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こんにちは、お久しぶりのベルトランです。 また丁寧に返事をいただきありがとうございます。 また記事の内容に対する反論も多くありますがご了承ください。
まず新コーナーの「大敗」を検証のコーナーの上田原の戦いの項目についてです。 前も言いましたが、武田軍は素行が基本的に戦国時代基準でもよろしくないです。 むしろこのあたりのエピソードの非道な武田軍の方が実態に近い姿といえるかもしれませんね。
次に月山富田城の戦いの項目についてです。 実は尼子側の糧道でのゲリラ戦術はあまり成果は上がらなかったようです。 何しろ大内家は日明貿易をしているため、日本有数の有力な水軍を保有していたため、制海権は大内側にあるため、いくら陸上で大内側の補給路を断とうとしても船による水上輸送がいくらでもできるからだそうです。
三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経等の国人衆が再び尼子方に寝返った時点でも大内側が戦力的には優勢で、大急ぎで撤退しなければならないほどの不利でもなかったようです。 したがって大内軍が月山富田城攻めを断念し、撤退した明確な理由は不明のようです。
ちなみに大内義隆がこの大敗を受けて腑抜け化したというのも現在では否定されているようで、しっかり尼子家の反撃に対する備えや、尼子家との再びの決戦に備えての準備をしっかり行っていたようです。 したがって大寧寺の変の原因も研究者によって意見が分かれているようで、不明のようです。 陶晴賢は最近では石見国守護代を務める問田隆盛の同母弟であり、陶興房の実子である興昌の死により陶晴賢が興房の養子になったということが判明するなど、大内家に関するそれまでの常識は否定されつつあるようですね。
ちなみにこの戦いは、元春の吉川家養子の一件にもかかわってきます。 この吉川家の内紛は吉川興経と叔父・吉川経世の不仲といった単純な理由ではなく、吉川家は大内家を裏切ったものの肝心の尼子家は一時月山富田城一城まで追い詰められた打撃からいまだ立ち直れておらず、尼子家の援軍が得られないために、安芸国内の尼子方の一掃を目指す大内方の前に存亡の危機を迎えていたという切実な理由があります。
したがってこの養子縁組も、興経・千法師の殺害も、毛利元就の独断ではなく裏切りに激怒する大内義隆の意向も大きく反映しています。 むしろ養嗣子・大内晴持を失った義隆の方が元就より強硬な態度だったようです。 また大内義隆や毛利元就には、体勢を立て直した尼子家との再びの決戦の際に吉川興経らにに蠢動されると危険という切実な事情もあることは考慮すべきでしょう。 実際他人事だから単純に興経可哀そう、元就ひどい奴みたいに思えるわけで、自分が尼子家が積極的に攻勢に出られないうちに安芸国内の親尼子勢力を一掃して尼子家との再びの決戦に備えなければならない義隆や元就だったらと考えればこれはしかたないといえるでしょう。 歴史上の悪辣な陰謀とされるものも、よく調べると首謀者側にもこういう事情がある場合も多いことが私が被害者に可哀そうとは思っても、加害者を批判することには消極的な理由ですね。
次に姉川の戦いの項目についてです。 この戦いは織田軍の辛勝で、どちらも大敗というほどではなかったのではというのが私のこの戦いへの見解ですね。
姉川の戦いに朝倉義景が参戦しなかった理由は、朝倉家が当時加賀一向一揆と激しく対立しており本国を空にすることに不安があったというのが考えられているようですね。 実際義景が自ら出陣するようになるのは、本願寺が信長包囲網に参加した後のことです。 現在では学者の間では、むしろ朝倉義景は信長との戦いでは最善を尽くしたという見方の方が優勢のようです。
次に三方ヶ原の戦いの項目についてです。 家康が馬上で脱糞した話についてですが、事実か怪しいという説が有力なようですがそもそもそれが事実としても必ずしも恥とは限らないという説もあるようです。 戦場ではもよおしてもトイレに行く暇がない場合もあり、脱糞したとしてもそれが恐怖が原因とは限らないというわけです。 この場合も武田軍から逃げている最中にトイレに行く暇がなかっただけとも考えられますから。
