>死海文書はユダヤ教エッセネ派の文献群との学説が多く、かの洗礼者ヨハネが活動したヨルダン川は死海文書が見つかったクムラン洞窟から10kmほどの近距離でした。 洗礼者ヨハネはエッセネ派だったという研究者が多いようです。 新約聖書では、ヨハネはパリサイ派、サドカイ派には「蝮の子孫」と罵倒して水の洗礼を施すのを拒絶しました。 でもイエスには水の洗礼を施しておりますし、イエスはヨハネを「モーゼを含む全ての預言者より偉大だ。」と保証しておられます。 因ってイエスもまたエッセネ派かその親派だった可能性が高まるかと思料します。 |
>神の影に悪魔を誕生させ、信者の反対側に異教徒と云う敵を創り出して、 悪魔、サタンの語義は「邪魔する者」だったそうです。 元々は人を試練に会わせて験す役の神様の下僕ですね。 旧約聖書の「ヨブ記」を読みますと、サタンは人(ヨブ)を試すプランを神に上申し、神の決裁を得た後にヨブに数々の試練を与えております。 邪神、邪霊にもミッション(役割)があって存在を許されているようですね。 また死海文書の宗規要覧でも、「人には光の霊と闇の霊が宿っている。いかなる義人にも闇の霊があり、いかなる罪人にも光の霊がある。」とあります。 死海文書はユダヤ教エッセネ派の文献群との学説が多く、かの洗礼者ヨヘネが活動したヨルダン川は死海文書が見つかったクムラン洞窟から10kmほどの近距離でした。 救い主様が「原始キリスト教を調べる必要がある。」とおっしゃられた際の候補として、私は死海文書とナグハマディ文書(トマスの福音書、他)を調べております。 |
>源伸さん、丁寧なレス有り難うございます。 >>元々は神に近付き得る神の子=人であり、分離はしていなかったと思います 原典に近い程、神の子=人と云う点を明言する傾向にあるのではなかろうか、と疑って居ます。 ブッダが書籍を何も遺さなかった様に、イエスも書籍らしいものは遺して居ません、是は伝道・布教の意味から云えば方法論的に間違っている、あるいは伝道者として或る意味失格ではなかろうかと思って終うのですが、教えを正しく伝える事や原典を護る事が、一民族の間でも難しいのに、異民族間、況してや言語が違えば、表現の幅もニュアンスも違ってくるのが世の常ですから、そういう知見を積んだが故に、文字で伝える手段を結局御二方共採らなかったのでしょう。 ローマ帝国に拠って国教化されたキリスト教は、神様を頂点とするが、その実、教皇を階層社会の頂点に置く蓋然性に取り繕うのに利用される中、神の子=人と云う基本概念は次第に希薄になり、神の影に悪魔を誕生させ、信者の反対側に異教徒と云う敵を創り出して、世俗的な功利の為の侵略を正当化したワケです、是がアメリカ・アフリカ・アジアを侵略し、未曾有の数の現地人を虐殺し、収奪と弾圧を正当化した、所謂、帝国主義の武器=キリスト教の現実の姿です。 そんな中、神の子=人と云う古の結論を、堂々と述べられている救い主様の修行の深さに気が着いて、私は仰天してしまったのです。 「死後の存続」は、恐怖や怒りを除いた、魂に刻まれたインパクトの強さで起こるのではないかと勝手に思って居ます、存命中に得た悟りや感動は永遠に魂に刻まれるのだと、信じたいですね。 人にとって厄介なのは、やはり「執着心」ではなかろうか、唯、私は執着は生きて居る時はある程度必要だと思って居ます、然も無いと、戦前の日本人の様に、切羽詰まると美意識から割と簡単にCENSOREDして終う傾向が治らない、生き恥を忍ぶより命を捨てる覚悟は宜しいが、途中で投げ出したり、正面からぶつかれないからCENSOREDと云うのでは、人生が修行ならCENSOREDは本末転倒だと思いますね、強い我が故に、自分の思いへの執着心が身を滅ぼすと云うのも亦事実だと思いますが。 スイマセン、卑近な譬えにしないと私自身の理解の区切りがつかないのですが、読んでいる方は却って混乱したかもしれません。 申し訳ありませんでした。 |
よねさん、深夜なので気付いた箇所のみコメント致します。 >(長部経典の「大本経」) >神と人と云う、絶対分離しか存在しない砂漠の三宗教には無い考え方です。 >ブッダで描かれて居た様に梵天はブラフマンで宜しいのでしょうか。 旧約聖書では「人は神の似姿」とあり、ルカの福音書でも「神の国は人の内(within)にある」と記載されております。 元々は神に近付き得る神の子=人であり、分離はしていなかったと思います。 ニケーア公会議以降に焚書された、原始キリスト教関連の死海文書やトマスの福音書他にも人は光(神)から来たと明記されております。 それから梵天はブラフマンの漢訳ですから同じ意味です。 ヒンズー教のブラフマンは創造神のようですが、長部経典では複数の梵天や大梵天が登場します。