・こちらとの言葉の弁証法の相手となっていた、他の主体Sbarreの喪失(死別)。 ・物体の喪失、身体や身体機能の一部の喪失 ・ペットなど、実際にいわゆる言葉で語って来はしないが、独立した意思をもった動きでこちらに関わってくるものの喪失 などを、構造的にも区別して考えねばならないかと思案中。 |
マンスリーというよりイヤリーになっていますが(汗)、第24回マンスリー対談開催の日時が決定しました。ゲストは獨協大学教授、日本ラカン協会理事長の若森栄樹(わかもりよしき)氏です。テーマは「東日本大震災と死の欲動」。定員15名になり次第受付を締め切りますのでご希望の方は早めにお申し込みください。 告知のページ→ttp://foujita.vis.ne.jp |
先日NHK日曜美術館では、松本竣介が紹介されていました。太平洋戦争以前は、全体に緑っぽい絵が多いように思えましたが、戦争後の絵として紹介されていたものは、非常に赤の目立つものでした。絶筆は白が目立つものであったように覚えます。 あれほど緑っぽい絵を描くとは、補色である赤(正確にはマゼンタ。“緑っぽい”の補色なので、こちらも正確を期す必要はないのですが、とりあえず)を抑圧しているのでは無いかとは以前から思っていたのですが、本人の中での変化というよりも、戦争という外部の状況が、その赤(マゼンタ)を解放した(あるいは、緑と抑圧関係を逆転させた?)とも思えるのは興味深いことです。むろん、戦争をきっかけに、今まで変化させようと思っていた自分の内部を変化させた、ということなのでしょうが。ともかく、赤(マゼンタ)の表出と共に、今まで抑圧されていたどういう観念が表出されはじめたのかは、知りたいところです。 ところで、こういうこと(緑で赤(マゼンタ)を抑圧する)は本人が補色関係(緑は赤(マゼンタ)の補色だetc.)を知的に学んでいてこそなのでしょうか。そうなのかなと思っていたこともありますが、心的装置は自然に、赤、青、緑は3原色として、素数同士のようにそれらを直交的に配分しようとするだろうから(そうすると他の合成色をそこから無駄なくもっともエコノミカルに再構成できるから)、補色についても知的に学習しなくても自然に知っていてこういうことは出来るのかも知れません。さて、絵である色が強調して使われている場合、その画家の心の中で、その色自体がそれだけでその補色を抑圧していると考えるのは妥当では無いと思います。おそらく画家の中での画家なりが180度相反していると思われる言語的な観念自体がまず抑圧関係にあり、それらに寄り添っていてそれらを代表する色として、或る色とその補色が使われたということかと思います。松本におけるその相反する観念とはどんなものだったのか・・。 |
池谷氏のこのttp://gaya.jp/spiking_neuron/matrix.htm 論考おもしろいです。通道などフロイトのニューロン仮説とつなげて考えてみることできるかも(例えば、論考中の3-3行列中の成分の数値の増加を通道がより良くなったものとして)。 ところでこの論考での、池谷氏の言う「思い出す」という作業は実際の所どういうことに相当するのか? 近いあたりの分かりやすい例としては、たとえばPTSDの人が、その外傷のもととなったのと類似した刺激(論考中では、パターンAや、パターンBとして3-1行列で表されているもの)に出会う(論考中では「かける」という作業)と、もとの刺激(最初の各神経細胞の活動状況)を思い出して驚愕してしまうというようなことでしょうか。他の例としては、色々自由連想をするうちに、それらのもとにあったより要素的な思考に近い連想に出会うことによって、その要素的な思考を思い出せるということでしょうか(要素的な思考の複合、関係性によって色々ぼやかされていたところ<=論考中の3-3行列>を透かしてもとの要素的なものを再現するように。いわば、合成数を因数分解して素数を抽出するように・・・)。また3-3行列に3-1行列をかけることを「構造化された構造」に「構造化する構造」を投入して、より元々の去勢を思い出させる、というような作業として見てもおもしろいかもしれません。まあ以上は、氏の論考が脳の働きをたしかにシミュレートしているとしての話ですが。 それと思ったことは、おのおのの神経細胞の活動状況も、−1,0,1で、また、2つの神経細胞の活動状況の相互関係も−1,0,1で表されていますが、そこから、前者(各神経細胞の活動状態)の−1,0,1もさらにその前段階の「2つの神経細胞の活動状態 の相互関係」の反映だとして考えると、どんどんネットワークを拡げた(池谷氏ののように3つの細胞間に限られない)図式が出来るかも、ということです。また、この場合、“その前段階の「2つの神経細胞の活動状態の相互関係」”をその次の段階の1つの神経細胞が蓄えているということになりますが、ここで、以前(406)紹介した「周波数を記憶するニューロン」を持ち出して考えてみるのもおもしろいかも知れません。 |
