会田誠という人をまったく知らなかったのだが、ある日書店で画集をペラペラとめくっていたら「巨大フジ隊員VSキングギドラ」が目に止まりその怪しい魅力にはまってしまった。 森美術館での展覧会出典の「犬」シリーズ等について、市民団体からポルノであると展示中止せよとのクレームが付いているとのこと。 榊山さんに取り上げて欲しいテーマです。 永井豪のマンガ、バイオレンスジャックのスラムキングが同じコンセプトの人犬を飼っているのだが、会田誠の作品はオマージュなのだろうか。 こちらのページで議論が行われています。参考までに。 ttp://blogos.com/discussion/2013-01-30/Art/ |
知覚器官からの信号(現実界)に、大脳からのトップダウンプロセル(象徴界、想像界)が関わって、そこに知覚意識が生じてくると考えていて、最初の信号自身(のとりわけ器官に近いあたりの信号)には、トップダウンプロセスは関与できない、と考えていましたが、『音楽嗜好症』(早川書房)を読むと、そうとも言えないようで興味深い問題です。 最初は、トップダウンプロセスが知覚に影響しえたとしても、せいぜい、トップダウンプロセスがかかってきて知覚意識が生じる時点で、あるいはその直前くらいの知覚(いずれにしても、トップダウンプロセスの影響が波及することは考え得やすい大脳内の働き)には影響しても、それ以前の信号には影響を及ぼせないだろう、と思っていましたが。 当該の書185〜199ppでは、蝸牛の損傷、特に有毛細胞の損傷によってか(?)、ある音階が少しずれて聞こえるようになった音楽家ジェイコブは、意志の力でその知覚のひずみを修正できる、それは「顔にも花瓶にも見える図形を目にして花瓶を「見よう」とするようなもの」と述べた件が書かれています。 さらに抜粋すると、: 「ジェイコブは一つの音を集中力で引き留めたとき、そして、そればまた逃げてしまったとき、自分の知覚が変わると感じていた。ということは、たとえ1、2秒にしても、彼は実際に自分の蝸牛管を再調整できたのではないだろうか。・・・最近の研究によって、脳から蝸牛管へ、そして外有毛細胞へとつながる、遠心性の太い接続(オリーブ蝸牛束)が実証されたことで、その考えが裏付けられた。外有毛細胞はとくに内有毛細胞を調整、また、「調律」する役割を果たしていて、もっぱら遠心性の神経支配を受けている。つまり、神経インパルスを脳へ伝えるのではなく、脳から命令を受け取るのだ。」とあります。 以上。こう見ると、間接的にせよ、トップダウンプロセスが外有毛細胞を支配し、内有毛細胞―つまりは、外界の刺激を受け入れるまさにそのぎりぎりの領域―にも影響を与ええるようです。 その意味では、2重のトップダウンプロセスがある、とも言えるでしょうか。「聞きたいものを聞く」と言うとき、刺激は来てても一部を捨象して聞く、という場合もあるでしょうが、また、実際に刺激自体をシャットアウトして聞く、という場合もあるということになります。ちなみに、そういう器官レベルでのシャットアウトというのは、今のトップダウンプロセス(思考)以前にあったトップダウンプロセス(思考、あるいはそれらの総合)によって、行われているということに、多分、なるでしょう(でないと、まずは刺激を受け入れてしまう、ということになります)。となると、欲望(つまりは今までの思考の集積に欠如している穴)もそこにかかわっていることになります。知覚と欲望と、今のトップダウンプロセスの関係をここから考えるのも興味深いです。 また、敷衍すると、思考自体も、考えたくない思考はやって来ていても無視する、とするのみならず、考えたくない思考は最初から無しにする、ということも可能なのでしょうか?? 知覚器官とは話が違うからどうかわかりませんが、「父の名」の排除も、こういうことからも考えられるものかどうか・・。まだよく考えていませんが・・。 |
本能がくずれていると言いつつ、人間は結局、子供を産み、子孫を存続させている。利己的なDNAに利用されている。しかし、逆に、言葉や欲望のほうこそ自らを存続させるためにDNAを利用しているようにも見える。しかし、どちらも目的論にひきずられた考えかも知れない・・。 |
