「心の影2」のチューブリンについて語られているあたりに、ひまわりの花の写真があるのには興味を持てました(p167)。まだほとんど読んでいませんが、次のような議論になってくるとそれはそれで面白いかな、と思われます。(以下、勝手に私の考えたことで、そういう議論に進展してくるのかはわかっておりませんが・・) つまり、様々なニューロンの系統を、いくつかの木の林立した林だとする。それは、無を象徴化しようとする思考の弁証的進展にそって枝分かれしたり、やってくる刺激の差異化、差異相互の差異化、という動きに沿って多くの枝が結びついていったりしているとする。それらの木は全てが最初からは相互に結びついているのではないかもしれない。そこで、それらの林立した木全ての上を一陣の風がなぜるように吹いていくとする。その風は、離れた木相互の情報を運ぶものとする。いわば、一本(あるいは限定された1グループの)の木に沿った縦断的な情報のやりとりだけでなく、横断的にも情報を送る機能を持つものとして。そして、それによって、処理すべき情報を配分しあうことで、木相互がダブった仕事をやってしまう無駄を省けるようになるとする(「この情報処理は私がやりますから、あなたは別のをやってください。」と木が相互に交流しあうように。どれほど具体的な思考内容が配分されあうものか、あるいは、ただ、様々な信号の出し方が配分されあうだけであって、思考内容はそういう全体の動きの反映なのか、はわかりませんが)。いわば、互いが互いの隙間を担う形になる。こうなると、ひまわりの種の並びのような、数学のeがそこに体現されているようなもの・・・というような議論。実際そんなことを脳がやっているのか知りませんが・・・。 微小管は13列のチューブリン二量体からなっている、とペンローズは述べ(161ページ)そして、この13がフィボナッチ数である云々と語っているところからすると(168ページ)、そういう議論にも行きそうで―まだ確認はしておりませんが―、しかし、そういう議論にいったとしても上に述べた風のような動きがこのチューブリンから発せられるとすべきかどうか・・それはわかりませんが、ともかくこのページあたりの議論は面白そうではあります。とはいえ、上の動きを非アルゴリズム的とすべきなのかどうかもまだわかりませんが・・。 ちなみに、実際、脳の中に、そういう一陣の風が反復的になぜるような動きがあるのを何かの映像で見た記憶があります。脳内全体の血流の映像だったか、脳波の動きであったか忘れましたが・・。粘菌内のカルシウムイオンを光らせると、粘菌の群全体の動きの中に、らせん―対数螺旋かはわかりませんが―がきれいに浮かびあがったり、変化したりする映像を見たことがあります( ttp://www.hokudai.ac.jp/shinchaku.php?did=606 に静止画像を見ることが出来ます)。そこでは、部分と全体が情報をやりとりして無駄な動きはしないようにしているのだと勝手に想像しますが(特に対数螺旋だとすると、部分の情報を全体にもフラクタルに伝えやすくなると思いますが。また、eは素数とも関連するから、ゲーデル数的に情報をそこに載せて全体に伝えるということもしやすくなると思いますが)、粘菌でさえそういうことをやっているとすると、脳も同様のことをやっている可能性はあると思いますね。 |
>ペンローズはたしかに一見「意識はコンピュータができないこともできる」というありきたりな主張をしているようにも見えますが、 中途半端な科学者かは別としても、こういう考えをペンローズは持っているのではないか、という疑いを払拭できません。意識は何か「プラスアルファ」の機能によって、ゲーデルの示すところの不完全さを超ええているのではないか、と考えているような。茂木さんの解説(「ペンローズの<量子脳>理論」所収の)に今迄頼りすぎて誤解しているのもかもしれませんが・・。ペンローズ自身の書を読むのも遅遅として進まずとびとびですが、全て読んでから見解を述べるのもいつになるかわかりませんので、まずは次のペンローズによるフレーズからはいり、疑問を述べ、また、あえて極端な批判をかけるなどして、今後修正、加筆していこうと思います。 「人間の数学者は数学的真理を確認するために、健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」(「心の影1」88ページ) I:まず、やはり、この文はコンピューターでも確認出来ないことを数学者は確認している、ということが前提になっているように思えます。 その場合、ペンローズはどういう意味での「確認」を言っているのか問題になります。ちょっと読んだ限りでは、以下の2つが余り区別されてないようにも思います(ちょっとしか読んでいない私の責任でしょうが)。 ?@念の入った論理的思考からは崩されかねない「なんとなくそうだろう」というレベルの想像的な直観。