ちょっとした理由から、今、ゾロアスター教について調べ始めました。今のところ無知も同然ですが・・。 『ゾロアスター教』(青土社)28〜29ppでは以下のようにあります。 「善なる神が創造した世界に邪悪が存在するという矛盾にザラスシュトラは一つの説明を提示した。心理と虚偽と言う二霊が、物質世界の不完全さとして、人間の心の中に存在すると考えた。」又「ザラスシュトラは人類に自由意志を提案した。邪悪を退け、善良を選び、アフラ・マズダーとともに勇んで世界の完全化に寄与するという選択の自由である」 これを見ると、人間は自由意志を持つ、という観念は、何かヒューマニスティックで積極的な動機から生じたというよりは、神の完全性、善性の観念を守るために、そう(つまり、人間を自由意志を持つものとして、悪を人間の選択のせいとする)考えざるを得なかった、というもののようですね。そういう意味では、完全な父の像を残すことで、それと同一化し母と交われる可能性を残す、というエディプスコンプレクスに、自由意志の観念の起源があるといえるように思います。もちろん、上の箇所から考える限りでの話であり、これ以外にも起源があるかもしれませんが。 |
魚が楽しんでいる、と言うのは、人間中心の勝手な判断だとしても、では、「私が楽しい」という判断は、それほど確実なことなのか。もしかしたら、魚がぴちぴちはねるのを小さいときに見て、大人から「あれは楽しんでいるのだよ」と教えられ、ああそうなんだ、あれが楽しいということなのだ、と思っていて、今、自分の心身の中でそういう動きを感じたから、自分は楽しいのだ、と判断したのだとすれば、あながち「魚が楽しんでいる」、と言うのも間違いでもないのでは・・・と考えてみる。 |
「太陽が2個ある惑星」のニュース ttp://dailynews.yahoo.co.jp/fc/science/astronomy/?1316134570 から、「位相空間には、2つ以上のアトラクターがあってもかまいません」(「鏡の伝説」37p ダイヤモンド社)という話を思い出しました。とはいえ、このニュースの惑星については、一つの太陽(大きいほう)が中心に来ているようですが。 ところで、複数のアトラクターについては、ある次元では複数のアトラクターであったとしても、より高い次元(何次元加えてもよいとして)では一つのアトラクターにまとめられる、ということは無いの? まとまる場合といつまでもまとまらない場合があるの?・・という疑問が数学の素人としては生じてきますが、そんなことを考えていると、「父の名」が複数ということはありえないの? という疑問も生じてきます。無論、「父の名」=アトラクター、と言うわけではありませんが。 無論、ヒステリーの多重人格の色んな人格が色んな言葉を語るという状況をあげると、そこには、それぞれの語りの発祥点たる「父の名」がある、と考ええるかも知れませんが、それはあくまで擬似的なものであり、それらの複数の語りの下には、抑圧されたひとつの語りのラインがあり、その発祥点としての「父の名」は一つしかない、と考えるのが正しいと思います。 また、多重人格でなくとも、これまで自分の中に無かったような新しい発想を生み出しそのラインで言葉を継いで行く、という場合も、そこには一見新しい「父の名」(=本人にとっては第2番目の)が生成されたということになるかのようにも思われますが、しかし新しい発想と言っても、通常の場合は、それ以前に本人においてすでに成り立っていた、言葉との弁証的な進展の上にあるわけで、その始まりはやはり一番最初の一つの「父の名」へ集約されるしかない、と言うものだと思います。 しかし、今私が持っている語りのラインやその語りの弁証的進展とは全くはなれたところに、まったく新しく、突然「父の名」が生じるということは考え得ないことでしょうか?赤子が始めて言葉を得るときのように。いわば、ビッグバンが全く新しく生じるとでもいうかのような。外部の他者の語りに触発されて発したものであってもかまいませんが、自分において既に成り立っていた語りとは「全く」無関係に発するような「父の名」、そしてそのもとにある語り、ということです。 今の、私たちの、通常の語りでさえ、本当に、最初の父の名から発した言葉の弁証的進展だけで成り立っているというのは、それほど確実なことなのでしょうか。 