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菜根道場BBS THE V
何でもお気軽に書いていってくださいね。
秘宝の行方 / なめどり
お久しぶりです。新しい掲示板見つかって良かったですね。

仮面ライダー6,7話は見ていても初めての遠方ロケで気合が入っているな、というのが伝わってきますね。
バイクで階段を上ったりとか。

仮面ライダーが棺に入って待ってたのは気合いが入りすぎてしまったのでしょう(笑)。

視聴者は皆秘宝が何なのか知りたかったと思いますが、金塊等なら海に沈めても埋蔵金探しの人とかが狙いそうだし、科学技術とかオカルト系の品かも?

No.9 2022/09/20(Tue) 10:25:00

Re: 秘宝の行方 / シルバータイタン
> お久しぶりです。新しい掲示板見つかって良かったですね。
 ありがとうございます。例によって返信が遅くなって申し訳ないです。

>
> 仮面ライダー6,7話は見ていても初めての遠方ロケで気合が入っているな、というのが伝わってきますね。
> バイクで階段を上ったりとか。

 殺陣に力が入っていたのは本当に感じましたね。
 バイクでジャンプしているシーン等をスローで見ると残念ながら藤岡弘氏が演じていないのが分かるものもみられますが、個人的には本郷猛がローラーコースターの上から一瞬の微笑みの後に戦意を漲らせて飛び降りたシーンが一押しです。

>
> 仮面ライダーが棺に入って待ってたのは気合いが入りすぎてしまったのでしょう(笑)。

 密閉空間でいつ掘り出されるか分からない状況で維持されたものだとしたら、凄まじい気合でしたね(笑)。

>
> 視聴者は皆秘宝が何なのか知りたかったと思いますが、金塊等なら海に沈めても埋蔵金探しの人とかが狙いそうだし、科学技術とかオカルト系の品かも?

 個人的には核兵器をも凌駕した凶悪兵器に関する科学技術情報とその材料かと思います(情報だけなら燃やせばいいので)。
 第二次世界大戦末期、原子爆弾を使用したのはアメリカだけでしたが、研究・開発は日本もドイツも行っていましたので(ウランが無くて頓挫しましたが)。

 ちなみにある知り合いは、「海に捨てた」のキーワードから、「大魔王を封じ込めた電子ジャーじゃねぇか?」等と訳の分からないことを云っていました(苦笑)。

No.12 2022/10/05(Wed) 16:28:08
大阪と特撮 / ab
2014年に亡くなられましたが、「石田一」(いしだはじめ)という方がいらっしゃいます。
日本初の西洋ホラー映画雑誌の編集長だったとかで、その後も西洋のホラーやSFに関する執筆をなさってた方でした。

この方が98年に世に出した「斬魔京都変」という全1巻の小説があります。
クトゥルーやら日本の陰陽師やら西洋のモンスターやら、もう色んなオカルト・ホラーネタをまぜこぜにした小説でした。
日本の特撮にも詳しい方だったようで、主人公の名前が「佐原明彦」という、どこかのヘリパイロットと博士を組み合わせたような名前でした。
また作中でギリシャ神話のヒドラの話題に対し「ヒドラってウルトラマンの怪獣じゃなかった?」というセリフが出たり、陰陽師が式神を操っていたという話題には「カプセル怪獣みたいで便利そう」というセリフが出たりしていました。

で、タイトルの通り舞台は京都なんですが、主要キャラの1人に大阪人のオッサンが1人いて、この人がとにかくウザい人物として描かれてます。
他の人の話にいちいち合いの手入れたり、同行者の女性にセクハラしたり、京都料理を「大阪料理と違って食った気がしないからダメだ」と罵ったり。
そしてなぜか主人公の佐原君が、そのたびに「大阪人は皆こうなのか」「これだから大阪人は!」と、なぜかオッサン個人ではなく大阪人全体を悪く言いたがるんですよね。
実際はオッサンもウザいだけの人ではなく、険悪な雰囲気の2人に飲み物を奢って場を和ませたり、善良な一面もあるんですが、それでも佐原君は評価を改めず「大阪人は、大阪人は」と罵り続けます。

そして物語後半、真っ先に実にあっさりとオッサンは悪役に殺されます。
またこの小説は01年にプレステ1で「魔紀行」というタイトルでゲーム化されたんですが、そのゲーム独自のストーリーでも1人だけ殺されたりします。

…作者やゲーム会社は大阪に恨みでもあるのか?と思えるほどですが、実は作者は大阪出身で、ゲームの開発元も大阪の会社でした。「ビリケンソフト」って言う名前の…。

ではこのオッサンの扱いはいったい何だったんでしょうか……?

No.8 2022/09/18(Sun) 20:21:13

Re: 大阪と特撮 / シルバータイタン
abさん、お久し振りです。
 相変わらず返信が遅くなりまして申し訳ないですが、新規の当BBSでも宜しくお願い致します。

> 2014年に亡くなられましたが、「石田一」(いしだはじめ)という方がいらっしゃいます。
> 日本初の西洋ホラー映画雑誌の編集長だったとかで、その後も西洋のホラーやSFに関する執筆をなさってた方でした。

 全然知りませんでした(苦笑)。

>
> この方が98年に世に出した「斬魔京都変」という全1巻の小説があります。
> クトゥルーやら日本の陰陽師やら西洋のモンスターやら、もう色んなオカルト・ホラーネタをまぜこぜにした小説でした。

 何か、様々な伝承に通じていないと堪能し辛そうですね(苦笑)。

> 日本の特撮にも詳しい方だったようで、主人公の名前が「佐原明彦」という、どこかのヘリパイロットと博士を組み合わせたような名前でした。
 はあ、「健二」と「平田」ですか………(笑)。

> また作中でギリシャ神話のヒドラの話題に対し「ヒドラってウルトラマンの怪獣じゃなかった?」というセリフが出たり、陰陽師が式神を操っていたという話題には「カプセル怪獣みたいで便利そう」というセリフが出たりしていました。
 ポケモンがカプセル怪獣に準えられる声は偶に聴きますが、陰陽師の式神に準えるとは………。

>
> で、タイトルの通り舞台は京都なんですが、主要キャラの1人に大阪人のオッサンが1人いて、この人がとにかくウザい人物として描かれてます。
> 他の人の話にいちいち合いの手入れたり、同行者の女性にセクハラしたり、京都料理を「大阪料理と違って食った気がしないからダメだ」と罵ったり。

 大阪人の中に、時折関東、取り分け東京に異常な対抗心や嫌悪感を示す人がいますが、それ以上に困ったキャラですね。

> そしてなぜか主人公の佐原君が、そのたびに「大阪人は皆こうなのか」「これだから大阪人は!」と、なぜかオッサン個人ではなく大阪人全体を悪く言いたがるんですよね。
 健二君………じゃなかった(苦笑)、佐原君もオッサンと同じ穴の狢ですかな?