「義務の投影」というのがあると思います。 ・たとえば女人禁制。本来は、修行で性欲に負けてはならないという男性側に課された義務であったものが、性欲を引き起こしかねない女性が聖地に入るのを禁じる、というふうに女性への義務として転換されている。 ・義務教育も、本来、子どもに教育の機会を与えるべきという大人に対しての義務であるはずが、しばしば子どもが勉強すべきというような子どもへの義務として扱われてしまう。バイト禁止も、その延長ではないでしょうか。 ・なぜ義務の投影が起こるのか。単純に考えると、自分(=大人側)の上に立って自分に義務を命令してくる人を設定したくない、自分こそが義務を下す側に立ちたい、というエディプスコンプレクスゆえに、ということになるでしょうか。 ・そして、最初はそうであったものが、世代が下るとそのオリジンも忘れられ、形骸化された「義務教育(こどもの義務としての)」「バイト禁止」が引き継がれることになり、そんなにエディプスコンプレクスの強度ではない大人も、「おかしいな」とも思いつつそれを引き継ぐようになったり、あるいは、エディプスコンプレクスの強い人にとっては都合のよいものとして引き継いでいる、ということになるでしょうか。 ・最初の地点に戻ることが大切なんでしょうね。大人側の義務であったのだ・・、ということ。更に子どもの欲望を考慮するところにまで戻ること。つまり教育は、子が自分の欲望をよりよく表現できる方法を与えるものであって、そうすることが大人の義務であるというところにまで。 |
今の小中高生には、彼らの教育や遊び(ゲームなど)のために、親は金を昔以上に投資しているのではないか。この負債の罪悪感も、生きる意欲、勉強や登校の意欲を昔以上に殺いでいることもあるのではないか(無論、それ以外の原因があったり、組織のほうに原因があったり、そもそも就学義務が必要か、という問題もあるが)。 その上に、バイト禁止の学校も多いとくる。学校の内部だけでどうこうするより、まずバイト禁止をやめるのが筋・むしろすすめるべきだ、と思うことが最近多い。 |
青い空のもと、緑の畑と、その先の、銀+灰色的な海を見ていると、その海が、ややえび茶色がかった海に見えるのを発見しました。通常、緑をじっと見つめると赤系統の残像(マゼンタ色になるのでしょうか)が残るわけですが、そうしなくとも、我々は、常に補色を同時的にどこか別のところに見てバランスをとっているのかも知れませんね。特に、先ほどの場合、そらが青いのもあって、畑の緑も鮮やかだったから、3原色の残りの一つとしての赤をどうしてもどこかに見たくなって、それが海に置かれた、ということでしょうか・・。 そう考えると、赤と緑の組み合わせが鮮やかに見えるのは、赤側には、緑の補色として上記のようなメカニズムにおいてさらに赤(マゼンタ)が加算され、緑側には、同様に緑が加算される、ということになるから・・ということでしょうか。 |
おはようございます。 水野さんはたしかによくがんばりましたね。 たしかに何に限らず、批判は色々言いやすいけど、良い部分の評価をするというのは難しいことですね。心理テストみたいなものですね。良い評価は、一言で終わることが多いように思います。そうでないとすると褒め殺しのようになったり・・。なかなか持続的な評価って難しいものですね。何故なんですかね。それが普通だ、という意識があるからでしょうか。 >おそらくNHKであれ、民法であれ、新聞社であれ、いろいろな考え方の人がいて、いろいろな制約のなかで努力している人もいると思うのです。その制約のなかで努力している部分を評価していけば、そういう人たちが組織のなかで少しずつですがやりやすくなっていく。 