[ リストに戻る ]
No.78に関するツリー

   えっち哲学者 - 鈴藤 瑞樹 - 2020/01/12(Sun) 20:57:41 [No.78]
サディズム論〜マゾヒズムと死への欲望 - 寅山 日時期@詩歌藩国 - 2020/02/23(Sun) 22:51:24 [No.99]
JSON形式でまとめ - 鈴藤 瑞樹 - 2020/02/22(Sat) 14:33:35 [No.97]
性的興奮の影響 - 田中申@akiharu国 - 2020/01/19(Sun) 04:27:20 [No.91]
ある哲学者のNWの性指向と性のアイデンティティの説... - 不離参@海法よけ藩国 - 2020/01/13(Mon) 18:39:22 [No.86]
[削除] - - 2020/01/13(Mon) 19:41:39 [No.87]
異種族間の性愛について - 藻女@神聖巫連盟 - 2020/01/13(Mon) 12:24:25 [No.85]
えっち哲学に関する十の難題 - 櫃善エロイカ@akiharu国 - 2020/01/13(Mon) 11:09:55 [No.84]
性犯罪者の分類 - 田中申@akiharu国 - 2020/01/13(Mon) 00:00:26 [No.83]
ごはんの種 - 犬村 - 2020/01/12(Sun) 22:24:56 [No.82]
フジスズー教授のサドマゾ論 - 鈴藤 瑞樹 - 2020/01/12(Sun) 21:15:11 [No.81]
課題など - 鈴藤 瑞樹 - 2020/01/12(Sun) 21:14:13 [No.80]
ポロット実験 - 鈴藤 瑞樹 - 2020/01/12(Sun) 20:59:21 [No.79]



並べ替え: [ ツリー順に表示 | 投稿順に表示 ]
えっち哲学者 (親記事) - 鈴藤 瑞樹

ここはえっち哲学者についての部品や文献などを書き込む場所です

[No.78] 2020/01/12(Sun) 20:57:41
ポロット実験 (No.78への返信 / 1階層) - 鈴藤 瑞樹

「ポロット実験」
「いまあなたの前にひとつのレバーがある。そのレバーを右に倒せば5人の巨乳美女があなたの前でおっぱいをぽろっと出す。レバーを左に倒せば1人の、ただしあなたの意中の女性があなたの前でおっぱいをぽろっと出す。これらによりあなたが一切の社会的不利益を被らない場合、あなた=被験者はどちらにレバーを倒すのか。えっちが性欲なのか愛なのかを判断するえっち哲学上の思考実験」


[No.79] 2020/01/12(Sun) 20:59:21
課題など (No.78への返信 / 1階層) - 鈴藤 瑞樹


Q:部品数は?
A:共通100職を基準としてだいたい10RDほどを目安にする


Q:どうやってお金を稼いでいる職業なの?
A:わからん


Q:
A:


[No.80] 2020/01/12(Sun) 21:14:13
フジスズー教授のサドマゾ論 (No.78への返信 / 1階層) - 鈴藤 瑞樹

フジスズー教授のサドマゾ論

以下の内容はすべてフジスズー教授の妄想です。

まず、あらゆる知類のサディズムやマゾヒズムとは状態であり、固定されたものではなく、体調や状況などによって左右されうるものである。
白と黒の二元論で語ることができるものではなく、中間色が無数に存在している、可能性の庭園たるものがサドマゾであると考えられる。
またサディストとマゾヒストは組み合わされることで相乗的に幸福を生産する。ひとりでは完成しないのである(もし単体で完成しうるサディスト、マゾヒストがいるとすれば、それはサドマゾとはまったく違う何かであろう)
しかしこの組み合わせを作るのはとても難しい。
さながら鍵と鍵穴のようにぴったりと組み合わされるサドとマゾがこの世界で出会う確率はごく低い。
ではこの世界に存在するサディスト、マゾヒストは不幸なのか?
もちろんそんなことはない。世界を見渡せば多彩なサドマゾの組み合わせで満ちている。
これはサディズムとマゾヒズムが状態である、ということに起因している。
我々は相手に合わせて変わることができる。
少しづつ、二人の形を最適化させていけば良い。
もちろんうまくいかないことも、失敗することもあるだろう。それでも我々は前に進む。
この行いを私は愛と定義する。

この記述が誰かの幸福に寄与することを願って。

ムイズキ・フジスズー著
サドマゾ論より抜粋


[No.81] 2020/01/12(Sun) 21:15:11
ごはんの種 (No.78への返信 / 1階層) - 犬村

・「哲学書の執筆」

えっち哲学者は、自身が追求する哲学に関する書物を著し、それを売って自身の生計を立てる。
著作物を売る方法に関しては、低物理域においては弟子への教育の一環として写本を作らせたり、中〜高物理域においては、出版物としての体裁をとることがある。