典型的には、公理系は完全だ、というレベルの直観―ゲーデルがまさに崩したところの―。その直観(公理系は完全だという直観)を持てる人間はすばらしい!、とペンローズはまさか言ってはいないのでしょうが、似たようなことを言いそうな傾向がペンローズにはあるようにも思えます。?A想像界にだまされないからこそ得られるような直観。例えば、ペンローズタイルとか。(あるいは、不完全性定理? これ自体は計算不可能にはいるのか、私には判断できませんが・・) ?@だとしたら、大してコンピューター以上に優れた直観を人間がもっているというわけではないでしょう(しかし、想像界にだまされる構造自体がコンピューターを超えていると考えるのもそれはそれで面白いとはいえるかも知れませんが)。?Aはたしかに考慮の余地がありますが・・。 2 「健全であると知りうるアルゴリズムを用いていない」→ペンローズはこれを傍証しようとして、実際のところはコンピューターでも出来るはずのものなのに出来ないとして、コンピューターを価値下げして議論を進めているときがないかどうか。たとえば、「2つの偶数の和となる奇数を見つけよ」で、どこまでも偶数しかないことは人間には自明だが、コンピューターは際限なく動き続ける旨あります(156p「心は量子で語れるか?」)。しかし、これは見つけよといわれたからコンピューターもそうしたわけでしょう。 もし「2つの偶数を、2p, 2qとする。p,qは自然数とする。2つの偶数の和は、2(p+q)である。ゆえに奇数ではありえない」と結論づけえるようなアルゴリズムと、「(奇数が)ありえないとわかれば命令を放棄せよ」というアルゴリズム、そしてついでに、どんなアルゴリズムもとっかえひっかえ持ってきて試行錯誤をしてよいというアルゴリズム(?この最後のものはわざわざアルゴリズムと言わなくても、ひとつのアルゴリズムへ固定させない不安定さを置いておけばよいと思いますが)を加えておけば正しい結論を得て、ストップするのではないでしょうか? まあ、どこまで何をアルゴリズム化できるか私にはよくわかっていないから大きく私が間違っているかも知れませんが・・。 3 茂木氏の解説(ペンローズの<量子脳>理論231p)で「万能」の停止問題解決アルゴリズムの存在の不可能性が示されており、つまるところ人間の直観はコンピューターを超えうるという議論の入り口になっているようなのですが、そもそも、人間の直観だって停止するかどうかの判断は万能的には出来ないのではないでしょうか。できたと思っても部分的な問題に対してのみである、その先にまた停止するかどうかわからない問題はきっと出てくる、と考えれば、それですむのではないでしょうか(対角線論法を待つまでも無く)。人間がなんとなく直観にすぐれているように思えるのは、(まずアルゴリズムから計算していくということはひとつのイマジネールな体系を広げていくということだと思いますが)、そもそも言語的に去勢されている人間は、イマジネールな統一的な体系を放棄することにためらいは少なく、その分、色んな体系をとっかえひっかえ試行錯誤しやすい、とか、差異化・差異相互の差異化の動き、そして、SRIの弁証法から生じるはずの黄金比からくるセンスがあるからであって、等価なものはコンピューターでももしかしたら出来るのではないでしょうか。人間に、コンピュータとは違う何かがあるとしたら―非アルゴリズムどうこう以前に―まず無、そして、無と諸アルゴリズムの弁証法(すぐにアルゴリズムを崩したり、とっかえひっかえする)に過ぎないかも、と、まず仮説を節約したところから考えていくのがいいのではと思います。ペンローズは、どこまで現実界を考慮に入れていたのかちょっと疑問に思えてきます。(むろん、高度に人間と同じ思考をコンピューターにさせようとしたら、コンピューターに欲望や、ばらばらの身体、統合体への想像的指向、コンピューター同士の群れにおける対話、や死や生殖を備え付けないといけないかもしれません。しかし、これらをペンローズが言うところの非アルゴリズムべきかどうかはわかりません。) >ペンローズの考える「意識」や「心」はむしろ、水上さんがいう「不完全な人間存在」換言すれば「言葉を-話す-存在」を存立根拠にした「色んな階層の数学がいつまでも不決定のまま行なわれているという構造」に近いと思います。 このへん、「とっかえひっかえ」の議論は、「心の影1」p90、のQ2にも通じることかと思いますが、やはりあくまで、人間は「数学的真理を確認できる」という立場からペンローズは議論を進めているように思われ、まずそこが私と違うところですね。 |
