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東京キリスト教神学研究所〜神学研究会〜 http://theology.hp-ez.com/

神学研究会のテーマにそって学びの場としたいと思います。
何でもお気軽に書いていってくださいね!
次回、4月15日は『ボナヴェントゥラの哲学と神学』です。

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(No Subject) / 勝峰 昭
超存在的→超存在論的と読み替えてください。
No.63 - 2015/05/02(Sat) 14:12:37

(No Subject) / 勝峰 昭
藤倉恒雄著『ティリッヒの組織神学研究』
漸く難儀した挙句に、第七章「神の国」と「永遠の生命」の要約に入りました。後40ページ強です...!

読み始めのころは、どうなるかと思うほど難解でしたが、今はさほどでもなくなりました。独特のキリスト教義の解釈で、ぎこちない論理の進め方もいささか感じながら、何とかここまで来ました。

これに比べ、中世の神学者の考え方は、超存在的ではありますが、理論はそれなりにわかりやすい。

No.62 - 2015/05/02(Sat) 14:07:31

『スペイン巡礼の道』小谷明、栗律則雄 新潮社 / 中川 [関東]
お手頃にスペイン・ロマネスクを覗くことが出来る本です。
本当は「巡礼の道」というよりも、この「道」という一本の線ができた歴史的な理由の方が重要なようです。

11〜13世紀に、教会建築がドシドシなされ、エルサレム巡礼もサンティアコゴ・デ・コンポステーラへの道もあふれかえり、エルサレムがイスラムに占領されれば「聖地奪還!」とばかりに十字軍遠征が送り出されます。

神への想い、喜び、叫び、また聖なる空間、静寂の時、修道士たちの観想、そして神学がどっと吹き出してきます。

この爆発的な神を讃える時代を「暗黒時代」という人がいたら、白い鳩を見てカラスだと言っているようなもので、ところが未だにそんな馬鹿げたことを平気で言えてしまう人々がプロテスタントには多いのです。
プロテスタントの方々はとくにこのロマネスクを覗けば、いかに教会で嘘が教えられていたかを知ることができます。
プロテスタントが抗議すべきはこの後の時代のゴシックの様式であるというならば、また解らないわけではありません。

おそらく、ロマネスクをちょっとでも覗けば、トンデモナイ時代であったことがよくわかります。

No.61 - 2015/04/19(Sun) 22:33:06

(No Subject) / 勝峰 昭
中川先生

本質をつかんだ、暑い心が伝わってくるメッセージです。
嬉しく思いました。

勝峰 昭

No.60 - 2015/04/17(Fri) 19:59:43

5月20日(水曜日) 神学研究会のお知らせ / 中川 [関東]
5月20日(水) 神学研究会のテーマは『神の美術〜スペイン・ロマネスクの魅力〜』です。

講師はスペイン・ロマネスク・アカデミー〔日本〕理事長の勝峰昭先生です。

ロマネスクは、11世紀初頭から13世紀初頭ごろまでの約200年の歴史における独特な美術です。

まだゴシック様式の豪華な飾りを知らない素朴なキリスト教の信仰を教えてくれます。

キリスト教の純粋さ、素朴さ、奥ゆかしさがこの美術にはあります。

とくに、スペインのロマネスクは長くイスラム勢力の支配にあったこと、またスペイン内戦などによって多く破壊され、傷つけられてしまいました。

しかし、だからこそスペイン・ロマネスク美術は、キリスト教美術としての魅力をさらに惹き立てるのかもしれません。

さて、とかく純粋で素朴なものは粗野な蛮行を前にすぐにも壊れて失われてしまうものです。

ところがそのような中でも、決して失われないものがあるとしたら、それは見えるモノというよりも、見えないモノそれは精神でり、魂であり、霊であり、神の世界です。

スペイン・ロマネスク美術は、破壊されつつも決して失われることのない「神の世界」をハッキリと伝えているのです。

だから、真のロマネスク美術はスペイン・ロマネスクにあります。

ところがこの美術の真の価値はキリスト教思想の真の輝きを知らなければ発見することはできません。

あまりに純粋であまりに素朴であまりに霊的な美術なので、単なる芸術家の眼力では見ることができないのです。

この美術を見るためには「霊の眼」が必要です。

皆さんには、この美術の魅力が分かるでしょうか。

きっと勝峰昭先生が皆さんの「霊の眼」を開いてくださるでしょう。

ですから、今回はいつもと違って、キリスト教霊性の神秘的な魅力を味わうつもりでお越しください。

5月20日をお楽しみに!

