よねさん、こんにちは。 ブッダへの長文の想いを読ませていただきました。 >後で知った事ですがブッダは輪廻を肯定し輪廻がその魂が不成が故に現界の修行の必要で起こる事を指摘して居ます、 原始仏典を読みますとブッダはあちらこちらで、輪廻、梵天、神々について説かれております。 でも現代の日本の大乗仏教では、輪廻の法のベースとなる因果の法も否定する人が多いようです。 その原因は中論の縁起の法、空の思想から来ているようですが、龍樹も縁起の法で時間と運動を削除したという訳ではないことを、同じく龍樹作の大智度論(般若経解説書)から指摘している学者もおります。 以上、取り急ぎ一部レスと致します。 |
>源伸さんこんにちは。 >>私は原作のコミックを再び読みました。(20年以上前に全巻読みました。) 私と同じ世代なんだなぁ、と↑を読んで思いました。 思えば早いモノですね、ブッダの連載って「少年」でしたかね? 少年の頃全部読んで居なかったので、成人になってハードカバーの全集が出た時直ぐに買いましたが、其れでもモゥ20年以上前ですね、確かに。 手塚さんって、戦後の漫画家の旗手だった人ですよね、鉄腕アトム、魔神ガロン、マグマ大使、リボンの騎士・・数えればきりが無い位多くの名作を遺した、正に日本の漫画界の英雄に近い存在です、あの石森正太郎も、赤塚不二夫も不二子フジオも手塚氏に憧れて上京した口ですね。 此の人が反戦争なのはよく判って居たつもりでしたが、ブッダを読んで、亦そのブッダが宗教の専門書のコーナーに置かれているのを看て、彼の考えが如何にも伝統的な日本的仏教に根差したモノで、彼の主張は其処を更に掘り下げた処に在ったのだと思いを強くした次第。 「火の鳥」という、彼がライフワークに指定した作品が有りますが、此処に現れるのは「永遠の生命」そして魂とは何かでした、私が感銘を受けたのは、生命は魂の輪廻に拠って何回も再生すると云う事で、就中、前世の一部の記憶はデジャブ(既視感)に拠って時空や肉体を超える事が極当たり前の様に描かれて居た事でした。 後で知った事ですがブッダは輪廻を肯定し輪廻がその魂が不成が故に現界の修行の必要で起こる事を指摘して居ます、ですから、現界で悟りを開きブッダとなったモノは、その輪廻律から逃れられると。 然し晩年のブッダは伝道のみでは目の前の地獄を救えない事を諦観として受け容れて終っている様に思えます。 已然として人間は、様々な地獄をこの世に創り出し続けているのですが、自分が生き延びる為に他者をCENSORED事を正当化している限りは、詰まりは、自存自衛が肯定される限りはこの世から、争いや殺し合いを無くす事は出来ないと。 翻って考えるに、我々はブッダ生存の折の時代よりも、多くの事象がこの世に存在している事を知らされて居ます。 ブッダの教えを聞かずとも、無限の宇宙があり、異次元も存在する事を知って居ます、亦、ブッダの云う極微の世界の究極の青は、微粒子で有る事も科学の力によって究明されつつあります。亦、我々の住む世界はミクロからマクロまで同じ形で構成されており(フラクタル理論)その一つ一つが生命体=仏が宿っていると云う事も。 ブッダの絶望は、言葉のみでは人は救えるとは限らない=人の心に灯を一つ点ける事すら適わない、という点に在ったのではないでしょうか、成程、ブッダもイエスもその手で病人を救いましたが、その術は神から特別に与えられたモノだと彼らは知って居たから、その手かざしに言及して居ないのでしょう、当然、「何故?」という多くの疑問の中に居たであろう事は想像に難くないのですから。 イエスとブッダの生涯の違いは周りの環境の違いという他は無いでしょう、80歳の生涯を静かに終えたブッダに比べ、「エロイ、エロイ、レマサバクタニ=神よ神よ、何故お見捨てに成られたのですか」と磔の十字架の上で嘆き悲しんだイエスとは、大きな差が有りそうです。 しかし、御二人が背負った絶望は同じものであったと私には思えます、其れは、「人の心を救うのはその人の気づきでしかない」と云う簡単な現実こそ、魂が実は独立して居る事を示しているのだと思うからです。 本当の救いには、内部を変える外部の力が必要なのです。 人の心と神が波動で繋がっている事を体感すれば、余計に感じる事でしょう、其れが手かざし業なのだと思います。 |
映画「ブッダ」は3部作で観に行かれた組み手も多いと思います。 私は原作のコミックを再び読みました。(20年以上前に全巻読みました。) 仏陀は晩年、父王殺しのアジャセ王を3年間治療し、その時王の内に神の神々しさを見出して歓喜されました。 「人の心の内に神が宿っている。人はやがて神になり得る。」と悟られて。 法華経の方便品では、神という言葉が仏という言葉に置き換えられた、「人は仏性を宿す仏子である。仏子はやがて仏となり得る。」とあります。 「方便品第二」の意訳です。 釈尊は、「すべての人は仏になりうるという最高の真実を悟っている。(中略)とはいえ、最高の真理をそのまま説けば、無智の人は混乱し、思い惑い、まっすぐ受け入れることができない。」と舎利弗に説きます。 |
