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東京キリスト教神学研究所〜神学研究会〜 http://theology.hp-ez.com/

神学研究会のテーマにそって学びの場としたいと思います。
何でもお気軽に書いていってくださいね!
次回、4月15日は『ボナヴェントゥラの哲学と神学』です。

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前教皇ベネディクト16世著『中世の神学者』 / 中川 [関東]
『中世の神学者』にはコンパクトにまとめられてボナヴェントゥラについて紹介されています。
No.22 - 2015/03/19(Thu) 15:29:26

お薦めの本 J・G・ブージュロル著 『聖ボナヴェントゥラ』 / 中川 [関東]
私が読んでみて、比較的理解が進んだのがブージュロル著『聖ボナヴェントゥラ』です。

ただ、読んでいる時は分かったつもりでも分かっていないもので、研究会までにはもう一度読んでみたいと思います。

No.21 - 2015/03/19(Thu) 15:27:53

次回、神学研究会テーマ『ボナヴェントゥラの哲学と神学』 / 中川 [関東]
4月15日(水) 『ボナヴェントゥラの哲学と神学』をテーマに坂口?ミ吉先生が講義を担当します。

坂口先生はボナヴェントゥラの研究者なので、注目したいところです。

坂口先生の主著が『中世の人間観と歴史』です。

この『中世の人間観と歴史』では、フランシスコ、ヨアキム、ボナヴェントゥラについて書かれていますが、とくにフランシスコに影響され、会内のヨアキム主義による混乱を整理せねばならなかったボナヴェントゥラについて多く語られています。

No.20 - 2015/03/19(Thu) 15:23:38

3月18日(水)神学研究会『カンタベリーのアンセルムス』のまとめ / 中川 [関東]
神学研究会にて学んだことを手短にまとめます。

・アンセルムスは最初の十字軍(1096年)の頃に活躍した人物で、アンセルムスは十字軍を反対している。
 第一回の十字軍遠征はヨーロッパが外に向かって行く段階に入ったのだけども、まだ幼稚な段階でしかない。

・アンセルムスの有名な命題「Credo ut intelligam」の「intelligam」は「理解する」という意味ですが、「gam」には「希望」の意味を含むので、砕けいて言えば「理解できたらいいなあ」といえるかもしれない。

・中世において12世紀頃にロンバルドゥスの『命題集』が体系的神学の基礎をつくっていた。
 研究者が自分の興味あることだけを論じては良くないので、万遍と学べるテキスト『命題集』があった。
 しかし、アンセルムスはまだ11世紀の人なので、アンセルムスのとき『命題集』はない。

・トマスは、私たちが思っている以上にイスラムの神学を知って、それに応答している。
 『神学大全』にはあきらかにイスラムに対する意見がでてくる。
 アンセルムスはイスラム神学の影響からの問いに対して、論理的に答えている。
 (『コーラン』の中ではイエスは偉大な教師)

・アンセルムスが「神の存在証明」をしたのは、どうしても神を信ずることができない人を納得させるため。

・『モノロギオン』:最高の本性から世界がつくられていく。世界の全体のイメージを提供している。
 また、聖書に書かれたものが矛盾しないことを証明せねばらなかった。

・『プロスロギオン』:「神のことばの前」と訳してもいいかもしれない。
 「プロス」は「前」で、「ロギオン」は論理でありこの場合「(神の)言葉」である。
 ジルソンが「言葉とは詩人のモノ」と言っているように、本当に言葉を知っているのは詩人である。
 哲学者はどうしても言葉(論理)を使うことになるのだけど、本来、「論理性」とは意見を言い合う中で相手を説得する力を論理といった。
 今では数学が証明論理として使われて、詩の世界とは隔絶しているけれども、本来は「論理性」は相手を説得する力であった。
 「神のことばの前」とは、聖書を前にして聖書にべったりくっつかずに考えたことということかもしれない。
 