社会の不正や間違いを、自分の象徴界の流れを一時的にでも犠牲にせずに訴える方策はあるか? 結局、なおは、訴えつづける方向に自我同一性を見出したように思えるけど(その分は偏っているのかも知れない)。さっと訴えて、さっと自分に戻る、とすべきか? 「鳩のように従順に、蛇のようにさかしく」しつつ。あるいは、自分の象徴界の本流的な流れを大切にし、社会の不正は神や時が正してくれる、などと思いつつ流すべきか。それはそれで象徴界を多少なり自己抑制しているように思えるが、枝葉末節的で支流的な事柄に引っ掛けられるべきではないのかどうか。あるいは、そもそも訴えようとすること自体が、自分自身のヒステリーに(不満を見出そうとする構造)に由来しているだけなのか、そこに正当性が全くないのかどうか・・。 というような問題は今の体罰の問題とも通じてくる問題のようにも思えます。「体罰うけることは自分にとって修行として役立った」(確かに厳しい教師の下で、いろんな幻想を自己分析して象徴界を進展させる奇特な生徒もいましょう)、として皆がずっと黙り続けるばかりで、確かに体罰を恐れる緊張感が本当に役立ったとも感じているのかも知れず(実際は体罰でないほうが成長したかもしれないのに)、また、そのように言うことは謙虚な姿勢なのかも知れませんが、一方、そうする謙虚な生徒ばかりで、誰も訴える生徒が出てこないと、現状がずっと残り続けてしまう、ということにもなりますので・・。 |
出口なおの話に触発されて出た疑問。ある人のヒステリー性の解離が、どこまで外部の圧力に抗するための仕方のない手段であったのか、どこまで個人のエディプスコンプレクスへの固着のせいか、というもの。 この間にさまざまな段階が考えられると思いますが、代表的なものを挙げてみます。 ?@消去された主体S barreを守るための解離。例えば、このまま権力者に何も窮状と改革を訴えないと命が取られるが、個人として訴えるとそれ自体が命を危うくするから神の権威を使い神に憑依されたかたちをとり訴える場合。 ?A自分の象徴界を守るための解離。例は上の例に準ずるが、命を狙われるほどではなくても、言論弾圧などに対して、神の権威を使わないと抗しきれないとき。 ?B外部が特に圧力をかけないが、個人的なエディプスコンプレクスへの固着から、何かエディプスの欲望に触れる表象を見たときに禁止が働き解離するもの。 以上。要約すると?@と?Aは象徴的連鎖を守るための解離。?Bは象徴的連鎖を自ら抑圧するための解離。 考察や疑問を補足すると、まず?@や?Aについて。権力者に訴えるひとつの手段として神の憑依を利用するとは言っても、手段と言う意図的なものであるぶん、どこまで本当に解離しえるのか(自分で自分を解離しようとしても、前者の自分が意識に残り不可能なのではないか。)に疑問はあります。ただ、外圧がどうしようもないほど強くて、意図的な手段といえるほど冷静でない状態から解離状態に入る、ということはあり得るかも知れません。しかし、本当に通常に去勢を受容できている個人にも、これがありえるかの疑問は残ります。あったとすればどういう構造のひずみによってか・・。外圧が象徴界の自然な進展と想像界の安定性を強く破るほどのものとして侵入するとともに、それへの怒り、訴えたい感情が優勢となって、一時に象徴的進展がそれに凌駕されて、訴えたいが訴えると殺されるという疑似エディプスコンプレクス構造へと入って、自ら訴えるのには禁止をかけて神の権威を使って訴えようとする・・ということであり得るか、あるいは、そこに以前のもともと残っていたエディプスコンプレクス(それが、誰にも残っている程度のであれ。つまり象徴界によって基本的に常に解消への道をたどり続けているエディプスコンプレクスであれ。)が圧縮されてこそそうなりうるか・・にも考察がまだ至っていません。このへんは、外傷性神経症が、個人的に特殊なエディプスコンプレクスの固着なしに、ただ危機的な事件との出会いのみでありえるか、の議論にも通じることかとも思います。ちなみに、解離でないにしろ、他の神経症症状でも同じような問題を問える場合があるように思えます(たとえば、言論統制に対するハンガーストライキにも思える場合の拒食症など)。 ?Bを別に分けましたが、なぜエディプスコンプレクスへの固着が起きたかというと、その最初の時点では、子供にとっては?@や?Aと等価と感じられる危機が外部から行われたのかもしれない―実は全てそういう場合かも?個々人に敏感さの違いはあれ・・―(その危機感を感じさせたのが必ず外部からの言葉であるべきか、外傷的な事件のみでもありえるのかはよくわかりませんが。ただ事件にしろ、むしろそこで事件をきちんと説明する在るべき言葉がなかったから、という意味で、問題を「言葉」の領域に収斂することもできるかもしれませんが)ということも補足しておきたく思います。 で、出口なおに戻れば、彼女の解離はどこに位置するか・・。社会への訴えというのは、実は個人的な家族的なエディプスコンプレクスの置き換えであって、本当は後者のほうの問題がより大きかったのだととることもできるかも知れません。そもそもの最初の神がかりも、お告げは、発狂した長女について、五女に対して「西町(長女の嫁ぎ先)に行って36体の燈明を供えて『ご祈念せい』と言うて来て下され」という家族的なものであったし(ただ、これをなぜ解離で言わないといけないか―そんなにまずい言葉でもないと思えるが―、どうエディプスコンプレクスがかかわっているのかは、家族背景がわからずよくわかりませんが)。しかし、やはり、一次的に?@、?Aに動機づけられたものであるのかも知れず、これはよくわかりません。上記のお告げにしろ、社会への訴えがどのようにか一次的にからんでいるのかも知れません。 |
王仁三郎を、なおはどう思っていたのだろうか、苦々しく感じるところはなかったか、というのもTVを見ての感想です。 TVでは、王仁三郎は、日本の正当な神道の教育も受けていて、また、天皇のもとでの平等な人々という世界観を作ったとの旨ありました。想像的命名中心に生きた人というところでしょうか。 なお自身は、艮の金神という、むしろ恐れられていた、いわば世間からはアブジェクとされていた悪神(信仰していた人も結構いたようですが)をこそ神にしたというところからして、王仁三郎のこの世の天皇中心の世界観などというものは世間に妥協的で、よほど俗っぽく思えはしなかったかどうか。さらに、国には対抗的であったなおからすると、国家主義にもつながる王仁三郎の思想には同意しがたいところはなかったのか? 今、ふと思ったこと。出口なお、という名自体の作用は? 出口→金神なり、世間に隠れた声の出口となる・・??。勘ぐりすぎ? また、(以下ウィキペディア)なおについて「折からの天保の大飢饉のため両親は減児を相談したが、気難しい姑が断固反対し生を得ることが出来た」とありますが、そういう意味では、アブジェクトされた艮の金神との同一化がここに用意されていたようにも思えます。 |
>できれば普遍宗教を、一度身体に入れておいた方がいいかもしれません。 普遍宗教の定義にもよりましょうが、どうなのでしょうか。言葉があれば、教えなくても、論理的に考えられ、すべてを疑え、思考を弁証化しつづけえましょうが、そういう象徴的去勢への動き、言葉の自然な動きを子供に許す、ということそのものがここでの普遍宗教の定義であれば同意です。そういう意味では、わざわざ宗教の名を出す必要もない普遍宗教ということですが(逆に自分を普遍宗教と言っている普遍宗教ほどあやしいということにもなりかねません)・・。ドルト的な聖書の参照の仕方、というところまでいけばよいのですが。そうでなければ、普遍宗教と名付けられたものの信仰の場合、多分に想像的命名という補填に終わってしまう可能性もあるのが問題のように思えます。 |
>早めに、 幼少期に、という意味です。 |
>神の名のもとで訴えられたら そういう意味では、早めに、できれば普遍宗教を、一度身体に入れておいた方がいいかもしれません。 予防注射みたいなものでしょうか。 |
NHK 「出口なお・王仁三郎」 残念ながら、見逃しましたが面白そうなシリーズですね。 次回は更にすごい。 是非見ないと。 1月13日(日)午後10時〜11時30分 第10回 昭和維新の指導者たち 〜北一輝と大川周明〜 |