案内・申込はこちらをご覧ください↓
         http://theology.hp-ez.com/page11

No.59 - 2015/04/17(Fri) 03:05:57

勝峰先生 / 中川 [関東]
清水書院でテリッヒの思想を紹介してくれている本があったのでかつて購入したので、ずっと探していたのですが、そういえば思い出しました。

あまりの難しさに、捨ててしまったのです。
たまに本を整理するときに勿体ないことをしてしまいます。

でも、思い出しました。
あまりに分からないので、捨ててしまったんです。

テリッヒが難しいのですよね?!

>かくてティリッヒは本質と実存の区別を超えた神の生命を人間の両義的な生命が全的には象徴し得ないとしつつも、なおも神が生命の根拠である限り、人間の生命の個別化ー力動化−自由の存在論的諸要素と、参与―形式―運命の諸要素の経験が神を生ける神として、人間に擬して象徴しうるとする..."


さっぱり分かりません(^−^)

No.57 - 2015/04/15(Wed) 14:59:37

(No Subject) / 勝峰 昭
中川先生

"かくてティリッヒは本質と実存の区別を超えた神の生命を人間の両義的な生命が全的には象徴し得ないとしつつも、なおも神が生命の根拠である限り、人間の生命の個別化ー力動化−自由の存在論的諸要素と、参与―形式―運命の諸要素の経験が神を生ける神として、人間に擬して象徴しうるとする..."

この意味が分かりますか?頭の悪い小生にはとんと理解できません。

神学とはなぜこんなに難しいのでしょうか。

No.56 - 2015/04/11(Sat) 20:38:05

ティリッヒ神学 / 勝峰 昭
難解なティリッヒ『組織神学研究』に猪突猛進チャレンジして
やっと97頁「第四章 神論―存在と神」のところに入りました。

これまで、理解できぬ箇所を多々抱えながら、何とか要約を記し
続けてきた中で、いわゆる啓示の神学的解釈が何となく霞の彼方に
見えてきました。

バルトのように超越的ではなく、理性との両義性や逆説的なところも
調和させるティリッヒの思考手法に、唸っております。

No.55 - 2015/04/09(Thu) 23:03:26

Re: RE:お試し / 想念狂
> 中世における意志voluntasが現代と異なりどういう意味合いがあるのか、興味があるところです。

voluntasをちょっとググってみましたら、自由意志の意味があるとか!?


> 認識には、欲望や感情、知識、理性などから造られたその人の価値的世界による総合的な判断が加えられるのでしょう。
> でも、意志による判断が知性に縛られず「自由」だといったとき、どうも中世的な意志voluntasは、感情や理性などといったものとは区別されているようにも思えます。


そうですね。縛りや捉われのない精神を指していそうです。


> ピラトがヨハネ20章で「真理とは何ですか?」とイエスさまに言った後で、真理であるイエスさまに背を向けて群衆の方へ向かっているシーンがとても印象的です。
> キリスト教で「真理」といったとき、それが極めて特殊で一人の「人格」を「この人を見よ!」と指していることが、不思議です。


自身が真理であり「聖書はわたしについて証しをするもの」とイエス様が仰っているのに、キリスト者の多くが「聖書の言葉は真理そのもの」と言われますね。
コップについてあれこれ書いてある言葉の方がコップそのものよりもコップであると言ってるようなものだと思います。


> 存在論的な意味で、「真理」というのは「実際」であったりfactであったりするのでしょうけど・・・
>
> > 人がキリスト(真理)と共にある時は、コップの像が無くてその実際があるんじゃないでしょうか。
>
> コップの像が無くてその実際がある?
> 「このコップ」「そのコップ」とかの個別存在のことかなあ?