何かそういう人を評価する制度というか、ネット上の場でもあればいいのかも知れませんね。どんなものになるか分かりませんが。今のところ、評価できる人がある局の中で出番を減らされていく(水野さんがそうされていた?というたぐいのうわさがあったと思いますが)、というようなことに対して、その局を批判していく、という、やはりどうしても批判的な方向からせめる、そのことで彼らを支えるというアイデアしか浮かびませんが・・。 しかし、ともかくNHKについては、水野さんもNHKで苦労したらしいように、組織全体の基本的な方向性としてはどうなのかな、政府にコントロールされているのではないかな、どこでどうなってそうなっているのか、という疑問は私の中ではくすぶりつづけてますね。9時のニュースでさえ、少し前の話ですが、大越さんは、中学生にがれき拡散の方向へあきらかに洗脳といわれて仕方の無いような扇動をしていましたし、また、だからと言って、彼の出番が減らされたということはありませんから・・。無論、私は反原発だからこう批判したくなるというのはあるけれど、それをはずしても、中学生にあれは無いな、と思いました。 |
民法であれ →民放であれ ですね。 |
水上さん、こんばんは。 NHKですが、地味にいい番組もやってます。 ttp://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3235.html ニュースでもNHKも民放も反原発デモについては最初のうちはシカトを決め込んでいたけれど 少しずつですが報道するようになってきました。 それはどんなにささやかでも前進ではないのでしょうか。 最近思うのですが、批判するだけではなく、少しでもいいところがあったら、 そこをどんどん褒めていく。この番組はよかった、と言っていく、つまり90パーセントはよくなくても 10パーセントいいところがあったら、いや99パーセント駄目でも、1パーセントいいところがあれば、 それを評価していくということも大事なのではないでしょうか。 たとえば昨年の原発事故直後でも、まるで戦時期の言語統制を思わせるような状況下、 NHKの水野解説委員などは制約のなかでかなり頑張っていたと思う。 いろいろ言えば言えるでしょうけれど、あの狂気じみた「安全」「安全」の大合唱、 皆、気が狂ったんじゃないか、と思わされるようなあのなかでマスメディアのなかで少しでも 違うことを言った人をわたしは評価したいと思います。それは政治家についても同様です。 その時に誰が少しでも違うことを言ったかということをわたしは忘れたくないと思います。 ところが、そういうささやかな小さな努力の集積に対して持続的に評価する声が少ないのではないでしょうか。 おそらくNHKであれ、民法であれ、新聞社であれ、いろいろな考え方の人がいて、いろいろな制約のなかで 努力している人もいると思うのです。その制約のなかで努力している部分を評価していけば、 そういう人たちが組織のなかで少しずつですがやりやすくなっていく。 ささやかですが、ネガティヴにではなく、ポジティヴに評価していくということが 未来につながっていくのではないか、と楽観的かもしれませんが、そう思うのです。 |
『松嶋尚美、息子が早くも“卒乳”!「拒否されるのなんか寂しい」』2012年07月31日15時17分 提供:シネマトゥデイ :「昨年12月に第1子となる長男を出産したオセロの松嶋尚美が、息子の卒乳をオフィシャルブログで報告した。30日付のブログ記事で今月いっぱいでの断乳を決意していたことを明かした松嶋。「いろんな考え方がある『母乳』私は、7月いっぱいで、断乳しよう!って思ってました。断乳は、かわいそう!!けど、大きくなればなるほど断乳は大変って言うし…」と決断に至るまでの葛藤を告白。 だが、この前日から息子が自分から授乳を拒否したといい、「3日後には、断乳の予定やったといえど、拒否されるのなんか寂しい(笑)」と複雑な親心を明かした。だが、その一方で「断乳ではなく、ジュマ自ら『卒乳』です」と息子の成長に目を細めているようだった。(編集部・福田麗)」: ::::::::::::::::::: 先日の藤田先生の話でも日本人の長すぎる授乳期間の話がありましたが、タイミングのいいニュースです。 かしこい子どもですね。子ども自身にも、授乳拒否をしたいという欲望はいつかどのようなかたちでか出るのだろうと思っていましたが・・(乳首をかむというのはそのひとつでしょうか??)