08168

東京キリスト教神学研究所〜神学研究会〜 http://theology.hp-ez.com/

神学研究会のテーマにそって学びの場としたいと思います。
何でもお気軽に書いていってくださいね!
次回、4月15日は『ボナヴェントゥラの哲学と神学』です。

HOME | お知らせ(3/8) | 記事検索 | 携帯用URL | フィード | ヘルプ | 環境設定

Re: RE:お試し / 中川 [関東]
> 私はたまたまFBからこの掲示板を知って、つい疑問を書き込んでみたのですが実は知識は殆どありません。
> でも図々しく書かせて頂きますが、すぐに止めますのでご勘弁を。


いえいえ、どうぞ、どうぞ。
私のFBのお友達の方ですか!

> アンセルムスは実在論者ですか。キリスト教では「実在すると言えるのは神だけ」とか聞いた気がするのですが、これも様々なんですね。
> しかし唯名論とか実念論とかあるんですね。変な感じですが。


そうなんですよ。
私も中世というのは不思議なことを言うなあと不思議で不思議でなりません。
私の目の前には麦茶が入ったコップが実在していますが、これは存在のレベルが低いらしいのです。
本当に存在といえるのはむしろ霊的なものやイデアの方であって、物質などの混ざり込んだ存在の方が低いと。
先日、八木先生のスコトゥス研究会で「現実態」と「可能態」の手ほどきを受けたのですが、見えない霊的な方が「現実態」で、変化してしまうような存在レベルが低い目の前のコップの方が「可能態」だというんですよ。
中世ってのは不思議です。

>ヨハネ8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

中世には、主意主義と主知主義があって、これは「意志」を自由とするか、「知性」を自由とするかということらしいのです。
トマスなどの主知主義は「真理」を知るから自由な判断ができるようになると語る方向で、スコトゥスなどは正しい知識(真理)を持っていても意志は別を選ぶことができてその判断は自由だというのです。
いやはや、やっかいだと思いませんか?
慣れてくると入っていけるのですが、慣れないと「?」です。

No.42 - 2015/03/25(Wed) 02:29:07

Re: RE:お試し / 中川 [関東]
> 3. しかし、アンセルムスは『調和』第三問題で、さらに一歩進めて、罪人たる人間にはもはや「自由を失った意志」しかないし、自ら「自由意志」を取り戻す能力もないが、「自由意志」を保持する(keep)潜在能力は失われていない、したがって神の恩寵があれば自由意志を回復し、そうすれば努力次第で再び保持できる、ということを主張していると思われます(私見)。そうだとすれば恩寵と自由意志とは一致関係というよりも原因・結果関係ではないでしょうか。その結果、次の論点として、自由意志が恩寵発動により回復される原因の一つだとして、では罪人である人間の側の貢献・功績は、?@ゼロでもよい(=100%恩寵;アウグスティヌス、アンセルムス(?)、ルター、仏教では親鸞の悪人正機説)、?A少しは必要だ(イエズス会のモリナ等)、?B100%償わないとダメだ(契約神学;ガルリエル・ビール)、という恩寵論争に発展すると位置付けられるのかもしれませんね。

アンセルムスの初期の論文に『意志の自由について]があって、後になってから『何故に神は人となり給いしか』(Cur Deus Homo)があって、その後に『神の予知・予定並びに恩寵と自由意思との一致について』があることから、印具先生が「『意志の自由について』の中で論じたのちに、アンセルムスは、彼の死に至るまで常に『恩寵と自由意思との一致』の問題について考え続けたといえる。」(『聖アンセルムスの生涯』p.130)と書いているんです。
でも、どういう意味で「恩寵と自由意思の一致」かは私自身、読んでいないので分かっていません。
その意味でも、次回、神学研究会にてアンセルムスを扱うときまでにそこら辺をテーマにして私も調べてみます。

おっしゃる通りで、アンセルムスとルターとのつながりは重要です。
アンセルムスは中世における神の「絶対的な力」(potentia absoluta)と神によって「定められた力」(potentia ordinata )の区別において、神は自由にその意志をもって決定するのであって、全能であり神の「絶対的な力」には限界がないとするスコトゥスやオッカムの系譜です。
ただアンセルムスは「先行的恩寵」(gratia praeveniens)を強調して「外からの恩寵」を語っているのですが、オッカムやルターとは違い「後続的恩寵」(gratia subsequens)についても大切なことも語っていて、その意味で「自由意思と恩寵との一致」ということになってくるのかもしれません。