日本の名付け親は、本来(?)、「おじ」(母方か、父方か失念)といわれていなかったか、という記憶がうっすらあって色々ググッてみました。しかし記憶違いだったのか(?)、yahoo辞書では「昔は主に母方の祖父が命名した。」とあっただけでした。 「名前のアルケオロジー」(出口顯 紀伊国屋書店)を少し見てみると、名付け親は直接の親ではない部族などは多いようですね。例えば、スーヤという部族(地域?)では、名付け親は、「母の兄弟」(男児の場合)や「父の姉妹」(女児の場合)のようです(173p)。そしてこれらは、近親者ではなく、遠縁者とみなされているとのことです。親が名づけると、インセスト的なイマジネールな領域と、言語的な領域が混同されてしまって、うまく象徴的去勢が行なわれにくいと暗に感じられて親を名付け親にしないことになっているのでしょうか? (母の母とか父の父に名づけられても、ほぼ母や父に名づけられているのと同じ感じになるから、「母の兄弟」「父の姉妹」というのはそこをうまくずらしているなと思いますね) しかし、じゃあそうやって、うまくインセストなりイマジネールなものを切断するのか、というと、「赤ん坊との連続性・同一性(これは身体的実質的に表象される)が強調されるスーヤの両親は、赤ん坊の「自己」を構成するわけであり、両親が赤ん坊のNG(名付け親)になることはない。名づけるのは「核家族」の外の人間である」(172p)というような記述は、そういうことより、一体感的なイマジネールの領域はそれとしむしろうまく温存し(そう考えるところには著者自身独特の考え方が多分に影響していると思いますが)、言語的な領域はそれなりに別に保っておく手段であることを著者は強調しているようにも思えます。ともかく両親が子どもに名づけるということは「まさに自然と社会を混同することにほかなら」ない、とあり(177p)、ともかく名付け親を別にすることでIとSを混同させないいうことのようではあります。 そうなると洗礼名にも興味が出てきます。スペインの代父母については、「洗礼名を授けるのはいつの両親ではなく、代父母であり、実の両親は洗礼の場面に臨むことも許されない」(177ページ)、「代父母から受け取るのが洗礼名であり、これによって、同じ姓を持つ家族内で他のメンバー、特に兄弟とは異なる個人として人は区別されるのである」とあります。代父母は、核家族外の近親者、望ましくは両親の親や兄弟とのこと(180P)。 いずれにしろ、親が名づけるということは、イマジネールと象徴界を混乱させてしまう、ということなのでしょうね。あの親に名づけられた、というのが、うざったい、どこか近親相姦的幻想に輪をかけられたような感じをもつ人もいるのではないでしょうか。そんな名前は捨てて「名無しの権兵衛」になりたいと思って、それはそれで逆の極端として象徴界を阻害してしまう危険はあるし、少し離れた人から名づけられていたなら、もっと親とも風通しのよい関係を得られていたのに、と思う人もいるのではないでしょうか? もしかしたら、日本で、大家族が少なくなって、祖父母が名づけるというような機会も少なくなったであろう分、逆に、そういう去勢が働きにくい環境になっていないか、ともふと思いました。あるいは、親が名づける分、親が神の位置にくるようで、一人の人として親を等身大に見るのが難しくもなってきたということもないでしょうか・・。 全くの他人ではなく血縁的に少し離れた人が名付け親になる、というのは何か必然性があるのかはよくわかりませんが・・。 ちなみに、臨床場面では、分析主体を呼ぶとき姓か、名か(下の名。・・って、なぜわざわざ断らねばならないほどfirst nameにあたる日本語がなぜ無いのか、といつも思いますが)は迷うところですね。どちらかと言うと私は名(下の・・)で呼びますが、その名さえ、日本の上記の状況からすると、姓以上に、親の欲望(近親相姦的な、と子に想像される可能性もあるし、実際親側からもそうであるかもしれないような)を直接反映してしまうのではないかと思って、それを使うのもどうなのかな、と時に思ったりもします。 余談ですが、日本では、ではそういう他者からの介入が何かないものか、と考えていると、「仲人」が思い浮かびました。で、調べてみると、「仲人の起源は、仁徳天皇40年(紀元352年)2月、天皇は、雌鳥(めとり)の皇女をお妃に迎え入れようと思い、異母弟の速総別尊命(はやふさわけのみこと)を仲立ちにされたという記事が日本書記に記されている。これが仲立ち=仲人という言葉が初めて記録に残っているもので、仲人の起源とされている。物語としては、申し込みを受けた雌女が遣いの速総別を好み、関係を持ってしまう。つまり、仲立ちの男性と申し込まれた女性とが結ばれてしまったという結末になる。」(ウェディング用語辞典 仲人 ttp://wedding.dictionarys.jp/%E4%BB%B2%E4%BA%BA.html)。異母弟が仲介したわけですね。第三者としての他者の位置はうまくキープできなかったわけですが・・。 |
