信頼できる方からの情報によると彼は向精神薬は飲んでいなかったようです。 |
人の心のうちは自分の心から推測するしか無いと考えています。 「鉄道の人身事故」という話をよく聞きます。 もし自分が死ぬ場合は、CENSORED・病死・老衰死、いずれにせよ楽に、人になるべく迷惑をかけずにCENSOREDと考えるわけです。 楽なCENSORED方法は有るにもかかわらず、鉄道CENSOREDはハードルが高い方法だと思うのです。 怖い・痛い・処理する鉄道員、医療関係者、警察関係者・鉄道利用者への迷惑・(噂される)鉄道事業者への多額の賠償金・・・ 「わが亡き後に洪水よ来たれ」じゃあるまいし、 彼は5日前にはゼミに参加して参加者と語らっていて、その兆候は感じられなかったらしい。 衝動的に飛び込んだようだ。 遺書のない衝動的なCENSOREDとされるものは薬の副作用を疑ったほうがいいかもしれない。 鉄道CENSOREDとされている人への投薬の調査はされているのだろうか。 これは史上最悪の薬害問題かもしれない。 因果関係は証明されていませんが、異常行動がタミフル等の副作用であるとの説もあります。 SAPIOに掲載された、薬の副作用によるCENSOREDの可能性についての取材記事がこちらで全文読むことができます。 ★伊藤隼也(医療ジャーナリスト/写真家)公式ホームページ 公式ホームページURL→ ttp://shunya-ito.tv/ 2011/9/14 号より 小学館 SAPIO 精神科医療連載 「うつ病で病院に行くと殺される!?」取材・監修 ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/110914utsusapio11.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/111005sapio2.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/111102utsusapio13.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/111116sapio4.pdf 2012/7/18 小学館 SAPIO 第二弾精神科医療連載 「うつで病院に行くと殺される!?」取材・監修 ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120718sapio2-1.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120808sapio2-2.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120828sapio3.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/120918sapio4.pdf ttp://shunya-ito.tv/wp_img/work/pdf/121010sapio5.pdf 参考:タミフルの副作用 ttp://www.tamiflu89.sakura.ne.jp/ |
薬を飲んでいたかは定かではないのですが、副作用だ、と言い切るのではなく、やはり心因も含めた複合因と考えた方が良いでしょう。 |
昨日の話を聞いていて、 たぶん結論は薬の副作用だと思う。 皆さんとの関係性ではないと考える。 |
25日夜、NHKを見ていたら「西武新宿線で人身事故により不通」とのテロップ。 しばらくして復旧したとのテロップを見る。 今日27日になって、それが花小金井で当事者が知人であったことを知らされる。 先週久しぶりにあって挨拶を交わしたばかりだし、以前フランス語パンフレットの日本語訳を頼んだこともあり、次に逢ったらCDのダビングのアルバイトを頼もうかと考えていた。 初めて逢った際の、かつらを取って驚かせた時のしてやったり感が印象に残っている。 合掌 最近死生観が少し変わった。 以下の3.の考えである。 近藤誠先生の近著を数冊読んだ影響です。 1.自我を持った以上、死にたくなるまでは、自我を持ったまま永遠に生きていたいと考えている。 2.阪神淡路大震災を大阪で経験して、死に対する諦観を体験した。 他者は分からないが、私はあっさりと死んでしまうかもしれない状況に抵抗がなかった。 早朝の眠りを覚まされた激震のその最中に「これで死ぬのかな」と考えつつそのままベッドの上で寝ていただけである。 3.