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こんにちは、お久しぶりのベルトランです。 また丁寧に返事をいただきありがとうございます。 また批判的な意見が多くなりますが、申し訳ありません。
まず新コーナーの「殿中」で「刃傷」!のコーナーの豊島明重事件の項目についてです。 この事件、前も言いましたが徳川秀忠が大御所として健在のこの時期に井上正就の婚姻に口を出せるほど春日局の権力が強かったか疑問視する意見もあり、そうなると島田家と井上家の縁談帳消しには春日局は無関係の可能性も否定できず、もしそうだとするとこの事件に無関係な春日局がこの事件に言及していないのは当然かもしれませんね。
次に稲葉正休事件の項目についてです。 この事件はこの項目にもあったように犯人が死亡してしまったこともあって、犯行の動機がよくわからない事件です。 稲葉正休もドラマなどでは商人から賄賂を受け取る悪役人として描かれることもありましたね。 これは将軍綱吉が評判が悪いことも原因でしょうね。
次に松の廊下事件の項目についてです。 喧嘩両成敗って実は家臣同士でのいさかいを武力ではなく話し合いや裁判で解決するために生まれた決まりのようです。 室町時代には、公家が商家に発注した商品の納期をめぐるいさかいがもとで、京都での軍勢同士の市街戦に発展した事件など、殺伐とした事件が多かったためこのような武力衝突を減らす目的があったため、この時代としては必要な決まりでしょうね。 この赤穂事件もそもそも将軍綱吉がきちんとした裁きをしなかったために大事にしてしまった事件といえますし、この事件は武家にとって訴訟がいかに重要かを示しているとも言えます。
あと吉良上野介の人物像についてですが、彼は名君ですがしかし果たして人格者ではあったのでしょうか? 吉良が上杉家家臣から嫌われていたのは史実の記録もあり、吉良家当主としては名君でも、高家としては仕事では優秀でも性格的には人格者ではなかったのかもしれません。 つまり領主としては名君でも、織田家家臣としては嫌われ者であった明智光秀みたいな人物だった可能性も。 討ち入り時の近所の旗本の冷たい態度も、そもそも嫌われ者であったことも影響していたのかもしれませんね。
次に水野忠恒事件の項目についてです。 水野忠恒の処分については刃傷事件が乱心によるものの場合罪一等を減じるのが武家における決まりで、当時の法令としては問題ない裁きだったようですね。 むしろ赤穂事件も本来ならこのように処分されるのが本来は妥当であり、だからこそ討ち入り事件にまで発展してしまったといえるでしょうね。
次に板倉勝該事件の項目についてです。 これもほんとうに人騒がせな事件ですね。 細川家に対する処置については急な災難に対する同情と、そして江戸時代初期と違い幕府も安定して外様大名の脅威も少なく、むしろ大藩を取り潰した場合の浪人の増大や有力大名同士の勢力バランスの変化などのほうが問題であったことなどが大きいでしょうね。 また細川家は外様とはいえ親徳川と考えられ、熊本城が西南戦争の主戦場となったように薩摩藩が万が一謀反を起こした際の抑えが期待されていて、軽々しく改易できなかったとはいえるかもしれません。
次に佐野政言事件の項目についてです。 まあよくわからない事件です。 黒幕説もあるようですが、まあ私としてはやはり特に裏はない可能性が高いとは思いますね。
次に千代田の刃傷の項目についてです。 この事件はどう考えても被害者側に同情の余地はないですね。 加害者に寛大な処分で、被害者に厳しいのも納得としかいえません。
「殿中」で「刃傷」!のコーナーのコンプリートおめでとうございます。 江戸城内において起きた七件の「刃傷沙汰」についてについて総合的に考えると、名誉を現在よりもはるかに重視したことが背景にある気がします。 そういった意味ではやはり現在感覚で評価するのは正しくないのでしょうね。
次に未発見の「遺体」は何処に?のコーナーの明智光秀の項目についてです。 まあ普通に考えるならこの三つの首のうちのどれかが本物なんでしょうね。 まあ信長ファンとしてはいい気味というのが本音でもあるのですが。
