ttp://www.mammo.tv/interview/archives/no259.html ここでの、森田真生さんの話もとても面白いです。一部抜粋します。 :―「2か2ではないか」といった真偽が対称的ではない体系がつくられたことで、新たな発見があったのでしょうか?― その前に説明しますと、僕がいま研究している「代数幾何」という数学の分野は、「数の世界」と「形の世界」の間にある深い繋がりを調べる分野だということができると思います。実は数の世界の問題が形の問題に翻訳できたり、形の問題を数の問題に置き換えることができたり、ということが数学ではよくあるんです。 そこで「微妙に2」というような数の概念を、形の世界で理解しようとすると「層」という概念が出てきます。層という概念は数学の中でも比較的最近登場したアイディアで、「空間とは何か?」ということを考える上で非常に重要です。 私たちは「空間とは何か?」と聞かれると、普通はデカルトが考えたように、空間とは縦、横、高さの3次元的な広がりである、と考えます。しかし「空間とは何か?」という問いに対する答えは、数学の進展とともに日々更新されていて、私たちが普通「空間」というときにイメージする「Euclid空間」よりもはるかに豊かな世界をもつ「多様体」という概念をRiemannという数学者が編み出し、さらにGrothendieckという数学者は「スキーム」というさらに一般的な空間の概念を考えだしました。こうした空間概念の変遷を理解する上で「層」というアイディアがとても大切な役割を果たします。: 以上。 「層」という概念、おもしろそうです。 |
ttp://ryoushi-rikigaku.com/index.html 驚くほど、分かりやすいし、面白い。 「30分でわかる量子力学」 「文系応用へ」その他など。 バーチャルリアリティ学会というのもあるのですね!(このホームページを出している会社の代表者の所属学会としてかかれていますが)。面白いかもしれない・・。 |
昨日話題に出したNHK番組ためしてガッテンです。 不安克服の参考になるかも。 http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20120111.html 再放送予定 1月18日(水)【17日深夜】午前0時15分〜1時00分「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」[再] |
唐突ですが、学校でこれほど体罰や思想統制が多いのをみると、放送に対するBPOのような、学校を監視し、また意見を募る第三者的機関があってもいいのではと思います。 それ自体が、ファシスティックになる可能性はないとも言えませんが、寄せられた色んな意見と解決プロセスをネット上に公開すれば、個々の学校や地域で閉鎖的に行われていることよりはよりよい状況が生じるのではと思います。 |
>ここで、上記のAとBのような部分(=何らかの論理式)、の、一番還元されたものは、「肯定文の短文で表される命題」らしいのですが、精神分析的観点からは、この「肯定文の短文」さえ、どう構成されているのかさらに分解してみたい気にさせられます。なるべくものごとを実在化させないところから考えたいので。 そもそも、人のはたらかせる論理自体が、今まで当然として受け取られていた命題を疑っていく方向にすすんでいるのではないでしょうか。そういう遡行的過程を示す論理学があってもいいように思います。私が知らないだけかも知れませんが。 |
どんな真理関数(真偽に関する関数)も{¬、∧}か{¬、∨}か{¬、→}かだけで十全に表せるというのは面白いですね。特に{¬、∧}からは、差異(否定性)と同一化で人間の論理がすすんでいるのが見えるようで面白い。 更に「シェーファーの棒」を、A|Bの間の棒として書くと(ここでA、Bはそれら自身何らかの論理式)、¬(A∧B)と同じということらしく、また、これのみで全ての真理関数を表現できるというのも興味深いです。「父の名」の機能の”幾分か”をここに見ることができるようにも思えます。AとBの交わりを去勢しているようにも見えますし。(幾分か、というのは、次の段に書いたことも父の名の重要な機能でしょうから) あと論理学で括弧()自身がどれほど重要視されるか分かりませんが、( )に、隠喩の次元を上げる機能を見ることもできるようにも思います。たとえば、上の¬(A∧B)の中の、A∧Bだけではただ換喩的ですが、それを()でまとめて否定する¬、というところに隠喩次元の高まりを見るというように。ここにも父の名の機能を見ることができそうに思います。 ここで、上記のAとBのような部分(=何らかの論理式)、の、一番還元されたものは、「肯定文の短文で表される命題」らしいのですが、精神分析的観点からは、この「肯定文の短文」さえ、どう構成されているのかさらに分解してみたい気にさせられます。