・風俗店へのアドバイザー業務

自身の研究と知識を生かし、風俗店への助言を行うことで、顧問料を頂戴するケースもある。
(初心者へのチュートリアルとしての側面もあるが)
これは、プレイを行う店において、施術される側に危険が及ばないような方法を提示・伝授することで、店と顧客の双方に害がないようにすることを目的としている。
性の知識を以ってwin-winの関係を構築することで、よりよい関係性を築くのだ。


[No.82] 2020/01/12(Sun) 22:24:56
性犯罪者の分類 (No.78への返信 / 1階層) - 田中申@akiharu国

・性犯罪者の分類

性犯罪は性依存症という病気でもある。
性犯罪者と一口に言っても、そこにはさまざまな種類が存在する。
痴漢や盗撮など多様な性犯罪者は、回避受動型・回避積極型・接近自動型・接近確信型の四つに分類できる。
/*/
回避受動型と回避積極型は、過去に罪を犯し、現在は性犯罪をやめたいという思いが強い種類の性犯罪者である。
回避受動型は自らの性的欲求や行動を統制できず、回避積極型は誤った統制をしているという点で異なるが、どちらも犯行を繰り返しているか、繰り返しはしないまでも不安定な状態にあるという点は共通である。
再犯防止を目的とした治療をおこなう際、回避受動型と回避積極型の性犯罪者には、欲求や行動を統制するための技能訓練が有効である。
/*/
接近自動型は、性犯罪をやめたいという意思は強くなく、欲望のおもむくままに性犯罪を繰り返す種類の性犯罪者である。
接近自動型は、逮捕・受刑・解雇・離婚などがきっかけで、回避受動型や回避積極型になることが多い。
接近自動型を治療する場合、犯罪者に反省を強要しても成功しないため、犯罪をやめたいという動機づけをおこなったうえで、性依存症は治すことができると知ってもらうことが重要である。
/*/
接近確信型は、計画を考え抜いたうえで犯行におよぶ種類の性犯罪者である。
充分に計画を練っているため、逮捕されることは少なく、性依存症の治療も難しい。
そのため、接近確信型には社会への悪影響を防ぐ目的から、刑罰で拘禁したり、GPSで位置を監視するなどの対応がとらえれる。


[No.83] 2020/01/13(Mon) 00:00:26
えっち哲学に関する十の難題 (No.78への返信 / 1階層) - 櫃善エロイカ@akiharu国

とあるえっち哲学に関する雑誌に掲載された、えっち哲学における未解決、或いは解が複数あるとされる問いである。

この雑誌に掲載された問い自体、他の哲学書からの抜粋である為、それらの文脈を踏まえぬ解は不正確である、問いの立て方が無効である問いがあるとの声もある。

しかし、専門外の人間に対する分かりやすさや、えっち哲学における基本的な考え方の理解の取っ掛かりになるという事情から、今もこの"十の難題"は初級のえっち哲学書にはほぼ必ずと行っていいほど、記載されているのである。

『1.無性愛者と両性愛者を同じ分類に入れられる思想的モデルは存在するか。正とすれば、それは何に基づくか』――引用書籍『性はらせんか、それとも車輪か』

『2.男女間の(全く性的な要素を含まない)友情は成立するか』――引用書籍『男女の関係性における一考察とその反論について』

『3.性を穢れ・罪と見做す宗教的思想モデルにおいて、自らの意思で去勢を行うことは倫理的に是としうるか。否であるならば、それは何故か』――引用書籍『性と宗教』

『4.空想上の女性との恋愛は(現実のものを基準にして)完全であるか、それとも不完全であるか』――引用書籍『童貞・結婚・誕生』

『5.性欲と愛情を切り離せるか。切り離せるとすれば、何故多くの場合において、性は愛と共に語られるのか』――引用書籍『生真面目に性は語られるべきか?』

『6.現行の通俗的な男女関係思想モデルは、男女の立場を交換しても成立しうるか?』――引用書籍『性別の壁を超えて』

『7.精神的に完全なマスターベーションは成立しうるか。正とするならば、それは生殖的な性交を駆逐しうるか』――引用書籍『独り身と性』

『8.生まれた時から去勢され、性的なことを全く知らぬ者は、情欲を抱くだろうか』――引用書籍『"純粋さ"と性欲』

『9.性的な芸術は芸術であるか?正とするならば、性的な芸術とその他の芸術に本質的な違いはあるか?』――引用書籍『エロ本は芸術たりえるか?』

『10.えっち哲学はそれ自体性的であるか?』――引用書籍『えっち哲学に対するメタ哲学』


[No.84] 2020/01/13(Mon) 11:09:55
異種族間の性愛について (No.78への返信 / 1階層) - 藻女@神聖巫連盟

性愛とは本能に基づく愛情とされているが、異種族間でもそれはあるのか。
種族が違うということが正しく理解できずに起きたエラーなのか、種族が違うというのは間違いで広義では同種族であるのか、その愛は性愛とは違うなにかなのか。
多くの種族が暮らす世界でその問が生まれたのは当然のことと言えるだろう。

