>この状況下で立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。事故直後には後者に傾いた私自身も、最近では前者に近い立場だ。不確実な未来予測に基づいて当事者を批判する権利は私にはないと気づいたからだ。 少し考え方の混乱を感じます。この当事者というのは、文脈からするに、福島に残って子育てをする人々でしょうか? しかし彼・彼女らを批判する人いるのでしょうか? 大体は批判と言うより警鐘なのでは? それに、後者の立場をとるひとは、そういう人々を批判するためにとっているわけではありません。 批判を向けたくなるのは、「さしあたり安全」と言って危険性を隠蔽し、結局は自己保身が目的である人々に対してです。 すべては、トラウマについても、国と東電が、情報をすべて明らかにし、わからない部分はわからないといって変にお茶をにごしたりせず、補償もきっちりやれば収まることです。 |
そうですね。わたしもいくつか気になる点がありました。 |
斉藤先生、この件については、なぜか深く厳密に考えられていないように私には思えます。 |
参考文献の引用、ありがとうございます。 >しかし、その「分断」が誰を利することになるかは言うまでもないだろう。 idさんは、この「分断」が誰に利することになると思われますか? |
ttp://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20120122ddm002070146000c.html 時代の風:放射能トラウマとリスク=精神科医・斎藤環 ◇分断招く隣組的な心性 福島県南相馬市で診療と内部被ばくの検査、健診、除染などにかかわっている東大医科研の坪倉正治医師によれば、現時点で慢性被ばくによる大きな実被害の報告は、ほとんどないとのことである(小松秀樹「放射能トラウマ」医療ガバナンス学会メールマガジンvol・303)。 むしろ深刻なのは、外部からの批判や報道などによる社会的な影響のほうである。原発事故による最大の被害は、子どもの“放射能トラウマ”だ。しかもその多くは、大人の“放射能トラウマ”による“2次的放射能トラウマ”であり、年齢が低いほどトラウマの程度が強い印象があるという。 風評被害の影響もあって、うつ状態になる人が増えたり、家族が崩壊したりという事態は耳にしていた。現地で子どもの電話相談窓口を担当している人からは、このところ虐待相談も急増しているという話も聞いた。 被災地での虐待件数についてはまだ正確な統計データが得られていないが、屋外で遊ぶ機会の減った子どもたちが、精神的に不安定な大人と過ごす時間が増えたとすれば、まったくありえない話ではない。 問題は「風評」ばかりではない。福島の地で生活を続けている人々を批判する声が、いまだにある。とにかく「放射能というだけで危険」とする立場からは、汚染された地域に住んで子育てをするなど考えられない、というわけだ。 しかしこの考え方は、自らが住む場所の安全性が相対的なものでしかない事実を十分に認識しておらず、いわば「福島産の放射能が危険」といった「ケガレ」の発想に近い立場という意味で“放射能幻想”と呼ばれても仕方がない。 放射能はさしあたり人の身体は破壊していないが、“放射能幻想”は人の心を確実に破壊しているということ。 その背景には、低線量被ばくの危険性がはっきりしないという問題がある。放射性物質の放出が及ぼす長期的影響については、不確実な点が多いのだ。生活環境に数世代にわたって残留するごく低レベルの放射能が、住民集団の健康に、長期的にどのような影響を及ぼすのか。「これ以下は安全」という「しきい値」はあるのか。被ばく線量と発がん率の上昇には直線的な関係があるのか。確実なことは何も分かっていない。 この状況下で立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。事故直後には後者に傾いた私自身も、最近では前者に近い立場だ。不確実な未来予測に基づいて当事者を批判する権利は私にはないと気づいたからだ。 社会学者のウルリッヒ・ベックは、福島の原発事故に関する論考で「非知のパラドクス」について述べている(「リスク化する日本社会」岩波書店)。 先にも述べたとおり、低線量被ばくによる影響については、確実なことはほとんど分かっていない。こうした「非知」に耐えられない人々の中には都市伝説や代替医療に向かうものも出てくるだろう。さらにここに政治的な問題が加味されることで、知識はさらに硬直化する。 例えばチェルノブイリの犠牲者数については、数十人から百万人以上とする説まで、報告によってまちまちであるという。事故の範囲をどう定義するかによって、データの解釈がまったく異なってくるのだ。汚染地域の区分にしても、しばしば曖昧で時に矛盾することすらあった。 