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仏仏辞典の学習から連想された言語の構造 / 水上雅敏
その外国語の辞書、たとえば仏仏辞典など使うと、意味を調べても、さらに知らない単語が出てきて、結局わからない単語のほうが多くなった、ということにもなりかねません。しかし、そもそも言語と言うもの自体そういうものでしょう。母国語でも。だからこそ、ひとつ語を聞いてもいろいろと多くの言葉が連想されるのだと思います。いつまでも仏和辞典で学ぶことは、この連想に歯止めを常にかけ続けていることになるでしょう。仏仏辞典で学べば、上記したように多くの連想もまた仏語で行われてくる、いわば、前意識が仏語化されてくることになると思います。そして欲望を仏語に乗せて語ることもできるようになるでしょう。

たしかに、仏和辞典で調べると意味はすぐに分かりますが、仏仏辞典で調べてわからないまま多くの語や文が留保されたとしても、何かの機会に、一つの語の意味が予想ついただけで、同時に、その語と連鎖していた多くの語や文が芋づる式にわかってきたりもして、結局は、後者のほうが幾何級数的に理解度を増してくれて、前者の成長スピードを追い越してくれることにもなりはしまいかとも思います(数学的に、このスピードを比較する式を作れそうでもありますが・・)。

たしかに「最初の幾つかの語は和訳を知らないととっかかりができない」という反論は一見納得しそうです。しかし、たとえばLet's go!などというのは、和訳しなくてもイメージ化できるから、そういうのがいくつかあればそこから進めていけるのではとも思われます。いずれにしろ、そういう議論を聞くと思い出すのは、中学の教科書だったかで読んだ、解体新書の翻訳の話です。「フルヘッヘンド」が「高くなったところ」との意味だ、と分かっていただけで、そこをとっかかりに訳していった、という話だったと思います(多少記憶違いがあるかも)。

では、単語のひとつの訳がわかっているなり、イメージと結びついていれば十分なのか?

ウィキペディアの循環論法には次のようにあります。「有限の語彙の集合を用いて語彙全体を解説しようとする辞書や百科事典は、その構造上、定義されていない語を用いて定義を行うか、循環を含んだ定義を行うことが避け得ない。ここで挙げた東西の例のような循環の輪が狭い場合は既知の事柄が少なくなり有用ではないが、全体として循環の輪が大きければ、既知の事柄が多くなり有用となる。このように、循環の輪の中に既知の事柄が1つ以上あれば循環定義であっても有用となりうる。」

しかし、一つあればよいと言うのは、全体が関連付けられて体系化していてこそでしょう(どういう関連であるべきかはまだ考察不足ですが)。解体新書と言う限られた語数のものでは全体が体系化していず、むしろ切れ切れにさまざまな単語が入ってきているのでしょうから一つ訳がわかっているだけだとだめでしょう。そこで調べてみると、「フルヘッヘンド」から訳を始めたというのは杉田玄白による作り話のようです。

実際には、
「1.最初に絵を探す。291ページ目に有る絵に、人間の頭の上に「A」と符号が打ってある。
2.次に「A」の符号に対しての説明文を探す。
3.その文中の単語を1個づつ蘭蘭辞典で探す(その文章は頭について記述してあると推測される)。
4.その単語について辞典に書かれている説明文に出てくる単語を1個づつピックアップする。
5.その単語が、他に別の文章で使われていないか探す。
6.その単語が出てくる箇所を見比べて、その単語の意味を推測する。
という作業の繰り返し。
アルファベットも知らないところから医学書を訳すのだからすごい。
大文字/小文字から始め、筆記体は日本語の楷書と行書の違いだと知る。文法も日本語と違い述語が目的語より前に来る事(SV,SVO型)を漢語と同じであることと見抜く。」
・・・ということのようです。以上、
ttp://www.nakanishi-keiichi.com/mt/mt-search.cgi?blog_id=2&tag=%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89&limit=20
より。

「(以上の)作業の繰り返し」とあるように、Aと頭の絵の対応からすべてがわかったわけでなく、やはり、いくつかの、絵などの、言語外のものとの対応が糸口とされたのでしょう。

しかし、ではそのような対応(イメージとの対応にしろ、翻訳にしろ)が、最低いくつあ
ればいいのか? 

