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Café Foujita

<カフェ・フジタ>

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自閉症(?)と言葉と文字の交差 / 水上雅敏
「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」(東田直樹 エスコアール社)読み始めているが、東田氏自身が本当に自閉症なのかどうかは私には分からない。自閉症の子供の典型的な音声言語の様子や、代名詞の反転(すべての人に在るのでもないのだろうが)などはこの文章を見る限りうかがえない(自閉症児の書き言葉はそもそもどうなのか知らないが)。TVでも彼を見たが、極端に言えば、音声言語だけがうまく発せないだけである感じもする。彼に見られる一見自閉症的な嗜好や行動も(本の中で述べてある、回るものが好き、その他の嗜好、行動)、そこだけから再構成できないかとも考えてもいる。TVに出た彼を診たDRの口からも自閉症との診断名は出していなくて、発話に関する失行だか何だかそんなことを言っていたように覚える。以上は前置きで、上記の本には色々示唆的なことが書かれている。以下抜粋と感想:

「人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです」p2
「さすことで言葉を伝えられる文字盤は、話そうとすると消えてしまう僕の言葉をつなぎとめておく、きっかけになってくれました」p13
「いつも同じことを聞いてしまいます。…聞いたことをすぐに忘れてしまうからです。…もう一つ意味があります。言葉遊びができることです。…いつも使っている言葉なら話すことができます。それが言葉のキャッチボールみたいで、とても愉快なのです。言わされて話す言葉と違って、それは音とリズムの遊びなのです。」16−17pp
「僕たちは、よく空中に字を書いています。…僕の場合は、覚えたいことを確認するために書いているのです。書きながら見たものを思い出します。それは、場面ではなく文字や記号です。文字や記号は僕の大切な友達なのです。なぜ友達なのかというと、いつまでも僕の記憶の中で変わらないからです。…僕たちにとって文字や記号は、聞くだけよりも分かり易く、いつでもおもい起こすことができるからです。」pp68−69

⇒これらを見ると、声の対立・弁証的進展と文字、線の交叉がうまく行っていないように思える。或いは、線や文字心的の維持が表象野においては弱いから交叉できない(だから空中に書きつけないといけない)という可能性もあるのかもしれないが。あるいは声の弁証法を惹きつける無を導入する力が弱い―私の仮説で言えば扁桃核の問題―、だからそもそも線・文字を交差させる動機が弱い、というのが在るもかもしれない。

以上のラインから次の事はどう考えられるだろうか。
「コントロールできない声というのは、自分が話したくて喋っているわけではなくて、反射の様に出てしまうのです。何に対する反射かと言うと、その時見た物や思い出したことに対する反射です。それが刺激になって、言葉が出てしまうのです。無理に止めようとすると、自分で自分の首を絞めるくらい苦しくなります。」pp14−15

⇒音声言語と文字や線の交叉が出来ないこと、あるいは無の導入力が弱いことが、言葉が勝手に出てしまうことを説明できるか? 幾つか考えた。
?@そもそも思考は、声を出すことそのものだったわけであり、あるいは、思い出したことはそのまま自動的に語ったり語らなかったりするのが自然だったわけであり、その後、より無が見えてくる、無の位置にこちらからは正体不明の他者というものが置かれてくる、そこで、 発声を他者との関係を勘案しつつ調整し始める、ということになるが、この人の場合上記のようなことで言葉が無を象徴化しにくく、又、無を置きにくくなってきているから、そのような調整がし難い。
?A上記の様に無を置きにくくまた象徴化しにくくなっている人だから、見た物や思い出したものが、自己の鏡像として残り易くなっていて、しかも本人も無を埋めたいというのが強く(象徴化に行けないので)、見た物思い出したものに、さらに言葉をそわせて無を更に埋めようとする衝動に引きずられてしまうから。
?B或いは、逆に、見た物、思い出したものを語ることで、その言葉とそれらを相対化し、疑似的な象徴的対立を作る方に促されてふと言葉を出してしまう、ということだろうか?