> 実際はオッサンもウザいだけの人ではなく、険悪な雰囲気の2人に飲み物を奢って場を和ませたり、善良な一面もあるんですが、それでも佐原君は評価を改めず「大阪人は、大阪人は」と罵り続けます。
 オッサンを認めないだけならまだしも、すべての大阪人を一緒くたにするのは感心しませんね。
 暗い例を持ち出せば、「宇宙人は宇宙人であることが悪なのだ!」との念が充満していた「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」に出て来た分からず屋どもを思い出してしまいます。

>
> そして物語後半、真っ先に実にあっさりとオッサンは悪役に殺されます。
> またこの小説は01年にプレステ1で「魔紀行」というタイトルでゲーム化されたんですが、そのゲーム独自のストーリーでも1人だけ殺されたりします。

 1人だけ………ひどいですね………。

>
> …作者やゲーム会社は大阪に恨みでもあるのか?と思えるほどですが、実は作者は大阪出身で、ゲームの開発元も大阪の会社でした。「ビリケンソフト」って言う名前の…。

 時には生まれ故郷を憎む人も存在しない訳ではないですが、そんな粋な会社名を付けながら地元を貶し続けた要因には何があったのでしょうか?
 私も大阪人として、大阪の好きなところもあれば、嫌いなところもあります。
 当道場の戒めるところでもありますが、やはり極論は戴けませんね。

>
> ではこのオッサンの扱いはいったい何だったんでしょうか……?

 地元に対する嫌な想いへのスケープゴートだったのでしょうか?

No.11 2022/10/05(Wed) 16:22:08
このサイトの戦国房についての感想 / ベルトラン
こんにちは、お久しぶりのベルトランです。
また丁寧に返事をいただきありがとうございます。
また批判的な意見が多くなりますが、申し訳ありません。


まず新コーナーの降伏は幸福か?のコーナーについてです。
「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」の戦陣訓は日清戦争の際の訓令が原型といわれ、清国軍の捕虜の扱いの残虐さが原因のようで、そう考えると日本陸軍がロシア・中国など捕虜の人道的な扱いが期待できない相手を仮想敵国としていたことがこういった日本軍が玉砕に走った遠因かもしれませんね。

「バターン死の行進」については日本軍の捕虜後送計画に問題があったのは事実のようです。
しかし米比軍がバターン半島へ移動する際に食料を移動させるのを怠り、難民も抱えて食料不足に陥ったにもかかわらずマッカーサーが脱出する際に必ず援軍を送るから徹底抗戦するよう指示したために体力の限界まで抵抗して、米比兵が体力を消耗していたことも大きな理由のようです。
まあ日本兵による虐待や処刑などの非人道的行為があったのも事実で人道上の批判もやむおえませんが、マッカーサーら米軍の問題を糊塗するために日本軍ばかりを叩いているのも事実のようです。
実際米兵の生き残りはマッカーサーにも複雑な思いを抱いていたようですし、勝てば官軍の典型例ともいえるかもしれませんね。


次に安部頼時の項目についてです。
確かに安部頼時は可哀そうですね。
最も私は謀略や政略も必ずしも否定しない立場ですから源頼義をあまり批判するつもりもないのですが。


次に顕如の項目についてです。
実は本願寺の蜂起の際の本願寺幹部の書状に信長に味方する義昭も敵とあるため、最初の蜂起は別に御内書に応じたわけではないようです。
ではなぜ蜂起したかというと、本願寺は三好三人衆に優遇されていたため三好三人衆が勝利した方が利益になると考えたというのが有力のようです。
正直かなり身勝手な理由のような気もするため、あまり好感が持てないのが本音です。

私は一向一揆が好きではないので、本願寺の東西分裂もむしろいいことだとしか思わないのが本音ですね。
むしろ本願寺の力が低下したことは日本にとっていいこととしか思えませんから。


次に松永久秀の項目についてです。
信長の浅井との盟約については実在が怪しいようです。
というのも浅井と朝倉の同盟自体が裏切り前には同時代資料に確認できず、それから百年後に記された浅井三代記という軍記物が初出展であること。
さらに言うと、織田と浅井との同盟締結は信長の美濃攻略前であるため、そもそもこの時点では尾張の大名に過ぎなかった織田家が朝倉家が戦うことを想定した盟約が不自然で、普通に考えると信長が天下人になることを知っている後世の人の創作と考えるのが最も自然だからです。

では浅井の裏切りの理由はというと、本来の北近江守護の京極氏の復帰問題が原因というのが有力です。
義昭は幕府再建のため三管領家の復興を考えていたようで、細川家と畠山家そして斯波家の代わりに織田家をというプランだったようです。
つまり信長を管領にという話は単に信長へのお礼というだけではなく、三管領家の復興計画があったようです。
そして侍所の長官を務める四職の復興も考えていてその一つが北近江守護の京極氏です。
信長は京極氏を北近江に復帰させるといっても名目上で、別に実質的な支配権は従来と同じく浅井家に任せるつもりで、別に浅井家に京極氏へ領地返上させるつもりであったわけではなかったようですが、浅井家からはそれでも不満だったようです。
とはいえこれはそもそも義昭が原因といえ、浅井・朝倉はこの時期は義昭とも明確に敵対しています。

松永久秀の最初の裏切りでは、久秀は筒井や和田など義昭に味方する武将と激しく交戦、義昭も御所で松永軍の首実検をするなど久秀と義昭が激しく敵対していたことが伺えます
その後久秀は義昭と和睦し信長と対峙するのですが、義昭と和睦後はほとんど兵を動かさず結局最初の裏切りでは信長軍との直接対決はありませんでした。
久秀の最初の裏切りは信長を裏切ったというより、義昭を裏切ったという意味合いが強かったようです。
ちなみに松永久秀が領民たちから嫌われていたという話は興福寺などの寺社の記録で、久秀は大和の領主として寺社と対立して大和の寺社から嫌悪されていたため悪評の事実性には疑問もあることには注意すべきでしょうね。
そういった意味では私はもう今では松永久秀に悪い印象は全くないですね。


次に足利義昭の項目についてです。
第一次信長包囲網は実は義昭包囲網という意味合いも強く、外交手腕にさえも最近では疑問が付き最近では義昭の評価は下がる一方の感があります。
人格的にも厳しく言えば、後白河法皇や後醍醐天皇の方がまだしも人間的なエピソードがあり、評価すべき点は根性くらい。
大河ドラマや歴史漫画の悪評もしかたないといえます。


次に島津義久の項目についてです。
まあ時代の流れですね。
その後の内部対立などの動乱を乗り切れたのは義久の判断と幸運の両方が理由でしょうか?


