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Café Foujita

<カフェ・フジタ>

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藤田さん、お久しぶりです。 / 中野雅哉
藤田さん、お久しぶりです。セミネール断章の「<超自我>新論」いま初めて読みましたが、すごく面白かったです。やはり明確な文章というのはいいものですね。
No.870 - 2020/06/26(Fri) 00:04:10

分裂病への謡の効果 / 水上雅敏
中井久夫氏は、精神症状に「注意を向けていられないようにすると、症状はその間は消える」という意味で、「謡のようなものは、かなり長い間続き、身体の力が必要だし、台詞を言うためにもエネルギーがいるので、幻聴を消すには良いらしい」と述べる。「アリアドネからの糸」中井久夫、みすず書房 pp108−109。

だが謡に、言葉の通常の論理的進展を崩そうとする、いわば反論理を病者に使わせなくする時間を長引かせる効果を見ることも出来るのではないか? まさに今、謡というまともな論理に基づいた言葉を発声しているのだから、その間に反論理を使うというのは難しいことだろう。サリバンの様に、病者を酔わせて軽い酩酊にせずとも、謡で、反論理の攻勢を弱めることができるのではないか?

ヴントは「1、5秒以上の間隔の音の繰り返しからは我々は音のテンポというものをつかむことができない」ことを発見したらしい(「脳の中に数学を見る」津田一郎 共立出版 pp104−105)。ということは、本来、声も引き延ばされると、セット化できず、言葉として感じとられない事だろう。ということは、この謡の最中には、次に発声すべき声や文脈を失念しないために、前意識においては、それらに関連した様々な言葉を浮沈させる作業を行い続けることになるだろう。この間に反論理を使うことは困難な事だろうから、それに抗して論理を伸ばす前意識レベルの訓練になるだろうし、―もし反論理を使うというより、そもそもの通常の論理自体が弱い、という病者であったとしても―前意識における論理の訓練になるだろう。

No.869 - 2020/02/20(Thu) 10:41:58

集団絵画療法のメリット / 水上雅敏
集団絵画療法の集団なりのメリット、あるいは特殊な構造を考えてみました。

?@3人以上の中で、欠席という状況を作れること(欠席するという、無の象徴化の初期段階)、これは個人療法での欠席とは違い、グループで自分の事が語られているかも、というような、ふすまの向こうの原光景の幻想や彼岸におけるパロールの存在の創造を触発するだろう。

?A春暖絵画療法での合評会などにおいて、セラピストと自分(患者)とが話していると、それを聞いている第三者がいる、と思える。イマジネールな二者(?)関係に隙間を開けうる可能性が強まるだろう。それはまた、語りを論理的にしないと、と留意する気持ちも強めえるかも。

?B別の患者とセラピストが話しているのが聴ける。或いは別の患者同士が話しているのが聴ける。(視線のやりとりなども含め)。フォルト・ダーで在・不在する糸巻を見ている子供の位置にこれて、無を象徴化する言葉を得られえる可能性も強まるだろう。

?Cセラピストも複数いる集団療法であって、主セラピストが毎回ローテーションで交代する様であれば、権威主義的な、現人神を求めるような心性が患者においても弱まるだろう。セラピスト同士が別々の意見を論理的に戦わせている状況などがあるとすれば、このセラピストたちも現人神ではなく、その上に、見えざる論理鳴るもの、「父の名」があると思え得る。

?D、ただし、?A?B?Cまで分裂病者のイマジネールの中にさらにとりこまれてしまう可能性は否定できない。このとりこみを凌駕しえるほどの強さや速度で、如何に?A?B?Cを達成していけるか、この「凌駕」が、病者の某的な神経伝達その他生物学的な構造さえ変ええるか、そういう問題が残る。

No.868 - 2019/12/07(Sat) 08:28:03

ニューロンの刈込と活性酸素 分裂病と癌 / 水上雅敏
《昆虫は活性酸素を上手に利用する 〜蛹(さなぎ)になるために活性酸素を利用する仕組みを発見〜》 ttps://research-er.jp/articles/view/83200   (最初のhを略しています)