近藤先生の著作を読んだ印象だが、特にガン関係の医者は例えば「余命半年と考えられる患者の寿命を1年に伸ばす治療をすることを前提にしている」当然のようではあるが、私はQOLを維持するための緩和療法以外はいらない。 人によると思うが、苦しい治療で半年とか1年とか長生きする必要はないと考える。 人はいつか死ぬのである。 自分でわざわざ死ななくてもよいのではないかとは思うのであるが。 人生は自我を持った以上不安で苦しいものである。 その不安と苦しさと折り合う以外に生きるすべはない。 『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 (宝島社新書/近藤誠・中村仁一) ttp://www.cyzo.com/2013/02/post_12658.html 「がん患者は、がんではなく“がん治療”で苦しむ」 「がんの9割に抗がん剤は無意味」 「がんの外科手術をしないほうが寿命が伸びる」 「なぜ病院・医者は、無意味だと知っていても、抗がん剤投与や手術をするのか?」 「人間ドックやがん検診で寿命が縮まる?」 などについて聞いた。 ーー本書は『どうせ死ぬなら「がん」がいい』と、かなり挑発的なタイトルですが、なぜ、死ぬならがんがいいのでしょうか? 近藤誠氏(以下、近藤) がんは、ほとんどの場合、最後まで患者の意識はしっかりしていますし、普通の生活を送れます。また、何よりも周りにかける迷惑の度合いが、他の病気と比べて低いので、家族などに惜しまれながら死んでいくことができます。日本人の死因でがんの次に多い心筋梗塞や脳卒中では、なかなかそうはいかない。例えば、脳卒中の場合などは半身不随になって、何年も寝たきりになる人も多いですね。そういう介護生活になると、本人も大変ですが、周りにも迷惑をかけてしまいます。 ーーしかし、「がんは痛い」というイメージがあります。 近藤 皆さんがそういうイメージを持たれているのは、抑えきれないほどの強烈な痛みや苦しみを伴い、のたうち回って死ぬと思われているからでしょう。そういう痛みや苦しみは治療から来るものであって、世間で思われているほどがんは痛くはありません。つまり、患者は手術で痛み、抗がん剤で苦しむわけです。そういう治療の痛みを、がんの痛みだと思ってしまうわけです。痛いのは治療するからですよ。そして不必要な手術をしたり、抗がん剤治療をするから、苦しい死、悲惨な死になってしまうのです。 病院経営という面から見ると、がんの治療というのは、すごく大きな割合を占めています。がんが怖いから病院に来たり、人間ドックを受けたりするわけですよね。でも、医者が「外科手術はほとんど無意味だから、放射線治療でいい」とか、「抗がん剤は効かない」「がん検診や人間ドックは受ける必要がない」というようなことを言い始めたら、誰も病院に来なくなり、治療の数も減って、つぶれる病院がたくさん出てしまいます。だから、医者はそういうことを知っていても誰も言わないわけです。 それから、痛みという意味では、治療を受けて当面延命できた場合には、どこかに転移している病巣が育つ時間を与えるということです。つまり、「骨に転移が出て痛い」「脳に転移して麻痺が出た」というようなことにつながるわけです。これも、やはり治療したがゆえの痛みであり、苦しみです。 |
明日2月28日のフジタゼミは安藤君を追悼する特別ゼミをおこないます。彼と親しかった人たちのご参加を希望します。 |
安藤君のこともあって中野さんの発表は3月28日になりました。 |
あらら、3月21日は用があってクレマスター行けませんぜ。 発表者の変更をお願いしますにゃ。 |
岸田秀『唯幻論大全〜岸田精神分析40年の集大成』飛鳥新社 2013年1月 わたしは、一神教は、世界のあちこちにそれぞれ独立に成立したさまざまな多神教の発達したものではなく、どの多神教とも無関係な例外的な宗教であり、古代の中近東地方だけに発生した一種の風土病に過ぎず、追い詰められた被差別民族が陥った特異な偏った妄想体系であるという理論を展開した。 |
>人はまず、言葉を聞こうと欲望して、言語音をなす2つのフォルマント(異なる2つの波)のうなりをこそ聞こうとするが、それから排除されたその対極として協和音が事後的に浮かび上がってきて、それが何か人間的ではない、幾何学的なすっきりしたものとしての快を感じさせるのだろうか・ そのように事後的に浮かび上がってきた者同士の中でも、協和音は、素数のように、それだけ覚えていれば、あとの和音なりうなりなどはそれらの組み合わせ、あるいはそれからはずれたものとして考えていけそう、というようなベーシックな基準感覚を与えてくれるから、快なのか・・ 別に快となづけなくてもいいのですが、ともかく他の(不協)和音とはそのように相対的に異質なものと感じ取られる、ということなのか・・ |
