不起立教師は思想信条を金科玉条にして、教育現場で生徒に対して政治活動をしているということです。 東京裁判史観に染まっており、大東亜戦争について日本が悪であったとの一方的な反日教育をやっている。 こういう悪質な公務員がいるから規制強化をせざるを経なくなります。 |
なるほど、この教諭が159人の生徒に「立たなくて良い」という思想を植え付けたわけですね。 逆に、ただ一人で立った生徒の勇気を褒めてやりたい気がします。 |
国歌不起立処分取り消し訴訟、元教諭の訴え却下 読売新聞 2月6日(月)16時25分配信 ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120206-00000800-yom-soci 卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったなどとして大阪府門真市教育委員会から文書訓告処分を受けた同市立中元教諭の男性(58)(退職)が、同市を相手取り、処分取り消しを求めた訴訟の判決が6日、大阪地裁であった。 中垣内健治裁判長は、この訴えを却下した。 元教諭は府教委が市教委に処分を指示したとして、府と市に計200万円の慰謝料も求めたが、中垣内裁判長はこれについては請求を棄却した。 訴状によると、元教諭は2008年3月の卒業式で、国歌斉唱時に起立しなかった。校長や市教委から計3度事情聴取を受けたが、それ以上は応じず、同年10月、聴取を受けるよう校長から職務命令が出ても従わなかった。市教委は09年2月、不起立と、聴取に関する職務命令違反を理由に元教諭を処分した。 元教諭は同年11月、不起立を理由にした処分は思想・良心の自由を保障した憲法に違反する、などとして提訴していた。 市教委によると、この卒業式では、卒業生(160人)が1人を除いて、国歌斉唱時に起立しなかった。 最終更新:2月6日(月)16時25分 |
レスありがとうございます。 そうですか・・。量子力学自体は、たしかに、実在論ではないにしても、ペンローズはそうかな、と思っていました。もう少しペンローズ読んでみます。 230の件への中野さんの指摘、これもまた私自身がペンローズの理論をもっと知らないとなんともいえないので、もう少し調べてみます。 |
>230 いや、ペンローズがそこでORもしくは「一つの離散的な意識的イベント」という仮説で言わんとしているのは、フロイトが「マジックメモについてのノート」において試みた「感官成立の根拠は如何?」という問いに近いのではないか? 「いろんな仮説をとっかえひっかえ向け続ける」舞台そのものの成立根拠についての仮説というか。 >232 ペンローズの意識論の根底には、「ヒトもしくはヒトの脳の活動はアルゴリズムに還元されない」というテーゼ(不完全性定理と、それと同値であるチューリングマシンの停止プログラムの不可能性)があるので、逆に水上さんの考え方に近いんじゃないでしょうか? ペンローズ本人がどう思っているかは知りませんが、プラトニズムや数学実在論とは違うと思います。 |
そうではありません。 |
たとえば、量子コンピュータを考えてみると、計算自体が量子論理的であり、ここでは数学が量子論理を保証しているのではなく、量子論理が計算を保証しているという構図になっています。つまり量子計算じたいはヒルベルト空間上の線形代数つまりホログラム化そのものを構成する要素であり、量子計算という数学においては、波束の収斂は、その重ね合わせや量子ビット上の操作(ユニタリ作用素)として表現されます。したがって、数学が実在的云々、ではなく、量子計算という数学こそがホログラム的といったほうがよいでしょう。いずれにしても、量子力学において「実在」という言葉はなじみません。 |
藤田さん >物質と精神はいずれも(略)より低次と考えられるストラクチャー(例えば2次平面)からヒルベルト空間内へと射影されたホログラム 物質と精神はヒルベルト空間の複素ベクトルをより低次と考えられるストラクチャー(例えば2次平面)に異種のしかたで射影されたもの ではなくて? |
ペンローズは数学と言うものをかなり実在的に考えているのでしょうか? ざっと読んでみますと、そういう印象を持ちます。 どこにどのように実在している、と考えているのかまだ調べていませんが・・。 しかしどうも私にはそこは納得いきません。 数学は、差異相互の差異化、さらにそれらの差異化・・・という過程でどんどん構成されえるものではないか、・・最初からどこかに完成して実在しているものを人間がつかみとるというようではなくて・・、と思うのですが・・。 |