無論、全く今までの語りとは無関係のところに、新しく「父の名」そしてそのあとを続く語りがいくつか発生したとしても、すぐにそれらをより高い次元からまとめる(=たとえば、それら全てを弁証的関係として関係付けえる)ひとつの「父の名」とその後を続く語りが発生しえる可能性もあり、それを考えると、やはり「父の名」はひとつなのかな、とは考え得るでしょう。しかし、いつまでもひとつにはまとめえない場合もないでしょうか? もしアトラクターをどれほど高めた次元においても一つに収束しない、ということがあるならば、ちょうどそのように。(あるいは、連立方程式の解の組が一つにならないとか決まらない場合があるとすれば、ちょうどそのように?・・)。 しかし、まあ、そのようにいつまでも一つに収束しなくても、一つへ収束させていこうとする動きがあるというところに「父の名」が一つあるわけである、といえなくもないでしょうが・・。 ここで、『精神分析にとって身体とは』(向井正明、「イマーゴ 総特集 ラカン」に所収)での或る文を思い出しました。抜粋すると(216p)「自我理想は一つだけのS1からなっているものではなく、ラカンが星座constellationと呼ぶように一群のS1から構成されている。星占いが占う運命のようにこの星座はそれぞれの運命を決定しているのである。」とあります。もちろん自我理想としてのS1であって、「父の名」と述べられているわけではないですが、ラカンはどう考えていたのか・・(ラカンの原典が分かりませんので、詳細は確認できませんが)。また、ここの様々なS1がそれぞれ「父の名」だとしても、constellationというような関係付けからは離れた「父の名」も同伴しているというパターンが考え得る可能性も否定できないのではないか、とも思われますが・・。 ただ、向井氏がここで自我理想について「世間一般に通っている常識、親から言われたこと、諺、格言、マスコミでいわれていることなどがそれを構成するもので、深く考えずに我々はそれを受け入れ、知らず知らずにそれにしたがっている。」との解説を加えているところからすると、この複数のS1は言葉のもっとも原始的な発祥点の複数性と言うよりは、もっと育ったところでのややイマジネールなものも混在したところでの様々な方向性をもった語りというレベルのものでしかないようにも思えますが・・。 |
言霊信仰、そうですね。どうせなら「言い回し」でなく言ったりやったりしている「内容」に批判的であってほしいですね。 野党にしても、マスコミにしても、言い回しばかりにひっかかって内容を相手にしないのは、それほどの判断力がなかったり、批判の責任を取りたくないから? 言い回しを批判するのは、皆と一緒に批判していないと―とりわけ被災者の心を察しての批判である「かのような」批判については―、自分が批判されそうだから? 内容の批判で勝負しないのは、野党としても政策の内容などはそんなに与党と変わらないから? |
昨日の公開セミネールで話題になったラカンの言葉は、藤田先生の『性倒錯の構造』p.92に書かれていました。以下に引用します。 「異性愛者とは、その定義からいって、その固有の性に関係なく、女性を愛する者のことである」 出典は、L’etourdit, Scilicet, no4, Seuil, 1973, p.11 です。Autres ecrits では、p.467 になります。 |
この国にはまだ「言霊信仰」が息づいているのですね。 |
『精神分析辞典』(弘文堂)で『男性同性愛』の項目に男性同性愛者においては「ファルスを持つこととファルスであることがいわば同時に存在している」とあります。ファルスを持つことが半分あるとすれば、それに対応するはずの異性への欲望への傾向も(少なくともその芽とでも言うべき動きは)同居するのではないでしょうか。とすると、男性同性愛者は、自分の志向は全く男性同性愛のみであるという確信はもてないのではないでしょうか?? |
