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適性検査サイコテスト / id
ttp://www.psychotest.jp/

こういう商売もあるのね。

No.401 - 2012/07/16(Mon) 22:08:24

(No Subject) / 水上雅敏
>「いじめ」でくくると話が見えなくなります。

同意です。

No.400 - 2012/07/12(Thu) 00:52:15

いいかえ / id
「いじめ」でくくると話が見えなくなります。

暴行・恐喝・CENSORED強要等の犯罪です。
大津の件は、犯人・犯人家族・学校・教育委員会・警察がグルで犯罪を隠蔽した極めて悪質な事件の印象を受けます。

No.399 - 2012/07/12(Thu) 00:13:38

いじめについて思うこと / 水上雅敏
常駐かどうかは別としても、スクールポリスとか、スクール人権擁護委員とかを置くのはどうでしょう。学校内で働くとなると辞令は教育委員会からということになるのでしょうか? しかし、本当ならそれも別の機関からの辞令にしたほうがいいと思いますね。辞令が教委からだとやはりそれなりにまきこまれてしまいますから(スクールカウンセラーが十分機能しえていないとしたら、そういうところにも原因があるのかも)。そして、いじめにしろ、その隠蔽にしろ―ついでに加えて言えば―体罰にしろ、もっと、即座に刑法の視点からも見られるべきだと思います。また、そういういじめから子どもたちの身を守るためにも、義務教育から就学義務を排除することも考えてもいいのではないでしょうか。また、最近は、有る程度の範囲内の学校なら、すぐに転校が出来るのでそうすればよいと言う意見もありますが、学校数の少なく学校間の距離の遠い田舎だと、そうも簡単にはいかないことも考える必要ありますね。高校卒業認定の試験と言うのがあるように聞いたのですが、中高に出席せずに、それだけとって高卒、というわけにはいかないのでしょうか?

いじめそのものやいじめた子どもたちの精神分析的理解というのは、それほど難しいことではないと思いますね。むしろ、こちらが色々対策のアイデアを出しても、様々な組織に聞かれないのはなぜか・どうするか、またこちらも言いにくい環境になっているのはなぜか・また言いにくくなっているこの自分の自己分析・・そちらのほうが難しいことのように思います。

No.398 - 2012/07/10(Tue) 23:49:05

7月のレクチャー及びワークショップのお知らせ / 藤田博史
1,7月26日(木)のフジタゼミで臨床心理士の赤坂和哉さんにレクチャー(トピカ)をしていただくことになりました。
タイトルは「「日本の臨床・文化から考えるラカンの臨床実践」」です。ラカンの晩年の臨床実践についてもお話しいただけるそうです。興味のある方はぜひご参加ください。詳細は当サイト内のフジタゼミのページをご覧ください。

2,7月29日(日)に日本ラカン協会主催のワークショップが開かれます。概要は次の通りです。

■日本ラカン協会第13回ワークショップ
■テーマ:カタストロフィと精神分析―東日本大震災をめぐって
○日時 7月29日(日) 14時〜18時
○場所 専修大学神田校舎7号館731
○司会 福田肇(樹徳中高一貫校教諭)
○演者 斎藤環(爽風会佐々木病院/精神科医) :原子力の享楽
    藤田博史(医療法人ユーロクリニーク/精神分析医・形成外科医):日本文化のなかの居心地の悪さ
    彦坂尚嘉(立教大学特任教授・アーティスト):FUKUSHIMA ARTは可能か?

No.397 - 2012/07/04(Wed) 01:26:36

性転換症(男→女)における「名づけ」の欲望 / 水上雅敏
「娘を名付ける父と、その娘になるという自作自演。」という視点から見ると、性転換症者(男→女)について何か新しい見解を加え得ないでしょうか?

性転換したいというのみならず、自分の名を自分が名づけたい、しかも女性の名で・・、という欲望自体が強い、ということはないでしょうか(いかにも女性チック、というような名が多いように思いますが)? (そういう意味では、名づける父になりたい、という男性との同一化もそこにある。現実の父―あるいは、現実の父における名づけるという機能のみ?―を拒絶しつつ、また、そこに同一化している、その機能を受け継いでいる)

元の名で呼ばれることを強く拒絶する性転換(願望の場合も含め)症者が居るようですが、その嫌悪には、ただ、元の名が男っぽい名だから、という以上に、何か構造的なものが関わってはいないでしょうか? 現実の父が上に居て、それが私を名づけた、という関係性を認めたくないとか、自分を自分自身を名づける位置に置きたいという強い欲望があるとか、そういう構造が関与していないでしょうか?

