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野田政権における更迭の法則 / 水上雅敏
「犯す前にこれから犯すとは言わない」と言って更迭された田中氏。これが女性蔑視、沖縄蔑視であるのは当然ですが、マスコミまでもその理由で彼は更迭されたのだというところで済ますのは、少し政府への批判精神が足りないのではないでしょうか? 当たっているかは別として、本当は政府の本音をもらし、普天間基地移設をやりにくくさせたから更迭されたのでは、という方向からも考えてみるべきではないでしょうか。そうだとすると、女性蔑視だからと言ういかにも正義の仮面を悪用し政府自身の本音を隠蔽するための更迭であり、本音をあらわにしてしまった田中氏以上に悪どい体質が政府にあるということになってきます。

こう考えると野田政権における更迭に一定の法則があるように思えます。つまり、自分の政権への批判とも響きえる言葉(普天間基地移設は黙って犯すようなものである:対処の不適切さで政府は福島を「死のまち」(鉢呂氏)にしたのだ)をもらした者を、表向きはきれいな理由(女性蔑視だから:人として言うべき言葉ではないから)をつけて更迭する、というやりかた、です。

No.119 - 2011/12/01(Thu) 11:31:30

シェーンベルクのヘテロクロマティズムと12音技法 / 水上雅敏
作曲家のシェーンベルクは時にヘテロクロマティック(非現実的に彩色された)な絵を描いたようです。「赤いまなざし」(1910)や「緑の自画像」(1910)などにそれが見られます(後者については、私の手元には白黒の写真しかないので実際の色彩が分かりませんが多分緑がかっているのでしょう)。

ヘテロクロマティズムの背景構造としては私は、以前述べたことがあると思いますが、「自分から見た鏡像的他者と鏡像的他者から見た自分という”対立物の統合”」というのを考えています。換言すると、ラカンの言うS<>aの、両項が、イマジネールなものに支配されてしまっていて、この間に、転変がおきるものの、それを同一化させてしまわないように、極端に差異化する(=対立化させる)と同時に統合するようにしているということです。補色がヘテロクロマティズムを構成していることが多いこと、ヘテロクロマティズムを伴った絵には左右対称の像が多いこと、入れ子的な構成がときに見られること(向こうから見たこちらと、こちらから見た向こうが交互になっていることがこの入れ子性を結果させているのではないかと考えているのですが)、などからそのように考えたわけです。妄想型分裂病に多いとされますが、神経症者でもありえるし、絵の技巧的なスタイルとしてももちろんありえるでしょう。シェーンベルクに何らかの精神的変調があったかどうかは知りませんが(パラノイア(的?)として述べられた論文があったようにも覚えますが)、彼のへテロクロマティズムと作曲技法との間に何か対応が見られないか(負の意味でも正の意味でも)には興味があります。

音楽には詳しくなく、またシェーンベルクの音楽自体もほとんど聞いたことはないですが、「新音楽辞典」(音楽之友社)の「十二音音楽」の項には次のようにあります(一部抜粋)。

:「・・かれ(シェーンベルク)は1921年に十二音技法の考えに到達した。(中略)この技法では12の半音をある順序に配列した音の列が楽曲の基礎になっていて・・(中略)。この12の音は必ずはじめに決定された順序に従って現れ、同じ音がその途中でむたたび現れることが無い。こうすることにうよってある特定の音が強調され中心音としての位置を得ることがなくなり、組織的に無調性が得られる。また楽曲のすべての部分はこの音列に基づいて構成されているので楽曲全体は強く統一されるわけである。いっぽうにおいてこのような強い統一は単調に陥る恐れがあるので、多様性を得るために、音列にその本質を変えない限りにおいて変化が与えられる。その本質とは恩列の各音相互間の音程である。すなわち各音相互間の音程関係を変えることなしに音列は4つの異なる形をとる。第一はもちろんもとの形であり、第二はその逆行、すなわち最後の音から初めのほうへと逆に音をたどっていったもの。第三は反行形でこれはもとの音程の方向をすべて反対に(上行は下行、下行は上行)したもの、第四は反行形の逆行形である。なおこの4つの形はそれぞれ12の半音のどの音から始めることも可能であるから、ひとつの音列から結局48個の異なる形を作り出すことが出来、これにより12音音楽は多様性と統一を得ることができる」:


上記の4つの形(もとの形?@に対する、?Aその逆、?Bいわば裏、?Cいわば対偶)は、「もとの形とその対立物―と言っても色んな角度からの対立物ですがーとの統合」としてみることも出来そうで、その意味では、ヘテロクロマティズムと同じ構造をシェアしているようにも見えます。12音階技法の考えにはシェーンベルクは1921年に到達したとのことで、上記した絵の1910年とはずれますが、彼は1908年以来、無調性の手法を探求していたとのことで、その意味ではやはりヘテロクロマティズムと、無調性から12音階技法の流れは無関係には思えません。

ちなみに、12音階技法と言うと、とても自由にも思えますが、上記の解説からすると、他方である意味不自由で、最初思いついた音列の様々なバージョンをめぐるに軌道が限られているもののように(・・というのは私の理解に過ぎません。誤解しているかも知れません)も思われます。そういう意味では、欲望の流れにまかせての予期しない変化や弁証法には開かれていないようにも思われ、この意味でも、ヘテロクロマティズムに仮説した、S<>aの閉鎖性と符合しているようにも思えます。彼の音楽については、あくまで素人として述べたものなので、実はとても開かれたものなのかも知れませんが・・。

それはともかく、彼の絵と作曲が、互いに逆で補足的な関係にあるのか、或いは、同一の関係にあるのか、というのも確認したいところですが、そもそもそれぞれ自体が「対立物の統合」で成り立っているとすると、これ(逆なのか正なのか)も見がたい感じもします。また、絵と作曲の両方が協力して欲望の自由な動きを制限しているという可能性もありえるでしょう。そうなると今度は、彼はどのように言葉を語っていたか(言葉までこの制限にまきこまれていたか、あるいは、言葉は欲望にそって自由に語れる人であったのかーつまり絵と作曲は彼の不自由な心性によるものでなく全く意図的な技法であったのかー)、ということにも興味が出てきます。

No.118 - 2011/12/01(Thu) 04:46:13

昔からの友人はなぜ若く見えるか / 水上雅敏
昔からの友人同士では、年取らないね、変わらないね、という会話がよく交わされます。多分に遠慮しているのだとは思いますが、私なども禿げは時に指摘されてもやはり言われます。私からも相手は年を取っていないように見えることが往々にあります。多分、知らない人から見ると、それなりに年のいった人間に見えるとは思うのですが。

赤子の研究で、最初は、サルの顔についても、こまかく視線を配って見ているが(サルの個々の固体識別が出来るほど・・ということでしょうか?)、そのうちに、それほどの視線の動きは人間の顔に対してのみに限られ(人間の顔については更により細かく分節するようになるということだったかどうか忘れましたが)、サルの顔についてはおろそかになっていく、という研究があるのはもうよく知られていることだと思います。

そこから考えましたが、親しい人間については、―警戒心も薄れているし認知のエコノミーから―、もうよく知っている顔の部分への視線の配分やその部分についての考察はおろそかにされ、今、変化していて読み取らねばならない表情や顔の部分へと注意を集中しようとするから、年をとったことにあまり気づかれない(サルの顔に対する細かな認知は低下するように)ということがあるのではないでしょうか。

実験方法ですが、私の古くからの友人に、私の写真と(或いは表情も表現できるという意味では動画のほうがいいでしょうか?)、彼にとっては未知な私と同じくらいの年で禿げた人の写真や動画を提示し、その折の彼の視線の動きを記録するというのはどうでしょうか? 禿げ(なり、高齢化を示す何かの顔の部分)に、目の行く度合いを確かめて、私の禿げより、未知の人の禿に視線がより行っている、ということで、以上の仮説の傍証くらいはできると思います。イグノーベル賞は無理でしょうか??

No.117 - 2011/11/27(Sun) 13:15:27

内田氏の教育論には象徴的父が欠如している / 水上雅敏
内田樹氏、「平松さんの支援集会で話したこと」ttp://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php
より抜粋:

「学校教育は、次世代の公民を育てるためにある (中略)同じことを何度も言いますけど、学校教育は次世代の公民を育てるためのものです。われわれの社会が存続するためには、まっとうな公民が不可欠である。から学校教育がある。教育の受益者は子供自身じゃない。社会そのものが受益者なんです。一生懸命子供が勉強してくれて、市民的に成熟してくれると、それで得をするのは社会全体なんです。社会全体がそれで救われる。僕らが助かり、子孫が助かり、共同体が助かる。だから、子供たちに向かっては「学校に通って、きちんと勉強して、市民的成熟を遂げてください」と強く、強く要請しなければならない。子供たちが学校の教育の主人公であるのではありません。よくそういう言い方がされますけれど、それは違います。子供たちが自分のハートや直感を信じて、進むべき道を自己決定をしていくということについてはもちろん子供たちが教育の主人公です。でも、彼らがそのハートや直感を信じて、自分の潜在可能性を開花しなければならないのは、そうすると彼らに個人的に「いいこと」があるからではありません。子供たちが生きる知恵を高め、生きる力を強めてくれると、社会全体にとって「いいこと」があるからなんです。子供たちが教育を受けるのはもともとは公的な要請です。だから教育は義務なんです。「まっとうな大人」が一定数いないと世の中はもたない。だから、教育を受けさせる。」

内田氏の論、これまで納得いくところいかぬところと色々ありましたが、今回の論については納得行かないところが多いです(上はその一部)。意外とファシストな印象があります。子どもたちを社会のために使おうというような(他者の要求へ応じさせようというポジションにおられるような)。どこであったか、内田氏は、ラカンの言う象徴的父・父の名、と想像的父の区別をうまくされておられず、想像的父を象徴的父ととり違えておられるのではと思った覚えがありますが、―それがどこだったか見出しえていませんが、―この論はそれと同じ心性をひきずっているように思われます。「公」という想像的父を抜け切って、象徴的父こそを視野に入れるということがなされていないな、という感想を持ちます。ラカンが批判するところの「小文字の他者に対する利他性」を賞揚しているようであるとも言えるでしょう。内田氏は、維新の会が教育を「国際競争に勝つ」ためとしているのを批判されておられるようですが、対象が「公のため」と変わっただけで、子どもたちを何かに従属させようとする心性には変わりがありません(もちろん私も維新の会の教育論には反対ですが)。

教育は子供がもっともその象徴界を育む機会、=自分をもっとも表現し、謎を見出し探り、かつては無であったところに何かを見出したり作り出したり、いろいろやってくる情報に批判精神を向けだまされないようにする、・・というような知を育む機会なのではないでしょうか・・。別にラカンがどうこう言わずとも、子どもも一人の人として尊重し、人をなにかに「従属させる」「使う」というような支配心はおかしい、という自覚があればこういうことはすぐにでも思いつけ得ることです。やはり教育の受益者は子供自身であるべきだと思います。

No.116 - 2011/11/27(Sun) 03:22:21

定義の逆転、超自我内容の逆転 / 水上雅敏
最近の若い人の一部?の言葉の定義が納得いきません。いや、それほど若い世代でなくとも、以下のような定義で言葉を使う人にも時々出会いますが・・。

「他人を信頼する」=その人が自分を全て受け入れてくれる、と思えること。(私の知る限りもともとは、逆に、「その他者の全てを受け入れること(自分を裏切っても、裏切られた、などと思わない)」)

「すなお」=わがままでも思ったことをすぐに口にできること。(私の知る限りもともとは、「わがままを言わず、従順に従えること」(これがいいかどうかは別として。))。*十数年前或る女性アイドルがこのたぐいの定義を言ったので、冗談か、その人だけだろう、と思っていたのですが、意外とこの定義で考えている人は多いようです。

そしてまたこのように振舞えない自分を否定的に考えるという人が多いように思います。私としては、できないほうがいい、できなくて当然・・と思うのですが。定義が逆転している、また、超自我の内容が逆転している・・とでもいってもいいかと思う現象ですね。

定義の逆転というわけではないですが、超自我の逆転というところでいうと、「私が相手を親友と考えているなら、相手に全てを話せないといけない」、と思い、「最も深刻な悩みをー実は自分の努力でとけるとわかっているようなものさえーあえて相談すべき」、と考えそれが出来なくて自分を否定的にとらえているという人も多いようです。

いずれも女性から聞くことが多いことですが、こうなってしまう=言葉の定義さえ逆転させてしまう構造を少し考えてみたいようにも思います。

No.115 - 2011/11/26(Sat) 15:50:17

BZ反応 / 水上雅敏
部活リケジョ、「化学」大発見、米誌に掲載へttp://www.yomiuri.co.jp/science/news/20111117-OYT1T00731.
2011年11月17日(木)14:32 Yomiuri Online

(又、ttp://academy.fureai.or.jp/showcase/09/pdf/HP-019_showcase2010.pdf#search='bz反応の振動はどのように止まるのか' )

すでに有名なニュースですが、素人的に考えると、ある角度では変化していないように見えても、別の角度からみると変化し続けている、という時期がある、ということなのでしょうか?

