目標を1ミリシーベルトにします、との表明は、住民を黙らせるための策に過ぎなかったということはないか? その表明後、国の対応は何か変わったのだろうか? 20ミリシーベルト云々のニュースは最近下火になっているように思うが、20ミリシーベルトが解消した範囲は広がっているのか? 長期化して来たのだから、そろそろせいぜい10ミリシーベルト未満の基準(あのICPRの文書にでさえ、the lower part of the 1-20mSv<=10ミリシーベルト未満>から選ぶべき、と述べている項があるわけだし)をもとに、住民の退去すべき地区をむしろ広げるべきではないか? |
求む、ブラジャー革命2011年8月5日 夏である。みんなは水着とかお召しになって、海や恋人と戯れたり、プールサイドにうふんなんて言って寝そべったりするのだろうか。わたしそんなのしたことない。そして今年ももちろんしない。 わたしにとって夏といえばひたすらにブラジャーとの闘いだ。や、正しくは乳首とともに世間と闘う、という構図が正しいのだが、なぜ日本では乳首が透けた状態で外出することにこれほど強力な抑圧がかかっているのだろう。理由も解除の方法もよくわからないままに、わたしも何となく乳首の存在を感じさせない方向で生きてしまっているのが情けない。 猛暑のブラジャーは苦しい。もちろん下着の楽しみや、形の維持のために好んでつける女子もおられようが、つけずに生活したいときもある。ちょっとコンビニへ、ってなときにちっと舌打ちしてブラジャーを装着せねばならぬ忌々(いまいま)しさ。何かに遠慮している感じ。自己規制の可能性もさることながら、やっぱり何かに気を遣(つか)ってる。誰に?世間に。世間て?男性?そんなもん見てないよ!とおっしゃる男性もおられるだろうが、そこに乳首が浮かんであれば、やっぱり見る人も多いだろう。 どうすれば諸外国のように全方位に「乳首耐性」がつくのだろう。隗(かい)より始めよってことで、まずわたしが透け透けの状態で堂々と講演とかサイン会とかするべきだろうか。しかし「あの作家頭おかしいね」で終わりな予感も。何より人が去ってゆく。問題はこんな懸念が生まれることじたいであって、なんでこんなところでつまずいているのか、謎である。 象徴としてのブラジャーではなく、実存としてのブラジャーの気まぐれ撤廃を求むる気持ち。日本同時多発ブラジャー革命とか起きないかなー。着物からミニスカートまでやってきたのだから、やればできると思うのだけれど。あと3回くらいこの話したいよ!(作家) ttp://hatsukari.2ch.net/test/read.cgi/news/1312538888/ |
>それだけで数10シーベルトになるんだとうから →「それだけで数10ミリシーベルトになるんだろうから」です。 |
外部被爆だけで20ミリシーベルトのところには、もう5年も居れないということですね。それにそのあと年1ミリシーベルトまで落とせたとしても、何十年か生きる人にはそれだけで数10シーベルトになるんだとうから、2,3年も居れないという人も多いかと思います。政府は、今年以内に1ミリシーベルトに下げられる、とでも考えているのでしょうか?? |
以下、毎日新聞 2011年8月3日 東京朝刊より。 :「東日本大震災:線量限度100ミリシーベルト、市民と意見交換−−食品安全委 食品安全委員会(小泉直子委員長)は2日、放射性物質の線量の限度を生涯100ミリシーベルトとしたことに関する意見交換会を開いた。一般市民ら約100人が参加、「子供に配慮した数値も示してほしい」と要望が出た。 安全委は先月26日、「放射線で健康への影響が出るのは、内部被ばくと外部被ばくを合わせ生涯で100ミリシーベルト以上」(自然放射線や医療被ばくを除く)との答申案をまとめた。 質問は100ミリシーベルトの意味に集中。広島・長崎の原爆データは、100ミリシーベルト以上で健康への影響が出ると言われてきたが、これは瞬間的な被ばくを評価したものだ。安全委が生涯で100ミリシーベルトとしたことについて、作業部会の座長を務めた山添康東北大教授は「原爆後も人々は水や食べ物を摂取しており被ばく量はもっと多かった」と説明。安全な立場から累積値にしたとの認識を示した。【小島正美】: ****************** →「質問は100ミリシーベルトの意味に集中。広島・長崎の原爆データは、100ミリシーベルト以上で健康への影響が出ると言われてきたが、これは瞬間的な被ばくを評価したものだ。」 