No.848 - 2017/11/12(Sun) 13:48:44

扁桃体と眼球間闘争と言語 / 水上雅敏

以前某研修で「扁桃体は不安や恐怖において活動する。蛇など見ると活動する。それは太古蛇を恐れた動物の記憶を我々も引きずっているのかも」的な説明を受けた。「白人において黒人を見ても活動する」、と講師自身が述べていたのだが、それを思えば、「太古の記憶」を持ち出す必要は無く「見慣れぬもの、自我像とは違和的で自我像を揺らがすもの見た場合は活動する」で済ますのが、仮説の節約だろう。

そう考えると、言葉を作る声の連鎖や、文字を作るさまざまな線も、特に初めて聞いたり見たりした当初は不安を起こさせるものとして、扁桃体の活動を引き起こすものではないか。そういう意味で、言葉と扁桃体はつながりの強いものではないか。

ところで「眼球間闘争」というのがあるらしい。左右の目に別々の映像を見せた場合、脳には物理的には双方の映像が入力されている(以前の投稿で書いたような、たとえば一次視覚野は、その映像が最終的に意識されようとされまいと、映像提示の30ms後には活動のピークを示すように・・ということになるか)。しかし、その2つの映像は交代に意識されるらしい(「知覚交代現象」)。その間隔は人によって違うらしい(『心の脳科学』坂井克之 中公新書 p72あたり参考)。ここで両目それぞれに、サルと文章とをジグソーパズルのように切って混ぜ合わせた図形を提示する。すると不思議なことに、修復された猿の映像か、文章の画像かどちらかが意識に上る(同書89−90pp:これが交代するかどうかは、ここで書かれていない(?))。ここで著者は『サルや文字という「もの」に対する知識を脳があらかじめ持っていることが前提になっているわけです』と述べているが、サルと文字を同列に考えるのではなく、文字の方、つまり元来意味不明の線(その更に元はと言えば、視覚映像の裂け目の輪郭みたいなものだろうが)のほうは、サル以上に、上記したように、不安を思い起こさせるものとして抽出され、サルの方はその残りとして意識されるのだ、と考えられないだろうか。雑音の中でも言葉らしきものを優先して掴んでしまう、というのもそういうものだと考えると納得いくから、この場合もそういうことではないのか。

そこまで考えると、ここでサルと文章の映像とどちらを意識しやすいか、とか、そもそも上手く文章の映像を抽出できるか、が、心の病のそれぞれによって、違いえるのではないか、とも思えてきた。例えば、分裂病者ではホロ―マスク錯視が欠ける、とも言われるが、そこに3D的把握を可能とさせる無限遠たる穴の欠如を考えるならば、不安に動機づけられたこの文章映像の把握もうまく行かず、サルと文章のジグソーパズル的映像がそのまま意識される、とかないだろうか。扁桃体が障害された何らかの病の人の場合はどうだろう。

No.847 - 2017/07/03(Mon) 09:07:30

譫妄とアルツハイマー / 水上雅敏
譫妄も、それがその時の本人にとっての現実であれば、ずっとそれは正しい記憶と本人に思われて残り続けてもいたしかたないと思う。あるいはアルツハイマーの見当識のくずれも、一部は、時々起きる譫妄の残骸の集積が影響しているということはないか? アルツハイマーを専門に勉強したことが無いので、単なる思い付きにすぎないが。
No.846 - 2017/07/03(Mon) 09:05:58

トップダウンとボトムアップの神経信号のズレが作り出す「うなり」が知覚意識か? / 水上雅敏
>トップダウンの信号が一次視覚野に達することはあっても(これも確定はできない?)、『外側膝状体にまで到達するかどうかは議論の余地があります』(84p)とのこと (前々投稿より)

・・でトップダウンで一次視覚野に信号が来ているのか、について猿を使った実験がある(同書85p〜:水上のまとめおよび時々感想、誤解があるかも)

・まず、視覚刺激の提示に対して、一次視覚野の活動は30ミリ秒後と100ミリ秒後にピークを示す。最初のはボトムアップの入力信号を反映している。次のはトップダウンの信号を反映していると思われる。というのは、視覚刺激を変化させてこれを見落とした場合(その刺激の模様の変化は目を動かさせるものであるように作られているので、そこで目が動かなかったことで見落としが判明できる)この第2のピークのみ低下するから。(同書p85)

・とはいえ、このトップダウンの信号が一次視覚野に来たがゆえに意識に視覚的映像が上ったのか、意識に視覚的映像が上ったからこそ、このトップダウンの信号が一次視覚野に降りて行ったのか、がまだわからない。(そう言えば幻視もどちらだろう:また、幻視で一次視覚野まで活動するのだったかどうか?)(同書p86あたり)