かつて、ルターを研究したときに、以下のようなことをまとめていました。
私のルター研究では、アンセルムスが抜け落ちていました。

http://blogs.yahoo.co.jp/st_francis_n/7574652.html


> 4.神秘性でなく理性でキリスト教を極めようとしたアンセルムスの中にこそ、意外にも深層にまにまで及ぶ心理分析がバックボーンとしてあるのだと気が付きました。逆に、スコラ哲学から離れていった近世・近代哲学は寄り道をした側面もあるのでは? 以上、傲慢・不遜なことを申し上げてしまいました。傲慢はアンセルムスも最も嫌うところでした。

このアンセルムスの後を受けてボナヴェントゥラが神秘主義神学を展開するので、どうアンセルムスとつながっているのかも楽しみになってきますね。
研究会の帰りに、アンセルムスをもう一度やってほしいと、八木先生にお願いしておきました。
杉本先生によれば、八木先生はアンセルムスについて何やら「方法」について講義したことがあったらしいので、アンセルムスについては尽きないかもしれません。

No.41 - 2015/03/25(Wed) 02:12:29

Re: 神の美術―ロマネスク / 中川 [関東]
勝峰先生

> 当日は投影を予定いたしたく、機器のご準備をお願いします。
> この度は、スペイン・ロマネスク美術に大きな影響を与えた・スペイン・イスラム美術
> のことが、中心になります。これが「魅力の源泉」=所謂スペインらしさです。


よろしくお願い致します。

本日、スペイン・ロマネスクの資料を古本屋で物色しようとしたのですが、見つかりませんでした。
ロマネスク美術に関するものは、ほとんどがフランスやイタリアです。

もっとも魅力あるスペイン・ロマネスクは、やはり勝峰先生が第一人者ですから、出来る限りこの美術を広めていく必要があります。

No.40 - 2015/03/25(Wed) 01:07:32

Re: RE:お試し / 想念狂
私はたまたまFBからこの掲示板を知って、つい疑問を書き込んでみたのですが実は知識は殆どありません。
でも図々しく書かせて頂きますが、すぐに止めますのでご勘弁を。

> オッカム、ルターなど唯名論者にとっても実在論者アンセルムスが偉大な師匠だったというのも頷けます。

アンセルムスは実在論者ですか。キリスト教では「実在すると言えるのは神だけ」とか聞いた気がするのですが、これも様々なんですね。
しかし唯名論とか実念論とかあるんですね。変な感じですが。


> では、結局、自由の定義は何か。それは、八木先生のレジュメにある「正直(=神に率直に向かうこと)を求める性格」つまり「正直を求める能力・素質」だと思います。

ヨハネ8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
神は真理だそうなので、合致してると思います。「神に率直に向かう」とは真理・真実に似せた像(イメージ)を持たない事だとも言えそうですしね。

> 神は自由意志が働いているのに対して、人間は自由が働かず意志のみが働いている、という点が異なるのだと思います(ただし、自由は潜在能力として存続しており、神の恩寵でその能力が回復されれば自由意志が働く可能性があるとも師匠は応答しています。希望が持てるということでしょうか)。

潜在的には勿論あるでしょうね。自由とは囚われの無いことでもありますから、それは真理と同じく始めも終わりも無くあって、罪が無い時に現れるんでしょう。


> ところで、仏教の唯識説でも五識(=5感)、六識(=意識)に加えて、無意識である七識(=マナ識)と八識(=アーラヤ識)があるとされています。アーラヤ識は生命ある人間全員に備わっている根源的なものであり、上記の「自由意志」もそれに属するでしょう。

お詳しいですね。コメント頂くのが申し訳ないくらい私は無知です。すみません。
ただ私は、自由は能力というよりも意識全体が囚われなく健全に働く状態を指すのではないかと思っています。