私自身も、訴えたい倫理を、なおのように、意識を解離して、神の名のもとで訴えられたらどんなに楽だろうと思います。特に田舎では。都会では、自分のアイデンティティーがわからぬように多人数に紛れて訴えることはたやすいからそうする必要はないけど。と、考えると、意識解離して神の名を借りて訴えることと、多人数に隠れて訴えることは等価? |
>たしかに、ドレミの歌の「ドはドーナツのド」という後半のドはミの音ですが、そういうことの影響が大きいのかもしれませんね。 しかし、考えてみると、ドレミの歌は明治時代にはありませんから、当時の日本人のドとミのわからなさは別の原因から来ているのかも知れませんね。 しかし、ヨナ抜き音階は分かるわけだから、ドレミで言うと、ファとシがないだけですから、ドとミ相当の音階の区別はもともとできているはずですね。それができないとはどういうことか。とりあえずは、ドとミ、またその間の関係と、他の音との相対的な関係が、西洋のドレミ〜の音階と、ヨナ抜き音階との場合では違っているから、というふうにしか考えられません。 ということは、逆に、西洋の音階のドとミは分からず、ヨナ抜き音階のドとミ相当の音は分かる、ということ自体が、少なくとも、学習以前にも「異質な音階の系列には多少ともことなった感情が連想されていやすい(どういう連想かは一人一人違っても)」ということを示すように思えます。感情の質というものも、結局、想像的に安定した身体像を攪乱する穴に対する、連想や共感覚に過ぎないでしょうから。感情とまで言えるものではなくとも、何か違った雰囲気がドレミ〜とヨナ抜き音階に配分されて感じられているのだろうなとは思います。 |
絶対音階が私にあるわけではありませんが、若い頃は今より、音程が当たる割合は多かったと思います。しかし、不思議なのですが、年をとってからは、突然「ド」を聞くと一つ上の「レ」ではないか?とふと思ってしまうことが多いように思います。下がった方に感じることはあまりないように思います(私だけなのでしょうか??)。これはもしかしたら、モスキートーンは年取った人には聞こえないというところから考えるに、周波数の高い音が聞けない分、相対的に、以前は低く感じていた音を少し高い位置のものとして判断してしまっているからでしょうか? 年をとると、青が見えにくくなる、だからガスの青い炎も見えにくくなるから気をつけたほうがいい、と聞いたことがあります。こうみると、どうやら、音にしろ色にしろ、年をとると高周波のものには緩んだ弦のように神経が共鳴しなくなっているかのように思えますが、色については、音と同様、少しスペクトルをずらして、かつての青(特に紫的なスペクトルの端ぎりぎりのところの青)には色が見えず、かつての緑が少し青がかり、黄色は緑がかり、橙は少し黄色がかって観ている、ということになるのでしょうか? |
>ドとミを聴き分けることができない日本人が多くいた なぜ、そうなのか。 とこだわって調べてみましたが、以下、 ttp://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/yasuda002.htm に書かれているように、たしかに、ドレミの歌の「ドはドーナツのド」という後半のドはミの音ですが、そういうことの影響が大きいのかもしれませんね。ソはまともですが、後半に言及のないシ以外は全てそのようにずれていて、罪な歌だと思います。 しかしこれは音階とその名を一致させることの困難さであって、音階自体が混乱して聞かれているというわけでもないのでしょうね。 ついでに、上のページからさらに ttp://shop.tokyo-shoseki.co.jp/shopap/special/music/artes/yasuda001.htm へと入ってみましたが、これはアナグラムの視点からだけでも、かなり面白く、もっといろんな歌や、人のかたりをこのように観てみたいな、と思わせる興味深い論考です。 |
短調、長調の感覚関連から、以下おもしろいです。こういう視点からももう少し考えてみたいと思います。 ttp://hiro-san.seesaa.net/article/250596676.html |