「死の街」との表現はそんなに問題なのか? そこに暮らしている人がいたとしても、実際にそれほどひどい状況なのだ、という惨状を伝える訴えかけとして、ありえる表現ではないか、とも思うのですが・・。 そこに暮らす人が、「こんな表現されたらどうですか?」とマスコミからあえて問われれば、それは、「そんな表現されたら嫌です」と応える人は多いでしょう。それはそう問われたからであって・・。・・ということではないでしょうか? 本当に嫌がっている人もおられるのかも知れませんが・・。 しかし、よく私たちの惨状を言ってくれた、と思う人もいるのではないでしょうか・・。どうなのでしょう? 受験生の前で、「おちる」、とか、「すべる」とか言うな、というレベルの話にも思えます。 この動き、全てがそうとは言わずとも、被害状況を矮小化する原発推進派の工策によるところがないでしょうか? 「ほら、放射能」については状況よく分かりませんね。どこの記者がそういわれて、どういう文脈で、だれがその話を流したのか・・。 被害状況の矮小化、といえば・・ 「なぜ震災当初ヘリで食料など投下しなかったか不思議」、と福島の人の前でつぶやくと、上空に放射能がただよっていて、ヘリが入れなかったからだ、と言われました。当初、それは違法だから、とか、いや実は投下しているが違法だから言えないのだ、という話は当時ネット上で見出したのですが、これは私には初耳でした。今検索してみると、確かにそういう理由も出ていたのですが、あまり当時は聞きませんでした。それにメディアも、なぜ投下しないのか!と政府を追求したようには私は感じませんでした。私だけが耳にしなかったのか・・。もしそうでないとすると、ヘリが上空に入れないほどの大変なことが起こっているのだ、ということを政府は公にしたくなく、メディアにもそこは追求しないようにと釘をさしていたのでは、とも勘繰ってしまいます(この理由も事実なのかよくわかりませんが・・。) |
「はやっている」、と言われれば、はやっていなくとも、はやっていると思っている人たちがはやりに乗り遅れまいとして買って、本当にはやってしまう。いわば、集団的な自己充足的予言とでもいうようなものか、・・と。 他者の欲望を自らの欲望とするヒステリー心性からも考えられるようにも思えますね。 |
藤田先生から紹介された話題ですが、 マーケティングの一環ではないかと思いますね。 ブリーフと言ったら川俣軍司しか思い浮かびません(^^; 【衣料】男性用"白いブリーフ"の需要が徐々に増加中--節電の影響も [09/10] 1 :ライトスタッフ◎φ ★:2011/09/10(土) 17:04:50.49 ID:??? かつて男性が穿くパンツといえば、白いブリーフと相場が決まっていたが、オヤジ臭い イメージが定着して売り上げが激減、近年は全盛期の半分程度にまで落ちていた。 頼みの綱の子供にまで、汚れが目立つという理由で敬遠され、もはや風前の灯火か…… と思いきや今夏、意外にも白ブリーフの売り上げが伸びているというのだ。白ブリーフの 定番、B.V.Dの広報担当者が語る。 「節電の影響もあり、見た目だけでも涼やかにしたいと、この夏は白やベージュなど 薄い色のスラックスやチノパンが流行しました。しかし、色の濃いトランクスやボクサー パンツだと透けてしまう。そこで、白いブリーフの需要が徐々にではありますが伸びている のです」 とはいえ、白ブリーフの最大のネックは女性に不評なことだ。「格好悪い」という声に 気圧された男たちが、好き嫌いとは関係なくトランクスやボクサーパンツに走ったという のが実情である。 しかし、恋愛コラムニストの菊池美佳子氏は、「時代は変わった」と断言する。菊池氏が ツイッターやブログで調査した結果、かつては「白ブリーフ男子は絶対イヤ」という女性が 圧倒的に多かったが、最近になって、白ブリーフを評価する女性が増え始めているというのだ。 「女性が求める『安定』が変わってきたんです。かつては男性の収入や肩書きが『安定』の 目安でしたが、震災以降、男性の収入も肩書きも役に立たないのが分かった。代わりに、 何があっても生き抜けるワイルドさや力強さに惹かれる女性が増えているんです」 菊池さんは、白いブリーフこそ、「絶対的な男らしさの象徴」だという。 「シミや汚れが目立ちやすいからこそ、白いブリーフを履きこなすには、清潔さと絶対に 汚さないという自信が求められます。逆に白いブリーフの汚れを気にしないというなら、 きっとワイルドな魅力を持つ男性に違いありません。私は白ブリーフを穿きこなす男性に、 雄々しさを感じます」 白ブリーフブーム到来か。 ◎週刊ポスト2011年9月16・23日号 ttp://www.news-postseven.com/archives/20110910_30384.html 2 :名刺は切らしておりまして:2011/09/10(土) 17:06:10.37 ID:5mMMI3u9 ____ / \ / ─ ─ \ / (●) (●) \ | (__人__) | \ ` ⌒´ ,/ r、 r、/ ヘ ヽヾ 三 |:l1 ヽ \>ヽ/ |` } | | ヘ lノ `'ソ | | /´ / |. | \. ィ | | | | | |