> アウグスティヌスの「記憶」やプラトンの『メノン』等で論じられる「想起」も関係あるのでしょう。マナ識は自我意識・執着をおこさせるもので煩悩の原因になります。上記の自由を失って有益性を求める性格だけが暴走している「意志」もそれでしょう。

神からイエス様に与えられた12使徒の一人ユダさんは、その有益性を求める性格を象徴しているのではないかと思っています。意識の中で必要な能力でもあるのに的外れになりやすいのがそのマナ識でユダさんだったりするのかなぁと。


> 洋の東西を問わずフロイトの何世紀も前に無意識に2階層があるという共通の分析が行われていたのだなあ、と思いを致しました。煩悩の除去方法と自由意志の回復方法にも共通点があるかどうかは詳らかではありませんが・・・(両者とも人間論なので案外近いような気もします)。

私も近いと思います。同じ人間ですしね。でも同じような間違いもあるでしょうね。


> 対話は新しいアイデアをもたらしますね。ありがとうございます。

こちらこそ、ありがとうございます。返信が遅くなってすみませんでした。

No.39 - 2015/03/24(Tue) 23:22:24

Re: RE:お試し / SW [関東]
1.想念狂様とは別人です。だからこそ私は対話の重要性を再認識しました。

2.ローマ7:18のご紹介ありがとうございます。「私には善をしたいという願いがいつもある」という文言は、アンセルムスによると、能力としての正直は潜在的に存続する、と深読みできるということですね。

3. しかし、アンセルムスは『調和』第三問題で、さらに一歩進めて、罪人たる人間にはもはや「自由を失った意志」しかないし、自ら「自由意志」を取り戻す能力もないが、「自由意志」を保持する(keep)潜在能力は失われていない、したがって神の恩寵があれば自由意志を回復し、そうすれば努力次第で再び保持できる、ということを主張していると思われます(私見)。そうだとすれば恩寵と自由意志とは一致関係というよりも原因・結果関係ではないでしょうか。その結果、次の論点として、自由意志が恩寵発動により回復される原因の一つだとして、では罪人である人間の側の貢献・功績は、?@ゼロでもよい(=100%恩寵;アウグスティヌス、アンセルムス(?)、ルター、仏教では親鸞の悪人正機説)、?A少しは必要だ(イエズス会のモリナ等)、?B100%償わないとダメだ(契約神学;ガルリエル・ビール)、という恩寵論争に発展すると位置付けられるのかもしれませんね。

4.神秘性でなく理性でキリスト教を極めようとしたアンセルムスの中にこそ、意外にも深層にまにまで及ぶ心理分析がバックボーンとしてあるのだと気が付きました。逆に、スコラ哲学から離れていった近世・近代哲学は寄り道をした側面もあるのでは? 以上、傲慢・不遜なことを申し上げてしまいました。傲慢はアンセルムスも最も嫌うところでした。

Good night, good luck!
(3月24日: 全般に修正) 

No.38 - 2015/03/24(Tue) 00:54:52

神の美術―ロマネスク / 勝峰 昭
中川先生

5月20日18:30〜20:30神学研究会の講師として予定しています。
研究発表ではありませんので、念のため。

研究会の皆様にご連絡宜しくお願いします。なおAREJの会員には
既に案内していますが、再度近くになってからリマインドいたします。

当日は投影を予定いたしたく、機器のご準備をお願いします。
この度は、スペイン・ロマネスク美術に大きな影響を与えた・スペイン・イスラム美術
のことが、中心になります。これが「魅力の源泉」=所謂スペインらしさです。