次に長篠の戦いの項目についてです。 最近では織田軍の鉄砲数はやはり三千丁で正しいのではともいわれているようですね。 1581年に定められた明智光秀家中の軍法によると、一千石取りで軍役60人、そのうち鉄砲5挺を用意すべきと定めていて、これはあくまで明智軍の軍法ではあるものの明智軍も織田軍であるため織田軍の事情もそれほど変わりないと考えてこれを当てはめて計算するとだいたい三〇〇〇丁になるからです。
ちなみに佐久間の内応申し出の計略も最近の研究者の間では否定的な見解が優勢のようですね。 穴山梅雪と武田信豊の勝手な戦線離脱については、彼らが参戦したからと言って戦況が覆せたか私には疑問で、穴山梅雪を過剰に悪人扱いすることにやや否定的なのもこの辺りも理由の一つだったりします。
次に人取橋の戦いの項目についてです。 伊達政宗のこの時期の行動は、小手森城攻めでの降兵八〇〇名虐殺も含めても戦国時代では当たり前に行われていたことで、あまり批判するようなことではないような気がします。 まあ倫理的にはそこまで問題はなかったでしょうけど、戦略的に未熟な部分が伊達政宗にあったのは事実でしょうけどね。
次に関ヶ原の戦いの項目についてです。 前も言いましたが上杉討伐は上杉家の堀家への悪質な嫌がらせなど上杉家の行動はかなり問題があり、家康による言いがかりとはあまり言えないんですよね。 また上杉120万石の勢力は伊達・最上などの東北諸大名にとって単独で対抗しがたい脅威であり、それが堀家の越後を手に入れたら完全に太刀打ちできなくなります。 伊達・最上などの東北諸大名がこれに脅威を感じるのは無理からぬことであり、これを言いがかりというのはちょっと上杉家に寛大すぎるように思います。
こういった背景を考えると、本物かどうかは議論がありますが有名な直江状は、家康以上に上杉家の嫌がらせに苦しむ堀家や、こういった上杉家の行動に脅威を受ける伊達・最上などの東北諸大名にとって許しがたいものと言えます。 結局上杉討伐は上杉家の野心か、または上杉家の外交下手により引き起こされた自業自得と言われても仕方ないものであり、これを言いがかりというのは単なる西軍に対する判官びいきでしかないといえます。 そもそも上杉景勝と直江兼続の主従は、御舘の乱のあとの論功行賞で自分の派閥の家臣ばかり贔屓して新発田重家の反乱を招くなど微妙なエピソードが実際には多く、通説のイメージはかなり美化されたものと言えます。
ちなみに最近では家康は三成の挙兵を予想していたわけではなく、起きたとしても鳥居元忠らでも対処可能な程度と軽く考えていて、西軍の挙兵により大坂・伏見などの畿内が掌握されてしまうことは完全に計算外だったという説が有力だそうですね。
ちなみに私が考える関ヶ原の勝敗を分けた要因としては、東軍に比べて西軍に参加した大名の動機に切実さが欠けている点です。 西軍に参加した大名は石田三成のその周辺以外は領地を増やしたいとか、畿内を制圧した西軍有利と判断したとか、利己的な理由が多かったようです。 それに対して東軍はというと、石田三成は細川忠興の改易を決めていて武断派からすると西軍が勝利した場合自分たちに未来はなく、そもそも簡単には西軍に寝返れないわけです。 また東北の諸大名は上杉家の勢力に対抗するためには徳川家の支援を必要としており、彼らもまた簡単には西軍に味方できないわけです。 総じていうなら、徳川がうまく立ち回った以上に西軍の有力者が大局を誤ったという部分が関ヶ原の勝敗を分けた要因のように私は思えますね。
次に鳥羽・伏見の戦いの項目についてです。 前に言った通り、慶喜もずる賢かったり、薄情だったり、最初味方だった薩摩藩も敵対させたりと問題のある人物でもあり、巨大な官僚機構でもある幕府を完全に掌握できてもおらず、慶喜と幕府を完全に滅ぼさなかった未来が史実より良い方向に向かった可能性は低く、まあ薩摩藩の強引なやり方も仕方ない部分もあったのかのかなというのが私の本音ですね。 厳しいことをいってしまえば、薩摩藩の強引なやり方は日本の歴史ををよい方向に導いたことは事実といえますから。
次にミッドウェーの戦いの項目についてです。 太平洋戦争での日本の降伏した時期についてですが、ルーズベルト大統領は実は日本嫌いだったため、ルーズベルトが死ぬ前に降伏した場合は戦後の日本に対するアメリカの態度が史実より悪くなった可能性があるんです。 日本が朝鮮半島やドイツみたいに日本が分割させられたり、農業国化(各種重工業の禁止)も可能性としてありえました。
