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こんにちは、お久しぶりのベルトランです。 また丁寧に返事をいただきありがとうございます。 また記事の内容に対する反論も多くありますがご了承ください。
まず新コーナーの末弟考察のコーナーについてです。 私の末弟についてのイメージは末弟本人より、父親が末弟を可愛がるあまり嫡男を排除して末弟を後継者にしようとして内紛を発生させた話がよくあることでしょうか。 あと遊牧民の中には末子相続の伝統のある部族もあるともいわれたり、日本でも戦国以前は母方の血筋も重視されたり、家督相続には様々なパターンがあるので、その立場は一概には言えないという方が本当のような気もします。
次に新コーナーの帰ってきた「菜根版名誉挽回してみませんか?」のコーナーの不肖御曹司編の項目についてです。 ただ伊周さん、本職はあくまでも現代で言えば政治家か官僚なんですから、肝心の政務で結果を出せなければいくら文才があってもフォローにはならない気が私はするんですよね。 また藤原道隆及びその子供達が良くも悪くも家族間の愛情が強かったといっても、むしろそれでかえって家族を不幸にしていたら別に擁護にはならないとも思うんですよね。
また現代とは違う貴族政の時代では貴族の子弟の地位が優遇されるのは、道隆による息子達の取り立て振りみたいに行き過ぎではなければ批判されることではないということは考えなければなりません。 道長の場合、そもそも伊周の他同時期の高官が次々に病没したりして、彼しか政治を主導できる人がいなかったことも影響しています。 実際病気で出家したいと言っているのに却下されて、使者に当たり散らしたという記録もあったり、道長の代わりがおらずなかなか辞職や引退が認められなかったという事情もあったようです。
伊周を復権させるときには、道長は公家たちの反発を抑えるのに苦労していたりと根本的に彼は人望がなかったといえます。 何しろ道長の満月の和歌を記録に残した藤原実資すらも、伊周の復権に不平を記録に残しているくらいですから。 弟の隆家みたいに自らの行いを改めていれば、もっとましな人生になっていたように思えてなりません。
あと藤原隆家に関して言えばこの時代は刀伊の入寇以外には大きな戦乱がなく、彼の武人としての才能を生かす機会が少なかったのも彼が正当に評価されなかった原因のように思います。 まあ彼の場合、長生きして刀伊の入寇という武勲を上げる機会に恵まれて汚名返上の機会に恵まれたのが兄よりは幸運だったかもしれませんね。
次に高師直の項目についてです。 師直の悪評はだいたい太平記などが出典であんまり信用できないんですよね。 石田三成と同じような立ち位置で、嫌われやすい地位でもあったとはいえるかもしれませんね。 実際室町幕府の管領には他にも反対派の策謀により失脚した人は多いですし。
あと高師直の一族には生き残りもいて、師直時代の繁栄を取り戻すことはなかったもののそれ以降も幕府に仕えていて、子孫の一人はは永禄の変で足利義輝と運命を共にしています。 高一族は最後まで足利家に忠義を尽くした一族と言えるかもしれませんね。
次に楠木正儀の項目についてです。 私としては現代では南北朝時代に詳しい人でなければ、そもそも正儀のことを知らないような気もします。 現代では皇国史観の人は多くないですし、彼を知っている人なら彼のおかれた事情についても知っている可能性が高そうなので、案外彼を変節漢扱いする人はあまりいないかもしれませんね。
次に足利直義の項目についてです。 私は別の理由で「尊氏が直義に毒を盛った」という説には否定的です。 確かに高兄弟が没っした丁度一年後に没っしたのは怪しいとはいえますが、逆にそんな怪しい日に毒を盛るか?とも思います。 私がもしも尊氏だったとして、直義を毒を盛ると考えたら高兄弟が没した丁度一年後なんていう怪しまれそうな日は避けると思いますから。
直義は自害かもしれませんが、私としては本当に単なる病気かもとも考えます。 足利一族はあまり長生きの家系でありませんし、直義はこの時もうそこそこの年齢です。 そもそも高兄弟が討たれた丁度一年後に偶然病没する確率は単純に計算すると365分の1の確率で、これは少なくとも宝くじで一等が当たる確率よりははるかに高く、決してあり得ない話ではありません。 そもそも直義は晩年にはかなり行動が消極的になっていて、病状がすでに悪化していたからとも考えられます。 また直義を自害としても、原因は当てつけというより病気で気が弱くなっていたからかもしれませんね。