No.37 - 2015/03/23(Mon) 16:04:54

Re: RE:お試し / 想念狂
> 想念狂さんとSWさんは同じ方なのですね。

違いますよ(^_^;)忙しいので取り敢えず、、。

No.36 - 2015/03/23(Mon) 12:02:11

Re: RE:お試し / 中川 [関東]
想念狂さんとSWさんは同じ方なのですね。
失礼しました。
アブラハムのイサク奉献はアンセルムスに関する問いですね。

> では、結局、自由の定義は何か。それは、八木先生のレジュメにある「正直(=神に率直に向かうこと)を求める性格」つまり「正直を求める能力・素質」だと思います。
> では、神と人間の違いは何か。自由はこのように一義的だが、神(や天使やアブラハム)は自由という性格(=能力・素質)をそのまま「使用する」(=実現する)のに対して、人間(や悪魔)は自由を放棄してしまった(=原罪)。その結果、人間の心はもう一つの性格(つまり、八木先生のレジュメにある「有益を求める性格」)のみになり、この性格が暴走し始めた。したがって、神は自由意志が働いているのに対して、人間は自由が働かず意志のみが働いている、という点が異なるのだと思います(ただし、自由は潜在能力として存続しており、神の恩寵でその能力が回復されれば自由意志が働く可能性があるとも師匠は応答しています。希望が持てるということでしょうか)。


なるほど。
この部分、簡潔にまとめてくださってありがとうございました。
理解が進みます。

パウロがローマ7:18で「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」と語っているところから、アンセルムスは生まれたままの人間(原罪を負った人間)は善をする力がないことを言っていますね。
パラダイスにおける「罪を犯さないこともできる」自由の中で「罪を犯す能力」の働きによって、罪の奴隷になってしまった。
だから「人間は自由が働かず意志のみが働いている。」ということなんですね。
そこで次に恩寵と自由意志との一致という問題になってくると。
パラダイスの自由を失った人間が、自由意思を持っているか否かの問題は、エラスムスとルターとの討論に引き継がれています。
エラスムスが人間の自由意思について語ると、ルターはアウグスティヌスが言っている自由意思というのは恩寵における意志にことで、人間には自由意思がなく『奴隷意志』だと主張していたのは、この問題なのだと今更ながら気づかされました。

> ところで、仏教の唯識説でも五識(=5感)、六識(=意識)に加えて、無意識である七識(=マナ識)と八識(=アーラヤ識)があるとされています。アーラヤ識は生命ある人間全員に備わっている根源的なものであり、上記の「自由意志」もそれに属するでしょう。アウグスティヌスの「記憶」やプラトンの『メノン』等で論じられる「想起」も関係あるのでしょう。マナ識は自我意識・執着をおこさせるもので煩悩の原因になります。上記の自由を失って有益性を求める性格だけが暴走している「意志」もそれでしょう。

唯識説については小室直樹著『日本人のための宗教原論』の解説でしか知らないのですが、小室氏によれば阿頼耶識は生まれる前の遥か昔のからの記憶がある膨大なデータバンクみたいなもので、この一部をとくに末那識といって「我」が実在すると錯覚する。でも、これらすべてもまた無常なんですよね。
唯識論によればパラダイスの自由意思もまた「煩悩」になってしまいそうな気がするのですけど。

>洋の東西を問わずフロイトの何世紀も前に無意識に2階層があるという共通の分析が行われていたのだなあ、と思いを致しました。煩悩の除去方法と自由意志の回復方法にも共通点があるかどうかは詳らかではありませんが・・・(両者とも人間論なので案外近いような気もします)。対話は新しいアイデアをもたらしますね。ありがとうございます。

SWさんのおかげで、アンセルムスについてさらに深めなくてはならなくなりました。

次回はボナヴェントゥラです。

また、近いうちにアンセルムスを八木先生にお願いしたいです。
「自由意思」と「恩寵」について、もう少し理解してから講義を受けたかった。

No.35 - 2015/03/23(Mon) 01:31:49

Re: 宇宙の意思 / 中川 [関東]
> 私は昔から何冊かの本を並行して読む癖があり、そのうちの一冊で
> 元京大と佛教大学の教授、岸根卓郎著『宇宙の意思―人は何処より来て何処へ去るか』
> という本(東洋経済新報社、1993、584頁)を面白く読んでいます。



「それより大きなものを考えられないもの」というアンセルムスの命題は、おそらくセネカの文章からのものでセネカにとってそれは「宇宙」だったと八木先生は言っていましたが、『宇宙の意志』というものを人は考えるのもなのでしょうかね。
きっと、5月の講義でお話いただけるのだろうと。

No.34 - 2015/03/22(Sun) 23:14:24

Re: キリスト教神学の切り口 / 中川 [関東]

