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all えっち哲学者 - 鈴藤 瑞樹 - 2020/01/12(Sun) 20:57:41 [No.78]
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サディズム論〜マゾヒズムと死への欲望 (No.78 への返信) - 寅山 日時期@詩歌藩国

 以下の文章はえっち哲学者たち御用達の書物『エッチカ』に掲載されている文章である。

 著名なえっち哲学者の1人、ティグレー・ヒジーキはそのサディズム論をこう語る。そもそもマゾヒズムとサディズムは別々のものです。自身が受けた心身の苦痛を自身の性的な快楽につなげるのがマゾヒズム。他者に与えた心身の苦痛を自身の性的な快楽に繋げるのがサディズムです。また他者に屈服/服従することで快楽を得るのがマゾヒズムであり、他者を屈服させることで快楽を得るのがサディズムであるとも言います。被虐の快楽と加虐の快楽とも言い換えることもできないことでも有りません。この2つの性的嗜好の名称はそういった嗜好を持つ知類が主人公として登場する物語を書いた作者の名前から取られています。佐渡という小説家とマゾーヌという演劇家の名前がもとになっています。佐渡は他者を傷つけることで自身の快楽を感じる知類を主人公として描き、マゾーヌは他者から傷つけられることで快楽を得る知類を主人公として登場させたのです。佐渡の作品に描かれているような状態だから佐渡イズム=サドイズム=サディズム、マゾーヌの作品に描かれているような状態だからマゾーヌイズム=マゾヒズムと呼ばれているのです。イズムとかヒズムというのはそういった性格という意味です。サディズムを持つ者をサディスト、マゾヒズムを持つ者をマゾヒストとも言います。あるいはそれらはサドとマゾという略称を持っています。現在ではこの二人の著者はすでに亡くなっていますがその作品の影響は残っています。両者の作品とも発表当時には毀誉褒貶含む大きな反響があったと伝わっています。

 佐渡の作品は、人を痛めつけ殺すことで自身の快楽を得る知類を主役にしたものでした、もちろんすべてはフィクション/創作です。佐渡の作品では権力者がその権力を使い、あるいは社会の底で暮らす知類がその闇のなかで、一般的な生活を送る者たちを攫い心身を苦しめ殺し、あるいは策略をもち不幸にし自死に追い込むのです、そしてそのことで佐渡の描く主役たちは性的な快楽を得ます。一方マゾーヌが描く主人公たちは他者から痛めつけられることで性的な快楽を得ます。
 
 こう書くとまるでこの二人の作者が描く主人公は苦痛を他者に与えることで快楽を得る者と他者から苦痛を与えられることで快楽を得る者。他者を屈服/服従させることで快楽を得る者と他者に屈服することで快楽を得る者と、苦痛と屈服/服従を通して分かり合え補強するあるいは依存する者同士のようにも思えますが、サディストとマゾヒストは決定的に違います。それは佐渡とマゾーヌの作品を比較すれば一目瞭然です。これを読まずにサドとマゾを語るのは海を一度も見ずに海のことを語るのと同じことです。佐渡の作品では主人公は多くの者を拉致監禁し痛めつけて殺します、自身の快楽のためにです。そこで重要なのは量です。質はあまり関係ありません。ここでいう質とは殺す者と殺される者との関係性や、殺される者の気持ちやいたぶられている最中の心情のことです。佐渡の主人公たちにとってそれはあまり意味がなく、自身の性的な快楽とは結び付きません。重要なのは他者をいたぶる時間が多くあることと、多く殺すことです。相手の感情などは問題としません。まるで物のごとく扱いです。それが彼らの快楽につながります。その主人公たちは自らが手にかけた者たちのことなど思い出しません。過去が重要なのではなく、いま現在まさに不幸に落とし、死に至らしめている者こそが彼らの関心であり、快楽のもとなのです。