ふと、素数定理(ある数Nまでの素数の割合は近似的に1/logN (底はe))など使えないか、とも考えました。ある人が今使っている多くの単語は、それ以前のすでに知っていた単語の組み合わせで定義できるはず。そういう単語は合成数と考えて、今持っている語彙数をNとしての、1/logNの割合の単語が言語外のものとの対応が必要(そういう単語は素数と考えるわけですが)と言えるではないか・・。と考えましたが、同音異義語があったり、同義語が有ったりも考えるとそうでもないかも知れず、まだあまり深く考ええてはいません。

と、ここまで言ったところで、ふりかえってみると、そもそも「ではそのような対応(イメージとの対応にしろ、翻訳にしろ)が、最低いくつあればいいのか?」という問いに問題があるのに気づきました。これでは人の言葉の根本のところには、イメージとぴったり対応した語がある、と考えていることになります(これはむしろ、4つ輪のボロメオの第1のエラーの構造を連想させます)。 最初の話(確定した意味に行き着かないからこそ一つの言葉を聞いて色々な言葉が連想される、という旨の)からずれてしまっています。正確には、根本にある、素数的な対応物と言うのは、無に一番近く接している語、というかより正確には多分「シニフィアンのセット」と言うべきなのかなと思います。それ以前の言葉では定義され得ない初めてのシニフィアンのセット(無を囲い込むようなフォルト・ダー的な、あるいは機知のような)・・そういうセットがいくつあればいいのか、というのが正しい問いなのかも知れません。では、個人の持つ言葉に対するそういうセットの割合を素数定理で表現できるか?・・、あるいは最初のフォルト・ダーだけがあれば十分なのか・・、まだ、つきつめえていません.また、素数定理をこう考えた場合、それはラカンがどこかで言っていた「父の名が成立するために必要なポワンドキャピトンの数」を見出すことにならないか、とも思いますが、これもまだ突き詰め得ていません。

No.580 - 2013/05/12(Sun) 04:10:43

団体体操と囚人のパラドクス / 水上雅敏
団体体操の練習で一人だけ失敗くりかえし、その人は申し訳なく感じている・・というようなドキュメンタリー時々見ますが、そこでよく思うこと。”みんなが囚人のパラドクスの囚人のようには動けず、その人を各自がタイミングをとるための土台・参照点にしていて、それで、その人を除いてみんなのタイミングがとれているのだ”、としたら、その人はそのための犠牲になっているということになる。そこに皆気づかずに、その人だけが責められている、その人も自分のせいで団体がうまくいかない、と、罪悪感にさいなまされている、としたら、不当なことだな、・・・ということ。

でも、意外と本番はうまくいく、というドキュメンタリーが多いのは偶然?

No.579 - 2013/04/22(Mon) 18:12:18

無へと向けた囚人のパラドクス / 水上雅敏
囚人のパラドクスを、意味や確信を得る(自分の背中の色を知る)、というより、むしろ、不確信のまま、先に動き出せるかの競争、早く去勢を受けて、むしろ無へといく競争として考えてみる・・。ラカン的には最初からそういうものだったのかも知れませんが、・・。

ともかく、そうすると、言語がこの世界に生じるには、少なくとも3人は必要だったということになるか??? しかし、3人で十分なのか・・? 言語は悠久の昔からあると幻想させてくれるほどの、輪郭の見えないほどの昔の先祖の存在は必要ないのかどうか・・がまだ私の中で考察不足。

No.578 - 2013/04/22(Mon) 18:01:58

コンピューターとテュケー / 水上雅敏
「天才棋士、コンピューターに敗れるの衝撃」(週刊ポスト4月26日号)。ソフトは、「ツツカナ」と名付けられているそうですが、この記事の中に、「ツツカナに疑問手が出て形勢は船江の楽勝形に。人間ならばあきらめて形作りをはじめるような局面になったがコンピューターはあきらめない」とありますが、結局ツツカナが勝ったようです。

将棋全くわかりません。疑問手というのは、失敗したかな、というような手でしょうか?