面白い考察ですね。垣間見える意図にはほとんど賛成ですが、あえて反論してみます。深い意味はありません。ただのディベートごっこです。 そもそも完全に自身の暴力性や権力性を自覚し、最後まで責任を取りきる強い主体など、西洋思想の作った幻想、近代人の病にすぎないのではないか?たとえ女性が日本型変形家父長制の要請する『母の役割』から解放されたとしても、主体になどなれるはずはない。なぜならそんな強い主体は最初から存在しないからである。我々日本男児がその生き証人である。つまり、日本のシステムは『暴力や権力をオブラートで包み、権力者自身もその暴力性に無自覚でいられるような仕組み』ではなく『主体的権力や主体的暴力こそ幻想である。どんなに主体的であろうとしても、究極のところでは無責任にしか振る舞えない人間の本質を正直に認めた仕組み』であるともいえるのだ。確かにこのようなシステムを耐えがたい抑圧として感じる人々は少なからず存在する。だが、そこからドロップアウトしたがために致命的な社会的不利益をこうむるケースはいまや限りなくゼロに近い。日本はプレ近代病患者も近代病患者もポスト近代病患者も楽しく共存しうるとてもいい国です。 なにか問題でも? |
藤田先生が290で指摘された「父の系譜」「母の系譜」と、「姓」=血統の系譜、「個人名」=欲望の系譜から 思い浮かんだことがあります。 一つは、橋下徹の姓の「読み」についてです。以前どこかで、橋下はもともと「はしもと」ではなく「はしした」であった と書かれていたことを思い出しました。Wikipediaで見るとまず冒頭の注釈1に次のように書かれています。 >^ 本来の読み方は「はしした」だった。橋下の母によれば、「徹が生まれた時点で父方の実家との因縁(いんねん)を断ち切る意図のもとに 「はしもと」と改めた」という(g22010年12月、森功「同和と橋下徹」p.32〜33)。 より詳しいことが「系譜」の項にも書かれています。これは本来「父の系譜」であるべき姓の読みに、 母の「情念の系譜」「欲望の系譜」が介入しているということでしょうか。 もう一つ重要なのは、 >祖母の息子は、祖父の息子でもあります。 というご指摘だと思います。わたしはこの掲示板の211 で >わたしは、宮崎駿のアニメ作品の一連の「おばあさん」たちのことを思います。 なにかしらの「伝統」なり「教え」なりを伝えるのに彼女たちに語らせるのは何故かと。 と書きましたが、その時考えていたのは、日本のイエにおける祖母の存在でした。 「祖母」というからには、ここでそれを見ているのは「孫」になります。 彼(もしくは彼女)からは、この祖母がそのイエやイエの伝統を体現しているように見えます。 その場合、祖母の夫は既に亡くなっているという想定です。女性の方が若くして結婚するケースが 多かったわけですからそういう光景は孫から見た「イエ」の在り方において割とスタンダードではないかと思います。 しかし、この祖母は、大抵の場合、10代かせいぜい20代の極めて早い時期に、生まれ育ったイエから 根っこごと(自分の姓ごと)奪われ、移植された人間です。 大抵の場合と言ったのは、、日本のイエの場合、その祖母が養子(そこでは祖父)をとっているケースも あるということですが、その場合でも次に息子が生まれれば息子が継ぎ、継承されていくのは「父」の姓です。 つまり「血統の系譜」「掟の系譜」はどこにあるのか、ということをきちんと見ておかないと 見誤るのではないかと思うのです。 わたしが気にかかっていたのはこの問題でした。 宮崎駿の作品にはしばしば女傑と言える「おばあさん」が登場します。 たとえば「天空の城ラピュタ」の「ドーラ」ですが、空賊の頭領で「強い女性」を体現しているようですが、 彼女は実は夫亡き後、その遺志を守り、彼との間の息子たちを育てている 家父長制に極めて忠実な存在なのです。彼女は夫の「血統の系譜」と「掟の系譜」を 次世代の息子たちに伝える存在であることによって、その「強さ」を一時的に許されているわけです。 そのことを考えると、たとえば田中眞紀子の女傑ぶりとか、海老名香葉子や旅館の女将の強さ、 と見えるものが何故許されてきたのかかがわかります。 ここでわたしは二つのことを思います。 一つは、この国はしばしば母が強いと言われてきましたが、その強さというものは、少なくとも過去においては 概ねこういうものであったこと、日本型家父長制を継続するという担保があるから許されていたということです。 母が強い、というのは、そういうことです。そこには家父長制との共犯関係がある。 もっと端的に言えば「強い母」というのはこの日本型家父長制の操り人形に過ぎません。 この連鎖を断ち切るには、母をどうかする、という発想では駄目で、こうした「母」役割から 女性を解放するしかないわけです。しかし日本型家父長制にとってはそれはイタイ選択なので、 「かあちゃんが強くて」とか言いながらそれを継続するずるずるべったりの選択をしてきたわけです。 