・システムの増殖→合成数の増殖 ・無駄なシステムの削減→素数と掛け算だけへの還元・・。「変わらないために変わり続ける」、とは、常に入ってくる合成数を「因数分解」し続けて、なるべく単純なところに居続けること。そこに本来あるはずの×(掛け算)をし残して(=抑圧)しまわないこと・・。 |
「現状肯定」はある状態を維持し続けることに見えるが、周りの状況が変わっていく時期には、 目の前の景色がいつの間にかとんでもないことになっていることもある。 つまり現状肯定のつもりがいつのまにか、とんでもない別のものを肯定してしまっているということもあるかもしれない。 そういえばラーメン屋チェーン店の一風堂の経営者が 「変わらないために、変わり続ける」という言葉を信条としているということを テレビで言っていたのが妙に印象に残っている。 |
先に述べた述語性同一視の背景構造についての私の仮説をまとめると、それは、例えば、マリアや私の全体も別々のものとして見れつつ、また、処女という部分属性が共通だからとそこだけで「マリア=私」ともなる、という「全体と部分」という二局面への同一化の閉鎖的な行き来がある、そしてそのことで自我を保っている、ということになります。 そこまで考えると、分裂病者の具象的で平板な言葉の使い方、例えば、アンネ・ラウは「(私には)後ろ盾だてが必要」というとき、それは文字通り「母親が自分の後ろにいること(が必要)」と言っているわけですが(『自明性の喪失』160−161ppブランケンブルク)、こういう言葉も、「(後ろにいること、という)具象的な意味(ひとつの部分的な意味)」だけでなく、それと「(精神的な支えが必要というような)通常の、比ゆ的なものも含めたさまざまな使い方(=全体)」との間の行き来の構造にあるのではないか、とも考えたくなってきます。そもそも、最初に「後ろ盾が必要」などという言葉を使い始めたときは、最初から文字通り後ろに立ってもらうことという以上に、精神的な支えが必要と思っていたからこそ言ったことばでしょうし、多分。 調べてみると、はっきりはしませんがラウは、やはりそのようであったようにも思われます。「(ラウは“後ろ盾”を)単に比ゆ的な意味で用いているのではなくて・・・」とブランケンブルクが言うところ(158p:その他そのあたりで書かれているところ)からは、比ゆ的にも用いえていたように思えます。 言葉の具象的用法以外に、特に分裂病者に・・ということだったかどうかもうだいぶ昔のことではっきりとはしませんが、奇妙に感じた場面として、ロールシャッハテストで、例えば、いかにも蝶に見える図版に「蝶」と答えて、理由を聞くと「ここが触覚だから」と部分のみを指摘して終わってしまう・・こちらとしては「きっと全体像から把握したはずなのに。全体を説明してもよさそうなものなのに・・。」と感じる場面が往々にありました。そういうのも、仮説的ですが、述語性同一視と同様「部分と全体への閉鎖的な同一化の行き来」の構造から考ええるようにも思えます。「蝶」と答えつつも、全体をあえてその答えの根拠として提示しないことで、全体と部分の閉鎖的行き来を保持している(全体をきちんと説明すると、図版から独立して判断する主体を形成してしまう。それよりは想像的同一化を部分と全体の行き来の中でキープしたほうがまだいい、と病者は思っているから)のではと思われるわけです。 |
>だとすれば、水上さんのおっしゃる「現状肯定」は抑止力として積極的な意味を持ちますね。 抑止力、さらにマイナス化あるいは無駄の削除への積極性といえばそうかもしれませんね。 |
ご返答ありがとうございます。 >私自身は私はまさに「現状肯定」なんだろうな、と思っています。変えようとする政治家の、その変えようとする方向性は、ほとんどうさんくさい、何か裏のあるものに思えてしまうからです。それよりは、彼らには、何もさせないほうがまだいい、とそう思うからです。 だとすれば、水上さんのおっしゃる「現状肯定」は抑止力として積極的な意味を持ちますね。 「諦念」というよりは、それもまた「積極的」な「政治的判断」ということになりそうですね。 |