直義と師直の対立ではやや保守的な直義と革新的な師直との政策の差が原因として大きく、必ずしも師直に一方的に非があったわけでもないですからね。 またそもそも建武政権と同じく恩賞問題がこじれたのも観応の擾乱の大きな原因だったようで、この問題はこの時代解決が難しかったと言えます。
あと後醍醐天皇の建武の新政が武士達を冷遇したというのはいまでは否定されています。 後醍醐天皇は幕府は否定しましたが武士自体はむしろ厚遇しており、武士の不満は恩賞問題や領地問題で混乱を生じたことが大きかったようです。 ただこの辺りは室町幕府でも観応の擾乱のような大きな騒動になっていますからこの時代解決困難な問題であったともいえます。
後醍醐天皇の時代、鎌倉幕府は将軍が傀儡で、執権も傀儡で、得宗も傀儡で、北条家の家臣である御内人が実権を握るというややこしい体制で、これが鎌倉時代末期の混乱を解決できなかった大きな原因だと考えられたことも後醍醐天皇が天皇中心の政治を目指した理由で、後醍醐天皇が「俺様がナンバーワン」でなければ気の済まない性格だったからというわけではないようです。 そもそも鎌倉時代末期の幕府はもはやただ腐敗するばかりであり、これを滅ぼすことが不正義とはいえないでしょう。
またこの時代は従来の政策がいきづまり、現実にあったやり方を手探りで模索しなけらばならない困難な時代でした。 たとえば高師直の武力による強制執行を伴った土地給付の制度も元は建武の新政で始まった制度であり、室町幕府の政策の多くは後醍醐天皇の政策が元になっています。 後醍醐天皇への批判は結局のところ、高師直と同じく太平記などによる実態とはかけ離れたイメージによるものが大きいわけです。
次に足利義詮の項目についてです。 この人はやはり影が薄いですよね。 寿命の短さも大きな要因でしょうが江戸幕府の二代将軍秀忠も影がやや薄いので、二代目のトップってそういう例が多いのかもしれませんね。
次に朝倉義景の項目についてです。 義景は前も言いましたが、加賀一向一揆が背後にいたのと本国越前が雪国で冬になったら撤退しなければならない不利を解決できなかったのが大きいですよね。 上杉謙信や柴田勝家などもこの冬に動きが取れないという問題を解決できませんでしたし、義景は最初から不利だったように思いますね。
次に斎藤義龍の項目についてです。 彼は最近ではむしろ親を討った事よりも当主としての治世に疑問が投げかけられているようです。 前も言いましたが、そもそも桶狭間の合戦の一年後に病没しているために信長の美濃攻めが本格化する前に亡くなっているので、長生きした際にでの程度信長の攻撃に抵抗できたか未知数ですから。
史実で言うと、織田信行や織田信賢などの尾張国内の信長の反対勢力を支援するもののことごとく失敗し、また信長の危機である桶狭間の戦いの際にも何もできませんでした。 また晩年には自分の信仰する禅宗を優遇しようとして、これに美濃の寺院が猛反発して別伝の乱という宗教騒動を引き起こして、義龍の死後に龍興が謝罪して決着しています。
義龍はもしかしたら早く没したおかげで御家滅亡の暗君の汚名を龍興に押し付けることができて、今までがむしろ過大評価されていた部分もあったのかもしれませんね。
次に毛利輝元の項目についてです。 最近では輝元はむしろ自ら積極的に西軍を主導し、関ヶ原の戦いの敗戦後に安国寺恵瓊や石田三成に責任を押し付けて自らは責任を逃れたというのが有力になっているようです。 また前にも言いましたが家康が広家との約定を反故にしたというのも最近では否定され、輝元は関ヶ原に出陣しなかっただけで九州・四国・中国などの西国では積極的に軍事行動を起こしていたため当然の処罰だったというのが有力です。 むしろ今までが美化されていた部分も大きいと言えます。
あと、毛利家はむしろ大幅な領地削減のおかげで存続できたという意見もあるようです。 関ケ原で勝利して加増や領土の維持に成功した東軍大名は意外に後にお家騒動などで改易された例が多いですが、これは改革の機会を失ったという理由も大きいようです。 それに比べて関ヶ原の敗者となり大幅に減封された毛利家や上杉家は否応なく改革を迫られて、藩の近代化に成功し、それに比べて勝者である東軍大名は減封された敗者と違い改革の必然性が低く、お家騒動の原因を残してしまったというわけです。 実は毛利家にとって関ヶ原の敗北による大減封はむしろ幸運だったかもしれませんね。