この記事から・・

?@連想したのはニューロンの刈込。2歳ころに一時ニューロンが減少するとの件(+自閉症、分裂病では減少しない、などの件)。全く根拠がないが、ここに活性酸素関わっているとかないか? 中井久夫氏は、分裂病が快方に向かうと癌が発生した例がある、だったか、分裂病者には優位に癌が少ない、だったか、ともかく、分裂病と癌が背反するというようなことを書かれていたような覚えがある(記憶、曖昧)。であれば、活性酸素が遅ればせにニューロンの刈込(あるいはそれに準じた何か)を行って分裂病を快方に向かわせ、がんを発生させた、とか、活性酸素が分裂病者の全身において少ないから、あるいは、カイコにおけるSOD1とSOD2タンパク質(Superoxide dismutase(SOD)の一種 活性酸素を除去する酵素)に相当する人体内の何かの酵素が多過ぎるから、分裂病者にがんが少ない、などということはないか? 

?A「チョウ目昆虫では紫外線の照射や、飢餓などの強いストレスが幼虫の時期に加わると早期に蛹になる」⇒ということらしいが、分裂病の治療のヒントにはならないか?

?Bさなぎの中で融解した状態にあるものから蛾を作り出すメカニズムはどんなものか? iPS細胞から器官を分化させるようなものか? 通常の2歳児の脳での、ニューロンの刈り込みから残るニューロンは、実は残ったわけではなく、そのようにして新しく作られたものである、ということはないか?

No.867 - 2019/10/28(Mon) 15:03:20

サイコパス / 藤田博史
サイコパスとは何か?
サイコパスは治療可能なのか?
可能だとしたらどのような方法によってか?

9月19日(木)のフジタゼミで探求してみたいと思います。

No.866 - 2019/09/16(Mon) 13:16:41

どれを夢の日中残滓にするか、はいつ決められるのか? / 水上雅敏
いわゆる夢の日中残滓の件だが、「この場面(日中に起きた思考も含め)を今夜の夢の材料として使おう」、と、覚醒時にその場面に出会ったときにすでに決めているのだろうか、或いは、寝入る直前に決めるのだろうか、或いは、寝てから選び出すのだろうか? 眠りの中で、海馬と大脳皮質間の情報のやりとりが行われると考えると、大脳皮質から降りてくる過去の思考も含めた上で、「この日中残滓を使うのが、一番欲望を象徴化しやすい(欲望の穴を埋めると同時に回帰させやすい)」として、日中の記憶から選び出す方が、合理的に思えるから、眠ってから選び出す、と考えるのが良いと思うのだがどうか?
No.865 - 2019/06/22(Sat) 10:15:42

6月8日公開セミナーの前の昼食 / 山岸光哉 [関東]
藤田様
ごぶさたしています。
忙しくご活躍のようでなによりです。
6月7日にニース時代の友人、大島透(毎日新聞記者)が用事で上京し、6月8日の午前中から夕方ぐらいまで時間があるとのことで、セミナー前に恵比寿で昼食を一緒にいかがでしょうか。突然の連絡で恐縮ですが、ご都合お知らせください。
山岸光哉

No.864 - 2019/05/27(Mon) 14:59:09

藤田先生へ / 水上雅敏
藤田先生、ご返信ありがとうございます。
>夢がまったく新しいものを創り出していることに驚いています ⇒実はほとんどの夢もそうなのでしょうが、私も同じようにあえて意識したのは若い時に夢が夜桜の風景を描いていたことです。とても美しくて、自分にはこんなの描く芸術性ないのに、夢にはあるのか、と不思議に思ったものでした。或いは、過大評価して何かを防衛しているのかも知れませんが、夢の中で発見するとか、―代表的にはラマヌジャンが夢の中で女神から数学の解答を得るとか、―というのを考えるとやはり意識的に持てる能力を超えた部分が夢を作り出す機構にはあるのかも知れませんね。しかし、それが出来るのも覚醒時に、他者とのパロールの弁証法を通じて去勢、無へと開く程度の範囲でできる無意識の技なのではとも思います。ただ、去勢への開きは少なくても、偏った天才的能力を夢を作り出す機構が発揮する、というのはありえるかとも思います。
>いわゆる現実もこのような創造作用で構成されていることを実感します →ここまで考えておりませんでしたが、面白いですね。藤田先生らしい発想にも感じます。でもそう言えばそうですよね。今私に思い当る一番いい例が、数、です。人間が勝手に作ったはずの数に、様々な謎が隠れていて(たとえばリーマン予想など)、人間のほうが翻弄されるとか、です。