次に大谷吉継の項目についてです。 私もこのまま眠り続けてほしいと思う反面、発見されて現代の技術で分析されてほしい気もしてしまうのも本音ですね。
次に明石全登の項目についてです。 これは私としてはおそらく戦死したか、細川ガラシャと同じく家臣に討たせたあたりが現実かなと思いますね。
次に豊臣秀頼の項目についてです。 正直言うと、加藤清正はまだしも浅野幸長、池田輝政、真田昌幸、島津義弘がはたしてそこまで親豊臣だったか疑問な気がします。 浅野幸長、池田輝政は秀次と親しい関係で、秀頼に複雑な感情があってもおかしくないし、真田昌幸、島津義弘に至ってはただ領地を増やしたいなどの思惑があっての西軍加担だったように思えるからです。
方広寺鐘銘事件については、方広寺と同じく秀頼の寄進で造立された東寺金堂の棟札には、鐘銘に類似して家康の名も豊臣の名も入らない「国家太平 臣民快楽」とあり、これを考えても偶然入っただけとは考えにくいようです。 また『本光国師日記』には、鐘銘文の問題の部分さえつぶせばそれでよいとの家康の内意があったともあり、徳川方にも戦争回避の動きが見られます。
また家康は方広寺大仏の開眼供養に出席のため上洛する計画で、また同時に後の禁中並公家諸法度・寺社法度を発布する予定。 そのための資料収集を命じるなど上洛の準備を進めていて、方広寺鐘銘事件は少なくとも最初のうちは徳川方にとっても予定外の事件だったようです。
またこの時代、他の大名家との連絡役を務める家臣を相手に無断で処分することは宣戦布告に等しいこととされていて、徳川家との連絡役を務めていた片桐且元を追放したことで大坂の陣開戦が決定的になりましたが、この追放劇の原因が豊臣家で絶大な権力を持っていた片桐且元に大野治長ら豊臣家臣からの反発が起きたことが原因のようで、浪人衆の暴走を止められなかったことで大坂夏の陣開戦になったのも考えると、最初から最後まで豊臣家内部のごたごたが解決できずに自滅したとしかいえませんね。
最近になって秀頼と比較するのが承久の乱の後鳥羽上皇です。 後鳥羽上皇は承久の乱で敗北したあと味方の武士たちを見捨てて降伏してしまいました。 薄情ではありますし、見捨てられた武士たちからすればふざけんなと思うのもわかりますが、ここで上皇が徹底抗戦していたら京都は完全に焼け落ちていたかもしれませんし、そうなれば三種の神器の残りをはじめ多くの朝廷の宝物も失われてしまったかもしれません。 事実大坂夏の陣では秀頼が蔵一つ残すまで徹底抗戦したために、大阪の街は焼け落ちて多くの民衆も犠牲となり、大坂城に所蔵されていた多くの宝物も失われてしまいました。 薄情でも京都の被害を可能な限り少なくして朝廷の宝物も守った後鳥羽上皇と、潔い最期ではあっても家臣も領民も犠牲にし、所蔵の宝物も失わせた秀頼。 この二人を見ると、家臣や領民や領地を守り新時代を切り開いたりできるのはずる賢かったり、薄情だったりする人で、潔かったり、義理堅かったりする人は結局何一つ守れず、新しい時代を切り開いたりできないんだなと思います。
次に天草四郎の項目についてです。 これについては万に一つの可能性を完全に否定するのも難しいかもしれません。 原城の包囲は海側においては完全ではなく、ここから舟で脱出した一揆勢が少なからずいたとも言われていますから、天草四郎も首の確認に疑問があることも考えれば生存説を完全に否定することもできないかもしれません。 これはほかの武将でも考えられるかもしれません。
家臣が主君の身代わりになった話などは多く伝わっていますし、実は人に知られることなく生き延びた例が全く存在しないとは断言することはできません。 もちろん当時は血液や遺伝子を鑑定する技術もなく、現代ですらスターリンやフセインに実際に影武者がいたり、外見というのは意外とあてにならないものでもありますから。 学者ならともかく私たちみたいなただの歴史好きなら、たまにはこういう生存説を考えてみるのもよいかもしれませんね。
次に辻政信の項目についてです。 私も辻は行方不明の直後に落命したのではという意見には同意です。 死因については、確かに敵愾心を抱いていた者の手に掛かった可能性が高いとも思いますが、場所を考えると虎か毒蛇に襲われ死亡したという説も否定できない気がします。