次に吉川広家の項目についてです。 最近では広家の徳川と通じた行動は輝元の威光に従ったもので、そもそも独断専行ではなかったというのが有力のようです。 どうも輝元は、東軍主力が会津征伐を中止して引き返して岐阜城を攻略したことで弱気になったようです。 したがって関ヶ原の戦いで毛利軍が動かなかったのも輝元の意向に従っただけであり、秀元や恵瓊も同意していたというのが史実のようです。
また輝元はどうも西軍の総大将でありながら、事実上の第三勢力となることを考えていたようで、西軍との交渉役が恵瓊であり、東軍との交渉役が広家であって、広家も恵瓊もあくまでも輝元の意向の範囲内で行動していたようなのです。
あと吉川家の冷遇についてはどうも関ケ原とは関係なく、吉川家の毛利家における立場が原因であるようです。 元春の代に吉川家に養子の入った吉川家は毛利家の一門とはいえあくまでも庶流であり毛利の名を名乗ることのできない立場であり、輝元の元養子で輝元に長男が生まれるまで世継ぎとされていた秀元とはそもそも立場が違い、当時の慣例から考えると秀元が広家よりも優遇されるのは当然で、輝元からすれば吉川家を冷遇しているという意識すらなかったと思われます。
なお熊谷元直の粛清はどうも関ケ原の件よりも彼がキリシタンだったことが原因のようで、同時期に毛利家中で他にもキリシタン関係者が処分されているようです。 吉川家が関ヶ原の件で批判されたのは事実にしろ、親家康派が冷遇されたというのは後世生まれた誤解の可能性が高いというのが現在の主流の説のようです。 またそもそも広家は実は度々問題を起こすトラブルメーカーの面もあったという話もあり、輝元が嫌ったとしても無理がないかもしれません。
またそもそも一部の記録には南宮山の毛利勢の先鋒は安国寺恵瓊の部隊だったという記録もあるようで、そうなると毛利軍不戦を主導したのは安国寺恵瓊であり、吉川広家が親家康で毛利家を救ったという話自体が後世作られた創作エピソードだった可能性すらあります。 実際吉川広家が毛利家を救ったというエピソードの最初に確認できる出典は吉川家の記録ですから、自らの家の正当化のために積極的に嘘をついた可能性は十分にあります。
あと私はもしも南宮山の毛利勢が西軍に味方して東軍を攻撃したらどうなったかを考えたことがありますが、東軍は南宮山の毛利勢への備えとして池田輝政・浅野幸長の有力な二人の武将の合計一万を超える軍勢を配置していましたから南宮山の西軍が東軍に突撃したからと言って東軍が一気に総崩れになったかは疑問です。 現在の説では小早川秀秋の軍が戦闘開始と同時に西軍に攻撃を開始して、関ヶ原合戦が短期間に決着したと考えられていることを考慮すると、池田・浅野の軍勢に防がれている間に石田三成ら西軍主力を撃破した東軍主力に返す刀で撃滅させる可能性も高いのではないでしょうか。 ついでに言うと南宮山の西軍のうち長宗我部盛親は本来東軍に付くつもりが遅れてやむなく西軍に味方しただけで、どこまで戦意があったかは疑わしいです。 もしかしたら南宮山の毛利軍はそもそも密約とか関係なく動くに動けない状態だっただけなのかもしれませんね。
次に新コーナーの屈辱の退位のコーナーについてです。 私は天皇の退位制度は現代で言う内閣不信任決議のようなものだったのだろうと思います。 海外では君主が殺されたり、暗君や暴君が長期間在位して王朝滅亡の原因になったりした例がありますが、日本では天皇が討たれるような事例はほとんどありません。 これは天皇の退位制度のおかげで、天皇が討たれるといった最悪の事態が避けられたことが大きいのではと思います。
だから私は天皇の退位制度については基本的には悪い制度とは考えず、また退位させられた天皇には同情しますが退位させた権力者を必ずしも悪者とは考えません。 実際このコーナーで紹介されている天皇でも何人かは、あまり有能そうではない人物も何人かいますし。 例えば後水尾天皇もこのコーナーで指摘されているように、天皇という立場にもかかわらず遊郭に出入りするなど素行がよかったわけではありませんし。
次に新コーナーの信長の同盟者達のコーナーの徳川家康の項目についてです。 実は松平元康が古巣である岡崎城に戻ったのは、最近では最前線での防衛を理由とした今川氏真自身の指示によるもので、この時点では氏真の命令に従っただけだったというのが真相のようです。 また元康の正室・瀬名については元康と共に岡崎城に戻ったというのが有力だとされるようです。