また、戦後の日本への条件が比較的寛大になった理由としては、硫黄島や沖縄での戦いで予想外の被害をアメリカも受けたため、さすがに本土上陸作戦に消極的になったというのもあります。 また特攻攻撃によるアメリカ海軍の損害も大きかったことも、アメリカ軍に厭戦気分をもたらした大きな要因でもあり、そういった意味では神風攻撃は日本の戦後復興に貢献したといえます。 よって日本の降伏時期はもしかしたらおおむね史実の時期が案外一番最適だったかもしれないわけです。 このあたりが、歴史のもしもを考える上での難しさでしょうね。
「大敗」を検証のコーナーのコンプリートおめでとうございます。 大敗に何を学ぶのもよいですが、歴史において問題としては誤ったもしもがよく言われることです。 例えば保元の乱の上皇方が源為義の夜襲策を却下しなければといわれますが、夜襲策を採用した場合は崇徳上皇の護衛なども残さねばならず、そもそも兵力で大きく劣勢な上皇方がさらに兵力を二手に分けることになります。 後白河天皇方には源義朝、平清盛、源頼政などの名高い武将も参加していて夜襲が成功したかどうかは不明であり、藤原頼長の大和からの援軍を待つという作戦は結果的に失敗したとはいえあの状況としては無理からぬ決断とも言えます。 こういうふうにきちんと分析しない誤った歴史の教訓が結果として太平洋戦争の敗戦の一因程度にはなった部分もあるのではとすら私は思います。
次に新コーナーの真に受けるなよ、「讒言者」を………のコーナーの吉備笠垂の項目についてです。 前も言いましたが、最近では乙巳の変の首謀者は中大兄皇子ではなく軽皇子(孝徳天皇)だという説が有力になっています。 この場合、この古人大兄王粛清の首謀者は中大兄皇子ではなく孝徳天皇の可能性が高くなります。
またそもそも孝徳天皇も子供の有間皇子を次の天皇にしたかったはず。 そう考えると古人大兄王は、乙巳の変の首謀者が中大兄皇子であった場合を想定しても孝徳天皇にとっても目障りな人物ではあり、孝徳天皇にとってもこの事件は都合の良い事件です。 孝徳天皇も喜んで讒言を受け入れて処断した可能性も高いといえます。 不遇な人生を送った人を善良な人だと考えがちですが忠臣蔵の浅野内匠頭と同じく実際は必ずしもそうとは限らないというわけです。
次に蘇我赤兄の項目についてです。 私はこの事件、そもそも冤罪かを疑っています。 紀温湯に湯治として隠棲していた有間皇子が奈良に戻り斉明天皇に湯治旅行を勧めたことが、そもそも中大兄皇子や斉明天皇が都を留守にする間に謀反を起こすことを狙っていたのではないか、蘇我赤兄に煽られる前から謀反を計画していたのではないかと疑っているからです。 政争を厭うていた有間皇子が何故に奈良に戻ったのか?という疑問も、有間皇子がそもそも謀反を計画していたと考えると説明がつきますから。
したがって私はこの事件はあまり悪質度は高いとは思わないのが本音ですね。 少なくとも吉備笠垂よりは悪質度が低いと考えています。 なにしろ、完全な無実の可能性の高い古人大兄王事件と違って有間皇子の事件は完全な冤罪ではないからです。
あとついでに蘇我倉山田石川麻呂の事件についてですが、石川麻呂は最近では中大兄皇子よりも孝徳天皇に近い立場にあったと考えられ、中大兄皇子と孝徳天皇が対立するようになっていたと考えると中大兄皇子にとっては政敵となっていたと考えられます。 また改革により新しい冠位制が施行されたにもかかわらず、石川麻呂は阿倍内麻呂とともに大化前代以来の紫冠を着し続けたとあり、改革の抵抗勢力的な立場であったと考えられ、もはや仲間とは程遠い状況であったようです。 また蘇我倉山田石川麻呂も、少なくとも通説のイメージほど善良ではない可能性も高いと言えます。
また、乙巳の変や古人大兄皇子事件や蘇我倉山田石川麻呂事件に蘇我氏一族が大きくかかわっているのは、蘇我氏の内部抗争が激化していたのが要因と考えられているようです。 蘇我氏滅亡の最大の原因は蘇我氏の内部抗争であると言えるかもしれませんね。