しかしツツカナにとっては失敗だったのか、ソフトに不足部分があったということなのか? しかし、もしかしたら、そういう偶然性も織り込んだソフトなのではないか(・・しかし、偶然性も織り込み済みというのなら偶然性ではないことになるからそういうのもパラドクシカルで変だけど・・)とも思いましたが、以下の記事など見ると、やはりソフトの不足部分ではあったのでしょうか??

ttp://kobachan358.blog.fc2.com/blog-entry-495.html:以下上記より抜粋(将棋を知らない私にはちんぷんかんぷんですが・・):

「△68金と打つ時『ツツカナ』は自玉の頓死筋に気がついていません。詰め手順が長手数の為、詰まされる局面が読みの範囲の外にあり、途中で読みを打ち切ってしまったのです。
気がついたのは数手後、読みの手数の範囲に詰みの局面が入った時でした。既に遅しでした。大損をしてしまい、敗勢の局面になっていました。人間なら悪手に嫌気がさして、諦めてしまいますが、ここからも頑張るのが、コンピューターソフトの良いところです。最後は逆転しました。詰みを読むのはコンピューターソフトの大得意な分野です。何故、自玉の頓死筋に気がつかなかったかのか?コンピューターソフトは膨大な量をしらみつぶしに読みますが、読んだ局面ひとつひとつに詰みがあるかどうかは調べません。ひとつの局面の詰みを読むなら、一瞬てすが、何億と読んだ局面すべての詰みを読むのには時間がかかすぎるからです。『ツツカナ』のハードはPC一台です。PC一台ですべての局面の詰みを読むことはできません。これがコンピューターソフトの弱点ですが、ハードを増強することによってカバーする事ができます。第5戦に登場する『GPS』はコンピューターを何百台と使用しますので、この弱点が補われています。」

No.577 - 2013/04/21(Sun) 15:52:07

声は日中残滓や文字以上に灯台下暗し的か / 水上雅敏
「灯台下暗し」で、無意識が一番手前のものにこそ出やすいとすると(むろん遠い、幼児期場面にも見出しやすいけど)、まさに、いまここの語り言葉を作っているものにこそ出やすいのだろう。

だとすると、夢でも、日中残滓以上に、文字、さらに線(文字を作るもとになるような)、さらに声にこそより灯台下暗し的な無意識が表れてこないだろうか??

声―線―文字―日中残滓    左ほど灯台下暗し、ということで・・・。

そういうことが夢に見出せるだろうか? 新宮先生が意味不明の文字の夢心象のことについては語っていたが、より無意識を直截にもっとも還元されたかたちで表現するものとして夢の中の声を考えられないか?? むろん、還元しきれていないときでも声の夢はありえるだろうけど、理論的にはそのように考えられないか。

No.576 - 2013/04/20(Sat) 05:13:44

日中残滓場面では、覚醒時にすでに抑圧があったのでは? / 水上雅敏
夢での、日中残滓として使われた前日の何かの場面。前日の覚醒時その場面を経験していたときは、それは何でもないできごとだったのだろうか。そして、夢が、夢見中に、夢思考を象徴するに都合がいいから選びだして使っている単なる材料にすぎないのか。

しかし、むしろ、前日、その場面を経験していた時にこそ実はそこに何か抑圧したくなる思考が付随してすぐに抑圧してしまったということがあったのではないか。この場合、夢分析と言うのはその場面(あるいはそれに隣接した場面)に付随していた思考を思い出す、という作業がメインになるのではないか。この場合、夢は、覚醒時において思考の抑圧が起きたポイントを知らしめてくれているだけのもの、ということになってしまうけど・・。

それとも、その覚醒時には、本当になんとも思わなかった場面(とりたてて思考の抑圧が起きなかった場面。起きたとしても他の場面以上ではないような場面)が、あらためて夢で何かの象徴として使われることがあるのだろうか・・。

