[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード


初耳です / 水上雅敏
たしかに興味深いことです。
ということは、何か、花村氏と渡辺氏に、共通項なり、あるいは逆に対照的・対称的なものが奥様方に見られていたということでしょうか?
もちろん、花村氏と渡辺氏、分裂病についての研究が多いとかはありますが、それ以上のなにか、・・が。
また両氏の関係も関わってくることでしょう。

双子は、似た人に惹かれるのかどうか、が話題になることは多いですが、別に花村氏と渡辺氏がどうこうというわけではありませんが、双子に惹かれる心性とか、双子を研究したくなる心性の構造はどんなものか、も考えてみたく思います。

No.461 - 2012/09/16(Sun) 00:12:07

(No Subject) / 藤田博史
大変興味深いことに精神科医の花村誠一氏と渡辺哲夫氏の奥様同士がたしか双子の姉妹であったと思います。
No.460 - 2012/09/15(Sat) 23:37:10

双子の相手のドッペルゲンガー / 水上雅敏
>一卵性双生児の人たちは、ドッペルゲンガーをどのように考えているのでしょうか。

なんだか複雑なことになりそうですね。
双子と精神疾患については、花村誠一氏が時々書かれていたな、という記憶があったので、調べてみました。こういうのがありました。

「これはまったくの偶然であるが、私が担当した初発事例のなかに、ある一卵性のふたごの姉妹例が含まれていて、ほとんど例外的ともいえる濃厚的な治療関係が結ばれた。発端者つまり私の患者は、私を生来親密な間柄にあった対偶者と二重写しするようになり、そのせいもあって、いったんは予想外なまでに良好な寛解状態に達する。わすれもしないあのできごとは、再発シュープのさいに生じたもので、患者はある日、治療者と対偶者を同時に否認する人物誤認を呈し、一挙に、私を「脱殻」ないし「分身」扱いし始めた。これは私にとって、眩暈にも似た感覚を引き起こしたが、患者のほうはといえば、こういう人物誤認が色あせてからも、私との治療関係が安定せず、病像もしだいに慢性化していく。」(『中核ないし解体型における分裂病性記号過程』「分裂病論の現在」弘文堂に所収)

前半は、自分のドッペルゲンガーというより、双子の相手を2人みていた、ということのようですね(治療者に分身させて)。

ここで、少し考えて見ると、その時には寛解状態であったということは、もしかしたら(もしかしたら・・でしかありませんが)、その2人(双子のあいてそのものと、治療者にみたその分身)は、同一でありつつ、また、どこか相違(逆転しているとか)ももっており(ひとりは家にいて、その分身は花村氏として病院に居て・・という程度の相違でもいいのかも知れませんが)、その2人それぞれに対して、同一化を行き来させて、どちらにも一致しすぎないように(一人の人物に、想像的同一化の愛憎が集中して強まりすぎないよう)して自我を保てていたのではないかな、とも仮説づけられるようにも思います。

後半の、「治療者と対偶者を同時に否認する人物誤認」とはどういう否認で誤認か、「分身」とは患者自身が感じた自分のドッペルゲンガーなのか、あるいは花村氏の主観として患者に同一化を向けられているなという感覚なのか、また「脱殻」というのもよくわかりませんが、上記のような2人に分割する方略が保てなくなって、自分と治療者で直の想像的同一化が始まり―その分現実界もより接近しており―、その間で、相手を無にしたり、相手=自分を取り戻させたり、ということが始まったということなのでしょうか・・。

No.459 - 2012/09/15(Sat) 12:09:42

ドッペルゲンガーといえば・・・ / 榊山裕子
わたしが通っていた中高一貫校には、教育上の方針からか、双子枠と帰国子女枠があり、
一学年に何組かの双子や三つ子がいましたが、それぞれクラスは別でした。そんなわけで、
たとえば、音楽室で授業を受けた後、一早く音楽室を出て、教室に戻ろうと廊下を足早に歩いていると、
さっき同じ音楽室にいたはずの人が向こうから歩いてくる、というようなことが起こる。
一瞬、えっ(驚愕)?・・・その人は一卵性の三つ子の一人でした。
わかっているはずなのだけれど(ゆっくり考えれば別の人だということはわかるのだけれど)、
瞬間的に、不意打ちのような驚きに襲われる。
思い返してみると、当り前のように、そういうことが起こっていましたね。