朝日新聞8月25日 「科学」の欄に『赤ちゃん言葉、語彙得る助走』という理化学研究所・言語発達研究チームリーダーの馬塚れい子さんの記事があります。 そこでは 「最近、脳を育てるとうたう育児書に、「ワンワン、ブーブーでなく、最初からイヌ、車と呼ばせて」とあることが気になる。「赤ちゃん言葉は耳につきやすく、語彙獲得の助走になる。大きくなれば2本足で歩くからハイハイさせるな、というようなものです」 とあります。 どうなのでしょうか。ワンワン、ブーブーは、音声を真似ているという意味で、対象との密着性が強く、思いつきやすい言いかたに思えます。しかし、そういう”類似点”の無いところの「イヌ」とか「車」というような言葉が差し向けられて、類似性からは離れたなんだかわからない言い回しを司っている法があるのだ、ということが分かる機会がある必要があると思います。そういう機会があってこそ、子供も、ワンワン、ブーブーはまだ仮のものであって移行段階でしかないのだ、という不全感を持ちつつ、成長した言葉の世界に入っていこうとする意欲がもてるのではないでしょうか? 移行対象をわざわざ治療者側が準備するか、治療者側は最初から去勢を強く打ち出し移行対象は本人たちが探し出すに任せるか、という議論を心理療法関係で昔聞いたことがありますが、それを思い出しました。私としては、後者のほうがよいのではないか、と思うのですが・・。子供のワンワン、ブーブーはどこまで強く直すか放っておくか、はよく分かりませんが、少なくとも大人の間では、イヌ、車と呼ばれているのだという場に子供が出会える機会があることが必要かと思います。また、あえて大人まで、子供の位置に降りて使うことはしなくても良いのではないでしょうか? 大人も子供の位置に来てしまって、子供のエディプスコンプレクスの解消の道が阻まれる(父も僕と同じレベル、僕は母を得られる!と思い続けてしまう)ということにもなりかねないようにも思えます。赤子がはいはいするからと、大人もはいはいしないように。そもそも赤子がはいはいするのは、やはり、大人が立って歩いていることを理想としているからではないか、と考えてみるのも必要かと思います。 それにしても、たしかに、赤子の言葉に合わせて、ワンワン、ブーブー言おうというような文化、そうさせられる雰囲気、昔からあったようにも思いますが、しかしその歴史は古いのでしょうか・・。外国でも似たようなものなのでしょうか?? |
>耳の中ででなく、波相互の重ね合わせの時点で、すでにうなり(これがmissing fundamentalということになるのかなと思いますが)となりうる波を作り上げるのだろうから、その波が可聴域のものであれば、たとえそれを作り上げているもともとの幾つかの波が非可聴であってそれに相当するダンス細胞がなくとも、うなりというかたちで間接的に聞き取れるのではないのでしょうか?? 普通聞いている音だって、もともとはそういう非可聴レベルの波の組み合わせと言うことはたくさんあるのでしょうね。よく知りませんが・・。だとしたら、あえて言うまでもなかったことでしょうが・・。ただ、こう考えてみると、その場に、或る非可聴の波がやってきているかどうかを、もう一つの波(その来ているかもしれない波との差異が、可聴の波となるような波)を組み合わせて、そのmissing fundamentalとなるはずの波の音が聞こえるかどうかで調べることが出来るかも知れない、とも考えられ、これはちょっと興味深いことのように思えます。たいして新奇な考えでもないかも知れないし、間違っているかも知れませんが・・。 |