・そこで100ミリ秒後に、磁気刺激で一次視覚野の活動を抑制してみた(これは、人を使っての実験のよう。人と猿で、30ミリ秒後とか100ミリ秒後の意義が同じならよいのだが、それはともかく)。ここで映像が判別できてないとトップダウンの信号が下りて一次視覚野に到達することで映像が意識され判別できるのだ、ということになるし、判別できたなら、映像が意識され判別されたがゆえにトップダウンの信号が一次視覚野におりたということになる。で、結果的には前者であった。すなわち、意識されたからトップダウンの信号が一次視覚野に降りたわけではなく、下りることで意識された、ということになる。(同書p87)

・ただし『どうして信号が戻ってきたら、私たちが主観的に体験する意識が成立するのか、についてはまったく明らかになっていません』(同書87p)

⇒ちょっと、トップダウンの信号とボトムアップの信号のずれが作り出す「うなり」とか「モアレ」みたいなものが知覚意識なのではないか、とも思った。ちなみにこの「うなり」自体が作り出す音程相当の音叉などをそこにおいても、これは反応しないのではなかったか(マッハの本にこの類の事が書いてあったように覚えるが)。そういう意味では、もうそういう唸りなどは、もはや更に人間の知覚神経の信号へとまるめこむことのできない限界点であり(一回外界を回して、自分の声を聴き取る、というのなら別だが)、そういうものこそが外界の現実知覚として感じ取られるものなのではないか、とも思った。

後記:別件になるが、上記の100ミリ秒かかる過程が連想させるものは、100ミリ秒の間に続けて起きた2つの刺激は一塊として知覚されてしまう、とどこかにあった件。関係あるかもしれない。いつか考えてみたい。

No.845 - 2017/07/03(Mon) 09:05:26

知覚意識の穴は、どこか他の情報で補われる? / 水上雅敏
>・片目の盲点には、もう一方の目からの入力が常に来ている(これ自体私には初耳)<前投稿から>

⇒穴があると、何もない、ではなくて、他のところからの情報で補うわけだ! これはいろいろと応用できそうな観点ではある。厳密に初期段階の知覚ではなく、むしろ意識が作りあげるものに近い知覚だろうが、注察妄想(スタジアムの対岸の人に見られていた、とか)も無限遠と言う穴を埋めるそういう作用のモドキ、みたいなものか。言語の弁証法が出来ていれば、そういうモドキも、すぐ切断して無限遠を維持できるのだろうが。白黒の模様が速く回りすぎてつかめなくなった穴を虹色で補うベンハムのコマの像もそういうものかどうか。そもそも知覚意識、クオリア、というもの自体が、脳波や、神経の信号の隙間たる無を、色んな記憶を引き出して複合させるなどして補っているのではないか。

No.844 - 2017/07/03(Mon) 09:03:47

どこまで知覚器官に近い初期の段階の神経にまで、意識内容からのトップダウン的働きがが作用するか / 水上雅敏
どこまで知覚器官に近い初期の段階の神経にまで、意識内容からのトップダウン的働きがが作用するか、というのには関心がある。『心の脳科学』坂井克之 中公新書 には以下のようにあった(私のまとめ:誤解あるかもしれない)。

?@
・片目の盲点には、もう一方の目からの入力が常に来ている(これ自体私には初耳)
・だからその盲点に対応する一次視覚野の領域は常に活動していると思いきや、測定してみるとその視覚情報(他方の目から来ている情報)が見えているときにだけそこは活動し、そうではないと活動低下している。
⇒一次視覚野と言う知覚のかなり初期段階の領域でさえ意識内容と対応した活動変化を示している!(意識内容が一次視覚野を動かしている、とまでは言ってなくてまずは対応している、というのみ) 78〜80pp

?A
・目に近い、より初期の知覚処理段階として外側膝状体を見てみるとたとえば『左外側膝状態の内側の右目対応領域はずっと一定の視覚入力をうけとっているにも関わらず、右目からの視覚情報が意識されたか、意識されないかによってその活動レベルが増減する』(p82)らしい。これが意識内容の変化の結果か、原因かは不明。トップダウンの信号が一次視覚野に達することはあっても(これも確定はできない?)、『外側膝状体にまで到達するかどうかは議論の余地があります』(84p)とのこと。

