠 引用

エペソ4章
1節「召し」にふさわしい歩み。すでに囚人となってくださったパウロが勧めるのだから、無視できない。その勧めには応えるようにされている。その中身は
2,3節「謙遜と柔和の限りを尽くし」イエスの面影、イエスが手本 「尽くし」で 聖書中で最も大切な戒めを連想する。
「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか。」
「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。  心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』  次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12章より)

「寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、」?Tコリント13章4節より7節をありありと思い起こします。すなわち愛とは、神の愛とは、忍ぶこと、忍び合うこと(一方的ではなく)自分を消した優しさで見守ること。そうすれば、愛の実行者、神が思いもよらぬ御わざで、わたしたちに知らせてくださるでしょう。
「平和のきずなで結ばれて」わたしたちの神は平和の神です。そして神はわたしたちに平和をもたらしてくださる。
「御霊の一致を熱心に保ちなさい」この逆は分裂です。サタンがそこここに巧妙な罠をしかけて クリスチャンがキリストから託された願いと使命を切り裂くために全エネルギーを注ぎ出しています。もし、クリスチャンの中に分裂の種が蒔かれ、分裂が生じるようなことがあれば、サタンは高笑いでしょう。
4節「からだは一つ、御霊は一つです。」もし一つでなければ、初めから分裂です。
「あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」
わたしたちは初めから「一つ」となることが望まれています。そしてそれは神の約束のうちにある。
5節「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」明解です。「一つ」なのですから、一つです。あれやこれやではなく、「一つ」。
6節「すべてのものの父なる神は一つ」4節から「一つ」のものが併記されていることがわかる。からだ、御霊、(望み)、主、信仰、バプテスマ、神。6節に「すべてのものを貫き」の言葉が見える。これら一つのものは神によって貫かれさらなる一つにされている。
7節 神の一つを成すために、わたしたちそれぞれが備えられた。「ひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」何という光栄でしょうか。
9,10節「彼がまず地の低い所に」から「もろもろの天よりも高く」これをわたしたちは聖書によって知らされるが、弟子たちは自分の目で見たのだな、と思って何とも言いようのない気持ちになる。
13−15節 「完全におとなになって」いまだ、まだ、おとなになっていない自分を自覚して、実はがっかりします。しなくていいのに、がっかりします。しかし、神の与えてくださる時間は、わたしたちの考える長さの時と少々異なっていると思います。きっと、何とか「そのとき」までには完全なおとなになっています。
ハンドブックの記述では「教会は約2000年を経過しているが、この点ではまだ幼年期の状態にある」としている。さらに「しかし、神の真の聖徒の見えない教会における一致は、常に存在して来たし、今なお存在していて、それはキリストご自身の祈り(ヨハネ17章)に答えて、ある方法で、ある時、ある場所で、完全に成熟し、その姿をキリストの完成した全体として現すであろう。」と述べる。キリストご自身の祈りヨハネ17章としているところは、特に23節にこめられているだろうか。「彼らが全うされて一つとなるためです。」
16節「愛のうちに建てられる」教会 注の箇所コロサイ2:19「神によって成長させられるのです」エペソでは「成長して」だが、成長させてくださるのは神であると知られる。?Tコリ3:6を連想します。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」
17節 主にあるパウロの「言明」と「おごそかな勧め」ですから、これはイエスの代弁者としての役割であり、イエスさまからのことばとして聞いてよく思います。
18,19節 どんなに神から離れているか、ということは、自分ではわからない、無感覚、麻痺状態になってしまっている。それで、知らせる人が必要になってくる。
勧めの具体的なことがわたしたちに示される。22−32節
情欲は滅びで終わる、滅びは主の望まれることではない。そのような悪癖は一刻も早く断ち切りなさい。神の期待はわたし次第ではなく、変わりません。神は期待しておられる。このわたし自身によっては難しいと考えます。しかしそうなりたいと願って祈る者に神は応えてくださる。「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」(?Tペテロ1:16、レビ11:44)
わたしたちのからだは互いにそれぞれのもの―夫婦についてパウロが書かれたことを思い出します。(?Tコリ7:4)
どうして怒りが罪につながるか、それは神の本質ではないから。それどころか、続く27節にあるように(脚注にもある)悪魔に付け入る機会を与えることになるから。
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」この戒めをどうか守れるように、わたしを強めてください。口から出ようとしても、あなたが止めて出ないようにしてください。そのようなことばを出す気持ちを失せさせてください。すべてはイエスさまのご性質、イエスさまの姿、イエスさまの有り様をまねるように。イエスがなさらなかったことはしないように、それを守ればよいのだ、と思う。それはつまるところ、「あとをたどる」ことになるのだな、と。
30節「証印を押されている」はガラテヤ6:17の「焼き印」を連想させる。この場合、焼き印を象徴として、あるいは、黙示22:4にあるような約束のしるしとして読みます。わたしは神の聖霊を悲しませるようなことはしたくありません。そのような罪を犯すことのないようお導きください。
31節「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」 はい。神さま。神さま、これらは罪深い者としては ほんとうに難しいことです。そんなことはしたくないのに、罪の名残が色濃く自分にあることを知らされます。そして、それらがどんなに醜いことかも自ら知ります。それで、キリストの十字架があります。それで次のみことばが心に沁みます。
32節「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
この節の「心の優しい人となり」は この句に出会った日から何度も何度も繰り返し声に出し、自分に言い聞かせ、味わいまた言い聞かせてきたところです。きょうもまた出会いました。「赦し合いなさい」赦し合いなさい、赦し合いなさい これが命令です。これが勧めです。パウロのでなく、イエスのわたしたちへの「頼み」です。そして「教え」です。
逆らうことはできません。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
「七度まで、などとわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」
いつでも、イエスが先になさっている。戒めておられるイエスさまだが、いつも先に愛し、先に赦してくださっている。どうやって赦すのですか?と問われたときに、「このようにして」と先に示してくださっている。どうやったらいいかわかりません、という者に「こうしてです」とお示しくださった。あなたの意志でではなく、すでにあなたの中にいるわたしが赦せるようにしています、とおっしゃる。「赦し難いです」「赦しなさい」「赦し難いです」「赦しなさい」「出来ません」「出来ます」「無理です」「出来ます」  「赦すのです」
赦すのです。愛すのです。あなたの愛の現れは不思議です。あなたへの信頼がわたしに平安をもたらします。あなたへの祈りは景色を一変させました。