私自身は私はまさに「現状肯定」なんだろうな、と思っています。変えようとする政治家の、その変えようとする方向性は、ほとんどうさんくさい、何か裏のあるものに思えてしまうからです。それよりは、彼らには、何もさせないほうがまだいい、とそう思うからです。 しかし、政治家たちがそういう方向に変えようとすることに対しては、反対の意思を表明する、という意味では現状(私利に基づいてシステムを変えようとする方向性を持つ政治がなされている現状)肯定ではない、と言えるでしょう。 何か、新しいシステムを作るというより、むしろ、これまで作ったシステムに既に、私利に基づいたものはないかを探し、そういうものは崩していくという、そういう方向(いわば、マイナスにさせる方向性)へは動いてはいきたいと思っています。今の、政治にはそういう方向はあまりうかがえないな、ということです(どうも、楽観的に、システム変換に過度の期待を寄せすぎて、システムをころころ変えたり、システムを不必要に増殖させているように見える)。「ベターの選択」だからといって、すでに提出されている政治的ないくつかの方向性(改憲や、国軍もそうだと思うのですが、)の中から選ばなければならないという必然性はないわけですし。 |
水上さんへ 水上さんは、 >ああまだ政府を信じていたところがあったのだな、と反省し始めたときからさらに諦念が強まったように思います。 とおっしゃいます。しかし >私の言いたいのは、とりあえずは、あまり目新しいシステム作りなり「改革」(?)なりを、絶対的な必然性もないところでやってくれるな、ということです。 とおっしゃてもいます。 つまり水上さんのおっしゃる「諦念」というのは結局のところ「現状肯定」の別名なのではないでしょうか。 ご自分ではそう思っておられなくても、結果的にはそういうことになるのではないでしょうか。 わたしは丸山眞男の「政治的判断」の次の一節を思いだしました。 「政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治に対する冷笑とは実はうらはらの形で同居している。」 以下は、この一節の前後の部分です。1958年の講演を文章化したものですが、今も十分に通用すると思います。これよりうまく語ることはわたしにはできないので、そのまま引用します。 <つまり、政治的な選択というものは必ずしもいちばんよいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉のいっている言葉ですが、「悪さ加減の選択」なのです。これは何か頭に水をぶっかけるようないい方ですけれども、リアルにいえば政治的選択とはそういうものです。悪さ加減というのは、悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです。この中には二つの問題が含まれているのです。すなわち、第一に、政治はベストの選択である、という考え方は、ともすると政治というものはお上でやってくれるものである、という権威主義から出てくる政府への過度の期待、よい政策を実現してくれることに対する過度の期待と結びつきやすい。つまり、政治というものはもともと「自治」ではなくて、政府がよい政策をやってくれるものだという伝統的な態度と容易に結びつくのです。したがって、こういう政治というものをベストの選択として考える考え方は、容易に政治に対する手ひどい幻滅、あるいは失望に転化します。つまり、政治的な権威に対する盲目的な信仰と政治にたいする冷笑とは実はうらはらの形で同居している。政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだ、という考え方は、実は同じことのうらはらなんです。> |
そうですか・・。諦念・・私の中にあるのは、やはりそういうことだと思うのです。 それまでも諦念していたけど、拍車をかけたのは震災後ですね。それまでも政府を信じていないと思っていましたが、震災後こんなこと政府がやるのか、ここまで国民のことはどうでもいいのか、とびっくりした自分に、ああまだ政府を信じていたところがあったのだな、と反省し始めたときからさらに諦念が強まったように思います。 |
概ね反対。 そこまでの日本社会への諦念がまだよく理解できないです。 |