 一方マゾーヌが描く主人公たちは質を重視します。マゾヒストの関心ごとは量ではなく質なのです。マゾーヌの主人公たちはただ他者からいたぶられ痛めつけられ辱められただけでは性的な興奮はしません。彼らは誰に痛めつけられたのか、どのように辱められたのかを重視するのです。自身が理想とする人物に従い、理想とするいたぶられかたをされたい。彼らにとってはその経験の質が重要であり、最高のものを得られればそれは永遠に反復くする思い出になりえます。マゾヒストの快楽は痛めつけてくれるのならば誰でもいい、どんな方法でもいい、というわけではありません。マゾーヌの作品にあたるとこれがよくわかります。その主人公たちは屈服し自分のことを苦しめいたぶってくれる人物を自分自身で選びます。それもきちんとした契約を結び、自分を服従させてくれる相手にそれに相応しい立ち振る舞いを求めます。いわば、痛めつける者と痛みつけられる者が互いの立場に見合った演技をするのです。この関係性を共犯関係とも言い換えることができます。これもサディズムとは違うところです、サディズムの場合は痛めつけて最後には殺す相手の了承も得ずにその者を浚い、あるいは計略にはめて不幸に落とすのです、この関係は一方通行であり、そこには演技も契約もありません。サディズムの関係は共犯的ではなく、正に加害者と被害者のそれです。

 サディズムの単純明快さと違い、マゾヒズムは複雑です。サディストが相手に演技を求めず、いたぶる相手への演技もしないわけですが、マゾヒストは服従する相手にそれにふさわしい態度を求め、自分も屈服する者としての演技をするという双方の演技関係、求め合う関係があるが故に関係は複雑です。サディストにいたぶられる不幸なものは関係を一方的に破棄できませんが、マゾヒストは演技ゆえに双方がその関係を破棄できます。また演技ゆえに相手にそのプランの訂正さえ求めることがあります。そして服従させる者と服従する者の関係の逆転……とまではいかなくても関係の液状化が起こります。どちらが主でありどちらが従であるのかが根本的な部分で曖昧であり、瞬間ごとに入れ替わりさえするのです。

 そういった点で安全な範囲で行われるマゾヒストとサディストの性行動は、相手を殺さない、相手の快楽も考えるという点で両者が演技をしており、それ故に実のところマゾヒズムの行いなのです。たとえ殴り殴られる関係であっても互いに演技をし配慮があるならば、サディスト的な行動でさえ、実はマゾヒズムの文脈の上にあるのです。また逆にマゾヒストであってもそこに演技もなく物のようにいたぶられ殺されたいと望むならば、それはサディズムの文脈の上にあるとも言うことも出来るのです。

 そういったマゾヒズムの文脈上の行いで自身の性的な快楽の欲望を満たしそれで良しとする、というサディストもいるという点で、この甘く幸福な関係こそあのフジスズー教授が語った『サドマゾ論』の中で描かれた誰かの幸福につながるかもしれない愛なのです。それは素晴らしいことだが、そこからはサディストが零れ落ちているのです。あの質よりも量を求め、無慈悲に無遠慮に他者の死と不幸を求め、それにより快楽を得る者たちが。

 その者たちが持つ欲望をここでは<死への欲望>と呼んでおくことにしよう。他者の死と破壊と屈服による快楽。思えば死への欲望などは知類にとって普遍的なものではないのか。スポーツやゲームで相手に勝利する、圧勝し叩き潰す快楽、これも死への欲望ではないのか。なるほどそれが例え殴り合いにより痛めつけられた肉体の血が噴き出て事故による競技者の死さえもある激しい格闘技であってもそれはルールが敷かれた上での競技であり、その結果の勝利の快感と喜びでさえ、その競技の行いとはある種の演技であり故にマゾヒズムの文脈の上でのことだとも言うこともできる。しかし多くの者がその幼き頃に蟻や小さな虫を無意味に殺したことがありそこに面白みを感じた経験がある。部下や子供を従わせる快楽。権力のうま味。他者の上に立つ万能感の喜び。学校や職場でのいじめ。犯罪は撲滅せず、戦争は現に幾度も起こっている。その終戦の、勝利の喜びは来るべく平和の安堵よりも上回るものではないのか、あの他人を屈服しそれにより勝利したという快楽は。子供の時に捻り潰した蟻の快楽の延長に敵国の死んだ国民がいる。多くの戦争論者が語る良い戦争、それは質のことであり、戦争の良質とは被害の最小と最速の合意の形成、あるいは最速の勝利である。がいまだにそんな戦争は起こったことがない。戦争の本質は多くを殺し破壊すること、つまり質よりも量なのだ、良質の戦争などは起こりようが無い。サディズムの本質と戦争の本質は一致する。言を繰り返すがそんな戦争は現に起こり続けている。もはや死への欲望が知類において普遍的なものであることは隠し通せない。そんな死への欲望を戦争という国家規模の出来事ではなく、個人の範囲でまっとうし欲望を充足させんとするのがサディストなのだ。あの幸福なマゾとサゾの演技の上での行為ではサディストは満足しない。もっと無許可に無遠慮に他者を殺し、壊し、屈服させなくては……。そして質よりも量を求めるその欲望は永遠に満たされることがない。