No.3589 2007/12/10(Mon) 22:37:58
民数記9章 / 沙耶香 引用

今日は民数記9章を読みます。

15節に
幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
とあるが、脚注を見ると、雲は雲の柱、火のようなものは火の柱のことで主の臨在の象徴だと書いてあるが、ということはこれは比喩なのかな?でも実際にこういうことがあるということを言っているんですよね??うーん??何だか混乱してきた。

あっでも16節を読むと、そういう風に見えたとなっている。雲があかしの天幕である幕屋をおおった。っていうのはどういう状態なのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の14章24-28節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、24節の
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなた方が聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
本当に、辞めていった伝道師の主人はイエス様を愛さない人だったんだなー。あまりイエス様を愛していない人でも教会に来ている人は多い。段々もっとイエス様を愛するようになり、弱者を傷つけるようなことにならないようになればいいのだが・・・

No.3583 2007/12/09(Sun) 21:59:27

再民数記9章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度、民数記9章を読みます。

1節に
エジプトの国を出て第2年目の第1月に、主は市内の荒野でモーセに告げて仰せられた。
とありますが、第1月とは今の新年の1月のことだろうか?多分今と違うんだろうなー。だって旧暦と新暦とあるということは、昔は違う暦だったということだと思うのです。だったらこのころの第1月とは今のいつくらいのことだろうか?全く違って分からないのだろうか?

12節に
そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を1本でも折ってはならない。すべて過越しのいけにえのおきてにしたがってそれをささげなければならない。
とあるが、パンと苦菜を食べているだけなのに、骨を折ってはならないというのはどういうことだろうか?脚注も見たが、意味がよく分からないが・・・

21節に
雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
とあるが、何で雲の動きに合わせるのかな?と思って、脚注を見ると、22節の方の脚注に、雲の動きに合わせること=主の命令に従うということらしい。うーん、それがどうしてなのか???