ペンローズ著「心は量子で語れるか」に、リベットとコルンフーバーの実験が紹介されています。そこでは(191〜194) ・被験者が実際に決断を下したと思った時刻の約1秒前に、脳内の電気的活動がかなり明確に示された。 ・人が受動的に何かに気づく前に、脳内で焼く0,5秒の活動が要された。 とあり、ペンローズは「ある出来事を意識するまでに0,5秒を要する。それから、その出来事について何かを行うために意識を働かすとしよう。その何かを自由意志が行うために、もう1秒が必要になる。(中略)これはかなり信じがたいことである。たとえば通常の会話を考えてみよう。相当量の会話が反射的で無意識的であるかもしれないが、意識的な応答を行うのに1,5秒もかかるということは、私には非常に奇妙に思われる」と述べています。そして、「したがって量子的な非局在性と量子的な反事実的条件のために、こうしたタイミング(前述した意識的な応答にかかる時間)の中で、何か奇妙なことが起こっている可能性は捨てられない」と述べます。 しかし、それほど難しく考えないといけないことでしょうか(当該の頁を読んだ限りで、ペンローズの言う、「奇妙なこと」は調べてはいませんが)? それまでにやってきている欲望・言語連鎖の流れが無意識・前意識にあり、それゆえに常に既に生じつづけている、未来についての仮説的な予測・先取りによって、いくつかに限定された反応準備が常に既になされているのだ、と考えると、会話などでの応答反応が1,5秒もかからないのはすぐに説明できるように思えます。実験で1,5秒もかかったのは、そういう流れに乗ったときの反応ではなくて、準備性のきかない特殊状況へ連れ出しての実験だったからではないでしょうか。たしかに、そのように唐突な特殊状況に対して反応を求められるところでは遅れをとることでしょう。私も、ストーブがついていると知らず上部の鉄板の熱さに気づかないまま、友人が「なぜあんなに長く置いたままで熱くないのだろうと思った」と言ったほど、かなりの時間手をおいていて焼けどしたことがありましたから。 |
相対論のヌルラインを眺めていると、光のほうこそ、とどまっていて、そのとどまりについていけずに遅れて動いてしまっているほうが時間、空間を発生させてしまっている・・という変な文章が思い浮かんでしまう・・。 意識に移して言うと、亀(上で言うと光)のほうはとどまっているのに、そこに到達しようとして歩いているアキレスのいつまでも到達しない歩みが時間空間の意識を発生させている、とも言えないか・・など考えさせられる(亀=現実界・・とするとどうか)・・。 (私の理解では、ヌルライン=光円錐の側面である45度のライン、つまり光の軌跡、(―もしかしたら今だとニュートリノの軌跡というべきか・・いやニュートリノからの遅れが時空を発生させているわけではわけではないいから、ここは光でよいか―、)だと考えているのですが・・。縦軸=時間軸を虚数にとってあるから、ピタゴラスの定理から、この45度のラインは、計算するとゼロになる、ということでnull line?) ところでマイクロチューブル。 本気にとっていなかったので、今勉強し始めました。まずは、『意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる』(ペンローズ、ハメロフ 「ペンローズの<量子脳>理論」に所収)から見ています。140、141の2ページ読んだだけで、もうつまずいてしまいました。「脳のようにある基準を満たす形で組織されたシステムでは、「OR」の際に「意識」が生ずると考えられる」・・とあります(OR =「客観的な波動関数の収縮」objective reduction)。 しかし、むしろORのほうこそ意識消失に対応する、と考えるのはどうでしょう? あるいは現実界との一致。 というのは、むしろ実現していないものに対して(あるいはすでに彼岸(現実界)では実現していたとしても、直接そこに出会えないものに対して)いつまでも不決定に、いろんな仮説をとっかえひっかえ向け続けるのが意識であると考えるから。 まあ、差異や句読点として断絶させられることの反復が、意識を持続させている、と考え、ORをこの差異や句読点の瞬間というならば、ORが意識を発生させている、と言えなくもないでしょうが・・。 収縮と言うものが、どうも、てんかんのスパイクを連想させるというのもあって、ついそう思ってしまう、というのもあります。むろんこれは単に連想であって、波動関数の収縮ということとはまったくわけが違うのでしょうが・・。 「ORのさいに意識が生じる」と言う場合の、ORは、脳の中で起きているORと言っているのか、対象のほうで言っているのか・・というのでまた違ってくるかも知れませんが・・。 2ページ読んだ限りでの、無責任でまた無知な感想にすぎません・・。 |