ちなみに、アーティストでは、クエイ兄弟という一卵性双生児のアーティストがいます。
主に人形を使ったドッペルゲンガー感溢れる(?)ストップモーション・アニメーションで
なつかしくも不気味な映像作品を作っています。
現在、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で展覧会を開催中です。

ttp://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-19409965

一卵性双生児の人たちは、ドッペルゲンガーをどのように考えているのでしょうか。

No.458 - 2012/09/10(Mon) 23:57:31

芥川のドッペルゲンガー?は健忘が原因? / 水上雅敏
芥川の「歯車」に次のようにありました。

「第二の僕―ドイツ人のいわゆるDoppelgaengerは仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。しかしアメリカの映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「せんだってはついご挨拶もしませんで」といわれ、当惑したことを覚えている)それからもう故人になったある隻脚の翻訳家もやはり銀座のある煙草屋に第二の僕をみかけていた。」

芥川のドッペルゲンガーは本人は見ず、他の人には見えた、というのは不思議で、まあ小説として作り上げた話だろう、くらいに以前思っていました。別の何人かの有名人についてもそういう話はあったりして、霊の話にまで発展させてこの現象を考察する人などもいるようですが、この体験自体私は本気にはとっていませんでした。しかし、考えてみると簡単なメカニズムでありえますよね。結局、芥川の話で言うと、実際に芥川は帝劇に行った、そして、行ったことについて記憶喪失になっている(ヒステリーの?解離、健忘で)・・と考えればあっさりかたはつきます。ちなみに、そう考えると、実際にドッペルゲンガーを主体自身が見るという場合も、ドッペルゲンガーのやっていた行動は、実際に自分がやった行動であってわすれられていたものが幻覚的に現前に蘇ったものであるとか、あるいは記憶錯誤によって、何時間か前にやっていた自分の行動の記憶と、ついさっきの自分の記憶が一緒になってしまって自分が2人いたように感じられたなどのことによる場合もあるのではないかとも思えてきました。純粋なドッペルゲンガーとは、おそらく、過去の記憶の再現ではない、純粋に幻覚的なものなのでしょうが・・。しかし上のように考えると、純粋なドッペルゲンガーこそどこまで実際にあるのか少々疑問になってもきます。

しかし、だとすると芥川はかなりな健忘ですね。フロイトは、ヒステリーの体質的要因を語るところで、「驚くほど多くのパーセントが脊髄ろうか進行麻痺をわずらった父親の子どもである」と言っています(ドラの事例のところで)。芥川も、進行麻痺までいったものか知りませんが、梅毒であったという話もあるようです。その真偽は私は知りませんが、とりあえずそうだとして考察をすすめると、この梅毒ということも、この強いヒステリー性の健忘に関連しているのでしょうか(この場合は父でなく本人が梅毒と言うわけですが)?? ドッペルゲンガーを見た他の有名人なども梅毒であったことが多いように思いますが・・(モーパッサンなどもそうだったでしょうか?)。まあ梅毒の人自体が昔は多かったのでしょうから、安易に関係付けられないでしょうが。関連しているとすると、少し前に述べた、よるべなき現実的身体(448)における何らかの問題が、象徴的連鎖を障害させている(現実的身体からのなんらかの信号が障害されていて、本来ならその信号と象徴的連鎖との間におこりえる弁証法が起こらないとかで)、あるいは、そもそもの象徴的連鎖を起こさせる直近の基盤となっている現実的身体の部分(脳の神経など)のほうが障害されている、あるいは、その両側の障害が協働している・・・こういうことが、安易に抑圧をもたらしーつまり抑圧せずに弁証的に意識に無意識なり現実からの身体信号を組み込んでいくという細かい芸当ができずに一挙に抑圧されているところがあるなどしてーヒステリーが起こし易くさせる、ということなのでしょうか?