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の14章29-31節、15章1,2節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、2節の
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様の枝で実を結ばないものにならないように気をつけないといけないです。人間は罪人だから罪は日常茶飯事。でもなるべく罪を犯さないように気をつけないといけないです。

No.3586 2007/12/10(Mon) 09:28:03
エペソ3章 / 大垣 引用

エペソ3章。1節。「キリスト・イエスの囚人」が印象的。イエスに囚われるということは祝福である。

6節.選ばれたイスラエル人たちだけでなく、異邦人もともに一つのからだに連なるということの素晴らしさ。僕たちキリスト者が信仰を与えられた後、家族やまわりの人たちが、主にあって一体となるのに用いられると大きな祝福です。

11節。すべては神の永遠のご計画による。

12節。キリストを信じるとき、僕たちは大胆に確信をもって神に近づくことができる。へブル10章19-22節と同じようなことがここにも書いてある。

16節。どうか僕たちの内なる人を強くしてくださいませ。

19節。どうか、僕たちが人知をはるかに超えたキリストの愛を実感としてさらに深く知ることができますように。

No.3584 2007/12/09(Sun) 22:03:57

Re: エペソ3章 / 亜衣瑠 引用

エペソ3章
感謝の3章 後半に始まる美しく壮大な力ある祈りが控えていることを知った上で読む喜びがある。
1節「キリスト・イエスの囚人となった私パウロ」自ら喜んで囚人となったのです。ロマ1:1の、「キリスト・イエスのしもべパウロ」の「しもべ」は直訳すれば「奴隷」の意味だそうです。主人への徹底服従、主の奴隷、囚人もまた同様、生殺与奪の権を自ら放棄した者です。どうかわたしもパウロのように、キリストの導かれるまま、キリストに所有されるものとして、そのとおりできますように、余りにも弱いわたしをどうか助けてください。
「わたしにとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)
2節 囚人にはするべき苦役が、奴隷には主人の務めがある。
3節 「知らされた」ことを伝える務め。
4節 パウロをまねしようと、しもべとならせてください、と願う者は、そのメッセージを「読む」ことは必須となる。(文字通り、文字を読むだけでなく、聞くや語るも含まれるでしょう)
8,9節 パウロは淡々と語るが、主イエスのパウロに託した役目を思うと、神の恵みの深遠さを思う。イエスさまのことばが聞こえてくる。
「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの運びの器です。彼が、わたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒9:15、16)
10節「教会を通して」が目に留まります。それだけに教会に与えられた期待と祝福を思います。関連注のエペソ6:12を見ます。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
いかにこの世は 真逆のことにばかりエネルギーを注いでいるか、いかにひっくり返っているかを思わされる。見えるものと見えざるものの対比を思う。力の大きさや影響力を思う。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ、目を留めます。」(?Uコリ4:18)
12節 わたしたちが神に近づくとき、畏れをもって当然だが、遠慮する必要はない。
さあ、始まります。「こういうわけで」(14節)
「わたしはひざをかがめて」ひざをかがめる相手は ただひとり。また、この方に祈るとき、意識せずとも、とる姿勢は気がつけば「ひざをかがめて」いたのではないか、と思う。
15節「すべてのものの名の元である父」がひざをかがめる、かしずく相手。 「天上と地上で家族と呼ばれる」天と地はつながっている。天、すなわち神のお住まいと、サタンが支配するこの世である地は つながっている。断絶してはいない。つなげてくださる力ある方がいらっしゃるから。
16節 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」
嗚呼、この祈りをそのとおり成るように祈ります。あなたの力が注がれますように。注いでください。
17節「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって」そうです、「信仰によって」です。
「あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」いつ何時も わたくしの心のうちに住まわれますように!
17,18,19節「愛に根ざし」「愛に基礎を置いている」ことが条件。キリストを理解し、キリストの愛を知って(=実感して)「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」 このことを等しくお祈りします。
20節 キリストを着てキリストに被われたわたしたちは うちにはたらく力によって、主に栄光を帰すという最大の目的を果たすことができます。
「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちの願うところ、思うところの全てを越えて、豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
わたしたちのうちにはたらく力―いただいた聖霊―、教会、キリスト・イエス、
これらが調和したときに現われるものは、この世であっても、この世離れしているでしょう。