カントや、「パリティ対称性の破れ」には不勉強なので、また今後ご教示願うところもあるかと思います。フーリエは確かに面白いですね。私も知覚シニフィアンと絡めて考えると、何か新しい知見をひねり出せるかなと思っているところです。そもそも現実界から心的装置にやってくる刺激に対して、トップダウン的にスペクトル解析をかけているような動きが精神にあるだろうことはまず容易に想像できますから。でも、だからといって、精神分析的な新しい知見をひねりだすのはなかなか難しく感じています。わざわざなぜフーリエを精神分析に持ち込むのか、という批判に太刀打ちできるほどのものを、まだ私は得ていないように思います。こういう数学を使ってこそわかるものを、事例が見せる事象から何か抽出できれば、と思っているのですが、まだまだ観察の解析度が甘いのだと思いますが、それができない。文系脳で考えれば十分と言うあたりの事象やそのパターンしかつかめない、という現状です。あとスペクトル解析する対象が、安定した対象であるとか観察者から分離した対象であればよいのですが、精神の場合は、心的装置外の現実界からの刺激を解析すればすむというのみならず、解析しようとした自己の動き自身も、解析される側にすぐにまわるという自己代入があったり(量子の観察以上にやっかいな・・。観察しようとするだけで動いてしまうから)、解析にかかわる言語自身についてもこういう二重性があったりするでしょうから、精神の動きをフーリエで捉えなおそうとしてもすぐに全体像が幾何級数的に複雑になるようにも思われるところがやっかいに感じています。でも、その最小のモデルのようなものが、フーリエなどを通して抽出できればなと思います。 |
もしかしたら、物質と精神は同じものではないか。これらはいずれも、より低次と考えられるストラクチャー(例えば2次平面)からヒルベルト空間内へと射影されたホログラムではないか。恐らく、波動の収斂のしかたが異なるだけなのかも知れない。ペンローズ風にいえば、観測による収斂 R(Reduction)と客観的な収斂 OR(Objective Reduction)の違いが、物質と精神、更にいえば物質と魂、のような次元を創出しているのではないか。つまり観測者に依存する収斂とそうでない収斂が区別され、前者によってホログラム化されたものが物質、後者によってホログラム化したものが精神である、と考えるのだ。さらに、精神を特化させる「意識 Consciousness」とは、これもペンローズ風にいえば、神経細胞内の微小管(Microtubule)のチューブ内で波動が収斂するOrch OR(Orchestrated Objective Reduction)現象として捉えられるのではないか。 続きはゼミでやります。 |
あと、何かと引き合いに出されるカントの「物自体」概念と、ラカンの「現実界」概念の類似と相違について考えています。 「純粋理性批判」の読み方を大ざっぱに、?@ニュートン力学の哲学的基礎付けとしての「純理」、?A基礎付けそのものについての考察としての「純理」、に分け、後者がラカンの「現実界」概念と一致することについてです。 ただこれだけだと哲学研究者みたいで退屈なので、さらに、素粒子物理学の「パリティ対象性の破れ」を絡めて考えたいと思っています。 うーん、まだこれもいまいち具体的じゃないなあ。 |
>生産的な話題に移りましょう。 すみません・・・ 214に関してですが、最近鈴木昇一という人の本を読んでまして(というか数式が難しすぎて眺めてるだけなんですが)、心的構造論に何か繋がるかと思いました。 この鈴木昇一という人はちょっとトンデモっぽいところがある情報理論家で、著書はわかりづらく、とにかく一にも二にもヒルベルト空間やフーリエ解析ががんがん出てくるのですが、映像、音声などの領野さえ徹底的に言語(数学)で語ろうとするところに魅かれます。 これに藤田さんの「知覚シニフィアン」の考え方をくっつけて序論めいたものを書こうかと思ったのですが、いざとなると具体的なことがぜんぜん思い浮かばないことに気付き、書きながら愕然としてしまいました(笑)。 すいません、ぜんぜん生産的じゃなかったです。 |
