>管理人様 早速有り難うございます。 スイマセンが、26と29も誤操作で間違えて投稿されたモノです、消してもらえませんでしょうか? |
削除いたしました。 よろしくお願いします。 |
>管理人様 スミマセン、亦、誤操作です、しかも2回。 申し訳ありませんが削除お願い致します。 引用文を貼り付けた後、文章を書き込む為に引用文の先頭にカーソルを合わせて改行しようとエンターキィを押すと投稿されてしまいます。 (下記の予め文章を書いてから・・の手順で試したら上手く行きました。お騒がせして御免なさい) >源伸様、丁寧なレス有り難うございます。 >>最古の旧約聖書では複数の神的実存者(多神)が記載されていることが興味深いです。(申命記32:8) 私は、神という概念やその啓示は、東方から伝来してきたと考えているので、当然、ユダヤ族の故地であるアッシリアやメソポタミアにその原典があり、原始ユダヤ教の教義自体、其処に大きく依拠して居ると思っておりますが、アロンとモーシェ兄弟がエジプトの庇護・支配の下に隷属していた原始ユダヤ族を連れ出し、彼らが持っている非エジプト的「=太陽信仰以外」な成分を持つ信仰=原始ユダヤ教を、その集団の括りとして殊更に独立させて、シナイ半島に辿り着いた後、元のベドウィンに戻ろうとしていたユダヤ族を、アララト山にお出で坐された神との新たな契約の元に再度纏めて、新生ユダヤ族が生まれたとも考えております。 詰まり、其れまでは一神教では無かった可能性があると。随って、その聖書が何時書かれたのか判らないと云う点を考慮する必要がありますが、多神教的な様相を呈しているのは、むしろ当然かと。 ↓の3つの解釈で現れる、「神の子」=「天使」=「イスラエルの子」の存在を多神と捉える考え方は、東洋的な多神と、ヘブライ的な一神教の考え方の中間に在る様な気がいたします。 >>マソラテキスト「イスラエルの子らの数に従い民族の境を固定された」 >>七十人訳聖書「神の天使らの数に従い民族の境を固定された」 >>死海文書「神の子らの数に従い民族の境を固定された」 「神の子」は、ギリシャの神々や、ヒンドゥーの森羅万象を象る、存在を意義とする神々とは違い、決して供物や生贄等を求める人的逆行性は無い様に感じます。 むしろ、神の子の成分とは、ブッダに云う森羅万象悉皆有仏性の、仏性と同じものを指していると云う方がより近いのではないでしょうか。 然し別の見方をすれば、この記述は間違いなくユダヤ族の優位が神の手に拠って画定された事を云い現わしているのでしょうから、立教に至った経緯から云って当然ですが、ユダヤ教は初発から現代に至る迄、紛れも無く利己的な民族の宗教で有った事になります。 民族宗教であるユダヤ教をベースにして、何故に、キリスト教と云う世界宗教が成立・受容されて来たのか、というごく単純な疑問が湧くのです。 しかも、現代のキリスト教がファリサイ派の士師パウロに拠って大きくユダヤ民族的な方向に歪められたモノであるとすれば、歴史上、キリスト教徒が邪悪と云う他はない侵略を行う上で、他宗門、他宗教、他民族の大虐殺を神の名のもとに行って来た欺瞞行為は、此の民族思想(レイシズム)の発現そのものと言えましょう。 然し是では、一方でむしろそういう邪悪な勢力の行為を批判し、諭して神の教えを命を賭けて護ろうとしてきた方々が浮かばれませんね。 邪悪な勢力は明らかに自分の立場を守る為に権力を揮って、全ての悪行を行うに神の名を騙って、彼らを時に異端の汚名を被せ、或いは魔女扱いして、見せしめとして残酷な遣り方で殺害してきたのですから。 宗教勢力の支配下にあった欧州の中世が、むしろ、神無き暗黒時代というのは蓋し正しいと思います。 中世のキリスト教が、支配する側から押し付けられた、むしろ法律に近い道徳観で在ったのに比べ、全ての人が持つ仏性を目覚めさせるに、教えを以てするだけでは無く、気づき〜悟り〜発心と云う段階を踏む仏の教えの方が、自発的で日常的だと言えましょう。 その影響として、仏教が否定された特殊な地域を除き、東洋の真髄は、須らく庶民的な水平の広がり・伝播が広く且深く浸透してゆき、庶民層からあらゆる表現芸術、工芸という分野で発現してくる処に在ると思っております。 その代表的な文明が日本文明であると私は思います。 確かに、歴史を調べれば東洋にも独裁者はいたし、他民族の大虐殺が無かったとは言えないでしょうが、少なくとも「神の名を騙った事はない」筈です。 |