勝峰先生、5月の研究会発表『神の美術 〜スペイン・ロマネスクの魅力〜』よろしくお願いします。

福田勤神父の『キリスト教神学への道』ですか。
私も探してみます。
ティリッヒは難しくて難しくて。
ティリッヒですか・・・うーん、手が出せない。。。
それにしても勝峰先生はすごい。




No.33 - 2015/03/22(Sun) 23:04:23

Re: RE:お試し / 中川 [関東]
> もし、この考えを当てはめることができるとすれば、神は「アブラハムを試した」のでなく「アブラハムの意志の自由を尊重」し、アブラハムの判断に委ねたのではないでしょうか。

まさに主意主義的な理解ですね。
アンセルムス的な理解であれば意志の自由ということになるのでしょうね。

私としては、「イサクの奉献」の出来事は、神さまがその一人子を失うことの痛みをアブラハムだけには伝えたものとして理解していました。
人は親友には自分の心の痛みを教えます。
親友は理解して一緒に負ってくれるからです。
アブラハムは「神の友」(ヤコブ2:23)だったから、あえて神さまはアブラハムにあんなことを要求したのではないかと。
だから、主意主義的というよりも、関係論的にのみ理解していました。
たいていのプロテスタント教会では「イサクの奉献」は神学的には「予型」と言われていると思います。
つまり「神の予定」である十字架を表現した「型」みたいなものです。
もっといえば、キリスト預言です。

キリスト預言であれば、特に神さまが力強く介入した事件だったので、「予知」というよりも「予定」につながる出来事だったと言えるのかもしれないと、私は考えます。
アンセルムスの意志の自由というよりも、アンセルムスならば従うと。
その意味でも、アンセルムスだからこその「選び」ですかね。

No.32 - 2015/03/22(Sun) 22:31:42

Re: アンセルムスの作品の英訳 / 中川 [関東]
> 1. FYIですが、Jasper Hopkins先生のwebsite (http://jasper-hopkins.info/) にアンセルムスの作品全部の英訳を発見しました。

本当だ。
ありがとうございます。
便利な時代になりましたね。
20年前ではあり得なかった。
私も何とか『モノロギオン』『プロスロギオン』は読んでみたいと思います。

No.31 - 2015/03/22(Sun) 22:10:38

ティリッヒの神学 / 勝峰 昭
パウル・ヨハネス・ティリッヒ(1986−1965)の存在論的神学つまり平たく言えば「組織神学」は、
彼が生きた第一次世界大戦(1914−1918)の結果ドイツの敗北という時代背景を抜きには理解が難しい
かもしれません。

耳慣れない「組織神学」という概念は、「教会の神学」と「文化の神学」との融合というか、
形而上学的な霊の神学に、世俗的な文化(芸術、社会制度、学問、宗教、集団活動、教育など)
との結合させることによって、神学を雲の上の議論から引きずりおろし、いわゆる実践の世界に
示唆を与えている感じです。

ティリッヒの生きた時代は第二次世界大戦までの過渡期というか、社会主義の風潮が西欧に充満して
来つつある時でもあり、キリスト教神学も時代の影響を受けたことは容易に察知できます。

いったい現今の我々が生きている時代にマッチしたキリスト教神学
をどういう風に認識したらいいのでしょうか。カトリック神学の時代性とプロテスタント神学のそれを、現今どのように考えるべきでしょうか。

No.30 - 2015/03/22(Sun) 15:26:50

宇宙の意思 / 勝峰 昭
私は昔から何冊かの本を並行して読む癖があり、そのうちの一冊で
元京大と佛教大学の教授、岸根卓郎著『宇宙の意思―人は何処より来て何処へ去るか』
という本(東洋経済新報社、1993、584頁)を面白く読んでいます。