・アンセルムスは主意主義をつくった。
 主意主義(voluntalism)に対してトマスに代表される主知主義(intellecualism)がある。
 これは「自由」の根拠を「意志」(欲求)に見るか、知性(認識・判断)に見るか。
 ドゥンス・スコトゥスはそのまま主意主義を継承している。
 意志(voluntus)とは欲求(volo=want)のことだが、日本的には欲求というのは「感情的」なも。
 アウグスティヌスには感覚的な意味にも理性的な意味にも「欲求」といっているのだが、ドゥンス・スコトゥスにまで至ると「理性的欲求」しかない。

・天使は「理性的欲求」に基づいて堕落した。
 そこで、おそらく人間にもまた理性的欲求がある。つまり人間には感覚的欲求と理性的欲求がある。

・サタンは「神のようになる」という優越さを求めたために堕落したのだが、サタンは天使であるから「優越さを求める」というのは「感覚的な欲求ではなく」、理性的欲求である。

・「より大きなものを考えられないもの」というアンセルムスの言葉はセネカがそれ以前にいっていたが、セネカはストア哲学の代表的存在でありる。このセネカによれば、「より大きなものを考えられないもの」というとき、セネカにしてみればそれは「宇宙」のことであり、目の前に宇宙があるのは当然だし、セネカにしてみれば神を存在証明する必要すらないし理解できないだろう。
 これに対してアンセルムスは宇宙よりも遥かに大きい神を表現している。

まだまだ、レジュメにそって語る中で受講者が分からの質問が取り扱われたのですが、ここでは限界があるためにここまでで切り上げます。

No.19 - 2015/03/19(Thu) 03:37:41

RE:お試し / 中川 [関東]
想念狂さん

はじめまして。

>何でも、という事なのでちょっとお尋ねします。

>神はアブラハムにイサクを捧げるようにと試されましたが、イエス様はペテロが否む回数までお見通しでした。
>これについてキリスト教ではどう解釈されてるのでしょうか?

イエスさまはペテロが否定する回数もご存じだったと思うのですが、それについてはどう解釈されているか具体的にペテロの事件について論じられているのを私は見たことはありません。

でも、神の「予知」と「予定」ということについては「救い」に関して、プロテスタントの歴史の中でアルミニウス派の「予知説」とカルヴァン派の「予定説」ということでありましたよ。

No.18 - 2015/03/19(Thu) 02:30:13

お試し / 想念狂
何でも、という事なのでちょっとお尋ねします。
神はアブラハムにイサクを捧げるようにと試されましたが、イエス様はペテロが否む回数までお見通しでした。
これについてキリスト教ではどう解釈されてるのでしょうか?

No.17 - 2015/03/18(Wed) 14:21:01

1054年 大シスマ / 中川 [関東]
東西教会の分裂といわれた大シスマが1054年なので、アンセルムスが20歳くらいのときです。
アンセルムスが最初に修道会に入会することを希望したのが15歳のときで、実際に修道会に入会したのが27歳ということなので、ちょうどその真ん中くらいにあったのが大シスマとうことになります。

No.16 - 2015/03/17(Tue) 03:54:54

アオスタ / 中川 [関東]
アンセルムスはアオスタ生まれということですが、アオスタとは現在のイタリア共和国北西部に位置する都市です。

ウィキペディアより
>10世紀、アオスタはブルグント王国(アルル王国)の一部となった。1032年にブルグント王家が断絶すると、その王位は神聖ローマ皇帝が帯びることとなり、領土は神聖ローマ帝国に組み込まれた。

ちょうどアンセルムスが生まれた頃(1033/1034年)に、神聖ローマ皇帝領となったようです。

No.15 - 2015/03/17(Tue) 03:15:47

Re: 研究会が近づいて来た / 中川 [関東]
いやはや、ほとんど見ていないと思います。

私の経験則:「笑いの無いところに人は来ない。」

アカデミックな問題を扱う場所では、冗談は低俗に思われやすく、ウィットが効いていなければ許されないような。

しかし、そんな硬い頭脳ではアンセルムスなんて理解できないような気もします。

それでなくても、私は頭が硬く理解できずに苦しんでいるのに。。。

アンセルムス理解については、もう研究会での八木先生が頼りです。

No.14 - 2015/03/17(Tue) 03:04:11

研究会が近づいて来た / トーマス [関東]
楽しみなことで。
それにしても、他の皆さんはこの掲示板を見ているのでしょうか?

