あいさつは思想・信条にまだ抵触しません。 しかし、国歌・国旗は、とりわけ国歌はその歌詞から天皇の永い世を願うものであり、もともと内心の自由(たとえば、なぜ天皇を特別視しないといけないか、と感じる人の内心の自由など)に絶対に抵触しない、というものではない、宗教色も全くは払拭できないもので、違います。慣習なら、なんでも押し付けてよい、というわけではありません。国歌は、あいさつのように、思想的にまったくニュートラルなものである、ともし言われるのなら、それは嘘でしょう。 そもそも、なぜ、教育現場に絶対必要でもない慣習を、しかもそれが教師の適・不適の判断にはふさわしくないとも考えられるものを、余分に持ち込んで(むしろ慣習と言うものは最小限でいいと思うのですが)、しばりをきつくし、論理的、倫理的、知的には適格かもしれない教師を排除しようとするのかわかりません。 >教育現場で公務中に思想信条を理由に挨拶しない教師は適格ですか? 外国人学生が、教室で質問なり、発表なりしたい場合は、腕を適当に上げて、指は人差し指だけあげて示すのが私には不思議でした。後にわかったことは、指をすべて伸ばして腕をのばすやりかたはヒトラーへの敬礼を連想させるから、ということでした。そのような思いを持つ人たちに、もし、発表したいときは、すべての指を伸ばして手をあげよ、といったら、やはりこの合図のやりかたの強制自体も、思想・信条の自由への抵触と感じられてもしかたがないと思います。そして、教師としても、何か発表したい場合に、すべての指を伸ばさずに合図する教師がいたとしても、その人を即不適格とすることはできない、と考えます。 結局、私とidさんのずれというのは以下のようなことではないでしょうか。 ?@今までの慣習にきちんと従えることが倫理でありそれを目指すのが教育 ?Aすべてを疑い、相対化して論理的に考えられることが倫理でありそれを目指すのが教育 下が私の立場、で上がidさんの立場のように感じますが、どうでしょうか。そして、これは平行線に終わるしかないのではないでしょうか。なので、私は反復になりそうな限り、この件はこの辺で終えようと思います。私の基本的な考えは大体述べたようにも思いますので。 ちなみに、私の立場から言うと、?@はやはり慣習と言う分、地域色や、限られた人々の美意識が導くことになるわけであり、その意味では、やるとしたら公立ではなく、私立の学校であるべきと考えます。 最後に、興味深い記事を見つけましたので抜粋しておきます。 「ナチス式敬礼」 Wikipedia ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E5%BC%8F%E6%95%AC%E7%A4%BC より抜粋 :直立の姿勢で右手をピンと張り、一旦胸の位置で水平に構えてから、腕を斜め上に、掌を下側に、突き出すジェスチャーによる敬礼[6]。通常は「ジークハイル」 (Sieg Heil、勝利万歳) あるいは「ハイルヒトラー」 (ドイツ語: Heil Hitler、ヒトラー万歳)の声を付随させる。これはヒトラーへの権力や力の集中、忠誠を意味しており、これを受ける唯一の存在である総統ヒトラー自身は、肘から指先までを上に挙げる答礼でこの敬礼に応える。ヒトラー以外の人は同じ敬礼で応える事が義務であった。 ヒトラーと袂を別った反ヒトラー派のシュトラッサー率いる革命的ナチスの場合は、同じようなスタイルで「ハイル・ドイチュラント」 (ドイツ語: Heil Deutschland, ドイツ万歳) と言った。 突撃隊や親衛隊では公式な敬礼として用いられていたが、国防軍では一般的な挙手の敬礼が行われ続けていた。しかし、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件以降、国防軍内でもナチス式敬礼を行う事が求められるようになった。 第二次世界大戦後のドイツでは、ナチス式敬礼をすると「ナチ賛美・賞賛」と見做され民衆扇動罪で逮捕・処罰の対象となる。オーストリアでも同様な法律があり、取り締まりの対象になっている。これはナチズムに賛同しているかどうかという事は一切関係なく、店のクリスマスディスプレーで右手を挙げたサンタクロース人形を使用した事が問題となり、撤去に追い込まれたこともある[7]。またドイツ人に対して行なうのは最大の侮辱である。: |