No.863 - 2019/03/30(Sat) 13:29:11

先日はありがとうございました。 / Ron [関東]
ゼミの参加条件に守秘義務とあったため、内容全てについてそれが適用されるとしたら
ゼミでのことを書き込んでしまうことでご迷惑かけてしまうと心配はありますが、おそらく書き込んでも問題ない事だと判断したので続けさせてもらいます。

ゼミに参加させていただいて、テーマがテーマなので精神分析の有用性をややもすれば否定するようなことになってしまう発言はしちゃ駄目なのかなと思いましたし、正直物怖じしてしまいましたし、皆さんの話を頭の中で整理するのに精いっぱいで、発言を求められたときに困ってしまいましたが、ラッキーなことに精神医療においての精神分析の位置づけについて質問されていた方もいましたし、質問したかったことが話題にたびたび上っていたので疑念はある程度解消することが出来たので、行って皆さんの話を聞けて良かったです。

また、何事もなかったように迎えいれて頂いた上、あたたかいお言葉をかけて頂きありがとうございました。
ゼミでもお話になっていましたが、見えている物が全てではないという話を僕にしてくださったことは覚えています。
僕はすぐにとは行きませんでしたが、色んな人とのかかわりのなかで、苦しくて仕方なかった状態から脱却することが出来ました。
先生の言っていた意味での治療は成功したのだと思います。
ありがとうございます。

それにしても皆さん凄いですね…。
言葉の捉え方について考え直す必要があると思いましたという感想があったと思いましたが、まさに僕もそう感じていました。
理解し難い文章でも読解できるのは、抽象概念を落とし込んでいるからなのかと思っていましたが、そういうわけではないようです…。

またお邪魔出来ればと思います。
このたびは本当にありがとうございました。

追伸
再考した結果あまりネットにあげるべきでない情報を消しました。

失礼いたします。

No.862 - 2019/03/25(Mon) 00:29:07

水上さんへ / 藤田博史
わたしの脳裏には「ミノムシ」が浮かんでいます。ミノムシは枯れ葉などを使って自分が籠もる蓑を作りますよね。夢に対する日中残滓はこの蓑の材料のようなものだと思います。夢作用は極めてクリエイティヴな創造作用で、見たことのないものも創り出すことができます。と同時に、前日に体験した記憶の残滓をその材料としても使うのです。わたし自身は毎日、夢がまったく新しいものを創り出していることに驚いています。そして、いわゆる現実もこのような創造作用で構成されていることを実感します。
No.859 - 2019/03/13(Wed) 22:54:54

夢の全ては日中残滓か? / 水上雅敏
夢の全ては日中残滓なのだろうか?
前日、意識的に体験したことそのものでなくとも、前日の刺激に影響して引き出されて、ちらりとでも前日中に意識された記憶や思考の残骸で出来ているものだろうか? そういう記憶や思考の内、一切意識されていないが前日生じたもの(例えば、余りに瞬間的で意識されないが、精神生活に影響を残す刺激もあるらしいが―例えば、ヒントになる刺激を意識されぬほどの一瞬の間に与えると、次のクエスチョンへの正解が増えたという実験結果の様に)も夢に出現し得るのだろうか? 或いは、何かの刺激だけでも前日にあれば、それに関連した記憶が睡眠中に海馬なり、大脳皮質からなり降りてきてそれが夢を作る、ということもあるのだろうか(これは多分にありそうに思えるが)。いずれにしても、今述べた限りのものを全て日中残滓による夢とすると、しかし、そうではない夢というのもあるのか? しかし、前日に何の刺激もうけもしないのに、その夜にずっと前のものに関した夢を見るという必然は無いのではないか? 又、覚醒時の思考自体、その前に思ったことの連鎖上に在るものだとすると、ある夢のシーンをもし日中残滓でなくずっと過去の記憶が前日の思考と独立してよみがえったものとするならば、それは解釈する側の方が「解離的」に解釈してしまっている、ということにならないか? と考えると、当然、夢の全ては日中残滓で作られている、ということになってきて、わざわざ言うまでもない、ということにさえなりそうだ。でも、わざわざフロイトが「日中残滓」を述べたのは、フリースの周期説への反駁の意図があったのかも知れないとも思う。たとえば、28日ごとに以前の記憶や思考が夢に出てくる、ともしフリースが考えていたとしたら、いやいや、やはり前日の刺激が影響しているのだ、という。

