多くのフランス人はそうなのですね。人間として至極まっとうな考えだと思いますね。 日本では、「自分の合理的な思考をあえて押さえ込んできついものに従うのが倫理である」、というような、いわば倫理を押さえ込む倫理が流行りやすいようですね。 |
今回再会したすべてのフランス人が「汚染されたがれきを日本中にもってゆくことが信じられない」と言っていた。核汚染については未知の部分もあり、測定されているものはその一部に過ぎない。「未知の部分がある限り汚染地域内でがれきは処理すべきである」と言った意見が多数だった。 |
>ソーカル君を恐れずに言えば、不完全性定理は「数学もただの言語だった」ということを明らかにしたものであるといえます。ラカン的に翻訳すると、「全てのシニフィアンがそれぞれのシニフィエと一対一対応する言語体系は存在しえない」ということ。ペンローズは図らずもその基本スタンスからスタートしている。 ここが、ちょっと私は違う意見を持つのです。それを語っていくと、実はそんなにちがっっては居なかった・・ということにもなるかもしれませんが、多分微妙に違う・・。これはまた後日書きます。 |
同じように苦しめばそこに絆があり、皆がつながっている、と思う気のせい。 ていのいい、個々人のエディプスコンプレクスからの罪悪感の処理にしか思えません。 がれきの合理的な処理をいろいろ模索しようともせず。政府も、どのくらい置き場に面積が必要で、除染不可能・居住不可能な地域の面積があるか、その地域だけでの処理は無理なのか、を数値で国民に知らせて国民にも考える機会を与えようともせず・・。 皆が戦争へと加担していく(あの人も戦争に参加し傷ついた、私もそうせねば・・)というのと似ていないかどうか・・。 「絆」という感状論のみでがれきを拡散すること、それが政府のリーダーシップだと勘違いしている姿勢。外国から見ると、ほんと、いい笑いものになるのではないでしょうか。 震災時の、人々の冷静で配慮した対応(それは合理的な姿勢であったとも思いますが)が外国から賞賛されたようですが、今回の瓦礫拡散は、外国からは感情論が合理性に勝ったというとてもナイーブな姿勢しか見えないのではないでしょうか? 「絆」と言って、ただ一緒に苦しむというのではなく、皆に一番良い方法を考えるのが本当ではないでしょうか。 |
そこで「脳自体の不安定さ」を対置するのではなく、もっと単純な、というかオーソドックスなラカン的考え方を適用してペンローズを読んでみてもいいのではないのでしょうか。ソーカル君を恐れずに言えば、不完全性定理は「数学もただの言語だった」ということを明らかにしたものであるといえます。ラカン的に翻訳すると、「全てのシニフィアンがそれぞれのシニフィエと一対一対応する言語体系は存在しえない」ということ。ペンローズは図らずもその基本スタンスからスタートしている。なので、私は、従来の人工知能学者とペンローズの「心」の捉え方の差異と、古典的言語学とラカンの「言語」の捉え方の差異には相等性があると考えます。ペンローズはたしかに一見「意識はコンピュータができないこともできる」というありきたりな主張をしているようにも見えますが、それは最終的に「意識」を特権化・神秘化して語ってしまうだけの中途半端な哲学者および科学者とは違うと思います。ペンローズの考える「意識」や「心」はむしろ、水上さんがいう「不完全な人間存在」換言すれば「言葉を-話す-存在」を存立根拠にした「色んな階層の数学がいつまでも不決定のまま行なわれているという構造」に近いと思います。 それにしても、藤田さんの「無意識も充分非アルゴリズム的活動をおこないます」という一言がずっとひっかかりまくったままですねえ。3/22にフジタゼミに行く予定なのでそのとき聞いてみます。 |
誤解があるのかも知れませんが、ペンローズに人間の知性に対する理想化を感じます。人間の意識は、コンピューターで計算不可能な部分を補えるほどのものを持っている、というような。そして、その補う部分に計算不可能な領域とか、量子力学を入れる、とかそういうことになっている? むしろ、人間は、コンピューターで計算可能で、計算の終了してしまう部分についても、終了させない、いつまでも計算を終わらせない、と考えてみるとどうでしょうか。今、脳が使ったアルゴリズムも、固定化させない、すぐに崩してしまう、非常に不安定な基盤の上で、色んなアルゴリズムをとっかえひっかえ持ち込んでしまう、というゆるさを脳は持っている・堅固でなく持たざるを得ない、という脳自体の不安定さから考えてみてはどうでしょうか。