現在なおその問いに唯一の答えは出ないでいる。
ただそのことについて書かれた書籍は思春期には愛に悩むものが手にし、自分が特別おかしいわけではないと安心する礎となっている。


[No.85] 2020/01/13(Mon) 12:24:25
ある哲学者のNWの性指向と性のアイデンティティの説明 (No.78への返信 / 1階層) - 不離参@海法よけ藩国

NWの性について考えるとき、我々は、単純に男性・女性という切り口だけでなく様々な点で考えるんだ。主に次の4つの点で考えられている。身体の性、心の性(性自認)、好きになる性(性的指向)、好きになる種族だね。身体の性については、性器や性腺、染色体などの身体的特徴で分けられる性のことで、知類には男性、女性だけでなく、中性だったりなど、様々な身体の性があるね。次に、心の性(性自認)については、自分自身はどんな性だと思うかということで。身体に関わらず、自分を男性だと思う人、女性だと思う人、中性だと思う人、性別は決めたくないという人など様々なんだ。そして、好きになる性(性的指向)は、好きになるかならないか、なるとしたらどんな性の人を好きになるかということだ。異性を好きになる人、同性を好きになる人、どちらの性も好きになる人、性別で好きになる人を決めたくないという人、特定の誰かを好きにならない人など、これも様々な人が居る。最後に、好きになる種族だ。同じ種族だったり、他の種族だったりと、これも種族の数だけ様々な形がある。これら4つの点を、それぞれ組み合わせた数以上のセクシュアリティ(知類の性のあり方)があるんだね。ひとつとして同じセクシュアリティは無いと考えられるね。つまり、我々は、誰もがそれぞれのセクシュアリティを持っていると考えているんだ。我々は、みんな違ってみんな良いと考えている。もちろん個人的な性を探求はしているがね。セクシャルマイノリティ(知類の性あり方の領域で少数派と自認する人)と言われていた方々も、少数派ではなく考えられるように我々は活動しているんだ。

[No.86] 2020/01/13(Mon) 18:39:22
[削除] (No.86への返信 / 2階層) -

この記事は投稿者により削除されました

[No.87] 2020/01/13(Mon) 19:41:39
性的興奮の影響 (No.78への返信 / 1階層) - 田中申@akiharu国

・性的興奮の影響

性的興奮が意思決定にどのような影響があるか、とある大学で行動経済学の実験がおこなわれた。
実験を簡便にするため、実験の対象者はその大学に在籍する異性愛者の成年男性に限定された。
男性の異性愛者に限定した理由は、彼らが一冊のポルノ雑誌のみで性的興奮を得られるからである。
実験の対象者は実験の説明を受け、同意書に署名後、冷静なときに質問票へ回答した。
質問票には、性的嗜好・不道徳な行為・無防備な性行為などについての問いがある。
性的嗜好についての問いとは、たとえば「未成年に性的魅力を感じる自分を想像できるか」「高齢者・同性・嫌いな相手・異なる種族・動物などと性行為をする自分を想像できるか」「女性の靴・汗・小便などに対し性的興奮を感じるか」といった質問である。
不道徳な行為についての問いとは、性行為をおこなう目的で「飲酒を促すか」「薬物を使うか」「相手の拒絶を無視するか」などといった質問である。
無防備な性行為についての質問とは、たとえば「避妊は相手の責任と思うか」「避妊は性的快感を減らすか」といった質問である。
回答方法は右端を100パーセント、左端を0パーセントとし、その質問内容に自分はどのくらい当てはまるか、任意の位置に記入してもらう方式である。
質問票の回答が終わったら、実際に性的興奮している状態で同じ質問に回答してもらう。
実験の結果、冷静なときに性的興奮している状態を想像しても、性的興奮の影響を正確に予想できないことが明らかとなった。
性的誘因が高まるにつれ、大胆な行動をするおそれがあることを理解できていなかったのである。
実験結果から、性感染症や望まない妊娠など、性に関する問題を防ぐためには、誘惑に打ち勝つより誘惑を避けるほうが容易であることがわかった。