次に北条氏直の項目についてです。
氏直は当主として主体的に行動できる前に家が滅亡してしまい、その上赦免された直後に病死と不運であったとしか言えませんね。


次に徳川慶喜の項目についてです。
私は前にも言いましたが、古い体制を廃して新しい時代を切り開くことは正しいとする立場をとっていますので、大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視などの策動を批判しない立場です。
慶喜にも自らの行動により敵を増やしてしまった部分もあり、またずるがしこい部分もなかったとはいえず、政治家としては仕方ない点も多いにしろそれは大久保・西郷・岩倉にも言えることと考えていますから。


次に鎌倉私設軍事裁判のコーナーの鎌倉幕府滅亡の項目についてです。
最近では北条高時は従来言われていたほどひどくはなかったらしいそうですね。
北条高時の乱行とされていたものはむしろ北条貞時の晩年のエピソードが元のようです。
また長崎高資ら北条得宗家御内人たちも従来言われるよりは有能だったようです。
ただ事なかれ主義がはびこり、鎌倉時代末期に抱えた大きな問題に思い切った対応ができなかったことは事実のようで、これが鎌倉幕府滅亡の大きな要因になったようです。
ただしこのコーナーでも取り上げた多くの政変で疲弊した北条一族や幕臣たちが事なかれ主義の走るのはやむおえないのも事実で、北条高時や長崎高資ら北条得宗家御内人たちの個人の責任とするのは酷のような気がします。
むしろもはや鎌倉幕府は寿命だったというのが滅亡の原因でしょう。


次に乱れた鎌倉時代、そのA級戦犯とは?の項目についてです。
私は北条時政と後嵯峨天皇がA級戦犯とはあまり思えないのです。
北条時政はむしろ鎌倉時代の動乱の原因というより、時代の混乱によりこういった悪事に走ったのではと私は考えるからです。
後嵯峨天皇については、彼は鎌倉幕府滅亡と南北朝の動乱の原因ではあっても鎌倉時代の動乱の原因ではないのではと考えます。

鎌倉時代の動乱の原因としては私は、源頼朝の急死により二代将軍頼家との継承がうまくできなかったことの方が大きかったのではと思います。
とはいえ寿命ばかりはどうしようもなく、運がなかったとしか言えませんが。


次に怪僧大集合コーナーの沢庵……紫衣事件はどこまで脅威だったのか?の項目についての続きです。
私はこういった事件では君臣の道よりもどちらの方が正しいかを重視します
紫衣は仏教における名誉であるため、簡単に授与できるのはおかしいと考えると、三〇年以上の修業というのも必ずしも理不尽とは言えないでしょう。

また沢庵の云い分である
「悟りとはそも、電光石火の如くやってくるもので、修行の年数や公案の数による物ではない。」
というのはある意味名門出身者や金持ちに有利です。
なにしろ悟りなんて目に見えない不確かなものですから、名門出身者が私は悟りを得たと主張して逆らえる人は少ないでしょうし、金持ちの賄賂による紫衣授与も考えられます。
しかし修行の年数や公案の数という明確な基準を決めればある程度の公平さが保たれますから。

紫衣の没収は法度を制定した後のもののみですので、事後法ではないのでは?
また後から定めた法律を過去に遡って適用・処罰することは法律の世界では御法度というのは実は絶対ではありません。
たとえば戦後日本で大きな火災で大量の犠牲者が出た事件が相次ぎましたが、これは消防法を改正しても改正前に建築された建造物には適用できなかったことが原因で、ついに公共性の高い建物については過去に建造したものであっても現在の基準に適合させるよう義務付けられました。
つまり遡及適用の禁止という原則に対する例外は現代日本にさえあるわけです。

厳しいことを言うと沢庵はただのご意見番ではとも思います。
歴史上の功績で言えば江戸時代の天下泰平に貢献した金地院崇伝の方がはるかに大きいように私には思えるんですよね。


次に恐妻家列伝のコーナーの源頼朝の項目についての続きです。
吾妻鏡が北条氏のプロパガンダ史書というのは事実ですが、必ずしもそれだけではない部分もあることは注意が必要です。
北条氏に都合の悪いとこが改変されているのは事実にしろ、北条氏の不名誉な話も結構記されているからです。
例えば亀の前事件なんてそもそも詳細に記す必要ないのでは。
北条政子にとっても名誉な話でもないですし、亀の前が鎌倉幕府の歴史上重要な人物というわけでもないですし、適当にごまかしてもよいはずですがそうしていません。
吾妻鏡は決して北条氏の偉大さを過剰に誇張した内容とは言えず、また政治的な理由というより話を面白くするための誇張表現(これは前も言いましたが、武家の記録に大体見られるものです)も多く、改変が必ずしもプロパガンダのためとは限らないことも注意が必要でしょう。

大姫の悲劇にしても、1194年8月に公家の一条高能との縁談の際大姫が「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と拒絶したエピソードもありますが、翌年2月に政子と大姫・頼家らの子女を伴って上洛し大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていることを考えると、この時期すでに頼朝は大姫の入内を考えていたはずで、時期的にも中級貴族でしかない一条高能との縁談の存在自体疑わしいです。
こういったことからも大姫の悲劇は事実性がかなり怪しいと言わざるを得ません。


次に足利義政の項目についての続きです。
保元の乱は鳥羽上皇の路線を受け継ぐ主流派に、非主流派である崇徳上皇らが異議を申し立てたのがきっかけで、そもそもこの時後白河天皇が天皇親政を主張したなんて話聞いたことがありません。
そもそも後白河が院政を否定したという話はどこから来たのでしょうか?

また後白河天皇に譲位しないという選択肢はなかったと思います。
この譲位は美福門院と藤原信西の協議によるものであり、後白河天皇の意思によるものではないからです。
二条天皇は父である後白河天皇とは対立していたため、後白河天皇が自分の意思で決定できるならこの譲位は絶対にしたくなかったはずです。
本当に二条天皇が崩御する前の後白河院はもう一人の崇徳上皇で、だからこそこの時期の後白河院の行動にを過大に批判すくことは酷だと考えるのです。

二条天皇が崩御した後の行動は自らの意思で行っていたので批判もやむえおないですが、平家は本来二条天皇親政派でそもそも対立派閥であり、木曽義仲は都での行動に問題がありすぎました。
源義経の要求による頼朝追討院宣については義経に脅迫されたとの記録があり、義経の脅迫に屈したのが実情のようです。
とはいえ木曽義仲と対立して御所を焼かれて息子を失った後白河院としては、義経の脅迫に屈するのもやむおえないとはいえます。
他人事だから批判できますが、少なくとも私が後白河院の立場になって義経の脅迫を拒否できる自信はないので、頼朝追討院宣については過大に批判することは酷だと考えるのです。

また院政の時代は中級・下級の公家や武士など、これまで出世の可能性のなかった身分の人々に出世のチャンスが生まれるなど新しい潮流の生まれ始めた時代でもあり、藤原信西も本来なら政治に大きな影響を与えるような地位に就くことのできない身分です。
私はそういった院政の時代の良い部分も一定の評価をしているからこそ、院政に過大な批判はしないのです。

そもそもどんな政治体制でも崇徳上皇みたいな不遇な人は出るもので、崇徳上皇は可哀そうな人ですがそれは結局個人の悲劇にすぎませんし、それだけをもって院政の制度そのものを完全に否定するのはただの判官びいきであり、正しい歴史の見方ではないと思います。


次は柱石逝きて後……のコーナーの平重盛の項目についての続きです。
平家は本来二条天皇親政派でそもそも後白河院の政敵な上、鹿ケ谷事件も最近では冤罪というのが有力で、高倉天皇が即位後は後白河院は用済みとばかりに粗末に扱っていたのが肝心の高倉天皇の崩御により後白河院が主導権を回復して平家は宮中で孤立と、まあ後白河院からすれば平家を嫌うのも当然な状況でその上各地で反乱ではどうしようもなかったかもしれませんね。


