「放射線量、正確には発表しません。国民を不安にさせないために。」 「たばこを700円にします。税収には期待しません。国民の健康のためです。」 「米国産牛を輸入します。日本の農産物の風評被害をなくすためです。」 「あなたのためだから」と言って、実は自分の欲望を遂げようとする、というのが政府の最近のスタイルのようですね。 |
下記、米国産牛の輸入制限緩和の件 >「日本の農産品に対する風評被害の除去を各国に訴えるためにも必要だと判断した。」 日本側「米国牛食べると狂牛病になる危険がある、というのは日本国民が米国に為した風評被害だと認めて輸入しますよ。」、米国側「そうであれば、日本の汚染された農産物も買いますよ。」という密約があったのではないかと疑わざるを得ません。 |
以下ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_teiso.html9.より抜粋: 国際司法裁判所への提訴の提案 1.我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案しましたが、同年10月、韓国はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。: Wikipedeia「国際司法裁判所」によると、所長は小和田氏という日本人であり、裁判官は小和田氏含めて15人ですが、韓国人はいないようです。まあ、それなら韓国も受け入れないかな、と思いますが。以上のような裁判所の現状、分かっていませんでした。広く知られていることなのでしょうか? 個人的にはどちらが正しいのか分かっていませんが、こういう現状も国民に明らかにして考えさせないと(私の無知に過ぎないのかも知れませんが)、平等な議論は出来ないと思います。 |
これが起きるのではないかな、と思っていましたがやはり。 以下読売新聞より抜粋: 米国産牛の輸入制限緩和へ…月齢30か月以下に 制限の緩和は、米国の要望が強いことに加え、東京電力福島第一原子力発電所事故を受けた日本の農産品に対する風評被害の除去を各国に訴えるためにも必要だと判断した。近く関係省庁が具体的内容を決め、内閣府の食品安全委員会に諮問する。(中略)政府は今後、国民の意見を聞く「パブリックコメント」を行い、安全委に諮問する。: 政府は国民を殺したいんだ、としか思えません。 しかも「風評被害の除去を各国に訴えるため」というきれいごとで飾るという姑息さ。パブリックコメント是非提出したいものですが(メールで送れるみたいですね)、こういうのどこまで聞かれるものなのか、やらせはないのか・・・。 |
興味深い記事。以下 ttp://japanfocus.org/-Tomomi-Yamaguchi/3614 この中で紹介されている「日本時事評論」、上関の原発推進派であるとともにアンチ・フェミニズムなんですね。まあ結びつきやすいのかなとは思っていましたが・・藤沢和希氏が「男は黙って原発・・」などとも言っていましたから。 さらに調べると、日本時事評論は新生仏教教団(本部は山口)という新興宗教の機関紙のようです。更に保守系の政治家とは結構つながりがあるようです。 以下、ttp://www009.upp.so-net.ne.jp/mariko-m/7women_Backlash.htm より抜粋: 同紙は、新生佛教教団が今春、石原慎太郎、安倍晋三、西村真悟の3政治家を山口に招き4000人規模の講演会を主催したことを大きく報じている。 『日本時事評論』の見出しには、こんな表現が並ぶ。 「家族尊重の民法改正こそ必要―『夫婦別姓』は時代逆行の愚策、自民党の良識が救国の砦」 「男女共同参画―社会破壊の毒に気付け、規範や秩序を否定し家族解体を促進」 「“犯罪”先進国スウェーデンに学べ―家族崩壊こそが激増の最大要因!!」 「男女共同参画は犯罪増加策」「ジェンダーフリー教育に『ノー』」。: 日本時事評論社がどれほど力のあるものか分かりませんが、原発推進派にはこのような考えを持つ人々や団体も紛れ込んでいるということは留意しておくべきことでしょう。 この評論社の人は、上関の過疎化に悩んでいるようで、だから原発推進となっているようですが、いまどき原発推進し、アンチフェミニストを唱える土地に若者が来るはずがありません。原発反対の村、再生可能エネルギー実験の町、とでもアピールすれば来るかも知れませんが。 |