No.575 - 2013/04/20(Sat) 04:57:10

ペンタドロン / 水上雅敏
片付けしていると、朝日新聞(2012年4月30日)に「立体の「もと」大発見 平行多面体は元素数1である」という興味深い記事を発見しました。平行移動で空間を埋め尽くしえる立体を平行多面体と言うらしく5個しかないらしいですが、そのいずれをも作り上げうる、立体が見出されたらしいです。ペンタドロンというらしく、その1種類の五面体のみでいずれをつくるにも十分で、だから元素数1とされているようですが、実際に平行多面体を作るときには、その鏡像的なペアを使うようです(それでも元素数1というのが数学的に正式なのかどうかは知りませんが)。

ふとペンローズタイルなども連想しましたが、何か共通項はあるのかどうか・・・。ともかく、この平行多面体が空間を平行移動で埋め得て、さらにその立体はペンタドロンで作れる、となると、私たちの空間認識においても、そういうものが、プロトタイプとしてどこかに還元されて明滅していて(たとえば平均顔のように)、そこから翻って、それを基準としてあとは誤差だけを計算するようにして空間認識を割り出しているようなことはないか・・、という考えも浮かびますが・・期待しすぎかもしれません。

以下、ペンタドロンの詳しい説明など。
ttp://www.ohmiya-h.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=7249
ttp://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/1662_g7.htm

No.574 - 2013/04/15(Mon) 02:16:22

佐村河内守 / 水上雅敏
全聾の作曲家佐村河内守について、NHKで最近見ました。その何日か前、何かのバラエティー番組でであったか、耳鳴りは、本人が外界に対して聞こえにくくなっている周波数のものが聞こえる、という話があったのも、この番組への興味を高めました。記憶から掘り出して書くので間違いも多いかも知れませんが、たしか、佐村河内氏の耳鳴りは、低い轟音のようなものらしいとのこと。ということは、特に低い外界の音がつかめにくいのか・・。そのへんは何も言及がなく、彼の耳鳴りのもとになっている診断名も流されていませんでした。しかし、ttp://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-9e7a.html によると、片耳は弟の交通死をきっかけに聞こえなくなったとありますから、すべてでなくとも部分的には心因の可能性あるのでしょうか?? 

特に興味深かったのは、その耳鳴りの中ではラの音が流れ続けているとのこと(たしか・・。私の記憶あいまいなのですが・・。)。番組では、耳は聞こえずとも絶対音階が作曲を助ける、と解説されていましたが、実は耳鳴りのラが助けてくれていてこれを基準としての相対音感ではないでしょうか。そしてそこからの相対音階の感覚が作曲を助けているのではないでしょうか。どうも、絶対音階と相対音感があまり区別されていないように思います・・。私の区別のほうが間違っているのでしょうか・・。それはともかくラの音が流れ続けていること自体が理由不明で興味深いです。カオスの中にも法則ができてくるようなものなのか。常に作曲を続けているときに意識に音階をいろいろめぐらすその残余としてラが選べれ続けていたりしてのその反映なのか・・?

それと、たしか、作曲は、そのじゃまになる耳鳴りをかき分けて音を取りに行く感じで大変、というような話があったように覚えます。そのじゃまがなければいいのに・・ということにはなるのでしょうが、もしかしたら、それは、マイナスあってのプラス、フォルトあってのダー、のように、耳鳴りと作曲が相互的に存在させあっているのではないか、・・とこれはいまのところあまり根拠のない考えですが、そういうことを考えさせられました。

少し話はずれますが、最初述べた、「耳鳴りは、本人が外界に対して聞こえにくくなっている周波数のものが聞こえる」という話、脳がかつて音を感じ取れていた時につくられたニューロンの構成、働き方をかつてのままに保ち続けるための自作自演みたいなものなのでしょうか? 幻肢の聴覚型のようなものではないか、などとも考えさせられます。外界からくる信号をつかめなくなる時(現実界と象徴界の疎通性・弁証的なかかわりが弱くなる時)、その欠如を過剰に(本人に苦しみを与えるほど)補うかのように自分で等価物を作り上げてしまうということは、「赤」という神経的には(目の錐体からは)あまり刺激を得ていないはずの色こそむしろ刺激的な色に感じられたりすることなどを連想させます。