次に川島皇子の項目についてです。 私は川島皇子の悪質度は判別不能だと考えます。 実は日本書紀のこの事件の記事に川島皇子の名がなく、褒賞を与えられた形跡もないため、密告は史実ではないとする説があるそうなんです。 温厚でゆったりした人柄で、度量も広いという川島皇子の伝えられる人物像から考えてもこの説の説得力はそれなりにあるような気がするため、この説の結論が出るまでは悪質度の判定は私としては困難だと考えるわけです。
あと草壁皇子が皇位継承者の座を勝ち得た理由は、どうも母親のごり押しではないようです。 確かに大津皇子の母・大田皇女は鵜野讃良の実姉ですが、天武天皇即位の際にはすでに亡くなっており、皇后には鵜野讃良がなっています。 この時代皇后の産んだ草壁皇子が尊重されるのは筋目として正しく、また草壁皇子は大津皇子より一年年長です。 大津皇子は母親の後見もなく、母親の後見が期待できる草壁皇子の方が天武天皇崩御後の政治が安定するという天武天皇自身の判断も大きかったと考えられます。
またこの7世紀頃の天皇の即位時の年齢は最年少でも敏達天皇の35歳であり、適齢は40歳だとされていたようです この記事にもあるように、天武天皇崩御時の草壁皇子は二七歳で、一年年少の大津皇子も共に即位基準の年齢に達していません。 母の皇后が中継ぎとして天皇に即位して即位基準の年齢に達したあと皇子が即位するというのが順当でしょうが、やはり母のいない大津皇子は難しいでしょう。 大津皇子は冤罪で粛清されましたが、草壁皇子が後継者に選ばれたのはどうも7世紀頃の天皇即位の基準では正しいと言わざるおえません。
ちなみにこの年齢基準をもとにこの時期の皇族の年齢を見なおしてみると、有間皇子は享年でも一九歳。 中大兄皇子は乙巳の変直後には二十歳で、孝徳天皇崩御時は三十歳であり、そもそも年齢基準に達していないことがわかりますね。
次に藤原四兄弟の項目についてです。 前も言いましたが、「最も得した者を疑え」で考えると、「長屋王が亡くなれば藤原四兄弟が喜ぶ」だけではなく「長屋王が亡くなれば聖武天皇が喜ぶ」というのも成り立ちます。
聖武天皇は母が非皇族で新興勢力の藤原氏出身であったが政治的な弱点であり、聖武天皇が母・宮子に「大夫人」の称号を贈ろうとしたのもそれを解消するための聖武天皇自身の方策でもあったわけです。 そしてこれらの方策にことごとく反対して失敗させたのが、血筋の面では聖武天皇よりも優位な立場にある四人の皇子を持つ長屋王だったわけです。 血筋において長屋王一家に劣等感を持つ聖武天皇の視点からすれば、聖武天皇自身と子孫の皇位継承を守るためには、長屋王と吉備内親王、そしてその所生の皇子たちを消す必要があったわけです。 そのため現在では長屋王の変を単純に「藤原氏の陰謀」として解釈することは否定的な意見が有力のようですね。 むしろ長屋王の変は「聖武天皇の意思」が大きく関与した事件といえます。 また皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、藤原四兄弟以外にも多くの賛同者がおり長屋王に反発する者もそもそも多かったことがうかがえ、長屋王を嫌うものが意外に多かったこともこの事件の要因の一つといえます。
次に藤原良房の項目についてです。 実は現在承和の変の首謀者は藤原良房ではないというのが研究者では優勢のようです。 というのも、後に位人臣を極める藤原良房も当時は太政官の序列で6番目の一中納言でしかなく、このような陰謀を自ら主導できるとは考えずらいからです。
首謀者として有力視されるのは、我が子仁明天皇、そして孫の道康親王(文徳天皇)の地位を確実なものにしたい皇太后橘嘉智子、もしくは自分の子供に皇位継承したい仁明天皇自身が有力視されており、藤原氏の陰謀というより皇族同士の権力争いという方が正しい事件といえます。
またそもそも橘逸勢・伴健岑による計画が実際にあったのかどうかも現在の研究者でも意見が分かれるようで、彼らが冤罪かそうでないかは断定するには早すぎるといえます。 私としてはそういう決めつけこそ冤罪の元ではないかとも思いますから、いくら私のような庶民がこういう決めつけや思い込みをして人に迷惑をかけるわけではないとはいえ、不確かな情報による断定はなるべく避けるようにしています。