[No.91] 2020/01/19(Sun) 04:27:20
JSON形式でまとめ (No.78への返信 / 1階層) - 鈴藤 瑞樹

[
{
"title": "えっち哲学者",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "田中申",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "性的興奮の影響",
"description": "性的興奮が意思決定にどのような影響があるか、とある大学で行動経済学の実験がおこなわれた。\n実験を簡便にするため、実験の対象者はその大学に在籍する異性愛者の成年男性に限定された。\n男性の異性愛者に限定した理由は、彼らが一冊のポルノ雑誌のみで性的興奮を得られるからである。\n実験の対象者は実験の説明を受け、同意書に署名後、冷静なときに質問票へ回答した。\n質問票には、性的嗜好・不道徳な行為・無防備な性行為などについての問いがある。\n性的嗜好についての問いとは、たとえば「未成年に性的魅力を感じる自分を想像できるか」「高齢者・同性・嫌いな相手・異なる種族・動物などと性行為をする自分を想像できるか」「女性の靴・汗・小便などに対し性的興奮を感じるか」といった質問である。\n不道徳な行為についての問いとは、性行為をおこなう目的で「飲酒を促すか」「薬物を使うか」「相手の拒絶を無視するか」などといった質問である。\n無防備な性行為についての質問とは、たとえば「避妊は相手の責任と思うか」「避妊は性的快感を減らすか」といった質問である。\n回答方法は右端を100パーセント、左端を0パーセントとし、その質問内容に自分はどのくらい当てはまるか、任意の位置に記入してもらう方式である。\n質問票の回答が終わったら、実際に性的興奮している状態で同じ質問に回答してもらう。\n実験の結果、冷静なときに性的興奮している状態を想像しても、性的興奮の影響を正確に予想できないことが明らかとなった。\n性的誘因が高まるにつれ、大胆な行動をするおそれがあることを理解できていなかったのである。\n実験結果から、性感染症や望まない妊娠など、性に関する問題を防ぐためには、誘惑に打ち勝つより誘惑を避けるほうが容易であることがわかった。",
"part_type": "part",
"localID": 2
},
{
"title": "性犯罪者の分類",
"description": "\n\n性犯罪は性依存症という病気でもある。\n性犯罪者と一口に言っても、そこにはさまざまな種類が存在する。\n痴漢や盗撮など多様な性犯罪者は、回避受動型・回避積極型・接近自動型・接近確信型の四つに分類できる。\n/*/\n回避受動型と回避積極型は、過去に罪を犯し、現在は性犯罪をやめたいという思いが強い種類の性犯罪者である。\n回避受動型は自らの性的欲求や行動を統制できず、回避積極型は誤った統制をしているという点で異なるが、どちらも犯行を繰り返しているか、繰り返しはしないまでも不安定な状態にあるという点は共通である。\n再犯防止を目的とした治療をおこなう際、回避受動型と回避積極型の性犯罪者には、欲求や行動を統制するための技能訓練が有効である。\n/*/\n接近自動型は、性犯罪をやめたいという意思は強くなく、欲望のおもむくままに性犯罪を繰り返す種類の性犯罪者である。\n接近自動型は、逮捕・受刑・解雇・離婚などがきっかけで、回避受動型や回避積極型になることが多い。\n接近自動型を治療する場合、犯罪者に反省を強要しても成功しないため、犯罪をやめたいという動機づけをおこなったうえで、性依存症は治すことができると知ってもらうことが重要である。\n/*/\n接近確信型は、計画を考え抜いたうえで犯行におよぶ種類の性犯罪者である。\n充分に計画を練っているため、逮捕されることは少なく、性依存症の治療も難しい。\nそのため、接近確信型には社会への悪影響を防ぐ目的から、刑罰で拘禁したり、GPSで位置を監視するなどの対応がとらえれる。",
"part_type": "part",
"localID": 3
}
],
"localID": 1,
"expanded": true
},
{
"title": "不離参",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "ある哲学者のNWの性指向と性のアイデンティティの説明",
"description": "NWの性について考えるとき、我々は、単純に男性・女性という切り口だけでなく様々な点で考えるんだ。主に次の4つの点で考えられている。身体の性、心の性(性自認)、好きになる性(性的指向)、好きになる種族だね。身体の性については、性器や性腺、染色体などの身体的特徴で分けられる性のことで、知類には男性、女性だけでなく、中性だったりなど、様々な身体の性があるね。次に、心の性(性自認)については、自分自身はどんな性だと思うかということで。身体に関わらず、自分を男性だと思う人、女性だと思う人、中性だと思う人、性別は決めたくないという人など様々なんだ。そして、好きになる性(性的指向)は、好きになるかならないか、なるとしたらどんな性の人を好きになるかということだ。異性を好きになる人、同性を好きになる人、どちらの性も好きになる人、性別で好きになる人を決めたくないという人、特定の誰かを好きにならない人など、これも様々な人が居る。最後に、好きになる種族だ。同じ種族だったり、他の種族だったりと、これも種族の数だけ様々な形がある。これら4つの点を、それぞれ組み合わせた数以上のセクシュアリティ(知類の性のあり方)があるんだね。ひとつとして同じセクシュアリティは無いと考えられるね。つまり、我々は、誰もがそれぞれのセクシュアリティを持っていると考えているんだ。我々は、みんな違ってみんな良いと考えている。もちろん個人的な性を探求はしているがね。セクシャルマイノリティ(知類の性あり方の領域で少数派と自認する人)と言われていた方々も、少数派ではなく考えられるように我々は活動しているんだ。",
"part_type": "part",
"localID": 5
}
],
"localID": 4,
"expanded": true
},
{
"title": "藻女",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "異種族間の性愛について",
"description": "性愛とは本能に基づく愛情とされているが、異種族間でもそれはあるのか。\n種族が違うということが正しく理解できずに起きたエラーなのか、種族が違うというのは間違いで広義では同種族であるのか、その愛は性愛とは違うなにかなのか。\n多くの種族が暮らす世界でその問が生まれたのは当然のことと言えるだろう。\n\n現在なおその問いに唯一の答えは出ないでいる。\nただそのことについて書かれた書籍は思春期には愛に悩むものが手にし、自分が特別おかしいわけではないと安心する礎となっている。",