No.573 - 2013/04/04(Thu) 16:44:23

はじめに空回りがあった―現実界一元論試論― / 水上雅敏
まったく言葉に接したことのない子供を何人かあつめるとそこに言葉が生ずるか(そもそも親あっての子供で、親同士の会話を胎内で聞いているはずだから、ありえない理想状態を前提としたはなしですが)。以前は私は否定的に答えていたと思います。しかし、”「常識」とは、皆はこれが常識だと思っていると個々人が勝手に推察しているところ、よしんばその共通項に過ぎない”というのと同じくらい、我々の言葉と言うものも根拠がなく、つまりシニフィアンとシニフィエのつながりには根拠が無く暫定的で、個々人でもズレがりうる、と考えると、私たちは言葉と言う特殊なものをどこかから得たと思っているだけで、子供が何人か集められて、互いが理解しあっているのかどうかわからないような関わり方でかかわっているのと構造的にはそんなにかわらないのではないか、そういう意味では、そういう子供の集まりでも言語は生じ得る、と言えるのではないか、という考えに傾いているところです。

人間は空回りする(早生まれ過ぎて、不調和な身体で反射的に反応できない、ということなど)という考えを突き詰めていくとそういう考えになったわけですが・・。

つまり、最初は現実界と想像界の存在だけを考えるわけです。他者と同一化して統合体にしがみつこうとする想像界と、無であって、その統合をばらばらに崩していく現実界との極端な対極の弁証法を考えるわけです。統合体が大きく裂かれても、その間に統合体を産もうとする弁証的な動きの連続が、オー・アー(フォルト・ダー)など2音素対立から、さらにその裂け目に、さらに多くの音素の対立項を増殖させ言葉を作っているのではないか、そして父の名というのはこの裂け目の輪郭に過ぎないのであって、起源を想像界を崩していく現実界の「無」性そのものに求められるのではないか、と考えることもできるように思うのです。

しかし、そこからどのように子供間で、シニフィアンとシニフィエのつながりの暫定的な共通項が生じてくるか? そこがまだはっきりと理論化できていませんが、おなかがすいた時に、たまたま「あ」と言うと、相手がたまたま食事を差し出してくれた、という偶然性が反復して、ある個人の中で、「あ」が食事の記号として結びついた。そしてその個人においては他者は鏡像であって自己と区別できていないから、おせっかいにも相手が「あ」と言ったら他者を自分とまちがえて食事をさしだすようになり、その相手にとっても「あ」が食事の記号となるようになった。これだけだと行動主義の条件反射みたいなものですが、違うのは、人間の場合、上記のように空回り(想像的統合体が安定せず現実界で崩される運命にある)するものですから、この条件反射的な結合も確固としたものでなく、常に崩される、換言すればすぐに個々人によって疑われる(「あ」は本当に食事なのか、と)運命にあるということです。そういう疑いもありつつ、とりあえず複数の子供の間で長引いて存続しているそういう共通項(これも疑われつつですが)として、シニフィアンとシニフィエのつながりの暫定的な共通項が生じたのではないか、とも考えうるように思います。
むろん欲求を満たすためだけの言語を考えるつもりはありません。窮屈な同一化をさけようとする想像界(いわば現実界の方向性に協力するような想像界)―それはまた別の次元での同一化によって、それもまた他者との共通な言語へと発展していく可能性もあるものでしょうが―もあるはずでしょうから。

