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こんにちは、お久しぶりのベルトランです。 また丁寧に返事をいただきありがとうございます。 また記事の内容に対する反論も多くありますがご了承ください
まずは新コーナーの人質………その様々な待遇と存在意義のコーナーの余豊璋の項目についてです。 百済では腆支王という王が太子時代に倭国に人質として出されて、王の死後一族による簒奪が起こり倭国の護衛とともに帰国して王に即位したことが証明されていて、百済の王族が倭国の人質になった例は結構あったようなんですよね。 何しろこれらの事例は日本書紀だけでなく朝鮮側の資料である三国史記など複数の記録がありますから。 またこれらの記録から百済を倭国が軍事支援したことは、白村江の戦い以前にもあったと考えられます。
次に源義高の項目についてです。 そもそも大姫のエピソード事態が七歳の割には大姫が頭良すぎることを考えると、あんまり信用していないのが私の感想です。 恐らくほとんどが創作だろうというのが私の考えであり、大姫が義高を愛していたというのも史実ではないだろうと私は考えますね。
次に松平元康の項目についてです。 実は最近では竹千代が織田信秀の人質になったのは、戸田康光の裏切りではなく織田軍の攻撃により岡崎城が落城したため織田家に降伏せざるを得なかったというのが実情とされているそうです。 また元康が岡崎への帰国をしなかった理由は、元康が義元の姪・瀬名を娶ったことで今川家の親族衆と扱われたからのようです。 今川家の親族衆は元康に限らず、基本的に駿府城に居住するのが今川家の決まりだったようです。 そもそも幼くして父を失った元康が今川義元の庇護なしで無事に家督を継承できたとは考えにくく、元康にとって今川家には恩義の方がはるかに大きかったと言えます。
またそもそも松平広忠が親今川の立場を貫いた理由としては、そもそも織田家への敵対心も大きかったように思います。 松平家にとって織田家は清康の不慮の事故など因縁のある相手です。 広忠の最後にも織田の謀略という説もあるほどであり、いまさら織田に従いたくないという感情の方が大きかったのではないでしょうか? そういった意味では元康にとって清州同盟は今川からの支配を脱して独立した喜ばしい瞬間ではなく、むしろ長年の宿敵である織田家と心ならずも手を組まざるを得なくなった屈辱の時だったではないでしょうか。
次に毛利隆元の項目についてです。 実は彼の病没の直前に和智誠春の饗応を受けたという話は同時代史料に確認できず、後世の創作の可能性が高いそうなんです。 では和智誠春と赤川元保の粛清の原因はというと、この二人はどうも素行が悪かったらしく赤川元保は隆元の生前から粛清が検討されていたらしいので、この二人の粛清は隆元の最後とは直接関係はないようですね。
また隆元は大内義隆にかなり好感を持っていたようですし、謀反の後毛利家に無理難題を要求したりしていますから、陶晴賢にはあまり良い感情は持っていなかったようですね。 ですから隆元・元春が晴賢が降伏することでその命を奪わずに済むことを望んでいたというのはありえないと思いますね。
次に黒田長政の項目についてです。 実は信長が松寿丸の処分を命じたという話、かなり怪しいそうなんです。 というのもそもそもこの話は後の福岡藩の記録が初見であり同時代資料からは確認できず、しかも有岡城が陥落した際に官兵衛の救出に黒田家の家来が参加しているもののそもそも松寿丸が表向き処分されていたら黒田家の家来が有岡城攻略に参加できるはずがないからです。
またそもそも松寿丸は黒田官兵衛の人質ではなく小寺家の人質であり、小寺政職は実際に裏切っているため信長が松寿丸の処分することが不当かは疑問かもしれません。
そもそも人質と言っても現代の人質とは違います。 昔の人質は現代の外交官の方が近く、相手が裏切らない限り客分として厚遇するのが当たり前ですしむしろ冷遇する方が非常識な対応です。 また差し出す側としても相手の家の有力者との人脈を作る機会があったり、相手の家の情報を得たりとメリットもあります。