より簡単な整数比をなす2音ほど協和している、というが、波動という現実界的なものにおいてスッキリした比が、それが耳の神経にとっても無理のない波の在り方だからと言っても、人の意識(つまりこれは、現実界と言うより、それを遡及的にどのようにか解釈する象徴界や想像界)にまで、快を感じさせる根拠にはならないのではないか・・。むしろ、人はまず、言葉を聞こうと欲望して、言語音をなす2つのフォルマント(異なる2つの波)のうなりをこそ聞こうとするが、それから排除されたその対極として協和音が事後的に浮かび上がってきて、それが何か人間的ではない、幾何学的なすっきりしたものとしての快を感じさせるのだろうか・・・とか、そんなことを番組を見つつ思っていました。 それはともかくなかなか面白い論文を発見しました(とはいえ、この掲示板でも昔言及したことあるものかも知れませんが。改めて読むと面白いです)。『黄金の音楽構想』(「音楽の建築」日詰明男に所収)。少し抜粋します20−21pp: :図5に示した和音のグラデーション(協和から、より不協和となる音階のペアが並べられている表です:水上)は無限に展開され、より大きな素数が加わるたびに(→ドとソは2:3とかの、比を示すにおいてより大きな素数が必要となるごとに・・ということだと思いますが:水上)ユニークな和音は作られていく。全体として等級がます毎に協和音から不協和音へ推移する系列とみることができる。しかし比が自然数によるものである限り、ある意味でこの表の和音は全て協和音であると言える。なぜならオシロスコープで見ると、どの和音の合成波形も、有言の時間内に完全に同一の波形を繰り返すからだ。決して繰り返さない合成波形を作るには周波数比を無理数比にしなければならない。このような和音は本質的に不協和と言える。だが不協和音にもグレードがあって、中にはほとんど協和音と見分けのつかないものから、うなりを生ずるものまで、いろいろある。だがうなりさえも生じない究極の不協和音が一点存在し、これこそ周波数比が黄金比1:(1+√5)/2をなす2音である。 言及したように、世界中のどの民族の音階もオクターヴの基準から出発しており、その間をどう分割するかの相違だけなのであった。「初めにオクターヴありき」である。つまり従来の音階は協和を前提としている。この事実を「人の魂は割り切れる調和を好むものだ」と即断してはならない。実態はむしろ「我々はいままでオクターヴを基準とするほかなかった。それしか選択肢がなかった」と言ったほうが正確だろう。我々の祖先は「協和」という観点からのみ、音の数直線からいくつかの未知の点を図として選び取った。何にでも言えることだが、”地として背景に追いやったところには、未知の有用な構造が無限にある”と我々は明記すべきである。今我々は、黄金比と言う最高の不協和音を基準にする可能性を知った。有史以来人類を束縛し続けたオクターヴから離れる自由を手にしている。: ・・と日詰氏は述べて、黄金比を使った音階、たとえば、そのべき乗を音階にしてみるなど試みています。さらにこの黄金比をつかった音階や和音には金属音がなじむようであるところから、逆に、シンセサイザーを使って、1:黄金比の1乗:2乗・・11乗の比をなす12個の正弦波を単純に重ね合わせると、抜けるような金属音が生まれたということをもとに、「ふつう音階と音色は別物と考えられているが、そうではなく、実は音色の中に既に音階が仕組まれているのだ。」と非常に興味深い結論を述べています。 こういう原理を利用したさまざまな突拍子もない音楽をだれか作ってほしいな、と思うとともに、「音色の中に音階が・・」という「質の中に形式が・・」、というあたりのことからは、何か、言語や精神分析を考えるうえでも参考になることがとりだせるようにも感じられるところです。 |