>たしかにICRPの基準として20ミリシーベルト以下というのもありますが、the lower part of the 1-20 mSv bandつまり10未満と言うのもあるわけで(そもそもこのICRPのどっちつかずの基準にも日和見的なものを感じるのですが・・。私が読み込めていない可能性は十分ありますが・・)、 ICRP P111を確認すると、汚染量を下げる目標として10未満(the lower part of the 1-20 mSv band)、典型的には1mSv/年であるべきで、20ミリシーベルトは現在それ以下であるべき参照レベルというということでしょうか。 |
聴覚器官にはダンス細胞というのがあるそうです。概要を「ためしてガッテン」のホームページから抜粋します。ttp://www.nhk.or.jp/gatten/archives/P20080430.html :「耳の穴から入ってきた音の振動は、耳の一番奥の「蝸牛(かぎゅう)」という器官にある「有毛(ゆうもう)細胞」に伝わります。有毛細胞にはミクロの毛が生えていて、入ってきた音の振動でふるえ、その信号が脳に伝わることで音が聞こえるのです。(中略) 有毛細胞は、毛の下に細胞の本体が存在し、別名「ダンス細胞」とも呼ばれます。ダンス細胞にはその名のとおり、音楽に合わせて、まるでダンスをするかのように伸び縮みする性質があります。この働きによって、小さな音でも聞き取れるように、音を増幅させていたのです。」: さて、『音が出てくる、ダンス細胞がある不思議な私たちの耳!』ttp://www.tohoku.ac.jp/cafe/event/no43/ では 「可聴域をこえた超音波によってもダンス細胞は動くのか。また、鼓膜にはどのような影響を与えるのか。」との問題が提起され、 「ヒトのダンス細胞の実験ではありませんが,可聴域が200 Hz 〜 45 kHz [1] のモルモットのダンス細胞の動きを計測すると,100 kHzでも動いたという報告があります [2].ヒトのダンス細胞も20 Hz 〜 20 kHzの可聴域を超えた速い刺激でも動くと予想されます.また,超音波が入ってきたときも鼓膜は揺れると考えられます.ではなぜ,ヒトは超音波を聞くことができないのでしょうか.それは,耳の中には音を感知する細胞とそれを支える組織が一列に並んでおり,その列の中で場所によって感知する音の高さが違っていることと関係があります.ヒトの場合には20 Hz 〜 20 kHzの音に対応できる組織が並んでおり,それ以外の高さの音は聞くことができないのです.」と書かれています。 ここでモルモットにしろ人にしろ、非可聴の音は本当に聞けていないのか、考えてみたいと思います。 『音律と音階の科学』(小方厚 講談社)95〜96ページには、たとえば、200と180Hzの純音を同時に聞くと、20Hzの低音が感じられ、300,400,500Hzの純音を同時に聞くと、人の耳にはそれらの公差の100Hzの純音が存在しているように聞こえる、との旨かかれています。後の例で言うと、この100Hzを「存在しない基本波」(missing fundamental)と言うそうです。 そこからすると、モルモットのダンス細胞が100kHzでも動いた、ということは、その100kHz自体は直接聞き取らずとも、たとえば、同時に99kHzの波を流すとその差としての1kHz(これはモルモットには可聴)を聞き取りえる、ということにならないでしょうか(99kHzでも動くダンス細胞が必要かも知れませんが、100でも動くのだからありえるでしょう)? もし聞き取れたとしたら、”間接的”には非可聴の音が聞き取れている、ということにならないでしょうか(低いほうの非可聴音についても同じような要領で考えることができるかと思いますが)。人の場合でもそういうことはあるのではないでしょうか? それにそもそも可聴域を出るダンス細胞の存在が必要なのか? 耳の中ででなく、波相互の重ね合わせの時点で、すでにうなり(これがmissing fundamentalということになるのかなと思いますが)となりうる波を作り上げるのだろうから、その波が可聴域のものであれば、たとえそれを作り上げているもともとの幾つかの波が非可聴であってそれに相当するダンス細胞がなくとも、うなりというかたちで間接的に聞き取れるのではないのでしょうか?? 非可聴レベルのダンス細胞の必要性うんぬんは別としても、地震前に、地面からのうなりを感じていた、というような人がいるのは、上記のようなことからでもないのでしょうか? |