>>主流にとって「不都合な真実(イエスの教え)」が存在する可能性が高いからです。 >成程、死海文書が一体何であるかが、中々明らかにならないのはソウ云う理由でしたか。 誤解が無いように補足を致します。 二ケーア公会議以降に焚書されましたが、第二次大戦後に次々に復活(発見)の文献として、死海文書、ナグハマディ文書、マリアの福音書、ユダの福音書等があります。 ?@死海文書:現存する最古の旧約聖書、エッセネ派宗規要覧、他多数 ?Aナグハマディ文書:トマスの福音書、フィリポの福音書、他多数 主に?@はエッセネ派ユダヤ教を知るのに参考になりますし、?Aは原始キリスト教を知るのに参考になります。 ?@の最古の旧約聖書では複数の神的実存者(多神)が記載されていることが興味深いです。 (申命記32:8) マソラテキスト「イスラエルの子らの数に従い民族の境を固定された」 七十人訳聖書「神の天使らの数に従い民族の境を固定された」 死海文書「神の子らの数に従い民族の境を固定された」←この訳は重要★ 「神の子ら」は複数の神的実存者に言及し、危険にも多神教に近い考えになるので後世に訳を変更されたようです。 しかし「ユダの福音書」では、イエスはエホバより上位の神の名を知っていると微笑んだという一節があり、死海文書の訳の方が正しかったのではという読み方もあるかと存じます。 ただし、私がクリスチャンと対話する際には、トマスの福音書は引用しますが、ユダの福音書からは引用しません。理由は最初からユダ伝の内容を出しますと対話にならないからです。 同様に仏教徒と対話する際には、原始仏典、法華経、大智度論から引用することにしております。 万教統一ではなく、万教帰一の為には、論争は避けて対話に心掛けることに留意しておりますので。 |
>源伸さん、こんばんわ。 早速のレス有り難うございます。 レスの中のご指摘で、私にとって重要だとかんじたものを抜き書きしました。 >>パリサイ派のパウロは、イエスは神自身、かつ人は原罪を持つから神に近付き得ないと説きます 此の辺りに、神と人をはっきり分離して考える、ユダヤ族的な特徴が出ていると思います。 即ち、絶対不可分な形で神が居てその下に神に選ばれたユダヤ族が居る、ヒトが神に近づき得ない理由はそのままユダヤ族が神に選ばれし他民族に優越する理由にもなる、という考えです。 こういっ考に含まれる利己主義的成分は、アジア的な水に溢れた自然の中=仏教的世界で暮らす我々には理解しにくいのですが、乾燥した砂漠の厳しい生存条件の中、死と隣り併せの世界に棲むユダヤ族と、自然に対する考え方や生存に対する執着の強さの点で大きく異なって居るから当然の如く生じるのでしょうが、逆に、其処から抜け出せないのが人間の限界という他はない。 ゲッセネ派の士師ヨハネは、その限界を超えた処に現れたユダヤ族最初の救い主でしょう。 他民族に支配され、堕落し、暗闇に喘ぎ、打ち鬻がれていたユダヤ族が求めて居たのは、ユダヤ族が再び灼な存在へ回帰する利己的な欲求を満たす奇蹟を行うもの=メシアの降臨こそが唯一の希望だった筈です。 処がヨハネは、人類を救済する使命感は持って居ても、ユダヤ族だけを救う利己的な要求に応える気はさらさら無かったのでしょう、ダカラ弾圧された。 然し、イエスは其処に共感したのです、そして、数々の奇蹟を行った。 ユダヤ族にとってソウいう奇跡をおこなうのはユダヤ族の救世主でなくてはならなかったが、イエスは世界を救う為に行ったワケで、ユダヤ族にとって裏切りモノでしかない。 ダカラ結局、人殺しと天秤に掛けられた挙句磔にされたワケです。 パウロもメシア降臨を願うユダヤ人の一人だったから、ユダヤ族以外の誰も救う気が無かったが、神に選ばれし自民族優先に捉われている彼には、イエスが行った奇蹟をどう理解すればよいのかが判らなかった。 ダカラ、イエスの刑死をユダヤ族への裏切り=神への原罪に対する償いとして利用する事にしたワケでしょう。 その結果が、パウロ自身の刑死そして10万人以上のユダヤ族のCENSORED、そして全滅に繋がったと言えるでしょう。 >>パウロ神学により偏向されたキリスト教が現代の主流、メジャーとなっております。 キリスト教はパウロ的になった事で、差別や弾圧を「異端=悪魔の仕業、神の敵」と画定する術を開発し、多くの為政者に政治的に利用されました。 