水上さん >それがすでに最初から強制が潜在していた、という証拠でしょう。 意味合いがちがいます。慣習を守ることを求めています。 それは例えば、お互いに挨拶をするという行為を、挨拶させるための「強制が潜在していた」というようなものです。 思想信条を理由に挨拶をしない教師がでてくれば、それは公務員である教師として不適格なので、挨拶しない教師はやめさせるという強制する手段を選ばなくてはなりません。 教育現場で公務中に思想信条を理由に挨拶しない教師は適格ですか? 216の事例に出した、教育現場で公務中に思想信条を理由に他国の国旗・国歌に敬意を表しない教師は適格ですか? 中野さん >ちょっと待った。慣習と法規、両方で教員を拘束するというならば不平・不満は当然のように出るでしょう。彼らはもう何も言えなくなってしまう。 ほとんどの教師は法規は気にせずに慣習に従えばよいだけです。 慣習になじまない、教師として不適格な不起立教師が何も言えなくなるだけです。自業自得です。 >dさんは『「日本の国家・国旗には敬意を表する」という命題はアプリオリに正しいから、手段が法規だろうが慣習だろうが、有効なほうを選べばそれでいいんだ』と言っているように感じます。 ちがいます。本来なら法規制は望ましくないです。 強制されることは誰でも嫌でしょう。 「世界中の国の国歌・国旗には敬意を表する」という命題は日本の慣習では正しいと考えます。 教育現場で公務中に思想信条を理由に挨拶しない教師は適格ですか? 216の事例に出した、教育現場で公務中に思想信条を理由に他国の国旗・国歌に敬意を表しない教師は適格ですか? 意見を聞かせてください。 |
ちょっと待った。慣習と法規、両方で教員を拘束するというならば不平・不満は当然のように出るでしょう。彼らはもう何も言えなくなってしまう。 「日本の国家・国旗には敬意を表する」を法規で定めるのならば、同時に「日本の国家・国旗には敬意を表する」の正当性を慣習に求めることを放棄するのでないと筋が通らない。 idさんは『「日本の国家・国旗には敬意を表する」という命題はアプリオリに正しいから、手段が法規だろうが慣習だろうが、有効なほうを選べばそれでいいんだ』と言っているように感じます。 |
>強制がない場合の話です。 教育現場では強制がなくても思想信条を理由に不起立はなじまないので、残念ながら結果的に強制せざるを得なかったと言いたいわけです。 それがすでに最初から強制が潜在していた、という証拠でしょう。 |
>idさんの最後に書かれたものにおける最初の点について。・・ >不適格でしょうね。 しかし、日本の国歌・国旗をあれほど押し付ける状況下にあってそれに抵抗している人たちが、みんな、来賓の国の国歌・国旗にマナーを示さないような不適格な教師だとは限りません。 >来賓の国歌・国旗の場合は「外国の法律なり、外国の自治体の条例なりで、今後ともコントロールされないことが分かっている」、「それに、来賓自体が、起立せよ! そうしないとお前を解雇する!と言っているわけではありませんから」お客さんへのマナーとしてその程度はできるということが適格ということにはなると思います。日本の国旗・国歌の場合は、橋下氏のように、条例化し、押し付けてくるほど、そこには思想・信条がこめられていると思われてもしかたないわけで、そこに抵抗しようとしているわけです。マナー云々と言う以前に、まず、そういう条例、そしてその押し付けへの抵抗なわけです。その抵抗が即教師不適格の基準になるとは思えません。 すみませんが、まだ言いたいことが伝わってないようです。 書きなおしてみます。 強制がない場合の話です。 教育現場では強制がなくても思想信条を理由に不起立はなじまないので、残念ながら結果的に強制せざるを得なかったと言いたいわけです。 例えば、教育現場で外国の要人が日本の国賓として来日した場合や、 国際的なスポーツ大会で外国との対戦時に、 日本人のA教師とその賛同者は、地方公務員である教師が教育という公務中に、 自分たちのなんらかの思想信条を理由に、日本の国家・国旗には敬意を表しないという態度を正当化すると、必然的に下記のようなBCDEF教師の態度も認めなくてはならなくなる。 ひいてはF〜Z生徒たちが同様な態度をとっても認めざるを得ない。 日本人のB教師は、 日本に原爆を落としたアメリカの国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のC教師は、 北方領土を不当に占拠し続けるロシアの国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のD教師は、 チベット・ウイグルを侵略し弾圧する中国の国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のE教師は、 不当に竹島を占拠し続けている韓国の国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のF〜Z生徒は、 国家は悪だという思想信条を持っているので、すべての国歌・国旗には敬意を表しない。 いつのまにか強制性・押し付けの話にすり変わっています。 不起立教師は強制されることが無いときから、慣習に逆らって思想信条の自由を理由として不起立してきたわけです。 (不起立が先で押し付けは不起立に対する結果です。) |