いわば空回り(現実界)の空回り(想像界)の空回り(想像界の裂け目―上記のような疑いによる―。あるいはそれを象徴界と言ってもいいかも)がここにあって、それが言語を作り上げている、と考えることもできるように思います。マイナス(現実界)×マイナス(想像界)×マイナス(象徴界)とか、穴(R)の穴(I)の穴(S)(←『メビウスの帯』(日経BF社)8pを模して言うと。RISはここで付したものですが)、流れ(R)のうず(I)のそのまたうず(S)、と言ってもいいかも知れない。さらにこれらすべての空回りを現実界の仕業と考えて、現実界一元論から考えてみることもできるのではなどと考えているところです(むろん、まだ疑わしいのですが、ひとつの試みとして)。そもそも、想像界―何かのかたまりを鏡像と見てそれに同一化するという想像界―自体、そのかたまり、例えば、ある一つの音声を取り出してみても、それは、外界からくるボトムアップの波と、大脳からのトップダウンの波の相互作用が作り出した、実体のない空虚なものにすぎない、と考えると、こう考えるのも無理ないように思えます。別段、そう考えたところでどうなるというわけではありませんが、ともかく、こういう空回りの多重性を考えると、ニューロンの構成や信号の伝達の仕方とも合致する側面を見出しやすくなるのでは、とは思います。

こう考えると、言語の発生する動きは無へむかう(現実界に引き込まれて、統合体が緩められていく)人間として非常に自然なことであり、言語は、どこか外部からぽんとやってきたというような特異な点を考える必要もなくなり、最初からあったのだ―今も常に生み出されていて―と考ええるように思えます。となると、「父の名」(上で述べたような、想像界の裂け目の輪郭としての)も、むしろ最初からあると考えるのが自然なものになるわけです。ちなみに、そう考えると、「父の名」を排除している分裂病者は、不自然な無理な努力を重ねている、ということになります。空回りの理論に基づいて見直したニューロンの構成や働き具合に、この父の名の排除がどう反映されているのか、を見るのは興味深く思えます。

ただ、まだ、新しい言語が生まれるのは、子供2人で十分なのか、3人以上いないと私たちのような言語は持てないのではないか、あるいは、やはり、もっと人数と歴史が必要なのか、その限界が見られないくらいの(←これだと、結局言語はまず外部に用意されている、というかつての考えに近づいてしまうわけですが)・・?という疑問は残っていますが・・。

No.572 - 2013/04/03(Wed) 14:23:51

記憶と刺激の合成あるいは弁証法 / 水上雅敏
前書き込みの件、面白さをまだ上手く伝え切れていませんでした。顔の動きと連合した音声の「記憶」と、「今来ている波あるいはその波の解釈」とが合成(あるいは弁証化?)されて、実際のba とgaの間の音daが聞かれてしまう、というのが面白いわけです。頭の中で記憶のみに基づいて音を再現してみた場合、たしかに実際にその音を聞いた場合のような波が(これが、器官からボトムアップしてきている波か、それに対する解釈的なトップダウン的な波かはわかりませんが)起きているのだろうか、という疑問も出てくるわけです。
No.571 - 2013/03/18(Mon) 03:54:51

解釈自身が知覚意識化する? / 水上雅敏
ttp://www.design.kyushu-u.ac.jp/~ynhome/JPN/Auditory/Book/basic-term.html
「聴覚心理学基本用語集」、結構面白いです。

少し抜粋します:
McGurk effect
音韻知覚に関する、聴覚的な手掛かりと、視覚的な手掛かりとを、くい違ったものにして、同時に呈示すると、二種類の手掛かりが引っ張りあうような知覚の生ずること。例えば、/ba/と発音した音を、聴覚刺激として与え、/ga/と発音した顔の動きを、視覚刺激として与えると、多くの場合、音声としては /ba/と/ga/との間に位置づけられる/da/が聴かれる。この場合、被験者は、手掛かりの一部を目で見たとは感じず、耳に/da/が聴こえたと感ずる。:

→視覚器官から来た刺激を解釈して作り上げた音声と、まさに聴覚器官からすなおにやってきた刺激を解釈して作り上げた音声とが、正しく合成されてdaが聞こえたかのように解釈されるというのはとても面白いことのように思います。結局、実はどちらにしても解釈という意味で同じ次元にあるからでしょうか。

No.570 - 2013/03/18(Mon) 01:33:50

大変御無沙汰しております。 / れんぷう
Foujita 先生、たいへんおひさしぶりです。
病者である蓮風です。
ふと先生のことを思い出し、検索したら、ここがあたらしくなってました。
訪問するのは十年弱ぶりくらいでしょうか。