ウォール街占拠、個人的には、なぜ今? 今である必然性は?・・とかよくわかっていません。15日、東京でも、Occupy Tokyoあるようですね。個人的には、山口県の上関でやってほしい。この期に及んで原発推進派の人が町長に選ばれ、県知事も原発推進も反対も言わず、国任せで無責任・・。東京だと、ただ騒いでるだけ、と思われただけで終わらないかな、という懸念もありますが、田舎だと、随分な力になると思いますよ。原発の件に限らず。違った意見もあるんだ! そういうことを主張してもいいんだ! と、住民に見れるだけでも保守的な地域でほどインパクトあると思います。 |
ttp://www.lacan.com/thesymptom/?page_id=1476 いろいろな意味で気になる映像。 |
こういう契約書自体が何かの法に抵触しないのでしょうか? 東電はこの契約書を出してないと言っていますが、では下請け会社がこういう契約書を出すメリットが下請け会社にとって何かあるのでしょうか?? 東電から、下請け会社が出した形で出せと告げたとか(出さないと下請けさせないなどと言って?)? |
ドイツZDFテレビ「福島原発労働者の実態」 ttp://www.youtube.com/watch?v=aAE-QBmC1VA |
年間1〜20ミリシーベルトに緩和…放射線審案 読売新聞 10月6日(木)12時10分配信 国内の被曝(ひばく)線量の基準などを検討する文部科学省の放射線審議会の基本部会は6日、東京電力福島第一原子力発電所事故で放射性物質が拡散した状況下の一般住民の被曝線量について、「年間1〜20ミリ・シーベルトの範囲で可能な限り低い値を段階的に設定する」とする見解案をまとめた。 国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年の勧告を国内にも適用した。 一般住民の平常時の被曝線量限度は、年間1ミリ・シーベルトとされている。しかし、同部会は放射性物質の汚染が広がる現状を線源が計画的に管理されていない「現存被ばく状況」と判断、基準を緩和して「年間1〜20ミリ・シーベルト」のICRP勧告を国内に導入するかどうか検討していた。 見解案は「汚染された土地からの強制移住や、食物摂取制限、過度の防護方策を課して短期間に年間1ミリ・シーベルト以下の線量に低減することは適切ではない」と指摘。被曝による害と、経済的、社会的便益とのバランスを考慮して計画的に線量低減を達成するためには、ICRPの勧告の考え方を取り入れ、段階的に対応することが妥当だとした。 ::::::::::::::::::::::::::: 「同部会は放射性物質の汚染が広がる現状を線源が計画的に管理されていない「現存被ばく状況」と判断」→では、状況が落ち着いてきたからと言って、避難準備区域の解除をしたのはなんだったのか? 矛盾してます。 「国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年の勧告を国内にも適用した。」→なぜ2009の基準を使わないのか。つまり、Publication 111(ICRP、2009) の第50節。使ったとしても、「年間1〜20ミリ・シーベルトの範囲で可能な限り低い値」は誤訳。the lower part of the 1-20 mSv/year bandは1―20mSv/年帯域のより低い部分、つまりはっきりと「1−10」。Publication 103(ICRP、2007)で勧告されていた1−20の前半部分から目標値を選べ、ということ。たしかにPublication111でも「1−20」 という選択範囲も勧告されている(第48節)が、これは日常的に住民に警戒が必要だがそこに住むことが住民と社会全体に利益がある場合として述べられたものであり、いわば命・健康を測りにかけての「仕方なく」の許容範囲でしかない。 「被曝による害と、経済的、社会的便益とのバランスを考慮して」→ICRPも確かにこういうことを言っているが、こんなところだけICRPが言っていることに忠実になって、実は、経済と社会の都合のために、住民の命を犠牲にしていることに気づくべきである。 一方では、いかにも状況が良くなっていると演出したくて、避難準備区域の解除をするかと思えば、状況が落ち着いていないといって甘い基準を古い文献から取り出してくる。都合の良いように誤訳を放置するかと思えば自分に都合の良い部分についてはICRPに忠実になる・・・。政府は、矛盾も無視して、自分に都合のよいところばかりつまみ食いしているようにしか思えません。 多少の批判はあっても、はらを決めて、福島からもっと住民を避難させるほうに決めたほうが、住民も迷わずすむし、命も助かるし、税金も無駄遣いせずにすむのではないでしょうか。 |