フォルトーダーを、学校と言う現実でやってしまうように見える子がいます。教室を突然飛び出したり(自分が追いやられる糸巻きであるかのように。逆に言えば自分がクラスを追いやっている)・・。「なぜ遊びの範囲で収めきれないのか」、とも思いましたが・・。よく考えると、そうせずにすむ子というのは、学校という現実を遊びにできているからかも知れません。本人は遊びだ、とはそんなに思っていなくとも・・。学校を既に遊びにできているから、その場に居れるのだと考えられます。対して、飛び出す子は、学校が重い現実なのかも知れません。それをやっといま遊びにしようとして、飛び出す、ということなのかも知れません。しかし、言葉において無の隠喩を高める作業を差し込まないと、教師とこどものいたちごっこに終わる可能性があると思います。(アスペルガーが、今話題なのは、学校での集団に反した問題行動が目立つゆえと思えるが、行動療法や、認知を助ける工夫をするばかりでなくこういう精神分析的視点も必要かと思います。難しいのでしょうが・・) 幼稚園には行けていても、小学校に入ってしばらくして学校に行けなくなる子がいます。学校は、要求されることも多い場―そもそも教育は通常は要求でなりたってしまっているから(自由に考えてみるというより、覚えよ、答えよ、給食は全部食べよ・・と言うような)―その要求にこたえられなくて、あるいは答えようと無理しすぎる緊張から、いけなくなる、という場合も多いのでしょう・・。通常は、幼稚園時代は甘やかされてたから、というふうによく言われるのですが、それよりも、そもそも、言葉が十分なりたっていて、無の隠喩ができていれば(つまり自他の埋められない隙間を象徴化することによって、そこを躍起に埋めなくてもよいところまで成長しているーつまり、向こうが要求してきても、まあ適当にうけながすか、とか、しようもない先生だな、と軽く思えるくらいに距離<無のスペース>をおけている―)、学校側の要求に負けずにそれを受け入れつつも多少とも自分の自由性を感じて学校生活をどうにかすごしていけるのでは、と考えてみることが必要ではないでしょうか。「上に従うことが立派なことだ」とばかり考えて、「先生のいうことは聞きなさい」、と親が言うだけでは、なかなかこういうすごし方は難しいでしょう。先生ってどんな人だと思う?・・先生はああ言っても、あなたはどう考えるの?・・とか、そういうことを子に聞ける親だといいのでは、と思います(あと、学校のことでなくても、子供をひとりの人間としてかかわり、家の状況や親の動向は恥部も含めてきちんと説明しているとか、そういう基盤が重要なのはもちろんですが・・。残念なことに、実際には、むしろそうしないほうが良いと思っている保護者も多く、また、子への説明も子供の了承もなく知能テストを受けさせたり、特殊学級に編入させたり、進学校を受験させたりということが行われてしまうことが、いまだに随分あるように思います。有無を言わされず要求にふりまわされるばかりだと、子も、自主性があるほど、それを避けたくなってきて当然です・・)。 |
ここ最近でもっとも驚かされたニュース。現実界と象徴界の関わりがより精緻に解明できるかもとも思います。 以下: 聞いた言葉、脳波測定で再現=考えるだけで会話の装置期待―米大学チームが基礎技術 時事通信 2月1日(水)20時40分配信 ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120201-00000159-jij-soci 人が会話中に耳で聞いた言葉を脳波を測定してコンピューターで処理することにより、高い確率で再現することに成功したと、米カリフォルニア大などの研究チームが1日、米科学誌プロス・バイオロジーに発表した。脳は耳で言葉を聞いた際と、言葉を思い浮かべた際とで同様の活動をすることが知られる。将来、脳卒中などの後遺症で話せなくなった患者向けに、脳活動を調べて人工音声で自由に会話できる装置の実現が期待される。 研究チームは脳腫瘍やてんかんのため脳手術を受ける男女計15人の患者に協力を得た。