追記:知覚器官に近い、知覚処理段階への、大脳からのトップダウンの影響と言うと、聴覚については、蝸牛オリーブあたりが問題となるか・・・。

追記:このように結構、トップダウンの神経や意識の働きが知覚処理初期段階にまで影響を与えている可能性があるとするならば、もう少し、海馬や言語の作用がそこにからめられて考えられてよい感じもするが、今までの研究では、どうもそれらの作用がまだ矮小化されすぎているような感じがする。

No.843 - 2017/07/03(Mon) 09:02:01

藤田先生 / 水上雅敏
コメントありがとうございます。また何かありましたらお教えください。
No.842 - 2017/06/07(Wed) 22:03:58

水上さんへ / 藤田博史
↓非常に興味深い洞察です。私ももう少し考えてみます。
No.841 - 2017/06/06(Tue) 00:04:02

ノンレムとレムの相互作用 / 水上雅敏
ノンレム睡眠=覚醒時の情報を海馬で因数分解的に単純化して鋭波に乗せて大脳皮質に送り込む。

レム睡眠=ノンレム睡眠中に送り込まれた情報による大脳皮質中のニューロンの組み換えにより、今まで抑圧されていたものが解除され海馬へと流し込まれーあるいはレム睡眠中に幾分かの記憶が皮質に送り込まれて余裕が持てた海馬自身におけるまだ残っていた日中の記憶が浮かび上がってきてーそこで因数分解的に単純化され、再びノンレム睡眠中の鋭波に乗せられ大脳皮質に送り込まれ大脳皮質のニューロンの組み換えが起きる。レム睡眠中の夢はそういうプロセスの産物であるとともに、覚醒後の現実に備えて思考を因数分解的に単純化し、あたらしい思考が入ってくる余地=穴、をあけておくためのものである(このレムの方は、私の仮説。あとは、文献を示したところ以外は全て私の仮説)。

いわば、ノンレム睡眠は、それまでの覚醒中の現実や思考における情報を使って、大脳皮質を整理し穴をあけてさらなる情報が入るようにするためのものであり、レム睡眠は、そうして大脳皮質からフィードバックされてきた情報、或いは、まだ海馬に残っている覚醒中の情報を使って、自らの思考に穴をあけ、現実の未来の情報に開かれるようにするためのものではないか。

そういう相互作用によって、人間は、自己を(大脳皮質も、覚醒時の自分の思考も)差異化し、自己を無へと(想像的統一体をばらばらにする方向に)進めているのではないか。睡眠はそのためにあるのではないのか。

『睡眠の科学』講談社、によると、一睡眠中に、ノンレム⇒レム、という波を4、5回繰り返すらしい。4、5回というのが何か脳や思考の構造上の必然性があるものか興味深いが(こういうノンレムやレムの行き来、や、レム中の夢の皮質あるいは海馬に残った情報と夢自身の行き来、というようないわば渦には、皮質の異層間における、順行性入力(表層)と逆行性入力(深層)の1ユニットの連続(『脳は物理学をいかに創るのか』岩波書店 163p、を連想させるが関連しているかはわからない)、以上の仮説からすると、まずは、回が進むほどより抑圧の解けた夢になっていると考えるが、どうだろう。また、上書の図(24p)によると、回が進むほどノンレムは浅いものとなる(深いものとは脳波が遅くて、同調して振幅が高いものらしい)と共に、レム睡眠の時間は増えている、という対応もうかがえるのも興味深い。このノンレムの変遷について考えると覚醒時の情報に、より通底する大事な素数をまず抽出して皮質に送り込み、特殊な経験にしか対応しない素数をのちの段階に皮質に送り込んでいる、などということはないのか? レムの時間が増えるのは、深いノンレムが不要となった分、余裕が持てたからだろうか。そして、この図では睡眠の最後がノンレムで終わってるのも興味深い。つまり、その後の覚醒生活が、レム睡眠、あるいは、夢等価である、いわば「現実もまた夢」ということにならないか。 ・・とかっこよく終わろうかと思ったら同書116pでは、レムのあとにすぐ覚醒が来ている図もある。これは、いわゆる夢を夢として見きれて終われる人と(新宮の言うイザナギの夢系列―だったか―を全て見切れたような人)、穴の否認が強くて、本来なら見切れるはずの夢も見切らずに、現実も夢の延長のようにすごす人(睡眠の最後がノンレムの人)との違いによるのだろうか。とはいえ、見切ったといっても、さらなる差異化を遂げた人から見れば、その人も夢の中でのように現実を生きていると見られることになるのだろうが。