No.13 - 2015/03/16(Mon) 23:36:23

3月18日(水) 神学研究会のレジュメです。(再掲) / 中川 [関東]
カンタベリーのアンセルムス
                           八木 雄二

1. 近刊(3月17日? 知泉書館から)「カンタベリーのアンセルムス」サザーン著・矢内義顕訳

2. 古田暁『アンセルムス全集』解説「アンセルムスーその時代とその作品」

3. Credo ut intelligam 理性の理解を受け入れる信仰 → 神学

 12世紀中ごろ:アベラール(アベラルドゥス)とクレルヴォーのベルナルドゥス

        普遍論争の有名人(敗者)と反哲学の急先鋒(勝者)
       「不合理ゆえにわれ信ず」:理性理解を拒否する信仰

 12世紀後半 ロンバルドゥスの命題集→体系的神学の基礎

4. アンセルムスのおもな著作

(1)モノロギオン;プラトン哲学の用語(論理)で最高の本性から順次、信仰内容を論じる=「聖書の権威を括弧に入れる」=中世神学の発端

(2)プロスロギオン;神の存在を証明し、その本性について論じる

(3)真理について;命題の真理、行為の真理、意志の真理、等々を論じる

(4)選択の自由について;自由意志論

(5)悪魔の堕落について;理性的被造物の罪を犯す可能性

(6)神はなぜ人間となられたか(Cur Deus Homo);神が人を救う方法として選んだ受肉ということ

(7)自由選択と予知、予定および神の恩寵の調和について;(3)、(4)、(5)をまとめて結論付けた総論(神の自由意志、天使や人間の自由意志と神の予定/予知の必然との問題)→ドゥンス・スコトゥスの倫理学・意志論などに決定的な影響を与えている。

5.意志論における重要なポイント

   意志の性格(性向・本質的習性)として
        有益を求める性格→幸福(利による満足)
        正直を求める性格→正義
   正直(せいちょく);神にまっすぐ(率直)に向かうこと、神に対する従順さ。

No.12 - 2015/03/15(Sun) 03:39:00

神の存在証明について / 中川 [関東]
アンセルムスは「贖罪」について以下のようなことを語っているということです。

「贖罪」は、この「神にあらざるすべてのものにまさっているもの」によるほかに、道はないのである。ところで、この「神にあらざるすべてのものにまさっているもの」が「神ではない」とは、とうてい考えられないことである。したがって、ここから、「贖罪をなすことのできるものは神だけだ」という重大な「帰結」が得られる。しかし私たちは、「それ(Satisfactio)をなすことができるのは神だけであるが、それをなさなければならないのは人間だけである」ことを忘れてはならない。このことは私たちを、さらに重大な「帰結」へと導くのである。つまり、「贖罪」は、神によってのみ可能であるからといって、人間に関係なく、ただ神のみによってなされたのでは、確かに可能ではあるが無意味であるから、必然的に、ただ「神にして人間であるもの」のみによって成就されねばならないという新しい重大な「帰結」へ導かれるのである。
                             ( 印具徹著『聖アンセルムス』p.191-192)

どうやら「神にあらざるすべてのものにまさっているもの」という神の存在証明は、アンセルムスを受肉への洞察へと導いているようです。

アンセルムスは聖母マリアについても「神のもとではそれ以上に偉大なものが創造されないほどの純潔さをもって輝いてる」と述べているようで、神の存在証明といわれる命題は、マリアにおいてもその形式で用いられています。