なぜ「老婆と若い女」同時に見えないのか・・と考えてみましたが、よく考えると、それは質問がおかしいのであって、むしろ意味の区切りこそが、意識における時間の流れを構成すると考えるべきかも知れませんね。だから当然「同時に二つの意味を見る(老婆と若い女を同時に見る)」ということはなりたたない。 |
残像にあらたに意味を見出せるか・・と言われると、単純に言葉は当然そういうもの、と言えるかも知れません。 「すもももももももも」と聞いて、さらに「は、もも。」といわれて、先ほど聞いた「すもももももも」は「スモモも桃も、桃」、だと遡及的に意味を見出せ得ますから。 しかし、先ほどの?@〜?Cはそれとはちょっと質が違うことのように思えますね。?@〜?Cの例は、「すもも・・」のように声の系列に対する意味づけの例ではないというところがまず違いますし(?Bも声の系列と言うより、それ以前の波からどう声の系列を聞き出すかの問題ですから)。 |
タイムマシン、そして残像などのことを考えていると、次のような疑問が浮かび上がってきました。 ?@認知心理学などでよく見るような、「老婆と若い女」の絵(どちらかが図となると、他方が地となって後者は意味をもてない)。これをぱっと見て例えば老婆だと思ったとき、目をつむり、その残像において、あらためて若い女を見出すことができるか?? ?Aそもそも単純な風景についても、それをぱっと見て目をつむり、まぶたのうらの残像を見つめてそのときに始めて新しくそこに意味を見出すことが出来るか?(開眼時は見出していなかった意味を:例えば残像の中で看板を読んで始めて意味がわかるとか) ?Bある携帯のシャッター音は「撮ったのかよー」とか、聞き様によっては「エーアイアイ」に聞こえるが(ttp://www.youtube.com/watch?v=Qlp8Lrkz89s)、そのシャッター音を思い返してみて、最初は一方に聞こえていたものを記憶の中で修正して他方に出来るか? ?C速読において、目の片隅に入ってくる文字なり一連の文字系列は、その時点で多少ともそれらの意味が捉えられている(あるいは、意味を捕らえようという動きがそれらの周りにめぐらされている)のか、それとも、残像のようにその文字像を蓄えた後に、頭の中で読みや意味を加えられているのか? ?Bについては、直感的には、無理に思えますね。最初来ていた実際の波はもう頭の中には残っていないでしょうから。別様に聞き直してみようとしても、その材料(波)は既に過ぎ去っているということになるでしょうから。しかし、波は記憶になぜ残らないのか、本当に残っていないのでしょうか?? もし残ってないとしたらその理由は以下のように考え得るかも知れません。無の象徴化を進展させるために音声を連鎖させて意味を形成し続ける(言葉にしろ、音楽やその他の音の関係付けにしろ)ことが重要でしょうが、そのためには既に過ぎ去った音声については、(連鎖をさしむける対象として)その音声の記憶が残っていればよいわけで、その音声を作っている波自体の記憶は不要だから。不要だから・・、という以前に、「参照され続けること=記憶されていること」、というふうに考えますと、ここで参照され続けるのは音声であって(そもそもラングは波の組み合わせの規則ではなく声のそれであるし)、その基となる波そのものではないから、必然的に波は記憶されていないということになる、というべきかも知れませんが。じゃあ、なぜそもそもラングが波の組み合わせの規則ではないか、となると、波はそもそも聞き取れないからと考え得るでしょう。聞き取れた音声と言うものは、それはおそらく既に幾つかの波の間での相対化の結果であり(例えば、母音は、2つのフォルマント=或る2つの異なる周波の波の組み合わせであり、さらに、5母音で言うと、「い」は300と2000のフォルマント、「え」は2000と520のフォルマント、「お」は520と800のフォルマント、「あ」は800と300のフォルマント―各数字は”約”であって分かりやすくしている―という風に一巡するシステムになっている。そういう関係性の中でこそ、各母音はそういうものとして響いてくる。多分・・)、結局必然的に波そのものは知覚意識から落とされることになるから。ただ、では音声の記憶はどういうものとして頭に残っているのか、例えば母音だとしたら複合した2つの波として残っているのか??(多分そうではないと思うのですが)、であれば、もう一度それをオリジナルな2つの波へと分解して戻すことは出来るのではないか、と反論できるかも知れませんが、このへんはどうなのかわかりません。 ?@や?Aについてはどうなのでしょうか? これらの場合の、意味づけされる前のそもそもの図柄や風景はそもそも知覚意識に乗っかっているものだから、?Bの場合とは多少状況が違いますね。?Bよりももっと出来る可能性は在りそうですが(なかなか難しいようには思いますが)、答えはまだよくわかりません。 ただ、開眼時は或る図柄が無意味に見えても、残像において意味を見出せる、などということがあるのを見ると(例えば、残像がキリストに見える図ttp://fine.ap.teacup.com/omotann/1570.html これ最初からキリストとわかっているからそう見えるというのでなく、多分最初は知らずとも残像でそう見出せるものかと思いますが)?@や?A、とくに?Aについては、ありえなくもないかも知れません。ただ、キリストの図のように、パソコン上の画面のように強く照って残像をまぶた裏に強く残すような強度の在るものでないと、その残像に色んな連想をめぐらせて意味を見出す余裕はないのではないか、とも少し思うのですが・・。?C(速読)についてもまだはっきりとは分かりません。多少とも文字なり一連の文字系列が目の隅に入ってくる瞬間そこに意味を見ようとしつつ読んでいるのではないかと思うのですが・・(純粋に図柄を見ている、というのとは違い。そもそも純粋な図柄を見ている場合も、そこに文字を見い出そうとして見ているのではないか、とも思うのですが) |
避難準備区域が、原発の状況が急激に変化した場合に備えたものだとして、今はその危険が少なくなったから解除、というのはまだ分かりますが、しかし、同心円状に設定したこの区域において、放射線量の高いところは色んなところに残っているのではないでしょか?? いかにも、復興、状況の改善が進んでいるというのを国内外に明るく見せたいためだけのポーズとしか思えません。解除されて、今まで出来なかったからと唐突に運動会などをグラウンドでどんどんやらせる(当然、運動会だからマスクもせずに、ということになりますが)教育者側のやりかたも全くどうにかしていると思います。非常に残酷だと思います。自分たちに何が起こっているか知らずに明るく動く子供たちの映像を無批判に流すNHKもどうなのか。明るく被曝へと導く政府と教育者、その片棒をNHKは担いでいるようにも思えます。 |
光円錐ではその45度(ベクトルの傾きが1)の側面は、光の速度で空間方向(3次元グラフでの平面=X,Y軸で表されるとこと)に5進むと時間(Z軸=縦軸で表されるところのもの)も5かかっている、ということを表していました。しかし、今後は、ニュートリノの速度で、空間に5進んだときに、時間が5進む、という風に時間軸のメモリが調整されなおし、光のベクトルは、そのニュートリノ円錐の内側を進む(=グラフ内での傾斜が大きくなる=同じ空間距離を進むには、光ではニュートリノより時間がかかっていることになるかたち)となるだけのことではないでしょうか。 |
たしかに、ニュートリノを日本からイタリアへ発射する前に、イタリアにニュートリノが到着しているということはあるかも知れません。 しかし、それは、ニュートリノを発射したという映像=残像、また人間の意識が遅れただけで、実のところはニュートリノはイタリアへ発射する前に発射されていた、ということでしょう。 ニュートリノが、イタリアに行って日本に帰って、未だ発射されていない自分に出会うことはあるか? 残像としての自分に出会うことはあっても、自分の本体に出会うことはないのではないでしょうか? イタリアから舞い戻って、残像としての自分を操作してそれをとりけす(発射されていないように見せる)ことは可能か? 残像として人間の意識や機械にとらえられる前の粒子(残像を作り上げるはずの粒子)を操作してそうすることは可能ではないか、とも思っているのですがどうなのでしょう。 |
『光速超えるニュートリノ 「タイムマシン可能に」 専門家ら驚き「検証を」 名古屋大などの国際研究グループが23日発表した、ニュートリノが光よりも速いという実験結果。光よりも速い物体が存在することになれば、アインシュタインの相対性理論で実現不可能とされた“タイムマシン”も可能になるかもしれない。これまでの物理学の常識を超えた結果に、専門家からは驚きとともに、徹底した検証を求める声があがっている。』 以上、産経ニュースより抜粋。 物理学に無知な私としては、そもそもなぜ光より速いものがあるとまずい、ということになっていたのかよくわかっていません。 また、なぜ光速超えたらすぐタイムマシンが可能という話につながってくるのか? そこも私はよく理解できていません。 個人的には、光を基準にして、それに遅れをとったものが時間、空間として展開してくる、と思っていたので、それが今後基準になるのがニュートリノであって(もし本当に光より速いならば)、それに遅れをとったものが、光や時間、空間として展開されてくることになる、ということに過ぎないのではないか、と思うのですが・・ |