私はidさんに無秩序好みのやつだと思われてたのか。知らなかった。 |
すでに213、220を通じて、私としては、十分お答えしているつもりです。 私と、idさんの根本的な考えの違いがもうひとつ223からわかりました。idさんは、慣習や規範がなければ、無秩序になると思っておられるのですね。私は、あまりそうは思っていないのです、少なくとも、第一に大切なものというわけではない(200後半に書いたような考えです)。それも平行線ですよね。生産的な話題に移りましょう。 |
なんらかの規範を作らなければ、 生徒は思想信条を理由に慣習を破って中野さん好みの無秩序になるでしょうね。 |
>あいさつは思想・信条にまだ抵触しません。 >しかし、国歌・国旗は、とりわけ国歌はその歌詞から天皇の永い世を願うものであり、もともと内心の自由(たとえば、なぜ天皇を特別視しないといけないか、と感じる人の内心の自由など)に絶対に抵触しない、というものではない、宗教色も全くは払拭できないもので、違います。慣習なら、なんでも押し付けてよい、というわけではありません。国歌は、あいさつのように、思想的にまったくニュートラルなものである、ともし言われるのなら、それは嘘でしょう。 >そもそも、なぜ、教育現場に絶対必要でもない慣習を、しかもそれが教師の適・不適の判断にはふさわしくないとも考えられるものを、余分に持ち込んで(むしろ慣習と言うものは最小限でいいと思うのですが)、しばりをきつくし、論理的、倫理的、知的には適格かもしれない教師を排除しようとするのかわかりません。 ここまで伝わらないということは私の表現力がないのでしょうか。 なぜ日本の国旗・国歌の話に矮小化させるのでしょうか。 思想信条を理由に慣習を破る教師は、下記の理由により教育ができないので不適格だと何度も言っています。この事例でも不起立教師は不適格ではないと言われる根拠がさっぱりわかりません。 例えば、教育現場で外国の要人が日本の国賓として来日した場合や、 国際的なスポーツ大会で外国との対戦時に、 日本人のA教師とその賛同者は、地方公務員である教師が教育という公務中に、 自分たちのなんらかの思想信条を理由に、日本の国家・国旗には敬意を表しないという態度を正当化すると、必然的に下記のようなBCDE教師の態度も認めなくてはならなくなる。 ひいてはF〜Z生徒たちが同様な態度をとっても認めざるを得ない。 日本人のB教師は、 日本に原爆を落としたアメリカの国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のC教師は、 北方領土を不当に占拠し続けるロシアの国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のD教師は、 チベット・ウイグルを侵略し弾圧する中国の国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のE教師は、 不当に竹島を占拠し続けている韓国の国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のF〜Z生徒は、 国家は抑圧機関で悪だという思想信条を持っているので、すべての国歌・国旗には敬意を表しない。 A教師が思想信条を理由に不起立が適格だとするならば、 BCDF教師の行為は思想信条を理由に適格だということですね? F〜Z生徒の行為は思想信条を理由に認めるということですね? それで良いということであれば、言われるとおり平行線なので終了とします。 |
>教育現場で公務中に思想信条を理由に挨拶しない教師は適格ですか? 216の事例に出した、教育現場で公務中に思想信条を理由に他国の国旗・国歌に敬意を表しない教師は適格ですか? 意見を聞かせてください。 私は、ド左翼でもファシストでも、教える能力が高ければ関係ないと考えます。 たとえば、idさんのこの問いをそのまま授業で扱い、生徒に何かを教えることのできる能力を持った人などは、彼のイデオロギーがどうあろうが教師適格だと思いますね。 |