今のところ、探索したい件は、

>一切意識されていないが前日生じたもの(例えば、余りに瞬間的で意識されないが、精神生活に影響を残す刺激もあるらしいが―例えば、ヒントになる刺激を意識されぬほどの一瞬の間に与えると、次のクエスチョンへの正解が増えたという実験結果の様に)も夢に出現し得るのだろうか? 或いは、何かの刺激だけでも前日にあれば、それに関連した記憶が睡眠中に海馬なり、大脳皮質からなり降りてきてそれが夢を作る、ということもあるのだろうか

→というあたり。

No.858 - 2019/02/09(Sat) 14:48:52

6か月でレム睡眠の増加がとまるわけ / 水上雅敏
6か月までREM睡眠の量が増え続けそこで止まる、とある論文であった(Sleep and Memory 730p)。6か月と言えば、そろそろ離乳で鏡像段階の始まる時期。
6か月目を、もし母の乳房から目が離れ外界を走査する目の動きが活発になる時期(?)と考えると、目の動きはこれに使われることになり、REMの増加には使われなくなる。或いは、REMで使う飽和量に達したから、外界の走査に目の動きを使いはじめた、ということか? 

その他、外界の像に無が見えてきて、その無を性器や無限遠の位置に定位するまでを鏡像段階と考えると、まずは外界の像のどこかしらにどことなく無を感じるように出来るようになったことが、REMの増加にストップをかけた、ということなのか? その関係はよくわからないが。或いは、ある程度の夢以上の願望充足は外界で行えばいいや、と思えるようになることがREMの増加を不必要にし始めたということか?

そういう意味では、母の乳房上に夢を見続ける(幻覚しつづける?)時期はREM睡眠を増加させる期間であり、乳房から目を遠ざけられはじめると、その増加がやむということか(だからといってLewinのように、―夢のスクリーンまで考える必要があるとは思えないが)。

(ちなみに、ふと思ったが、離乳の遅れることが、内斜視の原因のひとつにはならないか? もっと遠くを見るべき時に、近くの乳房をみつめるように強いられた、ということで)。

No.857 - 2018/09/28(Fri) 05:53:34

藤田先生 / 水上雅敏

ありがとうございます。しばらく訪問していなかったので、書き込みが遅れました。こちらこそよろしくお願いいたします。

No.856 - 2018/09/28(Fri) 05:52:40

水上さんへ / 藤田博史
示唆に富んだ書き込みをいつもありがとうございます。
バタバタしていてROMオンリーで失礼しています。
しっかり拝見していますので引き続きよろしくお願いいたします。

No.855 - 2018/06/28(Thu) 17:41:42

言語過程とアセチルコリン / 水上雅敏
>線条体ではコリン作動性介在ニューロン(CINs)と呼ばれる神経細胞がほぼ絶え間ない活動状態にあり、それが発火するたびにアセチルコリンと呼ばれる化学物質を放出します。 しかし、脳がびっくりするような音や外界からの予期せぬ刺激を受けるとCINsの活動は一時停止するのです  (前投稿で紹介したサイトの抜粋)

→これ見ると、そもそも、アセチルコリンが出ている間は、発火が働き続けてる、と言える一方、ある意味、慣性的あるいはマンネリの発火連続と対応している、と言えるようにも思える。仮説的にここに言語過程を沿わせてみるなら、これは換喩的過程の連続―無への象徴化の次元をあげないレベルで語り或いは思考し続けている状況―と対応できる可能性もあるだろう。とすると、その次元を上げる覚悟が着いた時は、つまりは、無を換喩で隠ぺいせずに無に直面し象徴化しようとするその境目の時も、CINsの活動が一時停止している、といえるかどうか・・