性転換するのみで、別段自分の名を女性の名にしたい欲望を持たない人はいるのでしょうか・・?

その他残る問題点

女性とは何か? を自分の体まで変更して、ヒステリー的に探索しているのか? あるいは、女性とはこういうものだ、と確定して、手術してそれになるのか? しかし、性転換者が男性を恋人にしたがるというのは社会的に自分が女性として見られたいから、という見解もあるが、もし強迫的にそうするようであれば(そういう場合ばかりかどうかわからないが)、それは「女性とはこういうものだ」という確信が不十分ゆえ・・ということかどうか(だからといって、それが女性の謎の探索とは限らず、ただ自分=女性のイメージが揺らぎやすい、というだけのことでもありえましょうが)?

ヒステリー的な「女性とは何か」レベルの探索に終わらず、性転換までした、というのはなぜか? 名づける機能まで自分のものとする、象徴的ファルスを自分が操れるのだという想像をする、ということが、また、性別選択を自分のものにする、ということとパラレルということでしょうか? (とすると、女性になりたかった、というより、性別選択の自由を感じる一環として、性転換があった、というだけのことなのか?)

結局象徴的ファルスの存在をしりつつ、自我がそれを操れる位置にいるのだという想像を徹頭徹尾貫く、というだけのことか・・?

No.396 - 2012/06/30(Sat) 13:23:09

小宮山さんのご乱心?? / 水上雅敏
以下、現実、病理を知らないまま思いつきで決めたとしか思えません。また小宮山さんの思いつきでしょうか? 症状が激しいからと、医師を3倍にしたところでどう早期退院につながるのか? 医師が少ないから早期治療が行なえていない、という現状がそれほどあるわけでもないと思いますが・・。

今迄だって、地域に戻そうとしても戻す場がなかったり、寛解困難だったりで、否応無く入院つづけざるを得ないということだったのに。それに一年以内となると、患者も焦って、治療にも多大な逆効果で、またCENSORED者も増える懸念もあるように思うのですが・・。
”原則”というあたりで多少融通利かしえるのでしょうか??


以下、読売新聞 6月29日(金)7時38分配信より

:精神科への入院、原則1年以内に…厚労省が方針

 厚生労働省は28日、精神科への入院を原則1年以内とする方針を決めた。

 入院治療の必要性がない患者を早期に退院させ、地域で暮らせるようにするのが狙い。退院支援に携わる精神保健福祉士らを配置するなどの取り組みを、早ければ来年度から始める。

 同日開かれた有識者検討会のとりまとめを受けた。

 国内の精神疾患による入院患者は約33万人(2008年)で、約22万人が1年以上の長期入院だ。10年以上の入院も7万人を超える。統合失調症が多いが、近年は認知症も増えている。

 入院期間を短縮させるため、発症間際で症状が激しい患者に対応する医師の配置基準を、現在の3倍と一般病院並みに増やす。精神保健福祉士や作業療法士など、退院支援に当たる専門職も置くようにする。
最終更新:6月29日(金)7時38分

No.395 - 2012/06/29(Fri) 12:55:00

これもまた新型うつ? / 水上雅敏
本来、論文や出版をすべき人が、その知性をブログやツイッターに書くだけでとどめてしまっているのも、また「仕事を達成していく=父を乗り越える=父の殺害→去勢不安」が構造となっているタイプの新型うつ等価・・という場合もあるのではないか・・と、ふと・・。
No.394 - 2012/06/28(Thu) 01:09:55

新型うつ / 水上雅敏
(ご紹介のリンク先、パソコンのキャパシティー不足でか2P以降あけられないままなのでidさんの記したものを読んだ限りでの感想)

・なまけかどうか、というあたりについて: 傷病手当金が大したことないと、本人も経済的に困ってくるだろうから、実際の怠けの人は仕事を始めることとなって、ある程度怠けと本当のうつ病はふるいにかけられて判明してくる可能性はあるかも。しかしこのへんが、民間と比べて雲泥の差があるほど傷病手当の支給の良い公務員の場合にむずかしいところ。たしか、公務員ではほとんど通常の給料レベルで出るようだから怠けて休んでいても、それほどデメリットはないから休めるだけ休もうとなってくる可能性はあるといえると思います。むろん民間でも、本当のうつ病の人と同様に、怠けの人も(うまく医者の診断をごまかせえれば)そこから障害年金などの申請もし始めるということもありうるかも知れませんが・・。

