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こんにちは、お久しぶりのベルトランです。 また丁寧に返事をいただきありがとうございます。 また批判的な意見が多くなりますが、申し訳ありません。
まず新コーナーの未発見の「遺体」は何処に?のコーナーの天智天皇の項目についてです。 天智天皇の暗殺疑惑は有名ですよね。 もっともネタ元の『扶桑略記』は平安時代成立の歴史書で、天智天皇の死から時間がたちすぎているため、この本自体は一定の評価をされているとはいえこれだけでは証拠としては不十分すぎます。 天智天皇の享年47歳はこの当時としては若死にとまではいかないでしょうし、大体こういう暗殺疑惑はたいてい実際にはやはり病死だったりすることが多いということを考えると私としてはやはり天智天皇の死は病死ではないかと考えているのですけどね。
あと大友皇子の即位は現在では否定的の意見が有力のようです。 大友皇子は天智天皇の死からわずか半年で自害しており、即位のための儀式は行えなかったと考えられており、また当時は現在などと違い後継者の皇太子がしばらくの間即位せず天皇代理として政治を行う例が結構あったため、わずか半年で亡くなった大友皇子はおそらくまだ即位していないだろうと考えられているからだそうです。
次に織田信長の項目についてです。 阿弥陀寺のエピソードは有名ですね。 もっとも私としてはどうしても現実的にはただの伝説ではないかと思ってしまうんですけどね。
次に新コーナーの刎頸の友のコーナーについてです。 コンプリートおめでとうございます。 ただ史実を調べて見ると、こういうエピソードも後世の作り話も多いんですよね。 たとえば大谷吉継の持病は最近では梅毒であるという説が有力になってきていて、三成と吉継の茶会のエピソードも実際には疑わしいといわれているそうですし。 とはいえ茶会のエピソードが伝説だとしても、三成と吉継の友情は史実でも本物に間違いないでしょうけど。
次に大恩忘れじのコーナーの源頼朝と池禅尼・平頼盛母子の項目についての続きです。 私は歴史として人物を評価する場合、史実における事実を重視します。 私としては、頼朝は平維盛の長男の平六代も助命していますし、意外と寛大な面も平氏一族相手に関しては目立つ気がするんですよね。
劉邦の猜疑心についてですが、樊噲・蘆綰に対する猜疑は英布反乱の討伐で受けた傷がもとで病床にあり死去するまでの間の話で劉邦が正常な状態でなかったことから差し引いて考えています。 少なくとも同時代の劉邦の家臣や蘆綰本人は劉邦が回復したら疑惑は晴れると考えていたようですから。
また蕭何は劉邦が出陣して留守の本拠地を預かっており、やろうと思えばいつでも本拠地を乗っ取れる立場でありました。 油断して裏切られて死んだ信長の例を見れば、このような警戒心は乱世を生きる上でむしろ必要なことでもあります。
彭越誅殺など諸侯王の粛清も、守護大名が強大化して最後には応仁の乱にまでつながってしまった室町幕府の例を考えると、やりすぎでなければむしろ政権を安定させるには必要なことです。 劉邦のような猜疑心は乱世で成功するためにはある程度は必要なものであり、そして明王朝の朱元璋のような例と違って劉邦の猜疑心は晩年の病床にあったわずかな期間を除いて必要限度を明らかに超えたものとは言えないように思います。
次に降伏は幸福か?のコーナーの松永久秀の項目についての続きです。 「朝倉家と事を構える際には事前に浅井家に話を通す。」との約束についてまとめると、そもそも浅井家と朝倉家の同盟が金ヶ崎の裏切りより前には同時代資料において確認できず、織田と浅井との同盟締結の時の情勢を考えると織田と朝倉が直接事を構えること自体同時代目線では予想できないと明らかにおかしく、もう現在では歴史研究者では否定的な意見がほぼ定説となっているようです。
それでは今も一般では浅井家と朝倉家の同盟が広まっているのかというと、浅井家の裏切りの理由が複雑で理解しずらいのも一因のようです。 これは日野富子悪女説も同様で、応仁の乱の事情が複雑で日野富子を諸悪の根源にしておくのが一番わかりやすいからというのも日野富子悪女説が広まった一因のようです。
またそもそも歴史上の人物が何を考えて決断をしたのかを明確に示す資料などたいてい残っておらず、その人物の行動や情勢などをもとに推測するしかなく本当のことなどわからなくて当たり前でもあることは覚えておくべきでしょうね。
次に鎌倉私設軍事裁判のコーナーの乱れた鎌倉時代、そのA級戦犯とは?の項目についての続きです。 大河ドラマで頼朝をやった大泉さんがわしの子孫を皆殺しにしたといったことについてネットで「唯一残った弟を殺したのは息子の頼家で、実朝を殺したのは自分の孫だろう」とツッコミを入れているのを見ました。 確かにその通りでこれらすべてを北条時政など北条一族を諸悪の根源とするのはさすがに理不尽ではと思います。
そもそも平安時代まで地方の武士の争いを平和的に解決する訴訟制度が整っていたわけではなく、これは鎌倉幕府が訴訟制度を整えて初めて話し合いで解決する道が開かれたのです。 鎌倉幕府は初めての本格的な武家政権で、先例に倣うことが室町幕府や江戸幕府に比べると難しく、これを考えると頼朝や時政などをA級戦犯などと批判することには私は否定的です。
私は歴史上の人物の行動の正当性を評価するうえで、敵方のトップの人物の評価をあまり重視していません。 例えば私は足利義輝・義昭兄弟のことをあまり高く評価していませんが、だからといって私は義輝を殺害した三好義継や、室町幕府を滅ぼした信長の行動の評価にあまり影響を与えていません。 私としては室町幕府がもはや末期状況で再建困難だと考えるから三好義継や信長の行動を正当と考えるわけで、この場合義輝・義昭兄弟は将軍とはいえ室町幕府の構成要素の一つと考えるからです。
それは大坂夏の陣でも同様で、豊臣秀頼はかわいそうだと考えたとしても、浪人衆の横暴を抑えきれない組織としての豊臣家をもはや許せないと滅ぼした徳川幕府の行動はやはり正当であると考えます。 この場合も豊臣秀頼はあくまでも組織としての豊臣家の構成要素の一つとして解釈し、徳川幕府の行動の正当性を評価するうえで重要な要素とは必ずしも解釈しないからです。
さて今回はこれまで。 更新を楽しみにしています。 それではまた。
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No.78 2023/03/02(Thu) 23:01:06
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