それにしても、帝劇に行ったことは健忘していても、ふと意識が戻った折に、「あれ?なんだか時間がたっているな、何していたんだろう」というくらいの気づきはないものでしょうか? 絶対的に忘れていることは、忘れていること自体忘れている、というのは分かりますが、それにしても後にそのような比較をすることによって。あるいは、自己の健忘にさえ気づかないようにするという防衛があるのかどうか・・。

No.457 - 2012/09/09(Sun) 16:57:37

454の続き アルゴリズムの崩し方のアルゴリズム? / 水上雅敏
むしろ、アルゴリズム化したとたん常にそれを崩す、ということこそ一番クリエイティヴなのだと思います。この崩し方が、結果として、星さん的になる、というふうにできれば、より星さんと言う人間の思考をシミュレートしたものになると思いますが・・そこもまたアルゴリズムか・・。作り方のアルゴリズムと言うより、崩し方のアルゴリズム?・・そういうものも考えられるのでしょうか??
No.456 - 2012/09/08(Sat) 00:01:27

鏡像の無くなる快感 / 水上雅敏
自分だけ消えちゃう鏡に通行人ビックリ
ttp://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/p8dbc5ba1ce48b279af4ca91ec2f6a8cf

皆たのしそうですが、鏡像のなくなる快感というのもあるのですね。当然といえば当然か・・。
ずっと無いと不気味ですが・・。

No.455 - 2012/09/07(Fri) 22:53:44

発想の転換をアルゴリズム化できるか? / 水上雅敏
「コンピュータは星新一を超えられるか」 人工知能でショートショート自動生成、プロジェクトが始動

ITmedia ニュース 9月7日(金)8時46分配信
より抜粋:

ショートショートのように目的が限定されおらず、あらゆる表現やシチュエーションが可能な形態の小説で、クオリティの高いものを自動生成するのは困難なチャレンジだが、星さんが講演で語り残し、CDとして販売されている「ひらめきの法則」に、そのヒントがあるという。
 CDジャケットに書かれた講演メニューには、「まずは定石を覚えること」「アイデアとは異質なものの組み合わせ」とあり、「常識を覚えた上で、発想の転換をしていくことが星さんのショートショートの作り方」(瀬名さん)だ。これをコンピュータに適用し、コンピュータに常識を覚えさせた上でさまざまな組み合わせを試させれば、星さんの作品の作り方を再現できるかもしれない。「トライアンドエラーは人間よりコンピュータのほうが得意。人間が常識に邪魔されて捨てていた組み合わせをコンピュータが作り上げ、今までなかったショートショートができることを期待している」(松原教授):

発想の転換までアルゴリズムに含ませようとしているのでしょうか? それは、なかなか面白い試みですが、さらにそのアルゴリズムまで何時かはくつがえせえないと、それ以上の次元にはいけない換喩的な連鎖に終わってしまうということにもなると思います。しかしまた、そういうアルゴリズムまで入れる??・・パラドックスが生まれてきそうです。どうするのでしょうか・・。人の自由意志もすべて実は運命として決められていた、・・ということならアルゴリズム化可能なのでしょうけど。しかし、また、逆に、人の発想が本当にアルゴリズムを超えているのかどうか・・。

ちなみに、金子みすずの詩の特徴を分析し、それにそってみすず的な詩を作ってみる試みを載せたページを思い出しました。 ttp://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/nonami/semi/misuzutxt.html
意外とそれらしくないこともないな、とも思いますが・・。

No.454 - 2012/09/07(Fri) 22:46:24

小文字の他者への奉仕 / 水上雅敏
>既成権力は「ボランティア」という言葉を骨抜きにしておきたいわけです。

なるほど。これは考えてもいませんでした。vol=willを人々から奪って、せいぜい「奉仕」に・・というわけですね。

No.453 - 2012/09/07(Fri) 22:19:18

ボランティアで奉仕 / 榊山裕子
ボランティアを文科省が修了証?
しかも大学生に・・・お子さま扱いですね。
ちなみにボランティアという概念はキリスト教出自ですから
日本語の「奉仕活動」とは根本的に発想が異なります。
日本では、結局、国家や世俗の権威に奉仕することになってしまいますね。

「奉仕」と「ボランティア」の違いは、端的に言えば
「受動形」と「能動形」の違いではないかと思います。

これはキリスト教における「殉教」が「生贄の山羊」と違う、ということと
同じ発想だと思います。外から見ると起こっていることは同じに見えても
本人の発想のなかで受動形が能動形に変換された時に決定的な変化が起こっている。
その発想の転換がキリスト教圏から発信された文化の根底にあると思います。
これは世俗社会でどれほど無力な人間でも世俗の王や権力者と対等に対峙し
人として誇りと尊厳を持つことができる発想の転換でした。
誇りは自らの内面にある。それを世俗権力が承認し褒めるという形で骨抜きにしようとしている。
「ボランティア」というのも誰かに言われてやるものではなく自発的な「能動」的な行為なのです。
「奉仕」という言葉はこの能動性を塗りつぶします。
「ボランティア」は「市民的不服従」という発想にもつながりますが
「奉仕」はつながらないでしょう。だから既成権力は「ボランティア」という言葉を骨抜きにしておきたいわけです。