榊山さん。本年もよろしくお願いいたします。 たしかに、小学校時、教師が、長調と短調を教えるために、「長調は楽しく、短調は悲しい感じ。聞いてみるとそうでしょ?」と言っていて、納得しないながらも、基本的に教師におもねっていた私は長調と短調を区別するための指標を得ようとしてムリにそう感じようとしていた記憶がうっすらとあります。 問題は、私が既に述べたような共感覚の影響は全く無くて、すべて訓練でそう感じ始めたのか、逆を教えられていたら、長調=悲しい、になっていたかですね。 やはり後者は難しいのではないか(そもそもこんなこと思いついた人はなぜ短調側に悲しい、をおいたのか?偶然も否定できませんが)。そもそも、「悲しい」とか「楽しい」とは何か、この分類名自体がかなりの単純化ではないか、という問題もあるので、もっと精神分析に、在-不在の想像、(φ←→-φ)を問題としますが、在-不在の想像を、人は、何か似たもののペアに向けて、あるいはそんなに似ていなくてもあえてペアを作りだして、分離して分配しようとする傾向があるのだと思います。混在させてしまって、在の想像を壊してしまわないように。例えば、太陽と月、犬と猫など(そしてそこにペニスのある男性・無い女性を見ようとしたり。むろん、太陽と月や、その文化における男性、女性の機能に応じて、どちらをどちらに分配するかは任意でしょう)。長調と短調と言われる音階にも、在-不在の想像が訓練されずとも否応なく分配されてしまうのではないでしょうか? どちらに不在が分配されるかというと、これは任意と言えば任意なのでしょうが、ドミ♭ソという、ミが長調の場合より多少「落ちている」短調のコードのほうに分配され、ミが相対的に上にある長調のコードの方に、φ=ファルス、しっかりと「上」を向いて勃起したファルスの想像が分配される、とするほうが自然に思えます。「不在」が「悲しい」、とは人によってはならないかも知れないし、悲しみ以外にも、「不在」には様々な感情がさしむけられることでしょうが、ともかく、個人に於いて、不在側と想像される感情が短調側に、在と感じられる感情が長調側にどうしても分配されるのではないか、と思うのです。とはいえ、確かに、訓練の影響も思っている以上に大きいかもしれませんね。悲しみを伝えるには、一般に悲しいと言われている短調を使うのがいいだろうと思ってそういう曲を作ろうとする、葬式の時に長調の曲を流すのは不謹慎だろうと思って遠慮するとか、そういう気遣い、習慣の中でいつのまにか常に訓練を受けているようなものですから。どこまでが純粋に共感覚によるものなのかというのはなかなか難しいです。 あと、余談ですが >何か似たもののペアに向けて、あるいはそんなに似ていなくてもあえてペアを作りだして と言いましたが、長調と短調は、このどちらなのか、そもそも物理的に波長的に他の旋法と違ってこの2つは何か似た特徴はあるのか、あるいは、そうではないが、ペアを作るためにあえて短調の音階というものを作ってもってきたのか、そこはよくわかりません(わかる人にはすぐわかることでしょう)。 |
水上さん、こんにちは。本年もよろしくお願いいたします。 >長調はなぜ楽しく、短調はなぜ悲しく聞こえるか という問題を考えるには、その前提として,音楽を理解するということは、幼い頃からの訓練によってなされているということ、つまり言語の習得と似ていることを考慮しておく必要があるように思います。 これは調性音楽を聴いたことのない人間が、長調、短調にそのような感情の差異を聞き分けることができるか?という問いとして考えてみることができるかもしれません。 たとえば明治時代のある外国人宣教師は、当時、ドとミを聴き分けることができない日本人が多くいたことを証言しています。 これらの音を聴き分けるために「ドミソ」だけを毎日毎日繰り返し指導されたという生徒の証言も残っているそうです。この訓練は外国語の習得に似ています。 日本人生徒たちが、ドとミを聴き分けることができる前から長調は楽しいと感じることができたのかどうか、 果たしてそれを感情の在り方の差異として聴き分けることができたのか、 その過程についての証言があれば面白いのですが。 |