この状況下では「危険が増すほどに非知も増し、決断は不可避となるとともに不可能となる」。それどころか現時点では、情報が増えれば増えるほど混乱が深まるようにすら思われる。分かれば分かるほど分からなくなる、という状況下で、もはや「絶対の安全」は誰の手にも入らない。 まさにこれこそが、ベックが「リスク社会」という言葉を通じて述べた状況ではなかったか。リスク社会においては、われわれの生活を快適にするはずの技術が同時にリスクも生産してしまうため、ひとたび事故が起こればリスクは万人に等しくふりかかることになる。原発事故がそうであったように。 ベックは「リスクによる連帯」を提唱するが、いま起きつつあることはむしろ「リスクによる分断」ではないだろうか。この分断の要因としては、リスクそのものを生産している政府や東京電力以上に、リスクへの態度が異なる人々への攻撃性のほうが先鋭化してしまうという、いわば「隣組」的な心性があるように思われる。しかし、その「分断」が誰を利することになるかは言うまでもないだろう。 さらに付け加えるなら「連帯」の手前で問われるのは、私たちの「死生観」そのものなのではないか。私たちの生が常に多様な、時として定量することもできないリスク−−それは「放射能」に限らない−−を抱えていること。つまり生の内側では常に死が育まれている事実を理解すること。被ばくについて考えることは、この事実を深く認識するまたとない機会となるだろう。=毎週日曜日に掲載 |
結局は自分で判断するということですね。 政府も根拠のない安全基準を出せば、巨額の賠償責任のリスクを追うことになります。そういうリスクを負いたくないのであれば、自己責任にして安全基準など出さなければ良いわけです。 |
ところで、 一昨日のゼミでコピー資料としていただいた池田氏のブログの文章、 >放射線の影響を考える場合、 何もかもごっちゃにして「わからないから恐い」と 思考停止するのではなく、確定的影響と確率的影響をわけて 考えることが重要である。 とありましたが、ご本人のブログを拝見すると 今年の1月15日に書かれているのですね。 事故直後ならいざ知らず、なぜ事故から10ヶ月も経って 確定的影響と確率的影響の違いをわざわざ書く必要があるのか。 一般の市民が、現在考えているのは、 言うまでもなく「確率的影響」の問題ですよね。 わたしもその前提で考えてきました。 それと 「思考停止」という言葉には 「わからないけど安全」の方がふさわしいのでは。 「わからないけど安全」「安全」「安全」これこそが 原発事故の直後に念仏のように唱えられていたおまじないですね。 その典型が146でとりあげた厚労省の母親向けパンフレットでした。 お上が考えてあげるからお前たちは考えなくてよいという発想ですね。 「恐れることはない、わたしが安全だというから安全なのだ」と 静かに恫喝している不気味なパンフです。 「わからないけど安全」という思考停止の完全依存洗脳状態に比べれば、 「わからないから恐い」と考えるのは、 遥かにましだとわたしには思えますけどね。 「わからないから恐い」。だから、わかろうとする。 そして、調べる。考える。吟味する。検討する。議論する。 これは思考停止ではなくて、むしろ思考開始ですよ。 |
なるほど。 idさんにとって「納得できる物語」が大事なのですね。了解です。 |
榊山さん >idさんにとって大事なのはご自分の「不安」を解消することのようですね。 違います。 私にとって大事なのは、自分が納得できる物語です。 そもそもこの問題に限らず人には「不安」が解消できるとは考えていません。 |
>リスクを気にする人は気の毒ですね。と、 リスクが本当にないのかは別として、そこまでだとわかります。どう感じるかは個々人の自由であるので。個々人の感想にとどまる限りは。 私が問題視する人々は、リスクを隠蔽し、避難や移住を押しとどめたり、汚染食品を食べさせるのに実際に加担したりする人々です。 |
idさんにとって大事なのはご自分の「不安」を解消することのようですね。 わたしがNo146で書いたのは、自分の不安をどう解消するかという 問題ではありません。 |
榊山さん 食に気を使うことは当たり前です。 100%安全なものはありません。 無理なことを求めるので、どこまでやっても不安は解消しません。 放射線は普通にあるものですから、その許容量の問題だと思います。 放射線の許容量についてさまざまな見解が述べられましたが、私にとってはその中の一つの見解が妥当だと思うだけです。 水上さん >「万が一」の為に動く人をなぜ他人がひき止めようとするのか、 私の場合は、原発事故の自分なりの解釈をやっています。 現状を踏まえて、専門家の一つの見解が妥当だと考えています。 今のところ放射能のリスクは無く、気にならない。 リスクを気にする人は気の毒ですね。と、 東電の経営者は犯罪者として裁かれるべきであり、東電は倒産させるべきだと考えます。 政府については、菅直人一味は現場視察を強行することで現場の対応を遅らせ、スピーディーの予測を隠蔽して被災者を被曝させた罪で裁かれるべきだと考えます。 |