こうすると、計算可能性と計算不可能性の乖離をどうにかほどくことが出来るのではないか、とも思います。脳が一時的に或るアルゴリズムを使うという意味での数学(計算?)と、それ(アルゴリズム自体)をとっかえひっかえするその動き自体としての数学(計算?)と、その動き自体を一時的なメタの目でそこに法則を見る・法則を抽象化するという意味での数学と、しかしそれ自体もまたメタの位置に居続けられず、こういうプロセスに巻き込まれる対象となる(あるいは崩されて修正される)というこの全体の動きにある数学・・、というふうに色んな階層の数学、そしてこれがいつまでも不決定のまま行なわれているという構造を脳の中に考えれば、もしかしたら、わざわざ新しく計算不可能性というのを考えなくても、数学的直観を引き起こす構造は考えられるないだろうか・・・(まだ別に、しっかりとした証明が出来ているわけではありませんが・・)。むしろコンピューターより不完全で不安定であるがゆえの人間の脳の強みを考えるということから進めたく感じています。 とりあえず、ペンローズタイルを代表に取り上げ、ペンローズはそれをどう思いついたか、ということから考えてみようかなと思っています。「ペンローズタイルの面白い点はその計算不可能性にある」、「いくつかの多角形の図形ピースが与えられたとき、そのピースを用いて平面が充填できるかどうかを決定する計算アルゴリズムは存在しない」(「ペンローズの<量子脳>理論」62−63pp―竹内の解説のところ-)ということですから。ペンローズタイルについては「全体を考慮に入れながらパズルを作っていかないとだめ」(「ペンローズのねじれた四次元」竹内薫 21p)とあり、「一次元ペンローズタイルは(中略)自然界では植物の葉序として現れる」(『黄金の音楽構想』日詰明男、「脳がつくる形」工作舎、に所収)ということですから、黄金比が関係しており、そういう意味でも、また隙間隙間に入っていく(葉序)という意味でも、やはりそこには対象a,去勢、不完全な人間存在というものこそが関与しておりその直観を生み出すもとにあるのでは?、不完全な人間存在というものを考えればペンローズタイルを思いつかさせる構造を考ええるのでは、とも思うのです。しかし、人間における対象a=黄金比は、想像的な統一自我とそれを崩す去勢との弁証法にあると考えますが、では、人間にそれがあるからと言って、自己の似像のように、それを数学として、あるいはペンローズタイルとして見出していく・作り出していく、ということにどうしてなるのか、というのも考えてみたいことです。 |
数学者が公理を設定して理論構築しうることがすなわち「無を扱うことができる」、換言すれば大他者の欠如を認めることであると考えられる。それ以上塑行できない命題を任意に措定する機能。計算機的知性にはその機能がどうしても持てない。 ただ、そのような機能を意識の属性としてだけではなく、無意識の属性としても考えてみる。その場合、ペンローズの量子脳仮説が参考になる、という感じで考えてみることにします。 |
アルゴリズムに従った計算とは結局どこまで行っても換喩でしかないのではと思えますが(そもそもアルゴリズムと言うもの自体をよく知らない時点でのとりあえずの印象ですが・・)、ここで、もしペンローズが隠喩の次元も含め、無なり去勢なりの象徴化ということを考えていたならどういう理論を出していただろうか、と思います。非アルゴリズム過程のほうに、量子力学的な過程をここで突然持ってこなくても(・・持ってきたかどうかよく私にはわかっていませんが今のところそういう風にペンローズは考えているのかなと思えますが・・)、非アルゴリズム過程のもっと別の説明もいろいろ試みていたのではないか、と。 たとえば、洞察なり、数学的直観なりは、より隠喩的次元を深めたところでの新しい関係性の発見・析出、ということで成り立っていることが多いかなと思いますが、これも一種の去勢・無の象徴化として考えていいのではないかと思います。ここではその関係性というものが、今まで茫漠とした無でしかなかったところに新しく見られてきたわけですし、場合によればこの関係性に組み込まれる各項自体も切断を受ける憂き目にもあいますから(例えば、2,3,6,9はそのままでは何の関係性も見られませんが、2を素因数に持つもの、3を素因数に持つものと差異化でき、さらにそうした場合、6は2と3に切断され、9は3つの3に切断-いわば去勢―されることになる、というような)。