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今日は民数記7章59節までを読みます。
43節に そのささげ物は、銀の皿1つ、その重さは130シェケル。銀の鉢1つ、これは70シェケルで、聖所のシェケルによる。この2つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。 とあるが、このように12部族の何族がどういうささげ物をしたかとか書き綴っていても、あまり意味がないように思えるが・・・だってこんなことばかり並べたくっても、何も印象に残るような御言葉はないし、心に響かないんだけれどなーーー。
・・・癒しに通じる読み方・・・ 今日はヨハネの福音書の13章32-36節を読みます。 天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・・ 何度か読んでいると、34節の あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 が気になるので、これをもう何度か読みます。 うちの教会の人もこの御言葉守れない人が多いが・・・一番守れなかった伝道師の主人はもう教会を移ったが、その伝道師夫妻はこの世的にはかなり祝福されているが、でもきっとイエス様が罰を何らかの形で与えると信じます。 |
No.3562 2007/12/06(Thu) 21:20:36
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>>誰かの行いや状態を見て、それに対して「いつかイエスが罰を与えるはずだ」と考えるのであれば、それと同じ考えが自分自身に向けられたとき、沙耶香さんはその裁きに耐えることがおできになりますか?
伝道師の主人は私をずっと無視し続けました。私の外見や容姿やら、この世的なものは何も祝福されていない状態なので、近寄るのがいやだったのでしょう。こちらから挨拶しても無視していました。それが同じ教会員である私にどれだけの苦痛を強いていたかしれません。そういうことをしたらきっと罰が与えられると信じます。私はそういうことはしないので、それに罰が与えられるようなことをしたらそういうときは、きっと裁きに耐えられるように神様がしてくださるでしょう。 まことさん、私はまだまだの信仰者なので、誤解を与えることが多いと思いますが、赦してください。まことさんも大いに祝福されると信じて期待して感謝します。
今日は嫌な夢見ていました。病院でお医者さんや男性看護師さんにいやな目に合わされました。夢でよかったです。
今日はもう一度民数記7章59節までを読みます。
47節に 和解のいけにえとして雄牛2頭、雄羊5頭、雄やぎ5頭、一歳の雄の子羊5頭。これがデウエルの子エルヤサフのささげ物であった。 とありますが、こうやって聖書の聖句で言わなくても、下の脚注のようにまとめたら少しで済むのに・・・
・・・癒しに通じる読み方・・・ 今日はヨハネの福音書の13章37、38、14章1-3節を読みます。 天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・ 何度か読んでいると、2,3節の わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをもおらせるためです。 が気になるので、これをもう何度か読みます。 イエス様が備えてくれる天の場所って最高でしょうね・・・ |
No.3566 2007/12/07(Fri) 09:48:21
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☆ Re: 民数記7章59節まで / まこと |
引用 |
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沙耶香さんへ。返信ありがとう。
>きっと裁きに耐えられるように神様がしてくださるでしょう。
沙耶香さんが、他の人を恨んだり、その人たちに神の罰が下るようにと望んだりするメンタリティから、解放されますことを、願っています。そこに心の平安はありませんから・・。
ただね、沙耶香さん。もし神様が、私たちの悪い行いの一つ一つに容赦ない「罰」を下されたなら、私たち誰一人として、その裁きに耐えられる人はいないのですよ。そして、生まれながらの人間としては、裁かれない人は一人もいないのです。
その自分も耐えられない、また逃れられない裁きを、人間である貴女が、他の人に下して良いのでしょうか。