No.3585 2007/12/09(Sun) 22:05:13
民数記8章 / 沙耶香 引用

今日は民数記8章を読みます。

2節に
「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、7つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」
とありますが、ともしび皿ってなんだったかな?と思って聖書検索すると出エジプトにいろいろ出ている。そのころの掲示板に戻ってみてもいろいろあって見てみたが何処に書いてあるか分からない。辞書で検索しても出てこない。
もう一度掲示板をたどってみたが、心取りばさみと心取り皿というのは質問しているが、ともしび皿というのは聞いたことないみたいだ。一体何だろうか?
「ともしび皿」で検索すると検討違いのものが出てきたり、御言葉の中の言葉で、意味が出てこないので、「ともしび皿 意味」と入れると、この掲示板が出てきた。37節の意味は・・・・書いてあるが、省略していてよく分からない。開いてみると、管理人さんが、
「37節のともしび皿とは、燭台の7つの枝の先のろうそくを載せる部分のことだと思います。」
とご説明くださっていました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の14章14-18節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、15,18節が気になるので、これをもう何度か読みます。
本当そうですね・・愛していたら戒めを守り孤児にはされないですね・・・
でも少ししか愛していないから、うちの教会の人は戒めを守れず、同じ教会員の私を愛せなかったのかな?

No.3578 2007/12/08(Sat) 21:17:35

再民数記8章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記8章を読みます。

4節に
燭台の作り方は次のとおりであった。それは金のうち物で、その台座から花弁にいたるまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。
とあるが、肝心の燭台とは一体何だろうか?と思って、聖書検索しようと思ったが、何処に出ているか分からなかったらいけないので、辞書で引くと、ろうそくをともす台みたいだ。

7節に
あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振り掛ける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、
とあるが、全身にかみそりを当てるとは、全身の毛をそることだろうか?

25節に
しかし、50歳からは奉仕の努めから退き、もう奉仕してはならない。
とありますが、昔は50歳過ぎるともう年配者とされていたんですね・・・今では50歳過ぎても60歳過ぎても働いている人いっぱいいますし、今の60歳はまだまだ若いです。だって今なんか90歳のお年よりが車を運転する時代ですから・・・クリスチャンで90歳過ぎて乗っている人がいて、その子供達が危ないからといって乗るのを辞めさせたそうです。でもお年よりの事故が目立つので、危ないですよね。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の14章19-23節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、21節の
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、私もその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
でも教会の人を見ていると、戒めを守っている人あまりいないけれどなーー。でも人間罪人だから、一歩ずつですよね。