簡単に謂えば、他民族、異宗教のモノを弾圧し、平和に暮らして居た彼ら自身の生活や家族の生存を護る戦いを、神に対する侵略として正当化し、大量に殺害する事すら肯定したのです。 クリスチャニティ=救世思想を掲げる宗教としては、大義の喪失・欺瞞とも云うべきこの変質は、正に、民族宗教そのものの弊害という他はない。 是なら、パウロが歪めたキリスト教の正体が歴史の解明に拠って露わになるにつれ、新旧に拘わらずキリスト教そのものの世界宗教性を疑う傾向が出てきて当然です。 >>主流にとって「不都合な真実(イエスの教え)」が存在する可能性が高いからです。 成程、死海文書が一体何であるかが、中々明らかにならないのはソウ云う理由でしたか。 確かに、キリスト教の論争は不毛な争いが多いダケで無く、具体的な衝突に直ぐ発展する傾向がある。 西洋人にとって、道徳の規範となる宗教の選択肢がこの上も無く少ない所為も手伝って居ると思いますが、結局、現代文明を発展させた西洋人ですが、その文明の歴史はアジアのそれに比べれば非常に浅い。 遺伝子学的に謂えば、日本に現在の新人が現れたのは実に14万年前だと云う事が判って居ます、勿論、前述のスンダ文明から生まれた長江文明は日本の縄文文明と併行して発展して居たと考えられますが、是とて最古は2万年以上前です。 そのころの欧州は、高緯度の所為もあって未だ氷河の中、未開の土地でした、其処に暮らして居たのは狩猟採集民であったゲルマン族で有ろうと謂われて居ます、人類に文明を齎すのは、人口の大量増加が基本ですが、その為には食糧となる穀物の大量栽培が必要なのですが、欧州に中央アジアから移住したケルト人に拠って、大麦・小麦農耕が始まったのは、BC20世紀程度でしかないと思います。 >>死海文書を調べますと、「全ての人は光の霊と闇の霊とを宿し、聖人にも罪人にもなり得る」とあります。 是は釈尊が説いた「人はバラモンに生まれない、修行によってバラモンになるのだ」という、後天的な努力によって人は報われると謂う教えに通底して居ますね。 釈迦族は、一人米作を成功させて居た処から、スンダ系の直系民族だと云う説も有りますが、釈尊の登場はイエスの生誕に先立つ事300年ですから、正に「光は東方から」なのですね。 >管理人様、↓は、間違えて送信を押してしまいました、出来れば、削除ください |
よねさん、こんにちは。 >キリスト教の話になると、元はクリスチャンだった事も在って、新約聖書の全てがそうだとは言いませんが、パウロ神学の影響、つまり、イエスの教えがファリサイ派の士師だったパウロが持つファリサイ的な道徳観によって偏向させられているのではないか、という、私の中の拘りが目を覚ましてしまいます。 そうですか、元クリスチャンでしたか。私は元浄土宗でした。 下記は私が旧約聖書と新約聖書とを読みました所感です。 ・旧約では、異国の神を含む複数の神々が登場する多神の中で、拝一神教の色彩が強いです。 ・旧約では、人は神の似姿であり、「神の子」は神に近づき得る存在です。 ・新約でも、三共観福音書では、イエスは神自身ではない存在です。マルコ伝では「人の子」とイエスは自称。 ・ヨハネ伝がイエスは神自身とし、三位一体の根拠を示します。 ・ヨハネ伝のフィルタを通して三共観福音書を読むと、イエスは神自身とこじつけて読めるようです。 ・パリサイ派のパウロは、イエスは神自身、かつ人は原罪を持つから神に近付き得ないと説きます。 ・パウロ神学により偏向されたキリスト教が現代の主流、メジャーとなっております。 ・パウロは元々使徒達を迫害しておりましたが失明し、クリスチャンの洗礼で回復したという経緯があり、恐怖心が背景にあったと読みます。 エッセネ派の可能性が高い洗礼者ヨハネは「蝮の子ら」と罵倒したパリサイ派。 その洗礼者ヨハネをイエスはエリアの再生と保証してますし(マタイ11:14)、パリサイ派はことごとくイエスを非難されてます。 そのパリサイ派神学がパウロ神学に継承されている可能性はありますね。 偏向される前の原始キリスト教、本来のイエスの教えを紐解くには、焚書された原始文献群を調べる必要があると思います。 主流にとって「不都合な真実(イエスの教え)」が存在する可能性が高いからです。 救い主様の「原始キリスト教を調べる必要がある。」とのみ言葉を明かりとして。 