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狂犬病 / 水上雅敏
避難区域に残された犬に狂犬病が流行る危険はないのでしょうか・・。
これからのボランティアもそろそろ気をつけないと・・とも思うのですが・・。

No.321 - 2012/04/12(Thu) 18:29:28

カモフラージュ? / 水上雅敏
北朝鮮、そして大飯原発の話題、特に後者によって、瓦礫広域処理の話題は陰になっている間に、いつのまにか進められてしまいそうな予感も・・。
No.320 - 2012/04/12(Thu) 17:11:44

「心の理論」からの若干の考察 / 水上雅敏
「心の理論」について
ttp://www005.upp.so-net.ne.jp/ma2ma3/kokoro.html
などを見ると、自閉症児の「心の理論」の持てなさは、結局「出会いそこね」の認められなさに還元しえるのではないかと思われる。換言すると「他者との間隙」というような無の拒絶(否認と呼ぶべきかわからないが。抑圧ではないのだろう)がそこにあるように思われるのである。

逆説的だが、自閉症児は「他者の心が理解できない」、というのではなく、「他者の心は理解できないものだということを認めてない」ということである。この理解できなさ(という無)を認めえてこそ、色々と他者の心を仮説化し、斟酌できるのだと思うのだが。

そう考えると、言語性IQの低いことも整合的に理解しうる。なぜなら、言語では、通常、一旦語り始めると、弁証的に語りがさらに進むという流れが始まり、それは結局無を象徴化するという方向に進むものとしてあり、そう考えると、無を拒絶する自閉症者にはこのような流れによる言語のエラボレーションが出来なくなることになるから、あるいは、その流れを自ら強行に中断することになるから。

これは「父の名」の排除からくるのか? 私としては、「父の名」は、成立させられかけて挫折するという反復にあるのではないか、と今のところ思うのだが・・。抑圧でもない(それだと定義上、回帰が神経症症状なり失錯なりの形でくる、となるはず)とすると、否認と言うべきか。言語自体をフェティッシュとしての・・。まあそう言っていいのかどうかわからないが・・。

ある自閉症児は玩具を目の前にして「おまえ、する?」と一見私に尋ねる形はとるも、その玩具で自分が遊び始めた。「おれ、これやりたい」という欲望を、他者から尋ねられる形にすることで、表明していたのか。自分が欲望をもつ(=欠如(無)を持つ)存在である、としたくなくて・・。ということは、どこかで欲望をまず感じていて、「おれ、これやりたい」というほどエラボレイトされた言葉ではなくとも、それと等価の意味を持つ言葉が心をまずよぎったのではないか。とするとその分程度の「父の名」の働きはある。しかし、自分の欲望を自分の欲望として認めて、さらに言葉の流れをつむぐ、とまでは行かないところで、この流れは中断される、というところで「父の名」が挫折させられているといえないか?

さてまた、ここ(「お前、する?」)に、他者の鏡像(i(a))を自分の中にさらに巻き込んだ形での、自作自演を考えられるだろう。どうしてもやりたいことを自らの欲望として責任を持って言葉で表明せず、「他人の要求によるのだ、他人のためにやってあげているのだ」、とするのは、ヒステリー者のよく行なうところと思うが、ヒステリー者と違うのは、自閉症者の場合は、自らの言葉の全体が他者からの言葉の形に変換されて語られているというところか??(ヒステリー者の場合は、表向き、一応自らの欲望を表明するらしき言葉も基本的には語るから)。もし、自閉症者の言葉にフェティッシュを言うなら、一旦、このように変換された言葉へのフェティッシュ、ということだろうか? フェティッシュがこの場合、通常のフェティッシュに課せられる性的な意味合いは持っていない(?)とするならば、「しがみつきの対象」、ととりあえず言うべきか。しかし、いつも、語っているわけではないから、しがみつきとも言えないかもしれないが・・。しかし、少なくとも「おれ、したい」という表明をうめつくす(否認する?)「対象」として使われているような言葉には思える。この「他者の要求の形への変換」の構造についてはもう少し考えたい。「自我が無く他者の言葉をそのまま語る」、だったか、チェルマックの言っていた(?)パラフレニーの構造との異同も考える必要があるかもしれない。