一見死んだ人が生き返るとか、ハイギョが活動を再開するとか、冷凍金魚が解凍すると再び泳ぎだす、というのも似たところがあるのでしょうか?

治療回復期への転換点とか、分裂病のシュープなどと言っても、ある角度から見ての見栄えがそうだというだけであり、変化自体は持続しているのだろう、と改めて考えさせられます。

ちなみに黄色におさまったというのも少し面白いですね。赤青の反復後なら紫でもよさそうですが、その補色に収まるとは。さらにどうにかすると、紫が表現されてくる、ということはないのでしょうか・・。

No.114 - 2011/11/26(Sat) 13:39:56

無意識的なアナグラムがどこまで文的でありえるか / 水上雅敏
先日の「ナニコレ珍百景」で、縦書きの日記の最下段の文字を横に読むと、「ルパンのたいほ」となっていた、というのがありました。まあ、偶然なのでしょうが、アナグラムとしてよくとりあげられる「いろは歌」の最下段の「咎なくて死す」が思い出されました。

偶然? or無意識の仕業でしょうか?? その日記を書いた子は、普段から、縦書き日記を横に読んで暇をつぶしている、ということでしたので、そのくせを無意識が利用したということなのでしょうか??

それはともかく、「はたして「文」的なアナグラムが無意識的に表出されえるか」という疑問が出てきました。

語るうちに、去勢を連想させる語りに差し掛かった時に語りを止めて、汚言症のように、「おまんこ」とか一塊の名詞がチック的に出るとか、抑圧の回帰としての「ひとまとまり」の症状が反復したり、しばらく新たな人格が作り上げられて抑圧された語りがそこにおいてしばらく舞い戻るとか、というのはわかりますが、「とがなくてしす」などのように、きちんとした文章の音声がその文における並びどおりに分散されて意識的な語りの中に或る区間を置いて出てきえるものか疑問です。あたかもきちんと語りえる2重の人格が、あるいは2重の欲望のラインが、同時存在していることを考えないといけないような。確かに、カウンセリングなどで語っていても、「こう語っていても、別のところで別のことを語っているシーンが思い浮かんでいるのです」と言う人などもいますが、この場合は、2重の語りは両方とも意識され多少とも意識の調整を交互に受けて進められているのだと思われます。しかし、件のアナグラム(を含めた文)のような場合は、意識はあくまで今意識的に語っている側のみにあって、アナグラムを作り出す側には無いように思えます。「いや、一瞬意識の調整を受けてきちんとした文を連鎖させつつ、すぐにその作業をした記憶は無意識に落とされるのだ」といわれれば、そうかとは思いますが、端的になかなか難しいだろうな、と思うのです。また、そうする(あえてアナグラム的に、意識的語りの中に音声を配分する)無意識の意図は何なのだろう、配分せずとも、ひとまとまりに出してしまえばいいではないか、それでは満足しない場合とはどういうものか、とも思うのです。

ここで、文「的」と今まで述べたものを少しまとめると次のようになるでしょう。

1:主語―述語を持ち(あるいは日本語のように潜在的にでも)、まさに通常「文」と言うもの。語が振り返られつつ、さらなる文へと続こうとする指向性を持っているもの。あるいは主語―述語はそろっていなくとも、助詞や接続詞を持っていてそういう指向性を持つもの。例えば、「ルパンのたいほ」と言っても、そのあとに、「それはうそ」とか、色々文章が続く指向性をこの句を発した本人において秘めているもの。

2:一見、助詞や接続詞や、主語―述語はそろっているようであっても、それを発した本人において、それだけで、まるで名詞のように「ひとかたまり」としてできるだけ完結しようとさせる傾向を持っているもの(多少とも、この言い回しの中で、遡及的に振り返って意味を発生させようとする動きはあったとしても、更なる文を発生させることは中断されているもの)。