次に伴善男の項目についてです。 応天門の変の犯人については、善男の長男中庸が独断で放火したという説もあるようですね。 伴善男が大臣に出世すれば中庸自身の出世も有利になりますから。 また私も事件の真相は失火、若しくは政治とは全く関係な愉快犯による放火ではないかとも考えていますが、藤原良相、藤原良相、源信、伴善男のなかで一番怪しい人物を一人選ぶとしたらやはり伴善男ではないかとも思います。 すでに大臣にまで出世している良相、良相、源信に比べれば、大納言でも少しで大臣に出世できる伴一族が最も応天門に放火といった思い切った行動をする理由が少なくともこの中では一番あると思うからです。 伴善男は結局のところ冤罪なのか、冤罪でないのかもよくわからない人物評価の難しい人物とは言えます。
次に藤原時平の項目についてです。 実はこの当時、阿衡の紛議の経験から、藤原の血を引く皇子の誕生を嫌がる宇多上皇と藤原氏と連携し政権の安定を図る醍醐天皇の路線対立が発生していたようです。 また宇多上皇が醍醐天皇に譲位した後も、道真を始め源善・源希・平季長・藤原忠平といった側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようとしたことは、時平や大納言源光ら上級貴族だけでなく、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含め激しい反発があったようなんです。 つまりこの事件は、宇多上皇や道真の政治手法に不満を持つ醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根らが政治の主導権を奪還しようとした事件のようです。 また道真と並んでこの時代の知の双璧と呼ばれ、ただし栄達はしていなかった学者の大蔵善行の一門と菅原一門の対立という側面もあったようです。
つまり菅原道真はそもそも敵も多い人物でもあり、また前にも言った通り冤罪かどうかも未だ議論があり、陰謀が実在していた可能性もあることは考慮すべきでしょう。 菅原道真も政治家であり、官僚でもあり、ずるい一面などブラックな側面もあって当然であり、神にされたことでかなり美化されている疑いがあるということも考慮すべきでしょうね。
そもそもこの事件は宇多上皇と醍醐天皇との対立が背景にあり、むしろ首謀者は醍醐天皇自身である可能性が高いといえます。 菅原道真は敵の多い人物のため、藤原時平がこの事件においてどの程度主導的であったかは不明な点が多いことは留意すべきでしょう。 そうしてみると子孫が没落した藤原時平はこの事件の責任をすべて押し付けるのに都合のいい立ち位置にいたとは言えます。
またそもそも藤原氏の他氏排斥事件と言われる陰謀の多くに皇族同士の対立などの要因が大きくかかわっていることが明らかになっています。 はっきり言ってしまえば、皇室を正当化するために、実際には上皇や天皇が首謀した粛清事件の責任を藤原氏に過大に押し付けるような歴史の改変が多くあったということです。 そういった意味では藤原氏の陰謀という考えも見直すべき時期にあるといえます。
次に源満仲の項目についてです。 安和の変はわからないことが多すぎますよね。 そもそも告発内容自体が現在に伝わるものは後代に成立し「源平盛衰記」にあるもので史料価値は低いとされているようで、実際には密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかも不明のようです。
またそもそも守平親王が皇太弟となった一件に関しては、村上天皇の遺命であって藤原氏は関与していないとする説が近年有力となっているようです。 このため、安和の変の背景に皇位継承問題が無関係でないとしても、それは為平親王が源高明の娘婿として関係を疑われた事実以上のものはなく、皇位継承問題と安和の変の関係は一旦切り離すべきで、「藤原氏の陰謀説」も含めて再考が必要であるとされているようですね。 どうもこの事件をわからないことが多すぎて悪質度の判別は不可能と言わざる負えないようです。
次に梶原景時の項目についてです。 彼のイメージの良くないエピソードについては、例えば逆櫓の話はそもそも後世の創作である可能性が指摘されているなど、そもそも史実か怪しい話が多いんですよね。