もう一つは、「情念の系譜」というのは、彼女たちが置かれていた位置が、 そういう形でしか自分の自我を発露することを許されていなかったということではないでしょうか。 最初に頭を切る(姓を奪う)という暴力を加えられているわけですから、 情念で動くしかないわけです。自分自身の司令塔を早い段階で失っているわけですから。 首を切られて暴れ回るもののけ姫の「シシ神」のようなものです。 ちなみにたとえば韓国では、結婚後も女性は生家の姓を名乗りますが、それはそういう家父長制の在り方だということで、 日本の場合は、同じ姓にすることで暴力の痕跡を見かけ上なくします。 そしてイエの「和」とか家族の和を唱えるわけです。 つまり違和感の痕跡を何としても消し去ろうとする方向に心性が動く。 これは暴力や権力をオブラートで包み、権力者自身もその暴力性に無自覚でいられるような 仕組みであると言えるのではないでしょうか。つまりいざというときに責任者が不在。 権力をもっているという自覚がないので罪悪感を持つものもいない。 企業の和、国の和、全てそのように働いてきました。 以上、かなり大雑把な書き方ですが、こういう観点から、 最近しばしば言われる「絆」が、この「和」の変形ヴァージョンではないかという可能性を 考えてみるのも一興かと思います。 |
河野太郎のブログから一部転載 ttp://www.taro.org/2012/02/post-1159.php さて、黒岩知事が受け入れを表明した震災がれきの発生地の岩手県宮古市は、福島第一原発から260km離れています。川崎市や横浜市は、むしろ宮古市よりも原発事故地に近いぐらいです。 福島第一原発からの距離を比べてみると、 宮古市 260km 横浜市 253km 川崎市 242km 相模原市 254km 横須賀市 267km そして、2012年1月28日の空間放射線量率の最大値は 宮古市 0.052マイクロシーベルト/時間 茅ヶ崎市 0.047マイクロシーベルト/時間 つまり、宮古市は、福島第一原発の事故の影響を神奈川県よりも強く受けたわけでもありませんし、現在の放射能濃度は神奈川県とほぼ同じレベルです。 |
理性が感情に負けてばかりもいないでしょうから、今後、こういう自治体も徐々に出てくるかもしれませんね。となると、先に瓦礫を受け入れたほうが馬鹿を見ることになる。交付金が降りたとしても、住民の瓦礫を受け入れた自治体への反発は強まるだろうし、受け入れなかった自治体やその住民への嫉妬も起きて、国民間に対立がおきてくるかも知れませんね。 まだ遅くは無いと思うから、前のめりの政府のやることにはついていかないほうがいい。 |
すばらしい、最先端! 日和見的でなく県民(?)に対しても、このようにしっかりと意見を言い返せるのもいいですね。 |
徳島県のサイトにがれき受け入れ問題に対する興味深い「回答」があります。 ttp://www.pref.tokushima.jp/governor/opinion/form/652 挑発的な言葉を使ってのプロパガンダ合戦に怒りを通り越して厭世的な気分になりかけていたので 「徳島県としては、県民の安心・安全を何より重視しなければならない」というまっとうな見識、 挑発に乗らない冷静な大人の対応に、少しホッとした、というのが正直な感想。 |
ここでidさんの言われたようなことがはっきりしない限り、「うちは受け入れません」、と表明する知事なり市長がいればあっぱれ、なんですがね。すばらしい自治体だ、と思う人々が集って、自治体の人口も増えるかも知れません。 山口県人としては、山口県知事も今期限りだというし、支持母体は自民党で、今は民主党政権だから、今こそそういうことを言って気骨のあるところを見せるチャンス、減り続ける人口を増やすチャンスだと思うのですが・・。 そういえば、広島はどう考えるのでしょう? 原爆落とされた為、ともかく原子力は持ち込ませないということで、広島への電力の供給を山口県の上関原発に頼ろうとしている、といううわさがある(本当かわかりませんが・・)くらいの県だから、がれきも入れないのか、あるいは、逆に連帯感から受け入れるのか・・。 |
この件については、政府が各地方での処理を推進しているので気になっています。 各地に連帯感を求めるような論調も気になります。 1.放射能汚染の程度と安全性 2.瓦礫の量と処理方法・処理能力・処理時間 3.運搬コストと処理コスト 4.地元雇用対策 5.がれき処理利権 6.政府発表の信頼感のなさ 7.地元の要望 以上を踏まえて判断する必要があります。 1についてはしきい値有り派なので気にならないのですが、 後の項目は判断材料がないので意見表明できません。 |