また同盟が破綻したとしても、使者を派遣して正式に同盟は気の手続きをした場合は人質は返還するのが普通であり、戦国乱世と言っても相手に過剰に恨みを買うのを避けるために実際にはきちんと手続きをしたうえで同盟破棄をすることが多く、またそもそも人質は捕虜交換などに政治利用できることもあり、友好関係が破綻したからと言って必ずしも処刑されたとは限りません。 まあ現在感覚で人質を語るべきではないでしょうね。
次に新コーナーの優遇され過ぎ?な人物のコーナーの聖徳太子の項目についてです。 崇峻天皇事件は蘇我馬子が独断で行ったわけではないようです。
崇峻天皇が即位した際に前天皇の時代の重臣がそのまま留任していたわけですが、どうも崇峻天皇がだんだんと彼らに反発するようになったのが原因のようです。 つまり崇峻天皇は馬子をもし討伐に成功していたら次にその他の重臣も排除した可能性が高く、さらには後見人であった後に推古天皇となる豊御食炊屋姫も排除した可能性が高いわけです。
つまり崇峻天皇事件は蘇我馬子の策謀ではなく、もしろ多数の皇族や群臣の同意を得た上での宮廷クーデターであったと考えられています。 この事件で馬子が弾劾されなかったのも、崇峻天皇を放置することが皇族や群臣にとっても利益にならなかったと言う事情によるようです。
次に源義経の項目についてです。 義経が弓を奪われた際に、「源氏の大将がこんな小さい弓を使っているなんて云われたら恥」として、必死になって奪い返した件に関しては、当時の武士は強い弓を使用できることが武勇の証として重視されていたのですが、義経は残された鎧から推定して同時代基準でも身長が低く、小さな弓しか使用できなかったために弓を必死に奪い返したと考えられます。 つまり低い身長に義経がコンプレックスを感じていたからだと考えれば、そこまで不自然な話ではないと思われます。
あり得ない超人化は何故起きるかということで無視できない要因は、記録の少ない人物は創作作品の主人公にしやすいというものがあります。 記録が少なく人生の中で何をしていたか不明な時期の多い人物は、記録の無い不明な時期にいくらでもエピソードを盛れるために創作作品の主人公とされて人気が出るという訳です。 聖徳太子や島左近や前田慶次はまさにそうですし、源義経も頼朝のもとに駆け付ける以前の時期や頼朝に追われて逃亡している時期など記録の無い時期が多く話が盛りやすいために創作作品の主人公にしやすいという事情があります。 豊臣秀吉なんかも信長に仕える前の記録がほとんどないため、創作作品の主人公にしやすい人物ですね。 実際秀吉が実は忍者だったなんていう小説もありますし。
あと劉備についてですが、呂布の「この大耳野郎こそ一番信用出来ない奴だ!」との批判についてですが、二度の義父裏切りを始め何度となく味方を裏切り続けた呂布に比べて、劉備は益州乗っ取りの一度を除けばあくまでも危険を察知して主君を変更しただけです。 戦乱の世では仕方ない事ですし、少なくとも呂布にだけは言われたくないのではと思いますね。
ただ劉備は三国志演義最大の被害者とも言われるんですよね。 というのも演義での劉備は聖人君子で人望はありますが、武勇にも知略にも優れずキャラクターとしての魅力に欠けるところがあります。 実際蜀漢陣営が好きな人々は劉備が好きというより、諸葛亮や五虎将軍が好きだからという人は結構多いはずです。 むしろ劉備は現代人感覚だと、演義での聖人君子の姿より、聖人君子でなくとも英雄である史実の劉備の方が余程魅力的でしょうね。
次に夜討ち集のコーナーの保元の乱の項目についての続きです。 私は最近公家たちが、過度に悪人扱いされすぎていると感じています。 今回でも頼長なりの事情を無視して愚かな公家と、不幸な武士みたいな構図で語られすぎているのではという訳です。
またそもそも上皇方の人物は協調性のない人物が多く、当人に不遇の責任が一切ないのは崇徳上皇だけでは? こう考えると源為義もこの末路はそもそも当人にも問題があったように思えるんですよね。