私たちは多くの間違いをします。勘違いをしたり、誤解したり、傲慢になって他の人を見下したり、未熟さゆえに他の人の意見を間違いだと裁いたりします。でもその「裁き」と、私がここで言っている「裁き」は別次元での話です。
誰かに対して、神の罰を望む。その罰が当然であるかのごとく考える。それは自分自身が神になることです。・・・そういう考えは、キリストの教えの中にありません。 |
No.3567 2007/12/07(Fri) 10:41:53
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沙耶香さん、聖書には、僕たちの心に響くことが多く書いてあります。それと同時に、僕たちには書いてある意味が分かりにくいことも多く書いてあります。意味がないように思えるときは、まず「なぜこういうことが聖書に書かれているのでしょうか。今、書いてる意味を知るべきなら、教えてください。」と、いうような祈りで神さまに聞いてみると良いと思います。聖書が書かれた理由は僕たちの心に響くように、という意味だけでなく、いろいろな意味があるのだろうと思います。12-88節で、各部族の長がそれぞれ同じささげ物をしたことを、繰り返し書いてあることの意味は僕にも分かりません。ただ、僕は音楽での同じメロディーの繰り返しと同じような意味もあるのかもしれない、と思いました。 |
No.3571 2007/12/07(Fri) 23:39:25
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まことさん、ひとつ質問と2,3コメントがあります。
黙示6章9−10節での天の聖徒の復讐を願う叫び、ガラテヤ5章12節でのパウロの「いっそのこと不具になってしまうほうがよい」という願いと、まことさんの「神の罰が下るようにと望んだりするところには、心の平安がない。」という聖書の解釈とは、どのような関係にあるのでしょうか?僕は、神が正しいさばきによって復讐することを願う心と、自分が復讐しようとする心には、大きな違いがあると考えて、これらの聖句を読んでいます。
ローマ14章1-10節では、主にある兄弟姉妹をさばいたり、侮ったりする人たちに対し、パウロは「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになる」ことを教えています。ここも、「主の正しいさばき」を信頼する心が、正しい行いに通ずることを教えていると、僕は読んでいます。 |
No.3572 2007/12/07(Fri) 23:40:44
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☆ Re: 民数記7章59節まで / まこと |
引用 |
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大垣さん。
私は沙耶香さんに、ねたみや憎しみを心の内で成長させて、さらにねたみと憎しみの淵へと沈んでゆくという、そういう心の悪循環から早く解放されて欲しいと願っています。
大垣さんのように、相手に復讐を願うことは正しい行動に結びつく、見たいな事を書かれては、私の投稿は台無しです。
>まことさんの「神の罰が下るようにと望んだりするところには、心の平安がない。」という聖書の解釈とは、
聖書「解釈」は、もうやめませんか? 私が書いたことは、聖書「解釈」ではありません。他を憎んだり、ねたんだり、責めたり、神の罰を願ったりする心のあり方の行き着くところは、さらに深い憎しみとねたみという闇の淵であるということ。そして、むしろそうではなく、それがたとえ自分自身が痛んだとしても他を赦し、愛し、受け入れてゆくことで「人知を超えた心の平安が訪れる」ということを、経験上確認した上でのコメントです。私がアタマで納得した「解釈」ではありません。
>黙示6章9−10節での天の聖徒の復讐を願う叫び、
これについては考えていませんでした。
>ガラテヤ5章12節でのパウロの「いっそのこと不具になってしまうほうがよい」という願いと、
これは、パウロの、律法主義者達、すなわち「割礼が無いと救われない」と言っていた人たちへの、皮肉をこめた痛烈な批判です。割礼、すなわち「生殖器の包皮が切り取られていないと救われないと言うなら、いっそのこと、生殖器全部を切ってしまえ!ばかばかしい!」という皮肉ですね。パウロが、神に対して、「彼らを不具にしてください」と願っているのではないと思います。
>どのような関係にあるのでしょうか?