"part_type": "part",
"localID": 7
}
],
"localID": 6,
"expanded": true
},
{
"title": "櫃善エロイカ",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "えっち哲学に関する十の難題",
"description": "とあるえっち哲学に関する雑誌に掲載された、えっち哲学における未解決、或いは解が複数あるとされる問いである。\n\nこの雑誌に掲載された問い自体、他の哲学書からの抜粋である為、それらの文脈を踏まえぬ解は不正確である、問いの立て方が無効である問いがあるとの声もある。\n\nしかし、専門外の人間に対する分かりやすさや、えっち哲学における基本的な考え方の理解の取っ掛かりになるという事情から、今もこの\"十の難題\"は初級のえっち哲学書にはほぼ必ずと行っていいほど、記載されているのである。\n\n『1.無性愛者と両性愛者を同じ分類に入れられる思想的モデルは存在するか。正とすれば、それは何に基づくか』――引用書籍『性はらせんか、それとも車輪か』\n\n『2.男女間の(全く性的な要素を含まない)友情は成立するか』――引用書籍『男女の関係性における一考察とその反論について』\n\n『3.性を穢れ・罪と見做す宗教的思想モデルにおいて、自らの意思で去勢を行うことは倫理的に是としうるか。否であるならば、それは何故か』――引用書籍『性と宗教』\n\n『4.空想上の女性との恋愛は(現実のものを基準にして)完全であるか、それとも不完全であるか』――引用書籍『童貞・結婚・誕生』\n\n『5.性欲と愛情を切り離せるか。切り離せるとすれば、何故多くの場合において、性は愛と共に語られるのか』――引用書籍『生真面目に性は語られるべきか?』\n\n『6.現行の通俗的な男女関係思想モデルは、男女の立場を交換しても成立しうるか?』――引用書籍『性別の壁を超えて』\n\n『7.精神的に完全なマスターベーションは成立しうるか。正とするならば、それは生殖的な性交を駆逐しうるか』――引用書籍『独り身と性』\n\n『8.生まれた時から去勢され、性的なことを全く知らぬ者は、情欲を抱くだろうか』――引用書籍『\"純粋さ\"と性欲』\n\n『9.性的な芸術は芸術であるか?正とするならば、性的な芸術とその他の芸術に本質的な違いはあるか?』――引用書籍『エロ本は芸術たりえるか?』\n\n『10.えっち哲学はそれ自体性的であるか?』――引用書籍『えっち哲学に対するメタ哲学』",
"part_type": "part",
"localID": 9
}
],
"localID": 8,
"expanded": true
},
{
"title": "犬村",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "ごはんの種",
"description": "・「哲学書の執筆」\n\nえっち哲学者は、自身が追求する哲学に関する書物を著し、それを売って自身の生計を立てる。\n著作物を売る方法に関しては、低物理域においては弟子への教育の一環として写本を作らせたり、中〜高物理域においては、出版物としての体裁をとることがある。\n\n・風俗店へのアドバイザー業務\n\n自身の研究と知識を生かし、風俗店への助言を行うことで、顧問料を頂戴するケースもある。\n(初心者へのチュートリアルとしての側面もあるが)\nこれは、プレイを行う店において、施術される側に危険が及ばないような方法を提示・伝授することで、店と顧客の双方に害がないようにすることを目的としている。\n性の知識を以ってwin-winの関係を構築することで、よりよい関係性を築くのだ。",
"part_type": "part",
"localID": 11
}
],
"localID": 10,
"expanded": true
},
{
"title": "鈴藤 瑞樹",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "フジスズー教授のサドマゾ論",
"description": "\n\n以下の内容はすべてフジスズー教授の妄想です。\n\nまず、あらゆる知類のサディズムやマゾヒズムとは状態であり、固定されたものではなく、体調や状況などによって左右されうるものである。\n白と黒の二元論で語ることができるものではなく、中間色が無数に存在している、可能性の庭園たるものがサドマゾであると考えられる。\nまたサディストとマゾヒストは組み合わされることで相乗的に幸福を生産する。ひとりでは完成しないのである(もし単体で完成しうるサディスト、マゾヒストがいるとすれば、それはサドマゾとはまったく違う何かであろう)\nしかしこの組み合わせを作るのはとても難しい。\nさながら鍵と鍵穴のようにぴったりと組み合わされるサドとマゾがこの世界で出会う確率はごく低い。\nではこの世界に存在するサディスト、マゾヒストは不幸なのか?\nもちろんそんなことはない。世界を見渡せば多彩なサドマゾの組み合わせで満ちている。\nこれはサディズムとマゾヒズムが状態である、ということに起因している。\n我々は相手に合わせて変わることができる。\n少しづつ、二人の形を最適化させていけば良い。\nもちろんうまくいかないことも、失敗することもあるだろう。それでも我々は前に進む。\nこの行いを私は愛と定義する。\n\nこの記述が誰かの幸福に寄与することを願って。\n\nムイズキ・フジスズー著\nサドマゾ論より抜粋",
"part_type": "part",
"localID": 13
}
],
"localID": 12,
"expanded": true
},
{
"title": "三浦介",
"description": "",
"part_type": "group",
"children": [
{
"title": "「ポロット実験」",
"description": "\n「いまあなたの前にひとつのレバーがある。そのレバーを右に倒せば5人の巨乳美女があなたの前でおっぱいをぽろっと出す。レバーを左に倒せば1人の、ただしあなたの意中の女性があなたの前でおっぱいをぽろっと出す。これらによりあなたが一切の社会的不利益を被らない場合、あなた=被験者はどちらにレバーを倒すのか。えっちが性欲なのか愛なのかを判断するえっち哲学上の思考実験」",
"part_type": "part",
"localID": 15
}
],
"localID": 14,
"expanded": true
}
],
"expanded": true,
"localID": 0,
"description": ""
}
]