祖母の息子は、祖父の息子でもあります。ここで重要なのは父の系譜と母の系譜を峻別することです。そうすることで、前者は掟の系譜であり、後者は情念の系譜であることが見えてきます。さらにいうなら、父から受け継ぐ「姓」は血統の系譜であり、そこへ付加される「個人名」は欲望の系譜として捉えることもできるでしょう。 |
「日本の父」は、父である以前にまず「祖母の息子」なのです。 |
以下で言った、甘えを禁止する父、とは、言葉で語らせず有無を言わさない(黙れ!というような)父のことです(理不尽な頑固親父的な)。論理的に語らせる・論理的な語りを許すようにして象徴界を支え、想像界を切断しようとする父ではなくて。 |
「想像的な強い父(φ)―Great Mother(i(a))―自我m」が想像的な三角形を為して、互いの存在をむしろ支えあっているのだと考えます(あるいは、Great Motherを「(想像的)ファルスを持った母(i(a)+φ)と考えると、そのファルスの部分が先ほどの三角の想像的父であり、先ほどの三角のGreat Motherはそれを覆う包みのような部分(i(a))ということになります)。いわば、母への甘えを禁止する強い父があってこそ、その彼岸に本当だったら甘えさせてくれる母の像の存在を想像し続けることが出来る、そして、実は自分こそ母を満たせるφであって母は本当は自分を求めているのだけど父(φ)が禁止していて母と一体になれていないだけ(-φ)なものとして、自我の想像も維持し続けることが出来る、となっているのだと考えます(禁止されるほど生き生きした自我感覚を持てるようなもの。見るな!といわれると見たくなる、という気持ちが活性化されるような)。もし、そういう父が居なくて母に近づければOKかというと、逆に、実は私を求めてくれていたと思っていた母の像などもなかったのだとなってしまい、現実界・無に自我が消滅してしまう(鏡に近づきすぎると自己像が見えなくなるような。水面に映った自分の鏡像<鏡像と言う意味では、ここを母の像とも言い換ええるでしょう>に飛び込むことで死んでしまったナルシスのような)危機に出会うことになります。言い換えれば、この三者はこの構造で想像的ファルスを支えあっているのだ、と考えます。簡単に、平たく言ってしまえば、「絆」によって甘えたくなるような人々は、一方でもともと強い父を必要としている、ということです。今回の場合は、想像的父が「絆」という甘えをいわゆる「禁じる」という形で禁じているのではないのですが、「お前らまだまだ絆に到達してないぞ!(まだまだφになってないぞ、-φだぞ!」という形で、「完璧な絆に没入している状態・完璧な絆(それこそ全能な想像的ファルスφ)を得ている状態」という母子一体の幻想的な目標を作り上げると共に、そこから距離をとらせている(まだ到達してないぞ!)という意味での「禁止」が石原氏、橋本氏によって行なわれている、あるいはそのようなものとして何割かの想像的三角を求める人には受け取られ活用され喜ばれている、ということかと思います。もし象徴的父(父の名)、そして象徴的連鎖を十分発動しえていれば、無を象徴化できるわけですから、こういう想像的三角に頼る必要はないわけですが。 |
誤) まるでその「申し子」が「手先」のように、 正) まるでその「申し子」か「手先」のように、 |
汚染地域内でがれきは処理すべき、という考え方にわたしも賛成です。 がれき受け入れを情緒的に肯定する人々が、声高に自らの正当性を語るのを見るにつけ、 たしかに、ユング的な言い方を借りるならば、ここには、Great Mother が君臨しているようにも見えます。 しかし、それならば、強いこと、「父」的であることを期待されている、 あるいはそうであるように見せることに熱心な、石原慎太郎氏や橋下徹氏が、 Great Mother と対決するどころか、まるでその「申し子」が「手先」のように、 率先して受け入れを表明し、また、それが「強い」「男らしい」「決断力」として 評価されている(らしい)のは、何故なのでしょう。 参考資料: 橋下大阪市長ウォッチ がれき受け入れ要請の首相を高評価 「すごい覚悟持たれた決断」 ttp://www.j-cast.com/2012/03/12125167.html 橋下氏 がれき処理遅れ要因は憲法9条 ttp://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120305-913206.html がれき慎重派に「情けない」 屈辱の日本に失望感 ttp://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120222/waf12022220570035-n1.htm “慎太郎節”サク裂!がれき処理の反対派に「黙れ」 ttp://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20111105/plt1111051450001-n1.htm |