コップについてのイメージや言葉はコップの偶像で、その偶像を真理(真実)だと思うのが偶像崇拝です。いや、私はそう解釈してます。
実際の「このコップ」を手に取って深い関心と共にまじまじと見ている時には、コップへの関心に反比例してイメージが薄れてませんか。

No.54 - 2015/04/01(Wed) 00:29:37

Re: RE:お試し / 中川 [関東]
> そうですか。しかし私の方だけ解ってるというのも申し訳ないのでお知らせします。

ありがとうございます。

> Wiki では「意志(いし、独: wollen、英: will)は、目標を定めてその達成のために行為を促す自発的な思考を意味する。」と書かれてますね。
> その意味で考えますと、意志には知性や理性、欲望、感情などがごちゃ混ぜになっている場合がある、と言いますかそういうのが多いんじゃないでしょうか。
> 例えばコップを手に取ってドリンクを飲むという単純な行為でも、コップの認識、それを要求する身体の渇き具合、あるいは味わおうとする欲望、道徳的法的衛生的に飲んでも問題ないと判断する知性・理性などが含まれているように思えませんか。



中世における意志voluntasが現代と異なりどういう意味合いがあるのか、興味があるところです。
コップを認識するとき、過去の記憶とその想起が感覚器官を通してコップと認識することを助けていることは確かだと思います。

認識には、欲望や感情、知識、理性などから造られたその人の価値的世界による総合的な判断が加えられるのでしょう。
でも、意志による判断が知性に縛られず「自由」だといったとき、どうも中世的な意志voluntasは、感情や理性などといったものとは区別されているようにも思えます。
どうなんだろうか・・・。やはり調べてみます。

> 凄く深そうですね。受肉の神秘となると理屈を超えてる感じで考えるだけでは理解できそうもないです。
> 「私は真理であり」とかイエス様は言ってましたね。「真理」の原語には「実際」の意味もあるそうですね。


ピラトがヨハネ20章で「真理とは何ですか?」とイエスさまに言った後で、真理であるイエスさまに背を向けて群衆の方へ向かっているシーンがとても印象的です。
キリスト教で「真理」といったとき、それが極めて特殊で一人の「人格」を「この人を見よ!」と指していることが、不思議です。
存在論的な意味で、「真理」というのは「実際」であったりfactであったりするのでしょうけど・・・

> 人がキリスト(真理)と共にある時は、コップの像が無くてその実際があるんじゃないでしょうか。

コップの像が無くてその実際がある?
「このコップ」「そのコップ」とかの個別存在のことかなあ?

No.53 - 2015/03/30(Mon) 04:51:01

ボナヴェントゥラの哲学と神学 / 中川 [関東]
次回の研究会のテーマは『ボナヴェントゥラの哲学と神学』となっているのですが、ボナヴェントゥラの『神学綱要』の序論に、「哲学と神学」について書かれている記述があったので抜粋します。

<哲学と神学について>

さて、哲学は、事物を自然の中にあるものとして、あるいは本性的に内在する概念にしたがい、あるいは把握された概念にしたがって霊魂の中にあるものとして扱っているが、これに対して神学は信仰の上に築かれた学として、また聖霊によって啓示せられた学として、恩寵や光栄また永遠の知恵に関する事物について扱う学なのである。そこで神学は哲学的認識を下に置き、神学にとっての鏡 ― すなわちそれにより神的な事柄を映す鏡 ― をつくるに必要な限りにおいて、自然的な諸事物を援用するのである。(p.14)

実に神学とは、神についてのまた第一原理についての説教であって、神学はもっとも高度な学であり教説であるゆえに、すべてまた第一にして最高原理においてそうするように、神において明らかにするのである。さればこの小品あるいは論考の中に含まれている、全ての問題に理拠を指定するため、私は第一原理からそれを得ようとこころみた次第である。そこでは聖書の真理が、神により、神から、神にしたがって、そして神のためのものであることを明らかにするがゆえに、このような学は正当に一であり、秩序づけられたものであり、何らの不当もなく神学と呼ばれるのである。(p.23-24)