手術で頭骨を切開した際、脳の側頭葉で聴覚処理を担う領域「上側頭回」の表面に電極を多数設置し、英語の会話中の脳波を測定して、音声の周波数と脳波との対応関係をコンピューターで調べた。 その上で、47の単語について脳波から再現できるか分析。0が失敗、1が完全な再現、0.5が偶然一致するレベルとした場合、平均して0.89の高い確率で再現できた。 : 以上。 これは、ブレインマシーンインターフェイス的に、その人なりの或る言葉(あるいはある音声)とその折の脳波の連動をしばらく調べた後に、その人なりに装置を調整して、今度は、逆転させて脳波から言葉や音声を再現する、ということなのでしょうか? あるいはそういう前段階なく、どの人も一様に、ある音声の場合はこの脳波がでる、とか一義的な関係がわかったということでしょうか。 さらに、たとえばある特定の脳波特徴と特定の音声のつながりがわかれば、あとは、逐一調べずとも、ドミノ倒し的に、さまざまな脳波間の全体の関係性から逆算して、他の音声と脳波とのつながりも推測できる、というところまでいけるでしょうか・・? あるいは、特定の脳波―音声のつながりを同定しておかずとも、「音声間の関係性」と、「脳波を作っている格波の間の関係性」との関係性(同型性などの)から、各音声―各脳波パターンの関係を推測していけるでしょうか? |
idさんの最後に書かれたものにおける最初の点について。・・ 不適格でしょうね。 しかし、日本の国歌・国旗をあれほど押し付ける状況下にあってそれに抵抗している人たちが、みんな、来賓の国の国歌・国旗にマナーを示さないような不適格な教師だとは限りません。 来賓の国歌・国旗の場合は「外国の法律なり、外国の自治体の条例なりで、今後ともコントロールされないことが分かっている」、「それに、来賓自体が、起立せよ! そうしないとお前を解雇する!と言っているわけではありませんから」お客さんへのマナーとしてその程度はできるということが適格ということにはなると思います。日本の国旗・国歌の場合は、橋下氏のように、条例化し、押し付けてくるほど、そこには思想・信条がこめられていると思われてもしかたないわけで、そこに抵抗しようとしているわけです。マナー云々と言う以前に、まず、そういう条例、そしてその押し付けへの抵抗なわけです。その抵抗が即教師不適格の基準になるとは思えません。 次の点。少しまえのやりとりからまとめてみました。 (私)最初から論理を大切にする(理屈を互いに究極まで自由に戦わせあう)、という風にしていれば、生徒に対しても、思想・信条で動いてもらっては困る、論理的に君の行動を説明せよ、といえるでしょう。 (idさん)教師が思想信条で動いているとしているのですから、「お前が言うな」と言われるでしょう。 (私)教師が自分の思想信条を積極的に生徒に押し付ければそうでしょう。いまの問題の場合は、そうではなく、自分がーそれが思想信条からであれ論理的考えかたからであれー国歌・国旗にある思想信条から逃れようとしている、というだけなのだから(積極的には相手におしつけてはいないのだから)状況が違いますね。idさんの理屈から言えば、橋下氏が、思想信条で動いているのですから、彼が「お前が言うな」といわれてもしかたない、ということになります。 そこで・・ (idさん)教師の押し付けの話ではありません。 ・・とおっしゃられましたが、「お前が言うな」と生徒が言ってくるとしたら、まず教師が教師の思想信条を生徒に押し付けた、という前提があるはずでしょう。 (idさん)>橋下市長は行政のトップとして条例に基づいて発言しているのではないですか。 その条例自身を問題にしているのです。よくわかりませんが、そもそも橋下氏自身がそれを条例化したのではありませんか? その上で、条例がそうだから従え、と言うのは、自分を神の位置につけていることになります。これだと何でもありとなります。「茶髪にしろ!」という無意味な基準が条例になったらやはりへんでしょう。思想・信条の自由に抵触しかねない国旗・国歌に対するマナーを条例に持ち込むのはそれ以上の問題を感じます。不適格な基準に基づいて、教師の適・不適格が決められそれで不適格とみなされた教師は排除される、―そこには倫理的にも知的にも非常にすぐれた教師はいたはずなのに―という状況はその自治体にとってとても不幸です。 たとえば、心理テストを作る際には、測りたいものに応じた基準としてそのテストは適切か、という「妥当性」がまず検証されることが必要です。国旗・国歌へのマナーを教師の適・不適格の基準として使えるかの検証は十分なされていないあいだに、ある教師は不適格とされ排除される、というのはやはり問題です。