あれから『テレヴィジオン』などを読んだり、割腹自殺未遂があったりで、滑ったり転んだりしてきたのですが、いまは画業で身を立てるべく努力しています。


先だって、自分の症状について書き記したのですが、宜しければ御笑覧いただけますとさいわいです。
http://bit.ly/Zf97ul


お目汚しではありますが、どうぞ宜しくお願いします。

合掌

No.569 - 2013/03/13(Wed) 02:54:24

中野さん / 藤田博史
承知しました。
No.568 - 2013/03/08(Fri) 02:48:06

(No Subject) / 中野雅哉
3/28も用があるので、クレスマスターには行けません。
外しておいてください。お願いします。

No.567 - 2013/03/05(Tue) 01:16:38

人間仮免中 卯月妙子 / id
たまたまこの本を読んでいたわけですが、精神分裂病患者の闘病記で興味深い話です。

彼女は衝動的に歩道橋から飛び降りるのですが、薬の副作用に思えます。

No.566 - 2013/03/03(Sun) 21:39:22

idさん(続き) / 藤田博史
信頼できる方からの情報によると彼は向精神薬は飲んでいなかったようです。
No.565 - 2013/03/02(Sat) 22:07:01

薬の副作用による自殺の可能性 / id
人の心のうちは自分の心から推測するしか無いと考えています。

「鉄道の人身事故」という話をよく聞きます。
もし自分が死ぬ場合は、自殺・病死・老衰死、いずれにせよ楽に、人になるべく迷惑をかけずに死にたいと考えるわけです。
楽な自殺方法は有るにもかかわらず、鉄道自殺はハードルが高い方法だと思うのです。
怖い・痛い・処理する鉄道員、医療関係者、警察関係者・鉄道利用者への迷惑・(噂される)鉄道事業者への多額の賠償金・・・
「わが亡き後に洪水よ来たれ」じゃあるまいし、

彼は5日前にはゼミに参加して参加者と語らっていて、その兆候は感じられなかったらしい。
衝動的に飛び込んだようだ。

遺書のない衝動的な自殺とされるものは薬の副作用を疑ったほうがいいかもしれない。
鉄道自殺とされている人への投薬の調査はされているのだろうか。
これは史上最悪の薬害問題かもしれない。

因果関係は証明されていませんが、異常行動がタミフル等の副作用であるとの説もあります。

SAPIOに掲載された、薬の副作用による自殺の可能性についての取材記事がこちらで全文読むことができます。

★伊藤隼也(医療ジャーナリスト/写真家)公式ホームページ

公式ホームページURL→ ttp://shunya-ito.tv/

2011/9/14 号より
小学館 SAPIO 精神科医療連載
「うつ病で病院に行くと殺される!?」取材・監修

ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/110914utsusapio11.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/111005sapio2.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/111102utsusapio13.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/111116sapio4.pdf


2012/7/18
小学館 SAPIO 第二弾精神科医療連載
「うつで病院に行くと殺される!?」取材・監修

ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120718sapio2-1.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120808sapio2-2.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120828sapio3.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120918sapio4.pdf
ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/121010sapio5.pdf

参考:タミフルの副作用
ttp://www.tamiflu89.sakura.ne.jp/

No.564 - 2013/03/02(Sat) 18:50:55

idさん / 藤田博史
薬を飲んでいたかは定かではないのですが、副作用だ、と言い切るのではなく、やはり心因も含めた複合因と考えた方が良いでしょう。
No.563 - 2013/03/02(Sat) 09:04:55

追悼2 / id

昨日の話を聞いていて、
たぶん結論は薬の副作用だと思う。
皆さんとの関係性ではないと考える。

No.562 - 2013/03/01(Fri) 22:10:20

追悼 / id
25日夜、NHKを見ていたら「西武新宿線で人身事故により不通」とのテロップ。
しばらくして復旧したとのテロップを見る。
今日27日になって、それが花小金井で当事者が知人であったことを知らされる。
先週久しぶりにあって挨拶を交わしたばかりだし、以前フランス語パンフレットの日本語訳を頼んだこともあり、次に逢ったらCDのダビングのアルバイトを頼もうかと考えていた。
初めて逢った際の、かつらを取って驚かせた時のしてやったり感が印象に残っている。