次はチョット待て!その呪詛おかしくないか?のコーナーの菅原道真の項目についてです。
道真が左遷された昌泰の変の原因には宇多上皇と醍醐天皇の対立があったと考えられています。
そして道真は宇多上皇との関係が深い人物で、右大臣という地位からも醍醐天皇にとっても目障りな人物ではあり、単に時平の讒言ではなく時平と醍醐天皇は共犯に近い関係というのが現在は有力なようです。
左遷後の道真の言葉として、「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった」との記録もあり廃立計画は実在した見解もあり、道真が完全な冤罪ではないとの見解があることへも注意すべきでしょう。
斉世親王を娘婿にしていた道真には野心があったのではないかという見解もあり、菅原道真は人格的にはかなり美化されている可能性も高いです。

藤原時平は政治改革に意欲的で最初の荘園整理令を出すなど決して単に藤原氏だけの繁栄を追求する人物でもありません。
また道真と時平は本来父菅原是善の時代から親交があり、度々詩や贈り物を交わす関係で、時平は極楽寺を定額寺とするための願い状の代筆を依頼するなど文章家としての道真を高く評価していたことを考えると、時平にも相応の事情があったと考えるべきでしょう。

総じていうと、藤原氏の他氏排斥事件の裏には皇族同士の争いなど時の天皇の意向も大きく関係していたようです。
そう考えるとやはり藤原氏を過大に悪党扱いするのもどうかとは言えます。


次に裏切り者の譚詩曲のコーナーについての続きです。
私も体力・運動神経・身体能力で幼少の頃から人に大幅に劣っていたので気持ちはわかります。
私が歴史を見るうえで公平性を重視するのは、成長して今川氏真を見直したからというのが大きいです。
情けないといわれながらも家や家族や家臣を守った今川氏真こそが本当は立派ではと思うにしたがって、逆に豊臣秀頼はただ己のプライドで無益に家臣や領民を戦争に巻き込んで家や家族も守れなかったのも事実で少なくとも手放しで擁護できる存在ではと考え始め、調べてみれば見るほどその考えを肯定する情報ばかりも出てきて、従来の判官びいき的考えに疑問が出てきたのが大きいです。
足利義輝・義昭兄弟など調べれば調べるほどダメな部分ばかり出てきましたし。

また歴史における正義とは権力を獲得した手段ではなく、どのように行使したかではないか?と考え始めたのも大きいです。
だからこそ、歴史で最も重視すべきは歴史の結果と敗者の敗因だと考え始めたわけです。
実際のその時代に生きる庶民にとっては、正当な暗君・暴君よりも卑劣な手段で権力を獲得した名君の方がありがたいでしょうから。

さて今回はこれまで。
降伏は幸福か?のコーナーの更新を楽しみにしています。
新しい掲示板でもよろしくお願いします。
それではまた。

No.3 2022/09/10(Sat) 21:44:47

Re: このサイトの戦国房についての感想 / じお
あなたの投稿はいつも文章が長すぎます。
もう少し文章を要約しましょう。
読み手も疲れている時などにこの投稿を見たらウンザリしますよ。
投稿ボタンを押す前に「これを読んだ人はどう思うか」を一度考えましょう。

No.4 2022/09/14(Wed) 19:26:54

Re: このサイトの戦国房についての感想 / 薩摩守
> こんにちは、お久しぶりのベルトランです。
> また丁寧に返事をいただきありがとうございます。
> また批判的な意見が多くなりますが、申し訳ありません。

 BBS休業状態を一ヶ月程作り、尚且つ公私の多忙にかまけてこちらこそご無沙汰しました。
 例によって「批判的な意見」、大歓迎です。

>
> まず新コーナーの降伏は幸福か?のコーナーについてです。
> 「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」の戦陣訓は日清戦争の際の訓令が原型といわれ、清国軍の捕虜の扱いの残虐さが原因のようで、そう考えると日本陸軍がロシア・中国など捕虜の人道的な扱いが期待できない相手を仮想敵国としていたことがこういった日本軍が玉砕に走った遠因かもしれませんね。

 元は、助かる見込みがないから、筆舌に尽くし難い拷問や虐待に遭うぐらいなら、潔く戦陣に果てよう、との考えから来たと云う事でしょうか?
 分からなくはないですが、すべての敵兵をそう見たり、自分達の価値観を敵国兵や民間人に押し付けたのはやはり感心しませんが。

>
> 「バターン死の行進」については日本軍の捕虜後送計画に問題があったのは事実のようです。
> しかし米比軍がバターン半島へ移動する際に食料を移動させるのを怠り、難民も抱えて食料不足に陥ったにもかかわらずマッカーサーが脱出する際に必ず援軍を送るから徹底抗戦するよう指示したために体力の限界まで抵抗して、米比兵が体力を消耗していたことも大きな理由のようです。

 状況的に捕虜を救い切れなかったと云う事でしょうか?

> まあ日本兵による虐待や処刑などの非人道的行為があったのも事実で人道上の批判もやむおえませんが、マッカーサーら米軍の問題を糊塗するために日本軍ばかりを叩いているのも事実のようです。
> 実際米兵の生き残りはマッカーサーにも複雑な思いを抱いていたようですし、勝てば官軍の典型例ともいえるかもしれませんね。

 マッカーサーもなかなか人物像が掴み難いですね。戦後日本に進駐したGHQのトップとして日本の復興や、戦前の悪しき因習を打破するのに貢献したのも事実なら(だからこそ、彼の帰国時には20万人の日本人が見送りました)、占領下の日本人に数々の屈辱を与えたのも事実です。
 個人的には朝鮮戦争において原子爆弾を落としまくるつもりだったことを知った時には顎を落としました。
 まあ、それでも彼の総てを批判しようとは思いませんし、フィリピンを離れた時の彼はまだまだ未熟だったのかもしれません。

>
> 次に安部頼時の項目についてです。
> 確かに安部頼時は可哀そうですね。
> 最も私は謀略や政略も必ずしも否定しない立場ですから源頼義をあまり批判するつもりもないのですが。

 謀略を仕掛けられた側に立ったら、堪ったものじゃないと云う話です。純粋大和民族だった藤原経清が岳父とはいえ、夷狄である筈の安部氏に加勢したのが総てと私は見ています。

>
> 次に顕如の項目についてです。
> 実は本願寺の蜂起の際の本願寺幹部の書状に信長に味方する義昭も敵とあるため、最初の蜂起は別に御内書に応じたわけではないようです。
> ではなぜ蜂起したかというと、本願寺は三好三人衆に優遇されていたため三好三人衆が勝利した方が利益になると考えたというのが有力のようです。
> 正直かなり身勝手な理由のような気もするため、あまり好感が持てないのが本音です。