無償の労力は使って、でも現行の権力には逆らってほしくない・・・、だから、
せっかくこの国で芽生えかけている市民の「能動性」を潰そうとするわけです。
「ボランティア」を「奉仕活動」と言い換えようとした安倍晋三など典型ですが
あまり深くは考えていないのでしょうが(笑)
何をどこを狙えばこの国の人々を馬鹿なままにしておけるか
その狙いどころは実にあたっているな〜と思います。

No.452 - 2012/09/07(Fri) 11:27:42

ボランティアで修了書 人間の欲望の蹂躙・冒涜 / 水上雅敏
ボランティアで修了書? ttp://blogos.com/discussion/2012-09-03/Volunteer/ 人間の欲望の蹂躙ですね。純粋な気持ちでやったものも、打算であるかのように事後的に意味づけられて、「あなたはこれを欲しかったんでしょ?」と勝手に意味づけられ続けて、拒食症になるしかないような。親の目の無いところ(想像界の穴)を見出せて、やっと自立、自律できると思ったら、いつまでも子どもを失いきれない親がご褒美を差し出しにやってきて、親の目の無いところにいこうとしたらあとはCENSOREDしか残っていないような・・そういう世の中になるのではないか。一方で、CENSOREDのない社会を・・といいつつ。金が無い、消費税を上げるといいつつ、こんなことにお金を使うとは。
No.451 - 2012/09/07(Fri) 02:54:38

非可聴つぶやき認識と、幻聴の聴取 / 水上雅敏
分裂病者は幻聴のとき、のどを動かしている(その幻聴の語りそのもののように、か、幻聴への応答のかたちで、ということかは忘れましたが)ということを聞いたことがあります。偶然、「非可聴つぶやき認識」という装置を知りましたが(どういうものかはっきり認識はしていませんけど)、これでどんな幻聴を聞いているのか、が他人にもわかるようにはならないでしょうか(幻聴の語りそのものにのどを動かしている場合にのみ考えうる可能性でしょうが)? 他人にもわかったからと、今のところ、治療上のメリットはわかりませんが・・・。

以下 非可聴つぶやき認識(音声,聴覚) Non-Audible Murmur Recognition
(中島淑貴 他)について

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110003171166 より抜粋

「非可聴つぶやき認識」という,新しいスタイルの実用的な入力インタフェースを提案する.これは音声認識の雑音に対する脆弱性,情報の周囲への漏えい性を克服するため,声帯の振動を伴う通常音声の空気伝搬ではなく,「非可聴つぶやき(Non-Audible Murmur:NAM)」,つまり第三者に聴取不能な声帯の振動を伴わない調音呼気音の体内伝導を,体表からサンプリングし.HMMを用いて認識するものである,これを実現するための基礎として,第一に医療用膜型聴診器の原理を応用した体表接着型マイクロホンを開発した.第二として体内を伝導するNAMを採取して認識するために最適な接着位置を発見した.第三としてNAMの音響学的性質を検討した.第四として,この部位から採取されたサンプルを用い.HMM音響モデルに追加学習してNAM音響モデルを作成した.これらをもとに,日本語ディクテーション基本ソフトウェアを評価に用い,認識エンジンJuliusを使用して大語い連続認識実験を行い.NAM認識の実用可能性を検討した.」

No.450 - 2012/09/06(Thu) 01:42:01

歩行にも言葉が関与するのか / 水上雅敏
ラカン理論に対して、「言葉、言葉というなら、歩くこともまた言葉と関係していて、言葉が不全だと歩けないのか?」というような批判も時々ききます。

私はやはりまともに歩けなくなるのではないか、と思います。言葉の全く関与しない人間
(現実的身体だけで生きている人間)は考えられませんが、理論的には。言葉があってこそやっと、想像的身体に穴が開き、知覚意識が生じ、どんどん差異化、構造化される道(各部分が差異化され、矛盾無く連動するように)を歩めるからです。