No.854 - 2018/05/18(Fri) 01:13:17

現実に2分の1秒遅れた知覚意識の主観的時間は2分の1秒前倒しするように修正されるのが必要なのか / 水上雅敏
ベンジャミン・リベット(『マインドタイム』岩波書店)が言ったことを意訳すると、現実に対する我々の知覚意識は実際の現実の2分の1秒遅れている。が、主観的には、それを修正するように約2分の1秒戻して(厳密には、EPの位置まで戻して。(=EPとは誘発電位。現実の皮膚刺激が約30ms後に生じさせる一次体性感覚や皮質からの電気反応、頭皮用では正の反応))、実際の時間に合わせる、ということになろう。しかし、よく考えると、修正を考える必要があるのか? 修正など考えなくても、我々は全ての状況を一律に2分の1秒遅れて知覚意識している、それで十分ではないか。そう考えたのは、時計を突然見ると、秒針が普段より長くとどまっているように見えてしまう、という現象の説明がそのほうがシンプルにいくからだ(この現象には名前がついているらしいが、忘れた)。

例えば、突然時計が目に入り秒針が45秒を示していたとする。抜かしてしまったが、こういう突然の事はリアルタイムに近く知覚意識できるとまず考える。そうでないと、例えば突然出てきた車をよけられないだろう。2分の1秒遅れるのは、文脈から大体むしろ予期できる場合のものと云えるかも知れない(世界の知覚も大体そうだし、リベットの実験でも被験者はいつか刺激されること自体はわかってる)。時計に話を戻すと、だから、秒針が45秒を指している時間がいつもより約2分の1秒長い、ということになる(総計で1秒半ほど45秒のところに留まることになる)、とシンプルに言える。で、46秒目は、いつもどおり2分の1秒遅れて知覚意識される。ここで、わざわざさらに修正して、46秒目の主観的な知覚を実際の時間に近く戻すとすると、この現象が説明つかなくなる(また、現実にほぼ対応していた45秒目の知覚意識まで2分の1秒戻すのは非現実的)。また時計以外の現実環境だって、2分の1秒遅れて知覚しているとすれば(リベット的にはそうなる)、別に時計の知覚意識の主観時間だけを2分の1秒戻すのは逆に変だろう。

だがリベットが、この主観時間の修正を主張するのには根拠がある。それは皮膚刺激の知覚意識と、大脳の感覚皮質を直接刺激した場合の主観的時間に関したものである。感覚皮質の刺激は2分の1秒持続させて初めて主観的にその対応する身体部位に知覚意識が生じるのだが、その2分の1秒中のどこかで皮膚への直接刺激を与えると、感覚皮質の刺激による知覚意識以前にその知覚意識が生じると言うのだ。つまり、皮膚刺激も2分の1秒遅れて感じるなら、感覚皮質による知覚意識より遅れて意識されるはずなのに、だ。つまり、ここから、皮膚刺激の場合はまずは2分の1秒知覚意識が遅れるにしても、その主観的時間の位置は約2分の1秒戻されて、本来現実に皮膚刺激された時点のものへと修正されているというわけだ。

ここで、私とリベットの考えとをどう妥協させるか、と考えると、「いつその知覚意識を感じたか?」と内省させた場合のみ、主観時間が現実の刺激位置に近づけて(厳密には上記したEPの位置へと)修正される、と考えると良いだろう。そう考えると、聞かれた知覚意識以外の知覚意識(例えば、現実的には同時に起こっていた、皮膚刺激以外の刺激、例えば同時的にそこに有った風景などの知覚意識)とずれて、聞かれた知覚意識の時間だけ先行してしまわないか、と批判されそうだが、そんなことはない。「そこにあったその風景はいつみたの?」と聞かれたら、その瞬間にその風景の知覚意識の主観的時間も、約2分の1秒早めに修正されることになるだろうから(振り返って見てしまえば、その瞬間に位置がずれてしまう、とは、ちょっと量子を連想させる)。という具合に考え、内省させない場合は2分の1秒遅れたまま、と考えると上記の時計の問題に対する私の考えも温存されるだろう。