脚注において、訳者の関根豊明氏は以下のように言っています。

他の初期スコラ学者と同様に聖ボナヴェントゥラもしばしば、聖書と神学をと同一にしている。聖書も神学もともにそれらの対象たる「真理」を啓示していることにもとづく。(p.24)

ボナヴェントゥラは聖書について「神秘主義神学」の大成者として言われるだけあって、以下のような表現をしています。

<聖書について>

聖なる書はそれによって精神の知性を喜ばせ、高めるようなもっとも高度な内容を有するばかりでなく、もっとも魅力ある美をも有し、ある驚嘆すべき方法によって我われの知性を喜ばせるのである。そして聖なる書がこの喜びを次第に深めるにしたがって、それらの書は神的な神秘の注視に向かって、我われの霊魂を準備するのである。(p.13)

ボナヴェントゥラの魅力ある文章です。

No.52 - 2015/03/30(Mon) 04:31:38

Re: 八木先生書評 / 中川 [関東]
> これは八木先生の著書に対する書評ですかそれとも他の人の著書に対する八木先生の批評ですか。
> また雑誌の発行日は3/31 (月)ですか?


おそらく、八木先生が誰かの著書について書いたものだと思います。
よく八木先生は柄谷行人やら何やらと書評を書いているようなので。

すみません、24日号だそうです。
八木先生もご自身の書評が掲載されているのを後で知ったようでした。

昨日、私も探しに横浜駅に行ったのですが、時間帯が遅くて書店が閉まってしまい見つけることができませんでした。
再度、探してみます。

No.51 - 2015/03/30(Mon) 04:07:40

Re: RE:お試し / 想念狂
> どなたなのかまったく検討もつきませんが、でも分からないのもいいですね(^−^)

そうですか。しかし私の方だけ解ってるというのも申し訳ないのでお知らせします。


> 私は、やはりどうしても目の前のコップの方に「現実」という称号をあげたい気がします。

「現実」で良いのではないでしょうか。「実在」するとは言えないって事だと思います。
また「コップ」という捉え方は認識(コップという知識・概念を適用)に依存してますが、コップと呼ばれている物を形作っている物質は認識以前の知覚にあるものですね。


> だからこそ、中世は私の信仰レベルでは及びもつかないほどに「神の世界」を真剣に見つめている姿があるのかもしれません。

詳しくないですけど、異端や反キリストは火炙りなんていう文化でしょ。科学も神の創造物を調べる為にあるみたいな。
そういう文化の中で更に専門でやってる人はやっぱり違うのでしょうね。


> 意志の定義ですか。
> 調べてみます。


Wiki では「意志(いし、独: wollen、英: will)は、目標を定めてその達成のために行為を促す自発的な思考を意味する。」と書かれてますね。
その意味で考えますと、意志には知性や理性、欲望、感情などがごちゃ混ぜになっている場合がある、と言いますかそういうのが多いんじゃないでしょうか。
例えばコップを手に取ってドリンクを飲むという単純な行為でも、コップの認識、それを要求する身体の渇き具合、あるいは味わおうとする欲望、道徳的法的衛生的に飲んでも問題ないと判断する知性・理性などが含まれているように思えませんか。


> > その対比から考えますと、「知性」は客観的思考で「意志」は主観的思考を指していたのかなと、少し解った気がしました。しかしその頃は「真理(神)は知ることができない」という思想は無かったんでしょうか。神秘思想的なので無視されてるとか?(笑
>
> それって、ありですよね。
> ニーチェなんかは『善悪の彼岸』の冒頭で「真理などない。」といって、さらに「あるとしたら無限にある。」と言いだします。


私はニーチェの意図は解らないですが、厳密に考えますとやはり真理は像(イメージ)には無く、コップの真理はコップそのもの(更に突き詰めるとその知覚)にあるのではないでしょうか。
そのコップを認識して「知る」というのは、コップについての解釈や説明や見た目や過去の知識などから出来た像を持つことですから、あくまでも情報であって、それが真実を的確に表現しているとしても真理真実そのものではないですからね。
その意味では(知っているものに)真理はないと言えますし、あると言えば無限にあると言えると思います。