。ふと思い出して興味深く感じたのは、以前、松嶋氏が何かの番組で「私は、〜才まで(結構な年齢を言っていたと覚えますが)子どもは便のように肛門から生まれると思っていた」と言っていたこと(いわゆるフロイトの言う子どもの持つ「一孔仮説」−子どもも便も肛門から生まれる―ですね)。親はそうなのに・・とびがたかを産んだかのような・・。しかし、はやり、この子もう7ヶ月はかかっているので、鏡像段階に入っても授乳されていた、ということではあるようですね。 なぜ、日本人は授乳を長くするようになったのでしょうか・・。 鏡像段階も無かったかのように授乳され続ける・・、原発事故も無かったかのように原発再稼動されてしまう・・、そのように何ものもスルーされて進んでしまう・・どうにかして卒乳したいものです。 |
先日のラカン協会でのワークショップ。 正力とアメリカと原発の関係について会場からコメントがありましたが、帰り道で、「日本人の原子力の享楽の原因対象としての正力とアメリカの欲望」という言葉が頭に浮かんできました。 自分たちが主体的に原発を欲望しているかのように思っている原発推進派とそこにしか批判の矛先を向けない反原発派を、草葉の陰からほくそ笑んで見ている正力松太郎とアメリカ、という構図が目に浮かんできました。実際のところは反原発派で後者にも批判を向けている人は居るのでしょうが、まだメジャーではないような・・。私自身も、正力、アメリカ、原発の関係はよく分かっておりませんが・・。 |
NHK、今迄、こんなに終日五輪ばかり以前から放送していましたでしょうか??? 昨日は9:00pmのニュースくらいはニュースやるだろうと思っていましたが、そこでも五輪のこと。あきれてチャンネルを替えてしまいました。五輪はBS使ってやればいいのに。ますます料金払いたくなくなりました。 何か、まずいニュースは隠すように政府から圧力あったゆえの工作?? |
昨日のワークショップを拝聴しました。 所用があり途中退席したので残念でしたが、 斎藤環先生のお話に違和感を感じました。 1.放射能汚染と「けがれ」って全然関係ないです。関連付ける人に問題があるのでしょう。彼らは「放射脳」だと考えます。明確に否定しないと、「寝た子を起こす人権教育」につながる危うさを感じます。 2.意見を述べましたが、日本の原発推進は、原爆を落とされたトラウマを解消するために、核をコントロールしたいとする深層心理が主因だと考えます。 3.反核からの主張だったと推測しましたが、原爆を落とされたのだから、核武装を否定するという論理は馬鹿げています。例えて言うと、 「私は過去に武装強盗に襲われて、拳銃で撃たれて下半身麻痺になりました。」 「二度と同様な不幸な出来事が起こらないことを信じて、拳銃廃止運動のために自らは拳銃を所持しません」(他者の視点を全く捉えること無く思考停止している) VS 「私が拳銃を持っていないので、武装強盗に付け入られたという反省を踏まえて、拳銃を保持して武装強盗の襲来に対処します」 日本は核武装しないと精神的に落ち着きません。 |
サイエンスZERO「人間らしさの科学」で、「動物の中で人が一番他の同類の目に敏感な動物。その理由は、農耕をし始めた先祖は互いに争いを生じさせないようにする必要があったから・・」であったか、ともかく先祖に理由を見出そうとしていました。 しかし、人間が人の目に敏感なのは、人間は言語を持っているから、ということですむのではないでしょうか。つまり、言語はいわば、他者の思いがどんなものか、不決定のままどこまでも仮説化させてしまう、・・目を見て判断しようとしてもそれでもどこまでも実は決定づけられないままどんどん仮説化せざるを得ない(だからこそ結局、さらに更にと目を見てしまう・・というかまなざしと言う対象aに惹かれてしまうと言うべきか?)、という、そういう空回りするメディアを持っているから(というか、そこから人間は逃れることは出来ないから)・・と考えればいいのではないでしょうか・・。 先祖から伝達された・・などという神秘的なところから話を進めると、道を大きくそれて後になって後悔するのでは? |