大垣さんがコメントされた聖書箇所は、私が沙耶香さんに宛てて差し上げたコメントとは、あまり関係ないと思います。少なくとも、それらが関係あることとして私の心の内で関連付けられていません。したがってその関連性についてはコメントできませんし、しても仕方がありません。
>僕は、神が正しいさばきによって復讐することを願う心と、自分が復讐しようとする心には、大きな違いがあると考えて、これらの聖句を読んでいます。
自分の経験した状況と、自分がそれに対して感じた感情とを基準に、他者に対して苦しみという罰が下ることを望んでいる、と言う点では、どちらも同じです。 私はその「基準」がおかしい、と言っているのです。
キリストは、赦しと愛を教えます。それがキリストが私たちに教える基準です。 対して、誰かに神の罰が下ることを望むということは、復讐と相手が苦しむことを望んでいるという、赦しと愛と完全に逆行する基準を出発点とする考えです。 キリストは、そのような考えを奨励するような教えは与えておられない、ということです。
>ここも、「主の正しいさばき」を信頼する心が、正しい行いに通ずることを教えていると、僕は読んでいます。
相手を赦すことをせず、いつまでもねたみにと憎しみに心が支配されていることが、正しい行いに通じるとは私は思いません。「主の正しいさばき」に信頼する心は、そういう、人間中心のねたみや憎しみから、人を解放するべきものだと思っています。
最後に、大垣さんにお願いがあるのですが、個々の聖書箇所を単独に引用して、それを自分の立証したい命題に合わせて解釈を施すということは、お控えになられた方が良いと思います。 |
No.3573 2007/12/08(Sat) 00:42:20
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まことさん、レスをありがとうございます。
頭で考えただけでなく、体験として実感された聖句の理解というのは素晴らしいことだと思います。僕は言葉の使い方として、そういう素晴らしい理解も含めて「解釈」と呼んでいますが、別の言い方をいしたほうが良いのかもしれません。
このことに関係するのですが、まことさんの使われた「経験上確認」ということは、このことについては、完全に神の真理と確認できた、という意味ですか?
僕の場合は、体験も含めて実感として理解できたと思う聖句にも、さらに深い意味があることを知ることが何度かあり、神の人知を超えた真理ということを感じます。そうすると、僕にできることは「今、聖書をこう読んでいる」という証しをすることだけだと思うようになりました。
僕はまことさんの読まれているように多くのクリスチャンが、罪の赦しについて読んでいることは知っていますが、別の読み方をしているクリスチャンたちも知っています。このことについて、僕が、黙示6:10の一箇所だけで、まことさんと違うように読み始めた、ということではありません。たとえば、
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすこととをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(1ペテロ 2:23)
では、イエスがご自分をののしり、苦しめる人たちを赦すことの理由は、父なる神の正しいさばきに対する信頼があるということだと思って読んでいます。イエスは人々のご自分に対する、また父なる神に対する罪を見過ごして赦されたのではない。イエスは罪は正しくさばかれるということを深く知っておられるからこそ、人々のご自分に対する罪を赦された。そう僕は読みます。まことさんは、この聖句をどう理解されますか?
また、ダビデはキリスト者ではありませんが、神と個人的に深い交わりをした素晴らしい信仰者だと思います。ダビデの詩篇を読むと、彼がサウル王の自分に対する罪に深い怒りを持っていたことが僕には感じられます。そういう思いを持って、1サムエル26:6−20を読むとき、ダビデがサウルの自分に対する罪を赦したのは、19節にあるように、人の罪は主がさばかれることを信じていたからだということが感じられます。
詩篇に多くあるのろい(例えば137:9)についても、自分が人の罪に復讐しようとすることと、神が人の罪をさばかれることを願うのは、全く違うことである、と考えて、僕は読んでいます。
どうか、主のあわれみによって、人知を超えた主のさばきと恵みと赦しの真理を、僕とまことさん沙耶香さんがより深く知って、謙虚に主に聞き従えるようになりますように。 |
No.3577 2007/12/08(Sat) 21:03:07
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☆ Re: 民数記7章59節まで / まこと |
引用 |
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大垣さん。
私は、聖書のこの箇所が、別のこの箇所にこう関連して、こう理解されて、結果、こう解釈される、という、まるでパズルを解くかのごとく聖書を読み解くというような作業には関心ありません。
聖書の一節を「どう理解しますか?」というご質問ですが、そういう質問に答え始めると、やはり、また結論の出ない、すれ違うばかりの、延々とした解釈の繰り返しという暗闇へと足を踏み入れてゆくことになります。「私はこう解釈します」と言えば、大垣さんは、「いえいえ、私はこうだと思いますよ」と仰るでしょう。次々に色々な聖書箇所を引用されてね・・・。そうやってだんだんと深みにはまって行くのです。私はそれはしたくありません。
>完全に神の真理と確認できた、という意味ですか?