昨日からの音楽つながりで、今晩の参考テレビ番組 小説でもマンガでも映画でも、普通は1度の体験なのだけど、 音楽だけは何度でも反復して楽しめるし、反復が快感になる。 音楽だと一発屋でも一生飯が食えます。 チャンネル [NHK総合] 2013年2月15日(金) 午後10:00〜午後10:45(45分) ジャンル ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般 番組内容身近な題材を選び、数学を駆使してそこに潜む深遠な真理を探っていく知的エンターテインメント。数学と音楽の不思議な関係をドラマ仕立ての楽しい演出で解き明かす。 詳細身近な題材を選び、数学を駆使してそこに潜む深遠な真理を探っていく知的エンターテインメント。今回の題材は「音楽」。歴史上、音楽と数学は密接に関係してきた。そもそもドレミの「音階」は、古代ギリシャの数学者ピタゴラスが発見したものだった。ビートルズなど古今東西の名曲を数学的に検証してみると、さまざまな数学的な美しさが潜んでいた。斬新な映像とドラマ仕立ての楽しい演出で数学と音楽の不思議な関係を解き明かす。 出演者ほか【ゲスト】小堺一機,福田彩乃,【出演】谷原章介,釈由美子 |
よく意味の分かりにくい文字の夢というのが、その夢見手の自我が、どこへ向かうのかわからない言葉の流れや謎など対象aへと開かれてきたことを示すのだろう、というところまでは分かるが、だからと言って、そういう文字の夢をなぜわざわざ見ないといけないのか、夢が願望充足とするなら、そこに何か自我にとっての利益があるはずだがどうなのか、という疑問が出てきます。そのへんは、新宮氏の『精神療法の経過中に出現する「文字」の夢心像について』(「夢と構造」弘文堂に所収)にも、はっきりは示されていないように思えます(間違っていれば申し訳ありません)。 フロイトのイルマの夢の最後に出現した、化学構造式も―それは意味が分からないわけではありませんが―とりあえず、そういう文字の夢として考えると、これに対するラカンの考察(セミネール2)は、以上の問題に対してヒントを与えてくれるように思えます。 読み間違えかもしれませんが、あえて言えば、イルマの夢の最後の化学構造式で表現された願望充足とは「今まで治療を禁じられていた人たちの治療へと私を促したのは私ではない。私は潔白だ。促してきたのは、私の無意識であり、私を超えて語るこのパロールだ。」という自分の潔白さの願望の充足ということになるように思えます。いわば、プロメテウス的試みをしたものの持つ罪悪感に対しての自己正当化ということのように思えます。ちなみに、そういう自己正当化をした分、それに対応・対抗するような、他者からの責めの感じを覚醒時に過剰に感じることはなかったのでしょうか・・。 全ての意味不明の文字の夢の背後に、それはこのパロールのせいなのだ、という自分の正当性の充足があるのか、それ以外の種類の何かの自我の願望充足がありえるのか、まだ考察不足なところですが、そういう視点からいつか新宮氏の事例を振り返ってみたいと思います。 上記述べた、ラカンの考察(セミネール2)の中核部分の抜粋は以下です (セミネール2 『自我 上』 282〜283pp): :フロイトは・・気づきます。・・・それはこういうことです「私は、いままで人が理解しようとせず治療することも禁じてきたこれらの患者たちの治療にあえてとりかかってしまったことの許しを請うものである。私はそういうことの許しを請うものである。私は自分に罪はないことを願うものである。というのもそれまで人間の活動に課せられてきた限界を踏み越えることはつねに罪だったからである。私はそうではないことを望む。私の代わりにすべての他者がいる。私はそこでは、私が消え去ってしまうような真理の探究と言う広大で曖昧な運動の代表者でしかない。私はもはや何ものでもない。私の野心は私より大きい。おそらく注射器は汚れていたのだろう。そしてまさに私がそれを望みすぎていたがために、その行為にかかわっていたがために、私自身が創造者であろうとしていたがために、私は創造者ではない。創造者は私より大きい何ものかである。それは私の無意識であり、私において私を超えて語るこのパロールである」。これがこの夢の意味です。: 以上。 聖書のダニエル書にある、手が出てきて「Mene,Mene,Tekel,Parcin」と自動的に書いた、ということ(ラカンは「Mane, Thecel, Phares」と3つの言葉として述べていますが。上記の書、263p)についても、誰かの願望充足が関わっていないかいつか考えてみたいと思います。 ところで、では、「意味の分かり難い声あるいは音声(声かどうかわからないような)」というもので、この意味の分かり難い文字相応のものはないでしょうか? たしかに、何を言っているのかよくつかめない声というのを夢に見ることはありますが、それは、さらに意味の分かり難い文字をまだ隠している、防衛の強い段階のものでしかないのでしょうか? パロールつまり口に出しての語りが差異化を先導するものとすると、その位置と、現実界の間に挟まってくるのは必然的に文字(あるいは文字になりかけの線)だから、その先には現実界しかないような、そういう音声の夢はない、ということなのでしょうか? しかし、自分のパロールのこういう連鎖を破って、外部から突然介入してくるような音声の夢というようなものもあってもいいようにも思うのですが。