また、検証云々以前に、国歌・国旗へのマナーが教師の適・不適格を測る基準になる、と思っている時点ですでに論理的に破綻していると思います。 あくまで論理的に、自分が正しいと思っていることもそうではないかも知れない、と自他についてのいろんなことを疑問に感じ、調べていき、さらに疑いにかける、というのが子供たちにも得てほしい知性の使いかたであり、それを助けるのが教育だと思います。教師に対しても、そういう考え方ができるようにする、ということが上の仕事ではないでしょうか。国旗・国歌へのマナーの押し付け、というのは、「かたち」へのかたよりが伺われ、「かたちに従えばよし」とするだけで思考停止してしまっている教師も適格とされてしまう危険性があります。 やはり、私とidさん同じことの反復、平行線となるしかないのではないでしょうか。生産的な話題に移りませんか? 私はそうしようと思います。 |
教育に関して、わたしにとって大変示唆深かったテクストは、 バーバラ・ジョンソンの「無知の教え」でした。 女性を教育する際に「無知」でありつづけることを教えるという 不可能な試みを巡る悲喜劇、モリエールの『女房教育』と、 ソクラテスの「無知の知」の教えとを対比的に論じた批評です。 前者は人をただ無知の状態に強制的にとどめおこうとします。 後者は「知識とは、自分がなにも知らないということを知らせないようにする方法であること」を 教え、真の知へと人を導こうとします。 ここではそれぞれの教えを、一つの方向に単純化してみます。そうすると、前者は、人を奴隷状態に とどめおくための教育法、後者は、人を真の知へ導くための教育法、ということが言えるかと思います。 前者の教育は「このルールはルールだからルールなのだ」と同語反復の教えを 繰り返すのみです。一方後者の教育は、ルールを相対化することを教えます。 こうしてみると「ルールを教える」ということにも、少なくとも二つの方法があることがわかります。 そして、これはバーバラ・ジョンソンが示唆していることからは離れるのですが、 後者は、現代にも通じる理想の民主主義教育、市民教育の原型であると同時に、 実は少し冷ややかな言い方をすれば、施政者育成の教育法でもあったと思うのです。 何故ならソクラテスの時代には、一般に女性や奴隷には同じ教育は 与えられなかったからです。 日本でも戦前の旧制高校ではルール破りがかなりの範囲で許容されていたようです。 そうした教育の在り方は現在でも一部のエリート公立校や私立校に残っています。 近隣のとある国家で最近、最高指導者の地位を受け継いだ若者も、 多感な時期に自国の教育を受けるのではなく、ヨーロッパのエリート校に留学していたといいます。 独裁国家の長が、しばしば自分の後継者と目する息子を、 海外に留学させてきたのも、ただ単に外国語を学ばせるためではなかったのでしょう。 単純に考えると、ルールを相対化することを教える教育は、人にルールを無視してよいという メッセージを与えてしまうからアブナい、と考えられがちですが、実際にはそうはならないことは、 ルールを作る側の人たちには経験的によく知られていたことだったのでしょう。 こうして見ると「ルールを教える」二つの方法について、前者を大多数の人たちに、 後者を一部の特権的な人たちに与えるという教育法が、何故広く使用されてきたかがわかってきます。 一方、全ての人に平等な教育を、ということであれば、前者を全員に与えるか、後者を全員に与えるか、 ということになるかと思います。一見すると後者の方が非現実的で実現が難しいように見えますが、 しかし、実は、まったく現実的でないのは「前者を全員に与える」方法なのでしょう。 何故なら世代が交代する以上、少なくとも一人には後者の教育を与えておく必要があるからです。 だから仮に、そういう非現実的な教育の方向性を打ち出す人がいるとしたら、その人は、自分がその特権を 行使すること以外に興味がなく、自分がこの世界からいなくなった後のこの国の行く末については まったく考えていないということになるでしょう。 権力者はたいてい教育の仕方にこだわりますが、そのこだわりの在り方を見れば、 その人間がどういうことを考えているか、次世代の「人間」を育成するということを どのように考えているか、どのような未来の在り方を描いているか、 ということが、かなりの程度わかるように思います。 |