清洲同盟について築山殿がどう考えていたについては、そもそも戦国の世において仇敵とも時に手を結ぶのは珍しい話ではなく、複雑な思いはあれど仕方ないことは理解していた可能性が高いとのことです。 また実父の関口親永が氏真から切腹を命ぜらたという話については、最近関口親永が切腹したとされる年代より数年後の親永の書状が発見されたためそもそも事実ではないことが判明しています。 また今川氏真自身が織田信長と協調しているのに築山殿が同盟に反発するのは、そもそも今川本家をないがしろにする行為ともいえありえないといえます。
徳川信康の切腹については徳川家臣の一部が信康を旗印に武田家に内通しようとして、それに築山殿が加担したのが原因とするのが有力のようです。 謀反の原因としては、長篠の戦い以降も武田家の攻撃は激しかったことが原因のようです。 天目山の戦い直前に武田勝頼は北条領に攻撃を仕掛けていますがこれは武田方が優勢で、後の展開を知らない当時の人からすれば織田より武田の方が優勢ではないかと考える者がいても不思議ではなかったからのようです。 これも後の歴史を知っているからこそかえって思いつかないことかもしれませんね。
次に浅井長政の項目についてです。 実は義昭が諸国の大名に御内書を送った理由は信長包囲網を形成するためではなく、協力者を増やしたかっただけのようです。 つまり信長だけに頼ることが危険だと考えただけで、信長を打倒する意思はこの時点だはなかったようです。
そもそも信長と義昭の関係は現代で言うと連立与党に近く、例えば長年連立している自民党と公明党だって政策面で対立したからと言って連立解消するわけではないのと同じで、信長と義昭も政策面で対立したからと言ってそれが即信長打倒につながると考えるのが間違いというわけです。 このあたり後の義昭追放から逆算した誤りといえます。
次に毛利輝元の項目についてです。 実は義昭の兄・義輝は毛利家の仇敵である尼子家に守護代の役職に任命したことなどで不満を持っていたこともあり義昭にも必ずしも好意的ではなく、義昭の受け入れに慎重だったのもこれも理由だったようです。 また信長が浦上宗景や但馬山名氏を支援した理由はどうも毛利家に対抗するためというより、単に信長が中国地方の情勢に疎く無神経な対応をしてしまっただけであるようです。 信長の欠点としてはこういう外交上のやらかしが多いことがあるようです。
まあ弁護するなら現代の情報化社会ならともかく、あの当時では仕方ない事でもあったのかもしれません。 現に武田信玄も冬になると雪で本国との連絡路が絶たれる朝倉の事情を知りませんでしたし、彼がこういう失敗があまりなかったのは単に信長ほどの急速な勢力拡大をしなかっただけとも言えるかもしれませんが。
次に「大敗」を検証のコーナーの月山富田城の戦いの項目についての続きです。 大内義隆は実は反大内勢力を次々と撃破し、大寧寺の変の直前には周防大内氏の最大版図を実現しています。 そもそも文弱とか公家の真似事などの彼に対するよくある批判は、わかりやすい例だとかつての今川義元などにもいわれていた結果的に御家を滅ぼしてしまった当主に対するレッテルの定番であるため、大内義隆に限らずこういう批判はあまり信用しない方がよいともいえます。
また彼の官位については、兵部卿は日明貿易で中国側に大内家が日本の代表であることをアピールするために必要とされたものであり、太宰大弐は九州で敵対していた太宰少弐を自称する少弐氏の大義名分を無くすためであり、どちらもある程度の実利を求めてのものであり、織田信秀や徳川家康などが三河守に任官されたのと大して変わりません。
また義隆が文治派重臣を重用したのは腑抜けたからではなく、当主権限の強化が目的だったと現在では考えられているようです。 そもそも陶隆房等の武断派重臣は同時に守護代として場合によっては当主の権力を脅かす存在でもあります。 つまり当主の権力強化を図る義隆と、それに反発する守護代たちという構図だったようです。 しかしこれだけでは武田信玄の父と同じで義隆を引退に追い込むだけで十分なわけで、大寧寺の変のように当主と世継ぎを共に殺害する理由には弱いため、大寧寺の変の原因の一つではあっても主要な原因とはいいがたいわけで
大寧寺の変の原因としては怨恨説もあるようです。 文明14年(1482年)に、隆房の祖父の陶弘護が吉見正頼の伯父の吉見信頼に討たれた事件があり、この事件の背景として応仁の乱で出陣中に留守を守って国政を握った弘護の排除を大内政弘が画策した可能性が指摘されていて、実際犯人である吉見信頼はその場で討たれたものの、遺族は赦免されたうえに後に優遇されました。