・遊びは出来るのに、仕事はやらない、という状態は、怠けでなくとも精神分析的にはありうると思います。例えば、仕事を達成していく=父を乗り越える=父の殺害→去勢不安、というふうにエディプスコンプレクスからの連想が強く影響する人は、仕事のところだけはどうも進められない、気が乗らない、ということになるでしょう。こういう人かどうかはある程度話を聞けば分かる場合もままあるかとは思います。

・新型うつ、という病名わざわざ作る必要は毛頭ないと思いますね。特に、精神分析的な診断名としては全く不要。現象としては新型うつでも、個々のケースに応じて、何かの神経症構造からのうつ状態か、何かの精神病構造からのうつ状態か、あるいは怠けだとしてもその欲望は?・・を判断することが重要と思います。

・そもそも「新型うつ」という病名を企業やマスコミがクローズアップするところにある欲望は何か、というのも逆に気になるところでもあります。

No.393 - 2012/06/26(Tue) 20:27:33

うつと怠け癖 / id
会社に行くとうつになり、休暇中は元気いっぱいで海外旅行に合コン・・・・・・「新型うつ」の若者が急増するのはなぜなのか。その背景には、各メディアで報じられていない、意外な真実があった。
ttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/32842

化粧とネイルが完璧な患者
 あなたは、若者のこんな主張を理解できるだろうか。

「病院の先生に、うつの療養中に気をつけることを聞いたら『仕事から離れて環境を変えて、自分の好きなことをしながらゆっくり休むのがいい』と言われたんです。僕はサーフィンが好きだから、グアムへサーフィンをしに行った。滞在中、食欲も出てきて、よく眠れるようになったので、もう大丈夫かな、と思って1ヵ月後に会社に復帰したんです。そうしたら上司に『なんでお前、休職していたのに日焼けしてるんだ』と問い詰められた。病気を治そうと思って、医者に言われたことをしただけなのに・・・・・・」

 大手食品メーカーに勤める入社3年目、20代後半の男性Aの証言である。「会社に行くと気分が落ち込んで、食欲もなくなる」と訴えて病院を受診。「うつ病」と診断を受けて、会社を休職したという。

---いま、日本中にはびこっているという??新型うつ?≠フ典型的な事例である。NHKスペシャルで特集され、雑誌など数々のメディアが取り上げて、改めて注目が集まっている。

 仕事となると体調が悪くなるが、遊びなら何の支障もないというのが特徴で、従来のうつ病と異なる症状を示すため「新型」と呼ばれている。が、そもそもこれを病気として認めるかどうかは、専門家の間でも意見が分かれるところだ。

「医療情報サイト『m3.com』で、1091人の医師に『新型うつを病気として対処するか』というアンケートを取ったところ、『病気として治療をすべき/単純に病気として対処できない/どちらとも言えない』という意見が3:4:3に分かれました。そもそも、『新型うつ』という正式な病名はなく、医療側が引き受けて解決する問題なのか、いまだコンセンサスが取れていないのです」(りんかい築地クリニック院長・吉田健一医師)

 冒頭の若者Aの話を読み、「海外へ行ける元気があるなら病気のはずはない」と憤る方が多いかもしれない。

 しかし、新型うつは病気か否か、ということばかりを議論したところで、問題の解決にはつながらないだろう。本記事では、そうではなく、新型うつの真相、知られていない問題点を明らかにしていきたい。

 まず、精神科医で筑波大学医学医療系助教の吉野聡医師が経験した事例を紹介しよう。患者は、他院でうつと診断されて、会社を休職中にセカンドオピニオンとして受診した患者B、20代後半の男性だった。(続きはリンク先)

No.392 - 2012/06/26(Tue) 13:35:55

生活保護の有期制の問題点 / 水上雅敏
生活保護の有期制の話もあるようですが、次のような現実がみすごされているように思います。まさに「現場」を知って欲しい、というところですね。

精神科では、もう何十年も入院している人はいるし、精神病は寛解して症状は消えたとしても完全治癒したとはされず、症状再発の可能性は残ること。やはりなかなか仕事が難しい人はいること。

仕事への復帰にがんばる人はいるが、それをあせったことが再発やCENSOREDの契機となることもあること。あるいは仕事への復帰の意欲自体が、再発のサインでさえありうること。