[No.97] 2020/02/22(Sat) 14:33:35
サディズム論〜マゾヒズムと死への欲望 (No.78への返信 / 1階層) - 寅山 日時期@詩歌藩国

 以下の文章はえっち哲学者たち御用達の書物『エッチカ』に掲載されている文章である。

 著名なえっち哲学者の1人、ティグレー・ヒジーキはそのサディズム論をこう語る。そもそもマゾヒズムとサディズムは別々のものです。自身が受けた心身の苦痛を自身の性的な快楽につなげるのがマゾヒズム。他者に与えた心身の苦痛を自身の性的な快楽に繋げるのがサディズムです。また他者に屈服/服従することで快楽を得るのがマゾヒズムであり、他者を屈服させることで快楽を得るのがサディズムであるとも言います。被虐の快楽と加虐の快楽とも言い換えることもできないことでも有りません。この2つの性的嗜好の名称はそういった嗜好を持つ知類が主人公として登場する物語を書いた作者の名前から取られています。佐渡という小説家とマゾーヌという演劇家の名前がもとになっています。佐渡は他者を傷つけることで自身の快楽を感じる知類を主人公として描き、マゾーヌは他者から傷つけられることで快楽を得る知類を主人公として登場させたのです。佐渡の作品に描かれているような状態だから佐渡イズム=サドイズム=サディズム、マゾーヌの作品に描かれているような状態だからマゾーヌイズム=マゾヒズムと呼ばれているのです。イズムとかヒズムというのはそういった性格という意味です。サディズムを持つ者をサディスト、マゾヒズムを持つ者をマゾヒストとも言います。あるいはそれらはサドとマゾという略称を持っています。現在ではこの二人の著者はすでに亡くなっていますがその作品の影響は残っています。両者の作品とも発表当時には毀誉褒貶含む大きな反響があったと伝わっています。

 佐渡の作品は、人を痛めつけ殺すことで自身の快楽を得る知類を主役にしたものでした、もちろんすべてはフィクション/創作です。佐渡の作品では権力者がその権力を使い、あるいは社会の底で暮らす知類がその闇のなかで、一般的な生活を送る者たちを攫い心身を苦しめ殺し、あるいは策略をもち不幸にし自死に追い込むのです、そしてそのことで佐渡の描く主役たちは性的な快楽を得ます。一方マゾーヌが描く主人公たちは他者から痛めつけられることで性的な快楽を得ます。
 
 こう書くとまるでこの二人の作者が描く主人公は苦痛を他者に与えることで快楽を得る者と他者から苦痛を与えられることで快楽を得る者。他者を屈服/服従させることで快楽を得る者と他者に屈服することで快楽を得る者と、苦痛と屈服/服従を通して分かり合え補強するあるいは依存する者同士のようにも思えますが、サディストとマゾヒストは決定的に違います。それは佐渡とマゾーヌの作品を比較すれば一目瞭然です。これを読まずにサドとマゾを語るのは海を一度も見ずに海のことを語るのと同じことです。佐渡の作品では主人公は多くの者を拉致監禁し痛めつけて殺します、自身の快楽のためにです。そこで重要なのは量です。質はあまり関係ありません。ここでいう質とは殺す者と殺される者との関係性や、殺される者の気持ちやいたぶられている最中の心情のことです。佐渡の主人公たちにとってそれはあまり意味がなく、自身の性的な快楽とは結び付きません。重要なのは他者をいたぶる時間が多くあることと、多く殺すことです。相手の感情などは問題としません。まるで物のごとく扱いです。それが彼らの快楽につながります。その主人公たちは自らが手にかけた者たちのことなど思い出しません。過去が重要なのではなく、いま現在まさに不幸に落とし、死に至らしめている者こそが彼らの関心であり、快楽のもとなのです。