そういう無の象徴化なり、差異化と構造化をしたがる人間の欲望なりの次元を考えれば、数学的直観なり、洞察の説明としては、それで済むことも多いのではないか・・。しかし、まあ、ここで、この関係性の発見にしても、とっかえひっかえがちゃがちゃやってうまくはまるのを待つという過程があることを考えると(例えば大きな数字の素因数分解というのはそういうプロセスを要するかなと思いますが)、そこには量子力学的な過程を考えたほうがよい、ということなのか? またそうだとして、そこにどうマイクロチューブルが関係してくるのか。『ペンローズの量子脳理論』169pには、量子的にコヒーレントな重ねあわせから、OrchORとなってくる様子が図解されてあり、これがリズミカルに繰り返すのだろうなと思いますが、ここのリズムが、上に記したとっかえひっかえと関係してくるのかどうか・・。そういうところが私にはまだ問題としてのこります。 それはそうとして、ラカンの理論側においてのまだ意識、無意識のアルゴリズム、非アルゴリズムの過程が見出されていない部分とはどんなところか、どんなところにペンローズの洞察を役立てることができるか、という方向からも見てみたいと思います。 |
さらに、ペンローズは無意識の活動をアルゴリズム的、意識の活動を非アルゴリズム的と考えていますが、これも問題のある考え方ですね。無意識も充分非アルゴリズム的活動をおこないます。このようにペンローズは、大変示唆的なことを教えてくれる案内人ですが、そのガイダンスを鵜呑みにしてはいけないということですね。しかしながら、他の不甲斐ない科学者のことを考えるならやはり突出した科学者であることは否定できないでしょう。批判しつつ学ぶ、という姿勢がペンローズ読解のコツなのかもしれません。 |
やはりそうなんですね。なんか色々言えてきそうな気がしてきました。 |
そこなんです。ペンローズに精神分析的な思考法が欠けているのです。著作のなかでは一応フロイトを挙げて無意識の説明をしていますが、それを計算不可能性と結びつけようとしています。しかしそうではありません。無意識は計算します。むしろ計算は無意識の仕事であるといった方が良いくらいひたすら計算をするのです。ここにペンローズのロジックの陥穽とわたしたちがつけ込む隙が出現します。 ペンローズの著作(例えば『皇帝の新しい心』『心の影』)から得るものは、半分くらいで、残りの半分はわたしたちが補填してゆく必要があるでしょう。 |
ω無矛盾性ということになるのか、「終了しない計算」ということになるのかよくわかりませんが、職を転々とし「ここで通用しない人間はどこへいっても駄目だよ!」と偉そうに言われると(これはΠ-文ということでしょうか)、「いや、私に適した職場もあるかもしれない」、と言いたくなります。 あるいは、「人生に意味なんてありませんよ」(これもΠ-文?)と他人に言いたくなるときもありますが、しかし「無いんだ!」という方向に思われてしまうのも、意識に偏りを触発しているよな、と思ってしまいます。「有る」ともいえないんだろうが、「ない」と、輪郭付けられた閉区間的な言葉を返すのも変だなと感じます。せいぜい「有るんですかね?」程度が無難? 「有るとは言えない」はどうでしょうか?? こうなると、1か0か、あるいは「1ではない」とか「0ではない」とかでもなく、虚数軸にずれ込むような、応答のしかたが何かないかな、とさえ思ってしまいます。 こういう問題は、精神分析上での解釈にも問題になってくるのではないでしょうか? 『君がそれに気づくのは遅すぎる』(麻川未玲 ラカン特集 imagoに所収)で、フィクションかノンフィクションかわかりませんが、分析セッションが語られており、その中で、分析主体が「何をするべきかという基準がわからないのです。私は私のするべきことを行いたい・・」と自由連想した折、分析家は、「そんな基準なんてありませんよ」と返しています。以前から、そこまで言っていいのか、・・と気になっているのですが。そう言って、次の連想を触発する、ということかも知れませんけど・・。 |