上記サイトによると、自閉症者は、言葉を文字通りに受け止め「Can you pass me the salt?」に「yes」と答えたまま、食卓塩をとろうとしないということ。これも、「他者の心のわからなさ、出会えなさ」ということをむしろ認めていないからこそ、「他者はもっと別のことを言おうとしているのかもしれない」、と考え色々仮説化しないことによるのではないか。

「「AはBという信念を持つ」という他者の表象の認知の問題がクリアーできる段階で、学校のルールが理解できなかったり周囲を無視してしまうといったたぐいの行動は激減した」(当該サイト内で紹介された辻氏の言葉)とある。ここで「AはBという信念を持つ」とは、自分とは違うAさんの思いを色々仮説化してこそ持てる思いだろうが、ここに自閉症者は失敗する。自閉症は自分の思いとAさんの思いを混同・混乱・同一化させる(これは当該サイトの色んなテスト結果から推量される)から失敗するのだ、と考えると、やはり、問題は「心を理解できない」ことにあると考えるよりは、まずは「他者の心は理解できないもので、自分の思いとははなれたものなのだ」という出会いそこね(無)の認められなさがあるからなのだと考えれば簡単なのではないか。そしてこれを認めえると言うことは、「他者は自分とは違う、独立した、思った通りには動いてくれない存在なのだ。自分に全能的に応じてはくれない存在なのだ」と気づいたということ(=自分の全能性が軽減された)でもあるから、この段階(出会いそこねを受け入れた段階)ですでにルールや周囲無視の軽減が相関するのもトートロジー的に当然ではないか。私が言いたい事は、何か「他者の心を理解する能力」といってしまうと、「共感的に他者の思いを「結論」づける能力(他者の思いをなぞにのこしたままではなく)」であり、また、それは「培ってつけるべきプラスαの能力である」、という響きがあり、また、「そういう能力があってこそルールに従える」、という考えが世間的にあるとするなら、それは間違いで、むしろ他者の思いを謎に残す能力があってこそ、他者尊厳が成り立ち、ルールにも従えるのだ、ということ。


ここで、アスベルガー者(自閉症者にも??)に共感覚者が多い(?)とも聞いたことがあるが、この構造について考えたい。まず、健常者は、フォルト・ダーを表在化させて、フォルト・ダーの隠喩次元を高める形で(フォルトをはらんだダー、さらには、フォルトをはらんだダーをはらんだフォルト、などと続き)、言葉をつむぎ、無を象徴化するという動きにはいるのだと考えよう。「おまえする?」という自閉症者は、フォルト・ダーを決定しようとした(=無を認め、自分の欲望を語ろうとした)瞬間に、他者の要求の言葉を自作自演的に持ってきて「そこに僕は応じているんだ」、というかたちにしてそれを挫折させているのだと考えよう。つまり、フォルト・ダーの隠喩次元は高められないまま、こころの奥で、フォルト・ダーはこわれたレコードのように反復しているのだと考えよう。ここで、健常児の場合、フォルト・ダーの間隙に無を認めえているからこそ、そこに視覚的な糸巻きの在・不在も交差させるというような知覚様式の交差(聴覚、視覚に限らず)が入ってきて、それら知覚様式間・内での差異化および差異の差異化が、無を象徴化する方向に高められるのだと考えよう。自閉症者では、フォルト・ダーと言った瞬間(あるいはもはや表立って言わないのが常態になっているかも知れないが)、そのフォルト・ダーの間隙(無)は拒絶されることになるから、他の知覚様式の交差も一瞬は入りかけても拒絶されることになる。そして、それぞれの知覚様式における表象が、(互いの知覚様式との交差から離れて)ブロックのように独立して(完全な独立は構造上ありえないと思うが)編成されることになる。そして、事後的に、関連性を補填するように(なにか、意味作用をなしたり、ものごとの分類に都合がよいように? しかしそもそも無を認めない者であるから、イマジネールに互いのブロックがくっつきやすかったり、できるだけ多くの知覚をブレンドして無を全能的に埋めたい、というのが根本にあるのではないか)、異種知覚間での統合が行なわれることになる。これが彼らの共感覚の構造なのではないか。