なるべくものごとを実在化させないところから考えたいので。(ここまでの論理学の部分については、主に「論理学をつくる」(名古屋大学出版会)を参考にしました。なにぶん素人なので大きく誤解しているかも知れません。) そこで、『論理学』(野矢茂樹 東京大学出版会)を見てみると、例えば、「無門は禅僧だ」は場合によれば原子命題(=「「否定詞も接続詞も」含まない命題」とありますp16。上記で言う「肯定文の短文」のことでしょう、多分)だが、「無門は僧侶であり、かつ禅宗だ」ととればそれは分子命題(「否定詞や接続詞を用いて構成された命題」とあります:十分に原子命題に分解されたものではない命題ということでしょうか?)であり、どちらとして考えるかは「調べたい推論に応じてわれわれが決めることだ」とあります(p19)。 分解されたぎりぎりのところでは知覚と論理の交差を考えないといけなくなるかなと思いますが、これはどうにかできることでしょう。これはまた別の機会に書いてみます。 (なお、「論理学をつくる」p22において、「真理関数的でない接続詞も視野に入れた論理は真理関数的な接続詞を扱う論理より格段に扱いが難しくなる。本書では真理関数的結合子だけを扱っていく」とあるので、上記したことにも何か重要な論点がもれている可能性はあるでしょう。) |
間違った。量子論を学べば学ぶほど逆に「去勢の岩盤」にぶちあたる感があります。 |
今日のゼミは仕事のため行けません。残念残念。 量子論的精神分析は量子論を学べば学ぶほどわからないです。 「去勢の岩盤」 |
>うそか本当か、福島の人は、県外に出ないようにと、上(県?)から強い圧力が掛けられているといううわさを聞きましたが・(125より) こういうことがあるとうわさも現実味を帯びてきますね。本当に県内に戻りたい人には良いのですが。『自主避難帰宅に旅費補助 県基金から70億円充当』ttp://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/01/post_2904.html (福島民報) しかも「強い要望があった自主避難者の帰宅旅費補助などに70億円程度を充当する方針。」と最初にちょっと正直には述べられている一方、 「文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会が示した指針では、自主避難者の旅費全額が賠償対象に含まれておらず市町村から国、県に対応を求める声が上がっていた。応急対策基金では約70億円を確保し、放射線の影響を避けるため自宅を離れて暮らす原発事故の避難区域外の世帯に対し旅費を補助する考え。」 とあり、うっかりすると区域外、県外に避難して「行く」旅費も補助されているのだな、良心的な対応が計画されているな、と思わせられる書き方です。福島民報もそう書くように県から圧力がかかったのかどうか。 あともう一つ聞いた噂。・・県民の被爆検査をしないように福島県内の医師に県から圧力がかけられている、ということ。以下など見ると、意外と本当なのか? 以下自身がその噂のソースだったのかも知れないし、信頼性は私にはわかりませんが・・。 『「福島県民の被爆検査するな」? 県民の命をないがしろ 佐藤雄平福島県知事の恐るべき根回し』 ttp://www.netventure-news.com/news_6XFLO4TCG.html |
ご指摘ありがとうございます。 >水上さんがファルスへの探求と表現されているものは、じつは対象aへの探求ではないか ここは確かに私も書き込む時点で、そうなのではないかと思いつつ、こういう三段論法の流れを人に進めさせるダイナミズムを発生させるもの自体は想像的な−φかなという考えが介入してきてそう書いてしまったのでした。やはり、対象aとすべきだったのですね。 |
「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである」という流れじたいはシニフィアンに着目すれば移動(Verschiebung)ですね。これらの移動が可能なのはA,B,Cがすでにこの象徴界で何らかの「役割」を担っているからこそで、この「役割」こそがそこに現れることなく機能しているファルスの隠喩作用なのでしょう。フロイト風に表現すればすでにA、B、Cへファルスの隠喩が込められているからこその意味作用を持って命題たり得ている、つまり圧縮(Verdichtung)が生じているからこそ、移動が可能になっているのでしょう。そうして人間のファンタスムの基本構造を加味してみると、水上さんがファルスへの探求と表現されているものは、じつは対象aへの探求ではないかということが見えてくると思います。 |