だから精神科のスタッフとしては、むしろ、なるべく仕事への意欲を抑制して欲しいな、と思い、そのように働きかけることもしばしばあること。

働くことばかりを尊いと思うのとは違う哲学があればいいな、と、よく思ったものです。

No.391 - 2012/06/25(Mon) 14:41:23

(No Subject) / 水上雅敏
榊山さん、レスありがとうございます。

>ギリギリまで論理を導きの糸とする。しかし最後の決断は、多かれ少なかれ「賭け」なのではないでしょうか。そこまで見切った上で決断するというのが「政治的決断」なのかもしれません。

今の政治的決定のおそさは、そこまでやっていないから、というのが大きいのではないかな・・と思いますね。もしそうしていれば、そういう理屈の通った側に対する反対勢力は国民からも馬鹿にされることは自覚するでしょうから、例えばいくらねじれ国会であろうと、党が分裂していようと、決定は早くなることでしょう。増税にしても、自分たちの私利私欲ではないのだ、というところを見せるには、公務員は最低賃金で働いてもらうか、そこまで極端でなくとも、傷病手当etcも民間レベルにするとか、無駄な(放射線の強すぎて可能性の薄い)除染はやめるとか、原発交付金は無しにするとか・・そうすれば、まあ、論理的というか、多少は理にかなっているかな、ともいえましょうが、そういう姿勢が見えない。そうしないから、決定が遅くなるのは当然のことだと思います。そういう理にかなった方向に進めてくれるリーダーシップだといいのですが・・。このままで決定が早くなる体制が作られてしまうほうが怖いです。

>ただそうではないリーダーシップの在り方を考え、作り上げていくことは可能ではないかと思いますがどうでしょうか。

基本的に、本人が私腹を肥やしていない、これからも肥やさないことができるかぎりはっきり見て取れるほど質素な生活をしているひとならまだ希望はあるかな・・・プラス、徹頭徹尾論理的に考えられる人、・・ということでしょうか・・。

No.390 - 2012/06/25(Mon) 01:00:49

(No Subject) / 榊山裕子
水上さん、レスありがとうございます。

「多様な価値観」を守ることは大事だと思います。
その点は水上さんとわたしの考えは一致していると思います。

そのことを確認した上で、では、多様な価値観は何によって守られるか、ということを考えると、
そこには何らかの強力な「力」がその根本において必要だと思うのです。
「多様な価値観」を認めるというのも、多様な価値観を認めるという
「同質の価値観」を共有することによって実現されるのではないでしょうか。その共通の価値観の土台があって
はじめて多様な価値観をもった人々が共存することが可能になる。ただここでの「同質の価値観」は、
あくまでも言語によるものですね。そこが重要だと思います。
またそこでは「多様な価値観」を認めないという価値観をもつ人の考えは排除されることになる。
また他者の自由を侵害しようとする価値観をもつ人に対抗するためには「力」が必要となる。

「リーダーシップ」への期待が高まっているのも、独裁者を求めているというよりもまず、
「決定」が遅くなることへの苛立ちが多くの人にあるのではないでしょうか。
ただここでも想像的に何でもやってくれるリーダーを想定するのでは、水上さんがおっしゃるように
宗教と同じになってしまうと思うのです。日本で待望されるリーダー像にはそういう危うさが
憑き纏っているというのは、水上さんが危惧される通りだと思います。
ただそうではないリーダーシップの在り方を考え、作り上げていくことは可能ではないかと思いますが
どうでしょうか。

一方、政治的決定は必ずしも論理的正しさでは対応できないと思うのです。
たとえば他の国は別の論理や非論理で動いているわけですから、それにも対応しなければならないわけですし。
百パーセント正しいか、百パーセント間違っているか、という真偽によって決められないことを、
でもそれでも決定しなければならない、ということだと思うのですね。
脱原発か原発依存かにしても実はそうだと思うのです。
ギリギリまで論理を導きの糸とする。しかし最後の決断は、多かれ少なかれ「賭け」なのではないでしょうか。
そこまで見切った上で決断するというのが「政治的決断」なのかもしれません。
選択するということは、それに憑き纏う負の部分もある程度承知しているということだと思うのです。
自分で選択しているという自覚を持てば何でも政治や権力のせいにはできなくなる。