共感覚の話題からは離れるが、この「各知覚様式のブロック化」、ということが、自閉症者と関わる折には、「視覚的に、絵でもかいて説明することが大切」(話されるだけでは、どんな順序に行動したらいいか、とか自閉症児はつかみにくいから)とされるゆえんではないのか。ということは、そういう形でこちらが関わり続けることは、このブロック化をささえ続けてしまう、という問題があるのではないか。根本はいかに、本来の欲望を言葉で表明できるようにさせるかということではないか。しかしやはりこういう妥協策でいくしかないのか・・。

No.319 - 2012/04/12(Thu) 15:26:06

ネオ伝統主義 / ed
皇居を中心とする東京の風景を見た外国人がそれを「空虚な中心」と呼んでから、
この国の人々は、その言葉に呪縛されてしまった節がありますが、あれはもともと徳川の城で、
本来、高貴な方の住むべき「家」などではありませんでした。

ということで、天皇には是非とも本来の京都の家にお戻りいただきたい。美学的な観点から見ても
京都御所の伝統、格調、その優美さは、建て増しの旅館のような江戸城などとは比べるべくもありません。
江戸城は公園として人々に開放し、現在の国の家は国会議事堂か首相官邸とすればよい。

さすれば、われらは名実共に重なり合う危険のない「2人の父」と「2つの家」を持つこととなり、
日本=二本文化は、それでこそ、これからも未来永劫、栄えることでありましょう。

No.318 - 2012/04/12(Thu) 11:38:13

父の家 / ud [地球外]
nationは語源的には「生まれ」だが、日本ではnationを国家という。現在の日本でパトリオット的な意味で日本を家だと思っている人がどれほどいるのだろう。思わせなければと思っている人間はいるが、誰も思ってはいないし、家だと意識することや、その反対を口にすることが危ないことだと感じている。どうしてこんなことになっているのだろうか?国は家であり、家は父のものだからだろうか。

問題は天皇が生きているからではないだろうか。国の父であり、その身体が国家そのものであったような天皇が死んでいないこと、最高の戦争責任者である天皇が死んだように生きていることが、恐らく国を家だと断言することを妨げているし、国は家ではないということを罪深いことにしているのではないだろうか。

天皇が生きている意味を誰も知らないし、天皇が死んでいない理由もわからない。天皇は哀れにそこにいて優しく手を振っているので、優しく意味もなくお辞儀すべきなのだ。連合国やアメリカの欲望を語ることもできるかもしれないが、いずれにしても、天皇はdying father、死に続けている父なのであって、まったくもって死んだ父ではない。自分は暗く慰めもない廃嫡者だと言ってみるわけにもいかないのは、父がまだそこで哀れに生きているからだ。

子供たちはウーアファーターを食べてしまったので、死んだ父が生き返ってしまい、腹の中から謎めいた奇妙な独言が聞こえてくる。

No.317 - 2012/04/11(Wed) 00:39:29

宗教の体裁を持たない宗教のやっかいさ / 水上雅敏
宗教の体裁を持たない宗教はやっかいですね。「人間として当然のことですよ・・(だからあなたもそういう行動をすべきです)」といわれて、相対化されずにすまされてしまう。今の「絆」キャンペーンもそのひとつでしょうが、それ以前にこういうありかたは日本では日常茶飯事だと思います(絆などの言葉さえも出さず、もっと因習化したレベルで)。責任者不在、教祖不在の宗教(実は、どこかにいた場合があったとしても余り追求されない印象もありますが・・。)。だからここに逆らおうとするほうも誰に焦点づけて訴えればいいのかもはっきりせず、そんなことをひとりで躍起になっている自分が馬鹿に思えて(実は同じように思っている人が多く居るかもしれないのに)、別に今逆らわずともまあいいか・・となって身を引いてしまう(革命が日本で起こりにくいひとつの理由?)。そしてずっとその宗教が存続してしまう・・。