「学校の校庭利用をめぐる放射線量基準について、文部科学省はこれまで示してきた「年間20ミリシーベルト」の目安を撤廃する方針を固めた。基準を定めた今年4月と比べて線量が大幅に減ったため。児童生徒が学校活動全体で受ける線量を年間1ミリシーベルト以下に抑えるとの目標は維持するという。(中略)子どもが年間に受ける放射線量が20ミリシーベルトに達しないよう設定された値だったが、保護者らから「上限20ミリシーベルトは高すぎる」との批判が相次いでいた。 」(朝日新聞) なんだか変な話ですね。20ミリシーベルトでよいのだ、と国が自信もって思うなら、今後の基準としても撤廃しなくても置いておけばいいのに。 たしかにICRPの基準として20ミリシーベルト以下というのもありますが、the lower part of the 1-20 mSv bandつまり10未満と言うのもあるわけで(そもそもこのICRPのどっちつかずの基準にも日和見的なものを感じるのですが・・。私が読み込めていない可能性は十分ありますが・・)、こんどは10ミリシーベルトを基準にするとかあると思うのですが、そういう議論の矛先をかわすために20ミリシーベルト基準も撤廃したようにも思えます。 あとは、年20ミリシーベルト以上になっても許容されえるようにという意図はさすがに無いでしょうが(?)、収束にむかっていますよというムードを作るという意図は十分あるのでしょうね。 |
原発作業員が、4次5次6次・・の下請けから雇われていて、内部被爆測定しようとしても、連絡とれなくなっている状態。内部被爆状況を明らかにされたくないから、東電や政府がこのような状態を許している? さらに、造血幹細胞の摂取を行わないのは、それを通じてその作業員のidentityが明らかになり、そのことで雇われた闇のルートが明らかになり、それに東電や政府が依存していることが表ざたになることを避けるため?? |
ノンレム睡眠中でも夢を見るらしい(『現代医学に残された七つの謎』杉春夫 講談社)。でもなぜわかったのでしょうか・・。ノンレム中に突然覚醒させても夢を報告したから? それであれば、しかしこの覚醒途上の一瞬に作った夢かも知れず厳密にノンレム睡眠中に見ていたものかどうかわからないと思うのですが・・。 |
場面緘黙と拒食症、ふと類似点があるように思えてきました。 意識的にそう(緘黙、拒食)しているのかどうか、の分かりにくさが前面に出ている点が。 また、以下のような対称性も考えられるように思えます。 拒食・・入れること(食事)の拒否 緘黙・・出すこと(言葉)の拒否(ちなみにトイレの拒否が伴うこともよくあるよう) 拒食=ラカン派が言うのは「欠如」の欲望、無を食べる(自分の去勢を認めてこそある通常の欲望の道からはずれて。)だったか、と思いますが緘黙の場合はどうなるでしょうか。言葉全体の欠如を作り出し、言葉を語れば生じてくるはずの通常の欠如・欲望の道に入ることを拒絶しているのだ、と言えるでしょうか(緘黙症の背景は様々でしょうが・・)?? また「語っているのを人に見られる恐怖」がありそうな緘黙というのもあるそうですが、ここには「語ること」と「近親相姦の幻想」が重なっていて(語ることがエロス化している?? 語る=フェラチオか便を与えることの幻想があるのか?)、第三者に嫉妬され罰を受けるおそれ、などがあることも考えうるでしょうか? 緘黙の子はしゃべることが出来る家族などに対しては結構支配的であったりするなども読んだことがありますが、家族では近親相姦に近い位置(第三者を下に疎外して)、学校では語らずに自分が疎外される位置に立つ(家で第三者を疎外する自らの辛らつな目と同様なものを、学校では他の人から感じ取って)・・と言えるでしょうか?? 学校での緘黙の子も、しかし親しいひとりの導いてくれる友人は居る、ということはよくあるようです。ここには、その友人(他者)の欲望を自分の欲望として動く、というヒステリーの構造を見ることができるでしょうか・・?? また、拒食にしろ、緘黙にしろ、本人にエディプスコンプレクスの問題はあるにしろ、「要求」「想像的去勢」を向けてくる他者、社会の問題もありうるのではとも思います。実は本人たちのほうがまわりの社会以上に成長している部分があり、より欲望・象徴化の方向性へと向かっていたのに、社会側が要求をかけてくるから(全て食べなさい、あなたはこう生きなさい、あなたの考えはこうなのよねという先取り、など口に押し込められてくるような要求。あるいは、全て話しなさい、秘密はいけません、便を出しなさい、と”出すこと”の要求のような)、いわば逆転移的にそれに逆らうほうへと巻き込まれ、自らの象徴化の動きを忘れて、こういう症状へと停滞させられてしまう、ということもありうるのではないでしょうか。 |