中野さん >また、「知識人」の言説はこれまで官学(おじいさん)が掬い取れなかった領域を埋めてきた、という明治末期からの日本特有の歴史的経緯がありますので、それがおばあさん的なのは必然だと思われます。 なるほどそういう言い方もありですね。 しかもその官学そのものが借り物感が拭えないわけですから、おばあさん的なものに「日本的なもの」を 見てしまうということになるわけですね。 わたしは、宮崎駿のアニメ作品の一連の「おばあさん」たちのことを思います。 なにかしらの「伝統」なり「教え」なりを伝えるのに彼女たちに語らせるのは何故かと。 |
>榊山さん ただ、ちょっと付け加えると、個人の知的活動をドライヴするものが「僕のブレインはいいペニス!」だろうとなんだろうと、結果がよければ私はそれでいいと思っています。 それは「結果がよければそれでいい」という言論空間を社会科学が作れるか?くだらない論壇プロレスを我々がやめられるか?という問題です。私は作れるし、やめられると思う。 「シュレーディンガーはタオイズムに心酔していた、ロリコンだった」ということから波動力学を語りはじめることに意味がない言論空間、を作りえた自然科学と同じようにです。 また、「知識人」の言説はこれまで官学(おじいさん)が掬い取れなかった領域を埋めてきた、という明治末期からの日本特有の歴史的経緯がありますので、それがおばあさん的なのは必然だと思われます。 |
中野さん レスありがとうございます。 その場の思いつきで書いたことですが、なるほど。結構面白いですね。 そんなことを考えていたら突拍子もない連想が働きました。 中野さんのご指摘とはちょっと違う方向に行ってしまってるかもしれませんが。 橋下さんが、「意地悪ばあさん」を演じたらうまいだろうな、という連想です。 この役はかつて青島幸男が演じたことがありますね。青島氏と橋下氏が似ているということではないのですが。 この役は、数年前に、名優市原悦子が演じたけれども、女性だとなんか違ってしまうんだな、と思いました。 ただ意識的には橋下さんがおばあさん的だと思ったことはないんですよね。 ふっと唐突にかつらをかぶった姿が浮かんで、浮かんだら、ああ、これだよ、と思ってしまった。 そういえば日本の男性知識人のなかには、おじいさんというより、おばあさん的な面差しの系譜が あるな〜とかつて気がついたことがあったのを思い出しました。 頑固なおじいさんではなくて、おばあさん。メンツは結構すごいんですよ。 だからこの連想は決して橋下さんに対して失礼な連想にはならないと思うのですね、自分的には。 で、何故おじいさんではなく、おばあさんか、ということについて、ちょっと考えたことがありますが、 これを書き始めると結構長い「日本論」になってしまうので(笑)ここではやめておきます。 ただ、これは、日本は女性が強い、という通説に与するものではありません。 だって、大事なポイントは、それを演じるのが実は男だということですからね。 |
榊山さん >断乳の遅い日本人にアピールしやすいふるまいや語り方がうまいな、と思います。 たとえば褒めることと恫喝をうまく使い分ける「手口」とか。 自分に賛同する人は頭のいい人、わかっている人、そうでない人はわかってない人、というメッセージを絶妙のタイミングで発信する。 これは橋下氏に限らずいわゆる日本の「知識人」が「成功」する際に必須の能力ですよね。 機会があれば「ねえ見てママ、僕のブレインていいペニスでしょ!」と言いたがっている人々のハートに火をつけちゃうんだな、これが。 |
>すでに以下のように述べたことに準じます。状況をよく区別すべきです。 >「それは外国の法律なり、外国の自治体の条例なりで、今後ともコントロールされないことが分かっているから、気楽に、単にマナーとして出来るわけですね。それに、来賓自体が、起立せよ! そうしないとお前を解雇する!と言っているわけではありませんから状況は違うと思います。」 私が一番問題にしている趣旨が伝わっていないことがわかりました。 外国の法律や条例、対応のことは一切関係ありません。 書きなおしてみます。 思想・信条を理由に、 例えば、教育現場で外国の要人が日本の国賓として来日した場合や、 国際的なスポーツ大会で外国との対戦時に、 日本人のA教師は、 大東亜戦争を行った日本の国家・国旗には敬意を表しない。 日本人のB教師は、 日本に原爆を落としたアメリカの国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のC教師は、 北方領土を不当に占拠し続けるロシアの国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のD教師は、 チベット・ウイグルを侵略し弾圧する中国の国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のE教師は、 不当に竹島を占拠し続けている韓国の国歌・国旗には敬意を表しない。 