 一方マゾーヌが描く主人公たちは質を重視します。マゾヒストの関心ごとは量ではなく質なのです。マゾーヌの主人公たちはただ他者からいたぶられ痛めつけられ辱められただけでは性的な興奮はしません。彼らは誰に痛めつけられたのか、どのように辱められたのかを重視するのです。自身が理想とする人物に従い、理想とするいたぶられかたをされたい。彼らにとってはその経験の質が重要であり、最高のものを得られればそれは永遠に反復くする思い出になりえます。マゾヒストの快楽は痛めつけてくれるのならば誰でもいい、どんな方法でもいい、というわけではありません。マゾーヌの作品にあたるとこれがよくわかります。その主人公たちは屈服し自分のことを苦しめいたぶってくれる人物を自分自身で選びます。それもきちんとした契約を結び、自分を服従させてくれる相手にそれに相応しい立ち振る舞いを求めます。いわば、痛めつける者と痛みつけられる者が互いの立場に見合った演技をするのです。この関係性を共犯関係とも言い換えることができます。これもサディズムとは違うところです、サディズムの場合は痛めつけて最後には殺す相手の了承も得ずにその者を浚い、あるいは計略にはめて不幸に落とすのです、この関係は一方通行であり、そこには演技も契約もありません。サディズムの関係は共犯的ではなく、正に加害者と被害者のそれです。

 サディズムの単純明快さと違い、マゾヒズムは複雑です。サディストが相手に演技を求めず、いたぶる相手への演技もしないわけですが、マゾヒストは服従する相手にそれにふさわしい態度を求め、自分も屈服する者としての演技をするという双方の演技関係、求め合う関係があるが故に関係は複雑です。サディストにいたぶられる不幸なものは関係を一方的に破棄できませんが、マゾヒストは演技ゆえに双方がその関係を破棄できます。また演技ゆえに相手にそのプランの訂正さえ求めることがあります。そして服従させる者と服従する者の関係の逆転……とまではいかなくても関係の液状化が起こります。どちらが主でありどちらが従であるのかが根本的な部分で曖昧であり、瞬間ごとに入れ替わりさえするのです。

 そういった点で安全な範囲で行われるマゾヒストとサディストの性行動は、相手を殺さない、相手の快楽も考えるという点で両者が演技をしており、それ故に実のところマゾヒズムの行いなのです。たとえ殴り殴られる関係であっても互いに演技をし配慮があるならば、サディスト的な行動でさえ、実はマゾヒズムの文脈の上にあるのです。また逆にマゾヒストであってもそこに演技もなく物のようにいたぶられ殺されたいと望むならば、それはサディズムの文脈の上にあるとも言うことも出来るのです。

 そういったマゾヒズムの文脈上の行いで自身の性的な快楽の欲望を満たしそれで良しとする、というサディストもいるという点で、この甘く幸福な関係こそあのフジスズー教授が語った『サドマゾ論』の中で描かれた誰かの幸福につながるかもしれない愛なのです。それは素晴らしいことだが、そこからはサディストが零れ落ちているのです。あの質よりも量を求め、無慈悲に無遠慮に他者の死と不幸を求め、それにより快楽を得る者たちが。

 その者たちが持つ欲望をここでは<死への欲望>と呼んでおくことにしよう。他者の死と破壊と屈服による快楽。思えば死への欲望などは知類にとって普遍的なものではないのか。スポーツやゲームで相手に勝利する、圧勝し叩き潰す快楽、これも死への欲望ではないのか。なるほどそれが例え殴り合いにより痛めつけられた肉体の血が噴き出て事故による競技者の死さえもある激しい格闘技であってもそれはルールが敷かれた上での競技であり、その結果の勝利の快感と喜びでさえ、その競技の行いとはある種の演技であり故にマゾヒズムの文脈の上でのことだとも言うこともできる。しかし多くの者がその幼き頃に蟻や小さな虫を無意味に殺したことがありそこに面白みを感じた経験がある。部下や子供を従わせる快楽。権力のうま味。他者の上に立つ万能感の喜び。学校や職場でのいじめ。犯罪は撲滅せず、戦争は現に幾度も起こっている。その終戦の、勝利の喜びは来るべく平和の安堵よりも上回るものではないのか、あの他人を屈服しそれにより勝利したという快楽は。子供の時に捻り潰した蟻の快楽の延長に敵国の死んだ国民がいる。多くの戦争論者が語る良い戦争、それは質のことであり、戦争の良質とは被害の最小と最速の合意の形成、あるいは最速の勝利である。がいまだにそんな戦争は起こったことがない。戦争の本質は多くを殺し破壊すること、つまり質よりも量なのだ、良質の戦争などは起こりようが無い。サディズムの本質と戦争の本質は一致する。言を繰り返すがそんな戦争は現に起こり続けている。もはや死への欲望が知類において普遍的なものであることは隠し通せない。そんな死への欲望を戦争という国家規模の出来事ではなく、個人の範囲でまっとうし欲望を充足させんとするのがサディストなのだ。あの幸福なマゾとサゾの演技の上での行為ではサディストは満足しない。もっと無許可に無遠慮に他者を殺し、壊し、屈服させなくては……。そして質よりも量を求めるその欲望は永遠に満たされることがない。