「フォトニック結晶」、とか、「光メモリー」で検索するとかなり面白いと思います。たとえば以下のアドレスのものなど。(電気信号に変換することなく光通信ができるということで、少し前朝日新聞に出ていたので知りましたが) ペンローズの議論とも全く無関係でもないかな??とも思いますので、一応のせておきます。 ttp://www.bcm.co.jp/itxp/2011/05/cat17/18000000.php ttp://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20080425/151078/ ttp://www.lfw-japan.jp/news2012/news_20120228_02.html ttp://www.photonic-lattice.com/jp/Tech01_3.html ttp://www.kuee.kyoto-u.ac.jp/~lab05/Photonic_Crystal.html ttp://www.nims.go.jp/fineparticle/ |
私も、ちょうどユングのことを考えていたところです。アニマに呑まれる・・とか。participation mystiqueとか(ユングが一部で洩らしていた言葉)・・。結局はトーテムとタブーでまとめられることかも知れませんが、久々にユングの本をとりあげると今の状況をよくなぞっているように思われる文章がありましたので少し長くなりますが抜粋します。(「Four Archetypes」C.G.Jung Bollingen PapebacksのThe Psychology of Rebirthの章 59-60p)。以下は自身を変容・再生させたい個人がグループと同一化して一見変容・再生できたようでも、結局幻想で、一人の小さな人間のままでしかない、という文脈で語られているところです。 Identification with a group. ・・(略)・・ it is the identification with a number of people who, as a group, have a collective experience of transformation. ・・(略)・・A group experience takes place on a lower level of consciousness than the experience of an individual. This is due to the fact that, when many people gather together to share one common emotion, the total psyche emerging from the group is below the level of the individual psyche. If it is a very large group, the collective psyche will be more like the psyche of an animal, which is the reason why the ethical attitude of large organizations is always doubtful. The psychology of a large crowd inevitably sinks to the level of mob psychology. If, therefore, I have so-called collective experience as a member of a group, it takes place on a lower level of consciousness than if I had the experience by myself alone. That is why this group experience is very much more frequent than an individual experience of transformation. It is also much easier to achieve, because the presence of so many people together exerts great suggestive force. The individual in a crowd easily becomes the victim of his own suggestibility. It is only necessary for something to happen, for instance a proposal backed by