日本人のF教師は、 上記の理由で上記の6カ国の国家・国旗には敬意を表しない。 というようなそれぞれの思想信条の自由だとする論理を説明する、公務員である教師は、教師として不適格ではないと思われるのですね? 私はどの教師も教師として不適格だと考えます。 >教師が自分の思想信条を積極的に生徒に押し付ければそうでしょう。いまの問題の場合は、そうではなく、自分がーそれが思想信条からであれ論理的考えかたからであれー国歌・国旗にある思想信条から逃れようとしている、というだけなのだから(積極的には相手におしつけてはいないのだから)状況が違いますね。idさんの理屈から言えば、橋下氏が、思想信条で動いているのですから、彼が「お前が言うな」といわれてもしかたない、ということになります。 教師の押し付けの話ではありません。 橋下市長は行政のトップとして条例に基づいて発言しているのではないですか。 |
藤田さんへ >これは裏を返せば、大衆の中に渦巻く閉塞感やフラストレーションが、いわばダイナミックな上昇気流を発生させ、その結果、第三項としてのリーダーを押し上げる形で生じた一種の「第三項排除効果」と考えられます。 第三項排除効果の解釈に異議があります。そもそも第三項排除効果とは、「貨幣」なり「心的構造」なり、具体的対象・現象の構造分析から遡及的に導かれる論理的要請物であり、予言性・再現性のある社会科学の法則ではない。 「第三項としてのリーダーの登場」の意味を埋める場所に「大衆の中に渦巻く閉塞感やフラストレーションがダイナミックな上昇気流を発生させた」がすっぽり入ったと考えるべきではないでしょうか? |
くわえて、橋下派/反橋下派の対立に象徴される日本の政治論壇の特徴として、自分に敵対している(と思っている)勢力に対してだけ、過剰なドミノ理論を適用する思考癖があると思いますね。 日教組なんかに生徒を洗脳する力なんてないし、橋下ごときでファッショなんて来ないですよ。 ほとんど、風が吹けば桶屋が一部上場、の世界だと思う。 お互いに、ダムに空いた小さな穴を修復することには目もくれず、ほとんど可能性のない決壊の話ばかりしている。 |
「社員は捨て駒」と内心思っている経営者でも労働基準法守って、パワハラ・セクハラもしてなけりゃまあいいんじゃないでしょうか。 同じように、個々人が「日の丸・君が代は糞!」「リベラル左派は売国奴!」と内心思ってても、お互いに糞扱い、売国奴扱いしなきゃ別にいいと思うんですよねえ。 そもそも法や規則は禁止事項を規定するものであって「これはしちゃいけない、それ以外はOK」の論理です。 ですが、日本人はよく法・規則を「決められたこと以外はNG」の論理だと勝手に解釈してしまっているところがある。 日本における「思想信条の自由」をめぐる不毛な議論は、そのへんの誤解に起因していると思うのですが、どうでしょう? みんないざとなると「決められたこと以外はNG」の領域に足を踏み外してしまう感じがするのです。 |
>>そもそも最初から、思想信条が問題になるような材料(国歌、国旗)をもってきたから、そういう問題が起きるのではないですか? >ですからそういう教師が適格かどうかという話です。 その教師は適格とも不適格とも判断されえません。判断材料自体が不適切なのですから。 >教師が思想信条で動いているとしているのですから、「お前が言うな」と言われるでしょう。 教師が自分の思想信条を積極的に生徒に押し付ければそうでしょう。いまの問題の場合は、そうではなく、自分がーそれが思想信条からであれ論理的考えかたからであれー国歌・国旗にある思想信条から逃れようとしている、というだけなのだから(積極的には相手におしつけてはいないのだから)状況が違いますね。idさんの理屈から言えば、橋下氏が、思想信条で動いているのですから、彼が「お前が言うな」といわれてもしかたない、ということになります。 >非常に問題があります。 生徒は、教師が思想信条での行動を正当化しているのですから、自分の行動も思想信条の自由だと正当化するでしょう。 これへの答えも上と同様です。 >思想・信条を理由に、 例えば、教育現場で外国の要人が日本の国賓として来日した場合や、 国際的なスポーツ大会で外国との対戦時に、(以下略) すでに以下のように述べたことに準じます。状況をよく区別すべきです。 「それは外国の法律なり、外国の自治体の条例なりで、今後ともコントロールされないことが分かっているから、気楽に、単にマナーとして出来るわけですね。それに、来賓自体が、起立せよ! そうしないとお前を解雇する!と言っているわけではありませんから状況は違うと思います。」 |