「瞬間だから、100ミリシーベルトで健康への影響が出た。もっと長期での100ミリシーベルトなら影響は少ないだろう」、という見方をするひともいるかも知れません。 しかし、同じ100ミリシーベルトでも、少しづつ長く与えられたほうが危険ということはないでしょうか。 私は、以前ある病気で、1日1回注射を長期間受け続けたことがあるのですが、改善がおもわしくなかったので、DRから「これから同じ量を朝、夕2回にわけて注射します。半分づつだからもっと楽だろうと思われるかも知れませんが、実はこちらのほうが副作用はきついのです。」と言われたことがあります。放射線でこういうことはないのでしょうか?? もちろんデーターがないので、基準の設定が難しいのはわかりますが・・。 |
予想的解釈(No.28に書いたような)を投げかけられた分析主体の中では、自分の今までの語りと、それとの間を、埋めようとする動きが始まることでしょう(うまくいけば。意識的にか無意識的にかは別として)。数学者が、定理を積み上げて、予想を証明しようとするように。 ところで予想的解釈と分析主体の今までの語りの隔たりには幾つか種類があると思います。 ?@本当だったら、今までの語りを少し修正したりもっと進展させていくならば、論理的につながるはずなのに、そこを抑圧してしまっている、というレベル(通常いわゆる抑圧されたものとして考えられているレベルのもの)。この場合は上の作業によって、うまくいけば抑圧がとけてくる、ということになるでしょう。 ?A正しく今までの語りを進展させても、あるいは多少の修正を加えても、論理的にその予想につながってくるか分からないレベル、もしかしたら永遠に不可能もしれないレベル(数学でもそういう「予想」はあるでしょう)。この場合は上の作業はどういう効果を持つか? 楽観的に考えると、ともかくそこ(予想との隔たりのところ)を論理で橋渡ししてみようとする試行錯誤が今までの様々な抑圧をといていく、とか、ともかく「なぞ」という穴を自我にあける効果はあって対象aへと開かれた動きが進む、ということになるでしょうか?? |
「放射線の影響はクヨクヨしている人にきます」と言った例のあの人だったのですね。参考 ttp://www006.upp.so-net.ne.jp/spin_control/science/nagataki_1.html |
>弁護士は「容疑者は日本人専門家を求めている。この要望は尊重されなければ ならない」と強調。その上で「欧州の人よりも日本人の方が容疑者自身をよりよく理解すると 信じている」と付け加えた。 どこから容疑者の意見で、どこから弁護士の考えかよくわかりませんね。「尊重」とは何でしょう? それにしても他国の医者が精神鑑定?ありえるのでしょうか?? |
どうもよく理解できていませんが、セシウムは問題ないが、放射性ヨウ素が問題ということ?? 御用学者なのかどうなのかというのもよくわかりませんね。 |
ttp://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110802/dst11080203480003-n1.htm 被曝者医療の真実(上)国際被曝医療協会名誉会長・長瀧重信 2011.8.2 03:47 (1/3ページ) 体への影響認められないセシウム 「被曝(ひばく)で将来がんになる」「放射線で傷ついた遺伝子が子孫に影響する」−福島第1原子力発電所の事故以来、「放射線は怖い」という感覚が日本中に広がっている。実際はどうなのか。長崎の原爆やチェルノブイリ事故の被曝者の治療と調査に当たってきた国際被曝医療協会名誉会長の長瀧重信さんに聞いた。(文・平沢裕子) ◇ −−被曝者医療へのかかわりは? 長瀧 昭和55年に長崎大医学部の内科教授になってからです。赴任して間もないころ、中国がこれから原発を造るので、放射線の人体への影響、特に甲状腺について話してほしいとシンポジウムでの講演を頼まれました。講師は他に、ノーベル生理学・医学賞受賞者のロサリン・ヤロー博士と、核医学の生みの親のヘンリー・ワグナー博士の2人。私は長崎の原爆被爆者の甲状腺疾患のデータを発表しました。「原爆がこんな病気を起こしている」と発表したのですが、他の2人から「その程度の放射線は実験室でも診断にも使っており、何も問題はない。放射線が原因だという科学的な証拠があるのか」と言われました。 −−データは間違っていたのですか? 