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御来房の皆様、おはようございます。 毎月五日の担当、戦国房薩摩守です。
体温越えをしかねない熱い日々が各地で続いていますが、熱中症対策は大丈夫でしょうか? 余りの暑さに道場主はお客様宅を訪れる度にお客様から、「暑い中申し訳ないです。」と謝られ、恐縮する日々です。
終戦の年である昭和二〇(1945)年も大変熱い日々だったと聞いています。 そして本日(八月六日)は、気温の暑さなど比べ物にならないとんでもない灼熱が広島を襲った日で、毎年悲惨な最期を遂げたり、その後も後遺症に苦しみ続けた被爆者を想い、居た堪れない気持ちを改めて抱きます。
人間は誰しもがいつかは死を迎えます。 病死、事故死、戦死、犯罪による惨死、と違いはあれどいつかは死を迎えますし、死を迎えるまでは千差万別ですが、形がどうあれ、何の罪も無い人間が為す術無いまま一瞬にして命が失われる………それも大勢が命を落とすシーンはフィクションでも心が痛みます。
そんな中、最近思ったことが二つ。 一つは『花の慶次 雲の彼方に』、『前田慶次 かぶき旅』という漫画に頻出する戦闘シーンについて。 好きな漫画なのですが、偶に嫌悪感を抱く時があります。それは前田慶次が巨槍を振るい、瞬時に数人の兵士の首が飛ぶシーンです。 前田慶次は巨躯と膂力の持ち主で、巨槍を得物に戦場を所狭しと暴れ回ったのを、漫画独特の誇張表現が為される訳ですが、戦場で一日に何百何千もの兵士が命を落としていたことを理解していても、兵士一人一人に生まれて来たことを周囲に祝福された赤子の日があり、授乳を初めとする愛情を込めた養育をしてくれた人がいて、友情や愛情を周囲と共有してきた日々があるのを、一瞬にして抵抗する術無く失われるのに心が痛む訳で、時代も、規模も丸で異なるとはいえ、突如頭上から落とされた原子爆弾の為に為す術無く命を落とした人々(←しかも戦場に立っていた訳では無い!)の無念と共通するものを感じるのです。 勿論、戦闘を描いた漫画ですから、慶次が敵兵を倒すシーンが出て来るのは当然ですし、戦場に立つ以上、兵士もある程度死を覚悟はしているので、被爆者と同様に見るのは適切でないとは思います。
まあ、普通に考えていくら尋常ならざる腕力で巨大な刃物を用いても、甲冑に身を固めた人間数人を一振りでまとめて両断する等、不可能であることは明白で、「所詮フィクション」と割り切ればいいのですが、それでも一瞬にして大勢の命が断たれる場面への嫌悪感は持ち続けたいと思っています。
もう一つは原爆を投下したアメリカ合衆国の世論について。 現在アメリカでは秋に控えた大統領選挙目前に急遽現役大統領であるバイデン氏が撤退を表明し、二人の候補者の内、どちらが大統領になるか混沌としていますし、アメリカの云いなりである日本にとっても重大な関心事でしょう。 そんなアメリカではかつて原爆投下に対して、これが戦争を早期に終わらせたとして八五%が支持していて、その後も肯定的に捉える意見が根強く残っています。 勿論様々な価値観がありますから、パーセンテージが一〇〇になることも、〇になることもない訳ですが、徐々に肯定的な意見が衰退していると聞いています。
現代のアメリカで原爆投下を是としている意見が何割なのかは、具体的には薩摩守の研究不足で存じていませんが、恐らく、戦時中のアメリカでは原爆による惨禍も具体的に、詳細に伝わっておらず、戦時中ゆえに「Remember Paerl Harbor!」、「Kill the JAP!」に凝り固まっていたアメリカ人、太平洋各地や沖縄で大切な家族が日本兵との戦闘で戦死していた人々も多かった訳ですから、圧倒的な支持率になったと思われます。
時が流れ、原爆の惨禍が世界的に広く詳細に伝わり、リアルに日本と戦った世代が推移したことで、勝利の為とは云え、あの様な悪魔の兵器を使うべきでは無かったとの意見も増えてきていると思います。
確かに原爆投下が終戦を促した一面は否定出来ません。 原爆投下が無ければ、ヒロシマ・ナガサキで惨死しした無辜の民が大勢助かった一方で、本土決戦で命を落としていた人々が多数生まれていたことも否めません。 しかし、もし自分や家族が被曝していたなら、「自分達は被曝したけど、そのおかげで戦争が早く終わって良かったね。」と思えるでしょうか?
絶対、思えません。
何をどうしても、過去は変えられません。 ヒロシマ・ナガサキで為す術無く惨死した人々の無念を真摯に想うなら、その犠牲を深く悼み、ナガサキが最後の被爆地であり続けるように世界中が努力し続けることが後世に生きる者達の責務と心得ます。 様々な側面があり、価値観があるので、原爆投下肯定論、核抑止論、核武装論を全面否定し、核兵器全面廃絶の道は極めて険しいですが、如何なる価値の人々にも、被爆者の悲惨さ、「何が目的でも、どんな背景でも、被爆者があんな死に方をしなければいけない謂われは無かった。」との想いだけは共有して欲しいものです。
被爆者に対する哀悼の心があれば、例え核兵器廃絶が遠い未来であっても、その日まで核兵器が発射される指に歯止めがかかり続けると信じる次第です。
ではまた来月。
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No.340 2024/08/06(Tue) 09:04:34
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