原発問題に関していえば、
今回の日本の原発事故を機に「脱原発」に舵を切れたというドイツのことが気になり、
『ドイツ・エコロジー政党の誕生』(西田慎著)という本を読んでみました。
そこでは脱原発に寄与したドイツの「緑の党」が
1968年運動から生まれたことから日本とドイツの1968運動の違いについて論じられているのですが、
著者によれば、その大きな違いとして「日本の場合、主に私生活への回帰、
新左翼へ、テロへという三つの流れがあった」が、これに対してドイツは「この三つに加え、左翼の
社会民主党に入党して、体制のなかから改革を実現しようという流れがあった。また私生活に回帰しても、
完全に運動から離れるのではなく、大都市において左翼のサブカルチャー・ミリューを形成し、独自の
文化を生み出していった」というのですね。
特に前者の「体制のなかから改革を実現しようという流れ」というのは重要だったと思うのです。
ドイツの緑の党の「政治家の多くは、学生運動や新左翼の活動家として百戦錬磨の経験があるために、
組織の作り方からその維持の仕方、政治的駆け引きやマスコミへの対処法、果ては相手を潰す陰謀に
至るまで、戦術に秀でていた」というのです。
この違いは大きかったのだな、と思いました。

No.389 - 2012/06/24(Sun) 22:26:14

同質性の回帰 / 水上雅敏
一方で総理の「リーダーシップ」への期待、「国のかたち」をどうすべきかの考えがないといけない、というステレオタイプな言明というかたちで同質性の求めが回帰しているように思います(おそらく多くのメディアにおいても)。

オームの頃を思い出しますね。たしか「価値観が多様になった(だから、若者も政治に強く反抗をみせなくなった)」ともいわれていたころなのに、他方で、独裁的な麻原に帰依する信者もいたように。

どうしても価値観が多様なままでは我慢できなかったり、不安な人がいるんでしょうね。

「リーダーシップ」「国のかたち」への求めと、オームへのもとめ、そこには共通項があるようにも思います。

とりあえず「絆」教で、国民を支配するまでにはまだいたっていない(多少なりと反対勢力はある。多分メディアも一方向ではない。)のが救いですが・・。

(個人的には、総理の「リーダーシップ」より、「論理」に導きの糸を置いて欲しいし、また、「国の”かたち”」というと、人間共通の倫理や論理―むろん逆説的に一人ひとりは違うものであるというところからの倫理や論理―よりは、どうも恣意的な美意識に先導されやすい危険性をはらむことばのように感じています)

No.388 - 2012/06/24(Sun) 16:44:30

日本人同質性神話の崩壊 / 榊山裕子
近年、マスメディアの報道姿勢の違いが鮮明化しているように思う。
たとえば朝日新聞と産經新聞と赤旗と読売新聞と東京新聞ではそれぞれ報道姿勢が違う。
NHKとテレビ朝日とフジテレビでは違う。週刊誌もそれぞれ違うだろう。
これに2chやtwitterやFacebookやmixiやらの新手のメディアが加わり情報が
複雑に交錯するわけだ。

そして各々のメディアにはそれぞれある程度の傾向性が見られる。そのメディアに特有の
クセもある。この掲示板での政治的意見の違いも実はどういうメディアを背景として
語っているかということと大きく関わっているかもしれない。

ちなみに,意見の違いがあるのは、当り前といえば当り前だが、しかし、かつて
日本のマスメディアの報道は、金太郎飴のように似ていると言われてはいなかっただろうか。
違いの鮮明化は、自民党の一党支配が終わったことと関わりがあるのだろうか。

しかし、いや、待て、マスメディアの報道の違いは最近になって鮮明化したのだろうか。
いや、むしろ違いを鮮明化することを一般市民が望むようになった、あるいは
同質でないことを確認することを恐れなくなった、とは言えないか。

かつてこの国の人々は「日本人は同質だ」という類の言葉のおしゃぶりにしがみついていたのかもしれない。
同じだね、同じだね、と確認しあっていたところから、最近は「違う」「違う」と幾分ヒステリックにでも
語り始めたのだとしたら、とりあえず半歩は進歩したのかもしれない。