事例としましては、死海文書を調べますと、エッセネ派は神様に動物を生贄に供えることはしませんでした。 その代わりに言葉(祈りの言霊)を神様に供えました。 よってエッセネ派神学で見ますと、イエスが十字架で「過ぎ越しの子羊」のように人類の為に生贄になることは不自然です。 実際に三共観福音書では、イエスはゲッセマネにて「この杯は取り除いて下さい。」と父神に懇願されておられます。 この「杯」とは「十字架での処刑」ですね。 別の事例としましては、死海文書を調べますと、「全ての人は光の霊と闇の霊とを宿し、聖人にも罪人にもなり得る」とあります。 パウロ神学の「原罪」とは似て非なることが分かります。 死海文書、エッセネ派の神学はマリアの福音書の「人は心魂と欲心を宿す。」と似ているかと存じます。 更にマリア伝では、欲心に打ち勝った心魂が上昇していく様が説かれております。正に次元上昇でしょう。 |
>源伸さん 中々レス出来ません、申し訳ないです。 キリスト教の話になると、元はクリスチャンだった事も在って、新約聖書の全てがそうだとは言いませんが、パウロ神学の影響、つまり、イエスの教えがファリサイ派の士師だったパウロが持つファリサイ的な道徳観によって偏向させられているのではないか、という、私の中の拘りが目を覚ましてしまいます。 ユダヤ民族は古イスラエル、ユダヤ王国の建国以来、何回もの堕落、分裂、自滅を経た事で、その民族を束ねる宗教であったユダヤ教も大きく変遷を重ねて、イエスに曰く「禁忌だけで成り立っている」様な有り様であったとか。 そうした敗北の歴史の結果、民族の精神的な支柱足る宗教で自民族の優越を殊更に謳うのは、自信を喪失して居る証拠です。 亦は、常に劣等感や嫌悪感、そして絶望と隣り合わせているに違いない。 ダカラこそ、フラビウス・ヨセフスの様に民族の指導者の立場に在って敵であるローマに民族を売り、結果、10万人の自民族をCENSOREDに追い込み、民族宗教の拠点足る神殿を焼滅させる人物も出てくるのでしょう。 そんなユダヤ教を現代に復活せしめる理由とは一体何でしょうか、結局、欧州各地で迫害を受けて来たユダヤ教徒である事への外圧(ストレス)への、生存権を賭けた反発からでしかない様に思います。 旧約聖書はユダヤ族の民族史を描いた書物の一部だ、日本の記紀と同じレベルの歴史書だと思って居ますので、極端ですが、この書物を聖書として扱うキリスト教自体、私の中では、既に神の教えという括りにしたくない気持ちです。 >>救い主様が「原始キリスト教を調べる必要がある。」とおっしゃられた 救い主様がパウロの創作かもしれない新約聖書でも、セム族の独善的な民族史書で有る旧約聖書でもなく、原始キリスト教と仰っているのですから、死海文書やナグハマディ文書がその対象になるのでしょうね。 私も仏教やキリスト教は、究極、神様が御二方を通して人類に降ろしたメッセージであると捉えておりますので、源伸さんが御調べの拠り近い神の声と思われるエッセネ派キリスト教についてなら、もう一度考え直す必要があるかもしれないと思い始めて居ます。 処で私は、古代文明の原点も、随って、原始宗教自体の原点もスンダランドややサフルランド(=ムー、レムリア)で有ろうと考えております。 人類は5万年前にすでに高度な文明を持って居たと考えますが、12000年前の氷河期の終焉で、多くは水没して終った、当然ですが、イキナリ水没が始まった訳では無く前兆があっての話です。 ですから、スンダ人は早くから移住を始めて居たと思います、西へ水行し、原初のルートを逆行した一群が、南アジアのインダス、チグリス・ユーフラテス、そして、中近東・アフリカのエジプト文明を萌芽させ、早くから北へ向かって進んだ一群は長江文明を延いては日本文明を誕生させ、東へ向かったモノが南米高地で高度な文明を展開したのだと。 勿論、原住している土着民との融合・教化の時点でスンダ系の知識や習俗は吸収されていったと考えますが、結局の処、スンダの民に降ろされたのが神の教えだと思います。 神様の教えを突き詰めて行けば、結局、人類が共存・共栄して、且、此の地球を平和に保つ為の法則、自然はその型示しである至善であると云う事でしょう。 科学は自然は多様性を保ってこそ栄えると云う法則を発見しました。 随って神の教えとは、決して、民族宗教の様に自分の生存だけを殊更に主張するモノでは無い筈です。 |