人間の三段論法の進展を、むしろ「これでもない、あれでもない」とはっきりさせて、無へと向かっていく動き=失われたファルス(−φ)を探していく動きの上にあるものと考えるとどうでしょう。 つまり「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである」そして「AはCであってファルスではないな」と結論づけ脇に置いて(すでに置かれたものも、常に後に来るものによって変容を受けるということにもなりますが)、さらなるファルスの探求へと向かっていけるようにする、ということ。つまり知の(この場合は三段論法の)集積は、こういう否定の集積でありファルス探求の副産物でしかないということ。そういう意味ではとても無理のない自然な動きであると言うこと。 これに対して、もしかしたら、ワトソン君などのコンピューターにおける三段論法の集積は(もしそういうものがプログラムされているとしたら)、三段論法の「学習」的で正号的な(=「ファルスではないな」という否定の連続の上に後ろにできあがってくるというようなものではなくて、)詰め込みでしかないのではないでしょうか?? −φと等価な項をプログラムに入れるともっと人間に近い三段論法の流れが得られると思うのですが。 「自明性の喪失」のアンネ・ラウが苦労したのも、このように知や三段論法を正号的な形で「学習」しようとしたからではないでしょうか? ムカデが足の動かし方をひとつひとつ意識し始めると逆にうまくいかなくなるような苦労。それは失われたファルスを彼岸に置くはずの「父の名」の排除が行われたいたからであろうし、また、こういう学習的な知や三段論法の集積の仕方自身がこの「父の名」の排除の手段であったから、でもありましょうが・・(このへんの排除と学習的な知や三段論法との因果関係・相互関係のありよう、また、父の名の排除による現実界の露呈の三段論法に対する影響などはまた精緻に考えねばならないことですが・・)。 |
いつも書き込みをしてくださる水上さんをはじめ、このBBSをご覧になっている皆様、 明けましておめでとうございます。 今年は昨年以上に、掲示板上での議論が盛んになることを期待しています。 どうぞよろしくお願いいたします。 管理人 藤田博史 |
おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 |
「復興」という言葉が、本当は除染不可能な地域なのに移住を許さないことのカモフラージュとして使われ始めていないか(一部は)、・・。(うそか本当か、福島の人は、県外に出ないようにと、上(県?)から強い圧力が掛けられているといううわさを聞きましたが・・) 「脱原発依存」という複雑な言葉。「電力は原発には依存しませんが、原発は作りますよ」(核兵器開発のために、あるいは原発は安全ですよ、という世界に向けてのアピールのために)という意味ではないか、・・・などと思ってしまいます。 |
年賀状を書いていると、 つづりでの失錯という以上に、文字の形の悪さという失錯へのおそれが意識されます。 綴りでの失錯と文字の形の失錯の構造的な違いはどんなものか? 欧米における書字での失錯と、日本語書字における失錯の違いは? また、欧米人と日本人の書痙の違いは(欧米人に英文字の形自体を意識しての書痙など日本人ほどあるのかどうか・・)? ・・などという疑問がふとわいてきました。 |
進行麻痺であったことはよく言われますが、このような詩ttp://www.urban.ne.jp/home/festa/koga.htmなど見ると、彼の詩の意図的なスタイルであるのかも知れませんが、一方で分裂病は混じっていなかったか、と考えてもみたくなりました。 |
無理な除染はやめて、各地に瓦礫の廃棄場所を作るのはやめて瓦礫は原発近くに集めるほうがずっと安上がりで、浮いたお金で補償や移住費用を出せばいいと思うのですが、しかし、特に高齢者などは、生まれ育った土地を離れたくない人が多いから、それも無理という話をよく聞きます。しかし本当にそんなに土地を離れたくない人が多いのでしょうか?? もしかしたら、そういう話も、メディアを通しての政府による情報操作なのではと、思う今日この頃です。 宙ぶらりんの葛藤状況のほうが耐え難い、実際に損失は大きい、ということはあると思います。批判をおそれず、合理的な判断で離れるべき土地は離れよ、と政府もはらをくくって言うべきでしょう。離れたくない人は、自己責任に任せて居させて、しかし移住費以外の補償は与えて。 こんな話も言い出しにくい、というのは、すぐに「非国民」とののしられる戦時中と似た状況なのではないでしょうか? 最近NHKの戦争関連の番組を見ましたが、戦時中には、「生きて帰るな、国のために散ってこい」、と、まじめに思っている親も居たようで、命は意外と簡単に犠牲にされるものなんだな、人間の理性は崩れやすいものなんだな、と思わされましたが、まさに今そういう状況にあるのではないでしょうか。 朝日新聞上でさえ、「瓦礫を分かち合おう」というような投稿が多い現状。一体この流れをどうすれば止められるのか・・。無力感ばかりつのります。 |