長調はなぜ楽しく、単調はなぜ悲しく聞こえるか、というのは、長調と短調の2つしかなければ人は人の根源的な差異化である在(こちらはたぶん楽しい、に通じる)と不在(悲しいに痛じる)をそれらに分配してみるはずで、そのうえ、例えば、長調であるドミソに比して、短調であるドミ♭ソは、後者は、ミ♭となっている分、その落ち込んだ感じが、悲しくて重力に引きずられるまま寝付いてしまいたい感じ、呼吸の重い感じ、などとの共通項があるから、共感覚的にそうなのだろうな、と思っていたのですが、 『The Geometry of Musical Chords』 ( ttp://www.brainmusic.org/EducationalActivitiesFolder/Tymoczko_chords2006.pdf ) Dmitri Tymoczko 著の最初のページの右側にある次の文は興味深いものでした。 :・・the C major chord is inversionally related to the C minor chord {C, E♭, G}, or {0, 3, 7}, because {0, 3, 7}≡{ 7 – 7, 7 – 4, 7 – 0} modulo 12Z: 私の理解したところでは、ド(C)を0として、半音も入れると、音階は0〜11(最後のシ)のナンバーが付けられるわけで、これに応ずると、ハ長調(C major)のドミソは、0,4,7で、ハ短調のドミ♭ソは、0,3,7だが、ドミソをソミドに反転させて7,4,0にして、7からそれぞれを引くと、0、3,7というハ短調の和音が構成できる(別言すれば、ハ長調のドミソの反転と短調のドミ♭ソを加えると、それぞれどれも7になる?)ということかと思いますが、このこと自体が、直接的に、なぜ長調は楽しく短調は悲しい感じがするか、という答えにはなってはいませんが、こういう関係がある、というのは今まで気づかず、私には目からうろこのことでした(普通に知られていることなのかも知れませんが・・)。 |
年末には、TVではサイエンスゼロを初めとして、iPSの話が多かったですね。そのつながりで、ばらばらにされたプラナリアの断片が多くのプラナリアとして再生するとき、必ず一方が頭に、逆側が尾になるのはなぜか? それは、そもそも元のプラナリアに於いてタンパク質の一方向の流れがあって、切られると、その流れが、断片の後方側で停滞してそこにタンパク質が停滞し、前方にはタンパク質がなくなる、そして、そのたまった側が尾になり、前方側が頭になるのだ、という話がありましたが(私の誤解が混在しているかも知れませんが)、興味深かったです。私としては、どこか、まず、プラナリアには、部分=全体というような、フラクタルな構造があるんだろうな、と思っているのですが、そこに、更にタンパク質の「流れ」、という、時間的でアナログなものが作用しているのがおもしろかったのです。 ここで思ったこと。構造+時間的なアナログなもの、と二分化させて考えず、例えば、時間と空間を、「時空」として考えるように、もっと関連づけて考えられないか、あるいは、多次元の中の、ちょっとした表現の違い、として考えられないか、ということ。そして又、逆に、生命における、内部と外部という二分化。つまり、構造(先のことでいうとフラクタルな)に対して、例えばタンパク質の「流れ」というような、外部からの作用が、生命の発現には必要なのではないか、と思わせる関係。(上記のプラナリアの件ではタンパク質の流れ自体も、切られた部分は受け継いでいたから、明らかにそれは外部とは見えないわけですが、死んだマウスからiPS細胞をとって精子化し、そこからマウスを作った折には、たしか生きたマウスの卵子に受精させた、とかありましたが、そこから考えると、やはり、生きた動きという、構造外からの介入が必要なようにも思えます)。むろん、そういう内部と外部も超えて、この2分を包括しえる見方も考えてみたいですが・・。又、構造と流れ、という連想から、脳のシナプスや脳波や信号の伝達v.s.血流。この両者が情報伝達に寄与しているのではないか、などということ。 