長瀧 間違ってはいないのですが、放射線の人体への影響がまだ世界に浸透していなかった。このときに、私は長崎の医学者として、被爆の健康に対する影響を国際的に通用する一流の論文として発表することを決心しました。その後、長崎の被爆者で行った調査で「原爆の放射線で甲状腺にいろいろな疾患が起こる」という論文を書きました。国際的な学会誌に発表され、新聞で報道されたところ、被爆者団体から「学者は新しい病気が出たといって発表するが、自分たちに何をしてくれるのか。学者が発表することで『被爆者はこんな病気ももっている』と世間に思われ、さらに嫌がられる」と言われました。これは本当にショックで、医者として調査をする以上、被爆者救済を常に考えなければいけないと心に決めました。 −−疾患とは甲状腺がんの増加ですか 長瀧 原爆被爆(外部被曝)で甲状腺がんが増加します。しかし内部被曝で甲状腺がんが増加することはチェルノブイリの調査で初めて分かりました。甲状腺がんの増加に関しては、最初は否定的な意見が多かった。というのも、(甲状腺の病気である)バセドー病の治療で当時、約30万人の患者さんが1人当たり数千万ベクレルの放射性ヨウ素を服用していたのに、甲状腺がんが増加するという事実は報告されていなかったからです。 −−チェルノブイリではどんなことをされたのですか? 長瀧 事故から4年目に、健康調査のため現地を訪れました。汚染地域の病院に行くと、お母さんたちに「私の子供はいつまで生きられるのか」と聞かれました。このころ、ソ連に海外から報道関係者が入り、「がんや白血病が増加し、奇形の子供が生まれている」と伝え、日本でもそのように報道されていた。お母さんたちは非常に心配し、パニックになっていた。そこでわれわれはまずできるだけたくさんの子供を診察して、異常のないことを母親に報告しました。体内の放射性物質の値を調べ、血液や甲状腺の検査もした。 −−結果は? 長瀧 16万人調べて、子供の甲状腺がんが増えていることが確認されました。これは(半減期が約8日の)放射性ヨウ素が原因でした。 −−福島では土壌や食品に蓄積されたセシウム(半減期約30年)が問題になっていますが 長瀧 体内のセシウムの量が多い子もいましたが、体に影響があったわけではありません。 −−25年たった今もですか 長瀧 はい。多くの国際機関と世界の科学者が集まりチェルノブイリの科学的な報告書を出版していますが、セシウムの影響は認められていません。 ◇ 【プロフィル】長瀧重信 昭和7年、東京都生まれ。79歳。東大医学部大学院修了後、米ハーバード大に留学。長崎大医学部教授、放射線影響研究所理事長などを歴任。臨床医・医学者として原爆被爆者や、チェルノブイリ原発事故、JCO臨界事故の被曝者の調査研究を行った。専門は甲状腺疾患。 |
【ロンドン時事】ノルウェーからの報道によると、同国の連続テロで、アンネシュ・ブレイビク 容疑者(32)が精神鑑定に当たって日本人の精神分析医の起用を求めていることが2日分かった。 ノルウェー紙ダーゲンス・ネアリングスリブが容疑者の弁護士の発言として報じた。 同紙によれば、弁護士は「容疑者は日本人専門家を求めている。この要望は尊重されなければ ならない」と強調。その上で「欧州の人よりも日本人の方が容疑者自身をよりよく理解すると 信じている」と付け加えた。 ▽時事ドットコム ttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011080200828 藤田先生、立候補したらどうでしょう。 |
多分、「論理」を追って、つまり「定理」を積み上げたところで告げられるような解釈が一般だし、無難だと思います。たとえばラカンも、どこかで、或るアナリストが分析主体に「あなたは〜に怒っているんですよ」と解釈した場面をとりあげ、「これが怒りかどうかはわからない。他にも色々考えられるのではないか。もっと質問してみるということもなく、このように解釈したのは不適切」と述べたところがあったように覚えます(うろ覚えですが、概略ラカンの考えはこのようなことであったと思います)。 ここでいう「論理に基づく解釈」とは、詳細化すると、はっきり本人がシニフィアンとして提出したところに基づいて、こちらの「予想」をまったくと言っていいほど入れずとも、それらをそのまま返したり、論理的に関連付けて返したりするというレベルの解釈です。