6:そもそも「それではない」として、どんどん無に向かっての弁証法の進展を促さねばならない分析家自身が、解釈することで、これなのだ、となってしまう可能性がある問題。「それではない」ということを告げる類の解釈ならばよいのでしょうが・・。 |
放射線の件、結局のところ私は「万が一」の為に動く人をなぜ他人がひき止めようとするのか、という疑問が強く強くあります。ひき止めようとするところにある欲望は何か?? 結局は補償したくない(東電、政府)、県(福島県など)から人が流出し県の税収減となるのを防ぎたい、ということではないでしょうか。 あるいは、東電の株主や、もともと原発から利益を得ていた人などが不利益をこうむりたくないという欲望。 これ以外に考えられません。結局は上の人たちの都合。 ただ、確かに、そういう人以外で国民の中にも、ひき止めようとする人々もいますが、そういう人は、結局東電や政府の術策に嵌ってしまっているようにしか私には思えないのです。 どうも、冷静で、ハードボイルドな姿にあこがれる人が、今こそそういう自己像を得られるときだと思って、実は政府・東電の巧みな(?)安心キャンペーンにのせられ人々に「安心せよ」と言って政府・東電の片棒をかつがされてしまっている・・そういうことに思えるのです。 万に1しかあたらないロシアンルーレットでも、やはり危険はあるわけだし、それを危険だと言って、そこから逃げようとするのが何が悪いのでしょうか・・。他人が「危険ではない、それを危険だというのは過剰反応だ」、と言う必要はまったくないのではないでしょうか。まったく他人事としてしかとらえてないように思えます。 |
>甲状腺がんになった6000人のほとんどは、当時の被曝年齢が16歳以下の若年層で、ほとんどが食事、特にミルク摂取によるものでした わたしはむしろその数字の多さ、その内容の深刻さに驚きます。 いろいろな主義主張はあるでしょう。 この問題を政治的主義主張に接続したいのなら それはどうぞご自由にというしかありません。 ただ、わたし自身は、現実的な対応として主張したいのは、 若年層への対応については注意するべきだということです。 特に、義務教育の年齢の子供の「給食」に関しては、 科学的に100パーセント危険がないと「確定」できない場合、 少しでも「確率」的に危険がある場合は、 可能な限り危険を避けるようにするのが、 大人の努めではないかと、わたしは思います。 子供たちはそれを回避する情報も力も持っていないのですから。 ところが、春休みを過ぎて新学期がはじまった昨年の4月頃は、 風評被害を避けるために、給食で地産地消というような、 感情的な発想がこの国では平気で語られていました。 たとえばいわき市で風評被害を避けるために 市長が給食に福島産の牛乳を出すといったのは4月の終わりのことでした。 それに対して緊急提言した人の一人に武田邦彦氏がいました。 ttp://rocketnews24.com/2011/04/27/武田邦彦教授がいわき市長に緊急提言「福島県産/ また、乳幼児や幼い子供をかかえた人々への情報発信は 公の機関が優先的にやるべきことであったと思いますが、 当時、この国の厚生労働省が、母親向けに発行したパンフレットには 具体的に役立つ情報など何一つありませんでした。 以下にそのパンフのリンクをはります。 ttp://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000014hcd.html ちなみに子供に与えるミルクの危険性についてわたしが知ったのは、 フランスの「IRSNの勧告」であったかと思います。 ここからどの食べ物に気をつけたらいいかという具体的な情報を得ました。 情報はフランス語でしたが、「フランスねこ」というサイトでは それを日本語にしてくれていました。 また、このカフェフジタを運営している藤田先生の公式サイトにも 原発事故直後から武田教授のブログやIRSNへのリンクが貼られていました。 そういう個人の努力のひとつひとつにたすけられた人は沢山いたと思います。 「フランスねこ」にはたとえば次のような情報が翻訳されていました (これは2011年4月当時のものです。現在のものではありません)。 ttp://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/irsn420-6eef.html 読んでみるとわかりますが、何を避けるべきか、ということが 具体的に書いてあります。それほど多くの食品ではありません。 