言葉のベクトルというものを考え中です。例えば、ある言葉の否定は、もとの言葉の180度逆のベクトルを示す、というような。しかし、美しいvs.美しくない、くらいならこれでよくても、「美しくはないけどかわいい」などと、質の違ったものが入り込んでしまうと、もうひとつ別の次元の軸を増やさないといけなくなったりするから、実際の言葉(この場合はシニフィエというほうが正確でしょうが)を逐一ベクトル化しようとすると、すぐに複雑になることでしょう。また、「あとの言葉によって前の言葉の意味合い、つまりベクトルもずれる」ということにもなり、このような変化までどう含めて表しえるかもわかりませんので、あまり本気に試みてはいません。しかし言えそうな事は、ひとりの人が意識を保持したまま話を自然な流れでいくら語り続けても、180度逆のシニフィエに達することはないだろうなということ(もし達すると聞いているほうは矛盾を感じるだろう、精神病者だと判断するかもしれない)、また、シニフィエのベクトルは―その人の無の象徴化の機能・隠喩の機能が良好である限り―それまでのシニフィエでは未だあらわしえていない「隙間へ隙間へ」へと入る形で、いわば一本の植物の葉っぱが他の葉っぱの隙間へ隙間へと入り続けることで日光を全体が受けやすく育つように、全体として無をなるべくエコノミカルに象徴化しようとする形で組織化されていくのだろうな、ということです。ともかく、植物の例だと茎の真上から葉のひろがりを見た場合の2次元平面という単純な次元において「隙間へ隙間へと」の動きを表せ、そこにきれいに黄金比を見ることができるわけですが、言語だとこれを更に(上記したように)すぐに多次元において考えないといけなくなり、これを表現しえる図式は結構複雑になるのではと思われます。 矛盾なく、最も自然に隙間へ隙間へと入る動き、・・そのようなことを考えていると、しばらく前に見た秋山仁氏によるNHKの「高校講座 数学基礎 第20回 音楽と数学」が思い出されました(ttp://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/suugakukiso/archive/resume020.html )。「聴いていて気持ちのいいコード進行」の法則が述べられています。概略すると(上記サイトを見て頂くのが一番よいかと思いますが) :ド(C)からシ(F)までのシャープも入れた12音を円状に並べ、それを12の頂点を持つ星型でゴムでつなぎ、そのゴムを開く(星型を崩して正12角形に並べなおす:右回りにC、G、D・・と並ぶ方向で)。もう一つ大きな正12角形を同様に作って、先ほどのものの周りに置く(先ほどのと同じ方向でCとCなど音階をあわす形で。)。内をメジャーコード、外をマイナーコードとする。それぞれのメジャーコードとそのすぐ外側にあるマイナーコードを線で結ぶ。時計回りに90度回したところにあるマイナーコードとも線で結ぶ。ここで、直接つながっているコードとは相性がよくスムーズにコード進行ができることになる。たとえば、CメジャーからはF,C、Cm、Amへはスムーズなコード進行が行える。: なぜそうなのか、はここでは語られていませんし私にはわかりません。しかし、興味深いのは、最初の12の頂点を持つ星型であり、これは180度逆側にある頂点は避ける形でしかし最も逆に近い頂点(これは正12角形に展開した折にはすぐ横に来るコード)へと触手を伸ばしつつ、12音全体を一筆書き様に漏らさず繋げ得ている形になっていること。つまり、完全な矛盾はしないぎりぎりのところの「逆へ逆へ」と入り込み、しかも全体をもらさない、・・つまり一つの変化の角度はそのまま全体との関係性を暗示している、というかたちになっているということ。そして、これはまた、無を出来るだけエコノミカルに有効に象徴化する言語の動きの様相ともつながるように思えることです。ただやはりわからないのは、メジャーからマイナーへのスムーズな移行がなぜこの法則(すぐ外側また90度時計回りに回す移行がスムーズであるということ)に則っているのかということ。たしかにこの移行は調和的に聞こえるのですが。 更に、Dmitri TymoczkoのThe Geometry of Musical Chordsは面白そうです(ttp://dmitri.tymoczko.com/voiceleading.pdf )。