 本願寺と三好三人衆の関係について、私の知識も考察も不充分だったようですね。参考になりました。

>
> 私は一向一揆が好きではないので、本願寺の東西分裂もむしろいいことだとしか思わないのが本音ですね。
> むしろ本願寺の力が低下したことは日本にとっていいこと

としか思えませんから。
 平安末期から戦国時代にかけて、下手な大名よりも力を持った武装集団だった寺社勢力が江戸時代以降平和な宗教組織となっているのは織田信長が大鉈を振るったからだと云うのは、信長嫌いの私も認めています。
 東西の分裂に関しては、完全な統合は無理でもいつか和解して欲しいとは思います。まあ、それを云い出せば仏教そのものが分裂しまくりですが(苦笑)。

>
> 次に松永久秀の項目についてです。
> 信長の浅井との盟約については実在が怪しいようです。
> というのも浅井と朝倉の同盟自体が裏切り前には同時代資料に確認できず、それから百年後に記された浅井三代記という軍記物が初出展であること。

 同盟が怪しいとなると信長が長政の「裏切り」に激怒したのは分かりますが、その後の浅井・朝倉の共闘振りとの整合性が付かない気がします。

> さらに言うと、織田と浅井との同盟締結は信長の美濃攻略前であるため、そもそもこの時点では尾張の大名に過ぎなかった織田家が朝倉家が戦うことを想定した盟約が不自然で、普通に考えると信長が天下人になることを知っている後世の人の創作と考えるのが最も自然だからです。
 織田家と朝倉家はともに有力守護大名で尾張と越前を支配していた斯波氏の家来筋で、それが下剋上で各々現地を支配した経緯から、斯波氏との関連から両者は最初から不仲だったと聞いています。
 となると、織田と同盟する以上、隣国である朝倉との関連は多少は考慮していて然るべきと考えますが、如何でしょう?

>
> では浅井の裏切りの理由はというと、本来の北近江守護の京極氏の復帰問題が原因というのが有力です。
> 義昭は幕府再建のため三管領家の復興を考えていたようで、細川家と畠山家そして斯波家の代わりに織田家をというプランだったようです。
> つまり信長を管領にという話は単に信長へのお礼というだけではなく、三管領家の復興計画があったようです。

 地盤を持たなかった義昭が三好三人衆と対抗する為にもそう考えたのは充分納得出来ます。

> そして侍所の長官を務める四職の復興も考えていてその一つが北近江守護の京極氏です。
 京極氏並びに四職については詳しくありません。浅井家滅亡後、秀吉が何かと京極家に気を使っていたこととも併せて研究する必要がありそうですね。

> 信長は京極氏を北近江に復帰させるといっても名目上で、別に実質的な支配権は従来と同じく浅井家に任せるつもりで、別に浅井家に京極氏へ領地返上させるつもりであったわけではなかったようですが、浅井家からはそれでも不満だったようです。
 既得権益に執着するのは古今東西変わりないようですね(苦笑)。

> とはいえこれはそもそも義昭が原因といえ、浅井・朝倉はこの時期は義昭とも明確に敵対しています。
 ふーむ………そうなると御内書に朝倉が逸早く応じたことが謎になりますね。
 朝倉義景は、肝心なところで信長包囲網を綻びさせたことを武田信玄を初め、多くの人々に批判されており、余りに攻められていることから、崇源院(秀忠正室)が父・長政の名誉を守る為に頼りにならなかった義景を殊更貶めている可能性を考慮に入れていたのですが、案外義景の代わり身は史実に近いかも知れませんね。

>
> 松永久秀の最初の裏切りでは、久秀は筒井や和田など義昭に味方する武将と激しく交戦、義昭も御所で松永軍の首実検をするなど久秀と義昭が激しく敵対していたことが伺えます
> その後久秀は義昭と和睦し信長と対峙するのですが、義昭と和睦後はほとんど兵を動かさず結局最初の裏切りでは信長軍との直接対決はありませんでした。
> 久秀の最初の裏切りは信長を裏切ったというより、義昭を裏切ったという意味合いが強かったようです。

 裏切りが多い分ややこしい奴ですね(苦笑)。

> ちなみに松永久秀が領民たちから嫌われていたという話は興福寺などの寺社の記録で、久秀は大和の領主として寺社と対立して大和の寺社から嫌悪されていたため悪評の事実性には疑問もあることには注意すべきでしょうね。
> そういった意味では私はもう今では松永久秀に悪い印象は全くないですね。

 領主=領民に対する為政者としての久秀は優れていたと思います。中国史でも呂后(漢の高祖正室)や則天武后は王朝に対してはとんでもない簒奪者で、後続を何人も弑逆した極悪人ですが、民衆にはほとんど迷惑を掛けず、むしろ政治的手腕は優れていた様で、民間は平和だった様ですから。
 正直、裏切りが多い分、やはり私は松永久秀を好きになれません(とばっちりで息子達も処刑されましたし)が、どんな嫌いな人物でも優れた面や良き面は認めるようにしたいですし、逆に好きな人物でも劣った面や悪しき面をスルーしないようにしたいものです(例え好き嫌いが変わらなくても)。

>
> 次に足利義昭の項目についてです。
> 第一次信長包囲網は実は義昭包囲網という意味合いも強く、外交手腕にさえも最近では疑問が付き最近では義昭の評価は下がる一方の感があります。
> 人格的にも厳しく言えば、後白河法皇や後醍醐天皇の方がまだしも人間的なエピソードがあり、評価すべき点は根性くらい。

 まあ、私はその「根性」が好きなのですが(笑)。手腕については確かに格段に優れたものを感じる訳ではありませんが、一介の幽閉された僧に過ぎなかった義昭は自分の持つ立場でやれる限りをやったとは思っています。

> 大河ドラマや歴史漫画の悪評もしかたないといえます。
 うーん………酷評は仕方ないのですが、極端にアホっぽく演じさせるのは納得がいかないです(苦笑)。

>
> 次に島津義久の項目についてです。
> まあ時代の流れですね。
> その後の内部対立などの動乱を乗り切れたのは義久の判断と幸運の両方が理由でしょうか?

 二頭体制が上手く機能したともいえますし、それが仇になった面もあると思います。
 関ヶ原の戦いの敵中突破もあって武名も高い弟・義弘に対し、決して劣った人物でもないにもかかわらず義久は肖像画さえ残っていません。
 れっきとした長兄・当主でありながら、出張り過ぎなかったことが島津家を存続せしめた気もします。

>
> 次に北条氏直の項目についてです。
> 氏直は当主として主体的に行動できる前に家が滅亡してしまい、その上赦免された直後に病死と不運であったとしか言えませんね。

 歴史に「if」は禁物ですが、長生きしていれば分からなかったですね。家康にも云えることですが、長く生きることは苦も多いでしょうけれど、一つの能力に資するのは間違いなさそうです。

>
> 次に徳川慶喜の項目についてです。
> 私は前にも言いましたが、古い体制を廃して新しい時代を切り開くことは正しいとする立場をとっていますので、大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視などの策動を批判しない立場です。
> 慶喜にも自らの行動により敵を増やしてしまった部分もあり、またずるがしこい部分もなかったとはいえず、政治家としては仕方ない点も多いにしろそれは大久保・西郷・岩倉にも言えることと考えていますから。