the whole crowd, and we too are all for it, even if the proposal is immoral. In the crowd, one feels no responsibility, but also no fear. Thus identification with the group is a simple and easy path to follow, but the group experience goes no deeper than the level of one's own mind in that state. It does work a change in you, but the change does not last. On the contrary, you must have continual recourse to mass intoxication in order to consolidate the experience and your belief in it. But as soon as you are removed from the crowd, you are a different person again and unable to reproduce the previous state of mind. The mass is swayed by participation mystique, which is nothing other than an unconscious identity. Supposing, for example, you go to the theatre: Glance meets glance, everybody observes everybody else, so that all those who are present are caught up in an invisible web of mutual unconscious relationship. If this condition increases, one literally feels borne along by the universal wave of identity with others. It may be a pleasant feeling--one sheep among ten thousand! Again, if I feel that this crowd is a great and wonderful unity, I am a hero, exalted along with the group. When I am myself again, I discover that I am Mr.So-and-So, and that I live in such and such a street, on the third floor. I also find that the whole affair was really most delightful, and I hope it will take place again tomorrow so that I may once more feel myself to be a whole nation, which is much better than being just plain Mr.X. Since this is such an easy and convenient way of raising one's personality to a more exalted rank, mankind has always formed groups which made collective experiences of transformation--often of an ecstatic nature--possible. The regressive identification with lower and more primitive states of consciousness is invariably accompanied by a heightened scene of life; hence the quickening effect of regressive identifications with half-animal ancestors in the Stone Age. |
日本人全体が「集合的無意識」として機能しており、そこには Great Mother が君臨しているように見えます。 |