上記の高校講座の図式とつながることか・・、なぜ上記のようになるかがこれでわかるか・・、またこれは上記の図式の更なる進展形ということか・・。ともかく、なかなか難しそうで全部は読んでいずそのへん分かりませんが、簡単な要旨は、以下に見ることができます。 1Geometric maps reveal hidden beauty of music (by Roxanne Khamsi) ttp://www.newscientist.com/article/dn9500-geometric-maps-reveal-hidden-beauty-of-music.html 2 The Geometry of Music (by Michael D. ) ttp://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1582330,00.html 3 Composer reveals musical chords' hidden geometry (by Chad Boutin) ttp://www.princeton.edu/main/news/archive/S15/19/53C88/index.xml?section=topstories 上記1の文献から見るに、彼の問題意識の発祥点は「和声harmonyと対位法counterpoint (後者はいかに色んなメロディーを同時的に堆積させるかで論じられるものであり、ポリフォニー音楽の一形式ということのようです。そして前者は音の縦のつながり、後者は横のつながりに重点を置くものであり、また相補的とのこと。―私などは、隠喩と換喩あるいはパラディグマとサンタグマの関係を思わされるところですが―)を西洋音楽はいかに満足させているのか、いつ、またなぜ効果的なヴォイス・リーディングが可能なのか、を言える理論がない」ということらしいです。彼の理論はそこを解明したものということでしょうが、その特徴のひとつはおそらく、数学でいうorbifold (軌道体)―私はこれをまだよく理解していませんが―を利用しているところにあるのでしょう。 ともかく、まだよく理解できていませんので、彼の主張の中核の概略かな、と思われる部分を抜粋しておきます:(文献2から)・・・Borrowing some of the mathematics that string theorists invented to plumb the secrets of the physical universe, he has found a way to represent the universe of all possible musical chords in graphic form. ・・・. Tymoczko's answer, ・・・, is that the cosmos of chords consists of weird, multidimensional spaces, known as orbifolds, that turn back on themselves with a twist, like the Möbius strips ・・・. Indeed, the simplest chords, which consist of just two notes, live on an actual Möbius strip. Three-note chords reside in spaces that look like prisms--except that opposing faces connect to each other. And more complex chords inhabit spaces that are as hard to visualize as the multidimensional universes of string theory. But if you go to Tymoczko's website( music.princeton.edu/~dmitri ) you can see exactly what he's getting at by looking at movies he has created to represent tunes by Chopin and, of all things, Deep Purple. In both cases, as the music progresses, one chord after another lights up in patterns that occupy a surprisingly small stretch of musical real