 ここでも私の好き嫌いが曇りを呼んでいることに注意したいとは思います。
 大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視は確かに明治維新に貢献し、大変革の前には非情にならざるを得ない局面や、古き体制に破壊的にならなければならなかった局面もあるとは思います。
 ただ、結果論を持ち出すなら、大久保も西郷もろくな死に方をせず、岩倉も自身は政府を裏で牛耳ったまま天寿を全うしましたが、公家として存続出来ず、陰険な策謀被りを悪く云われ続けていることを考えれば、やはり慶喜の潔さの方を買いたくなりますし、彼に対する仕打ちは苛烈だったと思います。

>
> 次に鎌倉私設軍事裁判のコーナーの鎌倉幕府滅亡の項目についてです。
> 最近では北条高時は従来言われていたほどひどくはなかったらしいそうですね。
> 北条高時の乱行とされていたものはむしろ北条貞時の晩年のエピソードが元のようです。
> また長崎高資ら北条得宗家御内人たちも従来言われるよりは有能だったようです。

 元寇という前例のない国難の事後処理に対応しきれなかった彼等に一抹の同情が無いわけではありません。
 末期ともなると「御家を滅ぼした」という事実だけで悪し様に酷評されることは珍しくありません。
 武田勝頼や北条氏政も少し前までは酷評しかありませんでしたし。

> ただ事なかれ主義がはびこり、鎌倉時代末期に抱えた大きな問題に思い切った対応ができなかったことは事実のようで、これが鎌倉幕府滅亡の大きな要因になったようです。
> ただしこのコーナーでも取り上げた多くの政変で疲弊した北条一族や幕臣たちが事なかれ主義の走るのはやむおえないのも事実で、北条高時や長崎高資ら北条得宗家御内人たちの個人の責任とするのは酷のような気がします。

 同作を作っていて思ったのですが、北条氏は良くも悪くも身内の結束は強かった一族と思っています(幕府滅亡時にも多くの一族が運命を共にしました)。
 身内間のいがみ合いが無かった訳ではないのですが、それでも外敵には強固に団結しました。そこに馴れ合いや事勿れ主義があったのは否めませんが。

> むしろもはや鎌倉幕府は寿命だったというのが滅亡の原因でしょう。
 元寇の事後処理が上手くいかなかった段階で命脈は尽きていたと云う事でしょうか?

>
> 次に乱れた鎌倉時代、そのA級戦犯とは?の項目についてです。
> 私は北条時政と後嵯峨天皇がA級戦犯とはあまり思えないのです。
> 北条時政はむしろ鎌倉時代の動乱の原因というより、時代の混乱によりこういった悪事に走ったのではと私は考えるからです。
> 後嵯峨天皇については、彼は鎌倉幕府滅亡と南北朝の動乱の原因ではあっても鎌倉時代の動乱の原因ではないのではと考えます。

 時政については、後妻の云うままとなり、頼家・実朝・一幡を死に追いやり、義時や政子すらも蔑ろにして平賀朝雅を重んじようとした結果、北条家の初代と認められていない程悪辣とされた人物で、私もそのイメージを払拭出来ません。
 御嵯峨天皇に関しては、恐らく本人は両統迭立後の悪影響までは考えていなかったと思いますので、責任を求めるのは酷な気もしますが、根源者との想いはやはり拭えません。

>
> 鎌倉時代の動乱の原因としては私は、源頼朝の急死により二代将軍頼家との継承がうまくできなかったことの方が大きかったのではと思います。
> とはいえ寿命ばかりはどうしようもなく、運がなかったとしか言えませんが。

 それに関しては頼朝が猜疑心で身内を殺し過ぎたからだと思います。頼朝が範頼・義経に対してああも冷酷でなければ阿野全成と頼家が殺し合うこともなく、頼家を補佐する源氏一族が不在だったことが彼の立場を弱めたと見ていますので、頼朝の急死はあまり関係ないと見ています。

>
> 次に怪僧大集合コーナーの沢庵……紫衣事件はどこまで脅威だったのか?の項目についての続きです。
> 私はこういった事件では君臣の道よりもどちらの方が正しいかを重視します
> 紫衣は仏教における名誉であるため、簡単に授与できるのはおかしいと考えると、三〇年以上の修業というのも必ずしも理不尽とは言えないでしょう。

 僧侶に大きな力を持たさない意味では長期間の修業期間を要求するのは分からないでもないですが、公案に関してはやはり無茶苦茶でしょう(九六三しかないのに一七〇〇マスターしろと云ったのですから)。

>
> また沢庵の云い分である
> 「悟りとはそも、電光石火の如くやってくるもので、修行の年数や公案の数による物ではない。」
> というのはある意味名門出身者や金持ちに有利です。
> なにしろ悟りなんて目に見えない不確かなものですから、名門出身者が私は悟りを得たと主張して逆らえる人は少ないでしょうし、金持ちの賄賂による紫衣授与も考えられます。

「云ったもん勝ち」に悪用される恐れはありますね。そもそも紫衣自体が、朝廷が金を得る為の物でしたし(苦笑)。
 ただ沢庵の言が間違っているとも思いません。

> しかし修行の年数や公案の数という明確な基準を決めればある程度の公平さが保たれますから。
 年数と公案を軽く考えるべきではないですが、幕府の制定した数は弾圧でしかないと思います。

>
> 紫衣の没収は法度を制定した後のもののみですので、事後法ではないのでは?

 そこまでは見てませんでしたね。没収を法度制定後のみを対象にしているなら、確かに「事後法」との私の指摘は間違いになります。

> また後から定めた法律を過去に遡って適用・処罰することは法律の世界では御法度というのは実は絶対ではありません。
 そうかも知れませんが、後から定められた法律を過去に遡って適用することが悪用された時の恐ろしさはスルーしてはいけないと考えます。
 実際、「絶対ではなかった」と云うのも、政敵排除に悪用したケースがあればこそでしょう。時代も国も異なりますが、前漢では景帝と晁錯が遡及による処罰を各国の王に課し、呉楚七国の乱に至りました。

> たとえば戦後日本で大きな火災で大量の犠牲者が出た事件が相次ぎましたが、これは消防法を改正しても改正前に建築された建造物には適用できなかったことが原因で、ついに公共性の高い建物については過去に建造したものであっても現在の基準に適合させるよう義務付けられました。
> つまり遡及適用の禁止という原則に対する例外は現代日本にさえあるわけです。

 個人に対する処罰とは少し違う気もしますが?

>
> 厳しいことを言うと沢庵はただのご意見番ではとも思います。
> 歴史上の功績で言えば江戸時代の天下泰平に貢献した金地院崇伝の方がはるかに大きいように私には思えるんですよね。

 政治家としてみるなら間違いなくそうですね。

>
> 次に恐妻家列伝のコーナーの源頼朝の項目についての続きです。
> 吾妻鏡が北条氏のプロパガンダ史書というのは事実ですが、必ずしもそれだけではない部分もあることは注意が必要です。
> 北条氏に都合の悪いとこが改変されているのは事実にしろ、北条氏の不名誉な話も結構記されているからです。
> 例えば亀の前事件なんてそもそも詳細に記す必要ないのでは。
> 北条政子にとっても名誉な話でもないですし、亀の前が鎌倉幕府の歴史上重要な人物というわけでもないですし、適当にごまかしてもよいはずですがそうしていません。

 云われてみればそうですね。
 逆を云えば、北条氏の名誉を多少傷つけてでも事件の関係者を叩きたかったのでしょうか?