眠って、夢の中で、それまで起きたことを「読み取る」という行為をする場合は、どうしても、文字、というかたちがふさわしいということになるのでしょうか。眠り続けるという願望を守るためには、声を聴くという形ではなく(耳は、睡眠中も外に開いているのだから、外に対する警戒のために、聴覚的なものは残しておいて)、なるべく視覚的なものであらわそうということなのでしょうか? そして、もし現実界に近い音声が聞こえるとなると、それは、幻覚的なものであって、すぐに目をさまさせられるようなものになる、あるいは、驚愕夢的な、自分の叫びとなる、ということでしょうか?? 例えば、求聞持法で空海が感じたような轟や、ムンクの叫び(自然からの)、ヨハネの黙示録のところどころでうかがえる、ラッパの音、のようなものは幻覚でしかありえないことなのか・・。そう思って、ふと見ると、新宮氏の「夢と構造」123pには、夢の中で「読めない文字」をしばらく見た後、「誰かが大声を出した」とありました。やはり意味の分かりにくい声、というのも意味の分かりにくい文字と等価なものとして考えていいのか?? また、ラカンの当該の書281には、「ヒュドラが頭を失ったときに「誰のでもない声」が、問題になっていることの最後の言葉として、すべての言葉として、トリメチルアミンの化学式を出現させます」とあります。ヒュドラのこの声というのはよく知りませんが、何かヒントになるかも知れません。 |
新しいシニフィアンが入るたびに、諸シニフィアン全体の編成は変化するのだから、ブレインマシーンインターフェイスも、常に修正をうけつけ続け得るように、設計しないと(あるものにたいする本人の反応の仕方の変化が常にフィードバックされるように、とか)、いつしか、本人の脳波とそれに対応しているものの対応がずれすぎて、本人の思い通りに働かなくなるときがくるのではないか? |
学校と家とで、エディプスコンプレクスの関係が、さまざまな形で、解離されることが多いように思う。例えば、家で王様な子は、学校では奴隷となって、父の場を奪うことと父を上に立てることを解離させていたり。スクールカウンセラーの仕事の困難さはそういうところにもあるかもしれない。子供側からすると、学校側だけの人、という転移がおもになるだろうし。たとえ、スクールカウンセラーがそうではないようにしようとしたとしても、学校と言うたてものの内部にいるわけだし、また、事実、料金をとらないわけだし。やはり、料金もとらないと(できれば、やはり学校の内部にいるのではなく)、どうしてもエディプスコンプレクスの全体に触れえず、分析の残される部分が出てしまうことが多いのではないか、とも思う。その意味では、実のところ、最善の形は、学校にはスクールソーシャルワーカーがいて、外部のカウンセリング組織につなげる、ということのようにも思う。 |
真性粘菌変形体を関東の立体地図の上に落とすと、最短距離で成長しようとして、それが、丁度関東の電車の路線図のようになったという話。人間の作った路線は、政治的な思惑なども影響して、最も合理的な粘菌のたどるはずのルートは違うものになるかと思うと、意外と合致した、とのこと。逆に考えると、政治的な思惑なども、結局は現実界の思うがままになっている、と言えそう。 |
人間の脳には、どのようにか、振り返る、あるいは、空回りする、という運動を起こす構造があって、言語によって、それが螺旋的に流しだされないと、ウロボロス的な円運動のまま自己対立をつづけ、自己破壊をきたすのではないか。言葉をかけられない子供は死んでしまうこととか、致死性緊張病の構造とかも、そういう視点から少し考えてみたい。 そもそも、言語自体も、からまわりで、互いが影響し合っていると思っていても、実は、空回りと空回りの交差の関係でしかないようなものだろうけど・・・。ただ、言語においては、その空回り性が、個人に対しては、隠され、「何か螺旋的に進展している」、という幻想を持たせてくれることが、またニューロンの進展にも寄与しているのではないか。 |
「なにこれ珍百景」で、紙を折って、ハサミで一つの直線を切るだけで、開くと、文字や、いくつかの文字の連続(「ネプチューン」でさえ)を作れる人が紹介されていた。例えば、「日」は、その中の、空白である2つの「口」がくりぬけるように、うまく紙を折って、ただひとつの直線を切るようにして作る、ということのよう。 |