 と、これは決して破壊への誘惑ではありせんし、戦争や性的なものも含むあらゆる暴力への肯定でも些かもありません。ですが現実にサディストはおり、ある者はその欲望を叶えんと犯罪に走り、ある者は欲望の充足を耐え、ある者は別の物事の代理により欲望の解消を追い求めます。現にサディストは生きているのです。それを語らないこと、無視することは、そういった人々を疎外することそのものです。フジスズー教授が語ったように実は知類はサディズムとマゾヒズムを両方持ち、時や気分によりそれが変動します。言い換えれば多かれ少なかれ、どんな知類もサディズムの根源である死への欲望を持っているとも語ることができるのです。死への欲望はどこかの誰かが持つ恐ろしい性的な欲望ではなく、私もあなたも持っているものなのです。そこから目をそらし続けるのは私には得策には思えません。もちろん、見続けるのも……ねぇ。暗闇を見ているときは暗闇をこちらを見ている、という言葉もあります。だからこそえっちで形而上学のことを考えるプロフェッショナルである我々のようなえっち哲学者がいるのです。えっちは快楽に密接し、快楽とは知類の根本的な感情や行動の動機のひとつですからね。

 戦争や殺人も悲しいことであり、立ち直れないほどに打ちのめされることであるのを私たちは知っています。勝者であってもです、勝利と破壊の快楽は一瞬であり、その次にはあの長く辛く悲しい時間が続くのです。まるで射精のあとのクールダウンの時間のようにです。なのにも関わらず戦争は、暴力は繰り返し起こり続けています。戦争は政治や経済や地理そして歴史などが合わさった複雑な要因で起こります。ですが私はそこに人々の死への欲望を満たさんとする願望も加わっていることを疑っていません。

 思えば、なぜ我々は暴力で性欲を満たすことができるのでしょうか?言い換えましょう。なぜ我々は破ろうと思えば自身の快楽のために法やオーダーさえ破ることができるのでしょうか?我々の住むこの広い世界ではある場所では神が実在し、ある場所では巨大な機械が空を飛んでいます。禁止しようとすれば、法ではなく、もっと別の方法で我々の……知類の行動を制御できるのではないのでしょうか?法ではなく別の仕方で犯罪や戦争を禁じればいいのです。ですが、神や空飛ぶ機械はそれをしていません。私たちは犯そうと思えば自身の快楽のために法を破ることもできます。なぜでしょうか?なぜ我々には他者を殺してでも快楽を得ることも可能としている自由な意志と、肉体があるのでしょうか?

 それは私たちに神やあるいは別の存在が、知類の内にあるあの死への欲望をどうにかしてみろ、と言っている、いや、それが出来るはずだと期待しているからではないでしょうか?死への欲望がなぜあるのか?については多くの者が各々の論を展開しています。ある者は野生時代の狩猟本能の残りだといい、ある者は防衛本能の欠片といい、ある者は子孫繁栄のためだといい、ある者は進化と発展に必要なものなのだといいます。どちらにせよ死への欲望が知類の本能的なものには違いありません。故にそれがなくなるとは私には思えません。なくなったらそのとき多くの知類は……。戦争が、争いが、いつの時代どの世界にも知類が存在する限りきっとあるだろうことと同じようにです。死への欲望はもはや延々と知類の内側にあり続けるものであり、またそれ自体を神や別の存在は強制的に禁止してもいません。しかし放っておいて良いものでもありません。放棄するのでもなく禁止するのでもなく、また無邪気に実行するのでもなく、そのさなかで、我々は死への欲望とどのように付き合えって行けばいいのでしょうか?

 もちろん私は、私がいま話している論から、ありとあらゆる知類を取り除くことはありません。知類には繁殖はするが生殖はしない者が居ることを私たちは知っています。そういった知類の本能とはなんなのか、そういった知類の死への欲望とはどういったものなのか、ということも含めてこの論を進めていきましょう。

 死への欲望は知類の内に永遠にある、ですがそれと向き合い、ではどうすればいいのか?と考え続けることはできます。答えは出るかもしれないし、延々と出ないかもしれません。ですが、考え続けることはできます。そして幾ばくかでも分かったことをほかの者たちに伝え残す、次に生きる者たちのために。それも私たちえっち哲学者の使命なのです。


[No.99] 2020/02/23(Sun) 22:51:24

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