「形式」と「内容」と聞くと色々連想が出すぎてしまいますが、いくつか書きます。 ・「灯台もと暗し」というような、できるだけ分析主体のその瞬間の語りの形式、分析主体にとって一番手前、手前過ぎてきづかないほどのところ、を解釈なり、何らかの指摘ができればとよく思います。もしかしたら、遠くの(より昔の、etc.)の連想が出ることは、それに対する抵抗であるとともにうまくいったサインであることもあるでしょうか・・。 ・「形式」は、「人はその中で語る」という意味で、本人を包み込み動かすものであるがまた本人の対象でもあるとされる(←ある説明によると、たしか・・)幻想$<>aについてのこの説明の前半も思い起こさせます。 ・その「形式」も、それまでの本人の語りに影響されていると考えると、自分で析出した世界に動かされて(あとはそれ以前の他者の欲望というのもありますが)語っているということになり、中野さんの263ともつながってくるようにも思われます。 ・形式が内容に、内容が形式に反映されてくる関係は興味ぶかいです。 ・y/x=x/(x+y)=a という式(aは黄金比)。三人の囚人の寓話内の3人の関係の式として「ラカンの精神分析」新宮著94―96ppで見ることができ、「私xから見た他者yは、私xと他者yを合わせた全体x+yから見た私xに等しい。」と解釈されるところですが、これを、形式と内容の関係へとどのようにか敷衍できないか・・とも思っているところですが、まだうまくいきません。 ・シニフィアンが去勢を象徴化しようとする動きに反した内容を言おうとするときには、失錯という形式が起きる。その動きに内容が沿っているときは、それは機知あるいは「充実したパロール」になる(?)。(・・というか後者の場合は、その動きとは別に「内容」があるというより、その動き自体がその瞬間に内容を作り上げる、そしてそれもすぐに崩され執着されない、ということでしょうが。ジョークを言おうとして言うのは受けないが、言った瞬間についそれがジョークになっていた、というものこそ面白いように。)。 ・形式と内容の矛盾。「いやよいやよも好きのうち」。これ(いやよ)は機知といえば機知でしょうが・・。よく考えると、これは内容と言語形式との矛盾でなく、言語内容vs気分内容や体の形式との矛盾ですね。 ・精神病的な、形式と内容の一致。「たとえば、文の終わりで、「〜ない」とか、言うときあるでしょう? 「〜ない」と言ったとたん、思考が止まるんですよね(あるいはそのとき絵を描いていた手が止まる、だったか)。」と述べていた分裂病者。 ・分裂病者が多いと思われるデイケアで、彼らの作った俳句が並べられているのを見たことがありますが、5・7・5の形式に沿って内容はつぎはぎ的orいかにも俳句にしようとしたなというような優等生的な本人の心情のあまり感じられないものになるか、内容がよく心情が表れているなと感じられるものだと自由律になる傾向があるな、という印象を持った記憶があります。そのように分離して見たい、という私自身の欲目も影響しているかもしれませんが・・。 |
私としては、ペンローズを読むと、ペンローズは言語なりの特性をどこまで見ていたか、が疑問に思えてくるのです。Π-文と、Σ-文など言語的なことを述べてはいますが・・。 私の言う言語なりの特性というのは、荒く言えば、「消え去っていく音声」で出来ている、ということです。その消失する声を追うように、また、消失させようとするように、その自分の声自身に対してもフォルトーダーしようとする動きが、どこまでも連鎖する隠喩と換喩の弁証法を作り上げる。それは、また、もっともエコノミカルに、差異化と構造化によって無を象徴化をしようとする終わりなき試みともいえましょうが、この動きゆえに、自然に、論理や文法に従った言葉を私たちは話すことになる(文法はもちろん人工的な面が含まれますが、それもこういう動きに奉仕しうるように作られているものだと思います)。論理や文法を、ここであえて公理と呼ばせてもらうと、私たちは「公理から始めて、公理にそうように」話そうとしているわけではない(アンネ・ラウはそうしようとするから無理があるのだと思いますが)。「無を象徴化しようとする動き」が、「自然に公理に沿った語り方をさせている」・・・ということだと思うのです。 そういうダイナミックな動きをペンローズははたしてどこまで考えていたのか? あまりそういう動きを考えていないから、「計算可能性」と「計算不可能性」を乖離して、人間の意識を唐突に後者に置いたのではないか(意識に計算可能性の要素を全くみていないのかどうか、まだ、よくわかりませんが)、という疑問も出てきます(このへんの、感覚は中野さんの257に近いのでしょうか??)。「計算可能性」すなわち論理や文法、ではないのでしょうが、「意識」をなすものとして「計算可能性」とその破壊の弁証法、あるいは、「計算可能性」と「計算不可能性」の弁証法、というのも考えてよいのでは、とも思います。 いや、これは本当に、ペンローズを読み込んでいない現時点での感想に過ぎません。こういう極端な感想をまず出してみて、修正をかけていきたいと思っているところです(あと計算可能性と数学との関係もわかっていませんが・・)。 |