正に多神ですね。 >(長部経典の「三明経」) >その魂に刻まれた記憶や悟りは肉体を移っても持続すると云う事ですね。 ある異教者が釈尊に「死後の存続」を質問した際に、釈尊は「黙して答えません。」言われました。所謂、無記です。 また別の経典では「非我」を説かれましたので、「我(アートマン)」、「魂」は無いと主張する仏教徒が結構多いです。 つまり、輪廻は信じるけれど魂は認めないという、組み手から見たら不可解な話です。 この原因は釈尊の対機説法にあり、異教や修行途上者と、高弟達とでは異なる説き方をしておられたからのようです。 原始仏教の多くの経典に、肉体を去る意識、また母胎に宿る意識に関する説法がありますので、釈尊は輪廻を説かれております。 >(般若経の解説書「大智度論」四巻) >即ち、釈迦も梵天の高みに有った一人である可能性があるでしょう。 >すると、普通のレベルにある魂が再生する場合「と卒天」を経由したりはしないと云う事でしょうか? 人に化け易い神様が預言者としてこの世に誕生されたことはみ教えにもございましたでしょう。 多分、普通のレベルの魂が再生する場合「と卒天」を経由しないと存じます。 本日(昨日かも)は上野の道場でみ光を沢山いただきましたので、目がさえております。合掌 |
>源伸さん、こんにちは、レス有り難うございます。 仏と神の関係、就中、ブッダが神をどの様にみて居たのか、亦、その神とはブッダにとってどの様な存在だったのかを考えるのは、月の教えであるとされる仏の教えを理解し、何故、不足と成らざるを得なかったかを知って、自分の修行に活かす上でとても貴重な事だと思います。 >まず、仏典でいう「神」は自然霊かせいぜい高級霊のレベルです。私達が普段申しますところの神は「梵天」と呼びます。「大梵天」ならば、大天津神様クラスかも知れませんね 何れにせよ、ブッダが云う処の神も梵天も、救い主様が仰る「み親元スの真光大御神」では無い事は理解できます。 然るに、神の世界やその世界と現世の関係について、釈迦がどの様な認識を持っていたのか、という私の関心に対して、源伸さんが提示された下記の仏典からの引用は、私如き浅学非才のモノには、天の慈雨の様に感じられました。 有り難うございます。 (長部経典の「大本経」) ・悟りを得た仏陀は説法は無理だと断念しかけますが、大梵天の中の一方が説得し、仏陀も心変わりします。 是は釈迦が小乗から大乗へ発心する契機になった御話だと解釈してます、人には誰もでも仏に至る道が開けて居ると云う、神と人と云う、絶対分離しか存在しない砂漠の三宗教には無い考え方です。 ブッダで描かれて居た様に梵天はブラフマンで宜しいのでしょうか。 (長部経典の「三明経」) ・釈迦(菩薩)が生まれる前は、梵天界で梵天と共生していたので、梵天のことはよく知っているとのことです。 是は、裏返せば釈迦が何度も輪廻転生を繰り返して来た事を既定の事実として認識している事を基に云って居るのですから、「人の生き死に」とは、今で云うアナザーワールドとの行き来の契機に過ぎない事になりますね。 そして、人の主体とは魂に他ならないダケでなく、その魂に刻まれた記憶や悟りは肉体を移っても持続すると云う事ですね。 是は、救い主様も仰っておられますから、真理なのだと御認めに成られているのでしょう。 (般若経の解説書「大智度論」四巻) ・七天の中の真ん中のト卒天を経由して菩薩は母胎に入った。 この説自体は、再生する場合の魂の通り道を云って居るワケですが、アナザーワールドでは、梵天というレベルと共生していた釈迦もそのレベルに在ったと云う事になりますね。 即ち、釈迦も梵天の高みに有った一人である可能性があるでしょう。 すると、普通のレベルにある魂が再生する場合「と卒天」を経由したりはしないと云う事でしょうか? この説に従えば、存命中の修行で高揚し昇華した魂のレベルは、存命中は「毎日変わる」位不安定ですが、アナザーワールドに行けば普遍になると云う事でしょうか? 生まれてくる謎は尽きません。 今後も宜しくお願い致します。 |
よねさん、こんにちは。 >では、ゴータマシッダッタは神についてはどう考えて居たのか、と言えば、是は判らないと云う他は無いでしょう。 まず、仏典でいう「神」は自然霊かせいぜい高級霊のレベルです。 私達が普段申しますところの神は「梵天」と呼びます。「大梵天」ならば、大天津神様クラスかも知れませんね。 神についてどう考えていたかというよりも、梵天と仏陀との関係ならばあちこちで登場します。 (長部経典の「大本経」) ・悟りを得た仏陀は説法は無理だと断念しかけますが、大梵天の中の一方が説得し、仏陀も心変わりします。 (長部経典の「三明経」) ・釈迦(菩薩)が生まれる前は、梵天界で梵天と共生していたので、梵天のことはよく知っているとのことです。 (般若経の解説書「大智度論」四巻) ・七天の中の真ん中のト卒天を経由して菩薩は母胎に入った。 「梵天界」は私達が普段申しますところの神界だと思います。 以上、救い主様と万福寺大僧正とのご対談内容を神向讃詞解説で読みました縁にて、私の仏典調べが起こった次第です。 |