科学と宗教と芸術の三位一体化を位相数学的に捉えている個所など...。

いよいよ冬も終わりそうです。朝の陽ざしにヨーロッパの雪解けを想像しています。

No.29 - 2015/03/22(Sun) 08:17:41

Re: RE:お試し / SW [関東]
『選択の自由』は師匠・弟子の対話形式で議論されていますが、その冒頭部分で弟子が「神の自由意志が人間の自由意志と違ったものであると云われうるとすればどうでしょうか」と貴見と全く同じ質問をしています。
アンセルムス師匠の応答は「自由の定義はその名の如く同一であるべきだ。なぜなら『或る動物』は『他の動物』と区別されうるが、『動物』という名はすべての動物において同一である。(そのように神の自由と人間の自由は同一である)」(一部意訳)です。スコトゥスの「存在の一義性」を彷彿させる「自由の一義性」の主張は、議論の共通の土俵つまり哲学を重視していることの表明ですね。オッカム、ルターなど唯名論者にとっても実在論者アンセルムスが偉大な師匠だったというのも頷けます。
では、結局、自由の定義は何か。それは、八木先生のレジュメにある「正直(=神に率直に向かうこと)を求める性格」つまり「正直を求める能力・素質」だと思います。
では、神と人間の違いは何か。自由はこのように一義的だが、神(や天使やアブラハム)は自由という性格(=能力・素質)をそのまま「使用する」(=実現する)のに対して、人間(や悪魔)は自由を放棄してしまった(=原罪)。その結果、人間の心はもう一つの性格(つまり、八木先生のレジュメにある「有益を求める性格」)のみになり、この性格が暴走し始めた。したがって、神は自由意志が働いているのに対して、人間は自由が働かず意志のみが働いている、という点が異なるのだと思います(ただし、自由は潜在能力として存続しており、神の恩寵でその能力が回復されれば自由意志が働く可能性があるとも師匠は応答しています。希望が持てるということでしょうか)。
ところで、仏教の唯識説でも五識(=5感)、六識(=意識)に加えて、無意識である七識(=マナ識)と八識(=アーラヤ識)があるとされています。アーラヤ識は生命ある人間全員に備わっている根源的なものであり、上記の「自由意志」もそれに属するでしょう。アウグスティヌスの「記憶」やプラトンの『メノン』等で論じられる「想起」も関係あるのでしょう。マナ識は自我意識・執着をおこさせるもので煩悩の原因になります。上記の自由を失って有益性を求める性格だけが暴走している「意志」もそれでしょう。洋の東西を問わずフロイトの何世紀も前に無意識に2階層があるという共通の分析が行われていたのだなあ、と思いを致しました。煩悩の除去方法と自由意志の回復方法にも共通点があるかどうかは詳らかではありませんが・・・(両者とも人間論なので案外近いような気もします)。対話は新しいアイデアをもたらしますね。ありがとうございます。

佐々木徹先生の研究についての感想: 私は『選択の自由』『調和』を昨年末から精読しようと考え、そのために佐々木徹先生、印具徹先生、八木先生(『天使はなぜ堕落するのか』のアンセルムス部分)等のご著書に当たっている素人にすぎず、佐々木先生の研究内容にコメントする力はございません。唯一の感想は、古田先生が全和訳されたこと、日本語でアンセルムス全般を体系的に論じてそれを公にしているのは二人の徹先生だということです。

No.28 - 2015/03/21(Sat) 23:36:30

Re: RE:お試し / 想念狂
> アンセルムスの自由意志論にピッタリの論点だと思ったので、思わず横から口出ししてしまいました。申し訳ありません。

いえいえ、ありがとうございます。

> (私はキリスト教徒でもなく聖書の知識も乏しいので、読み飛ばしてください。)

では佐々木徹先生の研究についての感想だけを。
> 理性的被造物の意志の自由を尊重する
罪人は罪の奴隷なので神に完全に従う事が自由なのだと伝え聞いていたのですが、ではなくて神とは別個の自由があるという教義なのですね。
ではなくて自由といっても意味が違うのかもですね。

No.27 - 2015/03/21(Sat) 10:09:23

キリスト教神学の切り口 / 勝峰 昭
18日の研究会は、皆様のご発言を興味深く拝聴しました。
八木先生の終わりの頃のご見解(証明論)は、正鵠を得たものと
心に響きました。