頼朝からの鎌倉帰還禁止命令もかなり怪しいです。 なにしろ義経は腰越の後、鎌倉に幽閉されていた平重衡を京都に連行していますが、鎌倉帰還禁止されていたらあり得ない話ではという理由からです。 また頼朝は義経以外の粛清を全て鎌倉で行っており、義経だけ京都に刺客を送り込むという迂遠な方法で行っているのは不自然であり、むしろこの時点で義経を粛清する意図はなかったと見るべきでしょう。 また京都での刺客の襲撃も最近では頼朝とは関係ないトラブルによるものという説もあり、また義経は京都に戻ってすぐに反頼朝勢力と連絡を取り合っているためやはり謀反の意図があったというのが有力のようです。
また一ノ谷の戦い直後に義経が検非違使の任官を受けた一件については、最近では頼朝も了解の上であり別に怒られていないと考えられています。 義経が軍務から外された理由は単純で、そもそも弟が二人いればこの場合平家討伐を片方に任せて、もう片方に京都の留守を預けるのは処罰とは関係なく当然のことではというだけの話のようです。
こういったことから頼朝の義経に対する猜疑心も、景時の義経への讒言も相当誇張されているというのが現在有力のようです。 むしろ私は景時は御家人の監視役という役目を真面目に行ったがゆえに御家人たちの反感を買ってしまった、わかりやすく言えば石田三成のような人物であったのではないかと思います。 だからこそ景時の死の際には、決して少なくない人物が景時の味方をしていたのではとも思いますね。 そういった意味では悪質度はもう少し低くてもよいのではとも思いますね。
次に加納御前の項目についてです。 この事件は大御所派と秀忠派の対立が背景にあるのではとも言われていますね。 まあそもそも加納御前が正純を恨むのも当然ですし、家康がいなくなって後ろ盾がいなくなった状況にうまく適応できなかった正純の失策も大きかったでしょう。 そう考えるとむしろ悪質度は少なくてもよいとすら思いますね。
讒言事件について私が最近思うことですが、そもそも主君が讒言者の讒言を真に受けてみたいな単純な話自体が日本においては非現実的ではないかということです。 これは皇帝による専制体制の確立した中国なら確かにありえることでしょうが、そもそも中国とは違い権力者といえども絶対的な権力を必ずしも保有していない日本では被害者にも何らかの弱点がないと権力者や讒言者もしっぺ返しを受けてしまうように思うのです。 これの実例としては鎌倉私設軍事裁判にもある嘉元の乱の得宗・北条貞時がまさにそのように思いますし、逆に平頼綱一族の誅殺が成功したのは彼らが嫌われていたからではないでしょうか?
そもそも有能ですが不遇な人物は、協調性がないなど人格面などに問題のある人物であることが多いとも言います。 全てがそうとは言いませんが、源義経はまさにそんな感じのところがありますし、保元の乱の崇徳上皇に味方した人物たちも有能でも協調性のない人物が多かったり、あてはまる例も多々あるように思います。 歴史学者などはこのような被害者がなぜ失脚したかの被害者の要因を分析することをむしろ重視するようですね。
あと胡亥と悪宦官・趙高についてですが、趙高の悪事についてはかなり誇張がある可能性も指摘されています。 なにしろ史記は漢王朝側の視点で記された書物ですし、主君である胡亥を弑逆した趙高の立ち位置は秦王朝滅亡の原因を押し付けるには都合のいい立ち位置ですから。
例えば遺言状の改竄の首謀者を趙高と通説ではしていますが、そもそもこれをだれが見ていたのかという疑問は昔からあります。 例えば丞相・李斯は扶蘇と仲が悪かったとありますし、史実では同門の韓非を陥れて死に追い込んだなどずる賢い一面がありますから、遺言状の改竄はむしろ李斯自身が主導して趙高はこの時点では単なる協力者に過ぎず、李斯はその後趙高と仲間割れして政争に敗北したという構図はありえないことではないでしょう。
またそもそも始皇帝が長男・扶蘇を後継者とする遺言状を残したという話自体を疑う意見もあります。 君主が長男より末子を可愛がり後継者を変更しようとしたという話は世界中で珍しい話ではないですし、そもそも扶蘇は焚書坑儒に反対して始皇帝に嫌われたという記述もありますし、同時代の資料の中には始皇帝が重臣たちの進言により胡亥を後継者に決めたという記録もあります。