多分、現実的身体だけだと、勝手に動いたり止まったりしているだけではないでしょうか。
そこにまずは言葉に促されての、象徴界と想像界の協働によっての調整がかけられて、まともな動きなり歩行なりが出来ているのだと思います。つまり、いかにも私が私の意識で体を動かしたかに感じられても、まず動きこそが勝手にあって、私はそれを調整しているだけだということ、そして、その調整もそもそもは言葉があってこそ可能になったのだ、ということ。

現実的身体と、言葉も含めて象徴界や想像界との弁証的関係が進んでいくと、そんなにそもそもの現実的身体自体においても的外れな活動はしなくなるかも知れません。それは現時点の現実的身体はそれ以前の弁証的関係によってある程度すでに調整付けられていて、可動域が狭められているから。

こういう事後的な現実的身体の動きの調整というものは、カラオケの歌い出しの一瞬を考えてもらうといいかなと思います。どんな音程が自分の発声で出るか、というのは、歌いだしでは多少不安があるのではないでしょうか。そして、出してみて一瞬のうちに聞き取り調整をかける、というふうになっているのだと思います。そして、その後は、前の音程の発声の感覚を基準に出来るからある程度安心、現実的身体もそんなに突拍子も無い音程は最初から出さなくなる、そういうプロセスを考えてもらうといいと思います。

No.449 - 2012/09/03(Mon) 17:09:24

不調和な現実的身体はずっと残存するのでは? そして思春期 / 水上雅敏
ヒステリーで何故結構な高熱が出たり、致死性緊張病などがあるのが不思議で思ったことですが・・

寄る辺無き身体(現実界の)は、そのままだとやはりいつまでも寄る辺ないのではないのか。それ自身でゆっくりと育って、調和がとれていくというのではなく。通常の我々の身体の成長は、想像的に他者像にあわせようとする無理な背伸びと、寄る辺無き現実的身体の弁証過程の産物なのではないか。そしてこの弁証法を進めるのは、象徴界が刻々と想像界に穴をあけることによって、ではないか。象徴界の働きが悪いと、この弁証法が上手くいかず、想像界にひきづられ無理に形成された身体と、潜在的に幼少時のままに残された寄る辺なき身体が並存し乖離したまま残されるのではないか。ヒステリーで高熱が出たり致死性緊張病が起きるのは、象徴界の不全によって、あまり育たなかった寄る辺無き身体の混乱―厳密に言うと無理な身体や、ひずんだ象徴界と寄る辺無き身体の協働的な混乱―によるのではないか。さらに、精神分析、カウンセリング等で回復前にかぜなど身体的な病がときに起きるのは、2つの身体が弁証法を始めて、両者に霍乱が起こり始めたしるしなのでは? 分裂病からの回復時、それまでは容姿が若すぎるように見えた人も、短期間で年相応に見えてきたケースがありましたが(気のせいかも知れません)、それも現実的身体との疎通ができてきたからではないか? など色々考えられますが、そうなると、「2つの身体の中間のところ=弁証法の地点、で出来上がる身体」とかそれに対応する脳神経の編成というものもあるのではないかとも考えられます。そこがヒステリーや分裂病で上手くいっていないのではないか。分裂病青年で射精をほとんどしない旨述べていた人も居ましたが(真偽は不明ですが)、それもそういうところから考えられないか。

関連して思春期(精通や性の芽生えの時期としての)がなぜ起きるかも考えてみたいと思います。ごく普通には、現実的身体自身が精通も出来るように育つのだ、ということかと思います。しかし他の仮説として?@社会構造上否応無く独立すべき時期にさしかかって、今まで親に依存して完全性を保っていた想像的身体像に穴が開き、無理していた身体の力が抜け、よるべないばらばらな現実的身体が浮上してきた。精通などはそこからきたひとつの現象である。?A社会的独立云々以前に、象徴界が進んできて、今までの想像的な身体像に穴があけられ完璧性は保てなくなり、無理していた身体と現実的身体との間に弁証法が進むこととなった。それが精通をどのようにか進めることとなった(社会的観点を省いた、この仮説だと、なぜ皆がそろって12歳あたりという同じ様な時期に、想像界をやぶるほどの象徴界の発達を示すか、というところが示しえていませんが・・)。?B、?@と?Aのブレンド。?C身体自体の側で、もう無理が利かなくなり、ばらばらの身体へと近づくことがまた精通をもたらした。?D?Aと?Cのブレンド。つまり、身体自体がばらばらの身体へと近づこうとすることがまた象徴界の進展にも拍車をかけて、両者の協働において思春期が始まった。・・と色々考えられると思います。これらは、基本的に、一旦幼少時に無理に作り上げた身体から、本来のばらばらの不安定な身体へと弁証的に近づいていく、ということが成長であり、思春期もその一環である、と言う私なりの考えにもとづいています。