2であれば、「ひとかたまり」として(=アナグラム的に音声は分散されないままで)、失言や症状のようなかたちで、語りの中にさしはさまれることは不可能ではないと思います。少し長い言い回し(かたちの上では助詞・接続詞を含めているような)による汚言症というものがあるのか知りませんが、考えられないことはないでしょう。また、通常は無意識に抑圧されているものだから、圧縮の作業を受けて、アナグラムの文はその文が単に我々の意識世界において通常意味してるもののみを意味しているというのみでなく、その音声や、音声相互の配分自体も何か他の無意識の要素を表現しているとか(だからこそ音声の配分は崩さないままの文として現れえる)、去勢の穴を埋めるのに貢献している、というものになっていると思います。

1が無意識的に表出されたアナグラムでありえるとしたら次のようなことが考え得るでしょうか。

・意識の語りと、アナグラムの文を作る一見欲望の2つのラインがあるようだが、実は更に抑圧された一つの欲望のラインがあって、これらの2つの欲望のラインによって、それが抑圧されつつ表現されようとされている、という場合。

2が、アナグラムとして、つまり、うまく或る文の音声の順序どおりに、意識的な語りの諸所に配分されるとしたら次のようなことが考えられるでしょうか。

・アナグラムの文をひとまとまりに出すのでなく、それを構成する各音声を、順序どおりにしかも意識の語りの或る区間を隔てて出さねばならない何らかの事情がある場合。しかし、芸術的な技法としてまずアナグラムとなる文を作ってそれを隠すようにその各音声間に別の文を入れ込む、というのはあるようですが、そのようにまでしなければならない必然性がある無意識の構成とはどういうものか、・・考えさせられます。

No.113 - 2011/11/26(Sat) 12:46:49

地位協定見直しは交通事故だけ? / 水上雅敏
昨日?のNHK?であったか、地位協定について、玄葉氏であったか、民間米国人(軍属)が起こした交通事故について、日本で裁判を行うことができるよう日米地位協定が見直され日米が合意した、という旨を話していました。聞き落としかもしれませんが、「交通事故について」と限られていたように覚えます。しかし、その後の同番組、またその後の多くのニュースについて、「事件・事故について」と範囲が、曖昧にしか伝えられていないようでした。本当にその範囲にまで広げられているならいいのですが・・・。

NHK News Webでは次のようにありました。
飲酒事故 地位協定運用見直し検討ttp://www3.nhk.or.jp/news/html/20111122/t10014116511000.html
「11月22日 4時14分
在日アメリカ軍の兵士などが公的な行事で酒を飲んだあとに起こした交通事故を、現在、「公務中」の事故として、アメリカに優先裁判権を認めていることについて、日米両政府は、公務中とは認めない方向で日米地位協定の運用を見直すことを検討しており、近く日米合同委員会を開いて、最終的な合意を目指すことになりました。」

やはり交通事故(しかもかなり特殊な状況に限られた)ものに限られるのでしょうか? あるいはこれは22日のニュースだから、それ以上の進展はあったのでしょうか。
あるいは、こういう交通事故についてしか見直されていないのに、事故・事件と範囲を広めて述べて、いかにも進展があったかのように政府や報道は見せているだけでしょうか?

朝日新聞(11月25日)では、「公務中の犯罪」に適用される旨述べていますが(公務外では、米軍人・軍属による犯罪の第1次裁判権についてはもともと日本側にあると規定されているらしい)・・犯罪全般と受けとっていいものかどうか。

はっきりしている問題は、「合意に基づいて日本側が裁判権の行使を要請しても、米側が同意するかどうかは「好意的考慮」という米側の裁量になる」(朝日新聞11月25日)という米側の高飛車な態度は残っているということ。

No.112 - 2011/11/25(Fri) 17:51:50

除染というカモフラージュ / 水上雅敏
1mSv以上は除染という一見いさましい表明は、移住に補償をしないことのカモフラージュにも思えてきました。

〜mSv以下は除染、それ以上は移住、という表明があるべきだと思います。

No.111 - 2011/11/12(Sat) 01:05:56

デジャヴュ / 水上雅敏
TPP。その交渉で何をどういうか、という具体性の無さ。こういう具体性や、その先の理念の無さって、思い返してみると、「政権交代!」と言って、では交代後にどうするかの理念と具体性がなかったあのころの民主党のありかたと同じように思えてきました。
No.110 - 2011/11/11(Fri) 02:56:07