とりあえず日本人同質性神話の崩壊を歓迎したい。

No.387 - 2012/06/24(Sun) 14:18:35

訂正 / 榊山裕子
発売されるはずだっがた
→発売されるはずだったが

話題を読んだが
→話題を呼んだが

No.386 - 2012/06/24(Sun) 13:00:39

(No Subject) / 榊山裕子
作品の価値はあとからわかるというが、
3.11以降、スゴかったと思うのは忌野清志郎だ。
たとえばサマータイムブルース〜LOVE ME TENDER

tp://www.youtube.com/watch?v=aJdMa1VI0do

「牛乳を飲みてえ」の一言が心にしみる。
これらの曲が入っていたアルバムは、1988年東芝から発売されるはずだっがた、
「素晴らしすぎて出せない」というふざけた理由で発売禁止になったという。

ちなみに、斎藤和義が原発事故後に「ずっとウソだった」を歌って話題を読んだが、
彼が若い頃、あこがれの忌野清志郎と共演した時の映像がこれ。

ttp://www.youtube.com/watch?v=q2ymjl_b040

あるいは、昨日首相官邸前で起こった反原発デモをまともに報道したのは報道ステーションぐらいだが、

ttp://www.youtube.com/watch?v=dTuHOAW0DVM&feature=player_embedded

そういえば古館伊知郎は、1989年「夜のヒットスタジオ」で忌野清志郎が
「FM東京」の放送禁止に対する批判をした際に司会していたっけ。

ttp://www.youtube.com/watch?v=4X1fF084p3g

男のかっこよさは後からわかる

No.385 - 2012/06/24(Sun) 03:37:32

(No Subject) / 榊山裕子
かと思うと全くそういうことが問題にならないケースもありますよね。

つまり倫理ではなくてそのときの気分で動いている。

♫アーこの国の気分は変わりすぎて疲れるぜ♫(by フィッシュマンズ「気分」より)

No.384 - 2012/06/23(Sat) 17:48:54

日本では何故不倫に他人まで厳しいのか? / 水上雅敏
日本では不倫は当事者だけのこと(迷惑なのはそれをされた当人だけ)なのに、なぜ他人が口をはさむのか?

政治家の不倫にしても、それで税金を流用したとかなら別だがそうでもないのに、なぜ更迭なりの処分が下されるのか・・というのは前々から不思議。それはむしろ公私混同ではないのか?

政治家、芸能人etcが不倫しようと誰にも関係ないのに・・

No.383 - 2012/06/23(Sat) 12:30:29

日本人が外国語が苦手なこととラカンを受け付けない傾向の共通構造 / 水上雅敏
日本人が外国語が苦手ということと、ラカンの精神分析が日本(特に日本の心理学界)では余り受け付けられないことの背景にある共通点。

日本で翻訳文化がはやりすぎ、ということが大きいのではないでしょうか?

例えば、英語で考える、英英辞典を使う、というようなことであれば、単語の意味が分からなくても、その意味も英語で探るということになり、この一石二鳥的なプロセスにおいて、どんどん英語を伸ばしていける(いわば、構造化する構造も英語なら、構造化された構造<ラング>も英語である、というような関係において、それらの間で進んでくる弁証的思考自体も英語で行なわれるようになる)のでしょうが、常に、日本語に翻訳されてしまうと、いつまでも参照されるラングは日本語でしかない。発声する部分だけ英語で、その実、その背景にいろいろうごめく思考はあいかわらず日本語で行なわれる・・ということが外国語を苦手なままにさせている・・

ラカンの精神分析についても、いつまでたっても、それ以前に存在した色んな心理学に翻訳しつつ考えるばかりになっている・・(翻訳しきれるものなら、わざわざラカンもラカン自身の精神分析理論を発表する必要もなかった、ということを分かっていない。いまだに、「ラカンのこの概念は、既存のこの学派のどの概念に当たるか・・」という視点ばかりで読まれてしまう(−むろんそうできる部分はそれでよいとしても。また、ラカン自身が、フロイトに帰れ、というところのフロイトと照らし合わせてみる、ということは別にしても)。だから、なんだか分からない代物に思われてしまう。むしろ、心理学を知らない人にこそ、ラカン理論はつかめやすい、ということになってしまう。)

いわば、どちらも後ろに習え・・ばかりということで本質的な進歩がない。

では、なぜ、翻訳したがるか? ”もとのところにそもそも全能なもの(全ての意味を明らかにしてくれるもの)があり、常にそれを参照点にして解釈されなおされねばならない
”となっている・・、つまりエディプスコンプレクス(全能な父を原初の位置にすえ続けるという意味での、トーテム的同性愛対象の父)が強く残余している、ということでしょうか??

No.382 - 2012/06/22(Fri) 16:55:48

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