No.448 - 2012/09/03(Mon) 17:07:53

夢はその報告のしかたこそ / 水上雅敏
しばらく前の朝日新聞に載せられた、小4年の野村昴平君の詩、面白いです。

「こわい 野村昴平

どこかの学校で
川からビンみたいな物がでてきた
少し時間がたつと
ビンの中からクモとたこがまざった怪物みたいなものが出てきた
それがどんどん人を食べていった
その後は起きてしまったからぼくは知らない」

これに対して評者、長田弘氏は、
「いい夢だけじゃない。こわい夢、いやな夢もある。夢をなくすなってよくいうけれど、忘れたい夢もある。」と添えています。

長田氏の評を読むまでは私は夢について述べた詩だとは全く思い浮かびませんでした。意識的に創った詩だと思っていました。そして、「起きてしまった」を「覚醒してしまった」ととらずに、「怪物が人を食べるということが自分の身にも起きてしまった」ととり、「だから、自分も食べられ死んでしまったから僕はその後のことは知らない」という、自分の生と死後のことまで書いた詩、あるいは自分の自我が学校に殺されてしまったということを述べた詩、だと思っていました。しかしそう受け取っても面白い詩だと思います。実はそういうことでもあるのかも知れません。そういうことを野村君の心、夢思考は言いたかったのかも知れません(もちろんどうなのかわかりませんが)。本人も意識では夢を叙述しているだけ、と思っているのでしょうけれど。夢は夢だとして語られたその内容を解釈するというより(これだと、「・・食べていった」までが解釈の対象でしょう)、その語り方、報告の仕方をこそ解釈すべき(これだと、「・・知らない」までがその対象になります)、ということを改めて考えさせられた詩です。

また、覚醒するということは、夢の中の自我にとっては無・現実界でもあるこの世界に呑みこまれ死んでいくことでもあるのだな、とも改めて思わされます。イルマの夢も、のどを大きくあけたイメージがありましたが関連するでしょうか? しかし、便のように産み落とされる覚醒というのもあると思いますが。

更に、この夢には、ジルベラーの「機能現象」、思考が作られて行く過程自身がイメージに移られる現象で、フロイトは「睡眠や覚醒を自ら知覚しつつある場合の夢に限定した」とされたものも思い起こされます。この夢はそういうものでしょうか? 夢に通常言われる願望充足とはその場合どうなっているのか、この夢の場合はそれについてはどうなのか、というのも考えさせられます。それなりに願望充足も解釈によればブレンドされてくるとは思いますし、すべてを願望充足と考えるのも妥当にも思えますが、機能現象に対してそのへんはフロイトはどう思っていたのか・・。

No.447 - 2012/09/03(Mon) 02:39:43

一見予言的な事象について / 水上雅敏
かもめのジョナサン」作者の操縦機が墜落し重傷ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120902-35021229-cnn-int

リチャード・バックにしろ、サン=テグジュペリにしろも自分の書いた小説(「かもめのジョナサン」「星の王子様」)と似た運命をたどるというのは不思議。まあ飛行機はそれなりに危険だから確率としてはありえることなのかも知れませんが。

しかし、ふと想ったことが後に実現されている、ということは結構あるようですね。NHKドラクロワでは、

「番組に寄せられた1通のメール。そこには、高校の同窓会で運命的な出会いをした体験がつづられていた。
 東京都に住む遠藤礼子さん。夫の栄一さんは高校の同級生。2人は52歳の時、同窓会で34年ぶりに再会した。実は、礼子さんは栄一さんのことを全く覚えていなかったが、昔話で盛り上がり、楽しいひと時を過ごすことができた。ともに独身だった2人は交際を始め、栄一さんは、礼子さんに結婚を申し込んだ。しかし、礼子さんは気乗りしなかった。病の母のことが頭から離れないからだった。思い悩む礼子さんは、ある日、1枚の色紙を見つけた。高校1年生のとき病気で入院した際、クラスメートから寄せ書きしてもらったものだった。礼子さんは、栄一さんが自分宛に何を書いているかを調べた。それを見た瞬間、驚いた。書かれていたのは、「Someday We'll Be Together 」。実は、栄一さん自身も書いたことを覚えていなかった。当時、好きだった歌の題名を何気なく書いたものだったという。2人は、高校生の時から、歳月を超えて結ばれるドラマチックな運命があったのだ。」などともあります。ttp://dogatch.jp/news/nhk/7863