道州制 / 水上雅敏
 長い目で見た話ですが、道州制のほうがいいのかなと最近思い始めました。
この話聞いたのが、たまたま私は小泉さんのころだったから、中央集権に近づきそうでいやだったのですが・・。
 しかし、道州制にして、山口県もより金の在る県とくっついて、上関などへももっとお金の流れるようにして、原発交付金に上関が頼らないようにする、という方策を考えると、道州制もありか、と思えてきました。どうせ上関原発の電力は広島のためにあるようなものだし・・・(という話は、私が「山口は少なくとも50年前から町もそんなに明るく変わっているわけではないし何の電力のための原発の必要性があるのか」とつぶやいたおり、知人から、原子力という言葉を嫌悪して自らの県には原発を作らない広島のためにあるのだ、と言っていたことからわかったわけですが・・うそか本当かわかりませんが・・)。「地域主権」というのがどうも都会のマスメディアからは理想化されがちですが、県単位だと、実は国の目を盗んでろくなことをやっていないこともあるし・・(例えば、山口県庁は2008年に、税金の不正流用だったか?をやっていて第三者機関も不正はないとしていたのですがーそもそも第三者機関と言っても身内でありそれが機能するはずもないのですが―、国が不正をあばいた、ということもあったりで、むしろ国の目がとどくほうが住民にはよかったりもするわけです)。
 だから道州制くらいのほうがいいのかな、・・と。

No.109 - 2011/11/11(Fri) 02:48:02

どこの原発でも、近隣地域には即刻、移住のための補償を! / 水上雅敏
>万が一、他の市町村ががれきを受け入れる場合、自治体は近隣の住民に移住のための補償、健康被害その他の被害(がれきや放射線による、あるいは、風評被害)にあった場合の補償を確約すべきだと思います。

よく考えると、そういうところに限らず、今後原発を稼動させ続ける地域、原発を新しく作る地域も同じように、そこを避けるために今すぐ移住したいという人に対しても、お金(移住費用、就職活動のための費用、しばらくの生活費など)を出すべきだと思いますね。その他の、上記のような補償も当然のこととして。

上関町も今後原発を作るならそうやる必要ありますね。

No.108 - 2011/11/11(Fri) 02:27:50

TPP反対 / id
先日の銀座のTPP反対抗議集会では、日の丸もあるし、サヨクもいるような興味深い集まりでした。
この問題ではイデオロギーを超えた反対が多いようです。

TPPは
菅直人がアメリカに命じられて浜岡原発を停止した構造と同じ。
野田はオバマの選挙対策をやっているだけ。
どうせオバマは落ちるだろうから負け馬に協力するバカヤロウだ!!

No.107 - 2011/11/10(Thu) 13:56:03

自分の空想像と戦っているとしか思えない 與那覇潤氏 / 水上雅敏
以下ttp://agora-web.jp/archives/1401673.html (by與那覇潤氏)より抜粋(『』内)

『江戸時代が壊れるとき:脱原発から反TPPまで

福島第一原発事故の先行きが不透明なまま、争論好みの人々のテーマはなし崩し的に「原子力ムラ」から「TPP」(環太平洋連携協定)へと移ったように見えます。あくまでも個人的な見聞の範囲ですが、宮台真司氏や内田樹氏、中沢新一氏など、「脱原発」に熱心な論者ほど「反TPP」の立場をとる傾きがあるようです。おそらくそこには、「アメリカ主導の原子力行政もTPPも、ともに『人間を疎外してきた近代化』や『行き過ぎたグローバル化』の象徴であり、明治以来それらの道をひた走ってきたわれわれも、昨今の混乱を前に立ち止まって、むしろ『人々が互いに思いやる地域の温もり』や『自然と共生してきた日本の伝統的価値観』を取り戻すべきである」といった、(ある意味で震災前から)ポピュラーな歴史観があるのでしょう。』

→・・って勝手に自分の中で作り上げた反原発派、反TPP派像を作り上げ、その像に反発を挑んでいるだけの文章。だからあとは空虚な語り、ひねりにひねった妄想的な構築にしかなっていませんね。

池田信夫氏にしろ、面白いなと最近思うのは、原発推進派の文章のほうが抽象論でおわりがちであること。人格攻撃か、勝手に相手の立場に思想を見て(それがあたっているかどうかの検討もせず)思想攻撃か、詭弁か(しかも無理にそうしようとするから自己矛盾がしばしば見出される)で終わりがち。結局、そういうことしかいえないほど、原発推進には根拠が無いのかな、と思われてきます。