estate. According to Tymoczko, most pieces of chord-based music tend to do the same, although they may live in a different part of the orbifold space. Indeed, any conceivable chord lies somewhere in that space, although most of them would sound screechingly harsh to human ears. 2つの音を使ったありえるコードとそれらの間のスムーズな移行はメビウスの帯上に、3つの音だとプリズム”様”のスペース(orbifoldのひとつ)上に表示できるということでしょうか? このプリズム”様”のスペースというのは、面白くて、彼自身による文献(The Geometry of Musical Chords)のFigure S5をみると、上下の三角面はそれぞれの頂点に来ているコードが120度回転して一致するように置かれています。よく分かりませんが、ここには、クロスカップを作るときのような、想像困難なひねりが暗示されているのかどうか・・・。ともかく、4つの音を使ったコードについては、4次元のプリズムーやはり似通ったひねりtwistを入れたものーが必要なようです。 同じような図式が、言葉の構造についても出来ないか、と考えています。文はすでにいかほどかの隠喩、多くの文の重なり、を潜在させていると考えるとそれらをまとめた一組を一つのコードとして、次にはどんな文が来たら自然か、を示すような・・。しかし、音楽が12音に限られるのとは違って、文自体は原理的には(一文がどれほど長くてもいいなら)無限に作れ、ひとつ文を発してもそこには可能無限的な量の文が重なることになりますから、少し事情は違ってきますね。だから一音素とそれが潜在させている他の音素(文脈から、ある音素の下に遡及的にいくつかありえたはずの音素が重層的に響いていたり、先行的に次の音素の位置に幾つかの音素が重層的に想像されるでしょうから)のセットを一つのコードとして考えるとよいのかもしれません。日本語は50音ですから、50次元のプリズム、50次元のオービフォルドを作って。しかし音素とはいっても、その下には、やはりすぐに可能無限的に増殖するシニフィエ=文を、潜在させることになるから、事情は同じかも知れません。もちろん音楽にしても、それまでのメロディーの流れから、表在化した一つのコードの下に多くの音や旋律を潜在させている(聴く人間側には多くのそれらが想像される)のでしょうが、言葉の場合は、その潜在体=シニフィエのほうこそがずっと重要になるから、この問題はより深刻だと思います。「次にはどんな解釈を投げかけると無の象徴化にすすみやすいか」、の図式を作りたいな、とは思ったのですが・・。しかし、そもそも、「次にはこのような方向性がよいのでは」、というような図式にそった言葉のすすみ方だけでいかにもスムーズに弁証的に進んだとしても、貧困といえば貧困なすすみ方であって、本当の隠喩・ノンセンスの創造ではないかもしれませんね。そんな図式を覆すほどのものこそ本当の隠喩・・、というような考えも含めえた図式が出来るとよいのですが・・。 それにしても、Tymoczkoのこの考え方、色んな応用可能性がありそうです。 他に今後考えてみたいことは: ・易の64卦の順番の解明。陰陽の6本の棒をたてに様々に並べた様々な64組=卦、そこにはそれぞれの意味が付属しているのですが、それらがある特定の順で並べられており、これは自然や心の流れであって、また1巡して戻ってくるとされていると思います。この順が理解できずにいました。自然や心が、その付された意味に沿ったように動くのはまだわかるのですが、この6本の並び方の変化自体は結構不規則に見えますので。この6本の一組を1コードとして、6次元のオービフォルドを通して、このすすみ方の規則性を発見できないか・・? ・一枚の絵画の色んな位置、例えば4分割してのそれぞれの位置に描かれたもの同士の関係(和音に相当)と、一人の一連の絵画シリーズにおける、そのそれぞれの位置に描かれたものの流れ(旋律に相当)との関係を、オービフォルド上に考えていく。あるいは、一連の絵画におけるアイテムや形の変化と色彩の変化との関係ということでもよいですが。 ・鏡像と自己像が反転するまでの、心の様々な領域における流れの変化をオービフォルド上に考える。例えば、カウンセリングの1セッションでも、「私は嫌な事に目をつぶる。」という連想からすすんでも、終わりには、「怖くて、常に目をあけて見張っている」というような話になるなどの反転が起きたりしますが、その間の、語りや行動それぞれの、あるいはそれぞれを更にどのようにか細分化したものの流れを多くのメロディーの重なりとして、オービフォルド上にその流れを追ってみる。 ・構造論と発達論との関係(前者を和音、後者をメロディーのようにとらえて)をオービフォルド上に考えてみる。 ・・というようなことです。 |