第2次世界大戦後に死海近くのクムランの洞窟から壺に入った多くの文献が発見され、 「死海文書」と呼ばれております。 ヨルダン川でパリサイ派やサドカイ派には「蝮の子孫」だと罵倒して洗礼を拒絶した 洗礼者ヨハネはユダヤ教エッセネ派だったという研究論文が多いようですが、 そのエッセネ派の宗教規則要覧も死海文書の中に含まれておりました。 1QS(第1洞窟発見のクムランテキストの宗規要覧) 3:18 God placed on him the two spirits so that they walk with them. 3:19 From the dwelling place of light (is) the generation of the truth. From the fountain of darkness (is) the generation of the deceit. 3:20 In the hand of the Prince of lights (is) the dominion over all the truth so that they walk on the paths of light. In the hand of the Angel of darkness (is) all dominion over the sons of deceit so that they walk on the paths of darkness. 人は光の霊と闇の霊とを宿して創造されたと記載されております。 近年発見されましたマリアの福音書でも、人には心魂と欲心とがあると記されております。 ニケーア公会議以前の原始キリスト教団では信じられていた教えが、公会議後の焚書により 現代のキリスト教には残っておりませんが、神経綸にて次々に古文献が復活している様を 嬉しく感じる次第です。 |
仏教で認める霊魂 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「なお仏教は霊魂を説くのか否定するのかということがある。 外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、 人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、 これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、 業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。 唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。」 これまで大勢の仏教徒と対話して参りましたが、空(縁起)の考えがあり、 常住不変の霊魂は否定しますが、成長し続ける霊魂は否定しない仏教徒が 多いようです。 釈尊も、修行途上者が死後の存続や霊魂について質問した際には無記 (黙して答えず)の態度をとられておりました(参照:長部経典)。 しかし、修行完成者達には果報として神通力が得られ、幾多の前世も 見ることができるとも説かれております。 |
映画「ブッダ」を見られた組み手さん達も大勢おられますので 釈尊の所謂、「対機説法」について少しお話致します。 仏の四つの説き方=四悉檀 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の 高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を 違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、 仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」 これまで中略にしました「四悉檀」を補足します。 1)世界悉檀:世間一般の立場で説かれる通俗的説法。 2)各各為人悉檀:各自の性格・能力に応じて、それに適した説法。 3)対治悉檀:心の病としての煩悩を対治するために、それに応じた説法。 4)第一義悉檀:仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれる。 以上のように仏の説法態度が相手に応じて変わりますので、経説の理解も 複雑になり、釈尊の秘書的随行者のアーナンダは悟りが遅れたという話も 伺っております。 |
管理人様 ありがとうございます。 おかげさまで、人類の未来がさらに明るくなったような気がします。 新しい統一板と一緒に次の時代に行けたらいいです。 これからも、勉強させていただきますので 皆様、よろしくお願いいたします。 |