No.3582 2007/12/09(Sun) 07:38:54
エペソ2章 / 大垣 引用

エペソ2章。1-7節。罪人に対する恵みの素晴らしさを思います。

8-9節.救いは行いによるのではなく、信仰による。これは、誰も誇ることがないためである。

10節。信仰が与えられるように定められているものには、良い行いもあらかじめ備えられる。

11-13節。異邦人も救われることは、当時のユダヤ人たちには不思議なことだった。

19節。僕たちは、もうすでに聖徒たちを同じ国民である。

No.3579 2007/12/08(Sat) 21:49:24

Re: エペソ2章 / 亜衣瑠 引用

エペソ2章
このような書のこのような箇所を読むことは 同時に神の恵みに預かり、慰めと安心をいただき、きょうこれからの「生」を「よし」としてくださる、神さまだけにでき得る憐みをいただくことになる。
1節 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」
はい。まことにそうです。
2節「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」はい。従っていました。
「空中の権威として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」空中の権威、すなわちサタンの考えもつかぬ力の恐ろしさは 想像を絶しますが、サタンが知恵を絞り、攻撃に巧みさを増せば増すほど、こちらも 真理の帯は力強く、みことばの武具は強靭になっています。サタンの横暴は許しません。ひるみません。
「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7) 立ち向かうことはイコール この句の直前「ですから、神に従いなさい」これしかない。
3節「わたしたちもみな、かつては不従順な子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
はい。まことにそうでした。そのとおりでした。死んで当然なのでした。しかし、いま、こうして生きています。
4,5,6節「しかし、あわれみ豊かな神は」このあわれみなしでは到底わたしは生きておりません。このあわれみなしでは 正常な感覚で毎日を暮らすことも、社会で生活することも、人と口をきくことも、何もできません。神のあわれみなしには なにひとつ、いのちを感じることなどできません。ただ感謝するのです。
「わたしたちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」
この愛の大きさは わたしたちを招いておられます。キリストのあとにつづけという勧めです。言い換えるなら、このような愛です。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
「罪過の中に死んでいたこのわたしたちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
死んでいた者を甦らせ、生き返らせた。そのようなことができる方はただひとり、この方のみ。死んでいたこのわたしを甦らせ、そこからさらに、キリストとともに天の所に座らせてくださるという栄誉までくださる。
そこまでしてくださる理由が次の7節から述べられる。
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな恵みを、キリスト・イエスにおいてわたしたちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」 恵みを示すため。
恵みとは何か。恵みとは このような神のなさることであり、神がお持ちの本質から出てくること。
8節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」はい。感謝します。
「それは、自分自身から出たことでなく」はい。「神からの賜物です。」はい。いただいた賜物に感謝します。くださった神に感謝します。
9節「行いによるのではありません。」存じております。「だれも誇ることのないためです。」
ガラテヤ6章14節「しかし私には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」 これ以外にわたしが誇りとするものを持ったり、持とうとしたりすることのないようにしてください。
10節「わたしたちは神の作品であって、」何と麗しい表現なのでしょう!「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」造られた目的がはっきりしていることは何よりもすばらしい生きる希望です。
「神は、わたしたちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」 「あらかじめ」備えることのできる神の力と知恵。
 「主よ。あなたはわたしを探り、わたしを知っておられます」
 「わたしがひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、わたしの骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」(詩篇139より)
11節「ですから、思い出してください。」はい。
12節「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」 死んでいました。死んだ状態で浮遊していました。神のことなどそっちのけでした。探していて、探し疲れて、あきらめて、それでも、生きながら導かれました。
13節 「遠く離れていた」このわたしを「キリスト・イエスの中にある」ものとしてくださり、「キリストの血によって近い者と」してくださったあなたのわざを感謝します。
14,15,16節 平和の神は「隔ての壁」を一息に打ち壊す力もお持ちである。ここに書かれたキリストのなされた、成し遂げられたことの前に 人であるわたし、罪人であるこのわたしは何も言うことばはない。このようなご計画を神が事実実行なさったということ。
罪人である人間にできることは このキリストの十字架をそのままいただくこと。受けること。知ること。20節 キリスト・イエスという礎石の上に建たせていただく。
受けなさい。乗りなさい。立ちなさい。その申し出を拒むことなく、素直に喜んで、感謝して、讃えて受けます。頂戴します。

No.3580 2007/12/08(Sat) 21:50:10
民数記7章残り / 沙耶香 引用

今日は民数記7章残りを読みます。

89節の
モーセは、主と語るために会見の天幕にはいると、あかしの箱の上にある「購いのふた」の2つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の14章4-8節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、6節の
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
本当にそうですね・・・イエス様を介入させないといけないです。

No.3568 2007/12/07(Fri) 21:01:38

再民数記7章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度民数記7章残りを読みます。

結局この章は、12部族のささげ物を次々おなじことを書き並べているだけだったけれど、管理人さんも書かれているようにきっと何か意味があるのだと信じます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はヨハネの福音書の14章9-13節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、13節の
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエスの名によってでないと・・・

No.3575 2007/12/08(Sat) 09:41:04
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