こういう宗教の体裁をとらない宗教の成立の構造をどう考えるか。ひとつはヒステリーの構造から考ええるのでしょうね。「別に私はこういう宗教を設立しようと思っていませんよ。私の欲望ではありません。そもそもこれは人間として普通のことなんです。」と、だれも自分がそう欲望したのだとはせず、他者あるいは全体の欲望からだとしているのだ、と考えると・・。

そこまで考えると、こっくりさんが思い浮かんできました。私が中学生のころは流行っていて、10円玉に複数の人が指をのせて質問をすると50音を書いた紙の上を10円が動いてメッセージが伝えられるのですが、誰も自分がその10円玉を動かしたとは感じない。

以上、下記のめだかの集団のことを考えていて出てきた連想。

まあ、このように宗教が宗教の体裁をとらなかったというのは、ひとつは日本が島国であることも大きいのでしょうね。自国の宗教を守るためにそれを名づけて他の国の宗教から相対化するという必要はなかった(中国のコスモロジーが入ってから、アメノミナカヌシの神を中軸にすえた神の系統を作る必要が生じた、だったかの話は聞いたことがありますが、その程度には相対化したのでしょうが)。そして、名づけられない分、それはより強力で普遍的な神として機能しえるわけで、日本の神はそういうものとしてずっと存続しえてきた、とそういうことなのでしょうか・・。

No.316 - 2012/04/10(Tue) 12:18:35

横にあわせるだけで、全体としてある形をなす構造 / 水上雅敏
昨日の某クイズ番組。
めだかの何匹か入ったビーカーのまわりで縞模様を時計回りに動かすとめだかはどうなるか。選択肢:ばらばらに動く、時計回りに動く、反時計回りに動く。

いつも流れと逆に向かってえさのくるのをまっているのだろうから、縞模様を流れとするとその逆に動くかな・・しかし体感の在る流れと縞模様は別だろうし、群れて泳ぐということは横の相手に合わせて動くのだから時計回りかな、多分これだろうな、・・と思っていましたが、やはりこれ(時計回り)が正解でした。理由は流されないように止まっておけるためにめだかはまわりの風景を基準にするためということでした。

時々大量の小魚がうずをまくかのように集団で動く映像が出てきたり、また、ちょっと似たような動きが粘菌の集団などでもあるようですが、こういう、全体としてみるととても調和のとれたような動きは、上記のめだかのように、一つ一つがちょっと横(横のめだかか横の風景かは別にしろ)にあわせるだけ、という動きの集積なのでしょうか・・??

No.315 - 2012/04/10(Tue) 05:17:34

シーター波とDNA的構造 / 水上雅敏
ラットの場所移動に応じて、シーター波の各位相の上で各場所に応じた各場所細胞が発火するタイミングが少しづつずれていくというような実験結果も、313で述べたような、DNAのような螺旋と塩基のような構造から考えられないか・・と思案中。
No.314 - 2012/04/10(Tue) 03:11:55

螺旋と生命 / 水上雅敏
301から
>様々なニューロンの系統を、いくつかの木の林立した林だとする。それは、無を象徴化しようとする思考の弁証的進展にそって枝分かれしたり、やってくる刺激の差異化、差異相互の差異化、という動きに沿って多くの枝が結びついていったりしているとする。それらの木は全てが最初からは相互に結びついているのではないかもしれない。そこで、それらの林立した木全ての上を一陣の風がなぜるように吹いていくとする。その風は、離れた木相互の情報を運ぶものとする。・・・(以下略)

よく考えると、別に林とその間をなぜるような風に分けずとも、そもそも 螺旋(渦巻きではなくへリックス)の上を、信号が進んでいくような構造を考えると統合的に考えることができるかもしれませんね。今のところ、全く、思考の遊びレベルの話で無駄におわるかもしれませんが。