>源伸さん、レス有り難うございました。 お返事が遅れて申し訳ありません。 >>ブッダはあちらこちらで、輪廻、梵天、神々について説かれております 釈尊ゴータマシダッタの生きておられた時代は、BC4世紀とも、5世紀とも言われて居ますが、中央平原の遊牧民アーリア人が、カイバル峠を越えてヒンドスタン大平原に侵入したのは紀元前15世紀〜10世紀にかけてでしょう、其れまでのドラビタ人を主体とした農耕民族は、勇猛な遊牧民に忽ち支配征服されて階層差別社会を形成されてしまいます。 亦、古から何処でも、泥棒の敵は拠り力の強い泥棒で有るが故に、非生産者の遊牧民の敵は遊牧民であるから、国内に戦争が絶えない、その所為で、社会には収奪される側の下層民の不満が渦巻いていた。 社会がソウ云った無間の争いに終止符を打ち、平安を求めるに、新たな救いとなる規範を求めて居た時代で、百家争鳴の態を示していました。 ブッダに描かれてある通り、釈迦は修行者の一人に過ぎなかった事が判りますが、その当時、最大の壁はアーリア人が持ち込んだ輪廻転生思想ではなかったか、誰も完全に否定も出来なければ肯定も出来ない、古代のインドから連綿として支持されて来たその考えの主たる拠り所とは、個人レベルのデ・ジャブ(既視感)なのかもしれない。 ゴータマシッダッタは、魂と肉体を別物として、魂が生体から生体に渡って起こる輪廻転生を自然現象として受け止めている、何故、魂が生体を渡り歩くのかと言えば、魂が本来あるべき姿やレベルに達して居ないから、即ち不成だからで、そしてその不成は生きる事の苦として現れる。 個人は生を繰り返す裡に、その苦を経て智の力を積み、魂の完成形を得れば、輪廻を超克出来るとも、仰っています。 私論ですが、それは即ち現世の肉体有の状態で有ろうが、幽体状態で有ろうが、魂が完成形になれば魂は蒸発して=次元跳躍を起こして、別次元に行く事を言っているのではないでしょうか。 ソウいう小乗の世界を突き詰めて行けば、個人の悟りの向こう側には、神様が待っている事も考えられますね。 では、ゴータマシッダッタは神についてはどう考えて居たのか、と言えば、是は判らないと云う他は無いでしょう。 是亦私論ですが、神様は人類限りないに愛情を注いで居られるけれども、人類が自発的な努力で達成する魂の昇華について試され始めたのは、ついこの前の事でしか有りませんが、大いに期待をされておられるのは間違いない事でしょう。 そこで神様が人類に期待されているのは、破滅無き社会の建設なのだと思います、詰まりは、人類自身が自滅しない社会です。 モノの不足は直接生存の脅威となり、精神的な不足は社会に無間の争いを呼び起こします。 道徳に言われている事=正法を是まで人類が守って来たのならこの世に生存を脅かす貧困も争いも無かったでしょう。 しかし、現に物理的、精神的な貧困があるから人殺しは絶えないし争いも終わらないのです、精神的な貧困の克服は、個人レベルですから、兎も角、生存を脅かす様な貧困の無い社会さえ人類は未だ完成させて居ないと思います。 このまま人口がどんどん増えて行けば、人類は自滅するのは目に見えて居ます、例えば、突然の氷河期の到来の様に、時々神に拠って為された人口の調節方法が常に人類を遺す様な範囲で働くとは思えません。 法律を法文通りに唯唯諾諾と守れば、自ずと理想社会になるのか、と言えば然に非ず、法は人間が為すべき理想を説いたモノでは無く、現在ある無法を止める為に後付けで造られた規範と考えるべきですから、勿論、厳正に守って然るべきですが、問題はその裏をかく無法を罰せられない事に在ります、人間が造った法を違背無く破る=毀すのも是亦人間であるのは仕方が無い事です、其処に、人間の云う科学の限界も見えて居ると思います。 詰まる処、魂に他者を救済する心が芽生え無ければ、魂は昇華処か何れ自壊して終う事になるでしょう、多くの修行者が大乗仏教に共感したのもその点だったと思います、その多くの修行者も、「自分が、他者を救う心を皆に広め、繋いでゆく事で、人類の未来に理想社会を創りたい」と願ったのではないか。 ゴータマシッダッタ=ブッダが投じた一石の波紋は2500年を経過しようとする現代でも脈々と息づいていると思います。 |