最近読んだ本で福田勤編著『キリスト教神学への道」は小生のような
初心者にとって啓蒙的でした。一冊のノートに要旨を纏めて眺めています。

現在、藤倉恒雄著『ティリッヒ組織神学研究』を読み始めました。
難解で苦労していますが、読破しようと思っています。

キリスト教神学の切り口を「啓示と信仰」において考えていますが、
膨大な神学のテーマの中で、率直に言ってこの問題に対する神学者たちの見解に
馴染まぬ点もあります。

坂口先生の信仰に裏付けされた博識、八木先生の碩学としての深い洞察など
また中川牧師の聖職者としての優れた見解などなど、時間は瞬く間に過ぎていきました。

No.26 - 2015/03/20(Fri) 11:57:29

Re: RE:お試し / SW [沖縄]
アンセルムスの「調和」の第一問題は神の予知と自由選択との調和が論じられていますが、これにつき佐々木徹先生の「聖アンセルムス神学の教義学的研究」pp434-435では「神は、あることが意志のみによって将来在る事を企て予見するのである。すなわち、意志が他のいかなる外的事物によっても、強制されたり禁止されたりせず、意志によって為されることは、かように自由によって為されるという事を、神は予見するのである。・・・神の予知は、このように理性的被造物の意志の自由を尊重する」と論じておられます。
もし、この考えを当てはめることができるとすれば、神は「アブラハムを試した」のでなく「アブラハムの意志の自由を尊重」し、アブラハムの判断に委ねたのではないでしょうか。

アンセルムスの自由意志論にピッタリの論点だと思ったので、思わず横から口出ししてしまいました。申し訳ありません。(私はキリスト教徒でもなく聖書の知識も乏しいので、読み飛ばしてください。)

No.25 - 2015/03/20(Fri) 02:50:43

アンセルムスの作品の英訳 / SW [沖縄]
八木先生、皆様: 昨日はありがとうございました。

1. FYIですが、Jasper Hopkins先生のwebsite (http://jasper-hopkins.info/) にアンセルムスの作品全部の英訳を発見しました。

2. 八木先生のレジュメ末尾に関連して、「調和(De Concordia)」の第三問題11章に古田訳で「人は、有益性を意志する性向を通して、至福と幸福であることを常に意志している。一方、正直を意志する性向を通して、人は正直と正しいこと、すなわち、義であることを意志している。」という箇所がありますが、Hopkins先生は"Indeed, because of the inclination to will what is beneficial, a man always wills happiness and to be happy. On the other hand, because of the inclination to will uprightness, he wills uprightness and to be upright (i.e., to be just)".と訳されています。日英ともどうも判然としなかったのですが、正直(=率直さ)と正義との関係についての質問に対する八木先生からの「率直さに基づいて正義は説明されるべきだということだと考えます」とのお答えは腑に落ちました。両者はコインの裏表で、仏教用語でいえば相即不離の関係にあることだと浅はかながら理解しました。

3. 上記でhapiness/ to be happyと並記され、uprightness/ to be uprightと並記されています。枝葉末節なのかもしれませんが、どう違うのか気になります。

4. なお、「選択の自由」(Freedom of choice)の定義は古田訳では「意志の正直をそれ自身のために保持する力」となっていますが英訳ではthe ability to keep uprightness-of-will for the sake of this uprightness itselfとなっています。日本語と合わせ読みできると理解が深まったような気がしてきます。おそらく気がしているだけで何も分かってないのでしょうが・・・
「理解するために信仰する」でなく「理解するために理解しよう」として堂々巡り状況です。

いずれにせよ、ありがとうございました。

No.24 - 2015/03/20(Fri) 01:48:49

Re: RE:お試し / 想念狂
中川さん、お世話になります。
すみません。質問が明確ではなかったでしょうか。でもあまりこの事についてキリスト者の間で疑問視されていないようなのはわかりました。

イエス様の予見そのものは神の業という事で疑問はありません。
イエス様より偉大なはずの神が、どうしてアブラハムの信仰、あるいは命令に従うか背くかの予見が出来ずに彼を試す事になったのか、です。
イサクが強烈なトラウマを持ちそうなテストをする理由がわかりません。
ヨブ記の場合のように悪魔が絡んでいるのでしょうか?

あ、しかし「神学研究会のテーマ」には沿ってないですね。ごめんなさい。

No.23 - 2015/03/19(Thu) 20:21:27

以下のフォームに記事No.と投稿時のパスワードを入力すれば
投稿後に記事の編集や削除が行えます。
82/300件 [ ページ : << 1 2 3 4 5 >> | 画像リスト ]