どうやら「神の存在証明」というのは、アンセルムス神学全体を貫いて奥深い神の定義だったのかもしれません。

No.11 - 2015/03/15(Sun) 03:37:32

Re: 神の存在 / トーマス [関東]
神は無限だと言っているのと、どこが違うんだ?
No.10 - 2015/03/14(Sat) 12:25:05

Re: 神の存在 / 中川 [関東]
> それにしても
>
> 「それよりも大いなるものは何ものも考えられ得ざるごときあるもの」
>
> って、どこが神の存在証明なの?


私もわかりません( -_・)?

トマスの神の存在証明とかだともっともらしいけど、アンセルムスのは謎です。
八木先生に研究会の時に聞いてみます。

No.9 - 2015/03/14(Sat) 12:16:37

神の存在 / トーマス [関東]
それにしても

「それよりも大いなるものは何ものも考えられ得ざるごときあるもの」

って、どこが神の存在証明なの?

No.8 - 2015/03/14(Sat) 12:09:39

re:アンセルムス / 中川 [関東]
どうやらアンセルムスは非常に敬虔な人として周りからも慕われていたようですね。

修道院で培われた霊性が彼の神学の源泉にあるようですね。

その意味でも、本当はアンセルムスの理論的な神学にいきなりはいるよりも、時代背景や生い立ち、修道院生活などの下地があってアンセルムスの神学に触れていくのが良いのですかね。

前回の鈴木先生の講義は、それがテーマだったような・・・

No.7 - 2015/03/14(Sat) 12:02:47

アンセルムス / トーマス [関東]
アンセルムスは神学者である前に修道士だったという話を聞いたことがあります。

「それよりも大いなるものは何ものも考えられ得ざるごときあるもの」

というアンセルムスの信仰において与えられた「神の名」のようなものだったようです。

No.6 - 2015/03/14(Sat) 08:36:01

マクグラス著『キリスト教神学入門』より アンセルムスのまとめ1 / 中川 [関東]
どうして悪魔が罪に落ちた人類に対して、何らかの権利などというものを持てるのか、アンセルムスには理解できませんでした。
せいぜい悪魔には人類に対する事実上の権力を持つことが許されたということしか言えない。
それを法的な権威として考えることができないとアンセルムスは考えたのでした。

「アンセルムスの強調点はひとえに神の義に向けられている。神が人間を贖うとき、その方法は神の義の性質と全面的に一致していなければならない。」

そこで、アンセルムスは『何故に神は人間となり給いしか』(Cur Deus homo)において、「受肉の必然性とイエス・キリストの死と復活が持つ救済能力とを証明」しています。

マクグラスが『キリスト教神学入門』でまとめた受肉の必然性とイエス・キリストの死と復活が持つ救済能力の証明は以下の通りです(P.572-573)。

1、神は人類を原義の状態に創造した。その目的は人類を永遠の祝福の状態に与らせることであった。

2、その永遠の祝福の状態は、人間の神への従順に依存している。しかしながら罪によって人類はこの必要な従順を達成できない。これは元来、神が人類を創造したときの目的を挫折させるように見える。

3、神の目的が挫折されられることはあり得ないので、この状況への対策がなければんらない。しかしながら、この状況への対策は罪の贖いがなされることしかない。言い換えれば、人間の罪によって引き起こされた違反が取り除かれる何かがなされなければならない。

4、人間がこの必要な贖いをすることはできない。それに必要なものを欠いているからである。他方、神は供給されている贖いをなすのに必要なものを所有している。

5、「神―人」が要求されている贖いをする(神として)能力と(人間として)義務との両方を備えている。それゆえに受肉が起こったのであり、それは要求されている贖いをなし、人類を贖うためなのである。