ゲーテにも、馬に乗ってるドッペルゲンガーを見て、何年か後に、それと同じ服装で馬に乗っている自分に気づいた、というエピソードがあったと想いますが。

願いを実現させるコツは「ふと想って、あとは忘れていること」という本を読んだことがあります。それはどうかなとも想いますが・・。しかし、ふと想ったこと、書いたことは実現させようとする動きが心にあるのでしょうか? まじめに考えると、そのふと想ったこと自体が、じつはそもそも根源的な欲望に基づいていたのだというほうがより妥当に思えますが・・。

No.446 - 2012/09/02(Sun) 17:49:44

スキル教育という、肛門期への退行の強制 / 水上雅敏
将来の授業、社会で役立つ「スキル」重視に!?  ttp://blogos.com/article/45492/

奴隷化の教育、社会の「要求」に応じさせる神経症化教育、肛門期への退行の強制ですね。もうこんな小賢しいスキル教育なんてやめて欲しい。「ハウツーもの」を軽蔑する風潮があった昔がなつかしい。

上のarticleからの抜粋:・・具体的には、(1)思考力、表現力、言語力、コミュニケーション能力(2)道徳性、人間関係形成力、社会性、コミュニケーション能力(3)シチズンシップ、市民性(4)キャリア発達を促す基礎的・汎用的能力……などを現時点で挙げています。:以上

なんとなくクリアカットで格好いい、こういうシステマティックな縦割りを増殖させ続けることで、いつまでも人々を本来の欲望から乖離させつづけようとしているように思えます。

No.445 - 2012/08/24(Fri) 03:11:58

日本うつ病学会ガイドライン / id
この手のやつは無理に病人を増やす気まんまんにみえる。

ttp://www.secretariat.ne.jp/jsmd/0726.pdf

No.444 - 2012/08/23(Thu) 16:26:30

ひとくちに喪失と言っても つづき / 水上雅敏
ついでに言うと、言葉を持った「かのような」ロボットの喪失は?
No.443 - 2012/08/22(Wed) 23:10:50

ヒステリーと外傷性神経症 / 水上雅敏
ヒステリーとは別にあえて外傷性神経症(フロイトの言う)を設定しないといけないかどうか考え中。ヒステリーは、言葉の弁証法の一部の部分的な抑圧・あしかせ(言葉の進むべき全体的な方向性は保たれている)が起こすもの。外傷性神経症は、弁証法の流れそのものを全体的に中断されてしまって起きるもの(その後部分的に回復しても)・・、ということか?

換言すれば、外傷性神経症は、そもそももともとは抑圧による弁証法の停滞が無く、あったとしてもそれを解きつつ生きていく途上にあった人のその弁証法でさえ、ある事件によって中断させられる、ということで起こるものといえるのかどうか。

しかし日常でも、言葉の弁証法が開ける(=対象a)以上の大きな穴を開けてくるような事件が起きるのは日常茶飯事だと思える(?)のに、あえて外傷性神経症を設定する必要があるか? そういう日常的な穴の場合は、その時点でも言葉の弁証法の流れの中核自体は保持されているとか、また、その穴を埋めに入ってくるファルスの想像は、言葉の弁証法の延長上でやがてはどうにか去勢にさらし象徴化の網で刻んでいけそうに思えるものであって、たいしたものでは無いということか? 他方、外傷性神経症を導くほどの事件のあける穴は、その時点の言葉の弁証法全体が一時麻痺するとか、また、その穴を埋めに入ってくる想像的ファルスは、その後の言葉の弁証法では去勢にさらして象徴化の網で刻むという作業をすりぬけるほど大きかったり、何かその人の象徴化体系では長年かけてもなかなか還元・翻訳不可能な質を持っている、とかがあるのか(で、それが、長年続くフラッシュバックになったり)?

No.442 - 2012/08/22(Wed) 23:05:56

全558件 [ ページ : << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ... 28 >> ]