またそもそも扶蘇が正統な後継者ということ自体を疑う意見もあります。 扶蘇は太子として立てられたことがないのは確実であり、秦王朝は北方の異民族の影響により儒教的価値観が定着した後世の王朝とは違った習慣や制度もあったと言われており、長男の扶蘇が正統な後継者という考え自体が儒教的価値観が定着した後世の見方であり、同時代の秦王朝の制度に当てはまるか不明なわけです。 つまり現在の研究で判明している範囲内では、秦王朝の制度では胡亥こそが正統な後継者であったという可能性を完全には排除できないというわけです。 こう考えると趙高の悪事とされるもの全てが本当に本人が行ったものか疑う余地があるわけです。
あと胡亥の年齢についてはいくつか説があるようですが、一番年少の説では即位時12歳で自害の時は15歳ともいわれるので、趙高の進言に唯々諾々と従ってしまったことを非難するのは年齢を考えると少々酷な評価のようにも思います。
次に戦国の鬼達のコーナーの柴田勝家の項目についてです。 秀吉が成り上がり者であるため織田家中で浮いている印象があると言っていましたが、わたしはむしろ勝家の方が織田家中で浮いている印象があります。
まず勝家は清州会議の参加者の中で唯一この時点で織田家の親族ではありません。 ほかはみな信長の娘と婚姻関係を結んだり、信長の息子を養子にしていたりしています。
また丹羽長秀や池田恒興などの特に信長の信頼の厚い重臣ともそこまで親しい印象はありません。 それに対し秀吉は、丹羽長秀や池田恒興などの他、信長の側近ともよい関係を築き、後継者であった信忠ともよい関係を築き、織田家の主流派の一員であった印象が強く、織田家中で浮いている印象は実のところありません。 結局のところ勝家は信行に味方して信長に敗れたという弱みから生涯織田家中で浮いていたのではないでしょうか。
ちなみに勝家の秀吉へのパワハラの話はかなり事実か怪しいようですね。 一度は信長と敵対した勝家の立場かすれば、新参者ながら美濃攻めのころにはすでに信長の重臣として活躍していた秀吉にむやみにパワハラできるほどの盤石な立場かどうか怪しく、またその後は任地がかなり離れていてそもそも顔を合わせる機会がそこまであったかも怪しいといえますから。
次に未発見の「遺体」は何処に?のコーナーの豊臣秀頼の項目についての続きです。 いまだに方広寺の大鐘に「国家安康」・「君臣豊楽」が消されずに残っている理由は実は単純で、「鐘の文は大きな問題の要点ではなかった」というのが大きいようです。 前も言いましたが、鐘銘問題は豊臣が起こした諸問題の内の一つでしかなく、同時代幕府から鐘銘問題が重視されていたわけではないためのようです。
むしろ天台僧と真言僧との宗派の席順争いの方が大事で、寺社の力が大きい時代背景を考えればうかつな判断をしてしまうと大事になりかねないからです。 またこれはいくら豊臣家の処遇が重要な問題とは言え、大事に発展しかねない宗派の席順争いをわざわざ引き起こすのかという問題に、またそもそも宗派の席順争いはたびたび起きて朝廷や幕府を困らせた問題であることを考えると、研究者が方広寺事件が幕府が意図的に引き起こしたいいがかりによって引き起こされたという通説に現在では否定的な理由なわけです。
またもう一つの重大な問題は浪人問題です。 というのも、そもそも豊臣家が、兵糧や浪人を集めだすなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めたのは方広寺事件が発生する一年以上前からで、つまり方広寺鐘銘事件はそもそも事件以前から豊臣家が不穏な動きをするさなかに発生した事件というわけです。 こういったことから、方広寺鐘銘事件が徳川幕府の言いがかりだという見方は研究者の間ではもはや完全に過去のものとなったと言えるわけですね。 また最近の大河ドラマで大坂の陣で豊臣方にも非があるように描かれるのもこのような最新研究が反映されているからなわけですね。
そもそも私の人物評は研究者の意見をもとにしており、私自身だけの評価ではありません。 足利義輝や足利義昭への批判的な評価も基本的に私だけの評価ではなく現実の歴史をよく知る研究者たちの評価でもあるわけです。
さて今回はこれまで。 更新を楽しみにしています。 それではまた。
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No.269 2024/03/18(Mon) 23:40:21
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