そもそも、国際法というのがどうかな(私が国際法をよく知らないということもありますが)、という疑いがある(インターナショナルだからと言って、広くなるだけで客観的とは言えないとは思いますし)のと、それ以前に、そういういさかいに参加せねばならなくなるような状況を作り出してしまった政府、いくら国際法が正当なものと認めようとそもそもそういう状況にこの国を巻き込ませた政府(例えば、国内の政権争いのために、国民に支持を得ようと強硬な外交でポーズをとったことが戦争せざるを得ない状況にさせてしまうとか。・・で、そういうものなのに国際法からは、他国のほうがより悪いと認められて日本が武力で制裁を行うことが正当なものとして認められるということはありえると思いますが)・・そういう政府のために、なぜ私たちや子孫が加担し徴兵され傷つく可能性を高めさせる「国軍」という状況を準備せねばならないのか、という疑問があるわけです。 >ここまで市民社会が成熟したらもういらないんじゃないでしょうか。 私には全然成熟しているとは思えないのです。(たとえば、「絆」教で、がれき拡散を称賛する人々がこれほどいる) >問題は「システムがどう機能するか」であって「システム考案者の思惑がどうか」ではないと思いますが。 いったん作ってしまったら、あとはうまい具合にごまかされつつ移動されて、権威者の思惑に沿って動かされるのが世の通例だと思います。思惑を問うという以前に、私の主旨は、そもそも必然性もないところで新しいシステムを作ろうとする時点でもう何らかの恣意的な欲望があるはずだから、私は「くさいにおいはもとから断っておく」という意味で、そういうことは最初からさせないのが良いと考えるのです。 >「私欲のぶつかり合いじゃない政治システムにしたい」と考えるのが案外究極の私欲だったりもします。 むろんパラドクシカルな側面はありますが、わたしは、まだ、こういう、自分たち自身の自我を崩そうとする弁証的なシステム崩しのほうがいいです。「私欲ではない」ことを実証できるために、政治家になるには最低賃金とは言わずともそれにより近づいた給料に甘んずるという条件があればなお良いと思います。それでももちろん私欲は残るでしょうが、考えられる限りこれが最善の姿のように思えます。まあ、「あらたな、ぶつかりあいじゃない政治システム」を作るというより―それは確かに、そういうシステムを旗印をかかげて推進しようとする個人が出てくるとおっしゃられるようにそこにも究極の私意がある可能性はあるから―、私の言いたいのは、とりあえずは、あまり目新しいシステム作りなり「改革」(?)なりを、絶対的な必然性もないところでやってくれるな、ということです。こういう改革って、いわば、自己分析からのがれて行動化を起こしていることのように見えるのです。 |
あ、呼び捨てにしてもうた(笑)。「水上さんへ」です。 |
>国軍といっても、結局、政府の人間のための軍となるでしょう 国軍になればより国際法に縛られることになります。自衛隊から国軍へ、というのは有限会社から株式会社になるようなもので、経営者の主観的・経験的判断(政治家・学者の解釈)でだけ動けなくなり、市場・社会の客観的判断(インターナショナルな基準)にもさらされるようになるという側面もある。 >日本で、もし天皇をなくして政府がトップに立つと政府の暴走を止めるものがなくなるのではないでしょうか。 政府が暴走したとき、それを止めるのはもちろん「市民社会」です。日本には市民革命の歴史がなかったため、とりあえずそれを天皇とか国体とかに外部委託してきたわけですが、ここまで市民社会が成熟したらもういらないんじゃないでしょうか。 >そもそも制度を変えようとする(天皇廃止や国軍)ところには、誰かの私利私欲があるのではないかと疑わしくもあります。 政治とはそもそも私欲のぶつかり合いだから、そういう疑いは疑いなくあるでしょう。それに「私欲のぶつかり合いじゃない政治システムにしたい」と考えるのが案外究極の私欲だったりもします。問題は「システムがどう機能するか」であって「システム考案者の思惑がどうか」ではないと思いますが。 |
>榊山さん そう言われればそうかも。政治的な議論においては、If...then〜形式で語ると相手にされない場合が多い。「クールすぎる」「情動不足」と取られてしまうケースが多いですね。 >藤田さん それは個々人の語学力と度胸と胃の強さによりますね。食生活による母国束縛力は意外に強いらしいですよ。 |