「周波数を記憶するニューロン」があるらしいです。(以下、『脳研究の最前線 上』講談社 310p) 「さて、今までは脳のリズム活動は神経回路によるメカニズムで起こっているという立場から、議論を進めてきましたが、大脳皮質のシータ波の活動に関係しそうな、近年の面白い発見を一つ紹介しておきましょう。 エゴロフらは、嗅内野皮質に新しいタイプの錐体細胞を発見しました。この錐体細胞は、興奮性のシナプス伝達を薬理的処理によってブロックし、完全にシナプス入力を遮断した状態でも、短時間の刺激をうけると、刺激が存在しなくなった後も自発的な持続発火を示します。 この持続発火の周波数は3〜13ヘルツ程度の範囲にあり、シータリズムの周波数帯をカバーしています。もしこのようなニューロンが他の錐体細胞に興奮性シナプス結合を送っているとすると、このニューロンの自発発火がペースメーカーになって、錐体細胞の集団がシータリズムの同期発火に引き込まれる可能性があります。 また、このニューロンが特に注目されるのは、興奮性または抑制性の外部刺激により、安定な持続発火の周波数を段階的に上昇させたり下降させたり出来ることがわかったためです。つまりこのニューロンは過去に受けた興奮性と抑制性の入力を加算・減算し、その結果を自分自身の発火周波数として記憶しておくことができるのです。言い換えると、入力の時間積分を、単一ニューロンで行なっていることになります。」 以上はラットの脳か、人あるいはサルの脳についてか、また、エゴロフの文献は?・・の明記が無い(拾い読みなので私が見逃しているのか?)のが残念ですが、ともかく興味深いことです。 これまでのシニフィアン連鎖に新しくシニフィアンを投入して、前の連鎖との弁証法で様々な意味作用が生じ、さらに新しいシニフィアンの投入へとつながる、というプロセスが、言語的な換喩、隠喩を進めてくれると思いますが、これにはこれまでのシニフィアン連鎖の記憶が保たれていることが前提になると思います。振り返りのときに、振り返られるものを固定して、それ自体はあまりずれないようにするための、係留点のような記憶(ポワン・ド・キャピトンともつながってくることでしょうか?)です。この記憶保持は様々なシナプス間での信号のやりとりの持続ということでも可能なのかも知れませんが、上記のような「周波数を記憶するニューロン」というのがあればより都合がいいかなと思います。ひとつのそういうニューロンでの全ての過去の連鎖の記憶は難しいかも知れないにせよ、有る程度の単位ごとにおいて記憶されていれば。 そこまで考えると、分裂病者の連合弛緩などでは、このニューロンがうまく働いていないということはないか、という疑問も出てきます。もしそうだとしたら、それだから父の名の排除が容易に出来たのではないか、とか、あるいは、ここのニューロンそのものはうまく働こうとしていても「今・ここの知覚」そのものの強度のほうが強くて、このニューロンに参照してさらに言語連鎖を進めていこうというような「あとさき」を考えての連鎖をする余裕がなかったからこのニューロンの障害が2次的に起きたのか、という疑問もさらに出てきそうです。 |
香山リカはその時の、自分の嫌いな人や主張に対し、精神病だと決めつける。 お前が病気だ! 業界はこれをただのバカだと放置してもよいのか? 極めて悪質だと考える。 ttp://www.ustream.tv/recorded/24031685 ttp://togetter.com/li/339868?f=reco1 から引用 香山リカ、本日の代々木公園での10万人反原発集会のステージに上がり、推進派はビョーキだから自分達精神科医が立ち上がらなくてはならないと述べました。おいおい、反原発ニート発言で大顰蹙をかった人物ですよ。なんで登壇したんだろう。反原発ツイも昨日からいきなり始めたんだよ。なんなのだ。 |
内面まで管理されて逃げ場がなくなってしまうようだと怖いですね。 民主党がやろうとしていた(いる?)うつ病対策も似たようなものでは? 心理学者が自分の興味だけから、あるいは生活の糧にしようとして、あるいは心理学者や心理士らしい仕事をしているのだよというポーズをとろうとして、人権を考えずにどんどん心理テストをやってしまうほど人々の精神衛生に悪いことは無い。 |
こういう商売が成り立つことでも分かる通り、 企業にとっての人の適正力は判断できるみたい。 人の適正力って単純なのだろうね。 |
怖っ! そのサイコテスト自体がじゅうぶんサイコですよね(笑) |