言葉を学ぶのは、最初から同一化ではなく、母からずれるための手段(そして自らを無に向かわせるための手段)と考えてみる。ずれさせてくれないのなら、最初から言葉を学ぶ意欲もでないと考えてみる。 すると、クーイングも喃語も、むしろ母の発声しないような音や抑揚でこそなりたっているのではないか、という仮説も出てくる(母子の声のやりとりをビデオで見たことがあり、互いの抑揚がどうであったか記憶が定かでないけど確認してみたい)。 やがて、喃語ではまだ、母からのずれが不十分だと感じ始めて、むしろ言葉を学ぶことでさらに母からずれようとするという段階が来る。 さらに、母からずれる手段であった通常の言葉からもずれようとして、意味とシニフィアンのずれを遊ぶようになる。「犬はにゃんにゃん、猫はわんわん」など。あるいは、母がやってはいけないと言うことをあえてやったり、自らも、自分に「〜してはいけません」と言いつつ、あえてそれをやったりする。 さらに、そうしてシニフィアンの自由性を十分感じれるようになり、無や、自由性が、人生のより大きな局面に見うるようになると、そういう遊びさえ不要となり、通常に言葉を使えるようになる。・・・と考えてみる。 そう考えると、以前、「冷蔵庫をあけてはいけません!」と自ら言いつつ、冷蔵庫をあけて中のものを食べるのを繰り返していた自閉症の子がいたが、その行為は、シニフィアンの自由性を構成するためにあったのか? 同じ子は、「曲を聞き終わるとカセットテープを切りなさい」と親に言われていたものか、聞いた後つねにカセットテープを文字通り「切って(cut)」いて、当時は、私は本人の中で一義的に「切る=cut」となっているのかとも思ったが(その可能性が十分あるが)、実は、親の言う「切る」の意味とは違う「切る」をあえて演じることで、シニフィアンの自由性を遊んでいたのか? (あるいは私たちの「切cutってはいけない」に反する行為をすることでシニフィアンの自由性を遊んでいたのか)・・とも考えられそうでもある。 母からずれるための手段、無へと赴くための手段としての(母の出す音声や言葉とは違う)喃語や言葉を発することがことごとく蹂躙されてしまうことが、「父の名」の排除を助長するひとつの原因となるのだと思う。どういう対応をすればそうなるか? 何を言っても、母との同一化につかまってしまう、母は、母と違うことをさせてくれない、しようとしたらそれもどんどんまねされた、・・などというようなことか? どちらに行っても、母との同一化となってしまう、という状況を考えてみると、ダブルバインドという概念もすこし再評価して考えてもいいかな、とも思う。 ところで・・ラウ(自明性の喪失の)は、言葉を、同一化として学ぼうとし続けたのかも知れない。それは、自分の中で進もうとしてしまう母とのずれや、無に向かうための言葉、に対抗するために・・であったのか、あるいは、後者のそういう動きは当の最初からなかったのか(そういうことがありうるのだろうか?)・・はわからないが・・。 |
サヨクとウヨクの驚くべき質的劣化は、次のまったく新しい風景が生まれる直前の断末魔の叫びなんだろうなぁ。その独特の時間を、直接的ではなく間接的に表現して定着させるのが、芸術家としての自分の仕事なんだろうなぁーーそんなことを最近考えてます。素材を提供してくださっている皆様ありがとう。 makotoaida 2013-02-04 00:03:20 『自分にとって都合のいい表現のみが「表現の自由」で認められるべき、というのが右と左での共通認識』ってのは以前から薄々感じてたけど、こうまで露骨に来るとウンザリする…… 返信 iduru_kazumi 3 days ago 34 @takuyakanda 好き嫌いや評論といった表現の中身についてならデマや誹謗中傷を除いて何言ったっていいけど、「美術館に展示するな」は表現するなってことだから、表現の自由から考えれば許されない行為 返信 daken3gou 2 days ago 12 要するに前田朗とか中里見博は、表現の自由を守れといいつつ、実はその表現を自分の好みに限定して考えてる傾向がある。だからある表現は守るけどある表現は規制すべきみたいな矛盾を平気で抱え込むわけだ。しかもそれを正しいと思い込んでる。その正しい理由を説明できないけどw 返信 mametanuki22 3 days ago 21 ttp://togetter.com/li/449395 |