余談でふと思ったことですが、プラナリアを分割して、より多くのプラナリアは作れるわけですが、多くのプラナリアをまぜて大きな一つのプラナリアをつくるというわけにはいかないのでしょうか? やはり、詳細化、差異化のほうに生命は向かうしかないのか・・? あと、iPSから、分化した細胞をつくる難しさが語られていましたが、心臓の細胞を作るためには、4種類のタンパク質をある時間をおいて特定の順で与えればいい、というのも興味深い物でした(この4種類ということ自体も、細胞をiPS化させるときも4種類が要ったということから興味深いです。これは偶然でしょうが)。もし、身体全体が、何らかのフラクタルな構造の延長(というのは私の勝手な考えですが)とすると、部分的な器官やその細胞だけを最初から独立したかたちで作るというのはかなり難しいことなのかな、と思います。通常なら、ある器官や細胞は、身体「全体」からの作用を受け取って、また、何かを返しつつの、双方向的なやりとりを自然に行えるのですが、この場合はそういう訳にもいかないので・・。それでも心臓の細胞が出来た、とは! しかし、もっとそういう本来ならあるはずの「全体」、そして、全体との双方向的なやりとりを模倣する何らかのやりかたがあれば、よりたやすく精巧なものができるのでは、と素人が身勝手にも思っています。むろん、何かの生きた個体を借りて、そこにiPSをくっつけて心臓細胞なりを育てるというやりかたはありですが、それは既に行われていることでしょうし、人間でそれをしようとしたら倫理的な問題もあるでしょうからそういうわけにもいかないことは多いでしょう。 |
ピダハン(NHK)年末に見ましたが、ピダハンの言語は、結局、去勢を出来るだけ避けようとして出来た言語のように思います。 例えば、シニフィアンとシニフィエの分離を、出来るだけ避けて、言語学の言うシーニュを模倣しているように見えるというのもその一つでしょう。擬声語や、抑揚が豊かなのは上記の分離に抵触しないからでしょう。リカージョンの欠如もこの分離を避けようとする戦略でしょう。例えば、リカージョンの欠如に沿えば、「彼はこう言った」とは言っても「彼がこう言うのを私は聞いた」とは言わない、ということになりますが、これは、後者の「かれ」は「私の記憶の中の彼」になり、いわゆる通常言うときの「かれ」とは違うシニフィエをになっているため、、後者を許してしまえば、一つのシニフィアン(「かれ」)に2つのシニフィエをになわせることになり、つまりシニフィアンとシニフィエの密着に裂け目をあけ、去勢の脅威を感じさせることになるからでしょう。 番組では、ピダハンを話す人が、自分の名前を表明するとき、「私は、自分を〜と呼ぶ」と言わず、「人は私を〜と呼ぶ」と言っていたのも印象的でしたが、これも、対象としての自分と名付ける自分を創る、つまり、自己分割をする=自分に穴を開けてしまう=去勢をあらわにさせてしまう、という危険をさけるためかと思います。 そういう言語を持つピダハンの人々には不安がない、とか、番組ではかなり理想化されていましたが、上記したように、同じものにも別の言い回しがある(今までの一義的なシニフィアンとシニフィエの擬似的な密着が壊される)ことへの不安があり、そういうシニフィアン・シニフィエの分離を根本的なところで導いてもいる言語の自然な連鎖=弁証的な進展、がどこに自分を連れて行くか分からないということに対する不安、があるのだと思います。彼らにうかがえる外国人に対する恐怖あるいは警戒心、閉鎖性、というのはそういう不安を背景とした症状レベルでの現れかと思います(外国語と出会うということは、同じシニフィエにも違うシニフィアンがあることとの出会いでもあるし)。 そういえば日本語も、主語の欠如とかありがち、擬声語も豊かで、どこかピダハンにている心性が背後にあるように感じます。外国人へのおそれや排他性とか(田舎では未だにこれがあきらかに伺えるのですが)、外国語が苦手(とくにまず訳してから学ぶというありがちな姿勢)も、そういう言語のありかたと無関係ではないようにも思います(言語がそういう文化の原因だと言うつもりはありませんが)。 |