有限の人間が、無限の神の真理を「完全に」確認することなど、最初から出来はしません。どうしてそのようなことを私に問うのです? 神の御心は深くて、人間には知ることが出来ません、というのは、大垣自身がいつも仰ることではありませんか。
ある賛美歌の一節は「十字架の上にかけられつつ、人を赦しし、この人を見よ。この人を見よ。この人こそ、生ける神なれ。」と歌っています。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ※ここ、一番重要です。出来れば注意してお読み下さい。※ ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 十字架の上で殺されながらも「神よ、この人たちをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわかっていないのです。」と仰ったキリストのお心。その十字架の上のイエスを目の前にして、私たち自身が、「神よ彼らに罰をお与えください。彼らは私をののしったからです。」と言えますか? ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
聖書解釈云々ではなく、私はこのような「私のたましいの呼応」を問題としています。イエスの十字架が自分自身のうちに立つとき、それに対して自分の心が呼応するとき、他に対して神の復讐を願うというような心は、居場所を失います。それが私が体験したことです。
「憎め!ねため!復讐せよ!」と自分の感情と心が燃え上がるとき、「人を愛し、赦せ。」という御言葉も同時に静かにささやくのです。そして両者は、私の心の内で対決し、戦います。そして、神の御言葉が「勝利する」のです。 私が書いたのは、その戦いを心の内で目の当たりにし、神の御言葉が私の醜い心に打ち勝つその勝利の瞬間を、私は体験した。そこに平安があった。という意味でしかありません。 |
No.3581 2007/12/08(Sat) 23:51:03
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>十字架の上で殺されながらも「神よ、この人たちをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわかっていないのです。」と仰ったキリストのお心。その十字架の上のイエスを目の前にして、私たち自身が、「神よ彼らに罰をお与えください。彼らは私をののしったからです。」と言えますか?
僕はキリストを受け入れてからも、人をなかなか赦せなくて苦しんだことが何回かありました。そのときに僕が赦すために通った道筋というのはいろいろな場合がありました。それらを大きく2つに分けて、主との対話のように次のように表わすことができると思います。
「主よ、なぜ僕がののしられなければならないのですか。これではまるでドア・マットのようです。なぜ僕がドア・マットにならないといけないのですか。」「私があなたに与えた赦しと祝福を考えなさい。」「はい。どうか、彼を赦す心にしてくださいませ。」
「主よ。僕の罪を赦していただいたので、彼が僕をののしった僕に対する罪を僕は赦したいと思います。でも、彼が僕をののしったとき、主に対しても犯したと思います。その罪が罰されないことは正しいことだとは思いません。彼が悔い改めないときも、罪を罰されないのですか。いや、あなたは罪を正しくさばかれます。彼が悔い改めないならば、あなたが正しいさばきを下されると信頼します。そして、あなたは、彼が悔い改めることを望まれておられます。だから、僕も祈ります。どうか彼が悔い改めて、主に罪を赦されますように。」
後者のように、主の正しいさばきに対する信頼が、僕が赦すことのできるようになる基礎となったことがありました。僕の場合はそれほどのことでもなかったのですが、非常に深い心の傷を負わされたキリスト者が、なかなか相手を赦すことができない場合、まず、主のさばきに対する信頼を取り戻すことがひとつのステップとして有用であった、というクリスチャン・カウンセリングをしている方の証しを聞いたことがあります。この方のお話と僕の経験では、このステップでは、「主が罪を罰されること」と「自分が罪に対して復讐する」ことを区別することが重要であると思います。僕は沙耶香さんが、そのような区別をしっかりしておられると思いました。それは、沙耶香さんのキリスト者としての最終の姿ではないかもしれないけれど、少なくとも道筋としては、1ペテロ 2:23で、正しくさばかれる方にゆだねられた主イエスと、通じていくものを僕は感じました。
>どうしてそのようなことを私に問うのです?