>そもそも最初から、思想信条が問題になるような材料(国歌、国旗)をもってきたから、そういう問題が起きるのではないですか? ですからそういう教師が適格かどうかという話です。 >最初から論理を大切にする(理屈を互いに究極まで自由に戦わせあう)、という風にしていれば、生徒に対しても、思想・信条で動いてもらっては困る、論理的に君の行動を説明せよ、といえるでしょう。 教師が思想信条で動いているとしているのですから、「お前が言うな」と言われるでしょう。 >しかし、生徒が思想・信条から動いたにしろ、それが迷惑がかからない行為なのであれば、それはそのまま生徒の自由にさせていて問題があるとは思いません。論理的にも説明できない、迷惑もかかる、というのは何か罰則を与えるとか、それはありえると思います。 非常に問題があります。 生徒は、教師が思想信条での行動を正当化しているのですから、自分の行動も思想信条の自由だと正当化するでしょう。 思想・信条を理由に、 例えば、教育現場で外国の要人が日本の国賓として来日した場合や、 国際的なスポーツ大会で外国との対戦時に、 大東亜戦争を行った日本の国家・国旗には敬意を表しない。 日本に原爆を落としたアメリカの国歌・国旗には敬意を表しない。 北方領土を不当に占拠し続けるロシアの国歌・国旗には敬意を表しない。 チベット・ウイグルを侵略し弾圧する中国の国歌・国旗には敬意を表しない。 不当に竹島を占拠し続けている韓国の国歌・国旗には敬意を表しない。 というような論理を説明する公務員である教師は、教師として不適格ではないと思われるのですね? |
ずっと忙しくて書けなかったので、ちょっと遅くなりましたが、朝生を一部見た暫定的感想を少し。 まず、橋下氏に全面的に賛成するか、反対するか、という二者択一はどうも馴染めません。 朝生は、ゲストの座る場所を露骨にそういう構図にしていましたね。 その時点ですでに橋下氏の勝利が決定していたと思います。 橋下式二者択一を批判する人は、まずこの座席の配置に異議を唱えるべきだったと思います。 「わたしは橋下氏に賛成でも反対でもない。だから、そのどちらでもない場所に座る!」 と宣言して、司会者の横とか、真ん中に席を設けて座るとか(笑)。 橋下氏は非常に能力のある「政治家」の一人だと思います。 その能力の一つは、自分を論理的に、そして強く「見せかけ」ることが図抜けてうまい、ということです。 見せかけることがうまいからといって、氏がまったく論理的ではない、ということでも、 本当は大して強くないということでもありません。 ただテレビのようなメディアでは話の中身よりもしゃべり方や振舞い方といった「見せかけ」が 重要である、ということを熟知していて、それをうまく利用しているということです。 そして言葉においてはレトリックに長けている。 政治家には必要な資質だと思います。 政治家はロゴスの人であればいいというわけではありませんから。 特に日本語を喋る人、あるいは先の話でいえば、断乳の遅い日本人にアピールしやすい ふるまいや語り方がうまいな、と思います。 たとえば褒めることと恫喝をうまく使い分ける「手口」とか。 自分に賛同する人は頭のいい人、わかっている人、そうでない人は わかってない人、というメッセージを絶妙のタイミングで発信する。 そのメッセージにふてくされる人、ちょっと嬉しくてやにさがる人。 それがこの国でトップクラスの知識人といわれる人たちなのだから面白い。 そしてその構図が視聴者の間でもプチ反復され、 芋づる式に支持者を増やしていく、と。 いえ、その手口を、批判しているわけではありません。 外交にこういう手口を露骨に使ってくる独裁国家も結構近くにありますから。 政治家たるもの、このくらいの手口は片手で軽く使いこなせるようでないといけませんよね。 実際に自分が使うかどうかは別として。 一方、こういう「ふるまい」や「見せかけ」のうまさに、 危険な匂いを感じて、そのことに警鐘を鳴らそうとしたマスメディア系知識人たちの問題は、 自分自身も逆向きに、その「ふるまい」や「見せかけ」に 引っ掛かってしまっていたということではないかと思います。 つまりそうした「ふるまい」」や「見せかけ」をプラスに捉える「大衆」の感情的な振舞いに 警鐘を鳴らせる冷静で知的な「私」というポジションに立とうしてしまったわけです。 ところが、橋下氏は、そうした見せかけだけに終始しているタレント政治家ではなかった。 そこで目算を誤ったのかもしれませんね。 |