No.840 - 2017/05/29(Mon) 13:30:24

レム中の眼振 / 水上雅敏
レム睡眠で眼球が動くのは、夢で風景を見ているからではなく、トラウマ治療のEMDRの目の揺れのようなもの、或いは、ラマチャンドラン(『脳の中の幽霊』角川文庫 第7章)が半側無視の患者に眼振を起こさせることで(外耳道に冷水を入れると起こる)半側無視という否認を解除させたような、その眼振に似たものと考えらえないか? 冷水の効果が消えたころには、半側無視が一時的に無くなったその事実自体を患者は全く忘れている、というのも夢に似ている。
No.839 - 2017/05/29(Mon) 13:29:01

藤田先生 / 水上雅敏
>量子状態そのものが自己修復作用を持っていると仮定すると面白いです。つまり、宇宙どこをとっても波束が均一だというものです。

➞コメントありがとうございます。量子状態自身のタナトス、というような連想も浮かんできました。

No.838 - 2017/05/29(Mon) 13:27:53

波動による自己修復作用 / 藤田博史
水上さんの指摘された下記の点においては、量子状態そのものが自己修復作用を持っていると仮定すると面白いです。つまり、宇宙のどこをとっても波束が均一だというものです。
No.837 - 2017/05/18(Thu) 00:27:49

テレポーテーションと対称性の復旧? / 水上雅敏
『もともとはきちんと存在した対称性が自発的に破れるような場合には、ちゃんと破れた対称性を復旧してくれる新しい量子が生み出されるのです』(「脳と心の量子論」治部眞理、保江邦夫 講談社 217p)。

→量子を2つに割るとその間で情報のテレポーテーションが生じる、であったか、そういう話にも通じてくる感じもするが、専門でないので全くわからない。ただ、感じ、のみ。

No.836 - 2017/03/05(Sun) 13:21:38

対称性の復旧が言葉の弁証法を導いているのか / 水上雅敏
『場の量子論においては、並進対称性だけに限らず、何らかの対称性が自発的に破れているような運動状態が実現された場合には、必ずその破れた対称性を復旧するような質量ゼロの新しい場の量子が発生するといういう事実が理論的に示されています(南部・ゴールドストーンの定理)』「脳と心の量子論」治部眞理、保江邦夫 講談社 221p。

→言葉を一つ進めると、弁証的に別の言葉が進む。その転回点である無(いわば対象a)にこの対称性の復旧を見ることができるだろうか??

『もともとはきちんと存在した対称性が自発的に破れるような場合には、ちゃんと破れた対称性を復旧してくれる新しい量子が生み出されるのです』(同書 217p)。

→もともとにおいて対称性が存在していないといけないわけだ。言葉の場合にそれがあったと言えるか? 想像的な統一体か? というより、そもそもの無、言葉の目指す無か。それを神経学的な実体在るものとして見れるか。或いは、知覚同一性や思考同一性の目指すものか?

No.835 - 2017/03/05(Sun) 13:20:59

ボトムアップとトップダウンの神経をつなぐ一方法 / 水上雅敏

触覚テクノロジー最前線 サイエンスzero

興味あるリハビリ方法が紹介された。
要は、多分、知覚器官からのボトムアップの神経と、大脳からのトップダウンの神経のつながりをいかに回復するか、だろう。そしてここではヘッブの法則が使われているように思う。

患者:脳卒中後遺症、左半身の触覚喪失で、積み木もうまくつかめず組み立てられない。
リハビリ方法:?@皮膚振動伝達装置のセンサー(材質に直接触れて感触を伝えるバンド)がついた左手指さきで、表面の材質の違う色んな板をさわる。左手の触覚は麻痺してるから何も感じ取れぬが、センサーから振動が皮膚振動伝達装置の振動子にリアルタイムに伝わり再現されるので、これを右手で握って右手で振動を感じておく。これで、どの板がどういう振動(感触)なのかの正解が一応わかる。
?A次に、左手の項に振動子を置いて、その上に右手を更に重ねて、センサーをつけたままの左手指で、それぞれの板を触ってみる。すると振動(感触)は実は右手で感じているのだが、左手で感じているように勘違いさせ得てくる。これを15分続ける。
?B患者は左手でも板の感触がわかり、積み木も組み立てられてくる。