以下、毎日新聞 8月6日(土)21時6分配信 より抜粋 「<福島第1原発>賠償中間指針の問い合わせ相次ぐ 文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会が、東京電力福島第1原発事故に伴う損害賠償の範囲を示す中間指針を決定したことを受け、福島県災害対策本部には6日、指針に関する問い合わせが相次いだ。指針では対応が盛り込まれなかった自主避難者はもとより、対象に含まれても将来への不安を訴える声は多い。 同本部が設置する損害賠償相談窓口には、午後7時までに31件の電話があり、「自主避難した場合の賠償は指針に含まれているのか」「警戒区域に車を置いてきたが補償されるのか」などの質問があったという。担当者は「県が求めている自主避難者への賠償などはまだ決まっておらず、早急に結論を出してほしい」と話す。 局所的に放射線量が高い「ホットスポット」に当たるとして426世帯のうち86世帯が特定避難勧奨地点に指定された伊達市霊山町小国地区。指定世帯が避難すれば賠償されるが、非指定世帯が自主避難しても現時点では賠償対象にならない。 指定されなかった自営業の女性(42)は、小学5年の次男が放射性物質の影響を不安がり、夫の両親を残して実家に自主避難した。「補償がなければ二重生活は苦しい。自宅に戻るために夫は庭をコンクリートで埋めようと言うが、それもお金がかかる」とこぼす。」 ********** 結局、20ミリシーベルト/年までにならない地域は大丈夫などと言っていたのは、賠償対象を減らすためだったとしか思えません。では、この後、20ミリシーベルト/年以内の地域に住み続けて、放射線ゆえに病になったとしても、放射線ゆえではないなどと判断され、賠償されないということになるのでしょうか・・。 ちなみに、「特定避難勧奨地点」とは、「事故発生後1年間の積算線量が20mSvを超えると推定される特定の地点」ということのようです。参考 ttp://www.meti.go.jp/press/2011/06/20110616007/20110616007-1.pdf |
「細野豪志原発事故担当相は6日午前、福島県庁で佐藤雄平知事と会談し、これまで認めていなかった東京電力福島第1原発から半径3キロ圏内の住民の一時帰宅について検討する考えを表明した。「住民の安全を大原則に、一時帰宅の可能性を本格的に検討しなければならない」と述べた。政府は原発から半径20キロ圏内の警戒区域のうち、3キロ圏内と3キロ圏外でも放射線量の高い地域については一時帰宅の対象外としている。」【共同通信】 というニュースが入ってきました。一時帰宅だから20mSv云々の問題は関係ないのだろうけど、どうも、最近、「半径20キロ圏内」とか書かれるのみで、”何ミリシーベルトの地域”という書き方が減っている気がします(前からそうだったのかも知れないですが・・。またもちろん、半径で決めたのが、〜シーベルトに一義的に相当するものではないからそうなのでしょうが。しかし国民からの非難を避けるためかもしれない・・。それにしても未だに、”半径”中心に警戒区域が考えられているのか、という思いも持ちます。)。 それはそうとして、当初から思っているのですが、一時帰宅のときなど、国が運送業者を依頼して、住民の家財を運び出すように手配するということも考えればよいのに、と思います。盗難の被害も多いし、持ち出したい大切なものもあるはずだし。大変な量になるから、そこまで税金を使うわけにはいかないということもありましょうが、こんなときだから安くやってくれる業者はいないか、それこそ義捐金を使うとかいうのは駄目なのでしょうか?? 皆でなくても、義捐金をそこに使いたいといひとが、個人的に運送業者を雇う余地くらいはあるのでしょうか? あるいは、道路事情などからそんなわけにもいかないのでしょうか・・。持ち出しても置くところが無いから、そうしようとする人が居ないということなのでしょうか?? |