サイモン・ラトル/ベルリン・フィルの「くるみ割り人形」を買ってしまった。 この指揮者がチャイコフスキーが得意だとかバレエ音楽の権威だとか、そういう話は 皆無であり、決してお得意の楽曲とは思えない。 しかし、先日、NHK−Hiでシルベスター・コンサート放送というのがあったので ブルーレイ録画を再生して見ていたら、これが凄くいいのだ。
このCD2枚組にはラトルのくるみ割り人形演奏に当ってのインタビューが20分、 シルベスター・コンサートの抜粋が30分というおまけDVDも付いて来る。 これは大変に魅力的である。今や、こういう時代になったのだ。 インタビューを聞くと、愕然としてしまう。えっ、そうなの? なのだった。
CMにも数多く使われ、人間なら誰でも知っているメロディー。通俗名曲ではある。 しかし、なんと、これを演奏するのは難しいとラトルは言っている。 第2幕の曲(8割方の皆が知っている曲がここに入る)だけなら何とかなるのだが、 第一幕の演奏と、その流れ、整合性を一貫させるのは至難の技なのだそうだ。 それはただ演奏するということじゃなく、魅力を発揮させることが難しいのだろう。 楽譜をなぞるだけならベルリン・フィルハーモニーの世界一の技術なら簡単だろう。
そういう思いが、ただならぬ演奏となって私達を魅了する。 音楽の専門家なら、どの音のどれと具体的に指摘出来るのだろうが私には出来ない。 しかし、「ここ」、「この音」、「この楽器のバランス」、「このテンポ」などと、 その良さを指摘することは出来る。が、しかし、言葉や文章で表現出来ないのだ。 一緒に聴いて頂くしかないのだが、残念ながら、そういう人は傍に居ない。
家内や娘は決して音楽嫌いというわけではないのだが、大音量だと言って逃げ出す。 私は大音量だとは、これっぽちも感じない。その違いは何なのか? 要は音楽を聴いて来た環境が違うのだ。会話とかドラマを聴くという慣習でしか、 音楽を聴くことが出来ないようなのだ。現代人の殆どがそれなのだ。 だからラジカセ/ミニコンポや携帯プレーヤーで満足してしまうのだろう。
アコースティックな音楽はダイナミック(強弱があること)なものなのである。 家内や娘が適切とする音量では、管弦楽総奏の中でのトライアングルのチンチンと いう味付け音が聞こえないし、タンバリンを指でちょこちょこと奏でる微妙な音が 消えてしまって、こちらの耳に届かない。 そんなのはミキサーが悪いので、ちゃんと聞こえるようにしないのが悪いのだ、と きっと彼女たちは思っているのじゃなかろうか?
そもそもテレビのスピーカーが再生している周波数の範囲では未完成交響曲の開始 は暫く何も聞こえない。コントラバスの低音が再生出来なきゃ音楽自体が無意味だ。 まあ、そこは無かったことにして……そういう見聞きの仕方は有り得ない。 だから、ちゃんとしたオーディオ装置で再生しようとすると家内たちは逃亡する。 したがって、ヘッドフォンで聴くしかないのである。孤独な感じは否めない。
クラシック鑑賞は孤独な趣味であり、チャイコフスキーさんもきっと孤独だったと しか思えない。友人とか家族が傍に居ないというわけじゃないのに孤独なのだろう。 物理的な人間関係の孤独じゃない、精神的孤独なのだ。 そういう微妙な哀しみのようなものが彼の作品を包んでいる。そこに惹かれる。 少女趣味というか乙女チックな感傷が基本要素でありながらも本来の女性にはない、 男性の中の女性的な部分がそこにある、ロマンチックとは男性の特権なのかなあ。
男性の脳味噌は女性よりも200グラムくらい多い。何故かデカイのである。 ここには恐らく生き物としてはムダなものが詰まっているのじゃないかと私は思う。 オーディオなんてのは人が生きていく上で何も意味を持たないが、そういう無価値な ところに夢中になるのは、そのムダな脳味噌のせいじゃなかろうか? 馬鹿なことに熱中するのは大体が男性であるのだが、とんでもないことを考えたり、 まぐれで偉大な発明や発見もしたりもするのだろう。馬鹿な戦争もするが……。
普遍的解釈では、くるみ割り人形の全曲盤なんてのは一つありゃ良いに決まってる。 でも、それぞれ違うんだよなあ……特にこれ、くるみ割り人形ナウ、といった感じの 今だからこそ聴ける瑞々しさがあるように思える。脳の200グラムがそう感じる。
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No.53 - 2010/08/05(Thu) 09:19:07
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