ttp://agora-web.jp/archives/1383203.html#more どうも何を言っているのかよくわかりません。 しかし、そもそも最初からこの人は「脱原発=東条的に戦争へ突き進むこと」という前提からしか考えていないのだな、と思って読むと、多少全体の筋は追えるようにも思えてきました。しかし、まあ、よくも無反省にそういう前提を疑いもせず(もっと色んな仮説を自分の中で戦わせてもよいのに)、これほどねじまがった理屈をひねりだせるものだな、とも思います。 池田氏にとっては、可能性=政策的合理性=是、でもあるようで、「『是・非』論と『可能・不可能』論の区別」のできていないのはまさに本人のように思われます。あるいは可能不可能しか考えない倫理不在というところでしょうか。 池田氏の中では、戦争を是とした当時の「是」と、脱原発を是とする「是」とが等価なのですね。結局、どうも本人の中では、倫理というものは、世間の風潮としてしか存在していなくて、他の人も皆そのレベルで生きていると思っていて、風潮を超えた、いつでもあるべき基本的な真の倫理、というものが存在しうるのだということに全く気づいてさえいないのでは、と思えてきました。もしかして、象徴界が排除されているのではないでしょうか。 |
分析主体が自由連想を語る中で、例えば「言い間違い」などすることがありますが、 それを今指摘しても折角の自由連想を阻害することになるかな、と思い、そのまま流してしまうことがままあります(言い間違いの指摘、そこに示唆されていそうなコンプレクスが、現在の自由連想の内容と絡め安そうな場合もあったり、逆にその指摘が余りに場違いな場合もあったりと様々ですが、とくに後者だと流したままにしやすいです。うまく絡めるこちらの能力の問題でもありましょうが・・)。 そこで考えること・・ 今の自由連想を続けさせると、結局は、そのいい間違いを為さしめたコンプレクスについてもどうせ語るところに行き着くのだから、まずはそのまま行かせていいのかな、という のがひとつ。 しかし、本当にそうか。いい間違いを為させたコンプレクスは必ず自由連想でものちに文章的に語ることになるのかどうか。そのコンプレクスに到達しないまま、あるところで症状が治癒したり、多少の欲望の流れが得られたりして、それで本人はよしとして分析を終えてしまう、ということはないか? そのへんはまだわかりません。 ただ ?@言い間違いをなさせるコンプレクスを語ることになるであろう方向に自由連想も向かわせているように思える分析主体と ?Aその方向とは対抗的に自由連想を進めようとする分析主体とがあるのではないか? そして?Aの場合には、言い間違いの指摘をより積極的に時々行うのもよいのではないか、・・というような思いも若干あります。 |
「神は善で全能なのになぜ世に悪があるか」という矛盾の解決手段としてみると、神学上の色んな考えの存在意義がわかるようにも思います。 例えば、色んな宗教に見られる「末世に救世主がやってくる」という考え。たとえば「ゾロアスター教徒は末世に救世主が現れ、敬虔な信者を完璧な世界へ導いてくれると信じている」(『ゾロアスター教』青土社27p)というような。結局、「いつまでも来ない救世主」というのを設定し、「未来にはやってくるが、今はまだ救世主は来ていないから、悪がまだ、存在しているのだ。しかしそもそも救世主の到来は約束されているという意味で、世界は完全で、神も完全なのだ」として神の善性、全能性を守っているともみなせるわけです。 なぜそもそも救世主の観念を設定したか? 人々が善を行えばよい、というだけの教えにしなかったか。これも、「善を行えといっても誰も完璧には行えない。しかしもし神が完全なら、神の創った人間が行えないはずはない、ということになる。しかし、もし救世主が後に来る、そしてそのときには皆が善を行えるようになる、としておけば神は完全という観念が保てる」ということかとも思われるわけです。 キリスト教については、救世主が現れてしまったのだから、このへんどうなるか、というのはまた後に考えたいと思います。色んなエディプスコンプレクスの表れかたが見られそうで興味深いです。 |