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春アニメの最終回ラッシュで、夏のネタは自分的には見えず。 一応、ガメラの流れで、鳥山明さんの「サンドランド」を見てみるつもりですが。 夏用に季節限定の汎用スレでも立ててみるかな。何かスパロボで、新ネタが来るとも思いますし。 一応、ここでの話題で紹介だけすると、日高さんが感想を完結させた『魔神創造伝ワタル』が期間限定イベントで、スパロボDDに登場して、本家の『魔神英雄伝ワタル』とコラボしました。 自分のブログで話題にしてますので、興味があれば、と。 https://whitenova.hatenablog.jp/entry/2025/06/22/063334 ともあれ、ブレイバーンもそうですけど、最終回直後にスパロボとコラボ、というフットワークの軽さが、DDの特長ではあります。 本家でできないことを、スマホ機でできるのはいいな、とも思ってます。OGとか、旧作第3次のアナザー版とか。 とは言え、『水星の魔女』はDDには出ていなくて、Yが初参戦なので、それはそれで追いかけたい所存です。 ★ガメラ 感想は先にこちらから。 一応、風呂敷は畳めたかな、とは思いますが、ジュブナイルとしても、怪獣対決ものとしても中途半端に終わったな、と考えます。 ガメラが令和の時代に復活! というだけで作品価値はあるのですが、ノスタルジーやオマージュ以上の新鮮さは感じず。 海中戦闘という舞台が面白いジグラ編と、怪獣のアクションバトルが堪能できたギロン編までが、ワクワク楽しめて、 いろいろとどんでん返しで、ワクワクを盛り下げたバイラス編が、個人的に作品価値を大きく削いで、エスギャオス編もラスボス戦にしては盛り上がらなかったな、と(自衛隊の戦車群の健闘はいいんですけどね、もっと早く見せて欲しかったです)。 ガメラが満身創痍で本調子ではなく、バトルの絵面も、ギロン戦のような丁々発止のやり取りがなく、舌による変なウイルス注入という「巨大生物同士の力のぶつかり合い」という怪獣バトル物のダイナミックな絵を見ることもなく、 主人公ボコが、ピンチのガメラを助けるべく、コードによる何らかの特殊能力を派手に見せるでもなく(ウイルスによる洗脳の浄化ぐらいはしてたけど、演出が淡々としていて、本人も自分の中のコードの意味を知ることなく終わった)、ただの「ガメラを応援している、感受性豊かで無鉄砲な子ども」以上の役割を示せなかった。 ジュブナイルとして見た場合、ブロディやジュンイチには、それぞれのドラマと成長が描かれたのに対し、ボコだけが個人ドラマとしての見せ場なく終わって、ジョーとのケンカからの和解が一応、ドラマなんでしょうけど、その後でジョーが自己犠牲で散ったために、「ガメラとの関係性」以外の役割が本当になくて、主人公としてはイマイチ、という評価。 これは、ガメラが基本的に、バトルで突然出現して、終われば子供たちと交流するでもなく去って行くという淡白な描写しかなくて、ガメラがただの戦闘兵器以外の扱われ方を示されなかった点。 例えば、少年と勇者ロボとか、平成ガメラの勾玉を通じた精神的リンクとか、昭和ガメラの茶目っけある擬人化されたようなガメラのキャラ付けでもあれば、もっとガメラにもボコにも感情移入できたのでしょうが、 ボコが持つコードによる「ガメラとの親和性、およびガメラの回復能力などの増幅」が視聴者向きの情報ではあっても、劇中人物が(死んだエミコ以外)分かっていないという点で、「ただのガメラ好きの子ども」と「特別な資質を持った子ども」という違いを、劇中では曖昧に描写された(本人も自分が特別だと思っていない)。 ボコ個人の成長ドラマがスポイルされて、終盤の風呂敷を畳む展開に突入したために、エミコが本性を表して、ボコの秘密を(視聴者だけに分かるように)示して、ボコは「子どもたちを怪獣の生け贄に捧げる古代人の暴挙」は知ったけど、「それに対抗するガメラが、対怪獣の最後の希望」だということも知ったけど、自分自身の特別性は知らないまま、良かれと思って衝動的に無鉄砲な行動をとる。 ガメラを守るために自ら囮になったのは、ジョーの自己犠牲をマネた破れかぶれの行動に見えたけど、ガメラが無理やり復活する起因になっただけで、ボコの成長を描いたわけでもない。元々、ボコが臆病だったのが勇気を出して……とか、精神的葛藤を経ての大胆な行動でもなく、ジョーというブレーキ役を欠くと、衝動的で何をしでかすか分からない(だけど力を持たないので保護者を必要とする)性格は変わらないまま、ドラマを通じた変化が何もない主人公、と。 ジュブナイルは、少年少女のドラマを通じた葛藤や成長を描いてこそ、だと考えますが、最終話は「自分を守って、ジョーも死んだ、ガメラも戦闘不能に陥った」という悲しみで張り裂けそうになった気持ちの彼が、「ガメラを守る」という使命に独り善がりに目覚めた結果、周りを振り回すだけになった。 ある意味、ジークアクスのマチュやニャアンの方向性に近い、とも言えるのかな。どっちにより近いかは、検討の余地があるけど、状況に流されて無鉄砲な行動をとりがち、という点で、感情移入対象にはならないな、と。 ブロディやジュンイチの方が、中盤までで人物造形が掘り下げられた分、まだ感情移入しやすくなっている。ボコはタガが外れた形になったのを、何とか現実に引き戻されて日常回帰した形ですが、ラストの「無線機から聞こえる生きていたジョーの声(どうしてかは不明)」は、一応のハッピーエンドの演出っぽいですが、ボコたちがそれを受け止めた描写がないので、宙に浮いた形になっている。 小学校男子たちのヒトナツの過酷な経験が終わって、別れ別れになったけれど、それぞれ成長した幕引き……と思いたいながら、ボコだけが成長したと思えないので、少年主人公として何だったのか、とモヤモヤが残った作品でした。 (長くなったので、ジークアクスは記事を分けます) [No.718] 2025/06/28(Sat) 11:49:28 |