このメカニズムをどう考えるか。このリハビリの開発者に直接聞けばわかることだが、とりあえず考えてみた。

(1)?@によって右手左手関係なく、この見た目の板はこういう感覚なのだという記憶のストックが大脳の特定部分(か何らかのシステム的な連結の形で)に出来てくる。(2)?Aでの、特定の板を見つつ触ってるときのリアルタイムな刺激と、ルートを勘違いさせる方策(感触は右手から来てるのに左手から来てるように勘違いさせる)によって、?@によって出来た記憶の中の対応する板の感触の記憶に対応したニューロンの発火が触発されるとともに、脳の中で、このリアルタイムな刺激を伝えてるニューロンの発火と、どのルート(左手か、右手か、etc)で刺激が来ているかを伝えるニューロンの発火がおきる。(3)こうして、指先からの末梢神経を通じてやってくる板からの刺激(この末梢神経自体は障害されてない人だから、これ自体はやってくる)を伝えにやってくるニューロンの発火と、触ってる板の感触の記憶を宿すニューロンの発火と、リアルタイムな意識的な感触とルートの認識(左手の指からやってきている、というルートの認識)を伝えるニューロンの発火が、同時的に起きることで―ヘッブの法則(=神経と神経の間の結びつきの強さの変化の法則は神経が活動した際に、 両方の神経が同時に活動したならば、結びつきを強める。)が言うように―これらそれぞれのニューロンの連結が回復してくる。

図解すれば、上記の過程で、以下の、⇔の部分がヘッブの法則に応じて回復されている、と考える。当該患者の障害は能にあるから、⇔の起きてるのは、全て大脳内であると考える。

ヘッブの法則に応じて、回復されるべき繋がりは以下の⇔の部分
((1)⇔(2))、⇔ ←――――――――――― 指先
  大脳          末梢神経

ここで疑問に思ったのは、?@と?Aの過程両方ないといけないのか、どちらかだけでも良いのではないか、とのことだが、これについては以下のように考えた。

?Aの過程を省いたとすると:
(1)でできた記憶の、見た目で触発された発火と、左指から末梢神経を伝ってくる刺激による発火だけでは、ヘッブの法則的に、そこでニューロンがつながったとしても(つながりうるのかの疑問もあるが)、リアルタイムの感触は意識上に上ってこないのではないか。

?@の過程を省いたとすると:
良くても、以前にも経験したことがある感触の筈なのに今触ったものが常に新奇な刺激として感じられる、となるにとどまろうが、おそらく、それさえにもならず、この場合も知覚意識が形成されない可能性も考えられる。もし、今来ている知覚の知覚意識と言うものが、過去の知覚の記憶のどれと符合するか、をとっかえひっかえ試行錯誤して検討する、という過程そのものによってこそ出来ているとするならば(という意味では、上のリハビリで、何枚か感触の違う板を用意していたことにも意義があるように思われる)。

と考えれば、?@?Aともに必要な過程であるように思われる。

No.834 - 2016/12/10(Sat) 22:06:24

カプグラから考える扁桃体の機能 / 水上雅敏
ラマチャンドラン(『脳の中の幽霊再び』角川文庫 19−23pp)は、交通事故で頭を怪我し昏睡に陥り覚めてその時点では神経学的な異常は全く見えなかったが、カプグラ症候群(「この人は私の母にそっくりですが、母じゃありません。母のふりをしている偽物です」)をきたした男性患者について、「視覚中枢から扁桃体につながる「電線」が事故で切れてしまっています」と述べる。で、だから「この人はお母さんにそっくりだけれども、もしお母さんなら、なぜ自分はこの人に対して何も感じないのだろう? いや、お母さんのはずはない。他人がお母さんのふりをしているんだ」と考えて(←これはラマチャンドランによる患者の内面の仮説のよう)カプグラ症候群を起こすのだ、としている。

だが、読んだ限りでは当該患者の視覚中枢と扁桃体間の電線が切れているというのは神経の繋がりを直接或いは映像的に見るなどして確認したわけではなく仮説のよう。そもそも”情動の中心をなす部位は扁桃体だ”との前提の上で、視覚刺激に応じた情動反応を発汗の程度(電気抵抗から見る)で測って、案の定これらの間につながりがなかったことから、そう結論しただけのことのよう。