そんなことを考えていると、DNAの二重螺旋が思い浮かびました。どこかに・・脳の実質の構造か、信号の進み方にかはわかりませんが、・・あのような二重あるいは多重な螺旋構造、また塩基の組み合わせに相当するような構造がないか、・・という考えが出てきました。

まったく想像の世界。脳の実態はまず無視して、情報を無駄なく伝える基本構造をまず考えてみたいだけです。

なんだか、脳のかたちがクロスカップに見えてきた・・

No.313 - 2012/04/10(Tue) 03:03:01

NHKは政府の肩を持っているだけか、or何も自分で調べないのか? / 水上雅敏
NHKのこういう方向性、前科がある。

去年の4月5日朝日新聞では「原子力安全委員会は5日、放射線量の高い地域の住民の年間被曝(ひばく)限度量について、現在の1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げるべきか検討を始めた。放射線の放出が長引き、「長く生活する観点で考えないといけない」とし、現実路線への見直しを検討する。 」と基準が大甘になるとのニュースが流れた。ttp://www.asahi.com/health/news/TKY201104050616.html

一方、同じく去年同日[東京 6日 ロイター] では「枝野幸男官房長官は6日午後の記者会見で、避難地域の被ばく量の限度を引き下げることを検討していることを明らかにした。現在、50ミリシーベルト以上の地域を避難地域としているが、これは一時的に大量の放射性物質が出ることを想定した安全基準。しかし、放射性物質が長期間にわたって累積して健康への影響を判断しなければならない事態になっているため、限度量を引き下げることを専門家に検討してもらっているとした。現在、屋内退避地域に指定している20ミリシーベルト以上の地域にも避難地域に含める案も出ているとした。」(抜粋ttp://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-20463020110406 )

一見、基準を厳しくしたように見せかけて(50→20mSv)、その実、結局20mSvまではOKにしようという話になっている。

NHKは上記朝日新聞と同様の内容のニュースは伝えず、後者のように、政府は基準を厳しくしたとのニュースのみ伝えていた。

No.312 - 2012/04/02(Mon) 01:57:57

こんな茶番、もうやめて欲しい / 水上雅敏
避難区域の一部解除。理由を報道したり追求している報道番組を未だ見ていません。
何かかわったのでしょうか?
放射線量がもともと軽かったから?
どうせ同心円的な措置を崩すなら、逆に避難区域に加えるべき放射線の強い地域もあるのでは?

このままだと、被害を軽く見せたいか、補償をしたくないための布石としか思えません。

また、食品中の放射性物質の基準値が厳しくされるとのニュース(NHK)。これもそもそももともとの暫定基準値が緩すぎたとのではないかと疑うべきでしょう。
それよりは確かに厳しいのでしょうが、もともとの基準の甘さ、世界基準なども言わないと。
ttp://kingo999.web.fc2.com/kizyun.html
ttp://kyuenen.tumblr.com/post/4889687271/who-10-bq-kg
とんだ茶番ですね。政府の望むままの言葉でニュースを流すNHK。

No.311 - 2012/04/02(Mon) 01:04:09

榊山さんへ / 中野雅哉
西尾幹二の名前分析については「ちょっと何言ってるかわかんない」ですけど、私が考えるオルタナティブは「明治維新という未完のプログラムの完成、すなわち、無血Civil warによる大日本帝国と日本国の止揚統一としての日本共和国の樹立」ですね。
自分でもちょっと何言ってるかわかんないですけど(笑)。

No.310 - 2012/03/31(Sat) 21:40:56

西尾返し / 榊山裕子
中野さんへ

>私が298を書いた際、念頭にあったのは西尾幹二の取っているスタンスでした。

なるほど、わたしも通常なら西尾さんは取り上げないところなのですが、
ここは西尾さんで返すのが面白いのではないかとふと思ってわざわざ使えそうな言葉を探したのですが、
ある意味、あたり、だったということ、ですね。