それにしても、振り返った場合、なぜ主観的時間が、EPの位置へと修正されるのか。EP自体は、実際の刺激後の30ms後などに起こるものだから、もちろんリアルタイムに主観されないものだが、これがそれまでのあれやこれやの知覚意識なり、知覚意識を生み出すはずの信号なりを、一旦払拭する(=リセットする)役割、いわば、無をもたらす役割を持っている、と考えるとどうだろう。一旦、払拭されて無しかないわけだから、その次に起きてきた知覚意識について、「それはいつ起きたの?」と主観時間を問われれば、その無の時点=EPの起きた時点へと、そのイベントの主観時間が引き戻されることになるのは必然ではないか? 対して、皮質への直接刺激は、EPは事実として生じず、それまでの何も払拭されず無が導入されないので(←このへんはまだ自信ないが。色々と別の考え方があるかとは思う)、主観時間の修正はおこらず、2分の1秒間刺激され続けてやっと知覚意識された時間そのままが知覚意識の主観時間として報告されることになる、ということなのではないか。

ところで最初こう書いた。

>例えば、突然時計が目に入り秒針が45秒を示していたとする。抜かしてしまったが、こういう突然の事はリアルタイムに近く知覚意識できるとまず考える。そうでないと、例えば突然出てきた車をよけられないだろう。2分の1秒遅れるのは、文脈から大体むしろ予期できる場合のものと云えるかも知れない(世界の知覚も大体そうだし、リベットの実験でも被験者はいつか刺激されること自体はわかってる)。

そしてこういう記事を見かけた。≪線条体ではコリン作動性介在ニューロン(CINs)と呼ばれる神経細胞がほぼ絶え間ない活動状態にあり、それが発火するたびにアセチルコリンと呼ばれる化学物質を放出します。 しかし、脳がびっくりするような音や外界からの予期せぬ刺激を受けるとCINsの活動は一時停止するのです≫https://research-er.jp/articles/view/70515

「2分の1秒遅れるのは、文脈から大体むしろ予期できる場合のものと云えるかも知れない」と私が書いた或る種、慣性的、マンネリ的な状況がCINsの活動し続けて居る時であり、秒針が長らく止まって見える現象の時は、これが一時停止している時といえないものか? また、EPの時はどうだろう、などと思った。

No.853 - 2018/05/18(Fri) 01:11:39

人の歯状回の特別さ / 水上雅敏
NHK 人体 「脳」

人間の歯状回では90歳頃まで細胞が盛んに生まれている、とか。マウスではそうではない、と言っていたか聞き逃したが、まあそういうことだろう。
ここで人間だけに、なぜそんな特権があるのだろう、と思ってしまうが、「崩れていくことが生み出す」というような構造を考えれば、特別にプラス方向の特権のように考える必要もなくなるように思う。いい例が思い浮かばないが、ひとつの細胞という統一体が、細胞分裂でバラバラになることがそのまま器官を分化させていくことにつながる、というような。その上でなぜ歯状回について、人間だけそうなのか、と考えると、それは、人間が、早生まれで、身体が十分安定性を得ない時に生まれ、背伸びして統一的な他者の像を自己像と思ってしまって立ち上がり行動する、という無理から始まっていることに起因するのではないか? つまり、その無理な同一化が耐えられず徐々に崩れていき、その崩れ自身の隙間がまた構造化されて、それがまた崩れてその隙間が構造化されていく、ということがこの歯状回の細胞の生成と対応しているのではないか? そして、この構造化を可能にしているのは、これもまた統一体として勘違いされた自己像の崩れということに関係するが、この無理な自己像の崩れの隙間を象徴化しつつ徐々に自己像を無へと軟着陸させていくものとして人間が作り上げているものである言語なのではないか?

No.852 - 2018/02/10(Sat) 15:29:54

文字は公共的である必要があるか? / 水上雅敏

言葉の基本をなす、声の対立(フォルト・ダーとか)。消えやすい声のこの対立の記憶を外界に刻み込んで残すために、私たちは文字を使うが、これが最初から公共的に互いに分かるものである必要があったのか? 話し言葉だけが分かり合えばよいわけで(分かりあう、とは、原初的には、互いに違う発声ー対立発声ーをしているな、と意識できること―そこで自分の対立発声したものの意味としては他者の対立発声の否定として成り立っている―、として)、あとはそういう自らの対立発声の記憶としての文字(公共化しえていない原初レベルとして「線」と言っておく方がこの仮説的段階としてはふさわしいだろうが)は、個々人が自由に作っておけばいいようにも思えるが。