あと私の辻政信の人物評価についていうと、あるテレビ番組で辻政信の遺族の話が出ていた際、辻政信に過大に責任が押し付けられているのではと言っていました。 いくら辻政信でも巨大組織である陸軍を一人で自由にできたわけでもないのに、辻政信一人を諸悪の根源みたいに主張する人が多いというわけです。 これは確かにその通りで、辻政信に重大な責任があるにしろ彼一人に全ての責任を押し付けるのは正しくないでしょうね。
未発見の「遺体」は何処に?コーナーのコンプリートおめでとうございます。 完全消失の恐怖の話はもっともですが、ここの項目で取り上げられた人の大半はむしろ遺体が見つかってほしくない人たちかもしれませんね。
次に新コーナーの愛妻は一人のコーナーについてです。 愛妻は一人コーナーのコンプリートおめでとうございます。 ただ私は昔の立場のある人物には側室を設けて子供を産むのも義務とも考えるため、子供が正室から生まれればともかく、なかなか生まれなかった場合にはあまり評価できないと考える主義でもあるのですけどね。
次に降伏は幸福か?のコーナーの安部頼時の項目についての続きです。 どうも最近では阿久利川事件は、源頼義の謀略というよりは反安部派の現地豪族の陰謀ではないかともいわれているようです。 源頼義は河内国を根拠地とする河内源氏の出身であり、陸奥国の覇権より陸奥守の任務を大過なく勤めて新たな官位を得ることのほうが重要だったというわけです。 つまりある意味源頼義も本当は騒動を穏便に終わらせて早く都に帰りたかったのに現地豪族の陰謀にだまされて、長期にわたる奥州での戦いを強いられた被害者の側面もあるという説です。 確かに源頼義は朝廷に仕える廷臣の印象も強い人物ですし、源平合戦のころの価値観とはかなり違った価値観で動いている人物ですからありそうな話ではあります。 どうも頼義・義家父子と義家の玄孫・頼朝では武士とはいえそもそも時代も価値観も状況も違いすぎているわけで、同じに考えるのは危険のようですね。
次に降伏は幸福か?のコーナーの松永久秀の項目についての続きです。 浅井と朝倉が同盟関係にあったという話の出どころはやはり江戸時代の軍記物のようです。 まあ歴史書なら浅井長政の裏切りの理由なんてわからないでもいいでしょうけど、歴史小説などの娯楽作品で浅井長政が裏切りました、理由はわかりませんというわけにもいかないというのも理由の一つではないかと思います。 また浅井家はむしろ裏切りを繰り返した、史実を見ると松永久秀よりよほど裏切り者の印象の強い家で、信長擁護派からみても史実寄りに描くと、なんでそんな奴信じたというようになってしまいます。 つまり史実通りに描くと信長がおろかに見えてしまうわけで、信長擁護派にとっても、浅井家擁護派にとっても浅井家と朝倉家の同盟を浅井長政の裏切りの理由にしておくのが都合がよかったとはいえるかもしれません。
次に偉人達の親のコーナーの藤原兼家の項目についてです。 藤原家の権力が飛鳥時代後半には既に確立していたとありますが、これに私は疑問です。 藤原家は壬申の乱の際に一度失脚、藤原不比等は完全に自らの実力で出世した人物です。 つまり藤原家の権力が飛鳥時代後半には既に確立していたというのは後世から見てそう見えるだけで、実際にはかなり紆余曲折あったわけです。
また安和の変で源高明が失脚した件についても、当時の藤原氏の要人たちには天皇の外戚でなかったり、年を取りすぎていたり、逆に若すぎて官位もそれほど高くなかったり、積極的に源高明を追い落とす理由がある人物が見当たりません。 むしろ藤原氏内部の権力闘争に、藤原氏とも縁戚でもある源高明が巻き込まれて発生した事件という説もあったりと、藤原氏の陰謀説は安和の変の原因の中の一つの説でしかないことには注意すべきでしょうね。
新作「「大敗」を検証」についての感想などほかにも書きたいことはありますが、間が空きすぎてこれ以上書くと長くなりすぎるので、今回はこれまで。 更新を楽しみにしています。 それではまた。
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No.165 2023/11/02(Thu) 23:56:33
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