『しかるに、声高に「脱原発」を口にする人々(の一部)が、同時に「福島の事故は(放射能が怖いから)福島内部で処理しろ」とばかりに、自らの居住地域への瓦礫受け入れを拒む姿は、日本社会がいまだ、自らの「内なる江戸時代」を克服していないことを示しています』

→「「福島の事故は(放射能が怖いから)福島内部で処理しろ」とばかりに」、これが既に妄想的。東電、政府が合理的な処置をしろ、と言いたいだけ。

『このように、西洋近代ではなく日本近世=江戸時代という文脈から考えるかぎり、本来あるべき組み合わせは「江戸時代の継承=原発(交付金)容認+TPP拒否」ないし「江戸時代との断絶=原発停止+TPP加盟」の二極になるはずです。』

→「原発停止+TPP拒否」は自然なこと。「原発=その地域の人を犠牲にしていること」という考えが氏自身に欠落しているから、こんな組み合わせを考えるのでは??

『既存の「職」を規制政策(たとえば鎖国)によって保護する代わりに、無職者は劣等者として排除する。「村」や「家」の現状を理想の秩序として讃える反面、属する共同体を持たないものは見捨てる』

→これってまさに、TPP推進論者が農家を見捨てていることのように思えてくるのですが・・。むしろ、TPPという枠組み自体を鎖国として考えてみるとどうだろう、とふと思いました。はいらない日本を、アメリカは劣等者として排除する・・。

No.106 - 2011/11/10(Thu) 04:12:33

除染にかかる費用は / 水上雅敏
朝日新聞 11月9日朝刊に次のようにありました。(以下『』の部分)
『20キロ圏に期間困難地域』

→であればそこに瓦礫を持ってくればどうか?

『原発がある福島県大熊町は、比較的放射線量の低い町内の地域にニュータウンを建設し、将来の完全帰還までの数十年を過ごす構想を掲げる』
→数十年過ごして、もとに戻りたい人がどれほどいるでしょうか? そこを移住の地にして、除染(効くならよいですが)や帰還のための費用を補償に使えばいいのに。

除染(汚染が強くて移染にしかならないような場合の)、って何かやっているように見せて、策が無いのを(あるいは移住を勧めるのも批判が怖くてできないのを)誤魔化しているパニック的な行動にしか見えません。あるいは、このまま無駄であっても長年やり続ければ、今だけでも批判をかわせれば、あとはもう自分は退職してるころだからかまわない、とか、政権交代しているからかまわない、とか思っている人が政府に多いのでしょうか。

そんな人間の無駄遣いで、国民の良心から出た、義捐金を相CENSOREDほしくはありません。

「除染の困難そうな地域で除染をしばらく試みる費用+他の市町村に廃棄場所を用意し瓦礫をそこに廃棄するのにかかる費用」またそれに対する「移住をメインに考えた場合の補償にかかる費用」、これら両方が、どのようなものか、難しいかもしれませんが、大体のところを政府(か誰か)に計算して示して欲しいものです。

万が一、他の市町村ががれきを受け入れる場合、自治体は近隣の住民に移住のための補償、健康被害その他の被害(がれきや放射線による、あるいは、風評被害)にあった場合の補償を確約すべきだと思います。

No.105 - 2011/11/10(Thu) 04:05:42

犠牲者 / 水上雅敏
「ライヴァル全員が欲する対象物に関しては意見が一致することなどあり得ませんが、これに反し、全員が憎んでいる犠牲者に対してなら容易に一致が見出せるのです」。

なかなか興味深い言葉ですね。

どうなんだろう、本当にそうかどうか、なぜそうなのか、など疑問がわいてきました。

逆に、一致が見出された対象が犠牲者である、と言えないかどうか・・欲される意味でも憎まれる意味でも(ひとりだけ欲されぬきんでて尊敬された人と言うのは、やはりそれなりに疎外された犠牲者ではないかというような)?

No.104 - 2011/11/10(Thu) 03:20:31

菅直人は犯罪者である / id
セミネール通信を読みました。
スマートな体裁ですね。

菅直人については、スケープゴートではなく、
現地視察を強行したことでベントを遅らせた。放射能汚染の予測があったにも関わらず住民を避難させずに被曝させた。無駄な組織を多数作り復興対策の道筋を遅らせた等の犯罪者であり、無能で有害な指導者の排除の過程だと考えます。

菅直人 無能で有害な指揮官がなぜ居座るのか?