「数学」も、精神分析がいうところの広義のもしくは狭義の「言語」としてとらえられなければならない。精神分析の考え方(「シニフィアンという間接的なものを直接扱う」)に触れたことのある者でも、「数学」という言語を目の前にすると「直接的な何かを間接的なメソッドで扱う」態度に戻ってしまう場面を往々にして見かけるが、そうではなく、数学に対しても「間接的なものを直接扱う」という方法を貫徹しなければならぬ。 |
芭蕉の言葉とされる「不易流行」という考え方は、俳句の形式と意味について述べられたものだが、同時に精神分析についても当てはまる。ラカンがフロイトの精読から再構成した精神分析を「流行」であると勘違いしている人がどれだけ多いことか。精神分析を安易に批判している人たちは真に思考することを放棄しているようにすら見える。「考える」ということは本当に難しいことだ。 |
精神分析的治療の現場に於いては、「語りの内容」よりもむしろ「語りの形式」が多くの示唆を与える。つまり「何を語っているか」ではなく「どのように語っているか」であり、さらには「あなたに語っている」のではなく「あなたについて語っている」のである、という形式が重要だ。 |
ちょっと思弁で遊んでみましょう。知覚系構造の仮説を考えるとき、たとえば「Empiricalな領野=多様、transcendentalな領野=一様」というインプリシットな公理ではなく、「Empiricalな領野=一様、transcendentalな領野=多様」を公理としてみても、権利上なんの問題もありません。ただこのままだとタームが全てひっくり返るだけで何の進展もありませんので、「Empiricalな領野=多様、transcendentalな領野=一様」と「Empiricalな領野=一様、transcendentalな領野=多様」という両方の公理が併存する知覚系を考えてみます。先ほどの例でいえば「フーリエ解析装置かつ逆フーリエ解析装置」としての知覚系を試考してみるということです。藤田さんが「心的回路と記憶システム」(『人間という症候』所収)で提示した「内的な8の字」モデルを援用すれば、知覚―意識システムは内的記憶装置(内界)と外的記憶装置(外界)のそれぞれが決壊する場所に位置します。そのため、知覚―意識システムは一方から見れば、フーリエ解析装置のような、雑多な経験世界(合成波)から単純な情報(正弦波)を取り出す機構と表象される(「Empiricalな領野=多様、transcendentalな領野=一様」)。もう一方から見れば、知覚―意識システムは逆フーリエ解析装置のような、単純な情報(正弦波)から雑多な経験世界(合成波)を編み出す機構と表象される(「Empiricalな領野=一様、transcendentalな領野=多様」)。 シニフィアンの微分積分学的にいえば、前者の機構は微分解除、後者は微分-積算。 どっちの機構が先かと問うのは、ニワトリとタマゴなので意味がありません。 いわば「自分で書いたものを、それを自分で書いたことを忘れて、一生懸命解読しようとしている」もしくは「自分で析出した世界で、それを自分で析出したことを忘れたまま、一生懸命生きている」ような構造をそのまま思考する必要がある。でないと、古典論の代わりに量子論を持ち出しても話はあまり変わらないのではないかという気がします。もちろんこのような構造成立の絶対条件は「言語の外在性」であることはいうまでもありません。 |
もちろんです。先生のおっしゃることはよくわかるつもりです。 右も左も前も後ろも全方向に対して気をつけておくべきだと思います。 情報というものは多かれ少なかれ作為的です。 またあらゆる情報は本人の志とは別にプロパガンダにもなり得ます。 藤田先生は、句集『桜さくら桜』のなかで「考えるってむずかしいことね」と書いておられます。 わたしは考え続けるためにひとつの問題提起したつもりです。 |
気をつけなければなりません。反ナチス主義の記者がことさら強調して作り上げた記事のように見えます。かなり作為的ですね。写真を注意深く見るとわかりますが他にも手を挙げてない人がいますし、このような集団の中で挙げなくても実際は大きな差異はありません。これをことさら取り上げて記事にすることじたいに思想性を感じますね。ある意味危険です。 |