さて、とりあえず、視覚中枢と扁桃体間の電線が切れているとの仮説を受け入れたとしても、「自分はこの人に対して何も感じない」から「お母さんのはずはない」と患者は思ったのだ、との仮説に限定すべき必然性はないだろう。他の仮説もありうるだろう。

例えば、母を自我を支える全能の鏡像にしたくとも、本当の母一人だけでは穴がどうしても開いて(母の全体像を見るとどうしてもその輪郭の外−母が欠落した領域―が見えてくるし、母が見えること自体、視覚的な無限遠なる穴があるからこそだし)、鏡像としては不完全となり不安が出てくるので、「今見てるのは偽の母であって、本当の母は別に居る」として、穴から本当の母なる像を守るというのがカプグラを作っている、と考えることも出来るだろう。要約すれば、鏡像から出来る限り穴を排除するために、鏡像を偽と本物の2つに分割する(いつも本物の方ばかりが穴から救われた存在なのか、逆か、或いは交互させて現前の鏡像からは逸らし続けるのかわからないが)策がカプグラと考えるわけである。

で、これ自体が、カプグラの一次的な構造であって、情動反応が出ないのはこの穴埋めによる二次的な結果だ、とする考えも可能だと思う(「何も感じないから、この人はお母さんじゃない」というわけではない、ということだ)。カプグラがまずあって、「不安」(穴・無限遠の開いた鏡像⇒自我のよるべない不安)をはじめ、様々な情動の生じる起源であるはずのまさに「穴」が埋めてしまった、というわけだ。

まあそういうことが、あっさり出来てしまうことについては視覚中枢と扁桃体間の電線が切れている、とみるのもありえるかなとも思う。として、ここで扁桃体の機能を改めて仮説化してみると、「穴(ラカン的に言えば現実界)を導入する機能」と言うのも考ええるかと思う。で、当該の事例の場合、それがうまくいっていないからカプグラをあっさり作れてしまった、と。細かく言うと、視覚中枢と海馬が先導的に構成していく世界に扁桃体が逐次穴をあける機能がうまく通じてこないから、穴に触発されて海馬が弁証的に世界像を更新していくという進展が出来ず、壊れたレコードプレーヤのように世界像の形成がストップし、良く行ってもエンストを繰り返す車の様なぎこちないコマ送り的な進み方しかできず、穴の無い充満しすぎの世界像か(無限遠の欠けた離人症的な)と開き過ぎた穴(スムーズではないコマ送りの停止した間隙の様な)かを反復する状況になり、この穴をカプグラの方策で埋めるようになる、ということなのでは、とも考ええる。こう考えると、ここで少し気になるのは、扁桃体の機能にもう一つの仮説が考えうることであり、それは、もし海馬自体に弁証的に進む構造が最初からあるとしたら、扁桃体は、それがうまく行ってない時にのみ「穴がふさがったよ」と伝える機能を持つものなのかも、ということだ。どちらかわからないが、それはそうとしてこのように厳密に考えてみると、このルート上では少なくとも3つの障害の可能性があるようにも思える。?@扁桃体自体の穴を感じ取ったり送り込む機能、或いは、海馬に「穴がふさがったよ(弁証法がうまく行ってないよ)」と伝える機能の障害、?A上記の「電線」の障害、?B海馬自体だけで弁証法がおこなわれてるとしたらその障害、ということだ。