> さらに、強者が「真理だ!」と打ち立てたものが真理になるとまで言い始めますから。

数学とか観念内で完結する事柄の真理は知る事が出来ます。強者が「真理だ!」とした概念が現実に関係無ければ、それほど問題無く浸透するかも知れませんね。でもそういうのを真理として良いのか疑問ですけど(^^;


> 「真理」ということになると、アンセルムスもそうですが、神学では「受肉」に至るのではないかと。
> つまり、真理とは受肉のキリストによって体現されていることになると。
> だから、結局のところは受肉の神秘へと導かれるのか・・・


凄く深そうですね。受肉の神秘となると理屈を超えてる感じで考えるだけでは理解できそうもないです。
「私は真理であり」とかイエス様は言ってましたね。「真理」の原語には「実際」の意味もあるそうですね。
人がキリスト(真理)と共にある時は、コップの像が無くてその実際があるんじゃないでしょうか。

No.50 - 2015/03/30(Mon) 02:53:48

八木先生書評 / 勝峰 昭
今日午前に三省堂本店に行きましたが、「週刊エコノミスト」の刊行は毎月曜日ということで
見あたりませんでした。

これは八木先生の著書に対する書評ですかそれとも他の人の著書に対する八木先生の批評ですか。
また雑誌の発行日は3/31 (月)ですか?

No.49 - 2015/03/29(Sun) 16:18:36

八木先生の書評 / 中川 [関東]
八木先生の書評が「週刊エコノミスト」に掲載されました。

よろしければ、ご覧くださいね。

※なぜか八木先生からのメールが私のセキュリティーソフトのノートンにひっかかり、アンチスパムフォルダに 収納されてしまいます。
 ノートンは八木先生を危険思想として警戒しているのだろうか(笑)

No.48 - 2015/03/29(Sun) 04:22:36

Re: RE:お試し / 中川 [関東]
想念狂さん

> > 私のFBのお友達の方ですか!
> お世話になっております。


どなたなのかまったく検討もつきませんが、でも分からないのもいいですね(^−^)


> 素朴に考えると、存在を否定できないのは知覚を含めた意識だけ(唯識論がそうなのかな?)ですからね。意識の内容が全部夢とか映画のマトリックスのようのものだとしても、意識自体が無いとは言えません。なのでコップの方が存在レベルが低いというのは解る気がします。

すごい!
そう考えるのですね。
私は、やはりどうしても目の前のコップの方に「現実」という称号をあげたい気がします。
だからこそ、中世は私の信仰レベルでは及びもつかないほどに「神の世界」を真剣に見つめている姿があるのかもしれません。

> 主情主義ってのもあるそうですが、中世ではないのですかね。昨今では人間の思考は全て記憶に依るものと言われてますが、それを分けて考えていたんですね。「知性」や「理性」はまだしも「意志」ってどう定義してたんでしょうか。単純に「意志」とか「知性」等の言葉があるのでそれぞれ単独で存在するという先入観があるだけじゃないの?って思ってしまいますね。

意志の定義ですか。
調べてみます。

> その対比から考えますと、「知性」は客観的思考で「意志」は主観的思考を指していたのかなと、少し解った気がしました。しかしその頃は「真理(神)は知ることができない」という思想は無かったんでしょうか。神秘思想的なので無視されてるとか?(笑

それって、ありですよね。
ニーチェなんかは『善悪の彼岸』の冒頭で「真理などない。」といって、さらに「あるとしたら無限にある。」と言いだします。
さらに、強者が「真理だ!」と打ち立てたものが真理になるとまで言い始めますから。

「真理」ということになると、アンセルムスもそうですが、神学では「受肉」に至るのではないかと。
つまり、真理とは受肉のキリストによって体現されていることになると。
だから、結局のところは受肉の神秘へと導かれるのか・・・

No.47 - 2015/03/29(Sun) 04:16:49

郷義孝著 / 中川 [関東]