>そういう意見がほとんどないのが不思議でたまらない。なぜなんでしょうか? 私としては次のような感覚です。 ・国軍といっても、結局、政府の人間のための軍となるでしょう。福島の件を見ても、あれほど情報を隠し、私たちの生命を脅かす政府の人間のために傷つきたくはないというのがあります。 ・近代国家とはどこをさされているのかわかりませんが、例えば、米国では、天皇ではなくともキリスト教という、政府とは別の権威が強く並立していると思います。複数の権威が並立することって、互いに足かせになることで互いを暴走させずにおける効果もあるのではないでしょうか。例えば、私の以前の職場では、一時ボスが不在で、2人の副ボスが取り仕切っていた時期がありましたが、その時が一番職場も平穏でした。日本で、もし天皇をなくして政府がトップに立つと政府の暴走を止めるものがなくなるのではないでしょうか。そしてそのうえ、この国では、昔から権威者が儒教を悪用して、どんな権威にでもともかく従順であることが美徳で人間として当然であると洗脳していることから、そこにますます拍車がかかることでしょう。仏教があるとはいえ、キリスト教のように強いトップダウン的な(バチカンからルールが下されるような)組織宗教ではなく、より個々人の内面に任されたものゆえ、一般の人々にとっては、それを通して政府を相対化してみれるほどの防御壁にはなりにくいかと思います。 ・むろん、政府が天皇さえ利用する危険も十分ありますが、そもそも制度を変えようとする(天皇廃止や国軍)ところには、誰かの私利私欲があるのではないかと疑わしくもあります。だから、天皇は絶対必要とは言いませんが、今あるものなら別段排除しなくてもいいのではないか、今のままで、政府の私利私欲のために天皇を利用させないように見つめておけばいいのではと思います。ともかく最近はソフトが充実(例えば、憲法も、解釈をいろいろ加えてやっていくとか<批判もありましょうが、それだけ平和憲法の足かせが功を奏しているということでもありましょう>)する前にハード、システムを変えすぎ、枠組みを変えたらどうにかなる、と思われすぎだと思います。 ・・という考えから、私は「天皇制廃止して国軍を持つ」という考えは持てないのですね。 |
国を変えるより自分が移動した方が早い。 |
>そういう意見がほとんどないのが不思議でたまらない。なぜなんでしょうか? それはこの国の(多くの)人たちが原理原則でものを考えていないし 行動もしていないからだと思います。 原理原則という自分の軸足、要するに基点が定まらないから 最初の一歩をどこに向かって踏み出すか、という発想もできないわけです。 つまり中野さんのご意見は、「近代国家」の原理原則からいえば まずこうなるという考え方だと思いますが、多くの人は、 これはわかる、これはなんか違うという「気分」から出発して それに理屈をくっつけているに過ぎないのです。 「不思議」ということに関してはそこに謎があるわけではなくて 原理原則なしに行動するし発言するから、何を考えてんだか次に何をやらかすんだか、 原理原則でものを考える習慣がついている人間からみるとまったくもって予測がつかないので 不思議に見えるだけなんだと思います。 |
やっぱ天皇制廃止して国軍を持つのがさっぱりしてていちばんいいです。 近代国家としてそれがいちばん普通なのに、 そういう意見がほとんどないのが不思議でたまらない。なぜなんでしょうか? |
>一歩譲ってその憲法が望ましいと思うのならば、それを踏まえて自前で作りなおせば良いと考えるだけです。 私は、望ましいものであれば、自前でなくてもそのままもらっておけばいいと思うのですが、それではまずいのでしょうか? 新しく作るのは二度手間だし、税金もそれに使われるだろうし・・。 |
>戦争に勝った側が敗戦国に押し付けたルールを後生大事にするという理屈 わたしはそんなことは言っていません。 |
>こうしてみると日本は、中国や韓国の無法ぶりや非常識ぶりを 国際的な意味での「大人」として批判する立場に立つのであれば 「欧米」的(2012年現在における括弧付きの「普遍」的)価値観にのっとって 「先進国」の「先輩」として振舞うのが得策なのでしょうね。 >つまり「占領軍が作った憲法は廃棄したらいい」と記者会見で平気で述べるような政治家とか 前段と後段と整合性が無いです。 前段の帰結としては、無法に対しては断固として対抗すべし、処罰すべしです。 >「占領軍が作った憲法は廃棄したらいい」 当たり前だと思うのですが。 戦争に勝った側が敗戦国に押し付けたルールを後生大事にするという理屈がわかりません。 一歩譲ってその憲法が望ましいと思うのならば、それを踏まえて自前で作りなおせば良いと考えるだけです。 |