日本人と「日本病」について 
岸田先生と山本七平さんの対談

日本的集団では、リーダーは下の者たちに推されてリーダーになるんで、下の者たちの自発的な支持と協力に支えられています。

だから、一方的に強制的な命令を下したりしない。
みんなの意見をよく聞く。
上下、心を一にしてというのが理想です。

しかし、近代的軍隊ではそうはゆかない。
上官は命令権を持ち、部下は服従しなければならない。

ヨーロッパでは昔から集団というものはそういうものだったから、そのままその組織原理で近代的軍隊をつくることに無理がなかった。

集団においていちばん問題になるのは、無能なリーダーをどのようにして排除するかということです。

日本的集団では、無能なリーダーぱ下の者たちの人望を失い、その支持と協力が得られなくなって、おのずと排除されるという形をとる。
ヨーロッパ的集団では、業績の評価に基づいて排除される。

日本には業績の評価に基づいて無能な者を排除するという伝統がもともとない。

無能だということで首になった大学教授は一人もいないし、日清日露以来、太平洋戦争に至るまで、日本軍の将軍で作戦指導のまずさをはっきりと糾弾され、何らかの不名誉な処遇をされた者は一人もいない。

乃木将軍なんか、あちらだったら、軍法会議ものです。
それが日本では神社に祀られる。

伝統というものは、たやすく変えられるものではありませんから、これはある意味では仕方がなかったかもしれません。
しかし、軍隊では部下が上官を忌避することはできませんから、ここに悲劇が起こったのです。

つまり、日本軍では、部下が上官の命令に服従するというヨーロッパ的組織原理を取り入れて、無能なリーダーを排除する日本的方法を塞ぎながら、業績の評価によって無能なリーダーを排除するヨーロッパ的方法は取り入れられなかったわけです。

日本軍においては、だから、無能な司令官や参謀が続出したのは必然的だったわけです。

インパール作戦の牟田口中将なんかは、どなり散らすしか能がなく、無能で卑劣な将軍の最たる者でしたが、ああいう男が排除されず、ビルマ第十五軍の司令官として強大な権力を持ち、八万の日本軍兵士をムダ死にさせる結果になったところに、日本軍の構造的欠陥がはっきりと現われています。

日本的集団は軍隊向きじゃないんです。

もし牟田口が店員を五、六人使っている個人商店の跡取り息子で、親父が死んで牟田口商店を継いだとすれば、店員たちに馬鹿にされ、嫌われ、逃げ出されて、店はつぶれたでしょう。

あるいは、彼に妹がいたなら、その妹が有能な店員と結婚して、牟田口商店をやってゆくということになったでしょう。
商売の世界なら当然脱落する彼のような男を排除するシステムが日本軍にはなかったということです。

【引用元:日本人と日本病について/組織と共同体/P158〜】

No.103 - 2011/11/10(Thu) 00:26:21

「PTSD恐怖症」を利用したファシズム / 水上雅敏
「放射線を心配しすぎるとPTSDになりますよ。子供もなりますよ」と言うほうが、PTSD恐怖症を作っていないか。それこそが二次被害ですね。PTSD恐怖症を植え付け、真に恐れるべきもの・解決すべきもの(放射線の被害)から、目をそらさせ、東電・政府の片棒をかついでいるとしか思えません。ファシズムの現代的な手法と言えるでしょうか。

(PTSD恐怖症:今作った私の造語で、厳密に精神分析的な恐怖症構造にあるものというよりは現象をなぞったものにすぎませんが・・)

No.102 - 2011/11/06(Sun) 12:13:45

フジタ先生 / 水上雅敏
レスありがとうございます。やはりそうですよね。あまりこういう考えが聞かれないものだから、何か私が見逃しているのか頓珍漢かと思い多少びくびくしつつ書き込んだのですが・・。政府が多少批判をあびても自分で責任をとって合理的な方策をとろうとしないから、リーダーシップなどとうそぶいてもピントが外れてくるのだと思います。
No.101 - 2011/11/04(Fri) 23:48:05

水上さんのご意見に賛成です / フジタ [関東]
秘密裏に着々と行なわれている誤った事後処理。汚染されたがれきを汚染されていない地域へと運ぶのではなく、汚染された地域の中心部へと集めるべきであると考えます。日本人的思考法の非論理性を改めて再確認すること頻りです。この国は論理ではなく情が支配して物事が進む国なんだなとつくづく感じます。
No.100 - 2011/11/04(Fri) 17:49:31

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