次に厳島の戦いの項目についてです。 大内家に限った話ではありませんが、最近では文官的な武士の派閥の呼び方として文治派という言葉は歴史用語としてあまり使わなくなっていて、代わりに吏僚派と呼ばれることが多くなっているようです。 なぜなら例えば文治派を重用する目的は当主権限の強化が目的であることが多く、当主が文弱に陥ったわけでも意欲を失ったわけでもないわけですし、また文治派と呼ばれる人々が必ずしも戦争を否定する平和主義者でもないわけで、文治派という用語が誤解を招きやすい表現であるからであり、豊臣政権でも石田三成ら奉行衆のことを最近では吏僚派と呼ぶことが多くなっているようです。
あと江良房栄が粛清された原因はどうも元就との和平を主張したからであり、元就の謀略ではないようです。 また厳島の戦いにおける陶軍の兵力は弘中隆兼以外に大内家の重臣がこの戦いに参加していないことから最大でも一万と考えられていて、水軍もおそらく百二十隻程度というのが有力のようです。 毛利軍の兵力が恐らく四千から五千、毛利直属水軍と小早川水軍が百隻から百二十隻だと考えられているため、実際には通説ほどの兵力差はなかったようなんです。 これに村上水軍二百隻が毛利方に参戦すればもはや毛利川の優勢は明らかとはいえ、大内義隆の死後に衰退した大内家の状況と陶晴賢の失策により最初から劣勢は明らかだったかもしれませんね。
日本人はだまし討ちは卑怯と考えても、夜襲は卑怯と考えないと思うんですよね。 保元の乱については夜襲を行った方が卑怯と批判されるより、夜襲作戦を却下した藤原頼長のほうが批判されていますし、本能寺の変も批判されるのは主君討伐であって夜襲という手段ではないと思うからです。 また山木館襲撃はそもそも知名度が低くあまり注目されていないような気がします。
日本ではそもそも伝説ですら女装して敵を討った日本武尊の逸話とか、毒酒で酒呑童子を倒した源頼光の伝説とかが語り継がれる国ですから、夜襲を卑怯とは全く思わないんでしょうね。
次は足利直義の項目で話題にした後醍醐天皇についての続きです。 鎌倉時代末期には朝廷の両派閥の対立の激化により、朝廷での訴訟にてその時の天皇の派閥の支持者が勝訴して天皇が代替わりするとそれがひっくり返されるなど両統迭立の弊害が露骨に出ていて、この朝廷の混乱を収束させるには両統迭立を終結させるしかなかったようなんですよね。
建武政権の政策が後の室町幕府にも継承されたりと、後醍醐天皇の政治が室町幕府にも継承されています。 高師直の土地権利の管理政策も実は建武政権の政策を継承したものです。
また建武政権の土地権利の管理政策の失敗は恩賞の不公平ではなく、土地給付の手続作業が膨大な量となり追いつかなかったからだったようです。 こうしたことからも少なくとも武士を冷遇した後醍醐天皇という見方は完全に過去のものとなっているわけですね。 少なくとも後醍醐天皇の政治的業績は一定の評価をすべきでしょう。
次に胡亥と悪宦官・趙高についての続きです。 最近では趙高は実は宦官ではないのではないかという説もあるそうです。 そもそも中華王朝の宮廷の役職が去勢した宦官に限定されたのは後漢時代からだそうで、それ以前には宮廷でも去勢しない役人が仕えていたそうです。 趙高にはそもそも娘婿がいたことが確認されるため、去勢した宦官ではない可能性が高いのではと言われているそうです。 秦王朝の実態はまだまだ分からないことが多いのが実情のようですね。
そもそも始皇帝が最後の巡行の前に扶蘇を呼び戻して太子にして自分の後継者であることを明らかにして、最後の巡行に同行させていれば趙高の遺言書改ざんは防げたのではと思います。 結局趙高の専横はもとはと言えば、始皇帝が後継者問題への対応を誤ったことがそもそもの原因ではないでしょうか。
次に嫡男はつらいよのコーナーの武田義信の項目についてです。 実は義信の謀反事件の原因は信玄が今川を滅ぼそうとしたからではないというのが有力になっているそうです。 というのも信玄は桶狭間の戦いの前から織田との同盟の交渉をしていたからです。