> 吾妻鏡は決して北条氏の偉大さを過剰に誇張した内容とは言えず、また政治的な理由というより話を面白くするための誇張表現(これは前も言いましたが、武家の記録に大体見られるものです)も多く、改変が必ずしもプロパガンダのためとは限らないことも注意が必要でしょう。
 そこが改変の厄介なところですね。何故にその必要があったかは隠された故に見えないでしょうから。

>
> 大姫の悲劇にしても、1194年8月に公家の一条高能との縁談の際大姫が「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と拒絶したエピソードもありますが、翌年2月に政子と大姫・頼家らの子女を伴って上洛し大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていることを考えると、この時期すでに頼朝は大姫の入内を考えていたはずで、時期的にも中級貴族でしかない一条高能との縁談の存在自体疑わしいです。
> こういったことからも大姫の悲劇は事実性がかなり怪しいと言わざるを得ません。

 義高慕わしさがどこまで引きずられていたかも、もう少し調べる必要がありそうですね。

>
> 次に足利義政の項目についての続きです。
> 保元の乱は鳥羽上皇の路線を受け継ぐ主流派に、非主流派である崇徳上皇らが異議を申し立てたのがきっかけで、そもそもこの時後白河天皇が天皇親政を主張したなんて話聞いたことがありません。
> そもそも後白河が院政を否定したという話はどこから来たのでしょうか?

 記憶に間違いなければ、小学生の時に見た学習雑誌です。後鳥羽法皇の崩御を受けて、白河法皇の崩御で院政の権利を後鳥羽法皇が手にした如く、崇徳上皇が慣例を盾に院政を執ろうとしたところ、その時点で天皇だった後白河が「天皇である自分が政治を執るべき。」と主張したと知りました。


>
> また後白河天皇に譲位しないという選択肢はなかったと思います。
> この譲位は美福門院と藤原信西の協議によるものであり、後白河天皇の意思によるものではないからです。
> 二条天皇は父である後白河天皇とは対立していたため、後白河天皇が自分の意思で決定できるならこの譲位は絶対にしたくなかったはずです。
> 本当に二条天皇が崩御する前の後白河院はもう一人の崇徳上皇で、だからこそこの時期の後白河院の行動にを過大に批判すくことは酷だと考えるのです。

 元々後白河は弟である近衛天皇よりも後に即位しており、後鳥羽法皇の「崇徳憎し」が無ければ皇位にはほど遠かった人物と聞いています。
 即位自体棚ぼた的で、強権で即位させてくれた後鳥羽法皇に死なれた後は平清盛とやり合っていた頃の辣腕振りはまだまだ持っていなかったとしても不思議ではないですね。

>
> 二条天皇が崩御した後の行動は自らの意思で行っていたので批判もやむえおないですが、平家は本来二条天皇親政派でそもそも対立派閥であり、木曽義仲は都での行動に問題がありすぎました。
> 源義経の要求による頼朝追討院宣については義経に脅迫されたとの記録があり、義経の脅迫に屈したのが実情のようです。

 ん?頼朝に突っ込まれた際にそう言い訳したもので、それ故にその弱みから守護・地頭の設置を認めざるを得なかったと把握してますが?

> とはいえ木曽義仲と対立して御所を焼かれて息子を失った後白河院としては、義経の脅迫に屈するのもやむおえないとはいえます。
> 他人事だから批判できますが、少なくとも私が後白河院の立場になって義経の脅迫を拒否できる自信はないので、頼朝追討院宣については過大に批判することは酷だと考えるのです。

 武士を利用しつつも、武士を恐れてもいたと云う事でしょうか?
 また、若い頃から苦労したからこそ、自分を利用せんとする武士を利用することに罪悪感が無かったと云う事でしょうか?
 彼が節操なく武士を利用したのも事実ですが、多くの武士が彼を利用したのもまた事実と見ています。
 同情すべき事情が多いのは学ばせて頂きましたが、やはり私は好きになれませんね(苦笑)。

>
> また院政の時代は中級・下級の公家や武士など、これまで出世の可能性のなかった身分の人々に出世のチャンスが生まれるなど新しい潮流の生まれ始めた時代でもあり、藤原信西も本来なら政治に大きな影響を与えるような地位に就くことのできない身分です。
> 私はそういった院政の時代の良い部分も一定の評価をしているからこそ、院政に過大な批判はしないのです。

 それは慧眼だと思います。
 多くの物が後白河に文句を垂れつつも、彼を利用したと前述してますように、院政がそれまでになかった機会を多くの者に与えたのはその通りだと思います。

>
> そもそもどんな政治体制でも崇徳上皇みたいな不遇な人は出るもので、崇徳上皇は可哀そうな人ですがそれは結局個人の悲劇にすぎませんし、それだけをもって院政の制度そのものを完全に否定するのはただの判官びいきであり、正しい歴史の見方ではないと思います。

 「個人の悲劇」には賛成しますし、院政自体の批判に使うのは的外れだと思いますが、後白河の崇徳に対する仕打ちはひど過ぎ(だからこそ後世の人々は崇徳を大怨霊として恐れたと思います)、やはり私が後白河を好きになれない理由の一つです。

>
> 次は柱石逝きて後……のコーナーの平重盛の項目についての続きです。
> 平家は本来二条天皇親政派でそもそも後白河院の政敵な上、鹿ケ谷事件も最近では冤罪というのが有力で、高倉天皇が即位後は後白河院は用済みとばかりに粗末に扱っていたのが肝心の高倉天皇の崩御により後白河院が主導権を回復して平家は宮中で孤立と、まあ後白河院からすれば平家を嫌うのも当然な状況でその上各地で反乱ではどうしようもなかったかもしれませんね。

 鹿ケ谷事件は、「酔っぱらいの戯言」と見ています(笑)。
 もしあれが平家討伐を打ち合わせたものだとすれば余りにも稚拙すぎます(苦笑)。
 高倉天皇が長生きしていれば、歴史はどう転んだか分からないのは興味深いです。

> 次はチョット待て!その呪詛おかしくないか?のコーナーの菅原道真の項目についてです。
> 道真が左遷された昌泰の変の原因には宇多上皇と醍醐天皇の対立があったと考えられています。

 だから、宇多上皇が道真を庇わんとして内裏に来たのを醍醐天皇は中にも入れなかった訳ですね。

> そして道真は宇多上皇との関係が深い人物で、右大臣という地位からも醍醐天皇にとっても目障りな人物ではあり、単に時平の讒言ではなく時平と醍醐天皇は共犯に近い関係というのが現在は有力なようです。
 まあ、讒言をそのまま受け入れた訳ですから、醍醐は「それは使える!」と思ったかもしれません。