また長門国守護代の内藤興盛も、伯父の内藤弘矩とその子弘和が共に大内義興に誅されています。 これにより大内家の重臣である陶・内藤両家が弱体化したために大内義興・大内義隆の二代は当主が主導権を握ることができたのですがこの一件は両家に遺恨を残し最終的に大寧寺の変という形で爆発したというのが怨恨説の概要です。
ただこの怨恨説には弱点もあり、長門国守護代の内藤興盛が変に加担した理由としては有力視されるものの、本来は問田家の出身であり、陶家の養子である陶晴賢がこの事件を遺恨に思っていたのかは疑問が残り、結局変の首謀者である陶晴賢の謀反の動機を説明するには弱く、そもそも数十年も前の話をいまさらとも言えますから結局これも大寧寺の変の原因の一つではあっても主要な原因とはいいがたく、大寧寺の変の原因は研究者によって意見が分かれていて不明なわけです。 本能寺の変が明智光秀の単独犯行説で固まりつつある今、戦国時代最大のミステリーは大寧寺の変かもしれませんね。
次に関ヶ原の戦いの項目についての続きです。 最近はどうも小山軍議自他が実際にあったかを疑う説も出てきたため、この辺りの通説もかなり怪しいようです。 また東軍諸大名が三成を討つべきだと主張したのは上杉討伐が言いがかりだったというより、単に上方を制圧した三成を討たないとまずいという状況判断と考えるのが妥当ではないでしょうか? そもそも武断派が家康に従っている理由は、上杉や毛利と手を結んでいる三成ら奉行衆に対抗するのに家康の力が必要だからであり、上杉討伐が成功すれば三成派の力が低下するため、武断派にもメリットはあります。
また会津征伐の中止が福島正則ら武断派の反対によるものという話は伊達政宗が会津征伐の中止に抗議してきた手紙に弁明として家康が送った手紙にある話であり、これは会津征伐中止の責任を福島正則ら武断派に押し付ける目的があると考えるのが妥当であり、必ずしも無条件で信用していいかも疑問があるようです。 従った上杉征伐に諸大名の多くがが反対していたという話はやはりかなり怪しいと言えます。
次に胡亥と悪宦官・趙高についての続きです。 始皇帝が正常ならば胡亥が12〜15歳で後継者に選ぶことはないでしょうが、秀吉の晩年みたいに暴走していたならあり得るのではないでしょうか。 実際始皇帝の晩年はかなり批判されるような行動も多いですし、衰えも感じられなくもないです。 従って胡亥が12〜15歳で後継者に選ばれたという可能性は十分ありえると思います。
また辺境の守りを命じられた扶蘇の待遇は後継者ではない皇子に多い待遇です。 胡亥が始皇帝の旅に同行が命じられたのは一般的に後継者であることを印象付けるためであることが多く、本来普通に考えれば扶蘇は後継者ではなく胡亥が後継者であると考える方が自然なんですよね。 またそもそも始皇帝には20人近くの男子がいたそうなので、例え胡亥が後継者ではなかったとしても、別に扶蘇が後継者である必要はないんですよね。 したがって扶蘇が後継者だったという話はかなり怪しいと言えます。
あと李斯の評価については、そもそも秦王朝が崩壊した原因の各地の反乱は宮殿と始皇帝陵墓の建設の負担が大きすぎたことですが、これはそもそも始皇帝の時代からの継続で始皇帝の代からの丞相である李斯にも当然責任はあるはずです。 また焚書坑儒などの始皇帝晩年の評判の悪い政策もいくつかはそもそも李斯の発案という話もあります。 こう考えると李斯は功績も確かに大きいものの、滅亡の要因の一つでないとは言えないかもしれません。
次に戦国の鬼達のコーナーの柴田勝家の項目についての続きです。 勝家が秀吉と仲が悪かったかというと私の知る限り同時代の確かな話で秀吉との不仲を示す話を見たことがないのでかなり怪しい気がします。 むしろ本能寺の変の後に秀吉が勝家を討った歴史的事実から逆算して、江戸時代の軍記物で創作された話という感じがするんですよね。
さて今回はこれまで。 更新を楽しみにしています。 それではまた。
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No.391 2024/11/18(Mon) 23:32:49
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