・・と一瞬思ったものの、やはり、この線も、公共のものである必要があるのだろう。つまり、人々互いが、違う種類の対立発声を行った場合には、やはり、それらの記憶は、外界に夫々が違う種類の線として刻まれている、という風に(つまり、ここでは公共性とはそれぞれが違う種類の線であることが、見て取れること、としている。―個人が他とは「違う」と思っていても、他の人がそう思ってないケースを考えると複雑になりまたそこは後々考えるべきことだと思うが。とりあえず―)。そうでないと、個人において、私の先ほどの対立発声は、他者の対立発声とは違うものであったのだ、という記憶が残らないだろうから(対立発声の記憶を残すものが線だ、とすると、それがそれぞれの人の互いに異質の対立発声に応じた線が似通ってしまっていれば混乱することになる)。

ここで、では、人類の言葉の始まりには理論的には、最低何人集まってこういう作業を行って言葉(話し言葉と文字)が成立したのか、と考えると、3人だと考える。そもそも2人しか人類の初めにいなければ、対立発声も無く、故に意識もない(対立化の作業自体が意識だとすると)、もちろん線も文字も無い、他者とは違う自分という意識もない、ということになるのではないか。三人いてこそ、あちらの人の発声とは違う発声、また、こちらの人とも違う発声をしようとして、2つの発声をしようとするのだろうから(←同一化は人はともかく避けたいものだ、という前提から考えているのだが。想像的同一化はきついし、非現実的でもあるし。)。(ちなみに、「では他の二人とは違う一つの声でもいいじゃないか」ということにもなるが、個人は自分の声との同一化もさけたいわけで、それがまずは対立発声をこそ作って、自分のいずれの声との同一化からも逃れえるようにすると同時に、その対立項の隙間として無を作りたいのだ、と考えておこう。その上で、この対立項を代表する、より象徴的次元を上げた一つの声が発生することはありえるが(フロイト事例のフォルト・ダーが、やがて、フォルトだけの反復になったように)。)。文字のほうも、他の2人の人の描いたそれぞれの線を見てこそ、その隙間にそれらとは違う線をおこう、それら他の2人とは違う声の対立項の記憶を巡らすものとして、ということになるのではないか(ここで、文字の方も、各人が2つの線を使って対立項を作らないのか、という問題も出てきそうだ。しかし、声の対立項2つに対して、その隙間に置かれる一つの線、という方が、言葉の原型なのではないか。消えやすい声を、更に対立させてその隙間に無を作るという方策こそ、無である主体を代表させるに相応しいから、声の対立のほうが先であって、線のほうではないのではないか)。

さて、いま三人のグループを考えたが、そういう三人が互いに作り上げた声対立の3種類、線の三種類があるとすると、それぞれの三角形の中心としての隙間がさらに発生する。これを個々人の発声対立の隙間以上に、より無へと近づく次元を上げた隙間と言えるだろう。ここで、更に、このような3人グループの存在を3つ考え、この3グループの三角形を考えてみる。そこで、今までの3人間についての議論のようなことがこの3グループ間にも―つまりそれぞれの3角形の中心たる隙間3つの間に―起きるとする。すると、そこに、1グループでは無しえなかったほどの無を象徴化する発声対立と文字がそれぞれのグループにおいて発生することとなる。そんな風にして人類の言葉は発展してきているのではないか?

No.851 - 2018/02/10(Sat) 15:27:39

中野さん / 水上雅敏
お久しぶり! 横レスで失礼。私も、クレマスターの横昼間通ってみました。また、お会いできるといいな、と思っています。上京の予定はないのですが。
No.850 - 2018/02/10(Sat) 15:27:04

俺は今日、新宿で立ち止まってた / 中野雅哉
お久しぶりです。
今日、新宿で友人の演劇を観て感傷的になりクレマスターでも見て帰るかと思って行ってみたらピンクの看板は昔のままで安藤とかいろいろ思い出してさらにノスタルジックかつメランコリックになってしまいグダグダに退行した心のまま池袋のジュンク堂の精神医学コーナーに寄ったらくだらないのしかねえなと思いながらも寂しかったので精神分析関係の本を三冊も買ってしまいました(たぶん読まない)。
つまり・・・藤田さん、早くまとまった本を書いてくださいね。
お待ちしています。

No.849 - 2018/01/31(Wed) 01:15:20

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