或いは、多義的で短めの言葉を返すというようなやり方もラカン派だとあると思いますが、これもこちらの予想を加えていず、論理的に考えてこれが今までの分析主体の空虚なパロールに切れ目を入れるものである、と考えた限りで行われるものはこの「論理に基づく解釈」分類にとりあえず入れておこうと思います。似たように、そのように論理の段階を踏んでの、変動時間セッション的な突然の切断もこちらに入れておきます。あるいは、論理的に考えて、どうしてもここは分析主体に聞かざるを得ない、と思って質問して分析主体が答え分析主体自身がその自分自身の言葉を聞くうち自らの語りのパターンや矛盾に気づけ象徴的去勢が進む、というようなこともあると思いますが、こういう質問もこちらの分類にとりあえず入れておきます。 ここで問題は、本当は、それだけで分析が済めばいいのですが、どうもそれだけではやってはいけない局面というのもあるのでは? ということです。しかし、それはそうなる前に何かを私が見逃していたからではないか、私自身の論理の積み上げがへただったり、分析主体からの何らかのシニフィアン(あるいはあってしかるべき語りの欠如)に注意をはらわず素通りさせていてそれに対してすべき何らかの解釈(論理的にあってしかるべき解釈)や質問をしていなかったりしたからではないか、・・となるべく思おうとするのですが、それでもそういう局面があるようにも思います。「論理に基づく」解釈だけでやっていこうとして、そういう解釈が出来るように、その前段階として分析主体にそれなりの質問なり、前段階的解釈など積み上げたりするのは「かまをかけて」いるようで無理があるな、と感じる局面があるように思います。 もしかしたら「予想に基づく解釈」というのもありえるのではないか、ということも思います。積極的にそのように正当化するのも問題で最後のなけなしのやむをえない手段というレベルに留めて考えるべきではないか、とも思いますが・・。しかし、たとえば、数学で言う「予想」、・・これは、なんだか妥当に思われるけど今までの論理の積み上げだけでは、どうしても到達できない考え、あるいはまだその積み上げがうまく見つかっていない考え、だけど、今までの論理でも否定しきれないような考え、論理の伸ばす触手の到達できない穴にあるような考え、というものだと思うのですが、ちょうどそのような「予想」に基づくような解釈をしないとどうも膠着状態になるな、と思える局面もあるのではとも思います。それまでの分析主体の語りの流れから、多くの語りのベクトルはそこに向いている、向いているがその究極のところは全て尻切れになっている、何度語っても分析主体はその手前でとどまってしまっている、論理的に橋渡しがスムーズに行くものではないが消去法的に考えると分析主体はこのことを語らずにいるとしか考えられない、と思い当たる場合があると思います。消去法的に考えられるもの(分析主体が語らずいるもの)として複数ある場合もあるとは思いますが。そういう場合に、それを、あるいはそのうちの一番当たっていそうな確立の高そうなものを選んで、告げてみるという解釈もあるのでは、とも思ったりしているところです。でも、繰り返しになりますが、なるべくそれは避ける、論理に基づく解釈を基盤にする、という思いでいるほうがいいのだとも思っているところです。 |
ラカン派の分析家の特徴は沈黙が多いことだと時々聞きます。 これはもしかしたら、そもそも教育分析において、キャンディデイト(将来の分析家)は、すでにいかほどかの精神分析的考え方を知っているから、自由連想においても気の利いた自己分析を交えつつ行う、だから教育分析家はほとんど何も言うことはなくなる、だからキャンディデイトも精神分析とはそういうものなのだと思ってしまって、将来自らが通常の(=分析家志願者ではない)分析主体に対する場合でも沈黙を多くしてしまう(本当はもっと何か言うべきときにも)・・、そういうことによる場合もありうるのではないでしょうか?? それだとまだ自分の教育分析家との想像的同一化を残したままで、実はまだ分析をやり終えていないということかもしれませんけど・・。 ・・と、そんなことを考えたり、むしろ患者として精神分析に入り込んで、最初はどんどん分析家に色んなことを言われていたほうが、将来融通性在る精神分析家になれるのではないか、などと思ったりもします。 よく知りませんが、クライン派などだったら、キャンディデイトがどうであれ、ともかく分析家は解釈をどんどん入れ続ける、ということかも知れないから、こんな懸念は無用かも知れませんが。 |