 と、これは決して破壊への誘惑ではありせんし、戦争や性的なものも含むあらゆる暴力への肯定でも些かもありません。ですが現実にサディストはおり、ある者はその欲望を叶えんと犯罪に走り、ある者は欲望の充足を耐え、ある者は別の物事の代理により欲望の解消を追い求めます。現にサディストは生きているのです。それを語らないこと、無視することは、そういった人々を疎外することそのものです。フジスズー教授が語ったように実は知類はサディズムとマゾヒズムを両方持ち、時や気分によりそれが変動します。言い換えれば多かれ少なかれ、どんな知類もサディズムの根源である死への欲望を持っているとも語ることができるのです。死への欲望はどこかの誰かが持つ恐ろしい性的な欲望ではなく、私もあなたも持っているものなのです。そこから目をそらし続けるのは私には得策には思えません。もちろん、見続けるのも……ねぇ。暗闇を見ているときは暗闇をこちらを見ている、という言葉もあります。だからこそえっちで形而上学のことを考えるプロフェッショナルである我々のようなえっち哲学者がいるのです。えっちは快楽に密接し、快楽とは知類の根本的な感情や行動の動機のひとつですからね。

 戦争や殺人も悲しいことであり、立ち直れないほどに打ちのめされることであるのを私たちは知っています。勝者であってもです、勝利と破壊の快楽は一瞬であり、その次にはあの長く辛く悲しい時間が続くのです。まるで射精のあとのクールダウンの時間のようにです。なのにも関わらず戦争は、暴力は繰り返し起こり続けています。戦争は政治や経済や地理そして歴史などが合わさった複雑な要因で起こります。ですが私はそこに人々の死への欲望を満たさんとする願望も加わっていることを疑っていません。

 思えば、なぜ我々は暴力で性欲を満たすことができるのでしょうか?言い換えましょう。なぜ我々は破ろうと思えば自身の快楽のために法やオーダーさえ破ることができるのでしょうか?我々の住むこの広い世界ではある場所では神が実在し、ある場所では巨大な機械が空を飛んでいます。禁止しようとすれば、法ではなく、もっと別の方法で我々の……知類の行動を制御できるのではないのでしょうか?法ではなく別の仕方で犯罪や戦争を禁じればいいのです。ですが、神や空飛ぶ機械はそれをしていません。私たちは犯そうと思えば自身の快楽のために法を破ることもできます。なぜでしょうか?なぜ我々には他者を殺してでも快楽を得ることも可能としている自由な意志と、肉体があるのでしょうか?

 それは私たちに神やあるいは別の存在が、知類の内にあるあの死への欲望をどうにかしてみろ、と言っている、いや、それが出来るはずだと期待しているからではないでしょうか?死への欲望がなぜあるのか?については多くの者が各々の論を展開しています。ある者は野生時代の狩猟本能の残りだといい、ある者は防衛本能の欠片といい、ある者は子孫繁栄のためだといい、ある者は進化と発展に必要なものなのだといいます。どちらにせよ死への欲望が知類の本能的なものには違いありません。故にそれがなくなるとは私には思えません。なくなったらそのとき多くの知類は……。戦争が、争いが、いつの時代どの世界にも知類が存在する限りきっとあるだろうことと同じようにです。死への欲望はもはや延々と知類の内側にあり続けるものであり、またそれ自体を神や別の存在は強制的に禁止してもいません。しかし放っておいて良いものでもありません。放棄するのでもなく禁止するのでもなく、また無邪気に実行するのでもなく、そのさなかで、我々は死への欲望とどのように付き合えって行けばいいのでしょうか?

 もちろん私は、私がいま話している論から、ありとあらゆる知類を取り除くことはありません。知類には繁殖はするが生殖はしない者が居ることを私たちは知っています。そういった知類の本能とはなんなのか、そういった知類の死への欲望とはどういったものなのか、ということも含めてこの論を進めていきましょう。

 死への欲望は知類の内に永遠にある、ですがそれと向き合い、ではどうすればいいのか?と考え続けることはできます。答えは出るかもしれないし、延々と出ないかもしれません。ですが、考え続けることはできます。そして幾ばくかでも分かったことをほかの者たちに伝え残す、次に生きる者たちのために。それも私たちえっち哲学者の使命なのです。


[No.99] 2020/02/23(Sun) 22:51:24
以下のフォームから投稿済みの記事の編集・削除が行えます


- HOME - お知らせ(3/8) - 新着記事 - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - 環境設定 -

Rocket Board Type-T (Free) Rocket BBS