具体的には、特にまことさんの書かれた2つのことに違和感を覚えて、まことさんがそのように書かれた原因は、ご自分の実感をともなった聖書の読みに対する過度の信頼にあるのではないか、と思ったからです。
>「神の罰が下るようにと望んだりするところには、心の平安がない。」
というところ、僕は沙耶香さんの心の状態と、主との関係に対する一方的な断定であると感じました。例えば「私が人に神の罰が下るようにと望んだときには心の平安がありませんでした。」というように書かれたなら、大いに印象が違ったと思います。
>「誰かに対して、神の罰を望む。その罰が当然であるかのごとく考える。それは自分自身が神になることです。・・・そういう考えは、キリストの教えの中にありません。」
というところ。これも、罪に対して怒り、正しくさばかれる神に対する信頼を表明された沙耶香さんに対して、一方的な断罪であるように、僕には感じられました。ご自分の体験から証しとなるような別の表現が可能だったと思います。
どうか、僕とまことさんと沙耶香さんが、考えや道筋が違っても、それぞれ主に聞き従って、主にある交わりを与えられ、主に近づけられていきますように。 |
No.3594 2007/12/11(Tue) 23:55:26
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沙耶香さん(CC:大垣さん)へ。
大垣さんから、以下のご意見がありました(詳しくは上の記事を参照してください)。
>僕は沙耶香さんの心の状態と、主との関係に対する一方的 >な断定であると感じました。
私の側で、沙耶香さんの「心状態」についての断定があったことは認めます。しかし、沙耶香さんと主との関係については、私は何も断定していません。その点は、ご理解ください。
加えて、大垣さんより、以下の意見がありました。
>「主が罪を罰されること」と「自分が罪に対して復讐する」ことを区別することが重要であると思います。僕は沙耶香さんが、そのような区別をしっかりしておられると思いました。
私自身の考えについて言えば、沙耶香さんは、そのような区別をされておられるようには見えません(読めません)でした。私が沙耶香さんの書かれた文面から感じたのは「うらみ」でした。
その私の読み方について、私の側で誤解があったかどうかについて、および、沙耶香さんが実際に上のような区別(自らの復讐心と、神の正しい裁きの区別)をしておられるかどうかについては、大垣さんの予測ではなく、沙耶香さんご本人の口を通しての説明を、私は望みます(今後本件について会話を継続するならばの話ですが)。
一方、突然申し訳ありませんが、思うところがあり、今後この掲示板から無期撤退しようと、私は考えています。
沙耶香さんからのご説明については、そうされたいと沙耶香さんが望まれる場合ですが、大垣さんに私のEmailを教えて頂き、沙耶香さんと直接対話することを、私は望みます。
もちろん、ご説明をいただけなくとも、構いません。その場合、もし私の側で誤解があったのであれば、その誤解については、前もってお詫びしたいと思います。沙耶香さん、ごめんなさい。
<(_ _)>
PS
大垣さんへ。
私は、「自分の経験上」と書くとき、それは、聖書を通して自分が学んだことについて語る際、その事柄が、「自分の体験以上の権威を付け加えられたものでは無く、しかしながら、自分の体験以下の確証をもって語られたことでもない」という意味です。
私の想像力と配慮の欠けによって、誰かの心の状態について誤解してしまうことはありますが、私が体験したからと言って、私の聖書理解が絶対だ、完全だ、などと言うつもりは少しもありません。
以上です。 |
No.3595 2007/12/12(Wed) 03:53:42
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No.3601 2007/12/13(Thu) 09:29:29
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