ところで、今気付いたのですが、西尾幹二という名前、興味深いですね。
西からWest 、尾から竜頭蛇尾という言葉を連想しました。
そして幹が二つあるということから、日本=二本を連想しました。
そしてこの人の生まれは1935年、少国民世代ですね。
同じ年に生まれた人に大江健三郎、月まで同じなのが、堺屋太一なのですね。

ところで、中野さんは、どういうオルタナティブを提示するべきだとお考えですか。

No.309 - 2012/03/31(Sat) 10:39:07

榊山さんへ / 中野雅哉
おもしろいものですね。
私が298を書いた際、念頭にあったのは西尾幹二の取っているスタンスでした。
榊山さんがあげている西尾氏の原発に関する意見とはまったく関係がないのですが、彼がちょっと面白いなと思うのは、彼が「日本はもともと常に倒錯的でいなければサバイバルできない国家であり、生存するための諸条件がヨーロッパの国々とは根本的に違うのだ、欧米から見て『いざとなると何をしでかすかわからない倒錯民族』でありつづけることで、かろうじて彼らと対峙することができるのだ」(←これ引用じゃないです。あくまで私から見た西尾的スタンスです)と言いきっているところです。
濃淡はあれ、最近、保守派・リベラル左派共にこういう考え方は徐々に確実に浸透してきているように思えます。個人的にはこういう考え方は拒否し、抵抗したいと思っていますが、彼らを嗤うだけでは事は済まないところまできていると感じます。彼らに対してオルタナティブを提示し、優しく粉砕してあげなければならない。

No.308 - 2012/03/30(Fri) 22:26:39

中野さんへ / 榊山裕子
298のディベートごっこのご提案、ありがとうございます。
あれから夏風邪をひいて復帰するのにちょっと時間がかかってしまいました。
レス遅れてすみませんでした。わたしもまだ本調子ではないので、
「ごっこ」ということで、以下にちょっと書いてみます。

たしかに「無責任の体系」でも許しあえる、まるでほどよくぬるい温泉のようないい国、
そんなふうでいられるなら、それもありかもしれませんが、
やはりそうはいかないんじゃないかとあらためて考えざるを得なくなったのが、
昨年の原発事故だったのではないか、と思うわけです。

保守派の西尾幹二氏も原発事故後「人類が「プロメテウスの火」をもてあそんだように、
原発はやってはいけない神の領域に手を突っ込み、その火の玉を制御できなくなってしまった。
その結果、自分たちの頭上に落ちてきたのが今の日本の姿であり、進歩した科学技術の結果なのである。」
と書いておられますが、中野さんのおっしゃる「西洋思想の作った幻想、近代人の病」は、
人間が神の領域に手を突っ込むことからはじまった、とも言えないでしょうか。
それなのに、日本人は、そのことに対する自覚がなかった。
自分が持っている「力」に対する自覚がもてなかった。
「無責任の体系」で暢気に暮らしていきたいのならば、自分たちで制御できないような技術とはおさらばして、
もっと素朴な生活に戻ればいいのでしょうが、でも、原発事故の後始末だけでもこれからまだまだ
長い戦いになるのでしょうね。

なにか問題でも?と問われれば、答は、なにか問題がある、とか、ない、とかではなくて、
問題は既に起こってしまいました、と答えるしかないわけです。残念ながら。
どうでしょうか?

No.307 - 2012/03/24(Sat) 01:46:51

ヒステリーと、男性同性愛あるいは強迫神経症との結託 / 水上雅敏
>母が強い、というのは、そういうことです。そこには家父長制との共犯関係がある。
もっと端的に言えば「強い母」というのはこの日本型家父長制の操り人形に過ぎません。
この連鎖を断ち切るには、母をどうかする、という発想では駄目で、こうした「母」役割から女性を解放するしかないわけです。しかし日本型家父長制にとってはそれはイタイ選択なので、「かあちゃんが強くて」とか言いながらそれを継続するずるずるべったりの選択をしてきたわけです。