なんでもかんでも危険と言っているのでも、 なんでもかんでも安全と言っているのでもない。極めて具体的で限定的です。 また繰り返しますがこれは昨年の4月の情報でした。情報は刻々変わっていきました。 緊急時には最大限の危険を考えてそれを回避するように適切に理性的に行動する。 実際はそれほどではなかったら、「よかった」と思えばいいのです。 それを緊急時に危険の可能性を唱えた人を、あとから、 それほどでもないのに大袈裟だったとか、思慮が浅かったとか、のたまうのは、 後だしジャンケンというか、フェアではないですね。 ちなみに、昨日、読ませていただいた池田信夫さんの文章についての わたしの感想は昨日も申し上げた通り、自分が理性的であると アピールしたい想像的な文章、というものです。 |
ゼミの続きです。 ttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51769092.html 池田信夫氏のブログに高田純氏の解説動画があります。 現地での診察結果、胎児も含めて健康被害はないと断言されています。 30分程度なのでぜひご覧ください。 高田純氏の論文 ttp://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/2011japan.html 昨日のゼミでの文中の「いままでに発ガン率の増加は見られない」の意味は、チェルノブイリ事故での甲状腺がんの発生は一時被害ではなく、ミルクなどの食事による二次被害であるとのことのようです。 ロバート・ゲール博士(チェルノブイリ原発事故で米国医療チームのリーダーとして被曝治療に携わったほか、JCO東海村臨界事故でも救命活動に従事した。放射線被曝治療や骨髄移植が専門である) ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110323/219112/?ST=print 当時は、消防作業員など204人の現場作業者がチェルノブイリからモスクワまで運ばれてきて、そのうち急性放射線障害で亡くなったのは29人でした。9割は助かりました。 一般の住民はどうだったか。当時数十万人が避難しており、約6000人が甲状腺がんになりました。理由は爆発により広範囲で飛散した放射性の「ヨウ素131」です。 甲状腺がんになった6000人のほとんどは、当時の被曝年齢が16歳以下の若年層で、ほとんどが食事、特にミルク摂取によるものでした 放射線が拡散する前、あるいは直後に安定ヨウ素剤を服用しておけば、予防ができたかもしれませんが、当時、旧ソ連内には物流のシステムも十分になかった。日本の場合は、こうした予防的な措置を取ることは十分に可能であるし、酪農が盛んだった旧ソ連・北欧・東欧に比べて、普段から海藻などヨウ素の摂取量が多い食生活をしています。チェルノブイリのような大規模な被害になるとは考えられません。 このほかのがんについては、正直に言ってはっきりした因果関係は証明することは難しい。特段白血病の発病者が増えているという結果もない。 |
早すぎる解釈の問題、あるいは、早くはなくともともかく解釈することにつねに付随しているのだろうなと感じられる問題をまとめてみました。 1:分析家が「知っていると想定される主体」の位置に来る危険。そういう想定をこそ転覆させる解釈ならよいのでしょうが、解釈がそういうものばかりとも限らないでしょうから(そういう質を出来るだけ入れるように顧慮すべきかも知れないにしろ)。 2:抑圧されているであろう思考を分析家が告げることで、その思考を抑圧していた側の思考は表現されずじまいになってしまう(では、どちらかというと抑圧する側の思考をこそ解釈するのがよいのでしょうか・・)。 3:抑圧する側、された側の思考のどちらにしても、それらは傍が思うよりもっと様々な内容を持ち、他の様々な思考に触手を伸ばしているかも知れないのに、分析家の単純な解釈がそれらを切り離して、一部の思考のみ乖離して前景に出してしまうに終わる危険。 4:分析主体において、分析家の解釈そのものに魅惑されることによって、自由連想から引き離されてしまう、それに対する抵抗が助長されてしまう。知的理解で終わることの問題。 5:自由連想をともかく無理してでも進めていく、ということこそ望まれるところで、無意識に「ついて」の分析家との対話になってしまう。 どんどん解釈を告げるらしいクライン派などはこのへんどう考えているのでしょうか・・。 |