およそどんなことでも子供にきちんと言葉で説明するというドルトに準ずれば、親の離婚の理由もきちんと言葉で子供に伝えなさい、ということになるでしょう。説明しないことの問題は次のようなところにあると思います。 1:そもそも家族のことを子供に隠すのは非倫理的である。 2:自分が悪くて親が離婚したのでは、という罪悪感を子供が持つ(エディパルな攻撃性をそもそも向けていたし)。 3:エディプスコンプレクスが前景化したまま子供に残る。子供は片親を奪えたと思う。 4:親が中断したシニフィアン(何か語っていても話題が離婚した相手についての言及に及び始めると、語りをやめてしまうときの、その最後の言葉のシニフィアン、とか)に同一化し、それが症状になる(最後のシニフィアンというのはある意味、それで文章を終ええた=全てを表しえた、全能のシニフィアンとも誤解されえるだろうから。) しかし、「離婚した夫(妻)については悪いことばかりしか伝えられません。それでも伝えろと?」という母(父)も居たりします。こちらからは、「悲惨な顔をせず―それは子供に私の肩を持て!、と伝えることになるから―、客観的に父(母)のことを子供に語れ」、と伝えるのが正しいのかも知れませんが、確信持てないこともしばしばです。そんな時、ドルトは一体どうするのだろう、としばらく思っていたのですが、離婚ではありませんが、関連する叙述を見つけました。ひどい里親について、その後に子供を預かった実直な養母が、「あの人(里親)のことは(子供に)話しません。子供たちに何と言っていいか、本当にわからないのです」と言った例です(『無意識の花人形』ドルト著 青山社179P 事例ニコル)。 事例概略です。三歳以前に捨てられ(理由不明)、里子に出されるも、里親は多くの乳児を死亡させている名ばかりの夫婦。この夫婦は投獄されニコルは孤児院に引き取られる。このおり極度の栄養失調状態、ほとんど裸、蚤にたかられていた状態。その後養父母に託される。この折は、緘黙、おどおどした目つき。手づかみで食べる、etc.。18ヵ月後ドルトの元に連れてこられる。言葉は単語の一音節のみ。きれいな水は飲まない。どぶの水など隠れてぴちゃぴちゃなめる。おしっこやうんちで下着を汚す。意地悪く振舞う。肘の深い傷にも泣かない。熱傷にも「腕のときよりもよりよく(mieux)痛かった」と。 ・・私としては、このマゾ的な行動を、罪悪感が強くてあえて怒られるための行動かとも考えましたが、どぶの水を”隠れて”飲むということから、それよりはむしろ、里親に酷い目にあった受動的状態をフォルトーダーするように、自らを自らが貶めることで能動性を奪回する行為かな、などとも考えてもみました。 それはともかく、ドルトは養父母に「養子縁組のことを話すのが絶対に重要、しかし養母が同意しない限り私からはニコルには言わない」との旨述べます。結局、養父母がそうしたところニコルは数日は関心無いようでしたが、しかし養母の母の乳首を吸い始めます。しかし以前の酷い里親については養母は「あの人(里親)のことは(子供に)話しません。子供たちに何と言っていいか、本当にわからないのです」と。結局、ドルトもこのケースでは、それ以上は、子供に伝えるようにとは養父母に食い下がらなかったようです。 で、どうなったかというと、その六週間後(第3回目)のセッションで、ニコルはある日、「前のママは意地悪だった」と言ったことが報告されてます。養父母は「おとなしくしてないと前のママのところに返すよ」と脅かしたとのこと。 ・・そこまでニコルが言ったのなら、この折に里親のこと詳しくニコルに話してもいいとも私は思うのですが、養父母がそうした、という記載はありません。 その後ドルト独特の花人形や他の人形を使ったセッションが続きます。ニコルは、便遊びをやめ、家事へ興味を示し、学校で進歩し、指先が器用で魅力的な子になってきます。 しかし、ある日、ニコルは食べることを拒否します。養母は食事を勧めているのに、学校の先生に「ママが土曜日まで食べちゃ駄目って」と言います。食卓には着きたがるが自分のための食器の用意は拒む。そして、父や、母弟が食べるのを「貪るような」「鋭く射すくめるような視線で」じっと見つめる。フォークの動き、食べ物がどう咀嚼され、消えていくか見守る。そうして数日食事は拒否。そして養母に「土曜日には食べる。それでおしまいよ」「ドルト先生には言わなくていい。私はたべちゃいけないのだから」と。そして金曜日の下校時、担任の先生に「明日は食べられるわ。ママがそう言ったの」と言う。実際、ニコルは土曜日、完全に食べる習慣をとりもどす。