合掌

最近死生観が少し変わった。
以下の3.の考えである。
近藤誠先生の近著を数冊読んだ影響です。

1.自我を持った以上、死にたくなるまでは、自我を持ったまま永遠に生きていたいと考えている。
2.阪神淡路大震災を大阪で経験して、死に対する諦観を体験した。
  他者は分からないが、私はあっさりと死んでしまうかもしれない状況に抵抗がなかった。
  早朝の眠りを覚まされた激震のその最中に「これで死ぬのかな」と考えつつそのままベッドの上で寝ていただけである。
3.近藤先生の著作を読んだ印象だが、特にガン関係の医者は例えば「余命半年と考えられる患者の寿命を1年に伸ばす治療をすることを前提にしている」当然のようではあるが、私はQOLを維持するための緩和療法以外はいらない。
人によると思うが、苦しい治療で半年とか1年とか長生きする必要はないと考える。

人はいつか死ぬのである。
自分でわざわざ死ななくてもよいのではないかとは思うのであるが。
人生は自我を持った以上不安で苦しいものである。
その不安と苦しさと折り合う以外に生きるすべはない。


『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 (宝島社新書/近藤誠・中村仁一)
ttp://www.cyzo.com/2013/02/post_12658.html

「がん患者は、がんではなく“がん治療”で苦しむ」
「がんの9割に抗がん剤は無意味」
「がんの外科手術をしないほうが寿命が伸びる」
「なぜ病院・医者は、無意味だと知っていても、抗がん剤投与や手術をするのか?」
「人間ドックやがん検診で寿命が縮まる?」
などについて聞いた。

ーー本書は『どうせ死ぬなら「がん」がいい』と、かなり挑発的なタイトルですが、なぜ、死ぬならがんがいいのでしょうか?

近藤誠氏(以下、近藤) がんは、ほとんどの場合、最後まで患者の意識はしっかりしていますし、普通の生活を送れます。また、何よりも周りにかける迷惑の度合いが、他の病気と比べて低いので、家族などに惜しまれながら死んでいくことができます。日本人の死因でがんの次に多い心筋梗塞や脳卒中では、なかなかそうはいかない。例えば、脳卒中の場合などは半身不随になって、何年も寝たきりになる人も多いですね。そういう介護生活になると、本人も大変ですが、周りにも迷惑をかけてしまいます。

ーーしかし、「がんは痛い」というイメージがあります。

近藤 皆さんがそういうイメージを持たれているのは、抑えきれないほどの強烈な痛みや苦しみを伴い、のたうち回って死ぬと思われているからでしょう。そういう痛みや苦しみは治療から来るものであって、世間で思われているほどがんは痛くはありません。つまり、患者は手術で痛み、抗がん剤で苦しむわけです。そういう治療の痛みを、がんの痛みだと思ってしまうわけです。痛いのは治療するからですよ。そして不必要な手術をしたり、抗がん剤治療をするから、苦しい死、悲惨な死になってしまうのです。

 病院経営という面から見ると、がんの治療というのは、すごく大きな割合を占めています。がんが怖いから病院に来たり、人間ドックを受けたりするわけですよね。でも、医者が「外科手術はほとんど無意味だから、放射線治療でいい」とか、「抗がん剤は効かない」「がん検診や人間ドックは受ける必要がない」というようなことを言い始めたら、誰も病院に来なくなり、治療の数も減って、つぶれる病院がたくさん出てしまいます。だから、医者はそういうことを知っていても誰も言わないわけです。

 それから、痛みという意味では、治療を受けて当面延命できた場合には、どこかに転移している病巣が育つ時間を与えるということです。つまり、「骨に転移が出て痛い」「脳に転移して麻痺が出た」というようなことにつながるわけです。これも、やはり治療したがゆえの痛みであり、苦しみです。

No.561 - 2013/02/27(Wed) 22:36:51

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