そもそも武田家の最大の敵は上杉謙信であり、それに全力を向けることのできる体制を作るための三国同盟なわけですが、このころ美濃で斎藤や織田と武田家は泥沼の国境紛争をしていていい加減これをやめたいと考えていたようなのです。 それがちょうど上洛を目指す足利義昭の仲介があり、織田との泥沼の紛争に嫌気がさしていた武田信玄にとってちょうどよかったので織田との同盟を決意したわけです。 つまり武田と織田との同盟はこの時点では単なる和睦に毛が生えた程度のもので今川と敵対する前提の物ではなく、義信が謀反を起こしてまで止める必要はなかったのでは?というのが現在の研究者の考えのようです。
それではなぜ謀反が発生したかというと、原因の一つは信玄に取り立てられた新参の家臣と譜代の家臣が原因ではないかと言われているようです。
もう一つの原因としては、武田義信はこの時28歳であるにもかかわらず未だに家督を譲られないことに不満があったからではないかと言われているようです。 というのも同盟相手の後継者で年齢の近い今川氏真や北条氏政が共に20歳くらいで家督を継承しているのに対して、このとき28歳の義信は未だ形式的な家督継承すらもないことに不満を持っていたのではないかというわけです。 なにしろ他の大名家の例でもだいたい20歳前後で形式的にしろ家督を継承して前当主はその後見人になるのが当時の慣習だったようですので、義信が父である信玄に不満を持つのも当然でしょうね。
まあ要は義信事件の原因はおおむね武田と今川の外交問題というより、武田家の内紛が原因であるようです。 また義信をすぐに粛清しなかった理由も、一つには義信を死なせると今川との関係が悪化することを信玄が危惧していたのが一因のようです。
また武田家と今川家の同盟が決裂した原因は、義信事件がきっかけで今川氏真が信玄に不信感を持ち武田家の仇敵である上杉家と同盟を結んだことが切っ掛けのようです。 つまり信玄が今川を攻撃しようとして義信の謀反が発生したのではなく、義信事件がきっかけとなって武田と今川の関係が悪化して同盟決裂となったというのが実情のようですね。
武田義信の死因は、最近では病死が有力のようですね。 また実は飯富虎昌が義信の傅役だったという通説には疑う余地があるそうなんです。 飯富虎昌は信濃で越後で上杉謙信に備えるのが役目であったため実は甲府に滞在すること自体が少なく、義信の傅役をやる暇があったかどうか疑わしいからだそうです。 結局のところ通説は大抵間違っているというパターンは義信謀反事件にも言えるようです。
次に反故にするんじゃねぇ!のコーナーの満州開拓民と南満州鉄道の項目についてです。 移民の内実が現地人の報復を警戒しなければいけない侵略であったことは事実ですが、実はそもそも中国大陸が辛亥革命以降各地の軍閥が内戦を繰り広げる群雄割拠のような状態で治安が最悪であったという実情もありました。 侵略に対する報復とか関係なく、各地で略奪を繰り返す盗賊団などの武装組織が各地に出没していたわけです。 そもそも国民党軍も中国共産党軍も規律の良い軍隊ではけっしてありませんでした。
逆にこれらの討伐などを行って治安維持がある程度行われていた日本軍の占領地は、日本の侵略を考慮したとしても同時代の中国ではまだしも住みやすい地域であったという実情もあります。 実際あくまで他はもっとひどいという消極的な理由にせよ、日本軍を支持する中国の民衆も決して少なくない数いたのという事実もあります。 これは現代のパレスチナでもイスラエル軍の行動は許されないにしろハマスが残虐なテロリストなのは事実であり、決して悪のイスラエル軍に立ち向かう正義の集団では決してないという事実から考えても理解できるでしょう。
日本軍の侵略は批判されるべきであり正当化できませんが、日本の侵略が無ければ当時の中国が平和だったわけでもないことは忘れてはいけませんね。
さて今回はこれまで。 次の更新を楽しみにしています。 それではまた。
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No.565 2025/08/22(Fri) 00:38:53
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