・郷義孝著『キリスト教ーその現象と神学的解釈』(キリスト教全体像の鳥瞰)
・『カトリックの信仰』、講談社学術文庫、1995、第四版、966頁

上の二つは本棚にありました。

とくに郷義孝著『キリスト教ーその現象と神学的解釈』は、確かによくまとまっていて良書ですね。
私はなぜか第二部までしか読んでなかったのですが、「これ、いいなあ」と思いながら読んでしました。

この本はお奨めですね。

No.46 - 2015/03/28(Sat) 13:33:23

キリスト教神学へ誘う好書 / 勝峰 昭
この直前の文に追加し一筆ー

下記もいい本です:

郷義孝著『キリスト教ーその現象と神学的解釈』(キリスト教全体像の鳥瞰)、
キリスト教図書伝道協会、1997、初版、297頁。

著者は日本聖書神学校教授で聖職者でもあり、私はこの著作を読んだのは
数年前のことで、著者の個性的な見識に感動しました。

特に第三章の「神について」は神を身近に感じさせ、啓蒙的でした。いい書が
市井には埋もれているものです。

No.45 - 2015/03/27(Fri) 21:45:12

神学 / 勝峰 昭
我が国の神学者の書物も読みたいと思って、以前に買い置いた
故岩下壮一神父の著書(含む編集)を引っ張り出しました:

・『信仰の遺産』岩波、1982、第五版、452頁
・『カトリックの信仰』、講談社学術文庫、1995、第四版、966頁

この前管円吉論文集『バルト神学研究』1979,534頁、は案外読みやすかった。
超存在的神学論なので、やや形而上学的色彩が濃いが、私のような素人が読むには
適本だと思いました。

フォイエルバッハやヘーゲルのキリスト教神学への別の観点からの批判も
並行して読むと、これはこれで興味が尽きませんが、でもやや首をかしげる箇所もありました。

いつの日か頭の中が整理されればいいのにと、今は錯乱孤児です。

No.44 - 2015/03/27(Fri) 11:30:56

Re: RE:お試し / 想念狂
> 私のFBのお友達の方ですか!

お世話になっております。


> 本当に存在といえるのはむしろ霊的なものやイデアの方であって、物質などの混ざり込んだ存在の方が低いと。
> 先日、八木先生のスコトゥス研究会で「現実態」と「可能態」の手ほどきを受けたのですが、見えない霊的な方が「現実態」で、変化してしまうような存在レベルが低い目の前のコップの方が「可能態」だというんですよ。
> 中世ってのは不思議です。


素朴に考えると、存在を否定できないのは知覚を含めた意識だけ(唯識論がそうなのかな?)ですからね。意識の内容が全部夢とか映画のマトリックスのようのものだとしても、意識自体が無いとは言えません。なのでコップの方が存在レベルが低いというのは解る気がします。
イデアは怪しいですけどね。単なる観念内での特定概念についての定義にしか思えません。
唯名論やそれに対する実念論とかは、なんちゅう中途半端な視点の論議やねんという印象です。
といいますか、お釈迦さんが言ったとされてるように、実在について考える事そのものが変だろうという感じです。


> 中世には、主意主義と主知主義があって、これは「意志」を自由とするか、「知性」を自由とするかということらしいのです。

主情主義ってのもあるそうですが、中世ではないのですかね。昨今では人間の思考は全て記憶に依るものと言われてますが、それを分けて考えていたんですね。「知性」や「理性」はまだしも「意志」ってどう定義してたんでしょうか。単純に「意志」とか「知性」等の言葉があるのでそれぞれ単独で存在するという先入観があるだけじゃないの?って思ってしまいますね。


> トマスなどの主知主義は「真理」を知るから自由な判断ができるようになると語る方向で、スコトゥスなどは正しい知識(真理)を持っていても意志は別を選ぶことができてその判断は自由だというのです。
> いやはや、やっかいだと思いませんか?


その対比から考えますと、「知性」は客観的思考で「意志」は主観的思考を指していたのかなと、少し解った気がしました。しかしその頃は「真理(神)は知ることができない」という思想は無かったんでしょうか。神秘思想的なので無視されてるとか?(笑

また感想だけ書かせて頂きました。知識は無いのですが結構好きなものでして、すみません。

No.43 - 2015/03/27(Fri) 00:19:43

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