しばらくして養母は担任の先生に会い、「土曜日までママがたべちゃいけないって」とのニコルの言葉を聞かされる。養母はドルトに、「あの子は、自分の養母のことを悪く思わせようとして、あんなことをしたのでしょうか」と尋ねるが、ドルトは「そうは思いません。ニコルに食べるのを禁じたママとはあなたのことではなく、里親のもとでひもじい思いをしていた時期に遡るママの概念だったのです」と応える。土曜日には、ニコルは担任に「これでいいの、もう食べられるわ」と言う。さらに、担任には何のことかわからなかったが、ニコルは「これで厄介な女は死んだの、もうわたしを困らせないわ」と加え、そう言ったことが、ニコルの母親に担任から伝えられる。このエピソード以来、ニコルは完全に治癒。 ・・この最後の、やり残したことをやった、とでもいうようなエピソードは何だったのでしょうか。 養母に以前の里親の幻想を重ね(全く同一化させたわけではないにしろ)、以前の状況を反復させていたようにも思えます。これは以前の自分の悲惨な状況をフォルトーダーのように意図的に反復することであり、これにより、主体の能動性を奪回したということなのでしょうか(同時に里親もモーニングワークしきって)?? 里親について伝えられなかった代わりの、代理の解決策なのでしょうか? もし、ドルトが、養父母に対して、里親のことについて語ることの意義をしっかり伝えて勧め、もし養父母が最初からそのようにしていたなら、この最後のエピソード(食事の拒否)や、もしかしたらその前までの異常行動の多くも無しに済んでいたでしょうか?? 実際のところは養父母の拒絶が強かったのだろうから、ドルトもそう出来なかったのかも知れませんが・・・。 本当なら、しっかり里親の状況が伝えられ、酷い扱いを受けた理由がわかったり、養父母と里親について自由に話せるようであったならば、そのことでニコルも状況が俯瞰でき、状況に対する第三者的・能動的な位置にたてたことでしょう。しかし、結局、伝えてくれる大人はいない、自分で能動性を奪回するしかない、とニコルは大人に見切りをつけて、このプロセスへとはいりこんだということでしょうか? さらにニコルのこの行為について細かく考えると、以下のような疑問もわきます。 ?@この行為に翻弄される大人の反応や大人からの言葉も何かの効果を持たなかっただろうか。あるいはそれこそが一次的な効果を持っていたということはないか(・・私がそう思いたくなるのは、言葉こそが去勢させるという分析的な視点からですが) ?Aむしろ大人からのそういう反応を狙ってニコルはこのように振舞ったということはないか。 ?Bあるいは、実は結構早めの時点で、ドルトや大人たちとの対話の中で象徴的去勢を得ており、あとのこれらの振る舞いは、その総仕上げ以上ではなかったということはないか?? ?Cこれらの手段によって里親について語られると等価くらいのものをニコルは得たのだろうか・・。しかしやはり本当は、里親について養父母に語られるのが一番よいのではないか。 |
自閉症児の換気扇、その他まわるものへの興味。 欲望と無限遠の徹底排除を試む(?)子の、別のレベルでの補填的な無限遠の形成なのだろうか?? |
たしかに、欲望というのが一番納得がいきますね。ありがとうございます。 |
粘土自体は何に相当するのか?、、、の件ですが、ボロメオ等の一連のリングの絡みは、あくまでもトポロジーですから「関係性」のみが問題ですね。ただしトーラスのトポロジーなどでは浮き輪の空気が入っている部分にdesirを措定していたりするので、あえて粘土という「質」は何かと問われてあえて答えるとしたらそれは「欲望」だということになるのでしょうか。 |
睡眠中の幽体離脱は睡眠中の勃起の心的反映では、という仮説を捨てきれない。そしてこのまま外に出ていたら死ぬと感じる、としばしば報告されるのも、勃起したペニスに対する去勢不安では?? |
>その粘土自体はでは分析的には何に相当するのだろうか 結局、粘土の部分は対象aあるいは、対象a+他者の享楽+ファルス享楽の前駆体ということになるかと思いますが、当たり前といえばあたりまえですね。そこまで遡って実体的に考えることが何か意義があるのかどうか・・。 |
できました! 勘違いしていなければ多分。そういう角度で穴をあけたトーラスから考えると簡単なわけですね。厚い板に平行に3つ穴をあけたようなトーラスから切り出そうとしていたから考えにくかったのだと思います。ありがとうございます。 |