バウムテストなどで、木の幹を開放の幹で終えてしまう(特に樹幹をかぶせないタイプ)―つまり、幹が上方で閉じられず空洞になったまま空へと開いているー描き方をすることが他の病者と比較的に分裂病者(特に解体型)の中に多いように思っており、なぜかずっとわからずにいました。 樹冠を作っているはずの枝は、描き始めると、更に次の枝へ次の枝へと進展させざるを得ず、このどう進展していくかわからない予測不可能な弁証法が耐えられないのではないか、そのような予測不可能性に出会わずにすむように最初から明瞭に輪郭づけられたもの(ここでは幹の輪郭。幹の内部ではなく)の輪郭を描くに自分を限っているのではないか(だから幹から上を描こうとして中断した結果が開放の幹となってしまう)、と考えると納得できるようにも思えてきました(ただ、では樹冠を輪郭だけ丸く描いたり、樹冠はなくとも幹だけ上方を閉じた形で葉を落とした木のように描けばいいだろうに、なぜそうしないのか、という疑問は残りますが。ただし、そういう描き方をする分裂病者も多いとは思います。)。 同様のタイプの病者に、何の木ですかとこちらが聞いても彼らがしばしば「ただの木です」と、細かくidentityを言わないのも似たようなことで、下位分類の何かを選択してしまうと「なぜそれなのか、それでなくともいいのでは?」という弁証的進展に入りそうで、セラピスト側が輪郭付けて要求した「木」という分類までしか考えないようにしている、のだと考えることも出来るように思います。 解体型の、特に「内省型」として日本で時に言われるタイプの或る病者―「自分には何か足りない。人が意識せずに当然として振舞えている何か・・」など言ってそれをずっと探り続けているような(アンネ・ラウのように)―の描いたバウムも開放型の幹でした。内省型の病者の、「自分には足りないものがある」としてそれを探り続ける思考は、実のところは、欠如(無)を実在化させて彼岸におきつづけることで此岸の存在を輪郭付けて守る(=無にぶつかってパロールの弁証法を進めていくという動きから身を守る)手段なのだと考えると、上記のような開放型の幹についての仮説も整合的であり(どちらも予測不可能性にであったり弁証法に入ることへの抵抗という意味で)、多少は妥当かなとも思えます。 木が育つ順序で描いていくーつまり下から又内部から(ということだったと覚えますが・・)ーという描き方が提唱されているのが、確か「キミ子方式」だったでしょうか?(考案した人の名字は失念しましたが)―というのは、そうなると、このタイプの分裂病者には難しいのだろうなと思えます。こう描かせることが治療になるのか、プレッシャーになるのかそれはよくわかりませんが・・(後者の可能性が強いとは思いますが・・)。 |
sopa pipa 知りませんでしたが、TPPとの関連で日本も巻き込まれるのではとも思い(そのへんぜんぜんわかりません。素人考えですが)、「sopa pipa tpp」で検索すると、2ちゃんねるで以下のような書き込みに出会いました。 (ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1326874258/) 20 :名無しさん@12周年:2012/01/18(水) 21:27:34.29 ID:DBc29Syp0 米国映画協会(MPAA)、米国レコード協会(RIAA) こいつら、なんでWikiに反対なの? Youtubeは分かるが コンテンツ調べるのにWikiないと困るんだが 公式サイトは役立たずのせこい情報とフラッシュダダ流ししてるだけだし 21 :名無しさん@12周年:2012/01/18(水) 23:18:00.14 ID:S2s8dUFmP この著作権団体ってやたらとTPPをプッシュしてる奴らだろ。 どんだけ金の亡者なんだよ。 頑張れ、グーグル! :::::::::::: sopa pipaの簡単な説明は ttp://blogs.itmedia.co.jp/jajiyas/2012/01/sopa-pipa.html からの抜粋ですが: 今、アメリカのインターネット業界を揺るがす2つの法案が、昨年10月に下院で提出されたSOPAと昨年5月に上院で提出されたPIPAである。 SOPAはStop Online Piracy Actの略、PIPAはProtect IP Actの略で、どちらも海外からの著作権侵害防止とアメリカの著作権保護をメインとしている。 海外のサイトが著作権を侵害していると判断されれば、司法省はその海外サイトの閉鎖をISP等に対し裁判命令として行うことが可能となる。 またGoogleやFacebookなどインターネット上でサービスを提供している企業は、これら違法サイトの広告を中止したり検索結果から外す必要も要求され、違反するとそれらの企業まで処罰対象となってしまう。: とあります。とりあえずはアメリカの著作権保護ということですか? ラカンの文献の翻訳など載せているサイトは多いと思いますが、そのへんは今後どうなってくるのでしょうか・・。 |
英語版が・・・ ttps://wikimediafoundation.org/wiki/SOPA/Blackoutpage |