> 左遷後の道真の言葉として、「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった」との記録もあり廃立計画は実在した見解もあり、道真が完全な冤罪ではないとの見解があることへも注意すべきでしょう。
 それは覚えておきましょう。関与度は極めて低そうですが。

> 斉世親王を娘婿にしていた道真には野心があったのではないかという見解もあり、菅原道真は人格的にはかなり美化されている可能性も高いです。
 彼を怨霊として恐れ、公式には「無罪」が言い渡された訳ですから、その辺りは後からはつけなかったことでしょう。

>
> 藤原時平は政治改革に意欲的で最初の荘園整理令を出すなど決して単に藤原氏だけの繁栄を追求する人物でもありません。
> また道真と時平は本来父菅原是善の時代から親交があり、度々詩や贈り物を交わす関係で、時平は極楽寺を定額寺とするための願い状の代筆を依頼するなど文章家としての道真を高く評価していたことを考えると、時平にも相応の事情があったと考えるべきでしょう。

 時平は若死にしたことで損してますね。確かに私は時平のいい点は殆んど見ていません(道真が阿衡事件で時平の父・基経を書面で説得したのを見て、感心したのは知っています)。
 時平の弟・忠平の人格を見ても、時平をただの讒言者としか見ないのは慎んだ方が良さそうですね。

>
> 総じていうと、藤原氏の他氏排斥事件の裏には皇族同士の争いなど時の天皇の意向も大きく関係していたようです。
> そう考えるとやはり藤原氏を過大に悪党扱いするのもどうかとは言えます。

 藤原氏が利用したものも多ければ、藤原氏を利用した者も多いと云うことですね。
>
>
> 次に裏切り者の譚詩曲のコーナーについての続きです。
> 私も体力・運動神経・身体能力で幼少の頃から人に大幅に劣っていたので気持ちはわかります。

 それは奇遇ですね。

> 私が歴史を見るうえで公平性を重視するのは、成長して今川氏真を見直したからというのが大きいです。
> 情けないといわれながらも家や家族や家臣を守った今川氏真こそが本当は立派ではと思うにしたがって、逆に豊臣秀頼はただ己のプライドで無益に家臣や領民を戦争に巻き込んで家や家族も守れなかったのも事実で少なくとも手放しで擁護できる存在ではと考え始め、調べてみれば見るほどその考えを肯定する情報ばかりも出てきて、従来の判官びいき的考えに疑問が出てきたのが大きいです。
> 足利義輝・義昭兄弟など調べれば調べるほどダメな部分ばかり出てきましたし。

 だからこそ、秀頼・義輝は滅び、氏真は彼なりの家格を保持出来たと云う事でしょうか?

>
> また歴史における正義とは権力を獲得した手段ではなく、どのように行使したかではないか?と考え始めたのも大きいです。
> だからこそ、歴史で最も重視すべきは歴史の結果と敗者の敗因だと考え始めたわけです。

 分からないでもないです。ただ、「勝てば官軍」的な考えに走らせないかを危惧します。
 勿論、天下を取っていれば善政を敷いていた筈が、その前に敗れたことで悪名だけを残すことになった者も多いとは思いますが。

> 実際のその時代に生きる庶民にとっては、正当な暗君・暴君よりも卑劣な手段で権力を獲得した名君の方がありがたいでしょうから。
 現代はどうでしょう?(苦笑)

>
> さて今回はこれまで。
> 降伏は幸福か?のコーナーの更新を楽しみにしています。
> 新しい掲示板でもよろしくお願いします。
> それではまた。

 こちらこそよろしくお願いします。
 降伏は幸福か?は最後の一作が制作に長い時間がかかりそうですので、気長にお待ちいただければ幸いです。

No.6 2022/09/15(Thu) 14:45:21

Re: このサイトの戦国房についての感想 / 薩摩守
 じおさん、初めまして。

> あなたの投稿はいつも文章が長すぎます。
> もう少し文章を要約しましょう。

 まあ、文章が冗長なことに関しては私も同様で(苦笑)、人のことを云えないので、大目に見て下さい。

> 読み手も疲れている時などにこの投稿を見たらウンザリしますよ。
 そこはそこ、ベルトランさんの文章は上手く区分けされていますから、時を置きもって読んで頂ければ問題ないかと。

> 投稿ボタンを押す前に「これを読んだ人はどう思うか」を一度考えましょう。
 私にも、じおさんにも、すべての人にも云えることかと思います。
 決して閲覧者の多いサイトではありませんが(苦笑)、誰が見ているか分からないのがネットの世界です。
 こんな拙いサイトでも現役の高校教師の方や、作家の先生が見て下さった事実があります(今も閲覧頂いているかは分かりませんが)。
 投稿内容に慎重さが求められるのは世の礼節と思いますので、貴文に対しても、ただ批判されるだけの内容に留めないことを求めたく存じます。

 「長い」、「疲れる」と在りますが、内容そのものの批判・批難ではないと思いますし、内容に興味が無ければ批判も生まれないと思いますので、良き面に触れつつ、批判は相手への敬意と礼儀を持った範囲で行っていきましょう。
 お互いに。

No.7 2022/09/15(Thu) 14:52:30
BBS再々開設のお知らせ / 道場主
 8月1日にteacupのBBSサービスが終了したの伴い、本日よりロケットBBSによる掲示板を開設しました。

 多忙な中、急遽選択したこともあり、デザインや機能についてはまだまだ変更の可能性もありますが、一先ずお知らせさせて頂きます。

 これまで書き込み下さった方々も、読むのみでも様々な意見に目を通して下さった方々も、改めまして今後も宜しくお願い申し上げます。

令和四(2022)年九月八日
 菜根道場道場主・菜根道人
 戦国房薩摩守
    日露の間ロングヘアー・フルシチョフ
 特撮房シルバータイタン
 楽曲房ダンエモン
 法倫房リトルボギー

No.1 2022/09/08(Thu) 14:15:10

Re: BBS再々開設のお知らせ / ニャンセグ
こんばんは、新しい掲示版お待ちしていました。

新しい掲示版では、ハンドルネームはおおむね今まで通り犬が猫に置き換わるパターンになると思いますが、猫が犬に置き換わる場合や猫が絡まないパターンも使用しますのでどうぞよろしくお願いします。

No.2 2022/09/08(Thu) 22:35:34

Re: BBS再々開設のお知らせ / 道場主
> こんばんは、新しい掲示版お待ちしていました。
 ありがとうございます。また、返信がすっかり遅くなり申し訳ございません。

>
> 新しい掲示版では、ハンドルネームはおおむね今まで通り犬が猫に置き換わるパターンになると思いますが、猫が犬に置き換わる場合や猫が絡まないパターンも使用しますのでどうぞよろしくお願いします。

 名作や名キャラがどう変わるのか楽しみにしています(笑)。

No.5 2022/09/15(Thu) 13:09:50
以下のフォームに記事No.と投稿時のパスワードを入力すれば
投稿後に記事の編集や削除が行えます。
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