ヘテロクロマティズムによって病者はどんな病理から自己を守っているか >ラカンの言うS<>aの、両項が、イマジネールなものに支配されてしまっていて、(??118) 小笠原晋也氏は、「精神の幾何学から精神のトポロジーへ」(「精神分裂病」imago 青土社)で、安永浩氏の言う自極と他極を無限遠方(いわゆる非固有点)においてつなげて精神病理を考察する試みをおこなっています(安永氏だと、自極―他極、という一直線上ですんだものを、この直線をぐるっとまわしてつなげるような試みか・・と)。そしていわゆる正常者ならびに神経症者においては「φ(無限遠方の非固有点)―<ファルスのBedeutung>―は、無限遠方に退き、見失われ、それがそのものとして体験の地平に出現することはありません」と述べています。他方精神病者では「「体験線」(安永氏の、自極―他極の線か。:水上)は、投射幾何学的な無限大の投射平面の上に描かれているのではなく、トポロジーに言う投射平面、すなあわち、「有限大」の投射平面の上に描かれていると考えてみてください」とあります。 後者は「ラカンの言うS<>aの、両項が、イマジネールなものに支配されてしまっていて・・」(?bP18)と私の述べた状況に対応するものでしょう。 更に小笠原氏は、後者の場合「先ほど(神経症、健常者の場合:水上)は無限遠方に退いていたBedeutung φとの踏破不能の距離はいまや廃絶され、このBedeutungは「手の届く」距離に迫ってきます。そして、このBedeutungφは「自極」と「他極」とのつなぎ目に位置していますから、Bedeutung φが体験の地平にあることが、すぐさま見て取れます―すなわち、「自極」からの侵入と「他極」からの侵入と、です。Bedeutungφは、片方からだけ侵入するかもしれませんし、また同時に両方から体系の地平を侵食することもできるはずです」と述べます。そして、「自極」からの侵入に対応する病理の代表として「オートマティズム・マンタル(精神自動症:水上)」、「他極」からのそれとして「妄想知覚」をあげています。 そう考えると、私が、ヘテロクロマティズムを「対立物の統合」として述べまた、 >この間(S<>a)に、転変がおきるものの、それを同一化させてしまわないように、極端に差異化する(=対立化させる)と同時に統合するようにしているということです。 と述べたところからすると、ヘテロクロマティズムは、かたや自分(自我)の後ろからやってくる「オートマティズム・マンタル」から自分を守り、自分の前面にある「妄想知覚」から自分を守る手段である、ということになるでしょう(極端な例を捏造するならば、たとえば顔の半分が赤い他者の顔、他の半分が緑の自分の顔の描画であった場合、赤い顔は妄想知覚から自分を守るものであり、緑の顔はオートマティズム・マンタルから自分を守るものである、というような)。確かに、ヘテロクロマティックに彩色された顔の像などは、仮面、邪眼からの避邪としての仮面、にも見えるものもあるように思われ、これは後者を傍証するかにも見えます。前者、―ヘテロクロマティズムはオートマティズム・マンタルから自分を守る手段でありえる―についてはどうでしょうか。中村研之氏のヘテロクロマティックに自画像を書き続ける事例(「症状寛解後に絵を描き続ける分裂病の1例」日本芸術療法学会誌 vol21 No1,1990)は、「自画像は鏡を見て、鉛筆で下描きし、彩色するときは鏡を見ないで即興的イメージで着色する」「絵を頭で描くのではなく手で描く」と言いますが、これを、オートマティズム・マンタルにまきこまれない為にそれを先取りして模してそれを支配しようとする手段、−といってその実すでにこの行為自身オートマティズム・マンタルにまきこまれているものとすべき要素を持っているかも知れませんがーと考えられないでしょうか。私の事例でも、「変な色だと思っているんでしょ?」と自覚しつつも、そのままその彩色をつづけたものー自覚しているならやめればいいのに何かに促されたようにそのまま続けている―がありましたが、これもオートマティズム・マンタルを先取りしてそこから防衛しようとしていたのでは、とも少し考えられるように思われます。 ヘテロクロマティズムは、いつもこの両極の精神病理からの自己防衛の手段か、一方のみからの防衛としてもありえるか、他方の防衛は、ヘテロクロマティズム以外の精神・生活領域で補われている、という相補性を見せる場合もありえるか、などはまだよくわかりません。 |