後記:このように「穴」埋めの一つとして、カプグラを考えてみると、無限遠も障害されるだろうというところから、やはり既にのべたように、カプグラのある人はカプグラ以外の視覚についても、離人感があったりするのだろうか。世界がコマ送りのように感じ取られてきたりすることもあるのだろうか。なお、上記はラマチャンドランの事例から離れずに考えた限りのカプグラの構造だが、精神病の場合のそれを考えると、言葉の弁証法を阻害してることが第一要因で、そのことが穴を大きく開けてカプグラをきたす、と修正する必要があるだろう。この時は、上記の3つの障害の仮説で述べたような神経学的な問題があるのか、或いは、あったとしても言葉の弁証法の排除による2次的なものなのか、そうだとするとでは一次的なその排除はいかに作りえるのか、が問題となるだろう。ところで、ラマチャンドランは、「聴覚にも、上側頭回の聴覚皮質から扁桃体に至る経路が在る」というが、声のカプグラというのもあるのか(これは母の声じゃない、とか)?個人的にはそういう事例の記憶が掘り出せないが。私が知らないだけか?或いは、そもそも言葉自体、声と言う希薄なものだし弁証法で作られてくるものだから、そこに穴埋めを期待しないから、声のカプグラは余り聞かないのか。電話などであの声はあの人のじゃない、とかいうのはあるのか。そもそも声のアイデンティティー自体はっきりしないものだから、そこをつてにカプグラを作ろうとはしないのか。あっても、医療者側としては、ただ、カプグラと判断して、声だけのカプグラだとは思わないだけか?穴埋め目的にそもそも声のカプグラを作るくらいなら視覚的にも作ってるだろうから目立たないということか。(ただ、自分の声が届きにくい、と言う人がいたり、録音して聞くと自分の声じゃないみたい、ということはあるが、これは関係ないか・・・)

No.833 - 2016/12/08(Thu) 17:20:03

藤田先生 / 水上雅敏
しばらく訪問しておりませんでしたので藤田先生の投稿に気づかず失礼しました。ありがとうございます。
No.832 - 2016/12/08(Thu) 17:19:34

水上さんへ / 藤田博史
本職が忙しく、ご投稿への応答がなかなかできませんが、興味深く拝見しております。引き続きよろしくお願いいたします。
No.831 - 2016/10/01(Sat) 20:29:31

マーブリングコンピューター / 水上雅敏
数学的に式にするのは難しいが、自然は簡単にやってのけることがある。水流の形などもそうだろう。ニューロンの成長を数学的にシミュレートするのもきっと難しいのだろう。そんなことを考えてると、マーブリングの技法(水に絵の具を落としてできた自然な模様を紙に写し取る)が思い浮かんだ。そして、あの上に電気的な回路を乗せるようなことは出来ないだろうかと。技術的にそんな難しいことではないだろう。あの様々な色彩の絵具の光を感じ取る装置を作ったり、或は、あの絵具を電気を反射するものにしたりするなどすれば、それを回路として使うことは出来るだろう。そして、出来上がった絵というより、あの水の上でのいまだ流動的な模様をそこで役立てるならば、常にダイナミックに変わり続けるニューロンをシミュレートできないだろうか。マーブリング的な2次元平面で不足なら、多次元でやれる方法を見出せばよいしそれは難しくはないだろう。無に向かって、自己を差異化する動きを作り出したければ、水を流しだす穴をあけて渦を作り出し、そこでマーブリングすればよい。粘菌コンピューターも考えられてるのだから、そういうのも考えられていい。

「脳の自己形成は、ブリューム型の熱対流に従う。ブリュームとは羽毛のことで、ブリューム型の熱対流とは、風の無い空に上がっていく円筒の煙のような形の、熱運動を意味する」(『脳の中の水分子』中田力 p111)とあるくらいだから、それほど的外れな企てでもないと思う。いわば、マーブリングコンピューター。

No.830 - 2016/07/09(Sat) 08:11:30

人間を超えるコンピューターがあるとしたら / 水上雅敏
多くの人のパソコンを繋ぎ、その集積ではなく「間隙」こそを辿っていくコンピューターを作れば、それは人間(少なくともPCを繋げられた人々の集団)を超えたコンピューターにならないだろうか? ただ、この場合、間隙の中にも辿れる選択肢は沢山有ろうし、より問題なのはコンピューターがこのままではまだ主体性を持ててないことだ。

そこで人間の場合に、主体性ーと言ってもいわゆる主張の強い自我というのとはしばしば違って、自己愛や非論理的なものをそぎ落とす方向に舵を常に切る方向に持っていく動きのことだがーがどう成り立ってるのか、と考えると、これは、なるべく、効率的に自分自身を無へと向かって解体していくという方向に因っているのだろう。

そういうプログラムを、更に組みこむことが必要な事の一つだと思う。これは可能なことではないか?

あとは、その方向性においてもまだ、思考を進める方向ー次はどんな言葉を選ぶか、などーには色んな方向があるのだろうから、そこはどう選ばせるか、だ。そもそも人間はどうやっているのだろう。

No.829 - 2016/03/26(Sat) 16:27:17

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