夫の家系の名を受け継ぎ、夫の夢を支え・・、まさに「他者の欲望を自分の欲望とする」(大文字のAの欲望ではなく、小文字の他者の欲望を)というヒステリー構造あるいはヒステリーのディスクール、そして自分は家父長だとする男性に、トーテム的な父との同一化、男性的同性愛あるいは強迫神経症の構造、主のディスクールを感じますね。そして、妻と夫、2者が結託している。どちらも疾病利得を得ている。

さらに、そういう退行的な神経症的構造にもとづいた家族のありかたがむしろ義務化されることについては、そこに、ラカンが「許されたことは義務化される」と述べていた現象を見るというのも面白いかもしれない。この義務化、というのは、義務を押し付けてくる存在を上にいつまでも置いておきたいというエディプス構造から来ている、さらに社会的には、そういう自分のエディプスコンプレクスのありかたを次世代にも崩して欲しくない―自分自身に不安が生じてくるから―と考える長老が、次世代に対してこれを義務化する、というかたちで引き継がれる、ということではと思いますが。こんなふうにして倫理がずれてくる。本来倫理的でもないものが倫理的とされ、真の欲望を語ることが悪だとさえされてくる・・。

究極的にはそして原理的には、エディプスコンプレクスを透かして、真の(エディプスコンプレクスからのではない)欲望を語れてくることがここからの解放の道なのだろうなと思います。

No.306 - 2012/03/23(Fri) 16:38:39

ペンローズの立場がまだよくつかめない / 水上雅敏
>「人間の数学者は数学的真理を確認するために、健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」(「心の影1」88ページ)

しかし「心の影 2」190pによると、「人間数学者の理解力は必ずしも、原理的にいかなるオラクル器械よりも協力であるとは限らないということである。上で注意したように、結論G(上の文)は必ずしも、人間の洞察が原理的に停止問題のすべての個別例を解けるほど強力だということを意味しているわけではない。したがって、必ずしもわれわれは、われわれが求めている物理法則は原理的にあらゆる計算可能なレヴェルのオラクル器械を超えると結論する必要はないのである。われわれはただ、どの特定のオラクル器械とも等価でないものを探せばいい、物理法則はほんの少し異なっているだけの何かに導くかもしれないのだ。」とあります。急に手のひらを返されたような。私のもともとのペンローズの理解が間違っていたのかも知れませんが・・。しかし、そうなら、なぜ、「・・等価でないものを探せばいい」といまだにペンローズは言うのか・・。このページ近辺をまだしっかり読んでいませんのでわかりませんが・・。

No.305 - 2012/03/22(Thu) 17:02:04

中野さん / 水上雅敏
ペンローズの理論に対する検討が私自身に無利益であると最初からわかっているならそうですが・・。
No.304 - 2012/03/22(Thu) 16:49:22

水上さん / 中野雅哉
ペンローズが(もっといえば科学者)が持論をどう「解釈」しているかは、ある意味どうでもいいんじゃないでしょうか。

No.303 - 2012/03/22(Thu) 15:54:25

追加 / 水上雅敏
>ペンローズへのとりあえずの批判 現実界の欠如?


むろん、量子的なコヒーレントから自己崩壊の境目を、―それが文章で言えば句読点をうたせて意味を決定させるような亀裂に相当するものとするならば―、ペンローズの理論の中での現実界として見ることができるかもしれません。しかし、ペンローズはこういうものとしてこの境目を見ているかはまだ疑問ですね。基本的には、コンピューターの出来ない部分=穴、を人間は非アルゴリズムで埋めえるのだ、としているような・・。

その非アルゴリズムが、穴を埋めるという方向ではなく、むしろ、穴になんらかの形式を与えている、意識を奈落のそこに引き込みつつそこに形式を与えている、というようなものとして考えているのならば納得がいきますが・・。例えば、意識を単に0に崩壊するというのみならず、そこになんらかのかたちで、マイナス、あるいは、虚数の軸へと引き込んでいく、というような動きであればまだ納得がいきますが・・。ペンローズはそういうものとしてみているのでしょうか?

No.302 - 2012/03/22(Thu) 14:46:26

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