『何故に神は人間となり給いしか』(Cur Deus homo)について、以下のようにいっています。

「この著作は最善の形でのスコラ主義に典型的な特色を示している。つまり、理性に訴えること、証明の論理的整理、観念のもつ含蓄の徹底的な探求、そして、キリスト教の福音はその中心において合理的であり、合理的なものとして提示され得るとの根本的な核心が、ここで示されてれる。」(p.76)

No.5 - 2015/03/13(Fri) 15:01:50

印具徹著『中世思想』を参考にしつつ 私なりのまとめ その2 / 中川 [関東]
自由意思について

「無力をもつ」意志であるにすぎない「イマゴ・デイ」としての堕落した人間は、外からの恩寵によってのみ救われます。
「堕落後」の人間は「罪を犯さざるを得ない」(non posse non peccare)立場になったので、そこから解放されて、再び「理性」と「意志」との一致を持つことで自由を回復せねばなりません。
そのために大切なのは「自由意思が恩寵と共に存在すると同時に、また、恩寵と共に働くこと」とアンセルムスはいっています。

印具先生は現代のプロテスタンティズムについて「神に支えられた人間における自由意思による努力」が「軽視され無視され、はなはだしきに至っては否定される場合が多い。」と批判しています。

※たしかに、アンセルムスが受け継ぐところのアウグスティヌスは、神が人を義とするところのその義を、その人の人格に属するものとなるように罪人に与えるのですが、そのために罪人の外にも内にもその起源を持つようになります。しかし、ルターの場合は義は罪人の外にあり続けるために「異なる義」(iustitia aliena)として存在し続けます。

No.4 - 2015/03/13(Fri) 14:20:23

印具徹著『中世思想』を参考にしつつ 私なりのまとめ その1 / 中川 [関東]
アンセルムスの代表作は『何故に神は人間となり給いしか』(Cur Deus homo)と『予知・予定並びに神の恩寵と自由意思との一致について』(De concordia praescientiae et praedestinationis et gratiae Dei cum libero arbitrio)と言われています。

「恩寵」と「自由意思」の問題は、今日に至るまでのキリスト教神学の根本問題でもあります。
アンセルムスは人間存在の状態を「堕落以前」「堕落後」「修復後」に分けて考えているようです。

※アウグスティヌスは「罪を犯すこともできる状態(エデン)」「罪を犯さざるを得ない状態(エデン後)」「罪を犯さないことも可能な状態(新約)」「罪を犯すことのない状態(天国)」と分けていていた記憶があります。

神さまは、創世記1:26で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と言われました。
この「われわれのかたち」というものが、三位一体の「神のかたち」(imago Dei)として問われることになります。

このイマゴ・デェイ(imago Dei)に区分があって、それが「堕落以前」「堕落後」「修復後」です。
本来、「堕落以前」にあってイマゴ・デェイは「意志」(voluntas)と「理性」(ratio)が一致していたのですが、堕落によって「意志」と「理性」が分裂してしまい、理性は神や隣人を真実に認識できずに愛することができなくなり、意志は善に対して「無力をもつ」(impotentiam habere)ようになったといいます。

※この部分はルターやカルヴァンに直結します。意志はその能力を失ったのではなく健全でなくなってしまい、病が蔓延してもやは全てにおいて正しく善をなすことができない状態であるとルターやカルヴァンは理解しています。

「意志」と「理性」が分離された人間は、神の「恩寵のみ」によって再び結び付けられるのですが、ではどのようにして結び付けられるかという問題にあって「何故に神は人間となり給いしか」(Cur Deus homo)というテーマに至ります。

贖罪を為さねばならないのは人間であるがゆえに、神が人間に関係なく贖罪をしても真の意味において「人間の救済」にはならない。
そのために「神であって人間であるもの」つまりイエス・キリストが問われいます。
「神はどこから、また如何にして、人間性を取り入れ給うか。」という重大な問いにはいります。

No.3 - 2015/03/13(Fri) 12:51:54

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